弓巠

投稿作品数: 15 コメント数: 70プロフィール: 詩と小説を書きます。「駒場文学」の作家。札幌。現東大文学部四年。東大文学研究会所属。文系。

投稿作品

待つこと

2017-03-21

光、落ち葉

2017-03-21

食事

2017-05-22

水のおぼえ

2017-07-09

ここには

2017-08-16

センサイ

2017-08-16

いいこ

2017-09-21

なガれ

2017-11-02

ひとひと

2017-11-13

空をひらく

2017-12-02

冬、いき

2018-01-07

海のとき

2018-03-11

いくえ

2018-10-01

コメント

もとこさん、コメントありがとうございます。 評価していただいたようで、ありがたいです。「いい生き物たち」の描写に代表されるように、そして、もとこさんが言ってくださったように、この詩において重要になっているのは、本来矛盾した要素を渾然一体として語る、という試みです。こうした行為からは、二項対立において成り立っている論理性を溶かして行って、より自由な言葉の風景を作り出せないかと考えています。「いい生き物たち」の場面を美しいと感じてくださったのは、とても嬉しいですね。 最終連に関しては(なかたつさんが言及してくださいましたが)ある種のフェードアウトを狙ったのですが、言葉足らずだったかもしれません。詩的な結論は、言葉の意味が曖昧な状態で出されるべきだと私は考えがちなのですが、もしかするとより言葉の意味性に踏みとどまって、それまでの流れを受け止める必要があったかもしれません。その点については今後模索していきたいです。 (待つこと)

2017-03-23

なかたつさん、コメントありがとうございます。 私の詩にここまで明快な論理性を見出し、批評してくださったことに感謝しています。ご指摘の通り、この詩の世界観というのは、世界と君、を提示することで成り立っています。君を見据える認識者は、(カメラアイというご指摘もここにつながるのですが)存在しつつも、自らを認証化しません。そのことによって私は、世界と語り手が渾然としつつも葛藤している状態の現出を試みています。君、というのはこの状態において一つの到達点であり、そのため、君とみなもの混じりというのは、語り手にとって決定的な瞬間になるように提示したかったのです。 「いい生き物たち」を「人」と捉えた点は、私の意図には本来なかった解釈であると感じました。もちろん、私の詩は私の意図以上に大きなものであるべきだと考えているので、なかたつさんのこのような解釈は私にとって嬉しいものです。「人」や「いい生き物たち」と語り手との関係は、相反する要素を持った関係であり、その点この詩において多用したアンビバレントなものが同時に語られるということにつながっていきます。彼らは美しく、残酷な存在です。つまり「いい」存在なんですね。(少し話がずれますが、「いい」という言葉の無責任さが気に入っています) ラストより一つ前の連をクライマックスと考えて書いたので、それを評価してくださった点は大変嬉しいです。部分と部分がいかに結びつくか、その上で、いかにすでにあってしまっている世界につながっていくか、そうしたテーマがこの詩には通底しています。私自身、このコメントを書きながら自分の中での論理を確かなものにできたように思い、喜ばしいです。 (待つこと)

2017-03-23

まりもさん、コメントありがとうございます。青空の部分、お褒めいただき幸いです。ご指摘いただいたように、この詩はいくつかの章段を持ち、その一つごとに違うシーンが現れています。私としては、この作品においては、詩でありつつも、物語の時間的経過ができないかと試みている点もあります。 詩論がある、流れが美しいという言葉は大変ありがたいです。どこかで常になぜ語っているかを裏付けられるような詩を書いて行きたいと思っています。 後半もよろしければぜひ笑 (待つこと)

