B-REVIEWユーザーの皆様、平素お世話になっております。
9月の月間B-REVIEW大賞ならびに選考委員個人賞が決定したため、ここに発表いたします。なお、9月の選考委員は 、

・天才詩人 (個人賞のみ参加)

百均 

芦野 夕狩 

なかたつ

が務めました。

~~~~~

目次

・大賞並びに個人賞発表
・選評
・月間最多投票数作品ならびに投票作品発表
・雑感

~~~~~

・大賞並びに個人賞発表

月間B-REVIEW大賞

パワフルぽっぽ 「ラブレター・トゥ・ミー」

パスワードを忘れ続ける 「彼方からの手紙

個人賞

天才詩人賞 
夜を歩く 」AB

百均賞
integrate」水上 耀

芦野 夕狩賞
彼方からの手紙」パスワードを忘れ続ける

なかたつ賞
ラブレター・トゥ・ミー」パワフルぽっぽ

総評及び各委員選評

9月選考会・総評

 2020年10月18日、11:00~13:00にかけてB-REVIEW最後である月間選考会が開かれた。会議は以下➀~③の流れで執り行われた。

➀ノミネート対象作品を基準にそれぞれの選者が推薦した作品、および他薦の作品について持ち時間20分以内でプレゼンを行う
②各選者のプレゼン内容についてそれぞれの選者が感想を述べる
③➀、②の内容を元に、簡単なディペートタイムを設け、芦野夕狩、なかたつ、百均の三名による大賞作品の選定、および合意

 それぞれの選考委員によるノミネート作品は以下の通り。

芦野夕狩
・パスワードを忘れ続ける「彼方からの手紙

なかたつ
・パワフルぽっぽ「ラブレター・トゥ・ミー

百均
・水上 耀「Integrate」(芦野枠で推薦)
・杜 琴乃「リベンカ
・AB「夜を歩く
・二ノ宮橙子「Alleluja

 審議の結果、B-REVIEW9月期大賞を獲得した作品は、パスワードを忘れ続ける「 彼方からの手紙 」、パワフルぽっぽ「 ラブレター・トゥ・ミー 」と相なった。

1.経緯

 9月期の選考は、discord上に運営が設けたチャットルームの会話から始まった。

 進行役を請け負ったのは運営の帆場氏である。

 なかたつ、芦野、百均はしばらくB-REVIEWの選考システムから離れていたため、B-REVIEWの選考がどのように進められてきたのか、全く状況が分からないまま選考委員を請け負っていたため、最初は9月の選考方針についての質疑応答を繰り返し返していた。

 一旦質疑応答が落ち着くと、そのまま選考まで何もアクションがなかったという事もなく、チャットルームの中に流れた沈黙を定期的に断ち切るように、選考委員達は各々がピックアップした作品をチャットルームに取り上げるなどし、ローペースではあるが、円滑に楽しく作品に対して意見交換するなどしていた。

 選考の立ち上がり方はとても緩やかであり、まずはそれぞれが掲示板の作品をコツコツを読んでいく事から始まったという事がこの文面から伺えるはずだ。
 選考委員はそれぞれが出来る範囲で掲示板の作品に触れ、選評を書くための準備を進めていたのである。
 
 だが、選考会議に臨む前に、一つだけ大きなハプニングがあった。
選考委員が当初の予定である5名から2名抜け落ち、芦野夕狩氏、なかたつ氏、百均の3名になってしまったことだ。

 これは、別に抜けた事を責めている訳ではなく、残った選考委員の性質があまりにも近しいということに問題があった。
 
 三人は長年ネット詩に関わってきた人間であり、更に言ってしまえば生息していた界隈もほぼ同じであった。

 お互いにお互いがある程度認識を既に疎通していて、尚且つ好きな作品について理解がある「メンツしかいない」という事は、あくまでも可能性としてではあるが、推薦作が重複したり、お互いが苦手な傾向を持つ作品が選考の俎上に上がってこないという意味で、読みこぼしが発生するだろうなという事は容易に想像できる状況だったのだ。

 つまり、選考が選考として機能しないという、この上ない最高の条件が整った状態で選考会議は始まりそうだったのだ。
 麻雀に例えるならば三面役満リーチ状態だったという事である。流局は避けたい所である。

 だが結論から言ってしまうと、個人賞が重なる事はなかった。
ということか、先ほど提示した懸念点は所詮机上の空想であり、考えた所で人の好みというのは予想する事はできても理解するにはそうは及ばないという事であった。

 といった所で安心したのも束の間、選考という地獄の本当の始まりはここからであることに誰も気が付いていなかった。

 何が地獄だったのかというのは、やはり大賞候補作として選出した作品に問題があった。

 結果的にそれぞれが選んだ作品は別であったとしても、それでは一体何を根拠に大賞作品を選出するのかという所で躓いてしまったのである。

 この後話す「なぜ大賞作品が2作品なのかという結論に行き着くまでの間」選考会議はどこか平和的で、楽観的な空気が漂いながらも、着地点の見つからない膠着状態に陥ってしまった。

 上記問題を解決する鍵を会議の中で突き詰めていった結果、選考委員がそれぞれに持っている選考に対するポリシーだった。 
 三人は確かに似てはいるもの、突き詰めて考えていくと実は選考に対して明確に異なっている思想があった。

 これは、会議前最後の夜に、今まで三者の中で暗黙の了解としてあったそれぞれの認識を、改めて言葉に起こした時に明らかになった事だった。
会話の内容を引用すると長くなってしまう事から、ここでは割愛して端的にまとめてしまうが、芦野夕狩氏は「自分が一番だと思った作品を大賞として推挙すべき」、なかたつ氏は「自分が今月もっとも誰かに読まれて欲しい作品を大賞として推挙すべき」、百均は「ユーザーの心を一番動かした作品を選考会議にかけるべき」という内容だった。(無論、上記ポリシーはあくまでもわかりやすくまとめただけの文言であるので、極論じみている言説に堕ちてしまっている事はご容赦いただきたい。切り取った文言で選者の性質を判断する書き方になってしまうのは、正直避けたい所ではあるが、ここで何かしたの誤解が生じてしまったのであれば、これから各選者が公開する選評の中で解けてしまう程度の誤解であると信じ。敢えてまとめて書くことにした)

 上記理由を読んでいただければ、計6作品のノミネート作品が多少正規の手順からそれた選出の仕方であったとしても、ご理解いただけるのではないかと思われる。

 芦野夕狩氏は自身の大賞推薦作を個人賞として推薦したという事に加え、百均の個人賞作を自身の枠で急遽追加していただいた。(つまり、選考委員が今月一番だと思った作品に対するリスペクトの現れである)なかたつ氏は選考という舞台が様々な矛盾というドグマが絡み合う場所であることへ理解を示したうえで、それでも自身の推薦作を大賞にしたいという強い意思と根拠を提示した。百均は、ユーザーが投票したという行為を選考会議に加える事で、投票という行為を無碍にしたくなかった。

 無論、三人の選考委員の考え方は根本的な所での理解は既にある状態であって、その結果分岐した考え方というのもそれぞれが了解していた。
 
 であるが故に、それぞれの選者は自分がどういうスタンスで選考に臨むのかということについて、各選考委員は、最後まで揺らがず動じずに自らのポリシーに対して忠実であったのである。

 だからこそ、大賞が決まったその瞬間、
 僕は生まれて初めて選考していて楽しいなと思った。
 この感慨はネット詩に関わっていて初めて覚えた気持ちである。


 
 選考とは、選考委員の中ですれ違う認識の穴を埋め、ある一つの結論の導くという行為である。

 また、選考とは呪われた行為である。一番を決めるという行為は、結果的に言ってしまえば一番以外の作品を安易な相対主義に落とし込んで全てを無に帰す事であるし、また個人個人の読み手によって大切な、いわば絶対的な感情を他者との間に開いた巨大な亀裂へ無謀にも投げかけ、コミニケーションを駆使して穴埋めして評価を高めていくというする意味が分からない苦行を繰り返していくことである、或いは作品に描かれた事象を淡々とメタ化して完結な事実として処理し、評価をルーティン化する事等の儀式を通過させることで、順序付けするという事に他ならない。
 
 ここまで詳細に書き記さずとも、お察しの通りではあるかもしれないが、要は選考という行為自体がかなりきな臭い行為であり、始まる時から矛盾を抱えている茶番であるということだ。
 
 しかし、だ。その矛盾の中に自ら飛び込み、気の置けるメンツや、自分とは考え方の異なるメンツを巻き込みながら作品を読むという行為を繰り返す事によって、生まれ出る何ががあるのだ。

 選考委員は、同じ船の中に乗り込んだ船員であるため時には協力しあう、だが命を奪われそうになったら殺し合わなければならないし、また一人で船を操舵する事はできないので解きには仲直りする必要がある、そして自分の中にある意思と他者の意思の橋渡しをする疎通点を探す必要がある。無論決別する事はあるだろう。だが、相手への一定の理解は示すが曲げられない信念や、信条、思いや、経験則、思考をすり合わせ、判断を下し合い、また下され、切り捨てられる事を、何度も同じ事を繰り返し、結論という「最果て」へ生還する事によりやがて、一つ到達点を得るのである。

 それは、選考に対して真剣に臨んだ物にしか得られない、視点であり財産であると思うし、今百均がこうしてわざわざ総評を書くに値する原動力に他ならない。
・パスワードを忘れ続ける「 彼方からの手紙
・パワフルぽっぽ「ラブレター・トゥ・ミー

大賞作品が2作品だったのには、大きく3つの理由がある。

➀2つの作品は「手紙」という相互に影響を与え合う書き手と読み手の力学をテーマに扱っている題材であること
⓶手紙には読み手ー書き手という相互的な関係性が存在するが、その関係方向性がまったく逆の方向に伸びているということ
③そして、伸びている方向性つまり「宛先」が真逆であるのに読み手の心を強く動かす力を持っている事には変わりがないこと

 詩が書かれる経緯というのは各人それぞれである。また、書かれる動機も別々である。同様に詩が読まれる経緯も契機もバラバラである。だから、詩とは何かという問いに対して、一元的な考えをここで提示するに意味はあまりない。といった所ではあるのだが、一旦パウル・ツェランが提示したこの考え方をはめてみたいと思う。

 「詩は投壜通信である」
 
 これは演繹法的、帰納法的な考えではなく、選考の過程によって導き出された仮構法的な提言である。

 要は、今月の選考の成果としてこの2作品を提示する事は、選考委員が今月「投壜通信」という答えを、B-REVIEWという海に投擲された壜(投稿作品)を拾い上げ、中に入っていた手紙を読み、伝わってしまった物があって、それらを大賞に推したいという引力が働いたという事なのである。

 はるか彼方、遠い異国の浜辺で、名も知れぬ書き手が投げた一つの壜に込められた詩文。それを「読む」という小さな共犯関係を結ぶ時に生まれる風景、色彩、大切な何かというのは、陳腐な言い方をしてしまえば、どれだけ時代が進み、あらゆるアナログな手段が消失し、もしくは歴史が参照されなくなり、文芸が必要とされなくなったとしても、大袈裟な表現で表してしまうと、決して喪われる行為ではないな、と実感した次第だ。

 パスワードを忘れ続ける氏の「彼方からの手紙」は、文体が語り掛けて来るさわやかな質感を持った喪失感、あるいは後悔の手紙である。その読み手は語り手に向けられている手紙であるという側面以上に、読み手に対して、緩やかにやさしく語りかけてくれる文体によって心を赦されるのである。そういう意味で、今月最も優しい作品であった。

 また、パワフルぽっぽ氏の「ラブレター・トゥ・ミー」はタイトルを見ればわかる通り、語りての書いた手紙の宛先はあくまでも自分である。だが、どこまでも徹底的にストイックな自分に向けた語りというのは、逆に読み手の心を間接的に代弁する機能を持ってしまうのである。正にここに書かれた手紙は読み手の為に書かれたようであると思えてしまうのだ。そういう意味で本作は、今月最も読み手の心を救う可能性のある作品だった。

 何が一番であるか、という場所を決めた選考会ではなかった。
 三人がそれぞれ持ち寄った考えの物、突き詰めて選び抜いた、ある意味で思想を体現したのが大賞作品であった。
 そしてこの2作品は奇しくも同じ投稿月に投稿され、選考委員の目に留まり選ばれたという、いわば奇跡に出合ってしまった以上、2作品を大賞にせざるを得なかったというだけの話なのである。

2.さいごに

 レスを付けるという行為は、言ってしまえば不毛な行為だ。

 自分で作った作品であるならばまだしも、誰かの作った作品の感想を述べる事で何が得られるだろうか。

 それが、どういう形でネット上に残って来たのだろうか。

 一銭の価値にもならない行為をする理由はあるのだろうか。

 と、レスを書くということは、いくらでもデメリットを提示出来るほどに不毛を象徴する行為に違わない。

 だが、だからこそ、それらの障害を押しのけ、誰かに言葉を吐かせることができる作品というのは、どのような形であれ読まれるべきなのである。
 無論それは「読まれるべきだと思い、信じ、あるいはいつの間にか感想を書きこんでしまった」読み手の行為を称えることを忘れてはいけないことともつながっている。

 何が言いたいのかというと、今回、大賞作から外れてしまった作品には、苦渋の決断を持って候補から外した作品と、あっけらかんと大賞作から落選した作品があったという事である。しかし、その事実がその作品が駄作であるという訳ではないという事は伝えたい。

 この選考の場で行われたやり取りが、作品の絶対的な評価を決める証明には決してならないのである。

 これからのB-REVIEWは、読み手が推薦文を書く事によって作品を応援する選考システムへと本格起動していく。
 それは、正に読み手一人一人が自分に届いた「投壜通信」へ返事を書いたり、それを元に新しい「投壜通信」を作りだす仕組みをより強めていく。

 その作品がいいと思ったあなたの思いは誰にとっても否定されうるものではない。
 だが、よいと思った思い自体もまた、誰かに向けて書かなければ、埋もれてしまう思いであることも事実だ。

