9月は良作に恵まれた月でした。惜しくも選出されなかった作品の中にも力作が多くあり、それぞれに考えられる最良の方法で描かれている点で、選考過程で悩まされるとともに、勉強をさせていただきました。 また、コメントも作品への新しい視点を与えるものや、作品を受け取った自身の感情を率直に伝えるもの、作品を作るだけではなく、作品を受け取るということにも熱を注いでいる方々の姿勢に、すばらしい場に立ち会わせていただいているという感謝と同時に、背筋を正される思いがします 。

では、投票数が多かった作品から発表させていただきます。
  

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投票数が多かった作品
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【11票獲得】
隣の芝生がもっと青ければよかった
もじゃお
https://www.breview.org/keijiban/?id=11689

【9票獲得】
Polar bear ice
1.5A
https://www.breview.org/keijiban/?id=11584

【6票獲得】
京都行
湖湖
https://www.breview.org/keijiban/?id=11597

【5票獲得】
ぼくらが幽霊になるまでに
中田満帆
https://www.breview.org/keijiban/?id=11650
ムンクの星月夜
中田満帆
https://www.breview.org/keijiban/?id=11684


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優良
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Polar bear ice
1.5A
https://www.breview.org/keijiban/?id=11584

神の左手ボノボの右手
橙色
https://www.breview.org/keijiban/?id=11637


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佳作
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寂然と水鏡
A.O.I
https://www.breview.org/keijiban/?id=11566

Z世代はエモになれなかったようです笑
橙色
https://www.breview.org/keijiban/?id=11586

最終列車
たけだたもつ
https://www.breview.org/keijiban/?id=11588

劇作家の思考空間
エツヤ
https://www.breview.org/keijiban/?id=11570

物語のカケラ。静かな時、芸術の秘技は語られる。
Manacuba
https://www.breview.org/keijiban/?id=11569

みすゆー

https://www.breview.org/keijiban/?id=11716

夏の黙示
狂詩人
https://www.breview.org/keijiban/?id=11712

雨乞い集
如月
https://www.breview.org/keijiban/?id=11701

絵について
いすき
https://www.breview.org/keijiban/?id=11607

打つべし
ガソリン代
https://www.breview.org/keijiban/?id=11612

めーとる
妻咲邦香
https://www.breview.org/keijiban/?id=11608


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選評
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隣の芝生がもっと青ければよかった
もじゃお
https://www.breview.org/keijiban/?id=11689

9月に最も多くの票を獲得し、コメント欄も賑わった作品です。

この作品の優れた点のひとつとして、読者から言葉を引き出す力、があったように感じます。もじゃおさんは、読者から言葉を引き出す力が強く、読者はもじゃおさんの作品を読んで何かを語りたくなる。ときには読解を越え、作品から刺激を受けた読者の内にひそむものが言葉になる。わたしも「隣の芝生がもっと青ければよかった」を読み、優れた他者への自分の感受性というものを、再び考えるきっかけになりました。

ちなみに、私がこの作品を読み、こころ動かされたのは「お散歩して/電柱の根元に咲く花を見つけた/お昼寝して/ビクッと跳ね起きる恥ずかしさを知った/買い物して/今年のトレンドに目を疑った/働いて/粘土細工のような疲れを身につけ」この、優れたあなたが努力している間にわたしがしていたことが、どこまでも人間的で、そして決して不幸ではないように描かれている点です。最後に「おーい こっちこっちー」と呼ぶ才能さんの声がするほうへ歩むということは、先に引用させていただいたような、人間的な幸福との別れを意味するようで、ラストの才能さんの声は、まだ光があると見るか、これまでの幸福との別れと見るかで、作品の印象が変わります。【あやめ】

 

Polar bear ice
1.5A
https://www.breview.org/keijiban/?id=11584

本作品『Polar bear ice』は、初連で示されている通り、環境汚染に関する一個人の悩みをモチーフに展開されていく。
 

作者1.5Aは前作『チョコレート』(8月佳作作品https://www.breview.org/keijiban/?id=11551)でもそうであったが、「時間」というモチーフに関してとても敏感な視点を持ち合わせている。
前作では、思考という速度ある行為に対して読者の「読む」という行動がいかに遅いものであるか。あるいはテクストとして表現される際に、散文的な書法が現実に対して一拍以上遅れてやってくることをモチーフとして

>つまりひどい車酔いで気持ちがばらばらになったりむしろ急にくっついたりする瞬間があって光の波長を当てる遊びに行ったっきりの妖精の幼さを連れ戻すために空気中を一日中探しまわったりする仕事のことを今ちょうど思い出していたんだよ。

という現象自体を、読点を排した文体によって成立させている稀有な実験作であった。
ここには「チョコレートが溶けていく時間」という枠組みを用いつつも、その中で発想されるごく日常的な、ある意味無駄な思考を作中の時間経過を抑えることによって逆に加速させるという手法は、今回の『Polar bear ice』にも見られる、氏の特徴的な発想だ。今回は、Polar bear iceが溶けるまでの時間。そしてその短いはずの時間は作者の思惑により、果てしなく延長していく

