夜を歩く - B-REVIEW
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PICK UP - REVIEW

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駆け抜ける風を感じて

ピム

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言語と身体のきしみ

緘黙のぼくは祖父母の目の前で伝記を破ることにした。

r

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食べ物と死ぬ人

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数ある一行詩の中でも、想像力/表現力がとても高い作品。最初は(え、これだけ?)と感じることだろう。しかし、これだけ?からの作中世界の広がり方は、これだけ?発言が恥ずかしくなるほど広すぎるのだ。

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ふじりゅう

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夜を歩く    

夜を歩く はるかあとおくうのお かぜのおむこおにい きてきいのおおとのお ちり〜ん と ゆうおじさんのリヤカーが通り過ぎる ゆうおじさんのリヤカーには ぽるしぇ と書いてある 僕らはそれに911と書き足した ぽるしぇには最初 鉄くずが乗せられていた そのうちそれは空き瓶や空き缶になったり 古新聞なんかにもなった 四十過ぎてからは何に気を使ってたんだか 夜に歩くようになっていた その頃から腕にはロレックスが巻かれ これはどうやら本物らしかったが おじさんは ひろおたひろおた と自慢げに言った 道の真ん中で寝て三回ひかれたという噂 ドロボーケイカンで捕まったら電信柱に縄で縛られるという噂 くずひろいで豪邸を建てたという噂 子供の頃から一人で生きているという噂 これは嘘 ゆうおじさんはうちの親戚で でも友達には言えずじまいだったなあ ゆうおじさんのぽるしぇは どこまでも 島の端から端までも走っていくという噂 は 本当じゃないかと思う それから また道の真ん中で寝てしまった はるかあとおくうのお かぜのおむこおにい きてきいのおおとのお そのむこおからあ もおすぐうはるがあ やあってくるうやもおし やもおうしれましえぇんん ちり〜ん 今でも ゆうおじさんのぽるしぇは 夜を歩いている

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作成日時 2020-09-05
コメント日時 2020-09-09

夜を歩く ポイントセクション

作品データ

コメント数 : 38
P V 数 : 1916.0
お気に入り数: 6
投票数   : 0
ポイント数 : 35
#現代詩 #縦書き
項目全期間(2020/11/24現在)投稿後10日間
叙情性104
前衛性31
可読性31
エンタメ31
技巧72
音韻61
構成31
総合ポイント3511
 平均値  中央値 
叙情性2.51.5
前衛性0.80.5
可読性0.80.5
 エンタメ0.80.5
技巧1.81
音韻1.50.5
構成0.80.5
総合8.84.5
閲覧指数:1916.0
2020/11/24 14時52分33秒現在
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    作品に書かれた推薦文

夜を歩く コメントセクション

コメント数(38)
羽田恭
作品へ
(2020-09-05)

>はるかあとおくうのお かぜのおむこおにい >きてきいのおおとのお そのむこおからあ >もおすぐうはるがあ やあってくるうやもおし >やもおうしれましえぇんん 最初何を書いているかわからなかったのですが、喃語がかった子供の言葉ですね。 とすると、いい表現だと思いました。 感情があふれるというか。 ゆうおじさんみたいな人は自分が子供の時にすら見当たらなかったですが、親が子供の頃は多かったでしょう。 体験してなくても、懐かしさを感じさせます。 良い作品です。

2
原口昇平
作品へ
(2020-09-06)

羽田さんが「喃語がかった子供の言葉」と捉えたものは、実際には何らかの歌詞だと思われます。 遥か遠くの 風の向こうに 汽笛の音の その向こうから もうすぐ春が やってくるやも知れません このように書いてしまうと「ゆうおじさん」が気持ちよさそうに歌っていた感じがうすれてしまいますが、ともかく77/77/775のリズムをとっていること、また歌詞に「汽笛」が含まれることから、この歌は昭和初期から中期にかけて流行した歌の中に実際にありそうなものであることがわかります。ただ歌詞データベースで検索しましたところそれらしきものが見つかりませんので、これは「ゆうおじさん」が何らかの節に基づいて大部分を自分なりに歌い替えたものかもしれません。 この歌はおそらく「島」の歌ではなく、また歌詞としても「島」から見た境界の向こうから来訪するものを表現しています。そしてそれを歌う「ゆうおじさん」は逆に「島」の中にあってモノとしての命を終えたものを境界の向こうへと運搬していく存在であり、いわば異界との間にいる(マージナルな)存在として描写されています。現在では粗大ごみ、びん、かん、古新聞などは自治体に委託された業者以外は勝手に持っていってはいけないことになっていますが、かつてはその取り締まりがそこまで厳しくはありませんでしたから、「ゆうおじさん」のような存在はこの「島」に限らずどこのコミュニティにもほとんど必ずいたでしょうけれども、高度経済成長期以降の社会の変化の中で次第に見られなくなっていったことでしょう。現代はあらゆる境界が失われていく時代であると赤坂憲雄が指摘したのは1980年代後半のことだったかと思います。まさに私が言葉を覚え始めたそのころには、少なくとも私のコミュニティにはそうした存在はもう見かけなくなっていました。まして、通信技術の普及と発展の中では、その記憶すら多くの人から失われかけていることでしょう。ABさんのこの詩は、話者を通じてそうしたもういなくなってしまったマージナルな存在を記憶の中に立ち上がらせるという点で、民俗学的な記録を詩作品に昇華した一篇であり、「ゆうおじさん」が実は話者自身の縁者であることが明かされているように、そうした存在が身近な暮らしと地続きのところにいたということを私たちに証言するものです。

2
羽田恭
原口昇平さんへ
(2020-09-06)

なるほど! そこまで頭が回りませんでした。確かに、何かの歌と考えた方がよさそうです。 先月の作品でも沖縄の童謡を明言せず引用していましたし。 >話者を通じてそうしたもういなくなってしまったマージナルな存在を記憶の中に立ち上がらせるという点で、民俗学的な記録を詩作品に昇華した一篇であり、「ゆうおじさん」が実は話者自身の縁者であることが明かされているように、そうした存在が身近な暮らしと地続きのところにいたということを私たちに証言するものです。 民俗学的視点、という発想もありませんでした。 そういう意味でも良質な作品ですね。

