作品投稿掲示板 - B-REVIEW

三浦果実


投稿作品数: 2
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三浦果実の記録 ON_B-REVIEW・・・・

精力的B-Reviewer

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ファンタジーは本当に終わってしまったのだろうか。3.11以降、現実を忘れさせてくれる映画やら小説やら音楽やら、それら物語は負け続けているのだろうか。死んでしまいたくなるようなイジメを受け続けている中学生は物語に救われないのだろうか。女性から相手にされないまま独身で終わるおじさんを安らかにさせる物語はもう失せてしまったのでしょうか。男にフラれてひきこもってしまったアラサー女子を魅了する物語は、もう終わってしまったのかな。 もしも、物語が死んだ、そんな世界なら、中田さんが創るタイムマシーンに乗り込んで、冷凍冬眠されたままジオン公国へ行ってしまいたい。 中田さん投稿有難う御座います。 (出禁になるための散文)

2017-03-05

歴史上、数多の芸術家たちが挑んだこと、それは「神」を描くこと。 2014年度中原中也賞を受賞された詩人の大崎清夏さんは、その神を『指差すことができない』とした。 また、今、公開中の映画『沈黙~サイレンス~』では、拷問される人間を前に、神は最後まで降臨することはなかった。 本作『セパレーター』の神はどうだろう?その答えを是非、読者の皆さんは見つけ出して欲しい。一体何者がセパレーターなのだろうかと探し出して欲しい。 (また、現代詩ど素人が最上段から語ってしまってすみません) からむくろまさん 投稿有難う御座います。 (セパレータ)

2017-03-05

クヮン・アイ・ユウさん コメント有難う御座います。そうなんです。僕は、全ての投稿される作品に価値があると思っております。ふわふわポエムと揶揄される一行空けの作品、それもあっていいじゃないですか、という反抗です。 hyakkinnさん コメント有難う御座います。 『学ぶまえに言葉を使うよ』これが藝術やら、メタファーやらと持て囃すネット詩壇(!)へのメッセージです。 繰原秀平さん コメント有難う御座います。 刃物の御指摘、そうですね。ちょっと小市民な私が使う言葉としては、浮いてしまったかもしれません。。。 今後とも宜しくお願いしますっ♪ (殺されたポエムの子供)

2017-03-05

田中ジョバンニ氏の第三作目の投稿作品『愛とモンゴル』。これについては先行情報を読者のみなさんへ、敢えて紹介したいと思う。既にリーディング作品として、ネット上に上がっている作品で、一度もポエムリーディングを体感されたことのない方は是非。また、電子画面の文字をなぞる読みとジョバンニ氏本人だと思われる肉声とBGMによる朗読。その二通りによる、作品の印象の違いがよくわかること絶大である。私は、たまげた。田中ジョバンニさんの生リーディングを聴いたことがあるけれども、その生な緊迫感も良いが、演出された本作も面白い。 少し、話しは逸れるけれども、コメント欄は自由である。ルール(平たく云えば、作者も含め、他者を不快にさせなければよい一般的なマナーを守ること)から逸脱していなければ。是非、新しいコメント技法を皆さんも繰り出していただきたい。返詩もアリ。作者へ向けたコメントでなくてもOK。勿論、お互いに温度差がなければ、議論も多いに結構だと思う。 (愛とモンゴル)

2017-03-05

作者:田中恭平氏が本作ほど、リラックスされて書かれたなぁと、感じた氏の作品を読んだことがない。私の記憶では。私は、恐れることなく、新たなるコメントの地平へチャレンジする意味合いから、毎回、どの作品でも、独断で書いておりますが、本作についても、申し上げたい。これは、即興で書かれた、田中恭平氏の生々しい今があると思う。田中恭平さんは、私からいわせれば、ナチュラルボーンポエマーである。放っておいても、日々、詩が空から降ってきている方なのだ。 読者諸氏には、是非、味わっていただきたい。 これが、2017年の吟遊詩人である。 (営み)

2017-03-04

サイバーパンクはジャパニーズカルチャーのお家芸であらなねばならない。 これは有名な思想家三浦果実の言葉ですが、いよいよ当掲示板にも本格派サイバーパンク作家が登場! というところで、止めます。 繰原秀平様、投稿有難う御座います。 サイバー詩人集合体『芽部』の皆さん、繰原さんに引き続き、どうぞ、当掲示板を占領してください! (dead end)

2017-03-04

中田氏の要望箇所を訂正しました。 戦争の前後を生きた世代の人は、「芸術」などという言葉が持つ、システム側から与えられた仰々しさには、怒髪天されるというか、その怒りを思うと、僕は、「戦争反対」という言葉を偽善的な響きでないリアルさで感じることが出来る。それは、手塚治虫さんの作品にも感じる。手塚治虫さんは「ヒューマニズム」という言葉を云われるたびに激怒したらしい。 前投稿作で、中田満帆氏の作品とは「弱い男をスタイリッシュにした魅力」と紹介させていただいたけれども、世間の欺瞞的なものへの怒り、それも魅力の一つだ。亡くなられた鈴木清順監督へもそうだけれども、中田さんが古き良き時代のリスペクターであることは有名な話。ではなぜ、中田さんは、その時代に魅了されるのか。 欺瞞を暴くカルチャーが、古き良き時代にあるからではなく、今、現在形で進行する欺瞞・欺瞞・欺瞞だらけの世間やら、芸術やら、もっと云えばこの掲示板にさえ、中田さんがうんざりするからなのだと思う。というか、こんなことを書いている私が「お前が欺瞞だらけなんだよ!」と中田さんに怒られそうだ。 (鈴木清順が死んだあとに)