 また、先ほど言った通り、色々な思いで作り上げた壜を海に投げて反応を待つという行為はとても苦しい事だ。
 タイミングが悪かったり、一つの言葉遣いや認識の齟齬によって、いとも簡単に軋轢や分断を生んでしまう事も多々ある。
 しかし、それでも荒波を抜け浜辺についた時、ボロボロの限界状況を乗り越え、新しい地平が開かれた時、届けられた手紙は、
 また誰かに届けられる手紙になるのである。
 
 これから、選考委員が示す各々の選評は正に「投壜通信」である。
 ハッキリ言って選考委員の仕事はここからが本番だ。
 作品を選ぶことなどは重要ではない。選評という手紙を示すことこそが仕事の本懐である。
 
 一生懸命書いた物が、誰にどのような形で受け取られるのか分からないまま、あなたに投げられた文章を、受け取ってもらうこと。
 願わくば読んでもらうこと。あなたの心が揺さぶられたとしたら、それが種火となって、次の通信へ繋がっていくこと。
 選考委員が費やしたリソースの全てが、たった一人の誰かの心に届いたのであれば、B-REVIEW最後の選考として残したこの軌跡は、非常に大きな財産となると僕は確信する。
 それは、あなたの書いた作品や、レスが我々選考委員の心を動した事と、何も変わらないのだから。

 以上を持って、B-REVIEW 2020年9月期の総評を終える。

                                以上

(総評:百均)

・個人賞

百均賞
integrate」水上 耀

#1 祝福

t(1)=【映劇の看板はもう見えない。“愛がなんだ”と滲みゆく汗。】
 
 始まりには終わりがある事というのは、最初から決まっていた。だから<底>なんて領域は最初から存在してはいけない。風を吸い込むように開かれたマンホールには無限に続く永遠なんて存在しなかったので、敷き詰めてしまうことで、知る事なんて知らなくていい事にしてしまった。埋め尽くされた体育座りのマネキンたちは、明るい憐光に照らされて木製の皮膚が灼けてしまったね。
明るいウィルキンソン炭酸水のプラスチックの蓋は溶けてしまったので、ただのおいしい水素水になってしまいました。炭酸が溶け切った水はCo2を投下すれば炭酸水に簡単に戻れるのかしら、と口移しで渡された思い出は僕と<みんな>の間に挟まる<女性>の人称代名詞によって踊らされてしまう。
この舞台の幕あけがいつでエンドロールはどこにあったかんて、もう<見えない>から分からないことにしてしまった。

   — δC —
靴底すら存在してはならない領域に
敷き詰まっているたいいく座り。
ちぐはぐになろうとする夜のために
アスファルトは規制を受け入れている。

 浴衣に染みついた可視光の余韻、 
 無限へと解放される炭酸のみじろぎ、
 肩と肩とを隔てる一枚の酸素、
 喧騒に馴染めない掌のふたつ。

ある夏祭りがあった。という幻想はどこにも描かれていないのに、浴衣に染み付いた焼きそばのソースの余韻が、読み手の僕の脳裏に波紋のように広がりまるで<ぼく>の中に途方もない思い出の白夜をよみがえらせてしまうように、<無限>だなんて大層な単位をはじき出しても、その実態を隔てる原子は一枚の酸素の隙間に湧き上がる、ただすれ違うだけの余韻。

 明るいものだけが
 一度きりの夜を構成していくから、
 ほころびは濃くなっていく。
 ぼくや、女性や、背景に溶けたみんな、
 もちろんむきぶつからも、
 いまか、いまか、がじわじわ湧き上がって。

  
翔けあがる光線、
飽和の予兆。
白夜がくる。

 ならば、光で覆いつくしてしまえばいいさ、と陽の終わらな白夜を仕掛けてしまう。

選評の続きを読む

 白夜は必ず来なければいけない、いつまでたっても落ちきらない光の王冠が<世界>の内側を包み込んでくれる、この現象はいつまでも輝いていなればいけないから、せっかく<背景>に何も映らないように、影を殺すように湧き上がる、感情なんて物がどのような機序で生き物に組み込まれたのか知らないですけどもね、とにわか雨がほころび始める、目の裏を貫く陰影は濃淡を破壊して、みんなを光に溶かしつくし、吸いこんでしまった。
 白夜はなまぬるい光を垂れながしていくことをやめないから、いつまでたってもこの劇場から立つことができないですんだ、一度きりの映劇が終わるという<底>は最初から存在しない。

  ─ δV ─
  照り返す白線を挟んでとことこ。
  雲はいつも波しぶき、津波のようにまだ彼方。
  遠回りは無限遠と無意味の重なりから生じた。
  無限遠は真円のような透明さだから、
  遠回りはいつだって手に入らない。 
  と、雲が怖い蝉たちのぼやき。
  再び広がりはじめた、街。

 なぜ、白線は等間隔に置かれるのでしょうかね、と聞かれた白線は「等間隔に置かれなければ人間の認識が白線に従う意味を失ってしまうでしょうから」と答える。
 彼方から押し寄せる津波を示す遠くの空は、突如湧き出た入道雲で、嵐の前の波しぶきのように不穏だ。
 どうして近くにある<めいっぱいの青空>はまだ透明なんだろう。近くて遠い将来は目の前に迫っているのに、この街は灰色の海水で満たされて、壊されてしまうのにね。
 と蝉たちがぼやいている。
 世界は繰り返されるように死を現象として演じ続けても、ぼくは真円を描き切る事はできない、けれども、同じ世界はどこまでも続いている道でしかありませんから、一周回ってしまえば再び重なりを得る事はできるはずだよね、とぼやいているセミは毎年いつも同じセミがないているように季節の巡り方を錯覚してしまうだなんて、まるで変化しない無機物を眺めているよな錯覚ですね。七年に一度しか鳴かないんですよ。というか一度切りなんですよ。彼らは、一度泣く事をやめて性行為を終えたら死んでしまう存在なのに、ぼくの認識はまた同じ夏祭りを繰り返そうとする。
 なんてね、これはぼやきですから。思い出の。

  めいっぱい青空な爪の、その先端が、
  くすんだアパートとまっしろな一軒家の間を見つめた。
  通学路の標識から垂れ落ちた影が、
  アスファルトの波間で揺れる。
  熱風にからまるローズコロンのにおいが、
  ふやけた脳幹からはなれていく。
  白線にためらって、越えて、
  陰にとけゆく髪を追う。

 現実を見ましょう。と近くの青空みたいなその爪が指し示すのは白亜の一軒家じゃありませんよ、かといってくすんでいるアパートでもない、安住の地はどこにもないから、その未来を選択する前に押し寄せる影を見なさいと、言われたような気がした。熱風にからまるローズコロンのにおいにその間を見なさいと言われて、影が落ちていく。
 せっかく落とさないようにしたのに、なんで落としてしまうの。
 と、抗弁する前に組み立て広げた街は、白線は揺らいでしまう。
 標識から外れるように揺れた、崩れた影は、等間隔に惹かれた白線に沿って歩く事を許さなかった。示された道しるべは、いつだってローズコロンの匂いで屈折したぼくのためらう認識を白夜から引きはがして、超えようとしてしまう。

  再び広がりはじめた、街。

 いいえ、これは白夜ですから、終わる事なんてないし、同じ行為は繰り返されるから同じ行為なんですよ、いや現象なんですって、ね、なんて無意味を演じ続けている世界の原則に沿って建てられたこの街にいれば、繰り返されるはずだ。
 だから、超える事は怖い事ではなかった。
 また街を作ればいい。

  ─ δP ─
  ただしい街灯は、
  夜と道、僕と彼女の混和を許さない。
  羽虫を遠ざけて点滅する街灯の裏拍、
  ぶつかった小指と甲。

 正しい白線は組み立てられた偽りの白夜でしかないですから、要は白夜なんてどこにもないんですわ。実際の空は炭酸水を飲み込んだ夜空でしかない。等間隔に置かれた街灯はいつだって、もう一度交わる事を許さなかった。
 一度離れてしまった思い出は、ちらつく羽虫によって明るさの等間隔を狂わされてまた、真円として重なる事はなく、衝突を繰り返してしまう。

  ─ δT ─
  なんか風流なことしたい、なんて
  湿った風に流されたつぶやき。
  コンビニの花火セットはたった100円で、
  でも2本しか線香花火が入っていなかったから、
  妙にそぐう爆心地が必要だった。

 ならば、新しい思い出の場所が必要だと。もう一度感情を引き出す為に必要なのは、むき出しにされた感情じゃなくて、繰り返される同じ夏と、夏の中で繰り返される小さな思い出と、夏らしい世界<爆心地>で、夏らしい事をしたという行為を再び再現する事でしかないから、夏らしさを引き寄せるために買ってみた線香花火には、狙いすましたような線香花火が2本しか入っていない。だって100円だもの。爆心地が100円の線香花火っていうのは風流だよね。

  灼けきったアスファルトの上、
  苗字がかすれて読めなくなった木札の前。
  過ごしやすい夜は街灯もぼうっと涼んでいるから、
  四等星もおそるおそる覗いている。

  もう白夜は終わってしまったのだから、夜空が夜空として機能しているけど、夜は夜だから、直ぐに終わってしまうよ、街はもう灼け切ってしまったし、未来を示す建造物は廃屋になってしまった、夏は終わりかけて蝉達は死に絶え、秋を始めようとしている。
  4等星なんてすぐに消えてしまう光でしかないのだから。
  敗北の条件は既にそろってしまっているのに。

  新品のライターは敗北の条件なんて口にせずに、
  二つの火球をつくりだした。

  気が付いてしまったらまけてしまうのだから。

  火球たちは秘めた衝動を徐々に露わにしながら、
  おのおのがやりたいように火花をやりとりして、
  しかしその軌跡はねじれのままに、
  火球は収束していく。
  最近の線香花火は落ちない、
  だから勝ち負けはつかないんだよ。
  でも、そんなこと、
  ずっと忘れたふりをしていたかったから、
  左手に飛んだ火の粉に
  気がつかないふりさえしたのだ。

 気が付かないふりをしたって、それは気が付いている事と同じだよね。忘れる事ができたら、忘れるなんて概念なんてないんですね。線香花火は落ちなきゃいけないけど、だったら落ちないようにねじまげるしかない。終わりなんてどこにもなければ、勝ち負けもない。

  t(2)=【太陽に腹を撫でさせる蝉を原点にして、弧を描く四つの足跡。】

  ・・・・・・
  
  
  
  ぜんぶ、ぜんぶだ。 
  ぜんぶが夏。
  小さな小さなちがいを
  ふらついたうすらい足跡に
  あやうく残しながら、
  あるく、
  あるく。
  あの人が紅葉の底に浮かぶあいだに、 
  ひとつひとつ祈るようにしながら
  足跡から拾い集めたちがいが、
  夏そのものになれ。
  夜のように透いたアスファルトを
  恐る恐る踏みしめながら、
  重ねつづけている。

 ここに描かれた思い出は、別れの物語でしょうか。どうしようもない個人の思い出を書き綴っただけの作り物の街でしょうか。脳内で繰り返されるただの白昼夢でしょうか。終わらない白夜でしょうか。変数に的確な思い出の質量を投げこめば、繰り返される新円になりる数式になりますか。数式は立証されてしまえば、どこまでも真実であるように存在する事ができますか。夜は夜として過ぎ去り、夏は夏として過ぎ去り、朝は当然のように訪れて、秋は秋になってしまいますか。二度と戻る事のない出来事は一本の道のようにどこかにつながらなければならないのだとしたら、折り返す事はできない。だとしたら祈るしかないじゃないか、でも祈り方なんてしらないから、思い出すたびに、祈るような行為を繰り返す事で、踏みしめる事で、もう足元にはなくなってしまった、あなたとの道がもう一度重ならないかと計算を続けてしまう。

#2 跡語り

 作品を読むという行為を久しぶりに真剣にやってみて思う事は、初めて読んだときの感情と2回目に読んだ感情と、誰かと一緒に読んだ時の感情と、誰かと一緒に読んだ時の感情が毎回異なるという事だった。
 自分の読書が毎回一定の質量を持った回答をはじき出す演算能力を持っていればいいのに、と何かを読み始めた時からずっと思っていた。

 人間の感情の中に溢れるみじろぎ、というのは決して重なる事のない一回生の夏である。それを言葉にして書きとめ、ある意味で再現しようとしたとき、制限のある通常の日本語では表現する事は難しいだろうと思う。
 だからこそ、あるいみ口語自由詩という底のない領域を持つ文芸領域が本作の表現を示すために選択されたのであれば、私はそれに強く同意する。
 また、そこに、ある特定の前提条件上が満たされていれば再現されるであろう、平たくいってしまえば数式の概念を、作品の土台として置いている事に対して、挑戦の心を感じる。

 私が本作を推そうと思った理由はいくつかあるのだが、それらの理由のうちでここに書くべきだと思うのは、筆者とくおん 文字描き、月夜乃海花(過去)「切り取られた部分的数式および完成形の解釈について」を通じた言葉のやり取りだ。

 はっきり言ってしまえば、本作を最初に読んだ時に、僕はスルーした。Discordでは月の始めの段階で、なんとなく候補作としては上げてみたものの、結局の所使われている数学的な記号に対する嫌悪感から、読み込む事を避けてしまっていた。
 その中で、僕が最終的に個人賞として「Integrate」を提出したのは、くおん 文字描き、月夜乃海花(過去)さんの推薦文があったからにほかならないのだ。
 
 くおん 文字描き、月夜乃海花(過去)さんの推薦文は、論理的かつ、評文としての順序性が保たれているため、読みやすく理解しやすい。僕が読解の妨げとしてとらえてしまった数学的な記号に対する定義づけから始まり、そこから導き出される解釈を提示しているのだが、これがどれだけの読み手を助けた事であろうと思う。

 僕は一人で読む事以上に詰まらない事はないと考えている。
 
 また、一人で読むことで自己の中に反復される思いを何度も、繰り返して腹の中に落とし込む事というのは、この詩の中に描かれている光景であるかもしれないが、単純に苦しい事だと思う。