 
ところで、作中の「Polar bear ice」とは、沖縄のブルーシールアイスの「ポーラーベア」ではなく、鹿児島などで(あるいは全国のセブンイレブンで)親しまれている「白熊(白くま)」というかき氷のことを指している。
ブルーシールのPolar bear はクッキーでアイスクリームを挟んだものであり、カップでの販売は確認できなかった。一方白熊という商標で販売されているカップアイスには小倉甘納豆とパイナップル、蜜柑が成分表示に記載されている。
(最終連に
>白い水溜りに小豆とパインと蜜柑が浮かんでいた
とあることからも明かであろう)
しろくまかき氷を敢えて「poler bear ice」と表記したのは、後述する「消費する/消費される」の関係性に言を及ぼしたかったからではないか。「しろくま」という商標では語り得ない、「しろくま」と同じ意味を持ちつつこの作中でいわゆる別の世界観を明示するためではないか。しろくま≒北極くま、という揺らぎの中で、あるいは北極くまに同一する魔術の役割として話者はpoler bear iceに同一化しようとする(後述)
そして5月9日はアイスの日。アイスの消費を活発に促す日でもある。
アイスクリームあるいはかき氷の甘さは過剰に取れば体に悪いが、その体への悪影響を考えずに、嗜好品として私たちは「何気なく」消費してしまう。私たちの生活もその便利さその快適さを選択した上で発展してきた。嗜好品とは私たちが環境を安易に消費する、その消費活動の比喩として考えることはできないだろうか

 
閑話休題。
本作品に提示されている問題は
・地球温暖化
・突然降る変な雨
・コーヒーなど公平ではない貿易によってもたらされる(発展途上国との間におけるレバレッジにより利益をあげている)嗜好品などが挙げられているが、早々にそれらを考えていても埒が明かないことが宣言される

>Polar bearなんて初めからいなかったんだと、つくづく考え始める。

絶滅危惧種である北極クマ。彼ら彼女らの生存は環境破壊によって危機的状況に陥った。そのことを「なし」にしてしまえ、と言ってしまうのである。
しかし、その後に続く描写の美しさと言ったら!

>真っ白い毛並み。散乱光によって白く輝いて見えるそれが、北極圏のクレヴァスの上に麻ひもを敷いて、始まりと終わりにしょっぱい海水をかけて固めて、綱渡りをしている、何度も、何頭も。

そうして神話の中の存在のような「祖父」から、「近くを見るための眼鏡」ではなく「遠くを観るための双眼鏡」を与えられるのだ。
近視眼的に世界を見るのではなく、もっと大きな目で世界を俯瞰する手段を与えられたこの部分は、ハムレット四幕五場の独白を思い起こさせる。

(…)造り主は我々にこんなにも大きな思考力を授けられ過去と未来に目をむけるようにされた。その能力と神のごとき理性を持ち腐れにしていいはずがない。となると俺は畜生並みに忘れっぽいのか、それとも小心翼々ことの結果をあれこれ考えすぎるのかー(…)」(松岡和子訳『ハムレット』筑摩書房)
 

思考を放棄した話者は、北極クマと同一化することをすら望む。

>そして何もかもが分からなくなる、彼らの行動、彼らの存在。(…)食べられるかもしれないのに。挨拶もそこそこに。食べて欲しいと思った。僕が溶けてしまう前に。一番美しい姿のまま。

北極クマとPolar bear ice、二つの北極クマを呼称する違う言語の位相が、「食べる・食べられる」の関係性から、同一化していく。前述したしろくま≒北極クマ≒poler bear (ice)という関係性が強引に(魔術的に)乗り越えられていく。
 

これは第二連で示された、ウェイターとの会話に関する関係性にも現れている

>どこで間違ってしまったのだろうと考え始める。そんな味。どこでだって間違えてしまえるけれど。それを間違いだと認識するためのささやかな淋しさ。ありがとう。どういたしまして。

消費されるものと消費するものの間に流通するのは価値だ。その価値に対して「間違えてしまった」と考え始める話者は「ありがとう。どういたしまして。」という対話の中で、その価値を平衡化しようと試みているようにも思える。

 
この客体と主体の同一化あるいは対象化は、この作品においてとても重要な問題として働いているように思う。
初連の

>僕らは地球の端っこにしがみついて性に合った生活を送るべきであること は

かつて僕ら(に代表される人間)が地球の端っこにしがみついていた、すなわち地球にとってのリソース、消費価値であったことを話者が問いかけているのではないか。第六連での主客が同一していく過程こそ、本来あった正当な価値として存在していたものではないか、という作者の主張が垣間見えるようだ