2017-03-25

まりもさん、コメントありがとうございます。 確かに少し冗漫さがあるかもしれないです。個人的に、詩の中で時間が経過していく、それによって一つのテーマがどのように語り直されるか、という点に関心があり、このように長く書く試みをしています。(ただ、うまくいかなかったかもしれないです) 呼称について君と、お前は違う存在として書いたつもりなのですが、そういった部分があったことについて、ご指摘ありがたいです。もちろんそういった差異はわかるようにすべきだとは思うのですが、説明はなるべくしたくないので、難しいものを感じています。 最後の感覚について、私はかなり抽象度の高いイメージで描いていたのですが、より具体的な感覚につなげてくださり感謝です。言葉が紡がれていく時の感覚は詩自体に投影されるべきではないか、と個人的に思います。 (待つこと)

2017-04-03

hyakkinnさん、コメントありがとうございます。 hyakkinnさんのように私の詩を受け止めてくださった人に、私から言い得ることはあまりないかもしれません。ただ、この詩が私自身大切に思っているこの詩があなたにも大切に思ってもらえたようで、とても嬉しいです。 (待つこと)

2017-04-03

コメントありがとうございます。光景、心理の繰り返しが起こっている、という点について、もっともな指摘だと思います。狙いとしては内部にこの詩独自の緩やかな時間感覚(堀辰雄や立原道造で言う「投げられてある時」というものですね)を現出させたかったのですが、それが繰り返しとなっているようでは、まだまだ私の努力不足なようです。 評価していただいた部分はもちろんこの詩の中核を成す部分であるのですが、(詩的な論理性において)この部分を最終連にいかに接続させるか、というのがこの詩においての課題かもしれません。より推敲を試みてみようと考えています。 (光、落ち葉)

2017-03-22

花緒さん、コメントありがとうございます。 静謐な印象を与えられた点に関しては良かったと思っております。読みにくさの点に関しては、人との相性を選ぶのかもしれない、というところがありますが、ある程度私自身が、読んでいて突っかかるものを書こうという意識を持って書いているのも影響しているかもしれません。意図された突っかかりから、作品について考察をしていただきたいという考えがあるのです。(ただ、それが技量の問題として見られてしまうなら、結局私が失敗しているのかもしれません) 長い、という点に関してはもとこさんがすでにご指摘いただいた点が的を射ているように思います。言葉の練度の問題かもしれません。 (光、落ち葉)

2017-03-23

まりもさん。ご感想ありがとうございます。おっしゃる通り、この詩はあるテーゼを言葉の美しさによって保てないか、という試みを行なっています。その点、この詩は日常とは違った詩的な理論によって書かれていて、確かに理論的に分析しようとすると、何かが損なわれてしまうものなのかもな、と感じました。 夢の上澄み、という言葉ですが、とても美しい言葉を私の詩に対してくださり、ありがとうございます。 (食事)

2017-05-26

田中恭平さん。ご感想ありがとうございます。確かに若干タイトルが素っ気ない感はありますね。私は常々タイトルをうまくつけられないな、と感じております。 「赤い」という言葉を評価してくださったようで、ありがたいです。こうした細部の、けれど書いていて必然的に見出される言葉を大切にしたいです。食べることの生々しさが描かれてない、ということですが、確かに私もそうだと思っております。おそらく、それは食べることは本質的に生々しいものである、という物言いに対して、逆のこと、また違った真実の提示をできないかと考えた結果なのですが、確かにこのような書き方に対して、個人の考えや嗜好でスタンスがわかれるのはしょうがないことなのかもしれません。 (食事)

2017-05-26

ペグさんご感想ありがとうございます。 「歯の間のわずかなねばり」という部分は確かに一つのアクセントになっています。食事の生々しさというのをどう詩的に転換するか、というのがこの詩の課題だったのですが、この試みのためにこうした部分がアクセントになっているのだと思います。 この詩を読んで実際に夢の中で何かを食べたらどうだろう、といった想像をしてくださることは非常に嬉しいですね (食事)