 だからこそ、掲示板という媒介の中で広げられるレスの応酬というのは、やはり何よりも尊い物なのだと確信する。

 僕には読めない物が本作には確かにあった。一人では本作を選ぶことはできなかった。という始まりから、この一か月色々な作品を色々な人たちと読み、再度思い返した時に、二人のやり取りが一番心の中に残ったのは、本作はB-REVIEWでなければ読むことができなかったという僕の中のナラティブな事実だった。

  >人によってこの詩を読んで浮かべるフィルムは違うだろう。そのフィルムを重ねて人の心に一つの情景が浮かんでいく。
  >なんと人の心は面白くて、儚くて、愉快なのだろうか。

 くおん 文字描き、月夜乃海花(過去)さんの推薦文に置かれた最後のこの一文に僕は激しい同意と覚えると共に共感する。

 また、くおん 文字描き、月夜乃海花(過去)さんが提示した解釈の道しるべは筆者の設計し、想定した書き筋は異なっていた部分があったのかもしれないが、しかし、それは筆者の言葉を引用すれば「 密閉空間における状態の微小変化、それこそが夏である。そのような解釈は私のコンセプトと通底しつつもそこまでの経路を異とするものであり、非常に興味深いものでした。」つまりそれは作者の手を超えた所で、重なるのである。

 作品が作者を超える時、それは読み手が書かれた物をただ再現して読むという行為を超えて、新しい解釈を提示する時に生まれる一つの運動は、ただそのそばを通り過ぎる読み手たちを振り替えさせ、気づかせ、作品の魅力を見つけるかがり火となるだろう。僕が今だに詩を読む理由の中で一番大切に思っている瞬間、あるいは感動する瞬間というのは、ここにしかない。
 
 僕が語るべき言葉など最初から二人の関係性に割り込む余地などないのだから、黙って推せばよかったのかもしれない。だが、僕が受けた感動を誰かに返したかった事も事実だった。

 よって、二人の言葉のやり取りをある意味では橋渡しするような形式で、今の僕に出来る事をしたつもりだ。
 たとえこれが100円の価値すら持たない文章であろうが、そんな事はどうでもいい。

 ただ、僕が一番いいたい事は、約6000千もの時数をもってすら、心の中に芽生えたこの感動を伝える事はできないという事である。
 そして、僕には読めなかった作品を読むことができたという喜びに出合わせてくれた事に感謝申し上げる。 

 おめでとう。

 百均の9月の一番は「Integrate」及び、その推薦文くおん 文字描き、月夜乃海花(過去)「切り取られた部分的数式および完成形の解釈について」でした。

(批評文:百均)

芦野 夕狩賞
彼方からの手紙

noteでも公開中

B-REVIEWという詩を投稿するサイトから「9月に投稿された作品から大賞を選ぶ審査委員をやってほしい」と頼まれました。それでB-REVIEWに9月に投稿された作品を全部読んで、僕の能力と時間が許す限りで批評を書いたのが以下の文章です。かなり長い文章なってしまうのですが、良い作品ばかりですし、僕も一生懸命書きました。ですから目次をつけておくので気になった作品だけでも読んでくれると嬉しいです。それでは、はじまりーはじまりー。

さいしょに

これから僕は詩の批評というのをするけど、長い間詩の批評というものに携わってきたわりに批評というものがなんなのか、はっきり自分の中で定まっていない。

時にそれは工場作業員が基準を満たす製品とそうでない製品を振り分けるあの作業を思い出させるし、時にそれは巨大な壁に書かれた巨大な謎の絵を一晩中かかって解読する試みに感じることもある。

僕が最近気に入っている比喩は、詩を読むという行為は旧い友達との約束を思い出すようなものだよ、という喩えだ。実に気障ったらしい喩えだと自分でも思うのだが、「約束」というのはとてもシンプルで二人以上の人間が相互に承認することによって成立する。ここからどんなお話を取り出しても構わないけど、僕は詩を読む際に、それを批評する際に、その詩には読み手である僕と書き手である作者との「まだ明らかにされていない約束」が隠されていると感じる。僕にとって詩が坊主の有りがたい説法でもなく、どこかで聞いたような人生論一般でもないのは、その点においてのみである。

往々にして詩の書き手はスローガンを書かない、もっとも分かりやすい伝達の形をとらないわりに、心の中では溶岩のような詩情を抱え、それが誰にも伝わらないことを嘆いている。とんだ矛盾だけど、そういうものだ。一方で読み手である僕は、そこに「人生を豊かにする10の習慣」を求めているわけでもなく「加所得処分を二倍にする誰も知らない節約術」を探しているわけでもない。読み手である僕は同じように、本来誰にも伝わることの無い溶岩を抱きながら、作者の使う一つ一つの言葉の中にあたかも旧い友人と交わしたはずの、けれどもう忘れ去ってしまった「約束」を探している。つまり、もはやその詩は作者と読み手である僕にしか意味をなさない作品になる。ここに約束という秘密めいたものと、それでも何かを伝えたいとねがう伝達としての言語の混交があり、詩は畢竟、秘められてありながらその中でなお相互的なものであると考えている。

ところで残念ながらこんな比喩はこの批評文を書き終えたら忘れ去ってしまうだろう、特に僕は忘れっぽい人間だから尚更だ。ただ、まあ詩作品にしろ他の創作活動にしろ優れたものと劣ったものがある、というとても納得感があり明快で分かりやすい誤謬に気付くきっかけになってくれれば良いと思っている。ゴタクはいいからさっさとはじめよう。

ちなみにこれから挙げる作品は僕が一つ一つの作品を読んでいくなかで、特に僕の心に引っかかってきたものである。時間の都合上、残念ながら10作品程度をピックアップして話すのが精一杯だった。
また必要上ひとつだけ個人賞及び、大賞作品を僕の中で決めないといけないらしいのだけど、それについてはあまり深く考えないでくれると助かる。(順不同、大賞とか個人賞に関しては目次の最後「余談」で話すよ。あとこれを書いている時点で半数以上の作品が作者不詳なので全作品作品名だけを記名することにしている。リンクを飛んでもらえればどういう人がどういう顔で書いたのかわかるよ。)

Integrate

Integratet(1)=【映劇の看板はもう見えない。“愛がなんだ”と滲みゆく汗。】— δC —靴底すら存在してはならない領域に敷き詰まwww.breview.org

正直最初にこの作品を読んだ時、ちょっと食い気味に「僕文系なんで!」と心の中でバリアをはってしまったのを後悔している。未だに記号の意味は分からないけど、改めて読むと、この文章はとても魔法じみている。一つ一つの文章はやけに凝り凝りで、いったい何を表現したいのか、一見わからないかもしれない。

靴底すら存在してはならない領域に
敷き詰まっているたいいく座り。
ちぐはぐになろうとする夜のために
アスファルトは規制を受け入れている。

何故魔法じみていると思ったかと言うと、一見何のことかわからない描写が、あるひとつの簡単なキーワードで一瞬にしてなじみ深い描写に変貌するからだ。或いはこの文章を読んで「靴底すら存在してはならない領域?!?!」となった人もいるかもしれないが、まぁ少し話を聞いてほしい。

浴衣に染みついた可視光の余韻、
無限へと解放される炭酸のみじろぎ、
肩と肩とを隔てる一枚の酸素、
喧騒に馴染めない掌のふたつ。

人間は自分勝手な生き物で、知っている話をさも重大な話かのように聞かされてもどうにも退屈してしまう、一方で「炭酸のみじろぎ」なんて言葉を何の手がかりもなく聞かされてもどうにも困ってしまう。

そんな自分勝手な読者(まあ僕なんだけど)を黙らせる方法はほとんど一つしかなくて「自分で気付かせる」ことなんだよね。自分で気付いた事実はいつだって重大だし、大事件だ。一度「ひらけゴマ」と合言葉を唱えた僕は、まさに「無限へと解放される炭酸のみじろぎ」を脳裏で一枚の鮮明な写真のように想像することが出来てしまう。でもその作者の微かな息遣いに気付くためにはいつだって少しの魔法の合言葉が必要になる。そしてこの少しの魔法はいつも読み解く側に委ねられていて、それを唱えた途端にそれまで不可解なだけだった文章が整列し、あまつさえ鮮明な映像にすらなって「読解」を導いてくれる。これが魔法じみていなかったらなんだというのだろう。

ちなみにいったい何が書かれているかは、僕の口から言及するのは避けておく。なぜなら自分で気付いた事実こそがいつだって大事件だからだ。

照り返す白線を挟んでとことこ。
雲はいつも波しぶき、津波のようにまだ彼方。

これまでいくつもの「君と僕」に関する詩を読んできた。けれど幼い頃の、手が触れあっただけで触れたところが激しい熱を持ってしまうような、あのイカレタ宗教みたいな恋愛をこんなにも上手く書いた詩はなかなかないと思う。この回りくどい表現全てが男子中学生の白百合みたいな純情を覆い隠していて、まるで照れ隠しのメタファーみたいじゃないか。

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fog dream

fog dream体が透けて霧状になって塩漬けの舌を無数に凍らせて高層ビル群の上に1個ずつ並べてなんだか綺麗な夢みたい、だね、なんて霧状になwww.breview.org

ビル群が朝日に照らされた
美しい墓標だから
眠る人々はその中で
同じ夢を見ている
ベッドから落ちている
柔らかな腕も
同じ夢
犬笛

まだ目覚めていない霧深い街をゆく二人。そんなモチーフ自体がなにかとてつもなく新しいわけではないのだけど、唐突に出てくる「犬笛」という言葉が多分思っているよりも多くのことを語りかけてくる。そんな詩だった。

犬笛って本来人間には聞こえない周波数で鳴ると思うんだけど、この「普通の人には聞こえない」ってのがこの詩の抒情とすごくマッチしていて、とても響いた。或いはモスキート音のように若い人にしか聞こえない音、みたいな捉え方をすると「まだ汚れていない」という覚醒する直前の街を行く当てもなく彷徨う二人のアイデンティティを際立てせたりする。

僕が気に入ったのは、犬笛=ロックンロール って捉え方だった。忌野清志郎の有名な曲に「トランジスタラジオ」という曲があるのだけど少し引用しようか。

彼女教科書広げてるとき
ホットなナンバー空に溶けてった

これは屋上で煙草を吸いながらトランジスタラジオから流れてくる曲を聞いている一人の不良の話。そして真面目な「彼女」は校舎のなかで教科書を開いている。

ありふれた抒情に感じるかもしれないけど、僕にはとても原初的で力強いコントラストに感じる。この詩で描かれているのは、眠っている人たちと「私たち」の対比。まだ夜に近いほうの時間と活動的な昼に近い時間との対比。そしてどこまでも異質な自分達と、どこまでも適切な世界との対比。

呼美奈ちゃん

呼美奈ちゃん私のそとで、死んでいくんです私ね、名前なんか欲しくなかった時間の全てが名前に含まれており名前が、私たちの永遠だ、なんて私のwww.breview.org

シンプルな詩なんだけどなんだか気になった。世の中にあるすべてのものに名前がついてるだなんて! と思って生きてきたので個人的な感情も大いに含まれていると思う。

名前を付ける/付けられるってどうしてもこの世界に生まれ落ちるからには必要な通過儀礼なんだけど、本作で示されているように、その名前という檻の中で個別であることが少しづつ死んでいるような気がしてならなかった。

私ね、名前なんか欲しくなかった
時間の全てが名前に含まれており
名前が、私たちの永遠だ、なんて

個人的な話になってしまうんだけど、僕は錦木をなんでか知らんが「ポリゴン」って呼んでいた。大人になってあれは「錦木」だよって知って、それ以来錦木とはとても疎遠な関係になったかのような気がした。

同じように名前を付けられるというのは、誰かの子供であること、或いは自分の行いがいつも自分の名のもとに反響し続けるということを示していて、とてもじゃないが息が詰まりそうだ。

見上げる空が落っこちてきて
それはふるえる青色でした

しかし名前というのは同時に新しい発見でもある。最終連で落っこちてきた空を「ふるえる青空」と名付けるのは大きな示唆に満ちていて、この世界にはまだまだ新しい関係を結びなおせそうな存在がたくさんあることに気付く。最初に「詩は相互的なもの」という序文を書いたのだが、名前も実は一方が一方を指し示すための片道で強制的なものだけではなく、本当はモノとヒトが結ぶ相互的な関係でもあるのかもしれない。

獅子の町

獅子の町獣だったころがもうあんなに遠く淡い水色をベースにピンクの薔薇柄の薄いカーテンが夏の終わりの風にパタパタ揺らめいていて ベーwww.breview.org

最初に読んだ時「うまいなぁ」と思い選考ルームにピックしたんだけど、「芦野さんこれ何が書いてあるんですか?」と聞かれ、なんだろうと数時間頭をひねらせた結果、何が書いてあるのかはよくわからなかった。

春でもないのに蓮華の花が降って、落ちては消えていく
塩山を、繰りぬいて、部屋には蝋燭を灯している、盆地の町だ
星の街灯が立ち並んでいる
青い夕暮れになると、塩の結晶に橙の炎が反射して、窓や扉から光が漏れ出て

改めて読み直しても何が書いてあるのかはよくわからないけど、ところどころ誇張された街の描写がめくるめく展開し、何かを結実させる前に霧散していく。一方で初連から引き継がれている「傷」のモチーフは全体を通底していて、あたかも手負いの獣がこのデフォルメされ過剰にさせられた描写のなかに、傷ついた身体を隠蔽しているかのようだ。

僕はあまり象徴的な詩を読み解くことは得意ではないので見当はずれかもしれない。しかし或いは旅人は阿修羅のような苛烈な生を送るなかで傷を負い、けれど野生の獣のように傷は隠さなければならなかったのかもしれない。そのなかでほんの束の間の安息を満たすためのものが一杯の蜂蜜だったとしたら、彼が走り去った後に転がるその空き瓶は永遠に癒えることの無い傷の象徴だろう。僕たちが生きている社会にもこのような痛ましい象徴、傷跡がいたるところに刻まれていて、この詩は全ての傷ついた獣たちのための安息の歌なのだと思う。

記憶をつくる 

記憶をつくる日付は変わり 2020年 9月11日 金曜日時刻は午前零時を回りましたラジオ深夜便ですNHKの村上里和アナウンサーが、ニュwww.breview.org

