B-REVIEWユーザーの皆様、平素お世話になっております。
12月の月間B-REVIEW大賞ならびに選考委員個人賞が決定したため、ここに発表いたします。
なお、12月の選考委員は

が務めました。

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目次

・大賞並びに個人賞発表
・選評
・月間最多ポイント数、view数、投票数作品ならびに投票作品発表
・雑感

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・大賞並びに個人賞発表

月間B-REVIEW大賞

たもつ「稚内

個人賞

あさぬま たもつ「稚内」

藤一紀  蛾兆ボルカ 「飛行機/テイク3

杜琴乃   鶲原ナゴミ 「ナッツ売りの子猫

るるりら  たもつ「稚内」

渡辺八畳 鈴木夜道「家族がいた

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・選評

大賞

たもつ「稚内

千葉駅から外房線に乗り南下して 稚内に向かう どんなに行っても沿線に稚内はない 外房とはそういうところ 風が吹いている

本文より

どうやら作中の主人公は外房線に乗って稚内に向かっているらしい。しかしどんなに沿線を行っても辿り着かないという。普通は稚内は北海道にあるので、千葉駅からは飛行機にでも乗らないと辿り着けない筈が、外房線に乗って行こうとしている。稚内とはどういうところだろうか。 二連目で稚内の詳しい説明がなされる。

都会なのに美しいジャングルがある それが稚内 珍しい、と思われる獣がいる 美しい、と評判の鳥がいる おそらく虫の類もいるだろう

本文より

ここで、どうやら作中の稚内は現実の稚内とは違うぞ、という事が読者に示される。都会で美しいジャングルがある、夢幻の稚内が立ち上がってくる。『珍しい、と思われる』とか『美しい、と評判の』とか『おそらく虫の類もいるだろう』とかの曖昧な記述がなされる。しかし二連目の後半では現実の稚内ともとれる記述が登場する。

都会だから毎日のように 事件・事故があり人々が巻き込まれ 同様に他の生き物も巻き込まれる 空が青い それが稚内 オンリー稚内

本文より

この二連目の前半の幻想的な稚内と二連目の後半の現実的な稚内が混じり合って、全くの空想でも、全くの現実でもない、現実から半歩ずれた稚内像が浮かび上がる。この辺りのたもつさんのバランス感覚は凄まじい。 そして三連目の後半で転換が訪れる。

一事が万事 バンジージャンプもある 妻はバンジージャンプはしない 高所恐怖症だから

本文より

万事の語からバンジージャンプが導かれたと思うと、唐突に高所恐怖症の妻が出てくる。 続く四連目は全体が一字下げされており、この詩の中で特異な連である事がわかる。 四連目は終始妻の説明に割かれる。妻は高所恐怖症のため台所から出られず、主人公はそれをかわいそうに思っている。そして妻のためにバンジージャンプを稚内から撤去しようとして 『違う  本当に大切なのはそんなことじゃない』 事に気づく。主人公は明らかに妻との間に問題を抱えているにも関わらず、一、二連目では全く妻の話が出てこず、稚内の話ばかりしている。この辺りの構成も巧みだ。 最終連で主人公は稚内に辿り着かないまま安房鴨川で折り返し千葉へ向かう電車に乗って稚内を目指す。電車の中はそんな乗客で溢れているという。五連目にして初めて出てくる他の乗客は主人公と同じく稚内を目指している。

足りないものを埋めようとして 自分が埋まっていく ありとあらゆる自分が埋まっていく  

本文より

この最後の三行は主人公だけの声ではなく乗客の声の様にも聞こえた。人々が生活する中で足りないものを埋めようとすると自分が埋まって行ってしまう逆説。確かに主人公も妻の高所恐怖症を埋めようとして稚内のバンジージャンプを撤去しようとする。しかし
『違う
本当に大切なのはそんなことじゃない』のだ。 最後に乗客が登場する事によって、それまで主人公の問題を遠目で眺めていた読者は自分も電車の乗客の一人である事に気づかされる。足りないものを埋めようとして自分が埋まっていく。
『違う
本当に大切なのはそんなことじゃない』と言いつつ、誰もが永遠に辿り着かない稚内を目指している。 ファンタジーに飛びすぎない不思議な世界観の提示、言葉のリズムの良さ、所々に現れるアフォリズム、そして語りの展開の巧みさ、全てが高いレベルで達成されていると感じた。