0
AB
羽田恭さんへ
(2020-09-06)

羽田さん お読みいただきありがとうございます。 そう、歌なんです。即興の適当な感じの。 でも、最初に感じてもらった幼児の鼻歌みたいな感じの発声も、 ある世界観ができていいのではと思います。

1
AB
原口昇平さんへ
(2020-09-06)

原口さん お読みいただきありがとうございます、 んん、そうだったのかぁ、と納得してしまいます。自分で書いたものなのに。 確かにおじさんはどこか向こうの世界とつながっていたのかも、とか。いや、つながりたいのは僕の内心なんだろうとか、気づかされたような感じです。

0
AB
作品へ
(2020-09-06)

羽田さん、原口さん 無粋ながら、、、 実際のモデルはいました。1975~1985年ぐらいのことです。沖縄と特定したくなかったので、島の言葉は入れてません。 現在でも、国道の鶴見~蒲田間では、リヤカーや自転車で山のようなアルミ缶を運ぶ人を見かけます。その一部の方のお住まいは多摩川河川敷かな、と勝手に想像しています。Kgあたり100円ぐらい稼げるのかな? 排気ガス0のエコなお仕事。 でも、おっしゃるように、日ごろの住宅街では見ないのかもしれませんね。

1
花緒
作品へ
(2020-09-07)

本作に描かれているような都市の辺境を象徴するかのような人物って新宿西口とかでたまに見かけるよな・・と思いました。マージナルな存在自体は確かに面白いのですが、本作は描写や音が凡庸で、叙情を浮かび上がらせるまでには至っていないとの印象も受けました。

0
原口昇平
ABさんへ
(2020-09-07)

ABさん、私が東京で最後にそうした人を見かけたのは2010年前後でした。未明、論文を書いているうちにおなかが空いてしまったのでコンビニへ行こうとして自宅を出ると、老人が暗いうちに自転車に乗ってどこからともなくやって来て、資源ごみ回収のため早くに出されている缶を集めて去っていきました。もちろん今もどこかにいるのかもしれないのですが、現在の地元では取り締まりが厳しいためか、徹夜での仕事明けに未明に外へ出てもそうした人を見かけることはありません。 ともかくそうした人と違って本作における「ゆうおじさん」は、コミュニティの中に露出していて、かつ誰かとつながっていて、やりとりもあります。これは地域や時代の違いなのだと思われます。多くのコミュニティでは、おそらく80年代後半からこうした露出や関係やコミュニケーションが減っていったのではないでしょうか。「ゆうおじさん」が夜に歩くようになるころがその境目かなと私は思いました。

0
原口昇平
花緒さんへ
(2020-09-07)

花緒さんが新宿西口で見かける人物がコミュニティとどのような関係を持っているのか私にはわからないのですが、私が最近今の職場のある西口の高層ビル街に通うなかでそうした人物を見かけたことはありませんでした。 ちなみに、新宿駅西口の路上生活者たちはいちど前世紀の終わりごろに警察と行政によって大規模な仕方で追い出されていて、そのうち少なからぬ人々が2000年ごろに上野駅周辺へ移ってきました。それで上野公園内にブルーシートのテントが増えていたのです。当時その人々は地域のコミュニティに入り込むというよりはむしろ自分たち自身のコミュニティを形成し、数人の元締めのような人たちの下で、日雇い労働にありつけないときにはそれぞれ駅のごみ箱から古雑誌を集める役や公園内でそれらを広げて安価で売る役などを担って生活をしていました。もっとも街との関わりはうっすらとあって、例えば私は上野公園を抜けた先にある大学へ通いながら、新入生歓迎会の花見のときなどに、元締めのような人と話をつけていました。周りに学生の手荷物を狙って集まってくる人がいたので、元締めに飲食物の一部を渡す代わりに彼の部下に守ってもらうという取引をしていたのです(もちろんマッチポンプの可能性もありましたがそうすることが最も無難だったためその選択をしていました)。ただそうして自分たち自身のコミュニティを形成しながら街と関わっていた人々も、2010年代前半の公園再整備にともなって行政によって追い払われてしまい、ブルーシートのテントも見かけなくなってしまいました。新宿駅西口のほうでは、その後路上生活者たちは増えているのでしょうか。どのように街と関わっているのでしょうか。少なくとも、ABさんがこの詩に書いたような形ではないのではと想像しているのですが、花緒さんはご存じですか。 また、花緒さんがいう「叙情」とは何なのか私にはさっぱりわからないのですが、何のことをおっしゃっているのでしょうか。「描写や音が凡庸」とおっしゃいますが、それでは「凡庸」なまでに普及しているというこうした存在の描写の例を挙げてみていただけないでしょうか。そういうものがあるのだとして、それは最近書かれたものではないのではありませんか。私はこれが今において書かれているということに特に意義があるのではないかと考えています。例えば、とりわけ前述の上野公園がある台東区が、昨年10月、極めて猛烈な台風がやってきたときに、路上生活者の避難所受け入れを拒否したあとの今において。

0
藤 一紀
作品へ
(2020-09-07)

こんにちは。おじさんがリアカーを引きながら歌っている様子と、リアカーを引いていたおじさんを思い出す「僕」のなかで現在聞えている歌と、両方の歌が聞えてくるように感じました。そうした奥行きと、広々とした空気感のある作品で気持ちよいです。

2
花緒
原口昇平さんへ
(2020-09-07)

民俗学的な記録、というところに拘泥しておられる印象ですが、それは原口さんの読みであって、私の読みではありません。ここで描写された方と極めて酷似する方が今も新宿にいるか否かなど私にとってはどうでも良いことですし、本作の評価に影響させるべきことと思っていません。 「都市の辺境で生きている」ような感覚を想起させる存在は現在でもあるでしょう。最近だと、コンビニでお弁当買って来てください、と道行く人に話しかけ続ける叔母様が新宿で目撃されているそうです。本作に描写された例 とは異なっていますが、目撃した人間が覚える感覚には共通する物があると私は考えます。 ちなみに、釈迦に説法かもしれませんが、対象が稀有な物であるか否かと、描写が凡庸であるか否か、は全く関係のないことではないでしょうか。 詩に民族学的/社会学的記録価値を持ち込むのは読者の自由ですし、それが本作に対しては豊かな読みなのかもしれませんが、誰もがそのように読むべきこととも思えないところです。 全ての論点を網羅してはいないかもしれませんが、差し当たり上のように返しておきます。

0
ふじりゅう
花緒さんへ
(2020-09-07)

