平素よりB-REVIEWへの投稿・コメント活動にご参加いただきありがとうございます。12月の月間B-REVIEW大賞が決定いたしましたので発表いたします。

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目次

・月間B-REVIEW大賞
・投票作品
・概観 by yasu.na
・雑感 by 貴音

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・月間B-REVIEW大賞

茉『平等』9票

・投票作品

最終投票数が3票以上の作品を発表します。

明日、泣こうと思う (齧りかけの林檎 5)     8票
びーれびしろねこ社賞の作品群を読んで     6票
詩の日めくり 二〇一七年三月一日─二十九日 5票
泉  5票
小さな戸建てのファンタジー 3票
朝のプラットフォームにて 3票
side order(田中修子へ捧ぐ)     3票
獣のソネット 3票
もう森へは帰れない 3票

※cold fish氏の作品も4票獲得しておりますが、この度タイトルがガイドライン上不適切と判断されたので、掲載を見送っております。ご了承くださいませ。

・概観 by yasu.na

【イントロダクション】

 ここに一問だけの記述式試験がある。それにはこう書かれてある。「2021年12月中にビーレビに投稿された作品群から妥当と考えられる数だけ作品を選んで話を書きなさい。ただし、得票数の多かった作品を二、三必ず扱うこと。」と。下に掲げるのは私yasu naが試みた一つの解答案である。

【解答案】

 前回私が「解答案」の中で取り上げた作品群は、内容として、だいたい「地上的」な傾向を持った作品たちでした。今回はどんな傾向を持った作品をセレクトして「話」を書こうかと考えてみると、どうしても私の心を或る方向へ引く力があるのです。その方向とは、「地上的」であるということをもっと深く追究してゆくという方向であるのです。より正確に言うと、私は「地上的」であるということにさらに深く沈潜して、「実際的」で「人生の実践」を扱った作品を読みたいと思うのです。この欲求は逆らいがたい自然なものであるように私に感じられるので、素直に従いたいと思います。では始めましょう。

 最初にハービーさんの『逃げたい』を取り上げます。少し読み進めれば、「結局の所、私はいじめを見てしまったのである。」とあり、この作品の具体的なテーマがどうやら「いじめ」らしいと思うことになるのですが、その前に、冒頭の部分が暗示的で技巧的です。引用しましょう。

>小さな目が開く。命の最後の灯、振り絞ることもなく、ふっと現れる。

>排水溝の泥が逆流する。沈もうと試みる水と這い上がろうとする土とが混ざり混濁したそれは、道端に痰を吐く嫌悪感があった。片目だけを細めて嫌な表情をする。見ているだけで不愉快を全身に行き渡らせるには十分であった。

>結局の所、私はいじめを見てしまったのである。

 先頭の「目」は、この作品に頻出するキーワードであり、いじめの被害者の「目」です。そして、作品の終わりの方で、「それでも、あの目から逃げるためにはそのようにするしかなかった。」と書かれているように、作品のタイトルに直接つながる重要語です。第一行目は、いじめの被害者の弱々しい「目」、それでもやっと生きていることをあらわす「目」、それからその「目」を忘れられない「私」の現況を表現しています。

 次の行には不思議にも二つの事物の表現が出現して、並置されています。その二つとはすなわち、「沈もうと試みる水」と「這い上がろうとする土」です。この二つの事物の間に、本性的な違いがあるでしょうか? いえ、ないはずです。両者とも、自然な努力をしているものの表現です。ただ、位置的に、この世界には上と下があるということを見せつけてくるようです。「私」はこの二つの事物が混ざり混濁して逆流する排水溝の泥を見て嫌悪感を抱きます。この排水溝の泥のありさまは、この世界の事情の譬喩です。