(選評:あさぬま)

本作品のコメント欄にて、私は オシドリの話をさせていただいた。オリドリという鳥は、美しい、と評判の鳥だからだ。鮮やかな羽根色が 冷たい水面を滑ると いかにも 温かい印象がする。そのせいか時折、日本画でも良い夫婦の象徴として 描かれる。

けれど、実際のオリドリは 一夫一妻制では ない。オスは、数多くのメスにダイブする。

車内に 様々な乗客が溢れているように、鳥の世界も様々な事件があるようだ。空は、空っぽなんだろうか?皆寒い思いをしているのかもしれない。みんな満たされない思いを 満たそうとして、ありとあらゆる手を尽くしている。

本作品は、一人の人が 二人になるという もっともシンプルな人間関係の微妙な 温度差を感じた。お互いを深めようとして それとともになにかを埋めようとしている。それは心の 穴だろうか?お互いを、たしかめつづける手触りを感じた。

(選評:るるりら)

個人賞

藤一紀賞
蛾兆ボルカ「 飛行機/テイク3

「文明」というものはその時代々々に生きる人々に恩恵を与える反面で、各々の生活という視点から見れば、はじまりも進展も、どこでどう根を下ろしたのかも実感できず、生活者とは無関係に(第二連)世界を、また日常の生活空間(第三連)をどんどん覆って横断していく不気味で忌々しい一面をもっています。

一連目(の行分け)で提示された、飛行機が着陸していく様子からは、そのゆっくりした速度とともに「文明」がもつ重く不気味な音が響いてきます。これは語られる言葉の通底音としてその後も響いているように感じられます。  

ところが作品は決して暗澹としたものにはならない。第四連の一行目で、

しかたないよね、と私は文明を許す

本文より

とあるように、「私」が許しているからです。この鮮やかな転換は何だろう。その答えは、

空が
空であることを諦めないのだから

本文より

にあるのだろうけど、どのようにそれを知ることができたのか。この部分を「《空が/空であることを諦めないのだから》と『私』が思った」ととるのではなく、私はある種のヴィジョンや気づきの訪れだと取りました。「飛行機」を眺め、「空」を眺めている時に、そのような意志のようなものの訪れが「私」にあったと。作品の言葉としても第三連で《私の空》として表されていた「空」は、ここでは主体性を獲得して「私」と対面するように表されています。それで考えると《しかたないよね》も腑におちます。ここは何度読んでも唸らされる。そして、それゆえに明るさがもたらされていて、前向きな気持ちになります。  

最後に作中にローマ字表記で表された箇所は、「私」でなく〈ore〉となっており、他者の声として「私」の後ろから聞こえてきます。これは「私」という自我の背後にある「私」に関わり構成してきた多くの存在を感じさせ、そこには今では死者となった存在も含まれているように思いました。そして「空」には無数の死者が還り、抱えられています。それらの声が響き合うのを「私」が聴くとき、「私」もまた諦めずに生きようと、生きる側へと意志を向けるものになるのではないでしょうか。最終行の眺める目つきにそのような意志の現れを感じました。「稚内」や「エキゾチカ」など、遠さ、届かなさを強く感じる作品との間で迷いましたが、明るさがもたらされている点でこの作品を選出しました。ありがとうございました。

杜琴乃個人賞
鶲原ナゴミ 「ナッツ売りの子猫

全体をとおして温かさを感じられ、読んでいて気持ちが穏やかになりました。

滲む夕暮れ
 旅立つ草原
  生きる痛み
   翡翠は揺れる
    軋みながら昇る朝日が
     沸き立つ体温の赤いろの
     片胸をのせ
      鼓動の眠る丘に
                 あがったの・・・