作品を読んだ後コメントを拝読したところ、やり取りが活発であったため嬉しく思っております。ひとつ疑問に思うところとして、「本作は描写や音が凡庸で、叙情を浮かび上がらせるまでには至っていない」に繋がる背景が不明瞭であると考えています。無論、背景を完璧に的確に伝える必要性は私はないと思っていまして(それこそ釈迦に説法な話となってしまいますが)、例えば「お前の母ちゃんでべそ」という批判に対して「いや、でべそではありません」に加えて、自分の母親のへその写真を懇切丁寧に送る必要がないのと同様に、誰が見ても明らかな事実や、明らかに背景など明確にしなくとも良い場合にいちいち書くことの無為を理解しています。 とはいえ、本作においては、少なくとも私は楽しんで読むことができたところ、また、他の方も楽しんで読まれた方が複数いらっしゃるところ、それなりのご説明が求められるのではなかろうかという立場です。 転じて本作の評に移りたく存じますが、私としては、作品の骨子が面白く思いますし、「ぽるしぇ」の文字が、愉快な内容ではないにも関わらず愉快に聴こえてくる点を評価したく。逆に、ゆうおじさんが実は主人公の親戚であるという特殊な事情が語られますが、それを「友達に言えずじまいだった」ということを懐かしむに留まっており、もう少しここを切り込んで書いてみてもいいのかもしれない、と思いました。友達から、実は親戚であるゆうおじさんに対して様々な噂が囁かれる状況となれば、主人公としてはかなり複雑な心境に至るのではないかと思っていまして、「友達」とあることから、年齢も若いことが想像できるためであります。

2
花緒
ふじりゅうさんへ
(2020-09-07)

「本作は描写や音が凡庸で、叙情を浮かび上がらせるまでには至っていない」 という私の書きつけた一行が妙に論議を呼んでいるようですが、要すれば、通俗的なイメージを喚起するだけの作品に止まっていないか、と疑義を呈したのです。 少なくとも、私は詩文全体から「辺境的存在に対する温かな目線」という通俗的イメージ以上のものを感受できなかったので、その旨、個人的感想を書きつけたに過ぎません。 ところで「リアカーを引いて歩いているホームレス」はどうして辺境的存在なのでしょうか。原口さんは民族学的な記録としての価値もあると書かれていますが、ホームレスは民族ではありませんし、日本の風俗を代表する事例でもありません。欧州におけるジプシーのようなトライブでもなく、狭義にも広義にも「民族」で無いことは明らかであって、辺境/マージナルな存在というよりは、社会が包摂できなかった貧困問題に過ぎないとも言えます。ホームレスにかかる風俗を指して「民族学」と指す構えを見るに、ホームレスを同じ社会の構成員としては捉えない、あくまで社会の辺境と捉える感受性を見るわけです。 そうした構えは本作にも通底していて、親戚なんだったら支援してやれよとも言えるわけですが、作中話者はその点には無関心なようで、ホームレスへのからかいと親しみが合い混ぜになったような視線が描かれているに過ぎません。それはおじさんが不幸そうに見えないこととも多分に影響しているのでしょうけれど、彼が不幸そうであれば助けるのだろうか。同じ社会の構成員であり仲間だとは思っていない「親戚」への親しみのある視点を見るに、謂わば動物園の猿を見るかのように未開部族を見るような「民族学的」視点と同種のものを本作に感じないわけでも無いのです。「辺境」の風俗を面白がる感受性の中に欺瞞が無いとは言えず、本作で指し示されているのは、ありきたりな「辺境」への視点と思うのですね。 リアカーにポルシェと書くとか、911と書くとか、あるあるな悪戯に感じますし、わけのわからん噂で楽しむのも有り勝ちな印象を持ちます。また、おじさんが意味不明な歌を歌っているということ自体、ありきたりなイメージをなぞっているだけに感じる。 繰り返しになりますが、私は「辺境」の風俗を面白がる感受性、「辺境的存在に対する温かな目線」という通俗的イメージ以外のものを感受できてはおりませんので、上に包摂されない何かが書かれているなら、むしろそれを勉強させて頂きたく思う次第です。

1
AB
作品へ
(2020-09-07)

花緒さん、原口さん なかなかコメントするのも間が悪くなってきましたが、お読みいただき感想いただきありがとうございます。凡庸と感じられたものの説明と、もし私が求められたら困ってしまいます。共鳴のしかたそれぞれでかまわないと思います。 その上で、原口さんが感じられた印象は興味深いものです。 と、個人的に思います。

0
AB
藤 一紀さんへ
(2020-09-07)

藤さん 何かいい感じに浮かんでくるものがあれば、幸いです。

0
AB
ふじりゅうさんへ
(2020-09-07)

ふじりゅうさん そこから広げていく、深めていくというのがあったなら、確かに良さそうで、花緒さんのコメントにある叙情をつかめるのかもしれませんね。 これを書いたときは、それよりも読み手に託したい思いのほうが強かったのかもしれません。書いたのは2006年、もう14年も前でした。 コメントありがとうございます。

0
帆場 蔵人@⚰
作品へ
(2020-09-07)

こういう人が昔は確かに周囲にいたものでと自分に引き寄せて読み始めてしまう。もちろん、こういった人はまた違う姿でそれぞれの読み手の生活のなかにいるのかもしれないんだけど。そこから読み手を引き込んでぽるしぇ、と書いた子どもの何気ないイタズラ書きがボロいリヤカーをぽるしぇ、というユーモラスなものに仕上げていて面白い。噂を含むゆうおじさんについての語りをさらに浮かび上がらせてひとりの人の人生を描いていて詩がそこにあると思えます。またそれを語る語り手の人生もゆうおじさんが親戚だけど言えなかったという所などに重なって語りに厚みが出ていると感じます。何やら色々と議論されているなかで、自分の感想でしかないけれどとりあえず書いておきたい作品です。後、僕が気になったのは、後半の >本当じゃないかと思う >それから >また道の真ん中で寝てしまった >はるかあとおくうのお かぜのおむこおにい >きてきいのおおとのお そのむこおからあ >もおすぐうはるがあ やあってくるうやもおし >やもおうしれましえぇんん >ちり〜ん >今でも >ゆうおじさんのぽるしぇは >夜を歩いている この引用箇所です。このときゆうおじさんは車に轢かれて死んでしまったのではないか、と何故かふと思いました。三回轢かれたという真偽の定かでない情報の後に親戚という立場から語られる、また道の真ん中で寝てしまった、という言葉。書かれていないものを想起してしまいました。書かれていないことを書くなよ、と言われるかもしれないが。なので、その後の歌の箇所は記憶のなかのものでもあるし、語り手が歌っているのかもしれない。そしてその記憶のなかで確かにゆうおじさんは夜を今でも歩いているのだと思えます。

