【ビーレビュー大賞】

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勉強します。ありがとうございました。いろいろと迷惑をかけました。

https://www.breview.org/keijiban/?id=11857

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・気品のある美しい文体

・アンバランスさに妙味がある構造

・愛についてという古典的かつ正統的テーマを現代の言葉で語り直す純真的かつ創造的試み

 この3点が選考委員内で評価を得て、新体制における初の大賞となりました。

以下は各選考委員のコメントになります。

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作品解説

 氏の作品は過剰とも言えるほど、視覚が強調されているのが特徴です。

繰り返し挿入される映画のシーンも勿論ですが、すこし引用してみると、

>私たちの兄妹は太陽を見上げれば

 太陽、見上げるなどの動詞は深く視覚に関わった単語ですし

>待ち望んだ、めまいのような 
>思いがけない思い出を
>私はこうやって耳で見ている

 めまい、思い出、耳で見るということ

>私たちはいつからか一人で泣くようになった
>私たちは隠れて泣いたり、人混みの中でも泣いた
>私たちはそれでも、一人だけが悲しいことなんて、なかった

 泣くということもそうです。それらの視覚的に関わるイメージが、多層的に立ち現れ、クライマックスでは、

>私たちの心は
>燃え立つほど光っている!

 という、それこそ作中の兄妹たちが目を伏せざるを得ないような、燦然たる太陽が過剰に輝く圧倒の情景で締めくくられます。光の眩しさや暖かさ、性愛の喜びとともに、人間の孤独や苦しみ、別離などの影が、明暗として、ポリフォニックに表現された傑作で、どこか大作映画を見終わったような読後感です。

 氏の語る愛とは、まさに最初に示唆される通り、美しい翻訳の言葉と言葉のズレのように、お互いが別々の項でありながら、折に触れて再会(reunion)するものですが、それは決して一本の簡単な直線ではなく、紆余曲折を経たものであるという哲学に支えられた、どこかリアリスティックなものでありながら、深いストーリー性に対する信仰が垣間見えます。また、精神的な偶像、理想であるところの兄妹たちと、「私たち」ガンマンや保安官、すこし遠くなって、その映画を観る観衆や、電車の中のひとびと、など様々でお互いにズレた視座が織りなす「ひとつの世界」はどこか群像劇的でありつつ、「ひとつの世界」という映画の演者でありながら観衆であるというような、様々な視点がオーバーラップする表現は、まさにクリスマスのように華々しくありながらどこか悲しみもある、現代のクリエイティブラィティングとして顕彰するに相応しいアートである、と強く信じここに、大賞を贈ります。

天才詩人2

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うろたんさんへ

人間から人間へ脈々と受け継がれてきた、個人の力ではどうにもならないものとしての愛や悲しみが、作中に強く深く響いている。そこに、勉強しますさんの静謐な文体が重なることで、悲しみの反復のなかでも、不思議と救われるような思いになり素晴らしいと思った。

また「待ち望んだ、めまいのような/思いがけない思い出を/私はこうやって耳で見ている」や「人は人を耳で見ようとすると/自然と、目を閉じていることに気がつく/人の旅に思いを馳せ」など、聴覚・視覚・思考が連絡しあっているようすと、そこから生まれるうねりの展開がとても美しく、この唯一無二のセンスを(私なんかが偉そうに言うのも気が引けるのですが)これからも活かしていってほしいと感じます。

あやめ

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この作品を読んで感じたのは、「一」という数字の多用でした。例えば尾崎放哉の遁世以降の作品に「咳をしてもひとり」「一日物云わず蝶の影さす」「沈黙の池に亀一つ浮き上がる」という名句があるけれども、全て「一(一人、一日、一つ)」に寄せて表現されている。その尾崎放哉の所属した結社「層雲」は非常に宗教色のつよい結社だったようですけれど、「一」に寄せるパターンは、研ぎ澄まされた信仰もありつつ、その、日本人の普遍的な、表現に於ける、最大公約数、的価値観に触れているのではないか。その、硬質でありつつ、柔らかな文体は、一、の数字の多用を支え、作品を魅力的なものにしているのではないか、と思われます。

 後半の「始まっている!」からは素直な表現になっており、それは所謂「無明」「うたがい」から、人は解き放たれた方が良い、と考える私の個人的道徳観を代弁してくれた形で、非常に好感を持って読まされました。

 ラスト。その兄妹がきっと、眠ってしまうのですけれど、私は個人的に夢、阿頼耶識の領域で、人と人は一つになると思っておりましたが、違うのですね。私たちは現実に覚めているからこそ、世界という物の中で一つである、だから仮に現実に夢があるのであれば、それに向かってゆけるのかも知れません。背筋を伸ばして読みましたし、その緊張感は最後まで途切れることはありませんでした。

田中教平

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大賞作へ 

 「わたし」が「わたし」の物語を語る時、「わたし」を語る「わたし」は「わたし」と断絶される。さまざまな局面・レイアウトにおける複数の「わたし」のアバターが「わたし」を構築し語り始めることが通常となってしまった昨今、その語られる物語は物語の物語性に回収されていくのだ。「わたし」を語る「わたし」とそれを観る「わたし」の構造は、映画館で同一のスクリーンを観、同一の物語に共感しながらもそれぞれ断絶した関係性を持たざる個である「観客」の構造に著しく似ていると言えよう。

 そして映画を観るために訪れる観客は上映される映画の質に関与しない。しないにも関わらず、その映画そのものではない再演を複数の観客に付与してしまう。つまり語られる物語は、語られた段階で「わたし」の物語として複数の「わたし」によって再構成されてしまう。記憶として、参照される線状時間軸に設置されるのだ。「わたし」が「わたし」と断絶され数多の「わたし」として「わたし」に収容される時、かえって「わたし」と「あなた」の関係性が曖昧になる。「あなた」を「わたしたち」として共通項に収めようとすればするほど、その間に横たわる深く暗い峡谷を目の当たりにし無力感に苛まれることになるだろう。特にインターネットの世界において、他者のナラティブを自分のナラティブとして被る狼が現れやすいのは、「わたし」自身が「わたし」あるいは「わたしたち」から断絶されながらも、「わたし」として認識されよう(しよう)とするある種「わたし」に対する神話的なバイアスが存在するからではないだろうか。

 論述的な構造を装いながら、描写の連続と映画というモチーフを「物語」として、語られるもの(ナラティブ)の断絶として描き出したこの作品において、語り手は騙り手としてそれ自身の実存を否定し始める。なぜならば、その拠り所となる存在をも一般的な物語の物語性に回収されてしまうからだ。この作品における主体の置き方は、登場する二人の断絶を惜しみながら、いわば井戸川射子的な「共有された(様に思える)二人称世界の温もり」を同様に展開していて、改めて入沢康雄以降何度も検討されてきた詩的主体の作者との関係性における能動的な復古として、いや復古に限らずまさに現環境、特にネット詩自体が逆説的に抱える問題に関して興味深い視点を提示している作品と言えるのではないだろうか。

片々