本文より

とくに「軋みながら昇る朝日が/沸き立つ体温の赤いろの/片胸をのせ/鼓動の眠る丘に/あがったの…」この表現は詩でしかできません。映像や絵画ではなく詩だからこそできる素晴らしい表現だと思いました。

またこの連の「生きる痛み」だけ他と比べて直接的な表現なのですが、前後にある幻想的な情景描写にさりげなく差し込まれていて良いスパイスになっていると思いました。

「生きる」ことに「痛み」を感じているが故に朝日はぎこちない動きでやっとの思いで昇っている。その朝日が「体温の赤いろ」を「鼓動の眠る丘」にもたらす…、この「痛み」と「温もり」についての繊細な表現には作者の「生きること」への真摯な姿勢が伺えるかと思います。

             ほどけてしまった



    よ   る



        と



ぼくの心の   

  ぱっけーじ

本文より

ここは「よ る/と」の配置が「ほどけてしまった星座」(=星)みたいで印象的でした。

ところで、子猫が売っているナッツとは一体何なのでしょうね。やっぱり「夏」なのでしょうか。某アニメのように庭に撒くと夜中に不思議な体験ができるような木の実でしょうか。正直に言うと、作者が具体的に何を思ってこの作品を書いたのか、読み解くことはできませんでした。しかし、作者が何かを思って書いたこの作品を通して見えた風景の数々を、心から味わい、楽しむことができました。自身が見たもの・感じたことを、独自の表現をもって適切に書き表せる技術とセンスの高さを感じました。

他に悩んだ作品
図書館物語 たもつ

渡辺八畳個人賞
鈴木夜道「家族がいた

これを詩の範疇に入れていいのだろうかという葛藤がないわけではないが、ものすごい引力を持つことには変わりない。そのような作品を無視するわけにはいかないだろう。

滲んだ、古びたインクのような線で描かれた人影と、かろうじて読める「長男」「あやの」「やっちゃんの奥さん」などの字。各々の続柄を表す説明書きがなければ人影は何の個人性を持たないアノニマスの集団になる。では、説明書きがあれば個人として存在を持つかというと、そうではない。吹き出物の輪郭線然とした単純な線図で表された人々は説明書きにて存在を示されているものの、それ以外は何一つとしてない。データとして存在が示されているのみで、実感は一切与えてくれない。

昨今はAIが実在しない人物の顔写真を作るまでに技術が発展している。何千何万枚と作ることが可能である顔写真たちはその者の存在をありありと示しているように見えるものの、実際はこの世には存在しない人たちだ。AIの顔写真と「家族がいた」は全く正反対な性質を持っている。「家族がいた」で示されている人々は(それが事実かどうかはさておき)存在している。しかし、それの証拠となるものは少しの確証も見るものに与えてくれない。真清水るる氏はスマホで見た故に家系図に見えたとコメントしているが、案外的を得ているかもしれない。家系図は何代も前まで祖先を遡れものの、それはデータでしかない。写真もなにも残っておらず、ただ一つの書物の文字としてしか存在を示せない人々を本当に心の底から存在を認められるだろうか。データが本当に存在の立証足り得るだろうか。データだけの「非存在」ではないだろうか。

いるのはわかっているが、そうは思えない。この不均衡さが不安を覚えさせる。 鈴木氏は「ファウンド・フォト」を引き合いに出している。これは蚤の市で売られていたりネット空間で置き去りにされていたり、撮影者や被写体が今では誰だか特定できない写真のことである。これもまた、存在を認められるかどうかのはざまにある。

今からもう10年前、2010年に行われた「第2回 21世紀新鋭詩文学グランド・チャンピオン決定戦」というネット上の催しにて優秀作品に選ばれた、る氏の「みさき」という作品がある。去年2月にTwitterでバズったこの作品もまた、「吉野美咲」という人物の存在の不確かさが読み手に恐怖を与えてくる。「家族がいた」を見たときに思い出したのが「みさき」であった。「みさき」が長い時を経て再び多くの人々にも刺さったように、「家族がいた」もネットの海へ子の先も残り続けていたらいつの日か誰かを得も言われぬ恐怖の底へ落とすかもしれない。それぐらいの力がこの作品にはある。詩かどうかはともかく、すごかった。

