作品投稿掲示板 - B-REVIEW

片々


投稿作品数: 1
総コメント数: 76
今月は0作品にコメントを付与しました。
プロフィール
記録
プロフィールはありません

片々の記録 ON_B-REVIEW・・・・

活動的初コメント送信者

作品への初コメント数バッジ(くわしく)
獲得バッジ数

精力的レッサー(月毎)

月毎コメント数バッジ(くわしく)
獲得バッジ数
✖0 ✖2 ✖2

精力的B-Reviewer

総合コメント数バッジ(くわしく)
獲得バッジ数

投稿者の燈火

投稿作品数バッジ(くわしく)
獲得バッジ数

ゼンメツ

2023-10-25

この作風をモダニズムとは思わない(ブルトン的であるという判断だろうか?筆者はそうは思わない。そのくらいしか、この作品に対してモダニズム云々を語ることに意味を見出せない)。どちらかといえば、タイポグラフィに影響を受けた60年代以降の詩型で、いまだにこういった詩型を好んで使う詩人もいる。作品の形に関しては、内容との差分によって評価されるべきだと思う。 個人的には諧謔に隠した老年の悲哀が、そこかしこに表出しているかのようなこの文体を、とても好もしく思える 自動手記的に並べられた名詞の置かれ方が、曖昧となった記憶の断片のようにも思え、それは敢えて犯されている(だろう)誤字に意味ではなく音(=発話)として残った最後の価値の手触りのように感じ、逆に身体性を感じてしまう。 きっと経験豊かであるだろう詩人の、気取らない茶目っ気に満ちた詩心を心地よく感じた (fを越えてゆこうよ)

2024-03-15

最近こういう作品を見かけなくなりました。 それには多分意味があるのでしょうけれども、個人的な発想ですので、ここでは述べません 音の面白さに注視している楽しい作品だとは思いますが、その実、律に関してはどうでしょうか 特に最終三行の >るるるすすする >するるすすする >すするするする の置換の試みは、面白いと思いました (すするするする)

2024-03-15

消費、という概念を考えた時、どうしても死体漁りに想像が流れてしまう 私たちの生活にはどうしたって消費行動が関わってくるから、その中で価値を値踏みして生きてしまう そのこと自体が本来は生きづらくて、嫌になってしまう。時にはやるせなくなって、「自身の価値」なんて幻想に絶望したりする。 そんな日常の中で、自分が望む価値を消費するでなく、共有する方向に持っていく、有体に言えば「幸せ」になるほんの小さな欲望が、あるいは生の本質なのではないか、そんなことを考えました 最終連の前の「俺は いつまでたっても」というのがとても効いていて、中央線という東京を横断する一大路線のなかのほんの一部分への言及が、最終連を生かしていると思います とても素敵な作品だと思いました (中央線)

2024-03-07

夢十夜の第一夜を思い出した タイトルで損をしているなと思った 行替詩でありながら、散文的な叙述を行うことにより、情報としては散文的に伝達しつつも、叙情を韻律によって継続させることに成功していると思う 最初は逢うことを求めていた訳ではないのに、 「 たまらなく寂しかったから 「君」を探すことになった 寂しさは、どこからやってくるのか、その一つの可能性として時間を示唆している作品として読んだ 寂しさを癒すのも時間であるなら、寂しさが沈澱し蓄積していくのも、また時間なのだ 時間という本来線上であるべきものが、四次元であることを条件に歪むとき、認識体である「僕」の肉体は点状に存在することを止める 「待ち侘びる」ことが、しみじみと胸に迫ってくる (四次元のリコ)

2024-03-07

クリシェの重層によって陳腐化された言葉を再生させる試みを行なっているのか 意味の意味性にとらわれ、その細部に目を向けることなく選択される名詞群が行を変えるたびにまさに >(…)左脳でそれを/見るようになっただろう という憂愁を感じる 言葉の指示するもの、そしてそれらに伴う時間の価値と肉体の相剋(線と点の相剋)を作者の本来の言葉で読んでみたいものだと思った (くじらの歌)

2024-03-07

ルナール的なタイトルとの連動が楽しい作品。 イラストレーターの方と連携して、一つの作品集として作れたら楽しそうと夢が広がる。 もしこの作品がシリーズものであるならば、もっと読みたいと思った (よっぽど銀河)

2024-03-03

自由律かつ多行というとても面白い試みをしている点に目を惹かれた ただ、多行として記される韻律が自由律というより、定型のその規則の上で展開されている上、それが大きな傷となってしまっているように思える 「猫の骨のように/ 世界をすり抜けられたなら」 はこの中では良い方に思えるが、猫の軟体性に描かれた先行句を思い出さざるを得ないため、評価を躊躇う 今まで人のひっそりとした悲哀や可笑しみを丁寧に掬い上げる目線を持った鯖詰さんでいらっしゃるので、この形式や川柳でも、すぐにきっと素晴らしい作品を書かれるようになるだろう 私事だが自由詩のみならず、いろいろな形式の詩や作文がこの掲示板を彩ることを、嬉しく思う (自由律俳句 三月)

2024-03-03

二行の詩であるものの、捉えたい印象やイメージの連結と拮抗がうまくいっているように思えた 素敵な心象風景を切り取ったもので、存外過不足なくしっかりと詩として生きている文章だと思う。 フレージングの妙は確かに詩を一見素晴らしいものにも見せてはくれるが、詩というものはフレージングでその良し悪しが決まるものでもない。 他のコメントにあったが、フレージングが智慧の産物である、あるいはフレージングを思考することが智慧を実らせるというのも眉唾だろう。それこそ妄信に淫しているように感じる 短行の作品を集めて編まれる詩集もある。内田さんにおかれては、短歌や俳句といった定型の詩も取り入れつつ、広い視野で作詩を楽しんでいただければと願う。 (プラネット)

2024-03-03

叙述の形式を取りながら、比喩的表現によって詩に近づこうという試みはとても素晴らしいと思う。 >鴨の羽ばたきに心動かされる少年 >暖かい孤独 といった詩的発見をうまく組み合わせている点、そしてそれを損なわない文体で構成されている点はこの作品の見るべき美点であろう しかし散文的(すなわち一般性に依拠しすぎ)な点は、どうしても瑕疵として感じられてしまう。 あるいは、いっそ「量」を増やすことで「小説」としてまとめられた方が、この作品にとっては良いのかもしれない 繊細に環境を観察する目をお持ちでいらっしゃると思うので、その目線を自らにも注いだ作品を期待したい (春の便り)

2024-03-03

身体の部位を人称化して語らせるという手法は、そこまで珍しいものではないですが、鈴木志郎康ばりのオノマトペによる音とリズム付与が楽しく、最後まで読まされる魅力があると思います 内容は本来ならロゴス、パトスを司るはずの脳が、エートスを蔑ろにしてしまったため各部位のコンセンサスを失い、スラプスティックな分離分断が起こっているように読め、果たしてこれは企業、もしかするとブラック企業の風刺的暗喩なのかと想像しました (ブンガチャカ交響曲)