やや身内向けの作品ではあるが浅井康浩さんから強い影響を受けた一人として、懐かしい感情を呼び起こされた。この詩に関しては文学極道までいって元の詩を読んでこないとどういうことなのかわからないかもしれないし(さらにコメント欄も)、ここにURLを載せていいものなのかわからないから、非常に遠巻きな言い方になってしまうと思う。

記憶をつくる、というのは実際そうそうお目にかかる状況でもなくて、僕たちはだいたい記憶を呼び起こすか、忘れるかしている。作り変えることはあるかもしれないがそれは往々にしてネガティブなイメージを持つだろう。

岸本葉子さんとのミッドナイトトークに耳を傾けていると、詩人の長田弘さんの詩にたしか、記憶とは過ぎ去らなかったもののことなんだというのを詠んだことがあって、ほんとうにそうだなあと…そんなことを岸本さんが話し村上アナウンサーとお互いにうんうんと頷きしばらく盛り上がった。

このような何気ない導入から始まる物語は、過去にある一冊の書物を手にした語り手の記憶と、それを詩作品にしたものを投稿し「これでは説明的すぎる」と否定されるという二重の構造になっている。

本来自分が生きて経験したものの名残である記憶を誰かに否定されるというのは、よく考えると意味が分からないことだ。けれど本作ではその否定された部分を書き換え何重にも自らの体験を補強するように、手触りの感触や記憶の萌芽を隅々まで書き込んでいく。

そこまでくるとそれが記憶を改ざんしているのか、ひたすらに思い出しているのかよく分からないかもしれない。事実それは「記憶をつくる」という行為に他ならないわけだが、本作を読んでいると、記憶とはまさにそういうものだという気がしてくる。つまり記憶とは過去に起こったことの単なる余韻ではなく、まだ本当の意味で自分のものになっていない単なる過去の出来事を、自らの言葉の内に、自らの生の延長線上に、何度も描き出していくその過程そのものなのかもしれない。

不在

不在鼻血からサカナの匂いがする朝 人魚姫より不幸だ、アタシ。ひび割れたチャーハンの上でスプーンだけがなまめかしく生きてる。www.breview.org

鼻血からサカナの匂いがする朝 人魚姫より不幸だ、アタシ。
ひび割れたチャーハンの上でスプーンだけがなまめかしく生きてる。

引き算で詩を書くのがとても上手くて羨ましい。多分これは逆立ちしても僕には書けない。この詩の解釈うんぬんに関しては僕がどうこう言うよりも読まれる方がそれぞれに想像したほうが良いと思うから触れないでおく。

すごいなあと思うのは、引き算を続けた最後に「人魚姫より不幸だ、アタシ。」って言葉を残すんだ、ってことだった。この情報がより文章を立体的にするって嗅覚は真似できるようで真似できない感じがする。てかごめん、前言翻して自分の解釈を書くんだけど、最初に読んだ時DV夫に殴られたのかなって読み方をした。まぁそれ自体はしごくありふれた読み方だとは思うんだけど、そこで「人魚姫より不幸だ」ってちょっとおかしいんだよね。

でもこのおかしさってすごく大事なことだと思っていて、もしかして共依存っぽい感じなのかな、とか人間の底に淀んでいる闇みたいなのがチラッと見えるその塩梅がすごく良い。短く書くとどうしても想像を膨らませる様にだとか、状況を限定してしまいすぎないように、だとか幅を持たせすぎて「人間」を書くことを忘れがちになるんだけど「人魚姫より不幸だ、アタシ。」ってのを最後まで残せるのはとても優れた嗅覚だと思う。

リベンカ

リベンカ散り散りの花弁は案外、節操がなく風に誘われるまま指を離れた基地の電車たちは今日の仕事をすっかり終えてはしゃぎまわる子供たちwww.breview.org

あなたが頬を膨らませ
下唇を噛み
懸命に 息を吹き込むと
線路沿いの秋桜も
やわらかな細い茎を大胆に揺らし
木漏れ日が 踊り場を飛び跳ねる

これを書ける人はトトロが傘を持って蒔いたばかりの種の前でスクワットをしたら一晩のうちに大樹に成長した秘密を知っているんだと思う。

大袈裟なことを、と思われるかもしれないが、トトロが傘を持ってスクワットすることと、芽が伸びることを自然と接着できるのは紛れもない才能だと思うんだ。この詩に魔法をかけているのはそのイメージの接着であり、すべての人がクラリネットに吹き込んだ息で線路沿いの秋桜を揺らすことが出来るわけではない。

理科教師は若くて声が良いと
道徳よりも楽しいらしい
難解な単語のステップは
ときに解説を必要とするけど
明るい声の連なりは
ドイツ音階の暗唱のように心地よかった
あなたが はじめてふれた音そのものだ

本作全体がキラキラしたような音に溢れていて、理科の授業での化学記号の暗唱を思わせるこの場面も一見重苦しい授業風景になりかねないところを、実に楽し気に書いているし、最後のホルンを吹く「あなた」のリードミスが響き渡る場面も顔をしかめるでもなく目を閉じる描写は吹き抜ける秋風のように爽やかである。

ここまでが入口で、さて、ではここには何が書かれているのだろうか、というところまで踏み込むと、真っ先に次の対比的な表現にぶち当たる。

鳴り止まない発車のベルだと思った
黄昏泣きの鈴虫たち
生まれてすぐに飛ぶための翅を失くし
それからずっと 泣いてばかりぢゃないか

それまでリズムよく、踊るように鳴っていた音符が一時の不調なのか軋んだような音をあげ、カメラは地面に這いつくばるしかない虫をズームアップする。ここからは完全に僕の個人的な読解なのだが、ずっと感じていたこの詩の語り手は一体誰なのだろうかという疑問が一度に晴れた気がした。

生徒たちが、こわそうな先生が、本当はこわくないんだ、と喧しく伝えている相手とは一体誰だろう。「あなたが はじめてふれた音そのものだ」と教え諭すようなこの話者は一体誰だろう。

僕は「わたし」は音楽教師なのだと直感した。リベンカという題はまるで風が吹くたびに散り散りになっていく束の間の輪舞のようで、それが彼ら、彼女らの学生生活の喩えであるならば、それをリベンカという一つ俯瞰した目線から眺めている存在に納得がいく。

また同時に先ほどの強烈なコントラストの部分に「わたし」の抱えている問題が決して押し付けがましくなく垣間見えている。これからなんにでもなれるという無限の可能性を信じている無数の生徒たちの音楽は、別の視点に立つ存在にとって、時に「鳴りやまない発車ベル」のように不協和なものに聞こえるのかもしれない。或いは「生まれてすぐに翅を失くした」という言明は、僕の勝手な想像だけど「若いころからピアノ一筋で音大を卒業したはいいけれど……」という人物像になんとなく寄り添っている気がした。

この詩の優れたところは、

わたしはそっと目をつむった

という最終行を幾重にも多義的に解釈できる点だろう。僕は上に書いた理由から、決して温かさだけではない様々な感情を想像するのだけど、この感想をきっかけに多くの人がもう一度この詩の世界に思いを馳せてくれたらとても嬉しい。

彼方からの手紙

彼方からの手紙まいったよ、もう九月もお終いだなんてね。コロナでいろいろ暇だからグリーンデイばっかり聴いてぼやぼや暮らしてたよ。そっちの暮www.breview.org

まいったな、と思う。心に突き刺さってくる詩はだいたい雄弁に語ることができるんだけど、いったいどんな言葉でこの詩を語ることが出来るのか皆目見当がつかない。

実を言うと九月はこっそり革命を起こそうと思ったんだ。虹を渡す蜂起や。シャボン玉のクーデター。金の馬群と吊るされた王様。そんな九月になるはずだったんだ。こんなはずじゃなかったよね。なにもかも。思い出ばかりが増えていくんだ。世界をひっくり返してみても、もうそんなのどこにもないのにね。

結論から話すのはなんだかビジネスっぽくて、みやびじゃない気がするけど、結局のところここから話さないと始まらない気がする。実のところ僕も毎年九月ごろにはいつもこっそりと革命を起こすつもりでいるんだけど、不思議なことにいつまでたっても何も起きない、おかしなくらい冴えない一年がもうどれくらい昔かわからない昔からずっと廻っている。言い忘れたけど、僕の場合もおんなじで思い出ばかりが増えていく。あれは一体何なんだろうな。

ヘミングウェイのキリマンジャロの雪という短編小説があって、彼の最高傑作だという人もいる。僕も大好きな小説だ、物語の最初にキリマンジャロの山頂付近で凍り付いてしまった豹の話が挿入されるんだけど、キリマンジャロの雪を読む前と後ではその凍り付いた豹のイメージがだいぶ異なる。読む前はまさに勇ましく山頂を目指す英雄的な人物に重なる、惜しくも力尽きてしまうが不屈の精神力によって自らの身体を山頂に運んでいく姿はギリシャの英雄ヘラクレスみたいだ。

一方で読み終わった後、凍り付いた豹はとても僕たちに近しい存在に思えてくる。今作で語られる全ての言葉もまた同様にこの「ある近しい感覚」に収斂していく。

こんなはずじゃなかったよね。なにもかも。

好むと好まざるにかかわらず僕たちは雪の吹き付けるどこまでも暗い道を歩いている。気がする。もしかして最初は英雄的な気持ちもあったのかもしれない、「虹を渡す蜂起」や「シャボン玉のクーデター」を企てていたのはもちろん、もっと幼いころの野望かもしれないけど。とにかく雪が降りだした頃は多分みんなスターをとったマリオみたいに無敵だった。

どこまでも、それこそキリマンジャロの山頂までも行けるはずだった僕たちの耳からあの無敵の音楽が遠ざかって、辺りは一面凍てつくような雪と1m先も見通しのきかない暗黒の世界になった。よくある話だ。そこで多分多くの人は容赦のない冷たさに体をこわばらせながら色んなことを思い出すと思うんだ。そして最後に「こんなはずじゃなかったよね。なにもかも。」と口にする。これがキリマンジャロの雪と本作をオーバーラップして導き出した解釈。この言葉を読んで僕は思わず「そうなんだよね、まったく」と口にしてしまった。まあそれは嘘なんだけど。

一方で「思い出の質感」についてもっと触れてもいいかもしれない。本作にはたくさんの「思い出」が書かれているけど、どれをとってもまるでその体験をしている作中の話者の生のままの言葉で書かれている。

透明のぷよぷよに閉じ込められて戸惑う金魚。

あまり無節操に引用しても良くないと思うからここだけ抜き出すけど、この場面を「ビニールに水を入れ、ゴムを通し吊り下げた容器」と正確に表現した場合に皆さんが感じるだろう情緒と、本作を読み比べてほしい。「思い出の質感」って言葉で表現したいことは、つまりはそういうことなんだけれど、うまく伝わっているだろうか? 本作は全ての場面でその時スターの無敵の音楽が鳴り響いている瞬間の話者の視点から切り取られた言葉で思い出が語られている。

こんなはずじゃなかったよね。なにもかも。

だからこそこの言葉が、美しい思い出との脳がくらくらするようなコントラストで尖りに尖って胸に刺さってくるのだと思う。いやはや、まったくだよ、と思わずにはいられなかった。これは簡単に「絶望」という言葉で表現できるものでもないし、「諦め」というネガティブな色合いが強い言葉で語っていいものかも悩む。結局のところ「いやはや、まったくだよ」としか言えないのである。

INTERNET

INTERNET地球とかいう不完全な球体を、46億年間回転させて温め続けたらクソキモい生き物が、INTERNETを始めたほら、想像してみなwww.breview.org

個人的には大好きな作品。あまり多くを語る詩でもないし解釈云々が問題になる詩でもないだろうから短めに済ますけど、この「エッチな蟹」ってワードの使い方は「わかってる」人の書き方だなと思った。

何が「わかってる」かというと、地雷は人が通るところに埋めるのが効果的だよね、ということをわかってることになるのかな。作品をいったん俯瞰して読者がどこをどう通るか、ってのをある程度シミュレートできる能力と置き換えてもいい。

正直、人生とか愛とか、砂糖をまぶした作品を書けば万人に受けるものはいくらでも書けるんだと思う。まぁでも正味作品の本来の良さとまぶす砂糖の量は全く関係ないと思うし、こういうスタイルをとり続けることはとても大事なことだと思う。

赤いはうそつきの舌

赤いはうそつきの舌冷たい雨が降ってきても傘をささずに歩く若い男性。長袖のワイシャツにスーツのパンツ姿で四角いリュックを背負っている。線路脇のwww.breview.org

私事になって申し訳ないんだけど、最近バーに通っている。お酒はほとんど飲めないのにもかかわらずだ。理由はチャンドラーの小説を心の底から読みたいというだけのミーハーな理由で、チャンドラーの小説に出てくるお酒をひとつづつ飲んでいる。カウンターに腰掛け「ホットトディー」なんて古めかしいカクテルを頼むのだが、ほとんど下戸と言ってもいい僕の許容量を知っているマスターが出すそれはほぼお湯だ。砂糖と檸檬の入ったお湯。

でもそんなこと知らない他の客は負けじと強い酒をあおってぐでんぐでんになっていく。一方で酒に弱い僕は意外にもほとんど酔うことはない、というか酔う前に気持ち悪くなるのでそこまでたどり着けない。やっと本作の話ができるのだが、そういうとき周りを見渡して

ねえ、そんなになるまで飲むってどんな気分ですか。

と聞いてみたくなる。でもこれは決して憐れんでいるわけでも、見下しているわけでもない。強いて言うならば、自分が「嘘のよっぱらい」であることの自覚と罪悪感を吐き出している。

続く2連は関連がなさそうに見えてすべて子供に関する話、というか「親になること」についての話で、切実な話だ。こういうのは僕の口から話されるよりも実際に読んでみて、と言うほかない。僕が言えることは、1連目の繋がりから、親になること、ないし自分の子孫を残そうとすることに対してまでも