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個人賞を選ぶにあたり、候補に挙げていたものを以下に記しておく。
つつみ「恋する生き物」
みつき「ラベル」
楽子「ビキニアーマーの女戦士にはなれない」

あさぬま個人賞
るるりら個人賞
たもつ「稚内

※大賞の選評と同文であるため省略

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・月間最多ポイント数、view数、投票数作品ならびに投票作品発表

なお、月間最大ポイント数作品、最大PV数作品、最大投票数作品並びに投票作品一覧は以下の通りです。

12月期最大ポイント数作品(2020年1月26日現在)
高橋大樹「実在の声」 1138ポイント

12月期最大PV数作品(2019年1月26日現在)
たもつ「図書館物語」  2260.9view

12月期最大投票数作品
いまり「
7票

投票作品一覧
7票


5票
図書館物語

3票
稚内
台所の廃墟
秋桜
エキゾチカ
あ、

2票
臨終にあたって地獄の論理的実在を説き聞かされる僕
飛行機 / テイク3
天球儀
待降節
相対性地獄理論-日記
石油、ときどき水
県境
一粒の麦よ
わたしはわたしではなかった。これからもずっとそうだ。
サンショウウオ
うずくまるもの

1票
炒飯的午後
老犬のまなざし
領家の娘
幽霊船
望遠とパイプ管
葡萄葉
秘伝の口上レシピ『大根の誰うま煮』

知らない、でも知っている
遡及Ⅰ
青空
消費される花々
秋の詩情
実在の声

虚像への愛を語る。
海を見ていた
駅裏
また明日
フロントガラスと携帯電話
ニルヴァーナスープ
ナッツ売りの子猫
シーラカンスの詩
カタコリーヌ
Human in the drum
Chaotic culture zone Eureka(貴音×cultureさん)
計43作品

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・雑感

第3回目もこれまでのように、ユーザー投票があった作品より選考委員がベスト3を選んだ。しかし今月は投票数が非常に多いため、3票以上の作品と限定した。以下に発表順で各選考委員のベスト3と選出時の短評を掲載する。

るるりら

1. あか「エキゾチカ」
現代人の最大の不安原因は、戦争の可能性だと思います。不安の原因が戦争ではないにしろ、一個人が 具体的に げきを飛ばして抵抗すれば なんとかなるような類いの事や、反対に どこか逃げる場所が思い付くような類いの不安ではない 厄介さが、不安として蔓延している気がします。本作品は、12歳からはじるリアルさに、生きている言葉であると 感じました。得体の知れない ケダモノが、作品の中心の臓物あたりで暴れているかのような印象が圧巻でした。不安が蠢いて、どうしようもなく場合はどうするのか?それは、もがく。とにかく、もがく。本作品は もがきの凄まじい表現のなかにも、中盤あたりには 気持ちの良いリズムが生まれています。
  鰓で呼吸しうつむく軽躁の
  星霜の奥まで届くようにと
などは、背筋が凍りました。 わたしは、私の鳥肌を根拠に、本作品を優勝に推薦します。

2. たもつ「稚内」
個人賞は、稚内にいたしました。わたしが、私の将来において、再読の可能性が もっとも 高い作品だからです。しみじみの 味わいたいです。本音をいえば、評を言葉にし難いです。素晴らしい❗️

3. いまり「光」
ストーリーの骨組みが、しっかりとしておられます。個人的には、童話の(幸福の王子)を、想起しました。幸福に至る複数の物語で構成されているからです。
この詩は、きっと 辛い人々へのエールなのでしょう。
花は、いつか必ず 咲く。いつか、ありがとうと、自然な言葉が出る瞬間がくるよと。希望なんて 言葉は、稀だから「希」と書くのかもしれません。それでも 光があるようにと、作者は祈っておられる。尊く感じました。ありがとうございます。