 
最終連において、話者はこれまで人類が行ってきて、そして多くの人類が「しょうがないと諦めてきた」環境に関する態度を、改めて自らの態度として表明する。

>でもいいさ、みんなそういう光景を必死に探すべき時がいかさまにやって来る。

架空でありそして仮構された人類として「みんな」と表する。そしてまだ「そういう光景を必死に探すべき時」ではないことを、自分に納得させようとする。

 
そして、消費する側の当然の権利として、溶けてしまったPolar bear iceを簡単に捨ててしまうのだ。
Polar bear iceは凍っているから価値がある。かき氷なのだから当然だ。溶けてしまったかき氷はかき氷の価値を失う。それがかつてかき氷であったかは問題ではない。そしてそれがどうしてかき氷の時に消費されなかったかも問題ではない。今現在、わたくし(もちろん、「みんな」のなかの一人だ)に対して価値のないものは、最も容易く捨ててしまえるのだ。そうした心のことを

>がらくたの心

として、自ら揶揄している。揶揄しながらも、捨ててしまう。そしてそれがなかったことのように新たな欲望、すなわち

>僕は、もう眠る

へと移行していく。欲望から欲望への伝播。北極クマの属性が抜けていないような、動物的な欲望の消化。そう、人間も地球の端っこにしがみついている動物に過ぎないのだから……。
神話の祖父から与えられた、預言者を探す双眼鏡はどうしたのか。観察しさまざまな気づきをえたのではなかったか。けれども「みんな」がそうでなければ、「僕」もそうじゃなくていい。

この付和雷同に対して読者は反発するだろうか。もし反発したのであれば、それはこの作品の勝利を意味している。
嗜好品としてのアイス=かき氷を食べて頭が痛くなる。そのような反面的視座を時間を絡めて描いた1.5A氏のこの作品は、まさに現代という時制にアイロニカルにコミットした素晴らしい作品として評価されるべきであろう【片々】



京都行
湖湖

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私はまず、湖湖さんとはまったく違う作風で違う詩に対する考えをもつ人間として、そういう人間がどういう風に他人の作品を読んで選評を書いているかと思ってお読みください。
全体的に丁寧な情景描写が行われていると感じますが、表現としては どこかでみたような定型的な表現が多く、作品としての驚きは感じる事ができませんでした。
例えば、メゾピアノやラインダンス、というような多くの人が何も考えずに用いてしまいうような表現方法です。たしかに、これらを用いる事で、多くの読者には、情景や共感を生み出しやすいとは 思いますが、同時に、陳腐でどこか使い古された表現である、とも言えてしまうと思います。
ましてや、京都、というと旅行で行く定番的な場所ですし、定番的な場所に、よくある定型的な表現 の組み合わせは、たしかに、読み手も情景を思い浮かべやすく、コミニュケーションとしては良いかも 知れませんが、詩の可能性としてはもっと広いものを考えた場合は、もっと様々なことが成されても良い気がします。
誰もが、自分が得意とする語彙や光景を描いてしまうものですが、あえて自分が選択しない単語や語彙、 または、光景に挑戦することで、全く違う世界が開かれたりもすると思います。 メゾピアノやラインダンス、という単語に頼るのではなく、それらをどのように描写するか、という部分にもう一歩踏み込んで見られても良いかと思います。そこに、恐らく、細部と呼ばれる部分に、詩の神様がもしいるとするなら 宿るのだと思います。
メゾピアノと言わずに、どうやって音楽的記号表現の単語一つにまとめずに描写するか、という ところが、恐らく、技巧や文章力と言われるものに繋がっていくと思うのです。
ラインダンスと言えば、一列に並んで、 踊る事を言いますが、ラインダンスと、簡単にまとめずに、書くことがきっと描写する、ということなのではないかと 思います。
私もまだまだ、そういった部分が弱いので私自身も挑戦中であります。皆様も一度、そういったことを意識
されて書いてみてはどうでしょうか。【Ceremony01】



ぼくらが幽霊になるまでに
中田満帆

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ムンクの星月夜
中田満帆

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八月期、選評において、中田満帆さんの「友だち」を挙げて、その発声といったもの、そこから確立された文体、といったものを語らせていただいたけれど、「/われわれはまだじぶんの声を発見してないからと/じぶんの声のない詩人たちが吠えてる/だってふさごとよりも愉しい快楽が、/自己確認がどこにもないからだ」とそれはまるで答えあわせのように、この「ぼくらが幽霊になるまでに」で言及されていて、この連に感応した読者も、多いのではないだろうか。ふさごとよりも愉しい愉楽、自己確認、とは、往々にして、これは青春期に行われることであって、私は、その青春期をとうに過ごしてしまったので、今、私は詩人たらんとしてたいへんなのだろうな、と思った。冒頭、話者はある種、混乱というか、ぱっとそれは「書いてみた」体のイントロダクションから入り、そうそうそれは、「なにともつかない悪夢」であると、丁寧、フォローが入るので、その文体もしっかりしているし、フォローも入り、それは人に言わせれば「やわらかな」詩文になっている。やっぱり、その文体を基本として、小物的に名詞が挿入されたりするけれど、ああ、書き手はこういった世界観を大切にされているのだな、またこういった人々にそれは嫌な感情を抱いているのだな、とわかるけれど、後者、それが攻撃的であるかといえば、それはユーモアを伴った形で展開されることも、先の「やわらかさ」に通じている。