2
原口昇平
花緒さんへ
(2020-09-07)

花緒さん、どこからツッコめばいいのか正直もうわからないのですけれども、とりあえずここのみ指摘します。 > ところで「リアカーを引いて歩いているホームレス」はどうして辺境的存在なのでしょうか。原口さんは民族学的な記録としての価値もあると書かれていますが、ホームレスは民族ではありませんし、日本の風俗を代表する事例でもありません。欧州におけるジプシーのようなトライブでもなく、狭義にも広義にも「民族」で無いことは明らかであって、辺境/マージナルな存在というよりは、社会が包摂できなかった貧困問題に過ぎないとも言えます。ホームレスにかかる風俗を指して「民族学」と指す構えを見るに、ホームレスを同じ社会の構成員としては捉えない、あくまで社会の辺境と捉える感受性を見るわけです。 私は「民族学」とは一度も申しておりません。「民俗学」と申しました。両者は全く異なります。どうぞ辞書を引いてみて、信頼できる文献に当たってみてください。それでも理解できなければ質問してください。これほど初歩的な誤読に基づいて対話相手の見解を非常に雑に批判なさる姿勢も含めて、残念ながら花緒さんはテキストを一字一句丁寧に読み書きなさらないようだという印象を私は抱いています。

0
沙一
作品へ
(2020-09-07)

ゆうおじさんは、本業か副業かわかりませんが、いわゆる「屑屋」だったのでしょう。屑屋は、江戸時代から循環型社会を支えていたエコロジカルな職業で、とくに専門技能は要らないことから、他の職には就けないような社会的底辺にある人たちにとっての受け皿にもなっていたようです。近現代において資源の再利用はますます重要な課題になり、リサイクル業も一般的になりましたが、その陰でかつての屑屋は廃れていきました。 それにしても、ゆうおじさんのマージナルな異質性や不可解性を異界と結びつけて読み解かれている原口さんの初めのコメントに、私は感銘を受けました。「詩」や「歌」も、現実の散文的な言葉とは異質な、異界あるいは幻想界に属する言葉といえるのではないでしょうか。吉本隆明も『詩魂の起源』という文章で、詩の発生と魂の発見を結びつけて考察しています。異質性や不可解性にこそ詩が宿るのではないか、ということを私は考えており、そうそう答えが出るものではありませんが、断定されないからこそ、そこに詩のイデアが在るのではないかとさえ思えます。つまりは、ゆうおじさんの存在そのもの、その異質性や不可解性こそが詩であり、主体であるそのころの少年もいまだ未知なる詩を無意識裡に感じとっていたのではないでしょうか。それが時をこえて言葉による詩として発現されるのは、種が撒かれればいずれは花が咲くこともあるように、必然性を宿していたといえるのかもしれません。そして、詩そのものであるゆうおじさんは、いまでも夜=無意識の世界を歩いているのでしょう。 詩の発生の根源的なものが、この作品にえがかれていることに秘められているかのようです。そしてそのことを引き出したのはやはり原口さんのコメントであり、作品とコメントが相まって詩の解釈が深まった好例を示しているといえます。

2
AB
帆場 蔵人@⚰さんへ
(2020-09-07)

帆場さん いいかどうかは別として、私が書いたつもりのことは、そのとおりです。 一行にまとめるとしたら 「また道の真ん中で寝てしまった」 それ以前の文は全てふりで、それ以後は余韻(でもまだ聞こえる)という感じで。 って作者が説明しちゃ、興ざめなんですが、、、 今回はいろんな感じ方を伝えていただいて、うれしいです。 コメントありがとうございます。

0
AB
沙一さんへ
(2020-09-07)

沙一さん 私が無粋なコメント書いている間に、ありがたいコメントいただきました。 いろいろコメントいただいて、この詩のモデルたちのことを今更ながら思い返してます。 うちの地域コミュニティー(僕が小さいころは他意なく部落と呼んでました)では彼を認識して、農作業、建築、土木に必要な際には手伝ってもらって、終了時には一緒に宴会してました。「力持ちだから」と祭りの旗持ちなんかもやってたなぁ、なんてことを。

0
花緒
原口昇平さんへ
(2020-09-08)

民族学/民俗学の読み間違えについては大変失礼致しました。恥ずかしい誤読で恐縮です。 しかしながら、本作が通俗的イメージをなぞっているだけのものではないか、民俗学であろうが民族学であろうが、通俗的イメージを消費する視線で本作を楽しんでいるだけでは、という私の論旨は一切変わるところがありません。

0
花緒
原口昇平さんへ
(2020-09-08)

正直なところ、原口さんから絡まれたのでお相手差し上げているだけですから、貴殿の論を細かに読んではおりません。私には貴兄の論はとても退屈な言説に聞こえる次第なので、精密な読みをする義理もモチベーションもないというのが正直なところです。 上野のホームレスが如何だとか本作の読解に何か関係あるんでしょうかね? リアカーを引っ張って居るだけのホームレスであるだけで何故、 「「島」の中にあってモノとしての命を終えたものを境界の向こうへと運搬していく存在」 なんて言えるのでしょう? では、ゴミ処理場は須く、モノとしての命を終えたものを境界の向こうへと運搬していく存在、なんでしょうか。 ホームレスを特別のものとして、マージナルな存在として、詩的な存在として見ようとするその視線がとっても通俗的に感じるのです。 通俗的でしかない視線の上に立って、 学問的価値がある、ジャーナリズムとしての価値がある、などとして言を連ねられても全く関心は持てないですし、真面目に読む気がしないというのが正直なところです。 私としては、「読んだけど、特に面白くは感じませんでした」の一行で済ませたいところ、多少、付言して二行で語っただけのことですから、それに絡まれても面倒臭いと思っています。

0
原口昇平
花緒さんへ
(2020-09-08)