ねえ、そんなになるまで飲むってどんな気分ですか。

と言い放ってしまうような冷徹さと醒めた目線がどこまでも本作を貫いている気がするということ。「子供を産むんですか、素敵ですね、そんなにも人生に酔っぱらっていられるだなんて」とまで言ったらさすがに誇張かもしれないが。

わかったような顔してやり過ごす日々。運よく生かされたことへのありがたみは当然のごとく薄れて。赤いは、うそつきの舌。忘れられるから生きていけるのだとも言えますし忘れるから繰り返すのだとも言えます。

この世界のありがたさに、やさしさに、連帯に酔っぱらってどこまでも流れ着くことは幸せかもしれない、けれど酒に弱い人間はどうにもうそつきになるほか道はないらしい。そうした方が世間との摩擦が小さくなるからね。

したにひたしたあいらびゆ
さかしま You, Be (a) liar.
足した日に足し生き延びて
うそつきになっちゃいなよ
みんな、あいしてるからさ

最後の苦虫を噛み潰すような「あいしてるからさ」はいかなる恋愛映画にも感情移入することが出来ない僕に刺さる稀有な「愛してる」だった。

余談

今回B-REVIEWにいただいたミッションは「個人賞及びどれが大賞にふさわしいかの候補作(複数可)」を選ぶことだった。端的に話すと、個人賞、大賞候補作品、共にパスワードを忘れ続ける氏の「彼方からの手紙」を選んだ。理由は僕が書いた当該作の批評を読んでもらえればわかると思う。まぁ、一番心揺さぶられたという話。

一方で、「個人賞及び大賞候補作」を1作しか選ばなかったのは、それ以外の作品が決して取るに足らなかったわけではなく、「個人としてはこれがいいけど、大賞にするならこれかな」という考えがどうにも僕には馴染まなかったから。一番良いと思った作品、というのはプライベートでもパブリックでも変わらないのが僕のスタンスだったという話。

もちろんそこのスタンスの違いは選考委員それぞれにそれぞれの考えがあるのが当然で、今回の選考会議もそのようなことに焦点が当たった。それに関しては、同じく選考委員であった百均さんと運営の帆場さんも書くと思われるので割愛する。ただその認識の違いはとても面白かった。

さて、9月の大賞は僕の推した「彼方からの手紙」となかたつさんの推した「ラブレター・トゥ・ミー」に決定した。選考の過程は別の方が書かれると思うのでそちらにお任せするけど、とても有意義な選考だったと思っている。

奇しくも二作品とも「手紙」を題材にした作品であったのは興味深かった。「さいしょに」でも書いたけど、僕は詩を読み手と書き手の相互的なものだと捉えていて、もっと言えば、読み手がその作品の内奥で金ぴかにひかる宝の箱を見つけたときに、その作品は完成するのだと思っている。

僕が「芸術判定」でも「レビュー」でもなく「批評(クリティーク)」を志すようになったのもそれが理由だ。旧い友人とのもう忘れ去ってしまった約束を、脳の皺をひとつずつ丁寧に引き延ばすみたいに探す。詩文を何度も読み返し、その中に刻まれている僕にしか解き明かすことができない約束を深い海に潜るように手さぐりで見つけ出すことを「批評」だと思っている。

(批評文:芦野夕狩)

なかたつ賞
ラブレター・トゥ・ミー」パワフルぽっぽ

0. はじめに――選ぶにあたって
 先ず、個人賞を選ぶにあたっての姿勢を示したい。
 そもそも、詩の作品に優劣などつけられるのだろうか。作品を読むという行為における主体は2つある。それは、「作品」と「読み手」である。どちらかが主であり、どちらかが従であるわけではなく、どちらとも主であり、また、どちらとも従であるとも言えるかもしれない。このように述べたのも、読むという行為は「作品」と「読み手」が相互作用することによって成り立つと考えているからだ。
 例えば、ある作品をある読み手が読んで、心動かされたとしよう。その場合、そのような結果をもたらした要因はどこにあるのだろうか。多くの人に読まれている作品や古典とされている作品は、どうもその作品自体に魅力を秘めているように感じる。ただ、どんなに多くの人から称賛されている作品であろうとも、読み手によっては必ずしも心動かされるわけではない。つまりは、読んで感動するという行為は、作品が保証しているのではなく、読み手次第であるとも言える。つまりは、読むという行為における感動に必然性はなく、偶然が付き物であると言えるのではないか。絶対に感動する作品があるわけではない。そして、何を読んでも絶対に感動する読み手がいるわけではない。作品が読み手に呼びかけるものがあり、読み手がそれに呼応する。しかし、読み手が作品に手を伸ばさなければ作品は開かれない。読み手が物理的・心理的に作品へ歩みよることで、作品が読み手に呼応する。そうして、読みが成り立つのではないだろうか。
 作品の良し悪しというのは、数値化できるわけではない。同じようにして、読み手の良し悪しというのも、数値化できるわけではない。詩をたくさん読み、理解できる人が偉いわけでもない。むしろ、詩にあまり触れたことのない読み手を感動させられる詩に作品としての強度を感じると考えることもできる。つまり、読み手の思考によって作品の評価が分かれる可能性があるということは、書き手であり、また、読み手である私たちが日々感じていることではないだろうか。平易に言えば、好き嫌いで作品を読んでもいいと考えている。しかし、その好き嫌いがどういった要因にあるのかは、「読み手」次第である。自らに近いものを好きと感じるのか、ましてや、自らにない/遠いものを好きと感じるのか、作品に用いられているモチーフ・フレーズが気に入ったからか、このような思考/趣向性は「読み手」に委ねられている。
 では、個人賞を選ぶにはどうしたらよいのか。予め述べておけば、この個人賞の選評は個人賞の作品の良し悪しを保証しているわけではない。なぜなら、これは、私による個人賞であるからだ。プライベートな場で個人的な読みをするならば、個人の感動など胸にしまっておけばいい。ただ、この個人賞はパブリックな場で公開されるものである以上は、どのように考えて選んだのかを示すことが選考委員としての使命だと考えている。無論、私が胸を動かされるのは、先述したとおり、必然的におこるわけではなく、偶然が付き物であるので、今回示す基準が必ずしも今後も通底しているわけではないことにご容赦いただきたい。
 戦略的に選んだ選考基準は「(私が考える)もっと多くの人に読まれて欲しい作品」である。これに設定した以上、なぜ「もっと多くの人に読まれて欲しい」と感じたのかを示すことが、私が私に課した使命である。そして、このことは私だけにとって有益なのではなく、B-REVIEWというサイトとして大賞を発表する以上、サイトとしても多少なりとも共有できる基準ではないかと考えている。
 それでは、個人賞の読解にうつる。

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1. パワフルぽっぽ「ラブレター・トゥ・ミー」について
 この作品は、言わば異物と出会うところから始まる。「名前のないこどもたち」との出会い。語り手とこどもたちの関係についてわかることは、お互いを名前で呼び合うことをしないということだけだ。そこから語り手は、名前、についての想いを述べる。「死ぬまでそれはついてまわる」「やらなければいけないことがあまりにも増えてしまう」「あまりにも不都合で不自由なこと」というように、名前があるということについての不快な想いを抱いている。しかし、名前というのは、生をもった以上はつきものとなるもので、つまりは、生きていること、もしくは、生きていたことを保証するものの一つとして名前がある。
 つまり、「名前のないこどもたち」というのは、語り手の外部にあり、観察の対象でありながらも、名前がないということで異質なものとして、語り手/読み手は感じることができる。その「こどもたち」の数は、十人であるとも、一人であるとも語り手には見えている。読み手は、この作品世界に生きているわけではないので、この「こどもたち」の数が一体いくつであるのかを確かめる術はない。読み手は、語り手の視点を通してでしか、この作品世界を見ることができない。この「こどもたち」は、語り手の外部にあって、異質なものであると先述したが、この想いは、読み手である私の勝手な想いであって、語り手はこの「こどもたち」に重なるようにして、「それはわたし自身もそうだった。あるときは一千万だったし、よく考えると孤独でもあった」と、共通項があるように語っている。しかし、やはり、「こどもたち」は語り手にとっての観察対象であり、「こどもたちが遊んでいる様子を上から見ている」のだ。そして、「こどもたち」はマイムマイムを踊る。その様子を語り手は「それは体の一部、たとえば自分の指を動かしているかのように思えた」と述べている。つまりは、外部にあって、異質なものであると思われた「こどもたち」というのは、語り手と共通項を持つものではなく、あたかも、体の一部、つまり、語り手の一部であると信じている/信じたいのではないかと読み手は思わされる。しかし、「こどもたち」から一人がリズムについていけなくなるのだが、名前がないことを理由として、「彼らのなかでいじめや差別が発生することはなかった」のだ。「こどもたち」という一つの単位の中で、「不良品」という異物が発生した時、彼らは「どうすれば良いかを、ちゃんと熟知しているのだった」。語り手とこの「こどもたち」との境界線は曖昧でありながらも、ただ、観察対象であるということから、語り手→「こどもたち」という矢印が存在しており、それはやはり、語り手の内部にあるものではなく、語り手の外部にあるものだと言えるだろう。そして、語り手(しいては読み手)にとって異質的な「こどもたち」の中で、「不良品」という異物が存在した時、そこに諍いが起きないということ、それを語り手は淡々と観察し、語りによって作品世界を描いている。
 二連目では「高度異形成」という病名が冒頭にある。このフレーズもまた、病気の名前であり、一連目では名前をもたないこどもたちに主眼が置かれていたが、二連目では名前を持つ病気から始まっている。読み手である私たちの世界に目を向けても、かつては、存在しなかっただろう病気の名前は時代が新しくになるにつれて新たにつけられ、病気は細分化されている。果たしてこの「高度異形成」という名前はいつ生まれたものだったろうか。そして、この名前が存在しなくとも、きっとこの病名があらわす症状を持った人が存在していただろうということも想像できる。話は作品に戻り、語り手は「精密検査のため病院に」いる。一連目で語り手は名前に対して「それはわたしにとって、あまりにも不都合で不自由なことだった」と述べていたのだが、病院にいる以上はどうしても「名前を呼ばれ診察に入る」必要が生じてしまう。検査の様子が描写されているのだが、「鉄の器具が膣の内部に少しずつ侵入する。異物」と、ここではっきりと異物が語り手の内部に侵入していることが述べられている。そして、最終的には「小さなポリープはいとも簡単に体から切り離され」る。これらの描写はなんて事のない、検査と施術の様子を描いただけであると言えるかもしれないが、単にこの二連目があるだけでなく、一連目があるからこそ、この二連目がいきてくる。それは先ず、語り手が忌み嫌う「名前」をもつことの宿命として、「名前」を呼ばれることで決められた場所(診察室)に導かれなければならないこと。そして、一連目では「こどもたち」が観察対象として語り手の外部にある異物があったが、二連目では語り手の内部に「鉄の器具」という異物が侵入し、「小さなポリープ」という異物が取り除かれるということ。外部にあるものは観察できるが、内部にあるものは内部にあるうちは観察できない。このようにして内部から外部へ取り除かれることで、「小さなポリープ」として観察し、その物を命名し、語ることができるようになるのだ。
 三連目では「恋人のためにセーターを編」む様子が描かれている。「ユザワヤ」で毛糸を買ってきたこと、「同じことを繰り返すことが大好きだった」ことが述べらている。ここで、読み手である私が感じたのは、誰かにプレゼントを贈るという行為は、自らの一部を差し出すということだ。「ユザワヤ」で毛糸を買うためには、お金が必要であり、そのお金は労働や手伝いの対価として買い手が得たものだ。そして、毛糸を買い、セーターを編むには、更に時間や労力を要する。つまり、あるプレゼントが誰かに渡ったというのは結果であり、その結果に至るまでの過程には、その贈り主のお金や労力や時間などが費やされている。この費やされているということが、自らの一部を差し出すということだと言えるのではないだろうか。この第三連は、その結果に向かうまでの過程であり、自らの一部を差し出している途中の様子である。編み物をするということは語り手にとって「同じことを繰り返すことが大好きだった」であるので、楽しいことであるはずなのだが、あることからその気分は一変する。「恋人の体はこんなに小さかっただろうか?」という疑問が生じたことで、編み物をしているという眼前のことではなく、今自分(語り手)が置かれている状況が自らを俯瞰するようにして思い出されてしまう。何かに集中している時というのは、他のことに目・気が向かず、眼前の対象のみが見えてくるものだが、ここで語り手は編み物ではなく、語り手自身を見てしまうのだ。言わば、自らを観察の対象としてしまう、つまり、自らから自らを外部に置いているのだ。「新型コロナウイルスの影響でしばらく会うのを自粛していて、いつしか会うタイミングを逃して、気づけばもう何ヶ月も会っていなかった」という状況など、編み物をするうえで必要ないことだ。しかし、語り手は「目をつぶって恋人の体を確かめてみる」のだが、確かなものとして思い出せないでいる。そして、率直に「それはとても悲しいことだ」と述べ、「こんなに小さくなんかない」と確信した時、「セーターの糸がほころび始め」るのだ。語り手にとって編み物をするということは楽しいはずだった。しかし、「恋人の体はこんなに小さかっただろうか?」というふとした疑問から、確かでありたいと思う「恋人の体」の感触が曖昧になり、悲しみを感じてしまう。そして、語り手が確かな指標として選んだのが自らの体である。「自分の体に、編んだセーターを当ててみる」ことで、「恋人の体」の大きさを思い出そうとする。語り手にとって確かなものは、「恋人の体」の感触ではなく、語り手自身の体の大きさであった。
 第四連は、第二連や第三連の現実的な描写とは違い、第一連にあった寓話的な描写となっている。第三連の最後でほつれたセーターの糸が物ではなく、まるで意思をまとったかのように変化しており、語り手もまた「それはまるで誰かの意思によって動かされているようだった」と述べている。糸は「モジャモジャした生き物のように」なるのだが、その糸は「細かく千切れ」て、マイムマイムを演奏し始める。やはり、第一連への回帰がなされている。「彼らは全員同じ顔をして」おり、「結婚もできず、子どもも産めず、職場でも上手くコミュニケーションが取れず、世間からちょっと浮いて」いるのだが、やはり、この彼らは、語り手にとって外部にある観察の対象である。第一連の「こどもたち」とこの「彼ら」が決定的に違うのは、語り手が「彼ら」の名前を思い出していることだ。そして、同時に「わたしは人々のなかで、異物な存在であった」と自らの立ち位置を俯瞰して見ている。マイムマイムを踊っていたのは、語り手の外部にあった「こどもたち」や「彼ら」であったはずなのに、語り手自身もまた「少し変わったマイムマイムを必死で踊って」いたのだ。つまり、マイムマイムを難なく踊ることができるということは、少しリズムがずれようともその集団から異物として扱われないための手段であるということなのだろう。この「少し変わっ」ていることに、語り手は辛さを覚え、「わたしのなかの異物をずっと非難し続け」ているという。「生きているといずれ失敗することも許せず、そういうときはどうすれば良いかを、まったく学んでこなかったのだ」というのは、語り手の想いが結集されているように感じる。これは、リズムが少しずれても異物として扱われない第一連の「こどもたち」が「そういうときはどうすれば良いかを、ちゃんと熟知している」こととの対比である。そして、語り手は「自分の名前を子どもたちに向かって何度も叫」ぶのだが、第四連において、「子どもたち」という名詞が使われているのはこの一回である。つまり、第四連では、セーターからほつれた糸が変化して、そこから千切れた糸がマイムマイムを踊り、その踊っている糸たちを「彼ら」という代名詞に置き換えて、繰り返し「彼ら」という代名詞によって、観察している対象が描かれていたはずであったが、その「彼ら」が即ち「子どもたち」でもあったことを、第四連の終盤にて読み手は知ることができる。第一連では「こどもたち」と全てがひらがなで表記されていたため、第四連の「子どもたち」と同定することはできないが、第一連の「こどもたち」には名前はないが、第四連の「子どもたち」の名前を語り手は思い出していながらも、語り手自身の名前で呼ぼうとしている。第一連におけるマイムマイムとの関連で言えば、第一連では「こどもたち」が語り手の外部で踊っており、観察の対象であったのだが、第四連では「彼ら」=「子どもたち」が踊るだけでなく、語り手自身も少し変わっていながらも踊っているという、つまりは、観察の対象ではなく、語り手の一部なのではなく、語り手が「彼ら」の一部として内部に取り込まれている。そして、「ちいさな痛みが下腹部に走り、膣から血液が流れ落ちるのを感じ」ることで、この作品は閉じられる。