 その、安定して読めるものとして、詩を鑑賞してそれきり、頭の外へそれを離すことができるという意味でも中田作品はそこがいいと思っていたのですけれど、「ムンクの星月夜」についていえば、応答セヨ、応答セヨ、自己が孤独であるという認識、そうして抽斗しにしまった死、という点で、それは読者にインパクトを与えて、なかなか頭の外に出ていかない、離れない作品になっている。 というか星月夜、ってムンク最晩年の、それは願いを描いた作品らしいのですけれど、コメントにある通り、そのじっさいの絵の印象からはそれはとおいものになっている。それが別段、傷ではないのだけれど、その星月夜がムンク最晩年の作であって、それと八月期、「友だち」のコメント欄で中田さんはその、詩を切り上げて、短歌に専念する旨を語ってらしたので、私は何か思うことがあった。そのお師匠さんの言もありますけれども、青年、段々と壮年、晩年へと至るとして、総まとめに入ることは何か性急な感じがする。それでも中田さんが今まで苛烈に生きてきたこと、そうして今も苛烈、生きてあることは、わかっているつもり(つもり、で済みません)で、ううむ、それにしても「ムンクの星月夜」を思い起こせば、もう中田さんを思い起こすことになってしまっている私がいる。【田中 教平】

 
 
神の左手ボノボの右手
橙色

https://www.breview.org/keijiban/?id=11637

私がビーレビューに詩を投稿するときに、「現代詩タグ」を外すのか、どうか、非常に考えることがあるわけです。その大仰に現代詩というものに向かったときに、そのウィキペディアで調べれば、現代詩というのはこういうものであると、今、ネットで把握できるとして、その現代詩に私の作品が適っているのか、といえば非常に、そうじゃないかも知れない、と感じられます。そうして、ビーレビューの詩作品を読むのですけれど、それらの多くがその現代詩、に適っているかと問われたら疑問であると言えます。しかしビーレビューが進歩しつづける詩、批評のサイトであるならば、その現代詩、が今、とおくにあっても、それはそれでいいと思っています。

 中原中也じゃないけれど「思えは遠くに来たもんだ」と。

 そうして橙色さんの作品なのですけれど、現代詩に於ける、タブーへの斬りこみ、として神、差別、性、暴力といったものを、それは一緒くたにして斬りこんでとりあげていらっしゃる。

 本来、現代詩というのはそうなのですけれど、それがZ世代の橙色さんから発表されたとして、私のようなコテコテの現代詩ファンからしてみれば、あっ、何かそれはとおく置いてきたものをとりあげて下さった、と非常に頼もしく感じられました。

 そしてユヴァル・ノア・ハラリという書き手の「サピエンス全史」「ホモ・デウス」という人類のこれまでと、これから、というものを詳細綴った本がベストセラーになっています。

私はこれらを一度しか通読していないのですが、その、私たちがボノボの存在を引き受ける、この作品を開かれたものとするために、きっとユヴァル・ノア・ハラリの著作は、これは図書館にあるので、是非読んで欲しいと思います。作中、そのボノボは、猿の仲間人間に近くて人間と違う、というフレーズが挿入されているのですけれど、それは事実として「サピエンス全史」を読めば納得される筈です。大作。【田中 教平】

 
 
寂然と水鏡
A.O.I

https://www.breview.org/keijiban/?id=11566

この作者はこの作者独自の世界観を既に獲得していると言って過言ではないであろう。私は長らく作者のファンを公言してきたけれども、ここに作者の一側面を開示して、そうして、この作品を推したい、と考えた。その一側面しか開示できないことには、これは理由があって、この作者は毎月このテキスト・ボリュームで、ビーレビューに投稿して下さっており、その世界観は、広く、且つ、今をもってしても、開拓中なのである。本当に、本当に、物を書くことが好きなのであろう。その姿を表して、詩人でもあるけれども、同時にアーティスト、本来的なアーティスト、や、又は作家、という概念を考えてみる。話は少し飛んで、かの正岡子規が、季語を挿入して且つ五、七、五、の音律を組み上げるときに、これは一つの「型」が既に出来上がっており、このままでは、自分の代では俳句は滅びてしまうという、危機意識を抱いたと(たとえば、月を詠めば、池や鏡の語を使う、同じく月の詠んで、下五で天下一、の語を使うというワンパターン)。そこで正岡子規は、俳句革新運動に乗り出したのだけれど、時代は、正岡子規を裏切りつづけたといっていいし、正岡子規の打ち立てた作句方法が、広く浸透し、その革新運動が、功を奏したといっていい。一つの「型」を打破することに成功した俳句は、その後、天文学的数の句を量産することに成功し、正岡子規の俳句滅亡論は杞憂に終わった。それでは、自由詩はどうだろうか。ともかく、萩原朔太郎が「月に吠える」でもって、口語の自由詩を確立した時点から、詩は、じっさい、どのようにも記述できる可能性を獲得した。しかし一方で、次作の「青猫」では朔太郎は同時に、詩に於いての、感情の起伏をコントロールすることをそのフォーマットの課題としても、俎上に乗せたのである。私はこの「青猫」を非常に重く捉えている。口語自由詩は、そのフォーマットとして、ズバリ、自由であって宜しい、しかし、そこに感情がなければならない、という命題を持つ。ビーレビューで詩をドンドン読んでゆくのだけれど、現在に於ても、この命題は生きているようで、それはかつての正岡子規ならぬ、私個人の杞憂であってほしいのだけれど、自由詩としてワンパターン化していないか?と自問しつつ、作品を提出、発表しているのか?そうしてそう自問しつつ提出、発表しているその姿が、アーティスト、作家であり、この作者であると思う。じっさい、この問題に意識的であるのは、作者と他、いかいか氏であろうか。二人の間では多分詩イコールこれはコンテンツなのである、という意識が働いていると思われてならない。本当は、もっと自由に、半無限に、それらはカラーを、フォルムを、また、配置を、リズムを、どんどん変奏して、私たちは「書く」ことができる筈なのである。私たちは二人のようにアーティストできる筈なのである。もっと語ろうと思ったけれど、話しは「情熱大陸」といったテレヴィ番組についてのウンチクや、又作者は本を買わないと言及しつつ、じっさい多分京極夏彦の鈍器小説を嬉々として買っていたといった、マニアックな話になるし、ないしょなので、(あっ、書いちゃった)割愛する。【田中教平】