2023-11-12

横書きの総ルビが、どこか郷愁を呼ぶ様で、面白い体験でした 実景と思われるものに素直に感傷を刷り込む手法は、こうした短い文面で生きるもので、同一の韻律で語られると、より懐かしさを感じられるますね 韻律感を尊んだ作品だとは思いますが、もう一歩「なぜ」そうなのか、そう感じたのかに踏み込むというのも悪くない気がします。 (┣太陽┳たいよう┫の┣行方┳ゆくへ┫)

2023-11-12

言葉の無力さ、その絶望とまでは言いませんが、特に発話(音声)と書かれた文章(テクスト)の断絶に関して書かれた作品だと思いました。 四連目の引用として引かれている(風を装っている)部分で描かれる彼女はきっとフヅキ(あるいはフミツキ)というのでしょう。(ハヅキ=葉月=言の葉≒パロール、フヅキ=文月=文=エクリチュールの対比) その彼女が波にさらわれていったこと。文、すなわち文章で書かれた言葉は、失われてしまいがちであること(パロールはエクリチュールに優越するが、やがてエクリチュールがパロールを侵食しはじめた、そんなような関係がこの引用部の「僕」と「君」との間に存在している様に読み取れます) あるいはそれは >うわさ話が次の日を作り というように詩とは隔絶した単なる安易な物語に回収されてしまい、情動や感覚は明確には伝わっていかないことを表しているのかもしれません(物語のディスクールに回収されてしまうこと。時代の権威性に飲み込まれてしまうこと) 詩に仮託することで安易な物語として消費されることに抗い、その言葉そのものの持つ線上時間軸の参照性によって点と線が結ばれていく。そうして言葉以前の「想い」や「詩情」と言われる曖昧なものが明らかになっていき、読者(他者)と共有されるはずであった。けれど悲しいかな、それらは容易く受け取り手の持つ物語の中に回収されて本質を失ってしまう。果たして詩とは、書かれた文字-文章とは、悲しくも伝えるという役割を持ちつつもそこから離れていくばかり、そういった悲しみを感じます マラルメが試行した「絶対言語」とその理想に届かない、結局は不自由な言葉というものが本質的にもつ断絶を表しているような…… そういえば御作『チョコレート』も差延的な痕跡(これも断絶ですね)を読者に感じさせるような稀有な実験作であったと考えれば、同じ系統の作品と言えるかもしれません。 レイアウト、再演の構造、身体と精神、その他。言語の性質を通じていろいろなことを考えざるを得なくなりました(と同時にモデル読者、経験的読者への思考も禁じ得ません) ひととひとは分かり合えぬもの。特に言葉を通じては けれども分かり合える可能性の幻想に眩んでしまったからこそ、僕は詩を書き続けているのかもしれない 逆相(正相ではなく!)ですが、そんなことを考えました。そしてそのことをこれから僕も詩を書く上で考え続けなければならないと、改めて思いました 拙い文章であり雑な感想となりましたことを謝罪しつつ、今作を読ませていただいた事に感謝いたします (August will not come)

2023-11-10

作品へのコメントではなくて恐縮なのですが 僕には昔、憧れて憧れてやまないネット詩人がいて。この作品にその方の面影のようなものを見出してしまいました。 友人と呼ぶのは烏滸がましいくらい、僕よりずっと先を走っていらっしゃった方で、コメント欄とTwitterで少しだけ交流させていただいたのはいい思い出です。彼はいつも不意に現れて、不意に去っていく。この作品の「あなた」のような人でした いま感傷に押し潰されてしまった僕の目はシリカゲルをかけられたようにカラカラです。無垢な瞳に再生されますように、とオヤドリを埋めてしまった後の鳥籠に願を掛けます。 失礼しました。いずれまた感想をお伝えする機会もあるでしょう。 自分の感傷とは別に、今はこの作品に耽溺させていただきたいと思います 素晴らしい作品に出会えて、舞い上がっている僕をどうかお許しくださいませ (August will not come)

2023-11-08

僕の友人は、残念ながらこの季節に亡くなってしまったのですけれど、何年か経った今でも忘れられないでいるんです 最後に電話で話した内容も声も、なかなか忘れる事ができなくて いつかこの気持ちも感覚も「永遠の吹雪の中に」消えていくのかなと思うと、悲しくもあり、寂しくもあり。けれど幸せなんだろうな、とそんな風にも思ったりしました 「わたし」を描いた作品であるとは思うのですが、と同時に「わたし」に託した「あなた」を描いた作品のようにも思えました この作品には個人的に響くものがあって、少し感傷的な感想になりました ごめんなさいね (秋暮れ 雪に消ゆ)

2023-10-30

300年前というとフランス革命も起きていないので、カトリック的(宗教的な)プロパガンダという事なんでしょうね。 ここでは広義の宗教的プロパガンダという読み方の方が自然なのかな >物語を燃や す事が、 >人の共感を壊して回った から、物語性の一側面である >善い嘘 こそ現在では求められるべきだ、という論旨なのかしらん 確かに現在行われているとある戦争は、物語(ナラティブ)というよりは宗教的なディスクールによって先導されているイメージがある 近代すら飛ばして中世に時間を巻き戻すような暴力的なこもディスクールに関してナラティブを用いて対応しようという問いかけ(あるいは仮説)なんだろうけれど、この戦争をめぐる物語には物語のディスクールの強制力もまた働いてしまっていると思う だから、一概にそのナラティブ、「嘘」が「善い」と宣言されるコンテクストをも、吟味しなければならないと思うんですよね ただ、仰ってる事の内容云々に関わらず、いまこうした思考や危機感を詩人というか物書きの人々が持つという事は、本当に大切な事で、それをこのビーレビという場に投稿された事においては、とても大切な事なんじゃないかなと思います ややこしい言葉を使って申し訳ない (どうか許して)

2023-10-30

> 書かれた行為には愛かも知れませんが、それは対象者とあなたとの関係性に有るということではないかという外部に有るのものなので。 多分、この作品を投稿した行為やその行為に誰か対象者がいると、読みたくなってしまったのかな それこそ邪推というもので、もちろんこの作品に描かれているものは、今この時、この場所やこの場に関わっているひととは無関係なものです とすれば、おっしゃる事もごもっともで、ここにいらっしゃって作品を読む事自体がバイアスとなっていらっしゃるのでしょう 精神衛生上良くないので消えるとおっしゃるのも、むべなるかな また、そうしたーさんのお心に寄り添う事が出来ず申し訳ありません ーさんの考え方や物の捉え方が好きでした お心が落ち着きましたら、またいらっしゃってくださいね (ゼンメツ)

2023-10-28

とても興味深い感想をありがとうございます。 まず被害妄想強くて自閉的なメンヘラポエマーのdisって読んでもらったのが、まず面白かった。そんな風に読めるのね。 そしていかいかさんが文極で云々に関しても。 なるほどなー。 類型だなと思うと、そこで思考を停止して、類型としての共通箇所を探しちゃって読みを止めてしまうというのは、よくある事ですよね。 勉強になりました。 時期に関しては、今だから書けた作品だという事、そして匿名での投稿を選択したのは、ーさんみたいな率直な意見が知りたかったから。 なにはともあれ、お読み下さり、ありがとうございました (ゼンメツ)