 さて、この作品の残りの文は、今見た冒頭の箇所を展開したものにほかなりません。読みやすい文ではありますが、読者の心を悩ませるでしょう。大いに悩んでください。

 次にはyatukaさんの『世界平和』という作品を読みましょう。「たった一つの地球は」という語句で始まるこの作品は、「神様」が「地球」なしでは存立することができないものであることを浮き彫りにします。この作品の世界に閉じこもって考えると、本当にその通りだし、実際、「地球」が、いや「人間」がなければ「神様」はどこにあり得るでしょうか。宇宙の遥か遠いところの出来事に、私たち「人間」が信じる「神様」は関与しているでしょうか。「人間」の前提が「神様」であるのではなく、その逆なのです。それほど深刻そうな書き方をしていない作品ですが、こういう重い問題を含んでいる作品だと思いました。

 続いて村人崚さんの『ルッキズムの蔓延した世界で』を読みます。「ルッキズム」という語を知らなかったので、検索してウィキペディアの記事を得ました(「ルッキズム」、これがリンクです)。こんなに充実した記事が生成されるほどの語であったことに驚きました。いろいろと考えさせられる、読んでおく価値のある記事です。詩作品そのものとしては、これは特段にすぐれているわけでもないと思いました。嘆きと諦めが書かれているようです。こんなふうに言っても批判ではないです。この詩作品の意義は、「ルッキズム」というものに読者の注意を引き、「ルッキズム」について読者をして考えさせることにあると思うのです。みなさん、是非この詩作品とウィキペディアの記事を読んで、「ルッキズム」に留意した考え方、生き方もしてみようではありませんか。

 次、4番目に取り上げるのは妻咲邦香さんの『スヌヌくん』。二行目からの「スヌヌくんは我々の仲間であることには変わりがないんですけども/ただどれくらいの仲間であるかというとちょっと難しいんですよ」という記述に惹かれました。「どれくらいの仲間であるか」、そう、「どれくらい」という捉え難い「程度の世界」が我々人間の前には広がっている、こういう真実をこの作品の作者は逃していないことに好感を持ちました。続く「髪は黄色だし/下半身は斑だし」という記述からは、差別にはならないにしても、我々はどうしてもものの外見を描写するように追い詰められており、人間が「ルッキズム」的な傾向から抜け出すことの困難を感じました。第二連の中の「表情を殺すって意味わかりますか?/目に光を灯さないってことなんですよ」という記述からは、ハービーさんの『逃げたい』の中で表現された、いじめの被害者の「目」、すなわち「命の最後の灯」という描写を思い出させるようでありました。作品の内容は、「スヌヌくん」というものを彫塑して造形してゆく過程を披露するというものであるようです。おもしろいなと純粋に思いました。

 次には右肩ヒサシさんの『サイエンスフィクション』という作品を読みましょう。「僕」の足は浮つくことなく「地球」の「地上」に、「この世」に、付いています。しかしながら、「僕」の生き方は上手いものではないようです。「この世」にピントが合っておらず、「失敗ばかり」です。そしてそんな「僕」は「死んだ人」に対峙するわけですが、「僕は僕にすら確たる関心がない」のです、つまり心はすでに「死んだ人」の世界に吸い込まれています。

>詩的に生きることは僕にとって、このように無意味乾燥した苦しさなんだって。

>生きている人にはその外側しか言葉にできない内容を話していた。

 このあたりは深遠で味わい深く魅力的ですね。

 次、6番目には湯煙さんの『マスキングテープ』を取り上げます。作品タイトルから何か「現場的」な感じを受けます。そして作中にも実務的な用語が多く出てきます。「コピーライト」、「社会を企て」、「会社に貢献する」、「開発」、「理念」、「成長を促し/持続を可能とする」などです。新聞でも読んでいるような気がしてきますが、それは作品の前半までのことで、後半は趣を変えています。かなり観念的で、この詩作品全体をスッと解せる人はいないと思われます。でも、ここは詩の読み方の「自由」の出番です。意味を解することを目指すだけが詩の読み方ではありません。書かれた表現を楽しむだけでも、まずは、いいでしょう。すでに私はこの作品の前半の実務的な用語を味わいました。後半はどうかと言うと、次のような箇所がおもしろい良い表現ですね。「青い重奏の口実は空のなかの/空のなかに/空に/(幸福を追求する日々の営み 痛み/(おちていく ひとりの 夢と眠り」とか「あなたたちが真実を賭けて殺し/王様へ献上するための」といった箇所です。実際には文字の配置に工夫がありますが、その工夫は省いて引用させていただきました。今引用させていただいた詩文からは、ただ表現を楽しむだけでは済まされない、奥行きと意味が感じられます。巨大な抒情性のうちに、語りかけてくるものが含まれているのを、読者は逃さないでしょう。