 花緒さん、私は初めあなたに対して論争的な態度を取ったつもりがなく、単旬にどうしてそう思うのか分からなかったので尋ねたまでだったのですけれども、途中から考えを改めました。  あなたのコメントから私に伝わってくることは、あなたがこの詩を読んで何をどのように考えたかではなく、あなたがテキストを一字一句丁寧に読み書きするつもりがないということだけです。  私がそのような印象を抱く理由を述べます。  まず、詩には「島」と書かれているにもかかわらず、あなたは「本作に描かれているような都市の辺境を象徴するかのような人物」「『都市の辺境で生きている』ような感覚を想起させる存在」と繰り返し、新宿西口の話を持ち出しましたね。しかもあなたはそのような人物の例として「最近だと、コンビニでお弁当買って来てください、と道行く人に話しかけ続ける叔母様が新宿で目撃されているそうです」といい、本作で描写されている「ゆうおじさん」とはおよそかけ離れた人を類似例として扱いましたね(ちなみに「おば」という音に「叔母」という漢字を当てるのは通常、父母の妹ないし弟の妻に対してでしょう……共同通信の『記者ハンドブック』などをおすすめします)。  また私は最初に、詩のなかの歌詞の内容と描写される人物に共通する要素に触れて「この歌はおそらく『島』の歌ではなく、また歌詞としても『島』から見た境界の向こうから来訪するものを表現しています。そしてそれを歌う『ゆうおじさん』は逆に『島』の中にあってモノとしての命を終えたものを境界の向こうへと運搬していく存在であり、いわば異界との間にいる(マージナルな)存在として描写されています」と指摘していました。にもかかわらず、あなたはその後「ところで『リアカーを引いて歩いているホームレス』はどうして辺境的存在なのでしょうか」と問いましたね。私の答えはすでに書いてあるというのに。  さらに、私が「民俗学的な記録を詩作品に昇華した一篇」と書いたにもかかわらず、あなたは「原口さんは民族学的な記録としての価値もあると書かれています」と書き(そんなことを私は書いていないのにね)、しかも「ホームレスは民族ではありませんし、日本の風俗を代表する事例でもありません」と私が主張していないことをさも主張したかのようにあなたは述べ、批判しましたね。  他にもまだまだ挙げられますが、きりがありませんので結論に至ります。あなたは今回、テキストを一字一句正確に読解し、それに基づいて自分の意見を述べるということをしていません。むしろ、(私が「ゆうおじさん」を「異界との間にいる存在」と呼んだ理由をすでに書いたにもかかわらずあなたが後から問うたことにみられるように)書かれていることを読まずに、または引用せずに疑問を呈したり、(「島」から「都市」への飛躍的読み替えや「民俗学」と「民族学」の混同のように)書かれていないことを自身の思い込みからさもそこに書かれているかのように記しながら批判したりしては、問題を自分ではなく詩や対話相手の責に帰していましたね。そうして実際にあなたが断じることでさらけ出しているのは、ABさんの作品や私の批評の問題ではなく、あなた自身の問題なのではありませんか。  もちろん、丁寧に読まないというのもひとつの態度だと私は認識しています。実際、まじめに読む気になれないテキストは私にもあります。ただ単純に、あなたはこんなにも書かれているものを読まず、書かれていないものを勝手に読み込んでいるというのに、よくそんなに自信を持って自分は読み切っているといわんばかりの強い口調で詩作品や対話相手のことを断じることができるものだなあと私は感心するばかりです。  かように嫌味ったらしいことを申しましたが、最後に真心からの忠告をいたします。詩ばかりでなく批評もまた独立した作品であり、言葉を配置することによって価値基準を提示するものであり、人に訴えかけるものであり、また書き手自身の人間性をどこかしら表現してしまうものです(もちろんこの私の嫌味なコメントもそうですよ)。どうかお忘れなく。  さて、ABさんの詩のコメント欄をこれ以上むなしいやりとりに費やしたくはありませんので、あなたへのコメントはこれで最後にいたします。ごきげんよう。

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花緒
原口昇平さんへ
(2020-09-08)

一連のやりとりですが、私としてはチンピラに因縁を付けられた気分でおります。というのは、私の申し上げていることの論旨を捕まえようとはせず、ただ丁寧に読んでいないことや、言葉の使い方の荒さだけを論う態度で、他者に退屈な長文で絡んでおられるからです。相手の言おうとしていることの本質を捕まえようとする態度がないのであれば、他のレッサーにグダグダと長文で絡むべきでないでしょう。 絡んでおいて、丁寧に読まれなかった腹いせに、ひいては相手の人格攻撃に到るのは、作品批評や論戦の枠を超える振る舞いに相違ありません。言葉が荒くなることは時として致し方のないことですが、他のレッサーに絡むのであれば、せめて相手が言おうとしていることの芯の部分に対峙しようとするのが最低限のマナーであるべきでしょう。 本作の設定された場所が島であろうが都市であろうが同じことです。都市の辺境、という言葉において、私は都市を社会とほぼ同義の意味で使っています。細かな言葉の使い方ばかりに拘泥し、相手の論旨を無視する態度は、チンピラの因縁そのものです。 本作に対しては、私は、ホームレス=マージナルな存在、という俗情への結託に根ざした作品と感受したということを書いているに過ぎません。最初から一貫して書き続けている通り、通俗的なイメージ、ステレオタイプ、俗情との結託以上のものを私は本作から感受していないということを書いています。そして、私の書きつけた感想の本質の部分には貴殿は一切触れていないというのが小生の理解です。

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花緒
作品へ
(2020-09-08)