2023-10-27

ルミネカードの現実感が面白くて、寓話的な印象をうまく裏切って書かれている印象でした。 > ずるい場所に隠れて降りてこない >棚の上は、居心地が良いのでしょうか このあたり、話者の物理的な身長の小ささを表していて、この「あなた」は子どもにしか見えない精霊的なものかも、と思いつつも、ルミネカードの魔力がまだ効いていて、ああ、担当と推しのお話かしらと思い直しました 最終連はいわゆるアベサダを思い起こさせるような内容ですね 山本さんは本当にこういった皮肉的な作品を可愛らしく描くのがとてもお上手な方だな、と改めて感心しました (狐憑き)

2023-10-24

一連ごとに代わっていく視点がミクスチャーなんでしょうか? 二人で書いているような変化が面白かったです。 >くだらない湖を渡る舟 の寄る辺なさが、自慰の宿命づけられた虚しさに相まって、とても興味深い表現だと思いました (mixture)

2023-10-24

「あの嫌な湿気」と言われても、まず「あの」が分からない。「あのポマード」と言われても然り。明確に読者との断絶を宣言しつつ、けれど読み進めていくと、どこか懐かしい「東京」の描写に出会うことができる 最終行の「東京」の繰り返しが、読者の内にある「東京」のイメージを喚起させる事を企んでいる ただ、その仕組みが意外と早く露呈してしまう気がします 書いたご自身は、ご自身の感興をお書きになったのかも知れませんが、「あの」以上の断絶を読者は手にしてこの作品を読んでしまうな、という懸念がありますね かく言う僕も、いまいち作品に書かれた感情や描写に加担できず、少しメタな視点で(つめたい観察で)読んでしまいました >空が2次元に見えてしまっていた この表現はとても面白かったです。2次元に見える事がどういった働きをもたらしたのか、なぜ2次元に見えたのか、2次元に見えて2次元に生きる感覚とはどういったものなのか。たとえばそういったものに、もう一歩踏み込む表現があったら、印象は変わったのかもしれないと、そんな風に思いました (、)

2023-10-24

素敵かつご丁寧なご返信、ありがとうございます! 僕も、いまは自分が為したい事(言語の面白さ、謎)を追求するために詩を書いている側面があるので(つまりは自分のため!) おっしゃる事にとても共感します 言葉は言葉のディスクールを持っているので、「本来の意味も姿も形も時間も空間も断ち切りたい」という挑戦はとても困難だと思います。でも、僕もそこに惹かれちゃっているんですよね。惹かれてるから、しょうがない。自分の道を行くしかない 過大評価でも評価は評価です。評価される事に意味はないかも知れませんし、他者の評価によって自我が形成されている側面もありますので、過大評価は成長のチャンス! なーんて僕は考えていました サド云々は「マルキ・ド・サドという作家が提案した、圧倒的な数量の描写を重ねる事で、情報量としては膨大なものになるが、それを受け取る側にとってその情報は情報としての価値を徐々に失い最終的には無と同等になる」という事を引用しました そうそう、とても拙い感想ですが「みたされたすべてが真直ぐだった」にもコメントを付けさせて頂きました。 ある意味、とても分かりやすくて、あの作品を読んだ体験はとても貴重なものとなりました これからも作者さまの書いた作品を楽しみにしています (少焉)

2023-10-23

ずいぶん、お待たせしました。 結論から言わせてもらえば、この作品とても好きです。 久しぶりに、作品を読んでいて泣いてしまった……。 とても曖昧にその心の奥底を暴かないように、丁寧に周辺をなぞっているものの、やはり心の空隙(そうですね、空隙のようなもの、諦めとか乾いた悲しみとかそういったもの)を感じました 僕はこの作品を「介護(おそらく認知症の実父、実母のいずれかが介護対象でかつ入院している)に疲れ、過去の対象者が元気だった頃に思いを馳せながらも迫ってくる現実(金銭の不足だとか)に悩みを抱えている、女性視点の物語」として読みました。 特に三連の描写が美しく、これから病院へ向かう、介護者の心情の切なさが胸に迫ります。 (あ、「ほつしたようみぞをさらせる」は分かりませんでした。すみません。力不足です……) この作品は使われている語彙もさることながら、レイアウトやその関係性もかなり緻密に描かれているように思いました。(ただ一点、二連目の「作為的な二枚舌」はちょっと推敲が甘いとも思いました。対偶を考えてみれば、僕の指摘がわかると思います) ――すべておなじ靑昊だ この嘆息は僕の胸にも響きました。 同じあおぞらのはずなのに、違うものに見えてしまう。あるいは違うものとして見てしまう人がいる。 それを自分に言い聞かせなければならなかった。その心境に胸が締め付けられました こんなにも素晴らしい作品を読ませてくださって、ありがとうございます 当分、余韻が抜けそうにないです、、、。 (細かい解釈、読解に関して、ここでに貼り付けると膨大な量になってしまうので割愛しますが、いつかお伝えできたらいいな、と思います…てというとフラグが立っちゃうんであんまり言わないようにします笑) (みたされたすべてが真直ぐだった)

2023-10-22

>空気の匂いはしぬのをやめて >辺りに花の咲くことをめいじる この表現にはおもわず痺れてしまいました 展いた言葉はその厳密性を喪失する代わりに詩情を担保する。よく聞く話ではありますが、真っ向からそれを見せられると脱帽してまいます とは言え、前作前々作とは違うアプローチに驚きました >あわくろく溶けていった >なまえのようなピアノが鳴るので といった主に初連で使われているような詩語の書かれ方に「???」となったり フレーズを偏重するような時代遅れの発想に囚われる事なく(でも挑戦されるのは良い事だと思いますが)、世界観を静かに捉え従える前々作、前作の方が個人的に好きでした (安い挑発にのって、ご自身の詩勢を過たないで欲しいのです。釈迦に説法だとは思いますが) 褒める点が多い作品ではあると思うのですが、あえて否定的なことを書かせて頂きました。どうかご海容の程を 書く語る機会がありましたら、いかにこの作品のことを楽しんだか、お伝えさせて頂きますね (狼)

2023-10-17

ハルジオン、というかセイタカアワダチソウの詩の様に感じました イロニーをその底辺として、それを装飾している書き方をする方が存外ビーレビには多くて、妻咲さんとの社会受容の世代格差を考えながら読むのが本当に楽しいのです イロニーが詩情を生み出すランボーみたいなあり方で、これからもビーレビを席巻していって欲しいと思いました。 (酔うております。ご寛恕を) (しわわせならTをたたこう)

2023-10-17

言語装置として、詩文様な行替えを使う事によって刹那に起きた自身の感興をそれよりもはるかに遅い「ことば」として書きつけること。その瞬間に発生した感情と必ずしも同じ位相を保つ「ことば」ではなく、書く事によって若干の整理と時間の経過を思わせること 単純化とはかくもやさしいものであり、かつまた、それによってなんらかの欠損が満たされるならば、それは書き手側としては成功と言えるでしょう ……って意味わかんないですよね。。。 >今が続いていく。 という発見が、時間を得て、時間を経て、どう詩と昇華していくのか、読んでみたいと思いました。 (今ありうる)