杜琴乃

1. たもつ「図書館物語」
純粋に楽しく、読んでいてとてもわくわくする作品。ひとつひとつの意味を読み取ろうとすればするほど、「ただそれだけ」であるということを思い知る。物語が発展しそうで、しない。なにかが起こりそうで、起こらない。あるいは起こったようで、起こってない。少年も、泥棒も、女も、みんな図書館が好きなのだ。それは本も、当の図書館もであり、この図書館へのゆるぎない愛が、どれだけ変てこりんなことが起ころうが不幸にならないという確信をくれる。それは信頼しているひとに「たかいたかい」をしてもらっているような気分である。絶対に受け止めてもらえるという安心感のもと高く放り投げられるというスリルを心から楽しむことができるのだ。読書の何が楽しいってこういうことだよなあ、と改めて思った。

2. 帆場蔵人「台所の廃墟」
味わい深い作品。
  直立する瓶を並べ替えて
  段々と右肩下がりに
  したり左肩下がりにしたり
  凸凹に置き換えたり凹凸にしたり

このなんでもない部分が、意味のないことをただなんとなくしてしまう漠然とした虚無感や喪失感というものをとてもうまく表現しているなあと感じた。 また、亡くなった叔母と、その叔母の手により保存され命を延ばされている野菜と、マイペースな猫、つまり「完全に止まった時間・ゆっくりと止まっていく時間・動き続けている時間」がこの台所に混在していて、それぞれの関係性に思いをはせると何とも言えないノスタルジーを感じる。アラジンのアンティークなストーブやティーセットなど、モチーフの使い方も過剰ではないところがさすが。

3. いまり「光」
希望を感じられる作品。つつましやかで、けなげで、厳かな「光」を感じられる。問題を抱えながらも一歩踏み出そうとしている様子は、まさしく俯いていた蕾が太陽のほうを向いて開いていく花だろう。家族のことで悩んだりネガティブな気持ちになったときにまた読みたいと思った作品。

藤一紀

1. たもつ「図書館物語」
ひとつひとつは日常的現実では〈ありえそうにないこと〉だが、現実の報告書や見聞記録・単なるメモのような記述形式(語り口)で列挙されることによって、語られる内容は作品世界においては起こったこと、そうであった(またはそうである)こととして受け入れるしかなく、奇妙ではあるが愉快な内容に導かれて作品世界に入りこんでしまう。その分、世界の奇妙さは奇妙さとして解消されず宙吊りにされたまま、読みすすむごとに浮遊した感覚がもたらされる。最終節に至っても「この奇妙な(作品)世界はどうなっているのか」という問いは解消されず、むしろいきなり行き着いてしまい、問い(言葉)の消滅を見る。そこでは《誰かがテーブルに置き忘れて行った歴史書を風が捲る音だけが静かに響く、ただ水溜りのようにある午後の図書館。》があるだけで、心地よい風とそれがページを捲る音を聴いている気持ちにさせられる。時空の制限に束縛されない語り手の存在を感じさせ、作品世界に奥行きと広がりを与えている。 すでにあるものを思い浮かべることを想像(イマージュ)と呼ぶのでなく、〈ありえそうにないこと〉をあることのようにつくりだす働きを想像(イマージュ)と呼ぶのだとしたら、この作品はまさに言葉によって想像(イマージュ)化された世界(空間)であると言えます。

2. たもつ「稚内」
実在の土地であるはずの「稚内」が、それについて語られ、行を重ねれば重ねるほど、「稚内」という語は実在の土地という根拠を離れて意味を薄め、表層的になってしまう。現場性とのつながりによって感受されるリアルな心情も、心情のみに傾けば、語る身体はリアリティ(実感)からズレて、表層的になる。まさに《たどり着く先は稚内》だ。このようにして語りはズレながらすすみ、《違う/本当に大切なのはそんなことじゃない》とくる。〈本当に大切なこと〉とはなにか? しかし、それを言葉にして語ればそこからズレて表層的になってしまい、〈本当に大切なこと〉は伝わらない。これは言葉による伝達の不可能性と言い換えることができる。そのようなものがあるという切実が、作品から伝わってくる。だが〈本当に大切なこと〉というものがあるのだろうか。もしかすると〈本当に大切なこと〉ということがあるということ自体幻想なのではないか。そして、意味が薄められ表層になった「稚内」という言葉も〈本当に大切なこと〉も行き着く先はそのような幻想であるように思われてくる。その間を揺れながら往復する人々(読み手である私)とそれを取り囲む現実的な外房線の対照が寂しい。ナンセンス風な外見をもちながらリアリティに支えられていると強く感じられる作品でした。