 
 
Z世代はエモになれなかったようです笑
橙色

https://www.breview.org/keijiban/?id=11586

自分以外の人間はすべて他人だから。他人と触れ合うとは。つまり「分かったつもりになる」ということだと思う。社会通年上。暗黙の了解で。自分の尺度で。相手を尊重したつもりで。イジワルしてやろうと思って。いつだって僕たちは常に他人を想像し、分かったつもりになって、それを元にアクションを起こしている。きっとそう。ぜったいにそう。多分そう。まあ知らんけどそう。

 そしてどんなに気をつけていても大なり小なりすれ違うことがある。一方にすれ違ってるつもりがなくても実際はかなりすれ違っている。自分とは違う常識を持つ相手に対しては特にそうだろう。男女感、親子感なんかは言わずもがな、しかし同じ世界に存在する以上完全に無視も出来ず、僕たちはどうしたってやっぱり相手を決めつけるしかない。

 現代って『世代』ごとの境界線がよくわからなくなったよなあ。昔はやっぱり高度成長期だとかなんだとかで、はっきりとしたジェネレーションギャップがあった。だからバキバキに区別しようとして、積極的に「キレる若者」だとか「ゆとり世代」だとか「さとり世代」だとか、自分たちの持つ偏見から揶揄的な名前を付けていたと思う。対して「Z世代」って言葉。こいつって日本で作られたものじゃないんだよね。これは社会を回すメインギアとなる世代に偏見を受けてきた世代が食い込んだってのもあるし、そもそも昔に比べて今の大人って下の世代に対してそれほど興味がない。だからすっごくふわっとした感覚で「Z世代」だとかいつの間に口にしてて、まあ実際に偏見自体はあるんだろうけど、実際のところ「ゆとり」辺りに対してのハッキリガッツリとした偏見と違って、あんましこれがこうだって決めつけるくらいの感覚がない。

 「マジンガーZ」っていう皮肉自体、本来は大分上の世代、もうほんと、大人ってよりおじいちゃんに近い相手にしかクリティカルには通用しないもので、実際マジンガーZ知ってる? って聞いたら、だいたいみんな、知ってる。とは言うと思うんだけど、「詳しく」って言われたら、モゴモゴ。えーとパイルダーオンで合体? 三体で? あれそれはゲッターロボだっけ? くらいかもしれない。いや、スパロボやってたらもっとわかるとは思う。でも多分ふわっとしてる。ふわっとしたまま僕たちは合体したりする。何度も言うが自分以外の他者に触れる。とは。「どれだけ相手を理解した気になれるか」だ。僕たちは常々、相手を理解したつもりになっている。作中で挟まれる

>愛してるよ、

>ちゅっ

 などの、恋人という他者の中でも自分にもっとも近づける存在と、直接触れ合う演出。理解し合っているかのようで、しかしやっぱり主観での一方通行な描かれかたをしている。恋人間に交わされる触れ合いも結局はそうなのかな。セックスにおいてはそこに快感が伴い、おかげで解った気になれる度数がクソ高い。自分が気持ちよければ相手も相応に満足しているのだと思い込んでしまいがちだ。しかしどこまでも薄皮一枚に隔たれて、僕たちは結局どうしたって、他者を共有することはできない。だから愛を確認する。愛してるよと言い合う。そうしてまた分かったつもりになる。そして時々は、なにも分かってないよなんて言い切りたくなる。