2023-10-17

初連「あなた」と最終連「あなた」の位相が異なって読めるのは、「あなた」に付随する助詞の選択ゆえなのか。 その変化を起こす必要が作者の中で存在していたのでしょうね なにか、直接口にするのが憚られるような、逆説的に輪郭を辿るような、筆致に古文からの引用があるので、あるいは助詞の時代性(使われてきた年代によってその働きが変わる)のを修辞に取り入れたのかな、と思いました 供花は祈りとともに捧げるもの。たとえば、意識を失った伴侶の医療機器を止めて逝かせるなどといった景が浮かんでくるのですが、最後 (あなたの息の根を止めた) >両手を供えるわ という風に読めて、その悔恨のようなものがひしと伝わってきました 「両手を供える」、すごい選語ですね (供花)

2023-10-17

まずもって誠実なお返事頂いた事、感謝です 僕もざっくばらんとお話しましょうか まず誤解のないように伝えたいのは、僕はあなたの詩が好きだということ。 んで、詩集とか本とか読まなくても「言葉」に対してはこれからも深く考えていって欲しいこと。 言葉で言葉を洗う、そしてついでに言ってしまえば、自分をも洗い出そうとする、そういった詩作にはとても共感できます。そうそう。誰に理解されなくてもいい。それでも書きたいんだ、という気持ちが、なによりも一番大切なものです。 意味を殺そうとしても消そうとしても、意味は消えない。むしろ意味だけになっていく。サドのいう「圧倒的マッスによる無」を目指したとしても、なかなか達成するのは難しい。 なーんて自己に問いかけながら詩を書き続けていると自分の欠損なんかも気づいてきます。えらそーな言い方だけど、真摯に自分の詩と向き合ってると、ほんと霧が晴れたようにいきなり実感する瞬間がある。それから本を読み出してもいいと思います。 実は僕もこういう形式(もちろんコンセプトは違うと思いますが)、人から分からないと言われる詩を書いていました。投稿していた詩誌からは、「お前はウチ向きじゃねえ!」みたいな揶揄をたくさん頂いたり…… 修辞に修辞を重ね、また意味に意味を衝突させ、ルビを含む手法でもって、自身の感覚というか感情と言うかを探ろうとした。けど、実は誰も分からないと思っていたその感覚、言語に対する取り組みがまだまだ浅いものだと思い知る出会いがあったのです。 多分、これから詩を書いていれば、そんな経験もたくさんなさるでしょう。 「こわれた機械」と書きました。多分、ご返信を読むと、やはりその意図と意味は伝わっていなかったようです。こんな風に僕たちは言葉を介して分かりあう事は本来できません。できないけど、言われた事をなんとなくの情報として掴み、咀嚼し、経験として蓄えて次の詩作に持ち込む。そうしてやっと少しずつ見えてくる地平があるように思います やっぱり偉そうだ…… ごめんなさいね あなたには僕と同じような匂いを感じました だから、お互い頑張っていこうね、って思っています 最後にもう一度いいます 僕はあなたの詩のファンです。 これからも、あなたの詩を読ませてくださいね では! (教えて頂いた御作にも感想をつけさせて頂きます。ちょっとお時間をくださいねー) (少焉)

2023-10-16

どの作品だったか、多分同じ作者による物だと思われる作品に少し冷たいレスを入れてしまったと思う。 今回、この作品を読んでもやはり同じような感想を抱いてしまった。 以下、とても偉そうな物言いになる事を、予め謝罪しておきたい。 また指摘の具体的な例を挙げていない事に関しても、ご寛恕願いたい。 きっと作者は言葉に対してとても繊細で、特にその意味性に強く惹かれているのだと思う。そうした、言葉に対するフェティッシュはとても好ましいのだと思う。 しかし、とても曖昧な言い方になるが、作品全体を漂う抒情やその視野に関しては、どこか既視感のある陳腐化された概念としての「満たされなさ」を硬質な言葉で糊塗しているように感じてしまうのだ 運動として形式的に関係させられた言葉は確かに興味深い。しかしそれをある種、特殊なものとして見せようとする演出が、うまくいっていないと思う。 それが前回、他の作品で僕がいった「曖昧さ」、つまりパースペクティブが確立されていない言語装置(壊れた機械)であるように思えて、残念になる 作者の感性はとても素晴らしいものがあると思うし、この表現方法も、とても興味深いものだ。 ただ、荒削りで強引な選語と言語に淫しきれない作者自身の感傷が作品として純化出来ていないようにどうしても思えてしまう。 モダニズム、例えば瀧口修造や棚夏針手だったり、似たような形式(あくまで似たような形式というだけで、目指されているものは全く違うと思うが)のひとつの現代的な達成として榎本櫻湖の第三詩集『Rontgen、それは沈める植木鉢』がある。 もし気が向いたらお読みになられることをお勧めして、上記失礼な物言いの謝罪の代としたい。 (少焉)

2023-10-12

伝えたい、という欲求が垣間見えることにより、詩行の接続が甘く感じられるところがいくつかあるような気がします(例えば初行「裏切られて」など) また、感情描写をどちらかと言えば陳腐化された言葉に頼ってしまうため、速度が必要ない(というかむしろゆっくり読むべき)箇所が印象薄く速度が上がってしまう感覚がありました(「とまらない鼓動」など) 作品と作中話者と作者との適切な距離感に、作者の情が介入してくることによりうまくいかなかったと思われる作品、つまりは未完成というよりは未推敲の舌触りを感じました どちらかと言えば短歌的であり、短歌の手法が今回は悪い方向に転がってしまったような感覚です 曖昧な感想で申し訳ない。具体的な指摘もできるのですが(例えば短歌と自由詩に用いられる手法、視点の根本的な違いなど)、今回はご寛恕ください (夜がただよう)

2023-10-11

はたらけど はたらけど猶なほわが生活くらし楽にならざり ぢっと手を見る (石川啄木/一握の砂) 多分、同じことを思う人は多いと思うが、啄木のこの歌を思い出した。 音と意味を合わせた言葉遊びはそれ自体とても興味深いが、その遊びを離れた部分が面白い >驢馬の足 >回転して同じ場所 臼を挽くような回転運動、あるいはメリーゴーラウンドに掛けているのか。驢馬は馬と比べて単独に生きることを好み、協調性は少ないとされる。粗食で頑強。故に単調な労役に重宝されてきた。これを >世俗のトポロジー と含意させているのは容易に想像がつく >死神の匕首にて >ストンと落ちた、昼下り 韻律感に支えられた喩のうまさを実感する。 「また」と「あるいは」という副詞の運用も三連を踏まえて読んだ時に、うまく機能していると思う(トポロジー) 小品ではありながらも、韻律も取り込んだ修辞の実験として、楽しく読ませていただきました (労して老)

2023-10-11

最後の論理的帰結を納得させるに足る共感を覚えるのは難しい事だけれど、確かにひとと関係するという事はひとを変えてしまう事、あるいはそう言う一種の暴力性を孕むのだなと興味深く読ませて頂きました 「私」に対して「彼女」「あいつら」がもたらした影響に関しても観察出来る視点があっても面白いかな、と思います いずれにしても釣りから思弁的に「私」の存在に引き寄せた発想は良いもののような気がします (明日は夜明けに船を出す)