 次には、てんま鱗子(揶白)さんの『lady』を読んでみましょう。この作者の作品はいつも思っていたのですが、他に見られない独特な日本語で書かれています。こう思っているのは私だけではないと確信できます。さて、タイトルが「lady」となっており、英語です。この語は微妙な感じを持つ語だと思われたので、念のため「ジーニアス英和辞典第5版」に当たってみました。「lady」の項目の①番目と②番目に掲げられている意味をここに引用しますと、①(品位とマナーを備えた)淑女(cf. gentleman); 貴婦人(cf. lord)、②(ていねいに)女性,婦人(woman, girlの上品語 ; 現在ではやや古い感じを与える)、と載っています。いちおう押さえておいて、作品本文に移りましょう。本文は五つの部分に分かれている、五部構成です。そして最後の第五部はたった一文です。なのでこれを除いた四部分を見ることにしましょう。ざっと読んで、この作品は要約を許さない、すべての文字が重要だと思わせるものなのですが、すべてを取り上げるなら私が「話」を書くまでもなく「がんばって読んでください」と述べるだけで済んでしまいます。やはりここはアプローチを決めてかからなければならないでしょう。ここで私はアプローチを四つの各部分の中でも最重要だと思われる箇所を取り出して紹介するというものにしたいと思います。第一部から順に四箇所引用します。

>人の云う現実は足りて居ないものです。リアルと云うのは、再び言い直せばもっと夢が有り人間らしく可笑しいものだ、と思うのです。

>女は綿毛の様に一切して選ばず、選べず、男の唇のままに進むではないか。花言葉や歴史的名言、疑い、何を信じて居ようが、女に取って男だけが御宗教とうつくしい事で有る。

>誰も知らぬ、私だけの人生を立てる事。楽しめるようになれれば恐れはなく、自分だけの加工されない魅力は、これは苦しみが生むのだから、先ず花を花と見なすこと、悩む自分に才があること、常に何かを感じて居る事、繊細に為る事、が、人の至極万能で有ります。

>美は後天的なもので花の美しさだとか、気高さはここでこそ養われ、人間として有る唯一の性を自分が育てる気で居ないといけません。

 以上ですが、いずれも、絶対正しいかどうかは別にして、「人生の実践」について高度に考えをめぐらせることのできている言葉たちだと思いました。

 次は、北川 聖さんの『今日もあなたを育てている』を読んでみましょう。世の中、幸せな家族や親子ばかりではないと思いますが、だいたいにおいて、家族とか親子という関係はありがたいものです。作中に書かれている親子のように、親子旅行をしたことが一度だけに終わってしまう親子も多いのではないかと思います。そんなことを親子ともに年を取ってから振り返ると、そこにある哀切さには涙が出そうです。

 続いて九番目に、茉さんの『平等』を取り上げます。加藤万結子さんによる推薦文『平等のための不平等』がついています。そして、12月次、月間B-REVIEW杯大賞です、おめでとうございます。