>都市伝説になってしまったのは、どうしようもなくバイアスがかかっていたからで

>機能も、違和感も、全部間違って覚えられていた

 そういえば『ダンダダン』という、まあざっくり言ったら都市伝説と殴り合うクソ面白いバトル漫画があるんだけど、あれに出てくる怪異の在り方って、まさにバイアスな気がする。他人から観測され「こういうものである」と一方的に決めつけられること。最終的に独り歩きした「こういうもの」が都市伝説になるとしたら、確かに「Z世代」という見られ方もそういう在り方か。しかし「ゆとり」なんかに比べると明らかにその輪郭は薄くなる。対して「エモ」という言葉は、現代のバイアスによっておおいに書き換えられ、いまやひっくり返すことのできない強大な認識を獲得している。

 僕ははじめこの詩のタイトルを読んだとき、単純にZ世代がエモくなれないってな話かと思ったんだけど、ちょっと違った。形容できない、形容されない。よくわからん、そしてまったくの透明になれるわけでもない。そんな「Z世代」という、クソデカいのになぜかふわっとしてしまった括りは、確かにもうなにものにも成れないのかもしれない。けれどどうせ、分かってほしい。という欲求自体がそもそも究極的には叶わないのかもしれない。それでも、だからこそ、分かって欲しいを諦めきれない僕たちは、いつまでも、他人という存在へと深くめり込んでいきたい欲求に駆られ続けるのかもしれない。【ゼンメツ】

 
 
最終列車
たけだたもつ

https://www.breview.org/keijiban/?id=11588

人々が眠っているか、眠る準備をしている時間の、もう後がない最終列車。きっとひと気も少ない車内におぼれていくこと。小さな生き物は、自ら望んで車内灯へ集まっているのでしょうか、列車が動きだせば、窓の外に月とその灯りを感じることができるかもしれない、けれど、そこへ行くことはできない、つよい本能に従って、彼らは、きっと車内で生を終える。
 窓の外の乗り遅れた人の、強調されたやわらかさは、弱さでしょうか、それとも柔軟性でしょうか。体を触る。次こそはと、待ち焦がれたその時がくるまで、自身を確認するように。
 「ぼく」は父のその後を、母の独り言を通して知る。父が真っ暗なホームへ降り立ったのは、誰のためだったのか。父は乗り遅れた人になってしまったのでしょうか。それとも父から、「ぼく」と母が乗り遅れてしまったのでしょうか。作中で交差することのない彼らの関係性の、静かなさみしさをわたしは感じるのです。
 手書きの切符は、この作品内でもっとも輪郭がはっきりした肉体を感じさせる(掌と汗)のもとにあり、物体として確かにそこにあることを感じさせます。手書きの切符、というのは目的地までの経路の複雑さを示しているのでしょうか。それとも、「ぼく」あるいは誰かによって、ごっこ遊びの道具として作られたものなのでしょうか。

 
この作品に流れるのは、徹底した静けさのように感じました。「ぼく」、父、母、乗り遅れた人、みんながそれぞれの方向を向き、作品内で言葉を交わすことはありません。関係性をあわいベールでおおうように、意図的に熱を取り除いて描かれていますが、それがかえって読む者の胸の内で、何かざわつかせるものがあります。

素晴らしい作品を投稿してくださりありがとうございました。【あやめ】

 
 
劇作家の思考空間
エツヤ

https://www.breview.org/keijiban/?id=11570

「あり得ないものを見ておくこと」として、劇の意味が明らかにされます。思考空間の拡大。そして、ハッピーエンドに終わるのは、守られているからだ、ということ。矛盾を表現するために嘘をついてきた人と、嘘をつかないために矛盾を表現することのなかった人が手を取り合った、という最高の状態で終わります。僕は劇には詳しくないのですが、これらのことを表現するには、相当の思考力と経験がいると思います。【黒髪】

 
 
物語のカケラ。静かな時、芸術の秘技は語られる。
Manacuba

https://www.breview.org/keijiban/?id=11569

可能性は神から人へ。芸術という宇宙。技巧の研ぎ澄ましにより、「今ここにいる私」を失い、生活の中の素晴らしい星々の作る宇宙、そして混沌へ帰るという可能性の成就。経験と思考による芸術論は、美しく、全ての人の為になるだろう。【黒髪】

 
 
みすゆー

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たまにはポップに選評を書きたい
ということでポップに書きます。ところでポップってなんですか

この作品を読んで、米津玄師の「かいじゅうのマーチ」を思い出しました
僕にとってあの歌、なんでか「母と子」の歌に思えるんですよね
「子」の側から「母」に向かって、婉曲に感謝を伝えているような
そんな感じ。
 

この作品からも、同じような感覚を受けたのは、やっぱり一番最後の

>かべいちまいむこうのみゃくはくが
>いつまでも恋しい

からかな。
お腹の中に宿った子供が遠くとおくから旅して、生まれてくるみたいな感じ。
そうして生まれたあとも、お母さんの胎盤を通して聞いた心音が安らぎとしてある、みたいな。
 