 改めて、この作品の概要を示そう。
 第一連では「名前のないこどもたち」という異物との出会い。それを語り手は眺めている。(寓話パート)
 第二連では「高度異形成」という名前の病気を持った語り手の様子。そして、「小さなポリープ」という語り手の内部にあった異物を取り除いている。(現実パート)
 第三連では「セーターを編んでいる」という語り手の様子。誰かに贈り物をするということは、自らの一部を差し出すということ。(現実パート)
 第四連では「千切れた糸が子どもたちになり、語り手がその中にいる」という様子。(寓話パート)
 読解においては、幾度となく「観察の対象」や「語り手の外部/内部」というキーワードをもとに、語り手の立ち位置がどうあるのかについて意識した。また、それと同時に語り手が「異物」だと感じているものが何であるのかについても意識した。
 ここで当初の目的に戻りたい。個人賞に推挙するにあたっての基準についてである。何をもって「(私が考える)もっと多くの人に読まれて欲しい作品」だと感じたのか。それは、語り手自らが抱える異物について考え続けるその姿勢というのが、「読み手」にも作用を及ぼすと感じたからだ。この作品における経験は、この語り手(=作者というわけではない)固有の体験である。そして、語り手が見た「こどもたち」や「マイムマイム」は、語り手が作品世界内において見ているものであるから、必ずしも「読み手」が見ることができるわけではない。「読み手」は「語り手」の語りを通して、作品世界の出来事を仮想的に体験することができる。「高度異形成」や「小さなポリープ」を抱えるということが、必ずしも「読み手」が体験するわけではなく、また、同様の体験をしたとしても「名前をもつこと」に対する不快感を持っているとも限らない。しかし、「高度異形成」や「小さなポリープ」という異物を抱えることができなかったとしても、違う名前の異物を読み手の各々が抱える可能性があることも否定できない。元来、他者の痛みや悲しみというものは、追体験できるものではない。ある時、ある人の体に痛みがはしったとしても、全く同じ状況で全く同じ強さの痛みを感じることはできない。人はなぜ他者の痛みや悲しみを我がこととして理解するのかと言えば、自らの体験のアナロジー(類推)によって行っているのではないだろうか。この専門用語を平たく言えば、他者におきた出来事と似たような体験を思い出すことによって、他者の痛みや悲しみを想像できるのではないだろうか。また、体の表面にあらわれる傷は、まだ視覚的にその痛みが想像しやすいが、体の内部にある異物による痛みというのは、痛みを抱える主体が訴えることはできても、その痛みを他者は視覚でとらえることができず、より想像によって補われる部分が大きいものだ。これは必ずしも物理的な痛みに限らず、精神的な痛みにしても視覚でとらえられないものだ。
 自らが抱える異物というのは、「主体」の一部としての「異物」であるのだが、この作品はその主従関係だけではなく、「異物」を抱える「主体」そのものが、「子どもたち」という集団の中の一部となり、「少し変わったマイムマイム」を踊っているという「異物」になっていることへの気づきがある。酷な言い方をすれば、「異物」を抱える「異物」と化しているのだ。しかし、このことへの気づきというのは、自らを観察の対象としなければならない。第一連での淡々とした描写では、語り手と「こどもたち」が相いれないものとして、語り手自身の立ち位置には触れられず、ただ単に「こどもたち」が異質的なものとして語られていた。しかし、第四連になると、「子どもたち」の中に「語り手」がおり、「子どもたち」がどうであるかという描写や思考が語られずに、次第に語り手自身が「子どもたち」の中でどう在るのかが語られている。自己を省みるということは、「名前をもつこと」によって行われるのではなく、「俯瞰して、観察の対象化とすること」によってなされるのだ。
 自らが抱える異物と向き合うこと、自らそのものが異物であることへの気づき、この二点が軸になって書かれている作品だと読んだ。内容としては、実に個的であり、必ずしも読み手は同じ体験を共有できるわけではなく、読み手はどれくらいこの作品に参与できるのだろうか。いかなる作品にしても、作品の世界を追体験する必要があるわけではないが、個的であるからこそ、読み手の類推/想像力を喚起させる可能性があるのではないだろうか。「異物」の名前や症状は各々違ったとしても、「異物を抱える」という体験そのものは多くの読み手が経験し、感じうるものではないだろうか。もしくは、「自らが異物である」という感慨も同様だ。個的な体験の語りが、読み手の個的な体験を喚起させ、類推/想像によって、疑似的に体験を共有するということ。そして、読み手もまた語り手になって、個的な体験を語りうる可能性を感じた。このことが選考基準である「もっと多くの人に読まれて欲しい」と強く思えた点である。
 
2.作者はどこにいるのか
入沢康夫『詩の構造についての覚え書』における詩の読み方の一つの定義を示して、この作品を見る。上記の書において、入沢は「作者―発話者(語り手)—登場人物を分けて読む」ということを述べている。「ラブレター・トゥ・ミー」における発話者と登場人物は同一であるが、作者と同一であるとは言い切れない。では、この作品において作者はどこにいるのか。それは『ラブレター・トゥ・ミー』という題名にいるのだ。語り手が「異物」について語っている行為全体に『ラブレター・トゥ・ミー』という題名をつけたのが作者だ。あくまで作品世界を保証しているのは、語り手の語りであって、作者が語っているわけではない。しかし、語り手を躍らせ、語り手の語りや行為への価値判断≒命名を作者がすると「ラブレター・トゥ・ミー」になったということだ。これは、作者が語り手へラブレターを送っているとも読めるし、語り手が語り手自身にラブレターを送っているとも読める。しかしながら、「ラブレター」というものは、特定の他者に贈るものではないのだろうか。もう一つ、この作品における作者の行為を示すならば、語り手の語りを命名しただけではなく、B-REVIEWという掲示板で「ラブレター」をパブリック(公開)するということをしたのだ。このことと先述した、「個的な体験の喚起/類推/想像」を組み合わせるならば、作者でも語り手でもない、「個的な体験の喚起/類推/想像」ができた読み手もまた「ミー」になれるのではないだろうか。つまり、この「ラブレター」は単に「自分に宛てたラブレター」という意を越えて、「(パブリックになった語り手の語りによって個的な体験の喚起/類推/想像ができた)読み手に宛てたラブレター」とも言えるのではないだろうか。
 そういえば、かつて「ラブレター・トゥ・ユー」という作品があったことを思い返された。

3.おわりに――他6作品について
 ほぼ1週間かけて何とか書きました。しかし、読みづらい気がします。というのも、常体で堅苦しく、何だかまるでループしているかのように繰り返し同じこと言っているような気もして。ただ、これを読んで、何かしら感じ取ってくださる方が一人でもいたら嬉しいです。少なくとも、作者様に届くものがあればそれだけでもいいです。それぐらいの気持ちで個人賞を選んでもよいのではないでしょうか。誰が何と言おうと、僕はこの作品がいいと思ったことには間違いありません。
 個人賞を選ぶにあたって、無論迷った作品がございます。僕が投票+αした作品です。それらについてこのテンションで書いてしまうと修士論文並の長さになってしまいますので、本当に短いコメントで大変申し訳ないのですが、それでも、触れないよりかはよいかということでご容赦ください。

パスワードを忘れ続ける「彼方からの手紙」
 百均さんと夕狩さんと僕とで選考するとなったら、同じテイストのこの作品が評価されるだろうな、と一読して思いました。これは感覚的なものであり、根拠を示すつもりはありません。「思い出ばかりが増えていくんだ。世界をひっくり返してみても、もうそんなのどこにもないのにね。」に想いの全てがこもっていると感じました。つまり、思い出って、自分の外側にあるものじゃなくて、自分の内側にあるもので、だからこそ大切だとも言えるけど、それを他者に見せることは難しいし、忘れちゃうと共有できなくなってしまうこともあるよねって。だから、このフレーズって、ポジティブともネガティブともとらえることのできるなあと。

カオティクルConverge!!貴音さん「外れた社会から」
 匿名で投稿された作品ですが、文体で何となくわかります。9月に僕が丁度RPGゲームを用いた作品を書いたこともあり、丁度考えていたテーマに重なりました。RPGゲームに熱中しているわけではなく、「RPGゲームをやっている私とは」という俯瞰的で冷静的な語りが通底しています。多分、最後が綺麗にまとまっていて、すっと読み終えてしまったというところです。

n「放流」
nさんの作品は、「種子回廊」という作品にコメントを書いて以来気になっていました。劇的に何かが展開するわけではないのですが、淡々と、削って削って、磨いて書くタイプの人なのかなと勝手に思っています。僕はついつい盛り込みたくなってしまうので、逆だなあとこれまた勝手に思っています。「形を変えてやってきた/けれど同じ名前を唱える」という当たり前の行為だけど、よく考えると不思議なこと。人だって、花だって、鳥だって、それぞれの形や色や大きさが若干違っても、もしくは、時が経っても変わっても、その個的なものを同一視するということ。日常的にやっていることなのですが、これは一体何がそうさせているんでしょうかね。

AB「夜を歩く」
 正直に言えば、ABさんの他の作品のほうが好みだったりして。というのは、ABさんの作品は「まち」と「ひと」とが丁寧に書かれていて、その作品の世界に入って追体験したいと思えるのが、僕は勝手に魅力だと感じています。この作品では「ひと」に焦点をあてて語られています。コメント欄を見ると実に白熱しているのも興味深かったのですが、その中で起きていることは、「まち」についての議論と「ひと」についての議論と分かれているような気がしたんです。これは、ABさんの及ぶところではなかったと思うのですが、「ゆうおじさん」と語り手は、一体どんな「まち」にいたのだろうと思いました。(しかし、「まち」についても描写してしまうと、読み手の選択を狭めてしまう可能性もあるので、あとはABさんに委ねます!むしろ、固有性をもつことで、今回の選評のように、新たな語りを喚起する可能性もあるということで!)