私としてはそもそも多くを語りたいとも思えない状態で当初の短文のレスを書いた次第ですが、絡みにお付き合いしてしまった結果、荒れた様相も呈してしまったように思うので、単なる人格批判や攻撃のための文章ではなく、せめて第三者から見て多少参考になるような文章を少し違う角度から語っておきたいと思いました。 私は本作を指して「都市の辺境」という言葉を何度も用いて感想を記載しています。これに対して、原口さんは本作はシマが舞台であることから「都市」という言葉は不適切であり、私がきちんと読んでいない証左であると指摘されています。しかし本当にそうでしょうか。 原口さんにおかれては、「私はこれが今において書かれているということに特に意義があるのではないかと考えています。例えば、とりわけ前述の上野公園がある台東区が、昨年10月、極めて猛烈な台風がやってきたときに、路上生活者の避難所受け入れを拒否したあとの今において。」と記述されています。 シマと都市に本質的な差異があるのだとしたら、何故に台東区の路上生活者にかかる現況が本作への評価に影響を及ぼすべきこととなるのでしょうか。本作の民俗的価値を主張しておられる原口さんにおいてさえ、結局のところ、シマと都市の差異が曖昧な地点で本作が読まれていることを思います。 要すれば、舞台がシマであれムラであれマチであれ、本作は「都市の辺境」を語っているものとして読者に受容されているのではないでしょうか。換言すれば、本作は「社会の辺境」について語っているのですが、都市に住む私たちからは「都市の辺境」として受容されることとなるのです。 ちなみに本作においては、ゆうおじさんがホームレスであることはどこにも書かれてはいません。与えられた情報だけを見れば、リヤカーを引いている労働者とも読み得るはずであり、リヤカーを引いている=ホームレス、というわけではないにもかかわらず、しかし、私や原口さんを含め、この場の読者の多くが、自分の知っているホームレスを思い浮かべながら本作を読んだのではないでしょうか。 すなわち、ホームレス/辺境の人、というステレオタイプ的イメージに多くを依拠するものとして私は本作を読んだ次第ですし、他の読者もそのように読んだと直感する次第です。現代日本人の多くが保有する通俗的イメージに依拠する作品であるがゆえに、本作の記載にははっきりとそうと書かれていないにもかかわらず、読者はマージナルな存在としてのホームレスを想起したのでしょう。 本作はそれなりに出来が良い作品なのだろうと私は思っていますし、本作を楽しむ人がいることも十分に理解するところですが、私個人としては通俗的イメージに依拠して被差別者を描写する表現アプローチを評価しません。また、通俗的イメージを詩の形態でなぞることに学問的価値があるともジャーナリズム的価値があるとも思ってはおりません。 これにて本作に対する私の立場は十分に書いたように思いますし、これ以上、場が荒れるのは本意ではありませんから、このスペースではひとまず筆を置くことといたしましょう。

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原口昇平
作品へ
(2020-09-08)

沙一さんがさらに一歩踏み込んで「夜=無意識の世界」「ゆうおじさん=詩そのもの」という解釈を出されました。 私が思うに、本作で描写される「ゆうおじさん」の「夜」へのシフトは少なくとも二つあります。 一つは「四十過ぎてからは何に気を使ってたんだか/夜に歩くようになっていた」という部分におけるように、言葉のより直接的な意味での「夜」そのものです。このシフトを「ゆうおじさん」の年齢の高まりによって説明することはできません。もちろん孔子のいう「四十不惑」については私自身もまた近づくにつれて世人には到達しようのない境地だと実感しているのですが、それでも詩の語り手が「何に気を使ってたんだか」と首をかしげるように、単なる心境の変化では根拠づけがたいところがあり、むしろ私がこれまで説明してきたとおりコミュニティの戦後から現在までの変化(境界を失っていく時世)の中で「ゆうおじさん」はそうせざるを得なくなったのではないかと私は考えています。 もう一つはまさに沙一さんが解釈されているように、「ゆうおじさん」が最期に「道の真ん中で寝てしまった」後で、彼は確かに詩の語り手の脳裏をときどき歩いているのだろうということです。 つまりコミュニティがある時代以降の都市化の中で異質性、不可解性を備えた存在ごと異界との間を排除していくうちに、「ゆうおじさん」という存在は日の当たらない空間へ追われていったのですけれども(一つめの「夜」へのシフト)、そのあとはこの詩の語り手のようにつながりのあった人々の想像の中をイメージとして彷徨するようになったのでしょう(二つめの「夜」へのシフト)。 沙一さんはここに詩の発生をみていて、その観点はまた日本の伝統芸能の発生にマージナルな存在が関わっていたとする説を私に思い出させるのですけれども(そして「ゆうおじさん」自身も人前でよく歌をうたった人であろうわけですが)、そういうことを考えていると、「ゆうおじさん」の夜へのシフトは詩そのものの社会的な位置づけの変化と無関係でもなさそうな気がしてきます。 最後に。ABさんがこれまで書いてきた詩の中には、記録に残りにくい、時世の変化の中で忘れ去られそうな言葉や存在を呼び出して提示するものがあり、この詩もまたその一つに入るかと思います。そうしたものには必ず、一言では表しがたい個人的な思い(今回なら「ゆうおじさんはうちの親戚で/でも友達には言えずじまいだったなあ」に認められる、単純に後悔とも無力感とも割り切ることができない根深い感情)が描きこまれていて、そのことは花緒さんがいうような「辺境的存在に対する温かな目線」「通俗的イメージの消費」とはおよそ全くかけ離れて、詩の語り手が決して単なる傍観者という安全な立ち位置におらずむしろ抜き差しならぬ形で関わっていることをはっきり表しています。対象について証言することで自己と時世のあいだを豊かに描き込んできたABさんの詩業から、私は、2011年以降新しいリアリズムを確立しなければならないという個人的な思いを抱く中で、大いに刺激を受け取っています。

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花緒
原口昇平さんへ
(2020-09-08)

前言撤回をして再び私もリファーする形で文を綴っておられますが、お相手差し上げた方が宜しいのでしょうか? ただ、例の如く貴兄の言を斜め読みしましたが、やはり私の書いていることの論旨の芯に対峙しようとする姿勢をお持ちではないようです。 細部まできちんと読んでいないことをもって人格批判まで展開される貴兄ですから、自ら絡んだ以上、せめて相手の言おうとしていることの本筋の部分には向き合って頂きたいものと思います。 私の論旨そのものへのリファーがないので同じことを繰り返すことになりますが、 本作ではリヤカーに空き缶だの新聞だのを載せて歩く男が描写されているに過ぎません。 この作品を英語に翻訳して外国人に見せたら、 >シマで金持ちの変なおじさんがリヤカーにゴミを載せて歩いていて、 >周囲は男が金持ちである前提で「ぽるしぇ」と落書きしているということなのだろうか、 >だって日本人って優しい民族のはずだから、まさかホームレスの人の持ち物に、 >「ぽるしぇ」なんて書いたりしないよね・・・ なんて感想が帰ってきてもおかしくはありません。 本作から、おじさん=詩そのもの、だの、夜=無意識の世界、だのといった読みが引出されるのは、 すなわち、弱い、虐げられた、差別を受ける者たちに対する俗情との結託がベースにあるからであろうと私は申し上げています。 ホームレス=辺境の存在、という前提がそもそもなければ、本作は意味をなさないことを指摘しており、「ゆうおじさんはうちの親戚で/でも友達には言えずじまいだったなあ」、だけで、通俗性から免れるというような話ではないのです。 被差別者を語る上で極めて古典的な論点かと思うのですが、この程度の論点をきちんとリファーできないなら、批評としての価値はないだろうことを思います。