2017-06-03

なかたつさん、ご感想ありがとうございます。 食べることが、夢の再認識と同化してる、という解釈を非常に面白く読みました。書いた私のなかで、夢の描写というものがなぜ現れたか、という必然性を再認識できたしだいです。 食事が夢と現実を架橋している、という点はまさにその通りですね。植物や、魚、牛を食す描写においては、それらがある種の一体感をもって感じられるように書きました。ひいては「僕」にも繋がっていくものであるように。 (食事)

2017-06-03

鼻緒さん、ご感想ありがとうございます。 これまでの作品について、素直に「そうなんだ」という感がありますね。これまでの作品に比べると、今回の作は、一つの強いテーゼのもとに書かれている、というのが大きい違いであると思います。これまでここに掲載したものは、拡散的な、世界のようなものを映しだそうとしており、今回のは一つの側面を映し出している、という違いですね。 夢と内部はやはり関係が深く、しかし夢の中にも外部は存在し、また現実において食べるものも、ある内部である、そういうテーゼは確かにこの詩にあるように思います。楽しくお読みいただけたのなら幸いです。 (食事)

2017-06-03

5or6さん コメントありがとうございます。 淡い水彩画のようなイメージ、わざと線をぼやけさせた感覚、ということですが、納得です。 この詩の出発点はそういう言葉の意味が曖昧な状態であり、そこから新しく名付けていこう、というのがここで私がやりたかった試みです。 (分かりづらいとは思うのですが、水彩画のなかにも危機はあるのではないでしょうか) こういう詩集をたくさん読まれた、ということですが、そういう過去に書かれた詩集との関係というものはこれから私が考えるべき課題かもしれませんね。 名前の読み方はご自分が自然だと感じる読み方でかまいません。私は「ゆみけい」だと思っていますが笑 愛称もお好きに考えてくださってかまいません笑 (水のおぼえ)

2017-07-11

まりもさん コメントありがとうございます。 「こと」に関しては修辞上のミスとでもいうべきでしょうか、意図せぬぎこちなさのようなものが出てしまったように思います。反対に、「ように」に関してはリズムの躓きをあえて作り出すことによって、「ように」という言葉に重みを作り出したかった、というのが私の狙いです。言葉の言葉の関係を表す言葉である「ように」の、ものをものに例える、というモダリティ(?)を前景化させたかったのです。というのは、このような精神性がこの詩のテーマである「何かに名を付けてしまうということ」に関わってくると思うからです。 この詩に関して透明、ゼリーのようだという言葉をいただきましたが、全くその通りだと思います。いまの私の問題意識は、私のタッチとしてのこのような透明さを、いかに切実なものとして書くか、というものです。この詩においても、「透明なもの、ただ美しく感じてしまうということに新たに名を付けてしまう」というテーマを持っています。しかし、まりもさんが物足りなさ、漠然とした感を感じたというなら、戦略性が足りなかったということかもしれません。 (水のおぼえ)

2017-07-20

るるりらさん コメントありがとうございます。 お楽しみ、共感いただけたようで幸いです。まず、読後感覚について、言葉や論理や空想を体感させる、というのが一つの詩の効果であると思っているのでそのように感じていただけて嬉しいです。 渢、という字もやはりこの詩において軸になるもので最初の問題提起はここに落とし込まれていくものとして設定されています。 青、というものについて精神と心が融合する、というのは納得するところがありますね。私は青、というものの不在感に興味を持っております、例えば、青空の青も、海の青も掬い取れないということとか、ですかね。そういう不在のなかで、精神と心が触れ合っていくという考えもできるかもしれません。 禅問答的という解釈ですが、言われてみるとそのような気がします。答えのない問い、というのが共通しているのですかね。あるいは、問い自体がある種の破綻を含んでいる、と言いましょうか。空と実在については、一貫してこの詩の主題にあると考えています。他の方へのコメントにも書いていますが、名付けることで、あることと、ないことを融和させていく感覚、とでも言いましょうか。 (水のおぼえ)

2017-07-30

田中修子さん コメントありがとうございます。 お褒めいただけて嬉しいです。感覚的なところから楽しんでいただけることは幸いですね。 (水のおぼえ)