2017-03-04

再びのコメントになってしまっており、悪いのですが、作者vary氏の『誓い』について。 当作品のコメントにてvaryさんが開示された 『私は推敲というものをあまりしない人間で、この作品も一筆書きのようなものです。もちろん、その分整理が足りなかったりしますが、勢いや自発性が宿ると思っています。』 このコメントが意味することは、がーーーーんときました。私にとっては。これです。これ。 少し、話しが逸れますが、あおいうにさんをはじめとする、「現実の世界で、表現作品のレスポンスを受けている人」と私のような「ネットの非現実世界だけでレスを受けている人」では、洗練性の度合いが違うのではないかと、私は考える。 では、非現実世界から飛び出す得る洗練性を重要視した、詩作というのは、どうあるべきか?それは、一筆書きなのだ。 即興詩を皆さんはやったことはありますでしょうか。一般読者の皆さんも是非、お部屋で、そっとやってみるとよいですよ。 私は、自分で云うのもなんですが、投稿作品は下手ですが、他人から唐突にお題を出される方式の即興詩はむちゃくちゃ上手いのですよ。それは、私が営業職で即興のプレゼンに慣れているからかもしれませんが。でもね、そのプレゼンでもそうなのですが、事前に構築された提示よりも、その場の即興でやったことのほうが、心を掴むことが多い。 何が言いたいのか。 我々が云う、そのポエジーやら詩情やらというのは、varyさんが開示されたコメントに隠されていると思う。 どうでしょうか? そういった意味合で、こちらの作品をもう一度トップへ上げさせていただきました。 (誓い)

2017-03-02

解散してしまいましたが、スマップのメンバーのなかで、読者の皆さんは誰推しですか? 今作品『み』の内容を先に読まれている方ですと、このような設問が初めにあれば、「おじさん、イージーだね」っと云うかもしれない。いやいや、作者:ともねさんは、もしかしたら、この吾郎くんというのはスマップの稲垣吾郎くんを想定してるかもしれないじゃないですか。もしくは、宮崎駿監督の子息、宮崎吾郎監督かもしれないし。 ということで、私は、作品『み』を読んで、宮崎駿監督の息子さんの吾郎さんの幼少の頃をイメージしたんですよ。なぜだか。駿氏のインタビューか何かで語られてましたが、吾郎さんは、幼少の頃、父親が多忙の為、遊んでもらえた記憶が、あまりないようで。なんだかですね、イソフラボンのメタ読みよりも、吾郎くんの寂しさが先にくるんですよね。 ちなみにですが、それは、声に出して朗読して判明したことなんですけどね。是非、読者のみなさんも声に出して読んでみると良いですよ。じつは、じつは、二次元の文体が三次元に変換された瞬間、不思議なものが降りてきます。憑かれるというやつですかね・・・ (み)

2017-03-02

作者:奏熊とととさんが持つ作風の幅広さ。それを今回の作品で開示された。 別の作品にも書かせていただいたが、先日のVer更新工事により、作者名をクリックいただければ、その作者の過去作の閲覧が簡単に出来る。是非、とととさんの過去作も、読者の方には読んでいただきたいと思う。 投稿一作目。私が選ぶ、奏熊ととと作品としては一推しである。そして、今作。 現代詩・ネット詩に触れられたことが無き一般読者は、前半部で頭を抱えてしまったかもしれない。「一般」と呼称される方々は、である。私は園子温監督作品の映画が大好きであり、タランティーノのえげつない血みどろ映画を観ながら興奮して勃起するタイプなので(失礼)、今作『常識的に安定した殺人ウイルス』の前半部はとても、たまらなくてワクワクした。 では、一般読者以外の所謂、現代詩玄人達はどう感じるだろう?私はワクワクはしないのではないかと思う。なぜならば、「メタ読み」されることに、当作品は、「前半部と後半部を対象化し、読者へメタファーを開示する」という意図が判りやすいのである。しかし、それは、逆に言えば、一般読者も、後半部まで読めば、納得いただけると思う。それこそが、『―つまり―つまりーつまり―』なのだ。 解説者である私の、次作への期待を云えば、次がエロティックな作品であれば、もしかしたら一読して気絶するかもしれない。 (常識的に安定した殺人ウイルス)

2017-03-02

ともねさん 投稿ありがとうございます (み)

2017-02-28

『そのあと』に続く物語は、読者の皆さん、満足されましたでしょうか。作者:れたすれたすさんのことをググッていらっしゃる、あなた。それは、あなたの誤解です。 「それはあなたの誤解です」スペース入れて「BACK」というキーワードでググられた、あなた。ループ詩に興味があるのかも。「詩に興味があるのかも」でググられた、あなた。そう!投稿してみよう。 作品『そのあと』とは、れたすれたす氏が、B-REVIEW読者へ放つ、詩への誘いなのです。 れたすれたすさん すみません。編集機能が無く。。。。あの、すみません。次回作の投稿を楽しみにお待ちしております。 (そのあと)