 この作品を語らせていただきます。「名もない人が助けてといった/その声は雑踏の中へ消えていった」。私は自分をこの「名もない人」だと感じましたし、だいたいの読者の方々も同じではないでしょうか。無力でありながら、頑張って生きている、ただ、この生活の中に大きな助けはない、でも小さな助けはあるでしょう。作品は、これに対比させて「名のある人が助けてといった/その声は色々な人に拾われ、その人は助けられた」と書いています。「名のある人」ということで、私は、これらの人々のすべてがそうであるとは信じないけれども、東大卒、元官僚、医師、経営者の子、などを思い浮かべました。これらの人々は、たとえばちょっとの過ちや軽犯罪を犯しても人生を立て直すのは比較的容易でしょう。強いです。私は医師が「(権力が欲しいなら)なぜ君らは医師にならなかったのかい?」と実際に発言したのを聞いたことがあります。なんという傲慢か。私たち個々の人間の間にはさまざまな差異が生まれながらにしてあります。けれど私たちはそれぞれ自由に生きる権利は同等に持っています(そして、そのことから発生する利益と釣り合うように義務というものをも持っています)。それを踏みにじる発言です。しかし、平等を踏みにじろうとする心の働きは誰の中にも潜伏しているのではないでしょうか。作品の終わりあたりに言われている「大人」とは、このことに気づいた人のことだと思います。私たちが失う「大切な何か」とは何でしょう? 現代社会では人々の間に自分たちが互いに平等であるという合意があるはずです。このことは「大人」になる前に知っているはずのことです。しかし現実に生きてゆくうちに、この合意はどこか空疎なものに思えてくるのです。私たちが失う「大切な何か」とは、この合意への信頼です。先ほど医師の傲慢な発言を紹介しましたが、私たちはあのような発言、あのような態度、そしてあのような考え方から起こる行為を経験しながら成長します。他者のうちに、そして自己のうちにも、あのようにあらわれる心理を見出すことでしょう。それでも、平等や自由という面から考えて、社会は少しずつでも進歩し続けていると私は信じています。この日本の現況と、過去の日本や他の国における平等や自由にかかわる情報を照らし合わせると、やはり、そう思います。ただし、総体を見るだけならそうかもしれませんが、実際に人間が喜びや苦しみを感じるのは、個別的な場合においてであり、総体なんかよりこっちの方が唯一と言えるほどにはるかに重要なのです。以上をこの作品についての私の語りとして、これを、次に挙げる作品に受け継がせましょう。

 次に取り上げるのは、川吹利夫文芸村/ぶっきーさんの『長い沈黙のあとで』です。一度目を通した感じ、この作品は戸籍の問題と関係があるのかなと思いました。それで私の本棚から『家族と法』という岩波新書を取り出しました。昔、小説を書こうと思って、その参考文献にするために買ったものです。途中までしか読まなかったし、その小説も未完で投げ出しました。さて、この岩波新書、開巻劈頭、「第1章 人の出生と子どもの平等」 という章から始まります。そして3ページ目には早くも「戸籍のない子」についての記述があります。作品『長い沈黙のあとで』に登場する「娘」はこの戸籍のない子であり、「私」は、「娘」の出生届を出せなかった母親であると想定できそうです。この岩波新書は2007年10月19日第1刷発行となっており、このあと、どう法律が変わったかは私には分かりませんが、戸籍のない子の遇され方には、戸籍のある子の場合と異なる点があるようです。この詩作品の価値は、全くというわけではないけれども、詩文という面からではなく、書かれた情報という面から評価できると思います。ここに描かれた一つの家族の形、それの社会における立場、深い苦悩と癒やされようもない悲しみと決して消滅しない愛情が絡まって、私たち読者をリアルな実人生の中に誘います。この世には、いろいろな事情を持った家庭があります。でも、ではどんな事情を持った家庭があるのかを具体的に挙げよと言われた場合、私たちは返答に困るのではないでしょうか。私たちにはそういういろいろな事情というものは多く隠されているのです。ものを書く、このことの意義を今一度、考えさせられます。隠されている事を読者に知らせる、情報提供者としての性格も、書き手にはあってよいでしょう。