2023-10-06

>私を私たらしめるために >そっと頬をなでて 風というものが身体の輪郭を撫でるこの行為を「身体=私」として描いたのがとても印象的でした。 >母音になるまで >横棒を伸ばし 風の印象を線に見立てる手法も興味深く、上に挙げた「身体」に対して音からのアプローチをしていくのも、読んでいて僕という読者に気付きを与える素敵な書法だと思います。 具体物を排除する事と同時に私性を剥奪した叙述はやはり >私を私たらしめる 風と私の関係を逆に浮き彫りにし、過剰に語る事なく静かな抒情を醸し出しています この短さの中で、圧縮しきれなかったものも色々あると思いますが、小品としてとても興味深く読ませて頂きました 少し描写を増やした長い作品も読んでみたいと思いました。 (風)

2023-10-06

音楽性を感じるのは語尾が「i」音で統一されているからか。 行末が「り」で終わっていない五行目「其処」と十行目「そば」の「oo」から「oa」への口の開き方の違いなんかも、閉塞から解放へと音で意識できるようにうまく構成されているな、と思いました。 タイトルの「離れない」もとてもわかりやすくて、列挙による工夫を活かしていて興味深く読ませて頂きました (離れない)

2023-10-06

一読、「ふーん、そうなんだ」と言うどっち付かずの感想を覚えたのは、多分、ここに書かれた価値観や世界観を共有しきれないからなんだなと思いました 毛蟹がレゴでズワイやタラバは機体。 郷愁や恋心 そのスケール感の違いに寄り添う事はできますが、寄り添った事でなにかが生まれることもなく「そう思う人もいるのね」という感覚でした イメージの連携や飛躍には、言葉の関係性がもたらす引力や斥力が働くと思っています。関係性の枠組みを書き換える事はそもその関係性に対して詳細な観察が必要とされる訳で、この作品においてはその引力と斥力がうまく働いていない感じがしました でも毛蟹は確かに美味しいですよね。身をほぐして味噌に和えて頂くと、いくらでも日本酒が進みます。 (自分でほぐすとめっさ手が痒くなりますが) (毛蟹)

2023-10-06

>あんまり奥に入れちゃいけない この気づきは十五の時の話者には気付き得なかった事なんだろうな、と思うと同時に、それに気付くくらい大人になった(痛みを知った)事を表していて寂しい優しさを感じました >焼きかまぼこ が絶妙な日常感(やわらかさ、香ばしさ)を表していて身体感覚にまで響いてきそうですね。 穿った読み方をすれば、話者は東北の出身で、故郷に残ったかつての想い人を思い出しているようにも思います。 素敵な作品だと思いました (耳そうじ)

2023-10-06

縦書きのPDFをコピーして貼り付けたようなレイアウト崩壊 言葉とは音と意味とのレイアウト、関係性によって読む人に手渡されるというとても基本的な事を崩すとき、そこになにが齎されるか、みたいな実験のようにも思えた 受け渡された僕たちは、その寄る辺のなさに迷うだろう。それこそがこのレイアウト崩壊としてレイアウトされたものへのひとつの対応なのかな、と思ったりもした。 絵画のように楽しむのがいいのかな。 詩におけるレイアウト崩壊レイアウトに関してはそれこそ19世紀の終わりから試みられてきた手法だし、日本でも70年代にそれらを深化させた詩作も沢山発表されたから(ネット詩においては反現代詩氏なんかが有名かな)、特に新しいと驚く事もないのだけれど いずれもシンギュラリティを信頼していなければできない手法であり、その点において作者の世界観は興味深く思う (rwoydlM)

2023-10-05

いすきさんへ ここの掲示板で「よくみる」「似たような作品はたくさんある」「この型がー」みたいな言説をよく見かける(僕もたまに使うw)んだけど、きっと大切なのはその類似性を含めた、このビーレビという「場」に、作者がそれを書かざるを得なかった「情動」だと思うのよね。(ココにおける「みる-みられる」の関係性を含めた、ね) 類似性の話をしてたら、なかなか評価って難しいと思う。 もちろん、いすきさんは本作から自らチャーハンをモチーフに書こうと試されているので、その誠実さに関しては間違いないと思うのだけれど、「たくさんあるから云々」という考え方は場合によっては思考を狭めてしまうことにもなりかねないかなーって思ったりしました でしゃばって余計なことを言いました。ごめんなさいね (焼きそば)

2023-09-27

ーさんが書かれていらっしゃる事に加えてフェアトレードの闇的な部分もこの作品は抱えようとしているのだけれど、それはあくまでも問題提起であって、そこから始まる「物語を物語る」機能性の否定とある種の音楽性が噛み合って、この作品は僕にとってもとても素晴らしい読書体験をもたらしてくれました。 ほんと好きな作品に感想をつけるのは告白するのと一緒ですね。どきどきしてしまう。田中さん、これ書いてくださって、ありがとうございます (みんなアイスを食べて指を汚そう)

2023-09-23

「灯」はどちらかというとその光が要素として取り出される事が多いと思うのですが、「光」を発する時の熱に観点を置くのが面白いと思いました。 「愛の灯」で溶かされて、一度鋳造されてから「柔らかな唇」が触れるとまた溶けてしまう。「灯」と「唇」の位相を同じくして「キス」とは「灯」である、という論理も発生させていますね。 鋳造が目的ではなく、鋳造した後もまた溶けて「あなたの形」に変形してしまう。 とすれば最初の方に出てきた、錆びてへこんでしまったものは、直前の失恋の痕という事でしょうか。愛の遍歴? のような事も想起させますね。 甘いようでいて、「僕」という主体にとって「あなた」と名指されるひとの行為に責任を転嫁しているような強いエゴイズムを感じます。あるいは「あなた」とは絶対抵抗できない、ある種の神的存在か。 錆びをとるという日常の行為から、そう言った絶対的な権威性を想像したとしたら、とても興味深いですが、いま一歩踏み込んで「あなた」への洞察や観察があった方がよいような気もします (愛の鋳造)

2023-09-19

わっかる。こういうのでいいんだよー! こういった事実を「詩」として書こうと思ったその瞬間にこそ「詩」があって。 書かれたものは残滓に過ぎない、なんて過激な事言った詩人もかつていました。 >ああ、 の使い方にリアリティがあるのは、それまで淡々と思い出すように書かれてきた「焼きそば」の生き生きとした描写でしょう。書き連ねること、ひいては発話する事によって引き出されてくる言語的なフェティズムがうんぬんかんぬん。 そんな事はどうでもいい。 おなか、すきました (焼きそば)

2023-09-13

道化師に「ピエロット」とルビを振ることにまず違和感。 Pierrotはフランス語だからどちらかと言えば「ぴえろう」と発音する方が正しい。とすれば、作中の道化師は道化師一般ではなくて、「ピエロットという名の道化師」「ピエロットと呼ばれる道化師」というややこしい意味を持つことが考えられる。 で、 そのややこしい認識を通過する道化師のルビが「ピエロット」である事が作中では活かされているように感じない。 それがなんとも肩透かしであったのが残念なところ。 文体としては浪漫主義だったり高踏派のイメージで書いたのかな 統制されたものの配置がよく考えられた文章で、どちらかと言えば舞台などで狂言回しが口にするセリフのような、口中で転がす快楽はあると思います。 でも道化師に対する観察というかが足りなくて、たとえば映画「ジョーカー」なんかを知ってしまっている現在の僕らには、物足りないかな、なんて思ったり 高踏派の詩人と言えば堀口大学で、彼の詩集「月光とピエロ」にピエロを題材としたレクイエムがあります。 アポリネールとローランサンを材に採った作品で「月夜」といいます。 もしよかったら読んでみてくださいね。 (ピエロット・ノ・タメノ・レクイエム)