2017-02-28

れたすれたすさん 投稿有難う御座います。私は、コメントというものは、自由であっていいという考えがありまして。その発信する方向は決して作者へ向けなくてもいいのではないかと。そこで、こちらの投稿掲示板では、私は、読者へ向けて作品の紹介をする、というスタイルを取ることに決めました。それは、プレゼンテ-ションであり、エンターテインメントを目指すものです。大袈裟ですが。詩にも興味を持たない通りすがりの人へ作品『そのあと』を届けたい。と、思っていたのですが、すみません。もう少し読み込みまして、コメントをもう一度させていただきます。失礼しました。 (そのあと)

2017-02-27

もとこさん コメントありがとうございます (殺されたポエムの子供)

2017-02-27

同じ作品を絵文字無しで、文学極道サイトへ同時投稿しました。 (殺されたポエムの子供)

2017-02-25

現代詩ど素人な私は、昨年9月に初めて目にしました「奇異な言葉の羅列」。それは、多くの好評を得ている作者の方々の作品にも感じておりました。そのなかの御一人が、じつは、泥棒さんでした。何度読み返しても、どうしても、受入れることが出来ず、ある時には「これ、どう考えても、読者をバカにしているのではないだろうか」と、思ったこともありました。 その受けかたというか、私のシナプスが繋がったのは、じつはここ一ヶ月ぐらいのことです。それは、吉増剛造さんの作品を知ったことによって。それはなぜなのかと云われると、少し開陳することが難しいことです。もしかしたら、よくある、「有名人の一言による変化」だったのかもしれません。 泥棒さんの初投稿作『すみれ』。これは、泥棒さんの作品のなかでも読みやすさー現代詩を初めて目にする方でも、それとなく読めてしまうーがある作品です。では、読めるけれども、ポエジーを解説して欲しいと望まれる読者の方もいらっしゃるのではないかと勝手に推測してしまうもので。 ・・・・・・・・・・・・・・・ 孤独という名のもとに 君の痛みがすりかえられて 一瞬だけでも 世界中の詩が全滅する そんな日がいつかくると信じているのか 君よ 確かにいるはずの君よ そこからの眺めはどうだ 何が見える 言葉で叩き 叩かれ 風のない日に揺れる花を見たか すみれ アスファルトのヒビを行間として そこから何を感じたらいい ・・・・・・・・・・・・・・・ 現代詩ど素人が解説する『感じるポエジーの読み方』を云いますと 簡単に申しますと、抜粋するといいのです。(すみません、これは三浦の勝手な考えです!) 抜粋した箇所だけを何度も読み返すと、何かみえてこないでしょうか? この抜粋した箇所の前後の言葉、『ガタンゴトンッ』と『こんにゃろっ』の二つが置かれている意味も表に出てきませんか? と、いうようなところにポエジーがみえるわけなのですが。が、しかし、このように解説されてしまう程度のポエジーはポエジー度5%程度なのではないでしょうか。。泥棒さんはもしかしたら、すこし、ポエジー度を抑えられたのかもしれません。 泥棒さん 投稿有難う御座います。わたし、文学極道とB-REVIEWの二つに同じ作品を同時投稿する方をお待ちしておりました。 臨むところです。是非、文学極道の学術的高級コメントと勝負したいところです。 (すみれ)

2017-02-25

前投稿作で田中ジョバンニさんの作品に初めて触れたという読者が私も含め、ほとんどではないだろうか。そこで、やはり、気になるのは、その作品を通して描こうとされる、ジョバンニさんの思想であり、その世界観である。 二作目の投稿作となる『がらんどうどうめぐり』。私はジョバンニさんが表現をもって向かう約束の場所はどこにあるのだろうかと、所謂、メタファーを捜索してみた。 ―幸せは恐怖の副産物― サーチライトはこの言葉で止まる。前作を思い出して欲しい。たしか、ひきこもりの主人公が過去の恐怖体験を追想し、そこから、「何か」が降りて来た主人公が結末としてハローワークへの一歩を踏み出す。まさに、「幸せは恐怖の副産物」という内容だったのではないか。 そういう観点からすれば、今作『がらんどうどうめぐり』は田中ジョバンニ氏御自身のステイトメントとしての意味合を持つ作品である。 (がらんどうどうめぐり)

2017-02-25

僕は、女性とエッチをするとき、ディープキスを4番目ぐらいに持ってくる。それは、エッチに対するロジカルな向かい方であって、愛とは違うものかもしれない。肉体をロジカルに鍛えるエクササイズでもないけれども。 作品『なみだもろい愛をこめて』。これは、エッチを情緒で描いた傑作ではないだろうか。センシティブに互いに触れあう行為は、本能をむき出しにするエッチが苦手なジャパニーズでは往々にして、情緒からスタートする。そう。だから、僕は、ディープキスは4番目なのだ。『互いの歯の感触を知ったあとの恥らいは~』まさしく、罪の意識であり、宇宙への入り口であり、愛なのだ。 きらるびさん 投稿有難う御座います。 (なみだもろい愛をこめて)

2017-02-25

黄泉の国が描かれてあり、懐かしい気持ちになりました。migikataさんもご存知な通り、右も左もわからなくなってしまいがち。ただ、migikataさんも、もしかしたらお持ちだったかもしれませんが、探査用のかなり精度が良いMSUを私は実装されてたもので。助かりました。 『気持ちいいけど気持ちいい』そうだ。まさにこの言葉の通り!こんど、バビル二世と食事をする機会があったら、この表現をお借りしたいと思います。とても気に入ったんです。 失礼しました。 migikataさん.二回目の投稿ありがとうございます (未来の私)