 次は、加藤万結子さんの『あめふるよるに』を読もうと思います。思うに、或る土地に生きるということ、過去に或る土地に生きていたということ、現在或る土地に生きているということ、これらのことは、その或る土地に根深く粘着しているということです。一般的にも「土着」という言葉がありますね。この作品から私はまず人間とその人間が生きる土地との間にある粘着性を感じました。さて、作中の「わたし」は、「行政の手が届かない」「インフラなんかないに等しい」「剥き出しの自然の中で育った」のですが、この事情が2011.3.11の東日本大震災が起きて対比的に変わります。つまり、「行政」は動き、福島第一原子力発電所という「インフラ」の事故によって「愛し/守ってきた里山や畑」は汚染され、それが「もたらす恵み」には「採取禁止」の命令が出たのです。いつまでも納得しがたいことだと思います。「核の平和利用という言葉は/全くの嘘っぱちで/金にまみれていた原発も/あっさり棄てられたのだ」という箇所は、「父の代からは兼業農家にしたのは/自然相手だけでは食えないから/現金収入を得るための/大切な手段だった」という箇所と妙に照応的です。人類史における奇妙な言葉の代表選手とも言える「核の平和利用」ということも所詮はやはり、金銭に裏付けられたものであったこと、事故を起こせば他に類を見ない巨大で有害なゴミとしか言えない廃物となった原発、けれど人間とて、「自然相手だけでは食えない」のだし、「現金収入」が大切であることは理解できます。ただ、この作品に描かれているのは、単に「自然相手だけでは食えないから」住居を移しただけのことではなく、人工的なものから加害されて「ふるさと」を喪失した人の心です。「あめふるよるに」という、ひらがな表記の作品タイトルのやわらかさ、やさしさ、自然さとも相俟って、その喪失感が増幅され、また普遍化されているように感じました。何かを喪失するという経験は誰にでもあると思います。冷たい冬の日に、ストーブに当たると体が温まるように、私はこの作品に当たって体が温まるように感じました。

 最後に、福まるさんの『生活保護』という作品を取り上げましょう。飾ることなく、現実を書くことができていると思います。私はケースワーカーではないから(そして生活保護受給者でもないから)、誤りなく専門的に生活保護について話すことはできないし、この作品をどれだけ正しく理解できるかも分かりません。精神疾患についても、私は医師ではないから何も話すべきではないのかもしれません。ここではただ、今まで生きてきたうちに、私が肌で感じ取った、この目で見てきた、この耳で聞いてきたことを書いておきたいと思います。生活保護を申請するには役所に行かなければなりません。役所では、持ち物を、所有物を、すべてチェックされます。知られたくないことも、何もかも見せ知らせなくてはなりません。言わば、裸にされるわけです。何にも持っていないということと、親や兄弟からまったく支援を受けられないということを認められると、申請は通ります。ただその後、就職する努力をするように執拗に言われ続けます。しかしこれは働ける健康さを持っている人の場合であり、精神疾患を持っている人の場合は違うようです。精神疾患を持っている人は、はっきり言って、雇用される可能性は低いです。なので、就職するように言われ続けることはないようです。精神疾患というものは、統合失調症などですが、まだよく分かっていないもののようです。患者も大変だし医師も大変です。ところで、生活保護を受けることは恥ずかしいことではありません。負い目でもありません。「命を絶ってしまう/最悪の選択よりはましだと思う」、その通りです。大切なのは生きること、生きて日々豊かな内面的経験や意義ある実際的行動をすること、人間らしく生きること、こういうことが国民の意識の中で理解されていること、そして成文法に載っていること、人間の精神のレベルは今、ここまで達しているのです。

【試験を終えて】

 今回も前回と同じ作品数となる十二篇の作品を取り上げて私は解答案を作成した。すべて12月の作品である。この解答案には欠陥があり、減点されると私は自身で分かっている。その欠陥とは、問題文にある「得票数の多かった作品を二、三必ず扱うこと」という要件を満たしていないことである。言い訳をさせていただくとしよう。簡単に言うと、私はタバコを断ちながらこの解答案を書いたので、もうこの十二篇以上について語れるだけの精神力が残っていないのである。ヘビースモーカーだった私である。タバコがないと、思考停止になる。それでも、これだけ書いた。たぶん、次回は大丈夫だと思うから、今回はこれでお許しください。