池田伊万里「アザーサイド」
 百均と読み合った作品でもあって、語りは饒舌ながらも、多分書かれていないことも多く、意味深な作品だと感じました。読んでいるとむずがゆい感覚を覚えました。何か通じ合う部分があるようでいて、それでも、作品の中では語り手における絶対的な何かが起きていて、簡単に理解したとは言えないような雰囲気。何が「アザーサイド」なのか、この点についても読み手は考えなくてはいけないかもしれません。「生きていたいんだ/本当にそれだけなんだ」という率直な想いは、本当に率直で、まっすぐだからこそ訴えかけるものがありました。

紫音「いい星」
 精読してみたいと思わされました。「いい星」というタイトルがありながらも、「タマゴ」なんだなあと。僕が詩を書きはじめるきっかけとなった作品が、白石かずこさんの「卵のふる街」であったことを思い起こされました。最後が、語り手が自分なりに結論を見出していて、そこで綺麗にまとまっています。「しわくちゃな笑顔が最高に素敵なひと」という他者がいることを思わされますが、基本的にモノログで、ダイアログになっていません。自らに言い聞かせるようにして続くモノログがさらにどのように続いていくのかのでしょうか、その続きを読んでみたいと思いました。

 以上になります。異論、反論はあると思いますが、僕に対してそれらを述べる労力はもったいないと思うので、各々が各々の推しにぜひコメントをいれてください。各々の個人賞を決めてください。僕の推しの方々がこれからも書き続けていく一つの力となれれば幸いであり、また、各々の推しの方々もこれからも書き続けていただければ幸いです。

(批評文:なかたつ)

天才詩人賞
夜を歩く 」AB

 「夜を歩く」ということ。どこで読んだのか忘れたが日本では戦後15年を経た1960年代に都市部から「闇」が消え、夜が夜ではなくなった。そうしたなか筆者が生まれ育った離島では、夜はいまだ闇が支配する、「ゆうおうじさん」のようなトリックスター的存在の棲む世界として少年の想像力を深く揺すぶる時間だった。こんかい帆場蔵人氏の依頼で読んだ投票上位8作品のほとんどは、構成や文章上の技巧ばかりが目につき作品としての強度(作者にとって「書く」ということの必然性)を垣間見せることが少なく、ビーレビマジ大丈夫かよと突っ込みたくなる内容だった。

本作「夜を歩く」にしても文章や表現に拙さやあざとさが目立つものの、人物描写という点に関しては突き抜けたものを感じた。一読すると話の中心は「ゆうおじさん」という廃品回収を生業とする人物だが、タイトルが提示するように彼が40歳をすぎたころ人目を避けて夜に外を歩くようになる、というくだりに大きな重点が置かれている。

日本の都市部ではすでに消滅した夜=闇という空隙に身を隠して生きることが可能な「島」が舞台となっているわけだが、「夜」は島という限られた生活空間に生きる少年の目から見た、日常の論理では割り切れない不可視の世界、お金がなくてもロレックスの時計が買えたりポルシェと鉄くずか等価交換されてしまうようなグローバルな資本主義の論理が転倒した、人類学でいう「他者」性を帯びた領域として定位されている。

こうした「異界」と日常生活の空間を分けへだてる境界をマーキングするのが独特の節回しで唄われる「ゆうおじさん」の声なのだが、仕掛けとして凡庸なので、ここを工夫したらもっと面白いのではないかと。

(批評文:天才詩人)

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・月間最多投票数作品ならびに投票作品発表

なお、月間最多投票数作品並びに投票作品一覧は以下の通りです。

月期最大投票数作品 
「リベンカ」、「夜を歩く」、「 Alleluja」 4票

○投票作品一覧

リベンカ4票
夜を歩く4票
Alleluja4票
放流3票
いつものこと3票
Integrate3票
テレビ3票
彼方からの手紙3票
┣ 呼途波或疎陽 ┳ことばあそび┫2票
いちにく2票
M博士2票
スパゲッティマンの夢2票
自由律俳句 202009-22票
Anthology2票
ウルトラマリン2票
異母2票
治療と捜索-或る女-1票
ラブレター・トゥ・ミー1票
アザーサイド1票
1票
目覚めた┣月夜乃海花┳文字描き┫1票
外れた社会から1票
リュウグウノツカイ1票
手の鳴る亡霊1票
「鶴橋」1票
透明な世界1票
獅子の町1票
fog dream1票
INTERNET1票
はてなようせい1票
摘出手術をしよう!1票
沃野1票
嘘の石1票
ANOTHER MORNING1票
自由律俳句 202009-11票
最大収容数1票
針の鳴き声1票
野原叙情1票
不在1票
きりんのかそう1票
とうめいなみず1票
その微かな熱さえあれば1票
たぶん、タブー1票

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・雑感

  9月は旧選考の終わりを迎えるということでお祭り騒ぎになればいいと思い切って、ビーレビの先達や縁の深い方たちに選考委員をお願いした。 その後の経緯は総評にて語り尽くされているので省くことにする。司会として参加しただけの私の所感を素晴らしい批評文の締めくくりにすることは心苦しくもあるが少しだけ書かせて頂きたい。

 好きな作品、最も心を揺さぶられた作品、もっと人に読んで欲しい作品(ざっくりと書いているので若干のニュアンス違いはご容赦ください)を推すという9月選考委員の姿勢は10月から始まった新選考システムの在り方と奇しくもというか、必然的に近しいものになった。運営がそうなるだろうと目論んだわけでもなく好きな物を語る、というのは自然な流れなのだろう。その流れは新選考の先行きを明るい物に感じさせてくれた。新しい選考システムでぜひ、これを読むあなたが好きなものを、素晴らしい、心地よい、と思った作品について語り合って欲しいと思う。

(雑感 文責 帆場 蔵人)

以上で9月選考の発表とする。

2020.10.26 B-REVIEW運営/B-REVIEW選考委員 一同

「【お知らせ】9月選考結果発表」に7件のコメントがあります
  1. 大賞の二作が良い作品ということに変わりはありませんが、本当に「手紙」なのかという疑問はあります。タイトルに手紙とはありますが、本文を読んで手紙と断定できるのでしょうか。小説でいう「書簡体」とも違います。少なくとも私は読んでいて、手紙とは感じませんで、まあそれはさておき、一点だけどうしても気になったところがありまして、「レスを書くという行為が不毛」という考えには賛同できませんでした。以下、常体で失礼します。

    その作品を読んで感じたもの、考えたものを文章にトレースするという単純な行為ではなく、実際の行為は真逆かつ拡散的で、書くことにより、書かれたものにより、さらに考えが広がったり、新たな地平を見ることのできる可能性がある。こうやって書いている今の私だってそうだ。
    シンプルに言ってしまうと、書くこと自体に意義がある。そういう意味で、感想や批評文や返信を書くという行為は作品を仕上げることと同等かそれ以上に大切で、その作品の良し悪しに関わらず、作品に対して言葉を紡いでみることが、文章を書くことの本質に繋がっていると私は思う。

    このサイトの意向で批評文は良いと思ったものにしか書けないルールがあるが、あれを私はあまり良いとは思わない。良いか悪いかわからないもの、いわくいいがたいもの、悪いものにも積極的に言葉を紡げれば良い。そもそも感想で十分担えるのだから、批評文なんて必要かとの疑問(批評文ばかり書いている私が言える立場ではないが)もある。

  2. rさん

    コメントありがとうございます。
    おそらく総評の部分に触れていただいたと思っていますので、僕の方から返レスさせていただきます。

    >➀2つの作品は「手紙」という相互に影響を与え合う書き手と読み手の力学をテーマに扱っている題材であること
    >②手紙には読み手ー書き手という相互的な関係性が存在するが、その関係方向性がまったく逆の方向に伸びているということ
    >③そして、伸びている方向性つまり「宛先」が真逆であるのに読み手の心を強く動かす力を持っている事には変わりがないこと

    僕が一旦書き出した「手紙」というメディアの特性という部分については上記の通りだと思っています。もちろん、総評として切り出す時に単純化している部分があると思っていてその点については、個人賞の選評或いはコメント欄のコメントで補完されているのかなと思うので、総評ではかいていません。

    そして、ここら辺に認識の齟齬があったら申し訳ないのですが、僕も手紙そのものの形式的な要素が大賞2作に共通する要素ではないと思ってます。これは、僕の解釈が多分に入っている所でもあるので=三人の総意という訳ではないのですけれども、手紙のやり取りっていうのが特別感の産む要素と、それから手紙が正に手紙文学みたいな言い方をされる意味合いっていうのは、手紙という概念そのものが、文学としての相性がよく、またその形式自体に豊穣な役割と機能があるからだと思っています。手紙という形式で僕がぱっと出てくる文学作品は夢野久作の「少女地獄」ですが、その作品は語り掛けの要素がいいパンチを聞かせており、「彼方からの手紙」で特に手紙の要素を強めているのは、語り掛けの文体がある意味で手紙らしいという点です。また、これは話すと長くなってしまいますけど、とはいいつつも彼方からの手紙には明確な宛名がなくて、でも誰かに語り掛けている。「ラブレター・トゥ・ミー」については、僕は最初読んだ時に手紙というよりは日記調であって、読んだ感覚としては「アンネの日記」みたいな感じで、自分のみに向けられた個人的な語りを読み手が覗き見る事によって生まれる共犯関係の要素が強くないかとも思っていました。が、その点についてはなかたつさんの個人賞の中で語られていると思うし、結果的に今の僕の読みとしては、この作品は見た目として手紙っぽくないけれども、最も手紙であるという矛盾を達成していると考えています。そういう意味で2作品共に共通する要素については手紙という概念ではある意味不十分で、ツェランの示した「投壜通信」という詩的概念が適切であろう、という意味で提示した次第です。

    >「レスを書くという行為が不毛」という考えには賛同できませんでした。以下、常体で失礼します。

    >その作品を読んで感じたもの、考えたものを文章にトレースするという単純な行為ではなく、実際の行為は真逆かつ拡散的で、書くことにより、書かれたものにより、さらに考えが広がったり、新たな地平を見ることのできる可能性がある。こうやって書いている今の私だってそうだ。
    >シンプルに言ってしまうと、書くこと自体に意義がある。そういう意味で、感想や批評文や返信を書くという行為は作品を仕上げることと同等かそれ以上に大切で、その作品の良し悪しに関わらず、作品に対して言葉を紡いでみることが、文章を書くことの本質に繋がっていると私は思う。

    この点については、僕も基本的には同意している箇所であって、この評分の書き方として、最初に印象付けるために「レスを付ける行為は不毛である」と書いた所があります。僕がここで言いたいことは寧ろ逆で、レスを書くという行為と作品を書くという行為は常に隣り合わせでどちらも重要であるという事です。ですので、B-REVIEWのこれからの船出にとって本選評がいいものでありますようにという願いを込めた事や、「あなたの書いた作品や、レスが我々選考委員の心を動した事と、何も変わらないのだから。」という文言は最初に提示した「レスを付ける行為は不毛ではない」という言葉を否定する終わり方で締めました。また、僕の個人賞で作品と推薦文を同時に推した事は、レスを付ける行為に対して十分な価値を感じている事の現れだと考えていただければと思います。

    もう一度、この件について語りなおすのであれば、書いた本人にとってはいいことになるのは間違いないです。ただ、そこで終わってしまう側面があるとも思っていて、ネット詩を広く見渡してみて僕が思う事っていうのは、僕がネット詩にはまった最初の切っ掛けはある方の書いた選評でした。でも、その選評自体を見返して、いいなという言葉を投げかけた人っていうのはどこにもいませんでした。すくなくともネット上のコメントとして残っているものはなかった。(個人間の通話等のやり取りであれいいよねみたいな話はできたことあるけど)簡単にいってしまうと、レスは書かれたら書かれた瞬間のやり取りの中で感動や学びや議論を生みますが、そこで全て終わってしまうという事。その点について不毛だなと思いました。大賞作品として選出されたり、作者のファンが作品を追いかける事はあったとしても、レスを追いかけて読む人タチはネット上でそこまで見つかりにくく、また再び語られる事が少ないのではないかと思っています。(心の内側では感謝していたり、そのレスが好きでおいかけてている人というのはいるだろうと思いますが)

    そういう意味で、読み手というのは大切な存在であるけれども、その読み手に対して、ちゃんと目を向けてきた場所ってあったのかなとは思っています。行ってしまえばちゃんと読もうとしている読み手に対して(これは努力だとか感情の大きさだとかっていう話でもない。その評がちゃんと誰かに届くのかという事と、参照性を持ち合わせているのかという話になる)誠実であった場所ってあったのかという疑問が「レスを付ける行為は不毛だ」という一言にはつまっています。

    決して分かたれてはいけない、書き手と読み手の共犯関係を個人間の感情のやり取りで納めてしまうのであれば、僕はそれこそ掲示板でやり取りして毎月作品のみを賞賛する仕組みってなんかよくわからないんですよね。なんか作品を書く作者が偉いみたいな図式にどうしてもなってしまうし。そういう仕組みがこれからのB-REVIEWではちゃんと壊れていくと思っているので、rさんへの回答としては僕は不毛だとは思っていません。ただ、過去のネット詩の在り方でレスを付けてきた人たちの残してくれた功績を評価する枠組みってどこらへんまであったんだろって意味では不毛だったと考えています。多分ですけど、B-REVIEWの7月の選評とか、ちゃんと最後まで読んだ人ってどれくらいいるんでしょうね? あれだけの言葉の労力が割かれていながら、あの試み自体をきっちり評価している人ってどれくらいいるんでしょう。

    >このサイトの意向で批評文は良いと思ったものにしか書けないルールがあるが、あれを私はあまり良いとは思わない。良いか悪いかわからないもの、いわくいいがたいもの、悪いものにも積極的に言葉を紡げれば良い。そもそも感想で十分担えるのだから、批評文なんて必要かとの疑問(批評文ばかり書いている私が言える立場ではないが)もある。

    批評文については、僕は重要だと思っています。感想でのやり取りというのは作者ー読み手感の中に生まれるリアルタイム感での言葉のやりとりだと思っていて、もちろんチャット形式程の即効性はありませんが、しかし、読み手が書き手の作品に対して色々な読み手の読みを参照し、また、作者から開示された展開された読みを付け加えることによってさらに読みの深度を深めて行ったりあるいは引っ張られていって誤読してしまう場所だと思っています。

    批評文は、今rさんから指摘をこうしていただいているように、作品と同価値をある意味を産む形式であると思っていて、それは、その読み自体が一つの解釈という論理性を持った作品の側面を持ち合わせるという事だと思っています。僕は、一方的な賞賛や批判というのが嫌いです。評価を下すという事はそれこそ相対的に置かれた何かしらの主軸になるような価値観があると思っていて、それらと比べた時に何がどう優れているのかを提示すべきだと思っています。そうじゃなければただの感想になってしまいますし、それは読み手が感じた自分の中で客観視できていない感情の現れだと思うからです。

    ですが、僕は上記のような評価方針が全てではないと思ってもいます。この選考を通じて僕が一番思ったことは、読み手がその作品に対峙した時に何を思ったのか、どういう所に心を揺さぶられたのか、つまりナラティブな感情を、淡々と言葉に書き起こしたものを読みとして提示する事です。それは相対的な評価ではなくて、絶対的な評価を主軸とした感想であって、平たくいうと、一番その作品にとって相応しい読み手が読むという事です。これは明確な定義が出来ない事ですし、どういう因果で誰が見つかるのかはわかりません。ただ、印象による批判程度であれば、作品の読み方がひっくり返ってしまう事はたやすく起きるかなと思っています。そういう事が多分推薦文の投稿によって果たされれば僕はいいんじゃないかなと思いますし、コメント欄でのやり取りとは別の意味を持ちうると思っています。

    また、これは僕の所感みたいな所もあるのですが、作品に対して批判を加える事に対して、僕はどっちかっていうと懐疑的ですね。批判をするというよりは、素直にこの作品はよくわかりませんでした。みたいな印象や感想くらいが、関の山かなと思っています。やるんだとしたら、声をベースにした合評会でバトルするのが手っ取り早いし、その方が誤解も生まないし効率的だと思います。