2017-02-24

第六感を持っているかもしれない私は、人の話を聞いていないことがよくあります。その第六感の始まりは、小学五年生のときに体験したことがきっかけで。他の人々には認識されていないものが、自分にはみえているという気持ちは、自意識過剰を高めるもので。migikataさんが触れられた自意識を無くしたいという気持ちを私は、大人になっても強く持ち続けており、社会不適合な時期が長く続いておりましたが、今は適度な感じで生きる術を手にした感はあります。その術とは、自分を殺すこと。 『弔いのコーヒーを淹れよう』とは、今日も一日、自分を殺す儀式として、迫ってきました。タイトルに『。』が付いているからなのか、作品『sense。』は改めて、自分とは何者だろうかという、私が詩作品と対面するテーマを突き付けてくるものです。 グエン・グエンさん、投稿ありがとうございます (sense。)

2017-02-24

二度目のコメントで申し訳ないけれども、中田満帆ファンの男子を代表して、一言。 中田満帆作品とは、仄暗い系男子にとって、「男の弱さをスタイリッシュにした魅力」なのだ。先日も、twitter上で、「中田満帆はなぜ世に出ないのでしょうか」という趣旨のリプをもらったけれども、仄暗い系世代(私の独断ですが、今の25~35才ぐらいの草食系などと揶揄される人々)のカルトヒーローになるべき人物、それが中田満帆なのではないだろうか。 そこで、今回の新作について。既にリリースされている詩集本2冊の作品と比較すると、先に述べた 「男の弱さをスタイリッシュにする」文体は進化している。私の印象では、詩集本2冊のなかで展開された作品は、一言で云えば「ボロボロ過ぎて鳥肌がたつぐらい痛いし哀しい」ものなのだ。それは、詩集本のいくつかの作品に「女性」は登場するけれども、その女性との距離が遠いのだ。少なくとも、今作のような、便所の水のながれる音が聴こえるほどの距離では登場していない。その女性の描き方に私は、より洗練性のある作品を目指す中田満帆氏の意思がみえた。 なぜ、女性との距離が短くなるとスタイリッシュな表現になるのか? それは、あなた、草食系男子ならわかる話です。 (ひさしぶりに詩と呼ばれるらしいものを書いてみたんだ、アリシア。)

2017-02-23

じつは、作者kaz.氏の詩集『ヒョウカ、ライガイ: RPGの詩学』を読んだことがあって。そこでは、ひとつのコンセプト『ゲームを超越したい』(このコンセプトは私受けた印象)をもとにkaz.氏は詩を展開されている。そのなかでも、印象に残った部分を引用させていただきたい。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ ゲームを僕たちが終えるとき アニメもいつか終わりを迎え 詩に走る人々が出てくる だから僕はいつまでもゲームをする 詩をしない 【『ヒョウカ、ライガイ: RPGの詩学』#45より引用】 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 話はまったく変わるのだけれども、89年~90年の頃、日本のロック(死語)のメインストリームは尾崎豊的なものが席巻していた。若者の代弁者などと持て囃されながら。そこに、フリッパーズ・ギターというスタイリッシュで、「情念的なもの」などない私と同じ歳の、サブカル系バンドが登場した。私はとても大好きになり支持した。おそらく、当時、同年代の周囲の友人達も、ホントは「オザキよりも小山田君」の感性に近かったような気がするのだ。 kaz.氏の二作目の投稿作品『色彩 (色彩)

2017-02-23

満島ひかり、真木よう子、二階堂ふみ、いや、作品『罅』にふさわしいアンニュイな女優は、いろいろ当てはめてみたが、蒼井優ではないだろうか。読者のみなさんには是非、思い浮かべて欲しい。 『足りないものは何一つないのに 心はいつも空虚で痛い』 こうつぶやく蒼井優さんの姿を。 失礼しました。 ユーカラさん 投稿有難う御座います。 コメントが無言になっておりますが、何か不具合が発生しておりましたら、お申し付けくださいませ。 (罅)

2017-02-23

『妻の夫』。すごく訳アリなタイトルかとワクワクしながら読まさせていただきました、単身赴任生活者の三浦果実です。カマドウマという巨大な虫(?)の場面と妻が外でのほほーんとされてるシーンが交互に現れ、ポールバーホーベンとデビッドリンチ監督を足して、伊丹十三で割ったようなイマージュを覚えました。カマドウマとは、実際に存在する生き物なのでしょうか。ごめんなさい。私は、判らない言葉をみつけても、基本、ググらないで読む派なもので。 祝儀敷さん、投稿有難う御座います。 (妻の夫)

2017-02-22

おはようございます。 猫についての作品には無条件降伏する三浦果実です。 「ニャッー」なのですね。「ニャーッ」ではなく。なるほど。たしかにこちらのほうが猫らしい。 しかし、もしかしたら「ニャッ―」と泣いているのは、人間の鳴きまねなのでしょうか。 将来は猫になることが確定しておられる湯煙様ご本人の青写真であれば、なんだか、とても羨ましい。 うちの自宅には3匹の♀ネコが居ます。失礼しました。 (ネコ)