2023-09-13

>最後の魂は甘い このフレーズに痺れました。 それが「honest」一連を明確に言い表せているかは別として、言語に魂を見出する思想性を短いながら表していて、個人的に好感を持ちました >海岸沿いに浸して という(言葉のもつ参照性に依存しすぎているような)少し残念な表現も散見しますが、少し懐かしい韻律感を持った作品として、個人的には嫌いではない作品と思いました。 音感が優れていると思いますので、ソネット(韻を踏まなくても)なんかも黒髪さんの文体で読んでみたいと思いました。 (Honesty)

2023-09-09

言葉と言葉を繋げる関係性を断ち切って、編集的にレイアウトしていく作風に関しては、その断絶と参照性の存在のあり様そのものを否応なく読者に迫ってくるようで、とても興味深く拝読しました。 使役の助動詞「せよ」が使われているのも効果的で、なんらかの権威(たとえば神であるとか)と読者の関係性について考えられますし、どちらかといえば、こうした平面での提出よりも、インスタレーションされたこの作品を読みたい(体感したい)と思いました。 (沈水花(初稿))

2023-09-09

前半の童話的な語り口がとても印象的でやわらかな出だしは世界観をよく伝えていると思いました。 >ずっときれいなままではいられなくなるのだろうか という疑問を発見した事がこの作品を書かせた理由なのでしょうが、残念ながら、そこからの発展がない為、前半で作られた世界観が空回りしてしまっているようにも思います。 たとえば「きれいなままでいられるもの」「きれいではなくなってしまったもの」それらの存在を思考し、それはなぜかというところまで踏み込めるのであれば…、もう一歩思考を進めた作者の作品を読んでみたいと思いました (ずっときれいなままで)

2023-09-09

まずもって、アーカイブのご提示、ありがとうございます 前例に倣うのであれば、レッドカード罰則該当者に関して運営に受け入れるかどうかの議論に関しては第7期三浦さんが運営をしていた時点で行うべき事でしたね。 第7期運営の独断でそれ承認し、その咎を現運営が負っている状態なのでしょうか。 問題の発端は第7期運営にあるようにも思います。 個人的には、前にどこかに書いたように、第8期運営として一旦承認され、動きだしてしまったものはしょうがないという感想です。 ゼンメツさんだけではなく、ここに反対意見をお持ちの方の関心を常に意識して、罰則授受者には言動して頂く、という落としどころはどうでしょうか。 それで半年あるいは一年活動して頂き、やはり無理だという判断になったら、またその時議論すればいいのではないでしょうか。 該当者はとても親身なレッサーとして、いまこのスレッドにいらっしゃる方々よりも頻繁にコメントを付けている姿が見えますし、(もちろん挑発的な発言をしてしまった過去は消せませんが)これからの姿勢に期待しても良いのではないでしょうか? オブザーバーへの移行も含めて、これも見守る事も大切な姿勢だと考えております。 にかわじ(?)さんの問題に関しては、沙一さんとの個人的な信頼関係にも問題がありそうですね。こう言った公の場で批判するのではなく、個人的なやり取りで解決できなかったのでしょうか? このスレッドは様々な個人的事情が本論と交錯して、もはやただの口喧嘩のようにみえます。論点も同じところを堂々巡りしていますし。 この事を受けての運営からのアナウンスを待つべきなのではないでしょうか? フォーラム閉鎖まで時間がかかったように、全体の事を決めるまでには時間がかかるものです。即決せよ、というには性急過ぎるのではないでしょうか。 余計な口を挟みました。 8期運営に関して、僕はガイダンスに基づいた上での変革、挑戦の一端として肯定的にみています。 今後はフォーラムが設置されるまでこの件に関しては触れないつもりです。 レス専として、ビーレビに貢献できればと考えています。 (第8期運営方針)

2023-09-08

フォーラムの閉鎖に関して、ユーザーにその信を問う行動を当時の運営は起こしましたでしょうか? そして満場の是認を持ってそれが肯定されたでしょうか? 沙一さんがその当時の運営か分かりませんが、ビーレビの機能に関して、運営間で話合われ、それで変更されてきたものも多くあると思います。 『ビーレビとは』に記述がある通り、ビーレビは >現代詩のフィールドにおいて唯一変化し続けるサイト であり、かつまた、 >多くの先人が取り組んできてそして上手くはいかなかった(または取り組もうとも思っていなかった)ことについて、B-REVIEWは果敢に挑み続けます。 との宣言の通り、これまでの運営がやってきた変革も保護されますし、それと同時に現運営はこの宣言に則り、新たな思想の下、新しい挑戦をしているとの見方を持つ事は難しいのでしょうか。 結局、個人のプライドを前提とした同内容を繰り返す揚げ足ばかり取る、不毛な言い争いにしか見えまえん。(現運営の話もです) 話し合われるコンテンツが煮詰まっている以上、あとは立候補を以って成った現運営の良心をもった判断を待つばかりではないでしょうか? 歴代運営には釈迦に説法だとは思われますが、この掲示板の場が、詩作品の合評を主とする場である事をいま一度、基準としていらっしゃるガイダンス等に基づいてご判断頂ければと、願わずにはいられません。 (第8期運営方針)

2023-09-08

これは嘆願であり懇願であり、かつまた泣き言なんだけど どんなに言い争っててもマナーガイダンスを無視した罵詈雑言が飛び交っても、もういいから、 だからせめて、【下げ進行】でお願いします せっかくユーザーが投稿した良質な作品が下に追いやられていってしまう。 せめて3ヶ条に掲げられた精神は遵守して欲しいものです。 <現運営へのお願い> なるだけ早急にフォーラムを復活させ、そこにて運営に関しての闊達な意見交換を行って欲しいと願います 掲示板部分は以下の3ヶ条に定義された詩作品の合評の場としての安堵を頂きたく、上記お願い申し上げるものです。 ***** ◇ ビーレビ3ヶ条 以下をビーレビ3ヶ条と定義する。 一 ビーレビは「マナーを遵守する」サイトであり、荒れない/常識の通ずるサイトを目指すところとする。対面での対話や議論におけるやり取りを逸脱した、「常識外の行為」は認めない。これは、健全かつ円滑なコミュニケーションによって、ユーザー各位が詩作への思慮を深めるための措置である。 二 ここは芸術家たらんとする人々が、作品投稿、コメントによる合評のプロセスを通して、「詩作及び文章を書くことの喜びを大いに味わって頂ける」場所である。 三 ここは投稿だけではなく、合評によるコミュニティの活性化を良しとするサイトである。コメントは感想のみならず、時には「真摯なアドバイス」を受ける場合もあるし、自身がそれをする場合もある。勿論、良作には多くのコメントが付く。自分の書いた詩が読まれること、他人の詩を読むこと、そういったプロセスを経て「ユーザーの皆様が自身の作品の向上に努める」場所である。 (第8期運営方針)