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池田伊万里
池田伊万里
作品へ
(2020-09-08)

ちょっと詩の本題からはずれるんですけど、ああいう、リヤカーひっぱってたり、空き缶をたくさん載せて自転車こいでる人みると、自分が恥ずかしくなることがあります。そんな自分をまた責める、みたいな。なんでしょうね、あれは。ロレックス、案外本物なのかも。読後感が好きな詩でした。

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AB
花緒さんへ
(2020-09-08)

花緒さん 「私個人としては通俗的イメージに依拠して被差別者を描写する表現アプローチを評価しません。」 これの後ろ半分はよく理解できます。そうとられてもしかたない、というところもです。と、不要かもしれませんが書いておきたくなりました。

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AB
池田伊万里さんへ
(2020-09-08)

いまりさん お読みいただきありがとうございます。 んん、そう感じられるのか。わかるような気がしないでもない、という微妙な感じです。自分に違和感を持ってしまうのでしょうかね。

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原口昇平
花緒さんへ
(2020-09-08)

いと令名高き大詩人であらせられる花緒大先生、もったいなきご高説を賜り誠にありがとうございます。前回「チンピラ」が「他者に退屈な長文で絡んでおられる」とのたまわれましたから、凡俗卑俗なる手前といたしましてはお目汚しにして退屈なる私めの愚文を花緒大先生のような高尚なる大詩人にお目通しいただけるとはゆめゆめ思わずにおりましたので最後にひっそり申し添えておりましたが、まさかまさかお読みになるとは、私のような下々の者にもずいぶんと気をかけていただきまして誠にもったいなく、感謝に堪えません。 花緒大先生がご高説の本筋に向き合うよう愚民たる私めにたびたびおっしゃっておいでですので、手前といたしましても先日より足らぬ頭をぽくぽくと叩きながら愚かなりに考えをめぐらせてまいりましたけれども、はてやはり恥ずかしながらおっしゃっていることの意味がいかにしても全く分からぬ次第でございます。この詩における描写を「通俗的イメージに依拠して被差別者を描写する表現アプローチ」と、またこの詩における「ゆうおじさん」と詩の語り手の関係に対する私めのごとき愚民の感想を「俗情との結託」とおっしゃっておいでですが、さても差別について語ろうとする方が他者の思いを「俗情」と呼んでいらっしゃることは深く感心するばかりでございます。すなわち言外のうちにそうでないご自身を「高尚」ないし「聖」と位置づけるような言葉をお遣いになるとは、さすがは大先生、ご立派なことと私のごとき愚民も感服せざるを得ません。 それにしても、公文書や高尚なる文学などには残らない民間の口伝なども頼りにしながら、有形・無形の民俗資料をもとに「被差別民」をも含む民の営みの移り変わりを明らかにし、現在の文化に残るありようまで説明しようとしてきた「民俗学」を、いと学識高き大詩人であらせられる花緒大先生は知ってか知らずか、ともかくもさすがのご慧眼をもってして「民族学」と同一視なさっていらしたわけでございます。その花緒大先生が「被差別者を語る上で極めて古典的な論点」なるものを愚かなるこの私めに説いてくださいますとは、全く字義通り「有難き」ことでございます。上野で芸能を学び、その地の路上生活者ともいくらか交わり、また自業自得の所業によりごく短期間ではあれど自らもまた路上で寝起きする身とならざるをえなかった私めのような者は、こうも世間で普通に暮らしておりますとかような目にはなかなか遭えませんで、「俗世」を超越なされた高尚なる花緒大先生ならではのご視点と拝察いたします。 そも、花緒大先生が最初に「本作は描写や音が凡庸で、叙情を浮かび上がらせるまでには至っていない」とおっしゃったときにも、愚かなる私めは実に生意気な言葉遣いで「花緒さんがいう『叙情』とは何なのか私にはさっぱりわからないのですが、何のことをおっしゃっているのでしょうか」と申しておりましたが、花緒大先生はすなわち私めのごとき愚民が愛する通俗的なるものは叙情を浮かび上がらせはしないと信じておられるようでございます。さても詩の歴史にも通じておられる大先生のことでいらっしゃいますから、かつてペトラルカが当時聖書や役人の文書や高尚な文学に用いられたラテン語ではなくいわゆる「俗語」とされたトスカーナ方言をもって「俗事」を取り扱いながらソネットを含む多数の叙情詩を書き、それによって西洋ルネサンス以降の叙情詩に決定的な影響を永らく及ぼしたということももちろん念頭に置かれた上で、゛「俗」なるものは叙情に資することがないとご自身の信ずるところを説いておられるのでございましょう。愚かなる私にはやはりいかにしても何をおっしゃっているのやらさっぱり理解できないのでございますけれども、さてもさても、ありがたき大詩人であらせられる花緒大先生のいと高尚なる「叙情」に満ちあふれた次回作がまことに楽しみでなりません。今後のご活躍をこころよりお祈りしております。

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花緒
原口昇平さんへ
(2020-09-09)

例の如くざっと読みましたが、、、、流石にこれはアウトではないでしょうか。。。 ちょっと笑っちゃったけど、笑わせたいわけじゃあないですよね。。。? 俗情との結託などについて語る準備はもちろんありますし、この種の議論に馴染みのない方が思いの外この場には多そうな印象なので、語る意義を感じ始めている次第ですけれど、原口さんの書き込まれた内容はこの場のマナーとして流石に行き過ぎていらっしゃると思いますし、まともな論戦ができる構えではないように思いました。 前の私への人格批判のときに申し上げておけば良かったのだろうと今反省しておりますが、少し頭を冷やされてはどうでしょうか。 これは続けると荒れるしかなく、何ら益が無い流れと判断いたしましたので、私は一度、きちんと口を噤みます。 続けて良いのか運営の差配を待ちたいと思いました。お疲れが出ませんように。

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ふじりゅう
作品へ
(2020-09-09)

