【ビーレビュー大賞】
 

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勉強します。ありがとうございました。いろいろと迷惑をかけました。

https://www.breview.org/keijiban/?id=11857

「人として大切にしていたところをもう一度照らしてくれるような純真さに」

(詳しい選考文は後日改めて)
 
  

【最多得票数作品】


入間しゅか

https://www.breview.org/keijiban/?id=11774

>例えばそれは
>母音になるまで
>横棒を伸ばし

とても美しい書き出し。ここから誕生したひとつの風が、作品内をやさしく駆け抜けているように感じました。

風の通過によって浮かび上がる「私」という存在の捉えがたさが、作品に流れるしんとした静けさと穏やかさへと繋がっているように思います。

読者のなかにある風のイメージを引き出しつつ、入間さん独自の風の描きかたを提示することに成功しているため、作品がすっと読者の内部へ入り込んでいくような、生活のなかの風を感じるあらゆるシーンで、読者に本作を思い出させるような、そんな力を秘めた作品に感じます。

例えばわたしには、梅酒を見ると思い出す詩、クロッカスを見ると思い出す詩、光を照り返すビルを見ると思い出す詩といったように、日常にあるものがきっかけとなって、自分の中にしまってある好きな詩人の好きな詩が浮上して来ることがあるのですが、これからは、ひるがえる洗濯物や、草木がすれあう音など、風を感じる状況のなかで入間さんの「風」を思い出すようになるんだろうなと思い、わくわくしています。すてきな作品をありがとうございました。【あやめ】
 

【優良作品】

明日、君がいない
カオティクルConverge!!貴音さん

https://www.breview.org/keijiban/?id=11797

「お話し」の、はじまりに「昔、昔あるところに」があれば、その「お話し」は昔というとおく、そうして、あるところ、という曖昧さゆえ、これも知れないところ、とおく、を指している。詩は、その手触りによるのだけれど、じっさいにはとても個人的な表現をとりながら、「設定」というものを設けて、それはとおい世界を展開することも多くみられると思う。むしろ、表現として、アーティストとして、特化したいのであれば、その、カリスマ、を演出する意味でも、その設定に凝る。性急な意志かも知れないけれど、そんな「設定」が、語り部と聞くもの読むもの、の間にあることを「嘘くさく」思うのであれば、そんなものは取り払ってしまってよろしいと、そう、この、話者は固い意志を秘めて今作を語りつくした、書き尽くしたとして、この「独白」は、じぶんが、非常に幸福な環境にありながら、そのスリルがないという点、そしてじぶんじしんの煩わしさの方が立つことを生々しく訴える。

その訴えに応じるように告白すれば、私は非常に自己を語るスタイル、独白の詩を書いてきたけれど、こんなにも、クレヴァー、かしこに、そうして広い世界を内容した語りができた試しがなかった、と正直応えよう。というのも、今じっさいに、この作品について語っていることを吟味してもらえればいいけれど、私の語るというのは、それをテキストで提示することは、じつは細部の、ギミック、といえばいいのか、要は技巧的なものであって、その技巧で設けたことと、その意味することが別段足らなくても、読ませる、ってことなんです。

この作品では、生きてる、の語が選択されて、生きて「い」る、ではない。
思ってる、であって、思って「い」る、ではない。
しかし、そういう技術がしっかりありつつ、語られている内容は、それは技術という皿の上に、充分にのっている。そうして別段、それを再度、取り上げる必要もないのは、すっかり話者が、語り尽くしてしまっているから、ってことだろう、と。

説得が足らないのならば、付け加えよう。この話者の後半ブリッジ、これは非常に弱々しい。しかし、かのソクラテスいわく、じっさい、強い人間というのは自己をすっかり失ったものなんだ。明確に、自己を確立すれば、つまり、自分がしっかりしていればするほど、じっさいには弱いのが人間だとソクラテスは言っている。今、ここ、に生きているものたちとしての私たちが弱い、のであるならば、それは私たちがしっかりしているからだ。魂を売らない、っていうのはそんな弱さを受けいれつづけるってことなのだろう。【田中教平】
 

好きなことは下手でもやり続けるしかないよな、生きろ。
ゼッケン

https://www.breview.org/keijiban/?id=11780

「書く」という行為に伴う症状について、生につきまとう「書く」という衝動について、真正面から向き合う人間が描かれている。

6連名までの描写が、7・8連の詩的な描写を際立たせることに成功していて、詩を書くという行為に複雑な感情を抱きながらも、結局詩を書いてしまっている「おれ」という人物が、しずかに浮上して来る仕組みになっていて、とても素晴らしい。