2017-02-22

これは、とととファンになりかけの私の個人的な感想と、捉えていただきたいのですが、前投稿作『生まれて来ました』の方が私は好きです。今作『pencil』では、物語性が印象に残ってしまう。 極私的な読みたいと思う作家奏熊とととの作品は、「物語が背後にあって、作家とととのメッセージが前から迫ってくる」という。抽象的な言い回しでごめんなさい。 『箱入り姫の君は〜』の始まり方から、今作は物語性に基点を置かれたことが、わかりやすく。先にも云いました通り、これは、とととファンになりかけてます私の勝手なコメントです。 なぜ、物語性が後ろへ下がった方がよいか。とととさんの自己主張は控え目なシャイさを感じるので。シャイな人が、急に人前で人生を語り出した時のビックリ感。それが、前作にありました。 (pencil)

2017-02-22

『追悼』というタイトルを付けていられるけれども、その終わりの情景に、新しいスタートのメッセージを込められている。素晴らしい。まるで、ジョン・レノンの「スターティング・オーバー」という曲を合わせみました。『雨は降り続く』の結末の言葉に、語り手の―終わらないことは何て素敵なことなんだろう―という気持ちをキャッチしました まる (最近、この語り手という言葉が気に入りました。なんと使い勝手がいい言葉なんだ) 投稿有難う御座います。 (追悼)

2017-02-21

中田満帆様 投稿有難う御座います。 もう、何も言えません。私はファンなので、本来であれば、コメントを書くことを差し控えなければなりませんが、中田さんへのシャイとして、運営スタッフを外されるペナルティ覚悟で、トップへ挙げさせていただきまーす。 (ひさしぶりに詩と呼ばれるらしいものを書いてみたんだ、アリシア。)

2017-02-21

薔薇が美しいものと感じられないのが、じつは、昔からありまして。なのでバンドで云いますとXとソフトバレェは好きですが、その後のビジュアル系と呼称されるバンドは好きではありません。(すみません、意味不明な話) 「薔薇が美しいものとは、いったい、誰が決めたことなんだよ」などという話を彼女にすれば、彼氏に「綺麗なものは綺麗なのよ」と言い返される一般的な会話。 では、『フラワー・オブ・ロマンス』の語り手(語り手という言葉をやっと覚えましたw)は、薔薇を美しいものと語っているのか。もちろん語ってはいない。それは、血なのだ。生きている証拠の血。美しいもなにもない。血は血であり、汚くもある。その血を忘れる為に、女子がビジュアル系を追っかけるバンギャになるように、語り手は王子を夢みるのだ。 というバンギャの心象風景を感得しました。 2回目の投稿有難う御座います。 (フラワー・オブ・ロマンス)

2017-02-21

私は詩作品を本格的に読み始めたのは、この半年程度で、ネット上で書き込みをするという行為も、同じく半年前から始めたばかりの超ビギナーなもので。何が云いたいか。作品を優劣する自己の基準みたいなものが、もしあるとすれば、それは、かなり脆弱なものであるということ。昨日「この作品はよくわからない」と思っていたものが、今日になると「なんだかこの作品は良い!」と真逆に変化したりする。そこで、作品『呼称』について。 残念ながら、私には、上手く呑み込めなかった一読目の印象。しかし、それは、私にとって未見・未知なものだと思う。他人を通して自分を観るように、他人が自分を呼称する、その名は、真実とイコールにはならないけれども、他者から与えられた記別であることは事実である。もしかしたら、自己の未開拓なゾーン突破する為には、与えられた記別の呼称を捨てることも一つの手段かもしれないし、詩の創作でいえば、当たり前になってしまった、自分が依存する「物語」を捨てることも大事なのだろうかと。作品『呼称』を読んで、そんな思索をしました。 徐々にでいいから様、投稿有難う御座います。 (呼称)

2017-02-21

『いちごシロップ』は所謂、ふわふわポエムと揶揄される作品を見事に突破されてる巧さを感ざる。それは、きっと「政治家」を置いているところがポイントになっている。たしか、他作品あおいさんの『宣戦布告』でのコメント。天才詩人が書かれた内容で、詩作品は作者の脳内にある過去についての妄想などが現すネタが多い、というような話があったけれども、それを回避するためには、作品のなかに「社会性」をもたなければならないのではないかと、最近思うようになった。その観点でいえば、『いちごシロップ』は秀作では。最後に敢えて云わせていただきたい。詩界隈では、特に文学極道では、ふわふわポエムなどと揶揄し、玄人のような物言いをする輩が多数いる。私は、それらの批判にはNOである。ふわふわポエムから登場するであろう、ティーンエイジの天才に会いたいからだ。 (いちごシロップ)

2017-02-21

migikataさん コメントありがとうございます (渚鳥を回転させる調教)

2017-02-20

小学生の頃に時々目にした、社会問題を解説するテレビドキュメンタリー番組を思い出す。説得力がありそうなロボットに近い表情を出さない解説の語り。今作『Z3』の文体から得るものと、まるで同じだ。2017年に再生されたこのテレビ番組はもしかしたら、近未来のことにも、思えてくる。もしかしたら僕たちは将来、既視感に覆われた惑星、Z3で生きているのかもしれない。そんなイマジネーションを誘う、『Z3』はすぐれた近未来詩ではないか。 湯煙さん 投稿有難う御座います。これからも是非、B-REVIEWを表現の場として活用いただけますと、とても嬉しいです。 (Z3)