 さて、ビーレビの運営の人員の中で、私は作品の得票数のカウントと『概観』の作成という役目を主に担っている。ユーザーが投票した票数によって毎月大賞が選ばれるという独特な選考方法を持ったビーレビ杯、その月次選考結果発表というものがあるということはビーレビの特徴であり、また看板でもあるから、運営の他の方々と等しく重要な役目を分け持っているのである。(ただし、運営にもいろいろな仕事があり、私のこの役目などは易しい)。

 単に得票数をカウントして高得票順に並べて示すだけのことなら機械に任せればいい。しかしそんなことが毎月続いては何の面白さもない。ビーレビは、この世の中に無数にある人間的な活動の中のささやかな活動の一つである。私は、人間の力でできることをしたい。

『概観』は誰が書いてもいいと思う。ただこの『概観』というものを発案した、そして書きたいと思ったのがたまたま私だったので、私が書いているのである。名称はどうであれ、そして私が運営から退いたとしても、このような文章は月次選考結果の中にあり続けて欲しいと勝手に思っている。

『概観』は「選評」ではない。私はこの文章のイントロダクションの中で「話を書きなさい」と言っている。そう表現することで、ユーザーによる直接投票で大賞を選ぶというプロセス、および、カウントされた得票数の多い順に作品を並べて示す機械的作業との区別を言いたかったのである。ユーザーによる直接投票で大賞を選ぶということは、ユーザーが「選評」を書くということである。運営が「選評」を書くのではない。

 個々のユーザーは作品への投票にかんして6つの選択の自由を明確な形で与えられている。(前回、私は誤って4つの選択の自由しか挙げなかった。申し訳ない)。すなわち、1、コメントを書いて投票しない 2、コメントを書いて投票する 3、推薦文を書いて投票しない 4、推薦文を書いて投票する 5、PICK UP – REVIEW紹介をして投票しない 6、PICK UP – REVIEW紹介をして投票する である。選考方法のこのような全体像をどうか見失わないでください。

 また、私はこの『概観』の本体を「ですます調」を基本にして、つまり丁寧な言葉遣いで、書いている。これには理由がある。ビーレビという場におけるコミュニケーションの性質は、当事者が実地に対面しておこなわれるコミュニケーションの場合と同じ程度の真摯なものでなければならない。私は私自身の性格の激しい一面を知っており、ものを書くとそのような一面が弾けて攻撃的、或いは暴力的になりはしないかと恐れているので、あえて「ですます調」を採用して自分を制御しているのである。もし私と似た性格の方がいれば、参考にしてください(笑)。

 さて、私という一人の人間がビーレビに投稿された作品群から限られた数だけ作品を選び出して「話を書く」、このことの中に公正さや妥当性はあるだろうか? 何を基準に選ぶのか? こういうように問うことを忘れないことがそもそも大切である。

 今回の「解答案」においても、前回と同じように、文章を貫く或る一つの大雑把なテーマを最初に決めて、そのテーマに合う作品を選んで書き進めた。そのテーマは、前回の「地上的」「現世的」「リアル」ということから、これらにさらに深く沈潜して、「実際的」、「人生の実践」ということにまで及ぶことを目指した。まずまずこんなテーマで書けたと私は感じているが、読者の皆さまはどう感じられたであろうか。