2023-09-08

楽しい読み物でした。 秋亜綺羅さんとか、こういった詩を好まれそうですね テンポとリズムが同じ事が多いのと、意図された俗っぽさが連続する事で、ちょっと長いかな、と思わないでもないですが、面白く読ませて頂きました 個人的には、羊に執着されるよりも >しあわせは続いてく >線路のように >その上を走る黒い塊のように >猪木はもういないのに で終わる方が、発見された詩性をより読者に届けやすいのではないかと思いました。 めーとる、の名も、舐める音も工夫されていて好意的に読めるのですが…… (めーとる)

2023-09-07

手紙のような筆致で作者の誠実さを感じられますね。古いドイツ詩なんかを読んでいる気持ちになりました 話者が固定されている設定の中で、再度話者が話者自身を名指す行為は、話者の存在を強く提示する効果があります。 この作品に関していえば、上記効果の故に逆に「僕」の要素が強く、「あなた」という存在があくまで「僕」に操作される、神話的な(行動体としてだけの)「あなた」と感じられてしまいました なので話者のナルシシズムが、前面に出てしまっている印象を受けてしまいます 文体、そして文章を本来ならば分かりやすく伝達するために使われる修辞は、そのレイアウト(関係性の配置)によって思想性を帯びます 本来ではフェアな読みではないのですが、前作と合わせて考えるに、作者は誠実な方なのだと思います。ただその誠実であろうとする姿勢が、ややもすると他者性を排除するように感じてしまう文体に影響しているのかもしれません。 いったん肩の力を抜いて、「物を書く」といった事を試してみるのも、悪くないんじゃないかなと、そんな風に思いました (我が山に木霊は立ちて)

2023-09-07

「私の嫌いなあの人」がもしかすると「嫌い」という一点において「私」という存在の証明だとしたら、「嫌いなあの人」との共通点を見つけた時、「私」の存在とはなにかが揺らいでしまう。と同時に「嫌いなあの人」を嫌いでないと認識するのに、躊躇いがある 物語性に寄った作品ですが、わかりやすい言葉で開かれていて、伝えたい「情報」はよく伝わっていると思います。 一字下げの部分の挿入はとてもわかりやすい寓喩となっていて、白萩さんが汲み上げた詩性を伝えることに成功していると思います とても丁寧で好意的に受け取れる文章であると思いますし、70〜80年代の自由詩を好まれる方には特に評価が高いでしょう。 ただ個人的には、この考察のさらにその奥、この気付き(発見)を得たさらにどうしたのか、どう感じたのかを読んでみたいと思いました。 いま現在の生活の中でこの気づきがどう変容していくのか、その観察はきっともっと良い詩を産むのではないかと期待します この作品を端緒として、「私」からの一側面だけではなく、「私」を見つめる作者の目、社会の目そういった視点の相剋を再度構成し、描かれていく世界を読んでみたいと思いました (確か、花火を綺麗とも言っていた)

2023-09-07

とても素敵な作品ですね。読み終わりの余韻がとても心地よい。特に望遠鏡の下りにはハッとさせられました 文学とは文章から詩を除外したものだ、と言うのは金子光晴の言ですが、僕のくだらない感想でこの作品を汚してしまいたくない、そんな気分にさせられるくらい、とても好きでした。 時間が掛かるかも知れませんし、この作品の魅力を削いでしまうかもしれませんが、続く投稿でこの作品の魅力を語らせて頂ければと思います (Polar bear ice)

2023-09-06

異常に重い詩語の詩語のために書かれた作品のように思えてしまった。サンプリング? ブリコラージュ? そういえばなんとか褒められるのかな。 詩として汲み上げたもの、視点設定が曖昧でゆえに立ち位置も曖昧。言葉の配置もあって「なんとなく詩的なものを詰め合わせて作りました、ポエムとかラクショー!」みたいな揶揄的な作品としてもみえてしまうのは僕が素直じゃないからか。 申し訳ない。初読の印象はこんな感じでした。 時間があれなもう少し詳しく読んでみるかも…… (寂然と水鏡)

2023-09-05

ほばさん、すまん。 指摘の箇所は僕の勘違いだった。そしてほばさんが旧運営だと言うのもしらんかった なので、ほばさんに関しての言及は誤りです。申し訳ない ふじりゅうさん、失礼を重ねてしまった。ふじりゅうさんにも謝罪します (森おじさん - Creative Writing)

2023-09-05

これ、なんだか妙に気になってしまう作品。 ガルシア・マルケスの短編で、河から大量の蟹が上がってきて、街はもちろん部屋の中にまで入ってきて、人々がそれに悩まされてる、なんていうものがあったんだけど、それを想像した。 >カニは共食いをしないものだ >だからカニを食うのだ/私達で この論述形式の終わり方は一部を拡大した帰結で如何にも寓喩的なんだけど、この機能から帰納的にこの作品を読んだ時のテーマが、あんまり面白くないものに感じてしまって、別の読みを探していたりする。 前述したように、論述という手法自体を再構築したような魅力的な文章だし、抜け感というかツッコミを含めて余地もあるし、リズミカルな読み口はとても好き。 うーん。ライトレスで申し訳ない もう少し読み込んで、気づいたことがあったら、また書きます。 (インソムニア)

2023-09-05

ライトレスで申し訳ないんだけど、詩的な文章にとってとても大事な要素にリアリティというものがあると思うんです。 事実ではなく、リアリティ。 最終連への繋ぎと、なんの変哲もない最終連の内容が、過不足なく作者のリアリティを他者に伝えられていて、とても素敵な作品だと思いました >私は別に孤独ではない。 この表明は、はっきりと作品において異物です。ですが、この単純で一見なにも意味を持たない唐突な挿入が、とてもうまく機能しているように思います。詩の呼吸というか。「わたくし」に距離を取り戻す作用というか。 分析的に読むと言うより、インスタレーションをぼーっと眺める、まさに「絵について」そのもの(絵に関して、ではない)の再演が読者の中で行われる。そうした事の快感があると思いました (絵について)

2023-09-05

偽物と規定されている色々なものが「話者」の決定にすり替えられているのが面白かったです。 「偽物」が「偽物」として話者に決定付けられる、それは果たして本当に話者が決定している価値観なのか。それとも目にみえない、例えば社会といったものが強制する価値観なのか、という読みです 最後の >ほぼ偽物な父親 がそれら価値観に対しての話者個人の価値として萌芽しているような、そんな救いを感じました 最終行が「ほぼ」という副詞によって全体を占めるアイロニーをまろやかにしている、それでいて「権利」というやはり概念に依るところとか、とても面白く読みました (空言)