2017-02-19

天才詩人様 追記致します。これからのご活躍と、新たなるコメント方法展開を願い以下の言葉を贈ります。 『傾注は生命力です。それはあなたと他者をつなぐものです。それはあなたを生き生きとさせます。』スーザン・ソンダク 『良心の領界』スーザン・ソンタグ/木幡和枝〈こばた・かずえ〉訳(NTT出版、2004年)より (#芸術としての詩 03)

2017-02-19

コーリャさんのコメントを読んで『映画 (映画)

2017-02-19

ソンダクの「反解釈」で語られる「スタイル」について、その意味するところを私は上手く呑み込めないでいた。 先日、天才詩人さんが「作品を読むとき、まず、全体の印象をみるのだ」と、そのような趣旨のことを教えてくれた。 なるほど。天才詩人さんの批評・コメントが作品のエッセンスを的確にとらえられているのは、そういうことだったのかと。 スタイルにこそ、その作品の本質がある。 作品『藝術としての詩』の本質とは、ズームレンズを一切使わないと決め、ワイドレンズから撮られる街の風景である。 と、思います。少し、内輪びいきなコメントになってしまっていたら、申し訳ない。 でも、正直に今だから申し上げるが、この程度の作品に対して、文極でキャッキャッ騒がれていたことは不思議でしょうがなった。構造で世界を描くなら、村上春樹さんの足元にも及ばない。 天才詩人さんには是非、その名にふさわしく、ノーベル文学賞を狙っていただきたいものだ。 (#芸術としての詩 03)

2017-02-19

まりもさんが、天才詩人作品『藝術としての詩』のコメントにて、 「詩的な思惟」「詩的な発想」「詩想/思想」をどうしても探してしまう、という趣旨のコメントをされているのを読んで、その通りだなあと思う。初登場:田中ジョバンニさんの『その熱く滾る硬い棒を』についても、読者の多くは同じ第一印象ではないかと思う。これは、詩なのだろうかと。 先に、天才詩人『藝術としての詩』へのコメントでも述べさせてもらったが、スタイルを様式と訳すことは、詩へは当てはまらない。スタイルに宿るエッセンスを汲み上げること。それこそが、詩作品への優れた批評だと思う。 本質は一つというクイズの答え探しのロジックではなくて、魔法があるということを感得しなければ、読者にとって詩情は永遠に来ない。田中ジョバンニさんは言葉を道具として使い『その熱く滾る硬い棒を』に魔法をかけている。 そんな、あんた、どこにそれが書かれてるのん?と突っ込まれると困る。自分で習得してみてください。超能力を。 (その熱く滾る硬い棒を)

2017-02-19

これは、深読みし過ぎているかもしれないし、まったく違います!と否定されてしまうかもしれない。 でも、断言します。『生まれて来ました』は、傑作です。 メンヘラ系と呼応される人が読まれたら、絶対共感する。 もうひとつ、付記すれば、私が『生まれて来ました』を支持する理由、それは、詩に依ってしか成せないことへの拘りを作者の奏熊とととさんにみるから。コメント内で、技巧についてレスされていらっしゃるけれども、とととさんの本質は、白紙に己をみつめる行為、詩が降ってくることへの欲望だと思う。世の中、いろんな技があるけれど、言葉を降ってこさせる技なんて詩だけじゃない?魔法はある。 とととさん、投稿有難う御座います。詩人スカウトマンもお声掛けしてよかったと、申しておりました。 (生まれて来ました)

2017-02-17

るるりらさん 俺、博多出身やけど、サカナくんのことはあんまり知らんけん、カイドクできんちゃん。 博多しっとう?九州の港町ばい。サカナ美味しいとよ。 ごめん、神とかはおらんちゃっないかな。でも、俺、人から神がっかとうってよう云われるとよ。 でも、サカナくんのこと、よう知らんけん、ごめん。今度、神くんと一緒にハタハタパイ喰って大笑いしてみるばい。 るるりらさん!投稿有難う御座います! 澤あずささんもコメントどーも! B-REV絶賛営業中! (はたはたパイ 食べろ)

2017-02-15

作品『藁の家』は、父と子が、同じ男でありながら、それぞれが持つ父性には差異があるという断絶感をあらわしながら、 「父性=社会のルール・囲い(藁の家)」の強度は、見た目ほど強くはないのだという、脆弱さを込めた作品だと思いました。 (藁の家)

2017-02-14

一読後に、コメント欄のもとこさんとIchigoさんのコメントを読んでしまい、そのもとこさんの評に「なるほど!」と唸りながら、更に、その後、Ichigoさん御自身の創作への立ち位置を開示され、なんだか、その、やり取りにワクワクしてしまいました。花緒さんも心情吐露が先に印象としてあった旨、コメントされておりますが、私もそのような一読目でした。でも、なぜだろう。その心情の粘着感とは逆にスルスルと読めてしまう。作者:Ichigoさんが創作に注がれてる「簡単な言葉で書く」。このことが、粘着とスルスル感を見事に同居させる要因になっているのかと、大変、勉強になりました。 私も、多くの方が読めてしまうという意味で、ポップ感のある作品を目指したいなぁって。いつも思うんですよ。 (擬態)