 この『概観』が意味のあるものになっているならば、そしてもしおもしろいものになっているならばと、願うばかりである。

・雑感 by 貴音

【12月の雑感】

新年、明けましておめでとうございます。今年もビーレビをよろしくお願いいたします。散々言って参りましたが、私は変化に溢れた1年でございました。看護師という仕事を離れて、派遣で食品工場に勤めております。今の所ですが人間関係や仕事の内容に大きな問題はないです。特に人間関係に不満が少ないのは良いことですね。大雑把な括りで言えば看護師も接客業なわけでして、患者様に笑顔や感謝なんてのをやらされるわけです。もうね、人間の相手をするのは疲れました。あんたらからすれば私もそうなんだろうけどね。とにかくサッパリとした人付き合いで、仕事とは…なんて無駄に意識を高く持ってやりたくないんですね。あ、不良品をラインに流さないようにしようみたいな必要最低限の意識は持つよ?後はね、夜勤だけの仕事なんで健康管理はしっかりしたいですね。食事睡眠などのリズムをしっかりと確立して過ごしたいですね。12月は寒いのもあってずっとベッドで過ごしてばかりで、筋肉が痩せる形で体重が落ちているので、温かい季節は運動をしたいなって思います。なんだか希望に溢れた1年にしたいところですが、一白水星は辛抱だそうです。いやぁ~どんだけ私に辛抱させんねんって思いましたね。だから占いは今年見ないようにします。めざまし占いもね、獅子座の悪く言われる回数がマジで多い。なんか恨みでもあんのかなって思い始めてます。とにかく今年の目標は健康第一ですね。いつまでコロナも続くんでしょうね。オミクロンって奴もどっから日本に入ってきたんでしょう。令和になってから世間が明るい感じになってるイメージがないですな。オリンピックもグダグダやったしね。まぁ健康的に酒と煙草をやれればそれでいいよ。あ、去年の良い出来事と言えばやっぱり再就職、そして麻雀で役満上がりしたことです。

【ビーレビしろねこ社賞】

12月に行われたイベントに参加して頂いた皆様、本当にありがとうございました。皆さんのおかげで素敵なイベントになったよね。今回のイベントを始めるに当たって多少の問題はありました。どんな形で開催するかとかね。結局、お題詩のようなスレッド形式でやったわけですが、この形だとどうなの?とはやっぱり言われちゃいましたし、できる限りの宣伝はしたのですがビーレビ杯にも投稿している作品があるとかね。まぁ、皆が納得ってのは出来なかっただろうけど、良い形で終われたんではないでしょうか。私は自分の知らない詩人さん達ばかりが選ばれて、そんときに一番面白い詩を書いた奴が選ばれるみたいな、M-1グランプリなノリが好きです。もっと言うなら賞とか無縁だった人が選ばれて、人生がガラッと変わる瞬間みたいなのを期待していました。50%くらいはそんな形だったかなと思いました。まぁ、この辺は私の好みです。押してくる詩が好きだし、ドリームな展開が好きってな私の傾向です。後はそうですね…ビーレビはどこから見付けてくるのか、新しい人達が入っては去ってを繰り返しながらサイトが代謝をしているんですが、今回のイベントでサイト内だけでグルグルしていたものが、なんか外と結びついて回り出したような感覚を覚えました。今回のイベントでビーレビを知った人達がしばらくの間だけ遊んでくれてったらなぁなんて思ったりしています。