3. いまり「光」
全体性の圧力をよそに芽吹き、成長して、伸びてゆく生命の力強さと健気さが植物的な動きを通して感じられる。それは挿入されている個別の状況とはトーンを変えながらも、どこか相似であるかのように感じられる。しかし、それは手放しで明るいと呼べるものではなく、つねに痛みや苦悩にさらされた弱々しさが、弱々しさのまま耐え抜くという意味での力強さ、健気さである(それぞれの個別的状況は感情に寄り過ぎず、くどくならずに切り替わっているのもよい)。この作品に溢れている優しさはそのような痛みや苦悩の部分に目を注ぎながら、そのうえでなお生きる側へ作者の視線が向けられているのを感じられるからだろう。〈花はいつか必ず咲く〉だろうか。それはわからない。だが、そのように思えることがある。この「思えることがある」こと(そのように語れる時があること)もまた、ひとつの「光」の訪れであり、「花」ではないだろうか。弱々しさのなかで生きながらそのように思える時、はじまりであるかのように、また後押しするかのように光のなかに笛の音が聞こえるのも頷ける。タイトル通り、光を感じられる作品でした。

あさぬま

⒈ たもつ「稚内」
直線的には進まない、何らかの作用によってどんどんずれていくこの詩は現実に似ている。現実も何らかの作用によってどんどんずれていって、私は毎回「違う、本当に大切なのはそんな事じゃない」と言っている。外房線に乗って稚内を目指す乗客は、『銀河鉄道の夜』で銀河鉄道に乗ってサウザンクロスを目指す乗客にも重なる。しかし銀河鉄道はサウザンクロスに着くが外房線は稚内につかない。死者ではなく生者を乗せた外房線は永遠に稚内に辿り付かずに千葉駅と安房鴨川を往復するのだろう。私にはそれが救いに思えた。幻想的な景色と生きることの息苦しさ、どうにもならなさを同時に書ける作者の力量に圧倒された。

2. AB「あ、」
あ、という声は痛みによって発せられた声か、扇風機に向かって発せられたあーーーーの断片か、泣き声か、安堵の声か。異なる場面が「あ」という誰かの声によって繋がる。また、誰かの発する「あ」は一人の人間が異なる場面で発する「あ」でもあり、誰しもが人生の何処かで発する「あ」でもある。その事によって、私はこの詩に自分の人生を重ねてしまう。更には題名の「あ、」は詩の中の全ての「あ」であって、詩を読み終わった後だとたった二文字に人生の悲喜交交を感じてしまう。様々な場面をあ、というたったの一音で繋ぐ構成の巧さに感動した。

⒊ いまり「光」
誰にも望まれない、誰にも知られない植物は力強く育つ。それに対比させられるのは何処か弱みを抱えた人間たち。作者はその弱い人間の力強さを描く。言葉を知らない自然とありがとうを言う人間のそれぞれの力強さは一見交わらないかの様に見えて、確かに混じりあう。交互に描かれる事によって人間と自然のつながらない様で繋がっている生が主張される。作者の人間と自然を包み込む大きく暖かい眼差しが素晴らしい。

渡辺八畳

1. たもつ「図書館物語」
図書館を軸にして次々と紡がれていく短い摩訶不思議。こういう系統の作品はただの言葉遊びになってしまったり単なるシュールに陥ってしまったりということが少なくないが、「図書館物語」は不可思議さと物語としての論理性の塩梅が非常に良い。各連が断絶しておらず、つかず離れずの微妙な距離感を保てている点も評価できる。「あ、」と拮抗していたが、ユーザー投票の多さからこちらを1位に選んだ。