>詩が先にある すでにある詩を思うことなどできない
>詩人ではない人間が詩人になることはできない
>詩は常に書かれてしまった後であり、これから書こう、などと
>思うようなものではないよな、あんたがたなら知っていることだろうけど
人間の内に湧きあがる風景や感情を、完成された詩として「おれ」はとらえていて、完成された詩を損なうことなく、言語作品として落としこめるのは詩人だけだ、というようなことを言っているのかなと思った。
詩人ではない「おれ」が、完成された詩との間につくる隔たりの大きさを痛いくらい感じる。「おれ」の詩への気持ちが大きくなればなるほど隔たりは大きくなり、飛び越えようとすると、水しぶきがズボンの裾を汚れてしまう。この連からは「おれ」が詩を書くという行為を繊細に捉えていて、緊張感をもって挑んでいることが見えてくる。

7・8連では題名の「好きなことは下手でもやり続けるしかないよな、生きろ。 」が強く響く
「詩を憎んでいる」「脚は伸びない」と言いながら、詩への後ろ向きな態度を、ゆたかな詩情を率いて描いていて、世界を映し出す水たまりの物悲しさは、訴えかけるものがあり、とてもうつくしい。
「おれ」にとって詩と詩を書くという衝動が、逃れられないもの、呪縛のようなものにまでなっているのだと思う。それでも水たまりを避ける、という選択をせずに、しずかに水たまりと対峙する「おれ」と、タイトルの「好きなことは下手でもやり続けるしかないよな、生きろ。」という響きが重なると、澄んだような読後感が生まれる。

ひとりの詩人の呼吸を感じることができるとても素敵な作品【あやめ】

 

残響

https://www.breview.org/keijiban/?id=11835

残光、日の入りの光というものは、どうして人の心を揺さぶるのだろうか。詩人なら誰でも黄昏や夕暮れの場面を描いたことがあるだろう。残りゆく光とはまさに消えていく光であり、そして夜がやってくる。夜は帷と比喩されることがあるように、重く垂れ下がり、光を妨げる。夜は光の乏しい世界だ。視界が狭くなり、草木も眠りにつく。一人であることを実感しやすい時間なのかもしれない。

類「残響」はそうした日の入りの時間をモチーフにとった、不思議な作品である。残響とは音が聞こえてのち、その反射音が残っているという物理的な現象ではあるが、残光はもっと比喩的で、実際は光の反射が残っている状態ではない。中天に太陽が燦々と輝いていたその残滓のような日の入り特有の光度の現象を、「光が残るようだ」と言い換えた語彙だ。この二つの言葉に共通する「残」、つまり「残りもの」であるということを除けば、そこには視覚と聴覚といった異なる感覚器で得られた刺激が残る。それら異なる感覚を同一の地平で語ろうとすることにより、詩を発生させていると言えるのではないかと、そんな風に考える。

他にも興味深いところはある。冒頭に描かれる「家」であるが、家と放言されているだけで、それが家であるという実感は乏しい様に感じる。詩文の中で語られいるのは、窓の様子とそれを覆っているカーテンだ。まるで入口、つまり玄関がなく、窓だけがついている閉じた家を想像させる。
視点は外から見ている様だが、静かに室内にいる様にも感じさせる。いかにも曖昧なのだ。そしてその曖昧さを助長する様に挿入される「残光」の柔らかで弱々しい様相がとても印象的に思える。

闇に包まれるのは、夜をイメージしているのか。それとも室内にいて、閉ざされたカーテンの内側にいるからこその闇なのか。しかしこの闇はそれほど残酷なものでもなさそうだ。
闇は、視覚を遮断する。それゆえ、聴覚がより働くことになるのだ。「(…)耳が/(…)/溶かされる」とはそういったことを表しているのではないだろうか。そして、続く連で語られる「名を呼ば」れるという行為は耳によって受け取られる聴覚での感覚だ。そして、「名を呼ば」れることが耳に溶ける残光のように耳に響いている。