もしくは逆に、母からみた子の成長を思う歌。
徐々に、けれど確実に大きく成長していく子をみて、ちょっと寂しい母親の側から

>かべいちまいむこうのみゃくはくが
>いつまでも恋しい

というのも、とても素敵な身体感覚だなと。そんな風に思います。
 

時間の描かれ方がとても素敵で、たてがみのある動物の背に乗って「きょう」が旅しているというのは、なんともリリカルな描写だなと思いました。
たてがみのある動物が馬だとしたら、馬は人生なんかを表す比喩として過去からよく使われていますし、わかりやすいのかな。
「こごえ(凍え、小声)」「とりのこえ(鳥の声)」なんかはキリストの生誕なんかを思い出させたり、そういえば羊飼いを導く星(「いちばんぼしがかがやいていたよる」)なんかもそんな雰囲気を思い出させますね。

 
生命を寿ぐ詩はうつくしい。
「みすゆー」の少し舌足らずの喃語感のある響きも、この作品にとてもあうと思いました。
 

優良に少し足りなかった理由としては、作中の「恋」という一文字のみが漢字で表現されている、その作為性にあったのかな、と考えています
意図としては充分に伝わるし、それによって確かにもたらされる効果もテキメンなんですが、その一文字だけが漢字で表記されてしまうと、そこには詩というよりも、作者のエゴを感じてしまいがちです
作中主体が語る/感じるリアリティと、作者のリアリティが、うまく混じりあわないと、こういった表現は(「表現自体」としては素晴らしい技巧なのですが)作品としての印象を弱め、場合によっては歪めてしまいます。
今回の「恋」は後者の印象が強いものでした
(想像的主体=文中の語り手と経験的主体=作者の断絶がうまく機能していない、なーんて難しい言葉でいうとこんな感じ? 断絶をあえて飛び越える手法を使った作品も、もちろんあるけれど、今作はそこがあんまりスムースではないのでは? という事です)

 
とはいえ、作者の身体性を取り込んだ世界観の描き方はとても素晴らしいものだと思いますので、これからも御作品を楽しみにしています!【片々】

 
 
夏の黙示
狂詩人

https://www.breview.org/keijiban/?id=11712

言葉が繊細。思考空間、想像空間を開いていく言葉。夏の限定された内容を、豊かに描いており、言葉を上手に使っている点で、将来性を感じさせる。【黒髪】

 
 
雨乞い集
如月

https://www.breview.org/keijiban/?id=11701

たとえば「気」という漢字があるけれど、本来、この「気」の内側の×の字は、旧く、米、と記述されていたことは、図書館で古書の詩集、例えば中原中也を当たればわかるのだけれど、なるほど、生命エネルギーの源としての「気」(元気、活気)として、日本人には米と深く関りがあることが再認識できるというわけだ。じっさい、歳時記にあたれば、日本人が、いかに米を重要視してきたか。そのために、私は、この作品のように、祈り、実り、とそっと押韻した言葉を呟いてみる(この作品を推したのは、じっさい二代目天才詩人代表なのだけれど、密かに私は、その決め手となったのは、作品のリズミカルな、押韻の要素が大きいと考えている。楽しい想像だ)。日本の米への信仰の極致は、あたらしい天皇が即位する、大嘗祭(だいじょうさい、おおにえまつり)で、令和元年、十一月十四日から十五日にかけて、ちらりとその様子がテレビでも映し出されたことが、もしかしたら、この作品のインスピレーションにつながっているかも知れない。これも楽しい想像だ。そのとき、献上されたお米の品種は失念したけれども、確か、方位でもって吉とされる土地のお米が献上されていたと思う。またまた楽しい想像として、この作者のハンドルネームは如月だけれど、お米の刈り上げに行われる祭りのことを霜月(しもつき)祭、と呼ばれて行われる土地も多い。さて、じっさい、その音律として、押韻として展開されるフレーズが意味、ミーニングとして、その私が最初ヒップホップに触れたとき、これはちょっと無理があった側面があった。たとえば、姉が聞いていた音楽で、小沢健二とスチャダラパーの「今夜はブギー・バック」があったけれど、このラップはリズムに乗りつつ、煽りであって、複雑な表現コミュニケーションをはかりつつ、「俺って何にも言ってねぇ」と正直告白している。私が再び、ヒップホップというものに目を向けるのは、その押韻と意味(ミーニング)が合致した、志人の登場を待たなければいけなかったが、そうしてまた十年経って、結局アーティストの「自由度」を優先する形で、現在、それも放棄されつつある・・・?さて、作品に戻ってその音楽性を指摘しつつ、この作者はいつもスケールというものが大きい。呪いの言葉を洗いながすまで、この神事は終わらないとして、一体きみはそこでスマートフォンから、一体どんな音楽を聞いているのだろう。【田中教平】

 
 
絵について
いすき

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>私は別に孤独ではない

ふいに立ちあがる発露は、2連目で「私」が感受した作品が「私」のなかに取り込まれたことの結果のようで、作品と人との出会いについて、他者に触れることで縁どられる自己について、とても端的に表現されていて素敵です。