2. AB「あ、」
「a」という音は文字にすれば1音節しかないが、その中にはさまざまな感情が詰められている。状況を決して詳しくは語らず、代わりに「あ」という音に込めた感情を以て読者へと伝えていく。全体の構成も素晴らしい。

3. たもつ「稚内」
北海道繋がりから勝手に吉田拓郎の「襟裳岬」や「落陽」みたいなものを想像しつつ読み始めたらいきなり外房だったので面食らった。稚内は言わずと知れた本土最北の地であり、外房は半島の端ということもあり地理的に断絶している。端と端、条件は同じなれどそれらが繋がることは決してない。私は稚内には行ったことがある。市街地はさすがに活気があるが、しかし北海道である以上これからの衰退は免れないだろうなと思った。そのような土地だから、「オンリー稚内」という一文はバブル時の、いまはもう色あせた夢のように感じた。詩文からただよう、得も言われぬ寂しさは外房と稚内という土地を有効に活用できていることが所以であろう。その演出能力の高さには舌を巻いた。

驚くことに5人全員がたもつ氏の作品を挙げ、内2人は投稿した二作ともランクインさせている。たもつ氏が大賞受賞者であるのはこの時点で確定したが、問題は「図書館物語」と「稚内」どちらを選ぶかだ。

1位を3ポイント、2位を2ポイント、3位を1ポイントとした場合「図書館物語」が9ポイント、「稚内」が8ポイントとなる。しかし二作品の出来が拮抗していることは明確であり、単純なポイント制で決めてよいものかは大いに疑問であった。司会としてこれは生半可な選考では済まされないと察し、3.5選考初のチャット会議を行うことにした。

実行日は2020年1月17日。22時よりディスコードにてチャットを行った。「図書館物語」は誰もが読める、大衆性のある詩(だからこそユーザー投票も多い)で、一方「稚内」はいくらか詩を読んできていないとそのすごさに気づかないが、詩を読める人なら技巧のすばらしさに気づく……5人での会議は概してそのような論で進んでいった。これは言い換えれば、両者は全く別のベクトルにあるということだ。ロックとクラシックのどちらが素晴らしいかと問うようなもので、そもそもの土俵が違う。しかし選考である以上、どちらかを選ばなくてはならない。

会議ののちに匿名投票を行い、結果は「稚内」が4票「図書館物語」が1票。ベスト3での結果とは覆った。

かくして12月の大賞は「稚内」と決定したわけだが、少しでも状況が異なっていれば結果も変わっていたであろうことは想像に難くない。同一作者がまったく作風の異なる、しかしどちらも一級の質を持つ詩を同じ月に投稿するとこうなるということだ。選考を大いに難航させたたもつ氏には称賛を送るほかない。

B-REVIEWも無事に2020年を迎えられた。2月には3周年を突破することになる。これからもよろしく!

(雑文 文責 渡辺八畳)

以上で12月選考の発表とする。
2019.1.28 B-REVIEW運営/B-REVIEW選考委員 一同

「【お知らせ】12月分選考結果発表」に4件のコメントがあります
  1. おつかれさまです。
    あさぬまさんの2.ABへのコメントは、みつきそんの「僕の体には~ へのコメントですね。
    おてすきのさいに、ご確認いただければと、

  2. おはようございます。

    ここでいいのか分かりませんが、質問させてください。
    閲覧指数てなんですか?
    どこかに書いていて、読み逃していたならばすみません。

    わたしとしては、その詩のファイル(←?)が何秒間開かれていたかかな?て思ってるのですが。。つまり、トータル何秒間読まれていたのか、みたいな。違うでしょうか。
    お時間のあるときにご回答のほど、よろしくお願いします。

  3. 私の方から、ひとまずいまりさんへご返信致します。
    閲覧指数とはPV数を指し、サムネイルの目のマークで示された数字が対象となります。計算方式は「サムネイルを見られた時(増加数小)」「サムネイルがクリックされた時(増加数大)」「個別ページが開かれた時(増加数大)」だったかと存じます。

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