「私は/私の名を呼ばれたいか?」
この問いかけは、自らの存在が「名」に結びついているという意識に基本的に支えられている様にも思える。他者から与えられた「名」は「私」を表す記号として「私」の存在に紐つけられる。「名」とはそうした呪いの様な役割を果たすが、そのことで「私」を認識する絆にもなる。そして「名」とは、自身の記憶に最も深く関わる記号でもある。
ところで人間の知覚は記憶の影響を大きく受ける。知覚されたものをどう知覚するか(認知)に記憶が用いられるからである。「夢の上」とはそうした記憶のことを意味している様にも感じる。線上時間軸上の参照は夢、すなわち記憶として統合されつつある知覚を再演することに近しい。そして少し強引な言い方をすれば「私」という人称も「名」を置き換えたものであり、「名」を覆い隠すカーテンと言えるかもしれない。「私」を「名」の代わりに仮面として被り、他者の顔をして自らを見つめ直す。この問いかけはそういう解釈もできよう。
「無数に並んでいる窓」とは、その記憶にアクセスする入口なのかもしれない。なるほど、脳は頭蓋骨に覆われ、闇の中に浮かんでいる。眼球が窓だとしたらこの家は人間そのものを暗喩しているのかもしれない。

曖昧化し抽象化した印象の強いこの作品がそれでも魅力を持つのは、こうした多様な解釈の幅を持つことも理由の一つとして挙げられるだろう。そして、こうしたイメージの連結によって語ることにより、容易くは言語化できない「私」という存在を思弁的に考察している作品として、とても興味深くこの作品を読むことができた。【片々】
 

子供部屋おじさん
勉強します。ありがとうございました。いろいろと迷惑をかけました。

https://www.breview.org/keijiban/?id=11794

YOUTUBEで、アメリカ在住のカナダのフォーク・ロック歌手、ニール・ヤングのドキュメンタリー映画をみたときは、確か一時間と少し。字幕のないそれは、さいしょ観たときは非常に長いと感じたけれど、ともかくアメリカの大自然の風景が、ノート・パソコンからわっと展開されること、現在、個室に籠ってリハビリをしていることの多い、そうしてたまに外に散歩に出る程度の私にとってたまらなくて、何度もヘビーローテーションして流しっぱなしにしていた一時期があった。すると、不思議なことに、いつの間にか長く感じたその印象は次第、薄れて、今ではそれは短い、と感じる。その大自然の光景と、音楽に、訴求力があったとして、それでは足りないのですね。という風に、じっさいに、時間という概念は、甚だ、主観的なものであって、一時間なら一時間をきっちり経験することはできない。例えば、子供の頃にはその日が暮れるのが非常に長かった覚えはありませんか?それがいつしか、一日というものがあっという間に思える。しかし、私は坐禅をするのですけれど、この一分だって実は長いものです。しかし熟練者になると、二時間があっという間だといいます。この作品では、その時間がとても主観的であるというところを、逆手にとって、映画「サタンタンゴ」の7時間18分という時間の前で私は死んでしまう、と断定する。とても巧みな発想です。そうしてじっさい、じぶんの頭に手を銃の形に真似るわけですけれど、アニメ「ドラゴンボール」の挿入がいいじゃないですか。先に書いたように、子供の頃は、やっぱり時間は長くて永遠のようだとも思いつつ、現在この歳になって、時間に追われているような気も致します。その、とても恐ろしいことと、ノスタルジックなものでしめくくられること。味わい深いです。【田中教平】

 

【佳作作品】

少焉
A・O・I
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みたされたすべてが真直ぐだった
A・O・I
https://www.breview.org/keijiban/?id=11787
 

縁をなぞる
森山
https://www.breview.org/keijiban/?id=11865
 


1.5A
https://www.breview.org/keijiban/?id=11819
 

ふたつの詩の距離が平等になるまで、タンゴのリズムでレゲエを踊れ
中田満帆
https://www.breview.org/keijiban/?id=11799
 

鉄で出来たアパートの小さな部屋
ゼッケン
https://www.breview.org/keijiban/?id=11826
 

ゆとり
エイクピア
https://www.breview.org/keijiban/?id=11763
 

17歳
窓際最花
https://www.breview.org/keijiban/?id=11786
 

少年と傘法師
忠次
https://www.breview.org/keijiban/?id=11798

あたりまえ だった
Sora
https://www.breview.org/keijiban/?id=11818
 

骨になってしまったんだね

https://www.breview.org/keijiban/?id=11839
 

五日間のレッド・ツェッペリン
yasu.na
https://www.breview.org/keijiban/?id=11754
 

冬の彫像
watertime
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