【ビーレビしろねこ社賞の詩で好きな詩を片っ端から並べていくの巻】

ツチヤタカユキ『空気コーヒー(最高濃度ver.)』

ツチヤタカユキ『幽霊地球』

水城鉄茶 「きらぴか」

笠原メイ『カナリアの告白』

杉本 順「やまいだれ」

杉本 順「人工呼吸」

くおんと月夜乃海花「赤色、ズキン」

文月 紬花『looseな関係 loseな僕』

cofumi『カーテン』

中沢『マンデルブロ集合』

ガムのくつべら「野ざらしの部屋」

笠原メイ「人間やめてもギターやめるな」

弦響 「cat!!」

弦響 「愛揺れ死ね」

yasu.na『孫』

水上 耀 「Public poet」

原口昇平 「伝説と歌、あるいは『ふたたび殺戮の時代』の余白に」

R『イチゴゼリー(無果汁、ゼロカロリー)』

田邊容 「星の星」

あさ『声』

芦野 夕狩 「甘いコーヒー」

武田地球 「わたしは海へ行った」

田中傲岸『道徳へ捧ぐ葬送曲』

田中傲岸『バースデーソングを求めて』

ユウ アイト 「排他的恋愛水域」

もとこ「Calling You」

多宇加世『花弁を磁針が追うのだ』

多宇加世『それでも手紙が届くなら』

Johari「ファムタル」

楽子『弔い』

ずんやま『Nihilism』

DaysXMa≠na「誰がために」

cold fish 「GEZAN / 東京 (Official MUSIC Video)」

ほば『そんな彼の日常』

もとざわ「蓮の花」

エイクピア「真夜中のボクサー」

エルク「る」

これはTwitterでも紹介した、数多くの作品の中から“私が勝手に”好きだったものを並べています。こうしてみるとやっぱり選者さんとは好きなものが違うよね。私は色の言葉を使っているわけでもないのに文面がカラフルな詩、詩文から力強い瞬発を感じるのが好きなんです。意味とか作者の気持ちとか、丁寧でかしこまったような詩を置き去りにするようなもんを感じさせる詩が好きなんですね。だから選んどいてあれなんだけど、ここで紹介した詩のメッセージとかはさっぱり理解してあげられないし、実際はどんなタイプの詩なのか分からない。だけど、私の中では引っ掛かりが感じられる所があって、この人だから生まれたんだって詩なんだってのを感じたんだよね。私がその作品を書いてみたかったって気持ちになったんだよね。とにかくさ、ポエティックハードコアパンクだったんだよね。

【最後の言葉】

以上を持って、私の雑感はおしまいになります。これから新しい運営が2人は入り4人で活動していくことになります。卒業の理由としては仕事環境でずっと夜に働いていることになったから。夜勤専属だからやれなくはないんだけど、ちょっとしんどいってのが正直。あと、半年過ぎた辺りから辞めることは考えながら過ごしていたんですな。そんな中でビーレビしろねこ社賞を行うことが出来て、気持ちよく終わりたいなって思ったの。馬鹿のよう分からんことの対応させられて、胸くそ悪い気持ちのまま3月迎えて終わりたくなかったんだよね。それと、これは勝手な使命感を抱いての行動でもあるんだよね。私も一応はビーレビの古参側だと思うのよ。んで、利用者として運営さんを見てきた感じ、なんか皆疲れ果てて去って行くみたいな印象があった。(私も加担していたから本当に申し訳なかった。)だから前例みたいなのを作りたいんです。ボランティアで参加して中のゴタゴタや馬鹿ユーザーに心身を削られ去って行くばかりではなく、良い思いも出来て終われる人がいるみたいなのがあると、ちょっと希望持てるじゃない?私は歴代で一番頭も悪いし、感情的やし、何も出来ん奴だった。でも、そんな奴でも支えられながらここまでやって来て終われるってなると自信になると思うのよ。次の運営が何をどうするのか分からない。多分、もう詩の創作でビーレビにお邪魔することもなくなるだろうからな。幾つか言葉を残していくなら、仲良く運営をやりましょう!Twitterの方がなんでも良いから積極的だと嬉しいかな?過去作紹介だけの奴だとつまんないしね。アイコンやヘッダーもコロコロ変えて欲しいかな。言うことはそんくらい。詩に関して言えばまだまだ出来るけど、投稿掲示板が私には合わなくなった。これからも書いていくけど、黙々と裏で書いていこうと思う。まぁ…一番手広く色んな詩を書いた奴だと思っても良いんじゃないかと思う。それは中途半端だとかスタイルの確立がなんちゃら~ってうるさい人がいるだろうけど、もうええねん。私が一番、ビーレビ内で詩を使って遊んでた。ハードコアだったってことにさせとけ。他には何だろうな?良いことなんか分からんけど投稿作が200越えってのも経験したし、今の運営が最高だって言ってくれる人もいた。こんな私がシンボルみたいにもなった。だからもええねん。短いのか、長いのか、よう分かりませんがこれで私の運営・ビーレビでの活動を修了したいと思います。皆さん、ありがとうございました。

以上で12月選考の発表とします。

2022.1.26 B-REVIEW運営 一同