想像になってしまうのですが「支援学校の子供達の作品展」へ行くということに、かなり繊細になっている「私」は、子供たちに対して繊細になっているというよりは、自分自身(自分が子供たちの作品に対して、自分が想定する最良の形で接することができるかどうか)に対して繊細になっているように感じました。けれど「私」の緊張や繊細さをほどくように子供の作品はすんなり入り込んでくる。

説明もなく唐突にはじまる最終連の描写は、子供の作品を描写したようにも読めますし、子供の作品と同じような解像度で「私」が見たものを描写しているようにも読めます。また「絵について」の読者も、水色のほそい帯、船、船底、甲板、ブリッジ、旗というシンプルで澄んだような景色を「私」や子供の作品のような素直さでとらえることができるのです。

作品と出会いについて、書きすぎないという決断のもとに描かれた良作だと感じました。【あやめ】

 
 
打つべし
ガソリン代

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音律が素晴らしく、なので朗読しても、朗読会に花を添える作品だと思います。話は変わりますが、みなさま、エレクトリック・ギターを携えて、ロック・バンドに属したことはありますか。私はあって、そのとき、エレクトリック・ギターの、フィード・バック奏法に凝っていました。フィード・バック奏法というのは、ギターに弦の振動を拾う、ピックアップという部分があるのですが、その弦の振動を、アンプで出力することによってギターの音が出るのですけれど、その出力した音自体を、更に、ピックアップが拾うと、延々と「フィーン」という音が鳴りつづける、ループ状態になってしまいますが、これを逆手にとるのですね。フィーン、ウィーン、フィーン。ギュイーン、フィーン、と。これをフィード・バック奏法というのですけれど、なかなか、理想的な域に至るまでが難しい。それは周囲の環境なり、ギターとアンプの相性なり、あるので、そこでギタリストは凝るわけです。理性的なコントロールと、動物的感性といったもの、そのコントールを同時に行わないといけないということです。作品に戻って、この作品は、理性的にコントロールされている部分と、しかしやはり最後一点「打つべし」に集約される動物的な感性といったものが、それは自然な形で表現されており、その一点「打つべし」をもって、特異に、異彩を放っている作品になっていると思われます。「打つべし」といって、何を打つのか、明示されておりませんが、それは卓球のピンポン玉なり、野球のバッティングでもいいかも知れない。ギターは「弾く」と書きますけれど、実際には弦に対してピックを「打ちつけている」。何か語れば語るほど、作品からとおのきそうなので、やめますけれど、ともかく、理性的にコントロール、記述されたそれはエモーション、感情を、読むべし。【田中教平】

 
 
めーとる
妻咲邦香

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そういえばいつだったか、あやめさんが生者が彼岸に渡って現世にしばられなくなることを、メートル法を破る表現で書き表していて、結構印象に残っていたことを思い出した。妻咲氏のこの作中では、現実を意識させられる尺度が「めーとる」「さんじゅうねんご」そして「てびょうし」など、ひらがな表記となっていて、夢とうつつの境界が少しづつ重なるように描かれている。しかし、あくまでも「ぼく」は現実にいて、そして夢を見ているのだ。だから全体としてはなんとなく忌野清志郎訳のデイドリームビリーバーのような爽やかで清々しい感傷をおぼえる。(僕はあの歌詞の中の『ずっと夢を見て、いまもみてる』という部分が非常に好きだ)

アントニオ猪木は去年の2022年10月1日に亡くなり、これ以降の年の10月1日になるたびに、テレビでは氏のもっとも元気だった姿が、繰り返し繰り返し映され続けるのだろう。彼岸に渡った猪木は現世のカウントにしばられることもなくなって、だからきっと「1•2•3•ダァ

ーッ!」とは言わなくて、もうすこしムニャムニャした謎の文言を唱えてからの「ダァーッ!」かもしれない。まあそれは僕にはまだわからない。

めーとるという名で呼ばれる羊。なぜ羊なのだろうか? 鳴き声で掛けたのもあるだろうけど、羊とは夢へといざなう存在であり、男の子にとってのそれは大抵が女の子だ。男の子は女の子を目で追って、そしてその分の夢を見るのだから。だから子羊なのだ。

大金持ちで、女の子にモテモテで、有名になることを夢見てた「ぼく」

>そのはなしをだれかに話したのは
>さんじゅうねんごのこと
>生き残るときめて、スカートめくりもばからしくなった頃

この先で「まだ夢の中に」とあるけれど、あの頃の「ぼく」に比べたら夢をしっかり夢と捉えられるようになり、なんだか自らの手でそれを手繰っていけているように見える。猪木にふっとばされていた「ぼく」は、職場から放り出されて転職先を探す。詩としてはここが転機だと思う。ここからどう着地させるかで、多分この作品の印象はまるっきり変わっていく。一気に現実めいた覚めエンドもあると思うが、妻咲氏の選んだ着地はこれだ。

>めーとるは今でもぼくの相棒
>ちょぷちょぷとてのひらを>なめてはやさしい声で鳴く

僕はこの締めが好きだ。なぜかって、ここに「ずっと夢を見て、いまもみてる」を感じるからだと思う。【ゼンメツ】