    こう書いてしまう事の理由ですが、正直なところ大体の作品って多分多くの読み手にとってつまらないと思っています。面白い作品であれば、多分感想を書きたいってみんな思うので、pv数あがったり、コメントが滅茶苦茶付くので大体一目で付くように思います。

    という訳で、道行く人に自分の作品を出しても大体素通りされるのが当たり前だと思いますという前提があると思っていて、結果的に一番残酷な行為っていうのは作品が読まれない事だと思います。その多くを占める感覚について議論していく中で削がれていく物や鍛えられていく物はあると思うんですがそれはあくまでも添削教室で達成されるような要素が多い気もします。というよりはむしろ、その作品に向けられたナラティブな感情によって、その内部に宿った秘密を開示される事の方が書き手に強いインパクトを与えるかなとはおもうんですよね。そしてそのインパクトがそれまでこの作品よく分からんと見過ごされてきた作品を再評価する事にもつながっていく。

    みたいな感じでしょうか。一旦はこんな感じで返事を終えようと思います。

  3. 百均さん
    返信ありがとうございます。

    たくさんのことを考えさせられました。
    なので、まとまっていないまま、書いていますので、読みにくくなると思いますが、ご了承ください。

    書き手、読み手、それぞれが紡いだもの、すなわち作品、そして批評、百均さんはこれらが読まれないことや、残らないことに関して、すこし残念だというようなことを言っているのだと思います。

    この考え方は、あくまでも「外からの評価」を重視するものであって、書き手と読み手自身、つまり内的評価のことではない。
    これはたんなる価値観の違いなのかもしれません。
    私は「外からの評価」などは副次的なものというか、あまり必要としていません。大切なのは、自分が書き手なら、たとえ誰からも感想がもらえなくとも、PV数が低くとも、自分が納得できるような作品を書くことを最大の目標にしています。これは批評においても同様です。だからここの賞に選ばれようが、公募に受かろうが、自分の内的評価が低ければ、それはだめなのです。

    だったらチラシの裏にでも、一生書いていればいいじゃないか、といわれるかもしれません。事実、そういう時期もありました。でもこういうサイトに参加することによって、意識が活性化される。いろいろな人の話し声に耳をすませたり、こうやっていま百均さんと意見交換をしたり、そんな諸々のことで、楽しかったり、飽きたり、暇だから覗いたり、まあそんな感じで利用させてもらってます。感謝です。

    なんだかだいぶ横道に逸れたかなと感じますが、意見交換が的を外さず的確に行われるほどこと、つまらないことはないと思います。何言ってるかわからなかったら申し訳ないです。

  4. 百均さん
    もしこれを読んでも、上に書いたことと、ここにこれから書くことへの返信もしないでください。お願いします。

    これからはチラシの裏に書くことにします。
    元々他の人に見てもらうことに興味がない。
    そして、外的評価に影響されるという害悪を私は少しでも感じてしまうんだなということに最近ようやく気づきました。

    本当に短い間でしたが、ありがとうございました。

  5. ネタばらしではないけど、こういう風に後語りすることで何かを選ぶこと、何かを批評することについてもっといろいろな方と色々な話をしてみたいな、と思ったのでつらつらと書いてみます。

    まずrさんが仰るように大賞に選ばれた2作品は事実、作品形態として手紙であるとは言えないと思います。実際僕もとりわけてそういう意識で選んだわけではないです。

    つまり「手紙だから選んだ」のではなく「選ばれた作品がたまたま手紙を題材にしていた」というほうが実情に近いかな、と思います。でもそんなこと言うと百均さんの書いている「大賞作品が2作品だったのには、大きく3つの理由がある。」にかなり矛盾するのではないか、と選考を客観的に見ている人には映るかもしれないですね。

    思うに、作品形態としての手紙ないし書簡体ではなく、大賞受賞作が持つ読み手と書き手の相互的な関係性にこそ両作品の「手紙的」な側面があるのだ、というのが百均さんの仰りたいことだろうと推測しますし、僕自身もそういう風に考えています。
    ただそう言ってしまうと当然乍ら「ほかの作品には読み手と書き手の相互的な作用が無かったのか」という疑問にたどり着くでしょうね。これに関して、より率直に言えば、そもそも「手紙的な相互作用があるから、この作品は優れている」というのには若干欺瞞じみたものを感じます。

    結論から申すと、僕個人の考えでは「手紙的な相互作用があるから、この作品が優れている」と決めたのではなく、まず心を揺さぶられた作品があって(僕の場合は『彼方からの手紙』)その言語化できない感動なり心の揺れ動きを説明するのにちょうどいい言葉が「手紙」というキーワードだったんじゃないか、と言うことですね。

    つまり、「この作品が優れているのはこうこうこういう理由だから」というものではなく「この作品は優れている、なぜならこの作品は優れている(手紙的側面がある)から」というトートロジーを言っているだけではないか、ということです。これが先ほど述べた「欺瞞じみたもの」の正体です。

    さて、ここで問題になるのは。そもそも選考が欺瞞以外の何かでありうるのか? という問いですね。
    この問いに「欺瞞以外の何かでありうる」と答える方は「作品には相対的に優劣を決めることが出来る基準があり、(投稿者よりもレベルの高い)選考者が作品ごとの「レベル」をチェックし一番高いものを表彰する」というスタイルなのだろうと思われます。多分天才詩人さんの評はこのスタイルに近いのではないかな。僕も昔はこのスタイルを便宜的にとっていました。
    一方でたぶん今回大賞選考にあたった3人はこの問いに「ありえない」と答えるのではないかな、と考えています。つまり選考って「自分が好きな作品を公の場で皆様にとって価値のある作品ですよ」と喧伝することでしかないし、それって矛盾なんですよね。端的に言い換えると「自分のスキを、みんなに押し付ける」矛盾です。

    選考をすること、選ぶことの中に矛盾を感じているからこそ、「欺瞞」でしかその理由を語り得ないという構図に陥るんですよね。僕も同じ立場なので、百均さんがある種欺瞞めいた語りで「自分のスキ」を正当化せざる得ないことには同情します 笑

    ただ、同じ立場だからこそこの欺瞞を提出することに「正当化」以外の意味も見出してしまうんですよね。ようするに、自らの選択や感情というどこまで行っても自分の中にしか存在しないはずのものを、せめてこれを書いている自分と、読んでいただける他者との関わりにおいて何か意味のあるものとして、価値のある言葉として、実ってほしいという祈りなのだろうと思います。

    まぁちょっとロマンチックな解釈ですが
    おそらくrさんが「外的な評価」と「内的評価」という言葉で表現したいものもこの範疇にある衝立ではないでしょうか。

    作品の価値をパブリックに語ることの矛盾は何処までいってもつきまとうと思うのですが、それでもなにかを語ること、ないし語ろうとすることに僕が今でも少しだけ意義を感じるのは、書き手と読み手の関係性においてのみ発話することが許されるような架空の怪物のような存在をイメージしているからなのかもしれません。

  6. r さん
    あしやさん

    コメントありがとうございます。
    返信が遅れてしまい、申し訳ありません。

    本当に返信って難しいんですよね。
    今回僕も掲示板で自分の作品の返信にもここにも所謂マジレスを返したし、総評も自己矛盾に何度もぶつかって死にたくなりました。この返信を返すために仕事は手につかなくなり、色々な刺激から答えを探ろうとして普段数千円もする本なんか買わないんですけど衝動的に買っちゃいましたしね。

    という訳でrさんのお願いはごめんなさい。無視しちゃいますね。僕もこうして書いている言葉自体が不毛だなってやっぱりどうしても思ってしまうし、これはあしのさんには見抜かれちゃったとは思っててくっそーと思ってますけど、あの総評を書く時に選んだ文体そのものや物の言いまわし自体が欺瞞に溢れていて、その欺瞞を隠す為の虚飾でしかなかったりします。という言い訳を書いたところで、ああいう書き方をしたのが本当に分からない。というか今度自分のnoteアカウント作って自分の選評の下書きみたいなの公開しとうとしてるんですが、そんなの全部無駄で、自分の中で納めておけばいい物語なんだろうなとずっと引っかかっていて、その結果もう出来上がっている文章一つ碌に公開する勇気や意義自体を見失っていたり、それでもしたいと思う自分もいて常にぐちゃぐちゃです。

    でも、ぐちゃぐちゃになって誰かに言葉を突き出すっていう行為の果てでしか僕はもう何かを読んだり書いたりする事に、根源的な意味合いでの意味を見出せなくなってしまった。虚構という概念はずっと僕の中に寝ずいていていまだにポストモダンを引っ張ってるガキでしょうもないなと思ってはいるんですけど、それらをはねのけていく無駄や意義か何か、是枝監督の本に書いてあった言葉を引用すれば「両論併記に逃げないこと」ですね。常に戦うしかないという事です。って言ってしまうと、それ自体の言葉に縛られてしまって身動きできなくなり、苦しくなってしまうとは思うのですが。

    それは安易な弁証法に逃げない事でもあると思っているし、単純な極論が指し示す、二項対立的な分断や全ては虚無であるから何をやっても無意味。人間の意志は無意識に縛られているからそこに答えを見出すのは無意味。みたいな考えで全てが終わってしまって、何もしなくていいじゃんという回答の上でこういった人間の営為自体が本当に下らなくなってしまう事が僕はつまたないからだと思っているからだと思います。

    後はここら辺はまだrさんにはお伝えてしていなかった事ではありますが、この総評の「手紙」の部分については、実はあしやさんから一回僕が総評を書き上げた時にレビューしていただいて、修正した箇所です。最初に僕が書いたものでは、理由の部分を「手紙を扱っている作品だから」といいう風に書いており、その「手紙」という要素が一体作品や読み手の読みや、選考会という矛盾を突き付けあう場所において、何をもって大賞という矛盾を選び出すに至ったのかその経緯が読み取れない状態でした。

    その点をあしのさんに言語化していただいたんですよね。また、あしのさんには、僕は投壜通信という言葉で表した箇所について「約束」という概念をあてはめておられていて、その点で僕はまたあしのさんに嫉妬しましたね。僕がどれだけ一生懸命かいたとしても、それよりも僕の中に納得してしまう概念があったら僕の全ての細胞が感動して、自分の中になかった思考をいやおうなしに取り込んでしまう。この拒否感と多幸感のあり様はとても苦しくて、美しい物感情ですね。それがあるから、僕はこの選考会という矛盾を最後までやり遂げられたとは思っています。

    という訳で直接的な返信にはなってないと思うし、僕が総評を書いた事で、また僕の返事がrさんをここから立ち去らす為の要因として機能してしまったのであれば、僕の全ての行動が正に不毛であったという事になります。この点は僕からいえる事なんて物はなく、また、ここを去られるのはrさんの自由であるし、ただの僕の感情として申し訳ないという気持ちがあふれてしまうだけではあるのですが。

    という訳で最後にこうして返信を書かせていただきました。
    これがrさんやあしのさんにとって、唾棄すべき言葉になってしまうかもしれないとは思うし、こうして書いていても僕自身の力の無さで無力感しか出てこないです。けれども、こうして正直にもう一度、あるいは何度でも語りなおしていくこと、その結果として僕の中の偏見が破壊されたり、自分の事を客観視できた時に、それらが鏡となってこのやり取りを読んでくれた方に届いたらそれはbreviewの中に溜まっていくナレッジとなると思うので、思いっきり書かせていただきました。

    一旦このような形でかえさせていただきましたが、これをご覧になっている方で、誰かの返答をもらいたいわけではないが自分の考えを整理するためにコメントを書きたい。あるいは、総評に対して何か思う事があるので、なんとなく感想や批評を書きたいという方がいれば書いてほしいです。僕はまたそれを読んで考えるだろうし、それが多分読んだり書いたりすることが趣味やファンタジーに浸る事以外の何かを、それを僕は不毛だと言ってしまったのかもしれないですが、この掲示板でやり取りをしていく事につながると思います。というか願っています。

    そういう意味では、この選考会っていうのは、僕がネット詩に関わって初めて、大賞作品を選んだ事実ではなく、大賞作品を選ぶ事にフォーカスの当たった、そういう意味で投稿作品と本気で向き合ったという感触を得られた時間でした。そしてこれは、だからといって、これまでのネット詩の選考の在り方を批判している訳ではないというのは言っておきますね。両論併記的な語りではなくて、やっぱり今回の選考会はこの2作から導き出された選考委員の感想が全てだったっていうだけなんですよね。

  7. このたびは9月度の大賞に選んでいただきありがとうございました。

    わたしにとって詩を書くことはあまり楽しいことではなく、それでも書いて投稿しようと思ったのは、百均さん、芦野さん、なかたつさん、天才詩人さんの四名の方が選考委員をすることがきっかけでした。おそらく四名の方が選考をしなかったら「ラブレター・トゥ・ミー」は書いていないと思います。そういう意味でも、選考委員の方々には非常に感謝しております。

    また、大賞うんぬんよりも、このくだらない作品を何度も読んでいただき、批評を書いてくださったことが何よりうれしかったです。詩の世界は、書き手はたくさんいるにも関わらず、読み手が非常に少ない場所だと感じています。それは書き手の責任であることは重々承知しておりますが、その事実にときどきくじけそうになります。けれどこういう読まれる奇跡が起こるたびに、まだ自分が持つ「ことば」がちゃんと機能するかもしれないという妄想を信じることができます。それが良いことがどうかはわかりませんが、最近はこのままでもいいのかなと思い始めています。

    書くこと、そして読まれることについてのはっきりした答えは出ていませんが、作品のなかでずっと問い続けたいことではあります。こういった場所できちんとはなしをすることは苦手なので、あらためて作品のなかでお話させていただきたいと思います。

    このたびは本当にありがとうございました。そして、パスワードを忘れ続けるさんもおめでとうございます。とても素敵な作品だったので、並んで表示されているのがとても恥ずかしいです。そして、もうパスワードを忘れないといいなと思っています。

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