2023-09-04

あらあら、一方的に絡んできて尻尾巻いて逃げるの? 一輪車もそういうの得意だったなぁ。お里が知れるよ あとさ >・作品投稿をせず批評/レスだけ行う「レス専」の参加者も歓迎する。 作品を投稿しなくても、評を書く事だけでの参加はガイダンスでも認められてるんだよね? それをどうして室町さんは、否定文言として得々とおっしゃえるのだろうか? ガイダンスすら読んでいらっしゃらない? まさか、ねー? あ、そっか室町さんがここの牢名主みたいなルールメーカーなのね! だから他のやつはダメでも自分はいい! 俺の感想だけはちゃんと読め! とか可愛い事言えるんだね! いいなー。そういうタフさ これ以上ここでレスバするのは作者への失礼に当たるから、これきりにするねw でも室町さんの「最後」は自分ルールであてにならないから信用してないけど。 ふじりゅうさんへ。失礼しました。 感想はもう随分上の方にあるけど、もしよかったら。では (森おじさん - Creative Writing)

2023-09-04

作品の評を書いて、それに絡んできた人たちにご返信させて頂いているのが荒らしとなるのであれば、そもそも絡んできた御仁達は荒らしを煽って遊んでおられる、ガイダンス無視した遊侠人であらせられる、と。 いいね。レミングが一緒に海へ飛び込む仲間を探してるみたいだねえ。 室町さん、自分の歴史語る作品あげて、自分が一輪車であるって宣言しているようなもんだけど、一輪車さんも過去、ここ出入り禁止になったんじゃないの? ceremonyさんを追求しているその文言が全部自分に返ってきてるのご存知かしら? (森おじさん - Creative Writing)

2023-09-04

運営への開かれた意見交換の場として、ディスコードの招待URLをサイトトップに貼ったらどうでしょう? 正直、怪獣大会戦はそっちでやって欲しい。 ぶんごくだったら、フォーラムでやってくれって話になってましたけど、ここはフォーラムないので。 (第8期運営方針)

2023-09-04

文脈よんで欲しいんだけど、難しい人には難しかったかな?そしてここで他の作品に書いたコメについて書くのはだいぶ常識ないね Tomoyoさんの発言も全部、ガイダイス違反だね。 あと、捨て垢かどうか、証明してよ tokoyoさん、室町さんと文体そっくりだから室町さんからレス貰ったのかと思ったよ。 (森おじさん - Creative Writing)

2023-09-04

花緒さん。捨て垢じゃねーから これから参加しようとして、政治好きな誰かと違って、きっちり評も書いてる てかさ、花緒さんのこの発言ってマナーガイダンス違反じゃね? >合評の名にかこつけた、他者を攻撃する行為を厳格に禁ずる。また、十分な理由を明示しない酷評/罵倒を禁ずる。 捨て垢だって明確な根拠を示さなきゃ、あんた処罰対象じゃないの?そこんとこどうなの?  きっちり説明いただきたいと思います (森おじさん - Creative Writing)

2023-09-04

うーんと。 この作品においては「私」「私達」は不明確である方がより趣旨に対して明確であると思うのよね。 「みんな」の話としての展開は「S・カルマ氏の犯罪」に通じる観点があって、そこは絶対外せない部分だと思う。 鼻緒さんが言う、主体を明確にもってきてしまうと、揶揄する文章としては明確化できるけど、ただの現状へのヤジや嫌味として書くんだったらもっと効率的に書く方法はいくらでもあるし、ただのつまらない作文に堕す。 あくまでも詩的文言、あるいはクリエイティブライティングとして提出するんだったら、この「曖昧さ」は思考のきっかけとして機能するし、短所とはならないのよね。 もちろん、ほばさんが言っている過去から連なる設定なんかも入れてしまうと逆に魅力がなくなる。 ぶっちゃけ両方、的外れ。 もちろん、感想はそれぞれ、視点の持ち方はそれぞれだと思うけど、この作品に関しては、提案されているもの以上の成果を出せていると思うので、あまり内省的にならずにいて、また投稿してもらった方がどんどん良くなると思う。 まあ、それはこの感想にも言える事だけど。 ビーレビの旧運営はほんと政治が好きなんだなぁ。先月末から素晴らしい作品がたくさん投稿されているのに、それに目もくれず(コメントもいれず)政治政治政治ばっか でも、それを考えてくれるから場が成り立ってるのかもしれないね。感謝。 ふじりゅうさんは素敵な書き手さんだと思うので、これからも楽しい作品を読ませてくださいねー (森おじさん - Creative Writing)

2023-09-03

とりとめもなく、感想などを。 「言葉つて野蛮だけれど鎮魂のなかにちんこがあるのだけは好きだ」(藪内亮輔『海蛇と珊瑚』) この短歌には「バビロニアの中にバビロンがあるように」という発見より劇的で下劣な発見がされてて、面白い。でもこういうのはきっと昔から嗜まれてきた遊びなんだろうなと、思う。 ざっと読みで恐縮ではあるが、ストーリーは二重性をもって語られていると感じた。 ひとつは「俺」と「俺’(=おまえ)」の関係性。大人になるにつれて異身同心だと思っていた物が異心でもあると気づいていくこと。 もうひとつは、父と子の関係性の変化に関して。いつまでも子供だと思っていた存在が成長するにつれ、自分の子供時代を投影していたことに気づき、自分とは違う存在へとなっていくことへの悲哀。 といったところだろうか。 いずれにせよ「俺」という人物からは強い劣等感と趙烈なエゴイズムを感じる。 社会化できないことを賛美し憧れ対し支配の失敗を嘆く姿は、なんだか旧弊の男根主義的な社会構造に虐げられながらもそこから脱却もできず、かといってそれを模倣しては失敗してしまう、時代からも孤立する条件を(自らか環境からか分からないけど)選んでしまったロスジェネの悲哀を「カリカチュアライズ」している、と読んであげないと、ちょっと書き手とその書き手によってなされた修辞のレイアウトが可哀そうな気がする。 たぶん、本当は考えてないのだろうけど。 面白かったのは「エルマーのぼうけん」に材を採っていること。「My Father's Dragon」原題を「お父さんのりゅう」とするこの作品のエピソードを巧みに使い、父の在り方への戸惑いを真逆とも取れる手法で表現していること。トラとチューインガムの扱いが面白くて、このトラはもしかして「しまじろう」なんじゃないかって邪推してしまったり。 これらトラのエピソードで分かりにくかったのは「チエノミ」がリンゴの品種名として扱われていこと。もうちょっと綺麗に分かりやすく整理してもいいんじゃないかと思った。 父は生物学的な父として存在するが、出産そのものは女性が担う行為であること。身体的なつながりは出産から授乳によってなされ、父は社会的な認知によってしか「父」と呼称される資格を持ち得ないこと。父にとって子は他人であるが、その他人は遺伝的形質を持ち、似たような顔で笑う。 いずれ親の手を離れて行ってしまう子供(この詩で描かれている子は多分男児だろうけど)に時間や環境が社会的父親として以外の親愛を与えることが、きっと常識的な親の愛なのだろうが、親もひとである。失敗している例は卑近にもたくさんあり、そのことについて考えさせられた。 文体としては言葉の配置、特に暗喩的な修辞をまき散らすのに効果をみとめられなかった。冗長であることにも意味を見出すことは可能だが、そこまでして寄り添う価値があるかは疑問。散文形式でこれではただの文章が下手な人にもみえてしまう。言語に淫するのは悪くないと思うが、よりリーダブルな文体の方が作者にとって向いているのではないか。 (ブルーエンハンサー)

2023-08-28