2017-02-14

どしゃぶりさん 投稿有難う御座います。 ごめんなさい。コメントを書こうとしたんですが、『藁の家』を読んで、かなり、思索しております。 もう少し、まとまってから、もう一回書かせていただきます。 (藁の家)

2017-02-14

過酷な環境。砂漠。自分が生存するために必要な人間を助ける。 助けられた人は誓う。礼儀的に誓う。その誓いは偽りとはならない。助けることも、誓うことも、過酷な環境の作用に過ぎないから。都市ではどうだろうか。連帯に悶えているという。過酷なことなど何もないのに。過酷でもないのに、年間自殺者が3万人いる。一体、それは、何が作用しているのだろうか。 『誓い』を読んで、そのようなことを思索しました。もとこさんが先にコメントされている「誓い・誓う」という言葉の違和感。私の主観でしかありませんが、例えば、「祈り・祈る」に置き換えると、この作品が持つ、荒れた土地にひとり生きる強者のイメージが喪われるのではないかと。(もちろん、その強者をイメージしているのは私だけかもしれません) 作者が、この作品を、一筆書きのような、即興でもしやられていらっしゃるとしたら、 その才能が私は欲しい。 投稿有難う御座います! (誓い)

2017-02-14

まりもさん コメント有難う御座います。 鳥に御注目いただきまして、とても嬉しいです。投稿後に、「鳥の視点」をもう少し展開すればよかったと、推敲が足らなかったことを反省しました。センテンスの切り方も、じつは、今までやったことのなかったことにトライしたのですが、なにか、中途半端になってしまっているかもしれません。まりもさんの投稿作品にも鳥が出ていますが、鳥の視点での世界観を私はいつか書いてみたいと密かに思っております。きのこ帝国の『夜鷹』のような世界観を。 今後とも宜しくです。 (渚鳥を回転させる調教)

2017-02-12

花緒さん コメント有難う御座います。 私が詩を書くのはなぜか。それは、自分が生きなかった実存の生を知る為です。それは、自分の本質が認識出来ないもどかしさからくるものであり、五十代を二年後に控えた焦りから出てくるものかもしれません。とは云っても、自分の本質を認識している人などいないことは、パスカルの言葉の通りです。 その立ち位置から詩を創作する起因として、私は確実なものー認識することが可能なものーを必要としました。 御察しだと思いますが、それは他者という鏡です。具体的な創作手法として開示しますと、自分が書く詩は、不特定な人への言葉ではなく、特定された人へ贈る言葉でありたいと。花緒さんの推察の通り、作品は、あおいうにさんへ宛てたものであります。しかし、じつは、もう一人、宛先となる女性が存在します。その人の名は明かすことができない。エンディングはそういう意味で置きました。 しかし、短時間で書きましたもので、という言い訳はNGですね。更に精進致します。 花緒さん、もし花緒さんの投稿作が、安全パイを撰びやがったなと、判明したら許しませんよ。。 (渚鳥を回転させる調教)

2017-02-12

一つ一つのセンテンスの切り方が良いと思う。朗読をすることがあるんですが、声に出して、2次元のものを3次元に変換する工程を通過すると作品の印象が大きく変わる。その観点から『白い夜』をもう一度読む。声に出して読む。 予想通り、とても読みやすかった。また、朗読して印象が変化したというか、追加された残像のようなものがあります。 ・この作品は家族との死別、そして慚愧の詩だと思う。当初は男女の離別かという印象だった。 ・骨というワードが死であり、鼻歌が生を表した隠喩ではないかと。そうであれば、骨というキーワードを更に展開されていると、死別と慚愧が浮かび上がる気がしました。すみません。テクニカルなことが言える人間ではないのですが。 (白い夜)

2017-02-11

もとこさん コメント有難う御座います!もとこさんやみなさんの投稿に影響されまして、なんだか気分が高揚してきまして、思わず、バイアグラの紛い物を服用して書いてみました。 すみません、ウソです。←笑えないとかツッコミは勘弁してください!今後とも宜しくお願い致しますっ。 (渚鳥を回転させる調教)

2017-02-11

初投稿させていただきました。わたしは、スタッフなので、どうぞ、酷評。 NOクレームNOリターンです。 (渚鳥を回転させる調教)

2017-02-11

真夜中に眠ることの出来ない人びとは午前3時になると、詩を詠んでみたくなる。これは、定説です。しかし、午前5時の定説を私は知らない。 もしかしたら、当作品「午前五時の群青」で語られる消失感が覆う世界なのかもしれない。一読した印象としては、感情が全体を支配しており、真夜中に読むとまた受ける印象が変化するかも。少し、読者からの欲を言えば、真昼に読んでいても暗闇に連れ込むような、街を急変させる雪雲のような、強引な作者の意図が薄いかなと、私の主観ですが、そんな気がしました。なんか、でも、いい。是非、今後とも。 (午前五時の群青)

2017-02-11

「女子の作品には魔法が宿る」 まさしく、当作品「prayer」のことだ。 と、言いたいのだけれども、何度か 読み返すと、これが魔法よりも、 麻薬に近い気がしてきた。なぜだろうか。 もしかしたら、この作品には「物語へ依存してしまう女子」の存在が無いからかもしれない。きっと作者双葉月ありあさんは、普段は小説などの物語を読まれない方なのではないだろうか。 なぜ、物語への依存性が無いと麻薬作品になるのか? それは、麻薬を知る審査員にしかわからない。 (prayer)