おはようございます、運営の藤井です。 本件、喧嘩両成敗の方針を致そうと存じます。原口さん、花緒さん両名の本作への書き込み、レスポンスを一切禁止致します。 (無論、本作以外で作品へコメントを頂くのは問題ございませんが、本件議論をB-REVIEWの何れかの場所で再び再開する事を禁じます。) 両名以外のユーザーからのコメントは禁止致しません。 ABさん、作品とは関係のないコメントであるところ、大変失礼をしております。申し訳ございません。

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ふじりゅう
作品へ
(2020-09-09)

追記:上記の私のコメントへのご返信は不要です。 もし私の判断に異議申し立てがある場合には、フォーラムへ投げて頂くか、Gmail(breview.works@gmail.com)かTwitterのDM(@breviewofficial)、または私のTwitterへのご連絡(@huji_ryu_Lv14)にて宜しくお願いします。

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藤 一紀
作品へ
(2020-09-09)

おはようございます。大島渚と野坂昭如のバトルを彷彿させる激論が交わされている中恐縮ですが、再コメント失礼します。 この作品の冒頭と終わりに置かれている歌について、原口さんがコメント欄の始めの方で述べられています。  はるか遠くの 風の向こうに 汽笛の音の その向こうから もうすぐ春が やってくるやもしやも知れません 「ゆうおじさん」の歌にでてくるこの「風」について、ぼくはABさんの『ハンチャンの神様』(2020.5月投稿作品)に出てくる《あえの風》を思い出します。《あえ(あゆ、あい)の風》は『万葉集』で大伴家持などが詠んだ歌に出てくる春先に吹く東風で、豊漁や豊作といった幸せをもたらすものだそうです。それでいうと「ゆうおじさん」ははるか遠くのそのまた向こう、まあ、そのくらい遠くですね、そこに春が、幸せかな、それがあるのを見つめているんじゃないかな、と思うんです。で、「はるか遠く」が何を指すかはわからないけど、もしかしたら未来かもしれないし、自分が身を置いていない豪奢で満ち足りた生活圏であるかもしれない。そのどちらでもないかもしれないけど、とにかくそういう遠いところから自分にも幸せがやってくることを歌のなかで見つめているようにも考えられるんですね。このあたりは「ゆうおじさん」がどのような職業に就いているかとか、社会集団でどのような層に属しているかということに関わらず、読み手が自分の経験からアクセス可能で、普遍性とまではいかないまでも通俗性をもっているようには思います。 で、「ゆうおじさん」がリアカー引いて屑集めしたり、缶集めしたりというのは、ぼくはホームレス生活者だとは思わなくて、そういう職業なんだろうなと思った程度です。子どもの頃、そういう職業に就いていた人が周りにいたかどうかまで記憶にはないけど、銅線や釘が金になったという話は聞いたことがあるし、友だちと瓶を集めて店に持っていって小遣い稼ぎしたこともあるので、生業にしていた人もいるだろうと。ただ、背広着て出社するというのが社会を構成する職業の一般的イメージだとすると、その中心からは離れた外側に近い位置にはあると言える。そこを民俗学的に〈辺境〉と呼んだり文化人類学的に〈周縁〉と呼んでみたとしてわからないではない。その外と内を行き来する存在として、あるいは象徴として「ゆうおじさん」を読むのも面白いと思います。しかし、そういった場合の辺境・周縁というのは、社会構造が固定化してしまって閉塞している状況において、それとは異なった生活形態や文化をもちこむ(というか流動的にはいりこむ)ことで活性化させる要素として取り上げられるところもあるのではないでしょうか。その点でいえば、おじさんがこの作品を通してそのような役割をもって登場しているとは読み難いというのが実感です。 一方で、同じように社会集団の中心から遠くに置かれている存在としての〈子ども〉とは親和性が高い。だから「僕ら」が「ゆうおじさん」の噂を共有したり、リアカーに書きつけたりするのもなんとなくわかるんですね。そういう、〈子ども〉の目には何やってるんだかさっぱりわからない、歌いながらリアカー引っ張って屑集めしたりしているおじさんて、妙な魅力として映るんじゃないかな。逆にいうと、ここで、なんとなくわかるんですね、と言った時点でぼくは「辺境的存在に対する温かな目線」という通俗的イメージ、という花緒さんの批評は認めざるをえない。ここは的を得ている(よし、作中の《友達には言えずじまいだった》という箇所に、いくらかの後ろめたさを認めたとしても)。 しかしながら、この作品は、 ・昔おじさんがいた ・おじさんは(リアカーを引きながら)歌をうたっていた ・おじさんと僕らは云々のように交わった ・おじさんは(亡くなった今でも)まだ歌っている。あるいは、おじさんの歌や姿や当時の僕らを今でもありありと思い出す という骨子で成り立っているのであって、辺境性だとか、対社会的にどうかといった批判的視点は持ち込まれていないと考えます。むしろ、〈かつて〉を作中に呼び込むことによって行われる〈魂鎮め〉であるようにぼくは思う。だから、通俗的になるのは必然的であるようにも思うし、同時に〈魂鎮め〉として読むことで〈うた〉になっていく印象にも合点がいきます。〈うた〉は通俗的ですが大衆的でもあり、読み手につながっていくものではないでしょうか。 歌には、 もうすぐ春が やってくるやもしやも知れません とあり、これは恐らく現在の作中主体のなかでかつての様子とともに響いているものであり、彼を今後も影で支えるものになるかもしれない。つまり、単なる過去でなく、未来へ向かわせるものでもあり、もはや手の届かない遠いところから遠く(前方)へ進ませるものになっているように思います。継承とまでは言わないけれども、ともかく、遠くへ遠くへ、言葉を通して望ませてくれる(これはABさんの作品の特徴だと思いますが)、この作品に強い魅力を覚えます。現場からは以上です。 長文、失礼しました。

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AB
藤 一紀さんへ
(2020-09-09)

藤さん フルコメントいただきました。 もう、ほんとにありがたいです。まいかい何倍もよくしていただいてる気持ちです。 藤さんコメントへのポイントの数もなんだかうれしくなってしまいます。 出だしの若い子知らんのじゃないのって感じのとこもツボです。 ごちそうさまです。

2
AB
作品へ
(2020-09-15)

こそりと記しておこうかな。 汽笛は、島なので、船のつもりでした。港から出る船の、その向かう先のずっと向こうの港から

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