2017-02-11

草むらのなかに捨てられた死体をみて安心する高校生が描かれた漫画『リバースエッジ」(岡崎京子)が大好きなのですが、作品「この世は終わらないそうだ」を読んで、なぜか、死体をみんなで眺めながらタバコを吸っている世紀末の高校生たちを思い出しました。わたしも、終わらなかった世紀末を残念に思う一人です。 (この世は終らないそうだ)

2017-02-11

kazさん 返信ありがとうございます。 系譜!ーこれ、私が今、一番こだわりたいことの一つです。こだわりたいのですが、コメント書きにも、自分の詩作にも未だ現せておらず。電子情報はすべてをフラットに我々へインフォメーションされるわけで。リアルタイムで私が80年代90年代に触れていた音楽やら映画は、今の二十代の方にとっても新しさとして伝わる。 その、時間軸が失われても系譜は残る。時空が無いのだから、そもそも新しいものなどありえない(独断ですが) なかなか言葉にしずらいニュアンスなんですが、アカデミックな視点でなく、詩を系譜をもとに、地図にマッピングするような、そんな冒険をしたいと密かに想ってるんですよ。三浦果実は。これからもよろしくお願いします。 (映画)

2017-02-10

ーなぜ、女子は詩を作り、投稿するのだろうかー 最近ずっと思索している私のテーマだ。なぜ、女子が書く詩には魔法が宿るのか。ヘンテコリンな私のアンテナはいつも、かけられた魔法をキャッチしてしまう。性別を決めつけすることもよくないし、非合理なことだ。 その合理性なき私の断定で、「魔法」を解説する。 「物語への依存を突破する宗教的な感覚」これが、私が定義する魔法である。 前半部で登場するダミ声の教官と『ただそこにある箱』。独断な言い方だけれども、この前半部の流れだけでエンディングとなってしまっていたら、それは物語への依存の域を出ないのだ。後半部に、突然登場する男、謎かけの言葉をかけてくる。そして、『待ちわびている机の上の無数の口』その口は、「うごめきながら」待っているというのだ。そこに私は霊的なものを感じる。 魔法はある。 (私の鳥)

2017-02-10

魂の呼吸。詩的な文体とは魂の呼吸。このように書けば、現代詩に不慣れな読者の方も作者の大概のメッセージは伝わるのではないだろうか。そうではなく、共通認識が難しいかもしれない文体を選択する意味、それは『わたしとてそう簡単には説明できない』のだろう。共通認識など、所詮、他者に抱く幻想なのだ。 未だ勉強が不足している私にとって、今作から得た、今後、追究するべく疑問は以下の2点である。 ・未見のもの、未知の文体が新しいとは決して限らないのではないだろうか。新しいことをやるというスタイル自体が過去のもので、その、過去のスタイルが作品よりも先に読者に古い印象を与える。(作者が新しいことを今作でトライしている意図の有り無しとは別。三浦が感じたことにすぎない) ・読者にとって新しさとは、読者の脳内でシナプスが繋がる現象が発生することであり、その受信可能な読者と、どこまで共通認識(共有)を求めるか。その訴求が言葉置きと文体を選らぶセンスであり、やがては作品に宿る詩情となるのではないでしょうか。 次回作も気になります。それは、なんとなく、私のシナプスを作者は繋げてくれそうな気がするからです。 (映画)

2017-02-10

世界と自己はパラレルで在るようにみえてしまうと、他者が憎悪の対象となり弾圧の欲に覆われ、勝負が支配するヒエラルキーに埋もれてしまう。その心象は、恋によく現れ、規律を持ったプロフェッショナル(娼婦)はその恋の支配から逃れることができる。しかし、『アタシ』は彷徨っている。逃れる方法を知りながらも。 人を本気で好きになって、失恋して、三日三晩泣き崩れた女子が決意して、カントのような規則正しい哲学を一心不乱に学ぶことによって、真理を知る。そこで手にする真理と同じコンパスを『アタシ』も持っているのだ。ただ、音のないコンパスは約束の地を示してくれはするけれども、世界が終わる音をかき消してはくれない。 勝手に女性の心象風景と捉えました。私はけっこう、物語に依存する人が語る作品が好きです。世界が終わったあとの『アタシ』を次回作で是非、きかせてください。 (彷徨)

2017-02-10

窒素(N2)の使用目的は酸化防止が目的であって、生態機能が低下することを意図とした計画では当初、なかったのではないかと推測する。その主体者は構造であって人間の主体的な意思は微細なものにしか過ぎない。秩序が不滅を前提とする概念に属するとすれば、共同体(構造)は、それを目的とし、規律は永続性と有意性をオーソリティの因とする。形而下では銀河までを視野に入れ、形而上では三千世界までと限定するならば、共同体において、生存する唯一の方法は、身体訓練である。但し、過失があるとすれば、その世界観における錯覚、それは「全ての物質が酸化する事実の失念」。回転運動を提唱する理由、それは、失念することの回避である。以上、共同体(構造)における回転運動の必要性を了とするならば、あおいさんの宣戦布告方法の認証は(Y/N)_Y (宣戦布告)

2017-02-09