2017-07-30

hyakkinnさん コメントありがとうございます。 この詩が持っている思想を丁寧に読み解いて共感してくださり、大変ありがたいです。 hyakkinnさんも言及してくださったように、名前をつけてしまう、ということがこの詩では重要になってきます。かつて、透明でしかなく、名付けないことであらゆるものを含んでいてくれたもの、そういうものに対して、取り戻すために、おそらく正解でない名前をつけてしまう。その残酷さと、けれど進まざるを得ないということ。このような主題を、いかに実在させるかというのがこの詩で目指したものでもあります。私個人としては、成功したつもりでいたのですが、現在の問題意識としてはいかに内的な思想のようなものをより伝えていくか、というものがあり、まだまだ難しいなと思っています。 水の流れ、というと人は川、という言葉を与えてしまいますが、一度そういう言葉を取り払ってみると、あるいはそういう単純に言い表す言葉が信頼できなくなった時に、何ができるか、ということを考えていました。水A、水Bの件は本当に言い得て妙だと思いました。 風のようで、風ではない、ないのに、あるのだ、という実感、私はこの詩の中にあるものにその感覚を一番見出せた気がしたのです。渢、と名付けること、hyakkinnさんの言葉を借りると、「流してしま」って新たに名前を付すること。それは言葉を外された対象に対して、再び言葉を与えてくことでもあります。それはある種の残酷さとか、間違いを含んでいるかもしれない。その点で私は「名付けてしまう」と言いました。(だからhyakkinnさんも「しまう」という言葉を使ってくれたのは、何かが伝わったようで嬉しかったですね) ラストもご評価いただけてありがたいです。作者として少し自分の作品を説明しすぎたような感がありますが、私の言葉から漏れ出ていくところも読んでいただければと思っています。 (水のおぼえ)

2017-07-30

まりもさん、コメントありがとうございます。 表現への切実さを感じた、とのお言葉、ありがたいです。 なんて悪いのだろう、に対比される、なんていいのだろう、には少し、過剰な自己肯定というか、自己満足のような調子を出したいというのがありました。(ここは「風邪」で合っているのです……そのように書くことで、「自分」のショボさのようなものを出さないかと考えました、もう一つのご指摘については、完全な誤字です、申し訳ないとともに、アドバイスいただき幸いです。) この言い切りの試み、あえて言い切ってしまう暴力性を出していく試みを は、センサイでも行なっているのですが、個人的にはこっちの方が成功しているかな、と思います。 最後は、たくさんの人たち=声を持たない人たち、ですね、わかりづらくしてしまって申し訳ないです。自分という言葉の連続は、意図的にしたことで、ありはしない地球の裏側におもいをはせることが、幻想として批判されつつも、その幻想にさらに埋没していく、というのを表現したかったのです。ご指摘のように、まだまだ彫琢の必要はあるものの、あえて彫琢しない、ということにも目を向けてみようという試みはあります。 (ここには)

2017-08-30

まりもさん、コメントありがとうございます。 合評を促進させるためにわけて投稿するべきとのご指摘、ありがとうございます。次回以降参考にさせていただきます…… 最後に意気消沈してしまっている、というご指摘について、この詩においては、言葉をあえて投げやりに使う、大づかみに断定してしまうという試みを行いました。「いい」とか「世界」とかいう言葉ですね。 そういった言葉によって、逆に何か断定的ではないものを漂わせられないか、と考えました。ただ、まりもさんのおっしゃるように、やや戦略性が足りず、上手くいかなかったように思いますね…… (センサイ)

2017-08-30

なかたつさん コメントありがとうございます。(返信が遅くて申し訳ございません) 抽象的な話になってしまうのですが、作中の「僕」の問題意識として、自らの死後に、「世界」というものがどのように変化するか、というものがあります。「僕」はその問題を紐解く上で、自らの弱さが「世界」に還元されていく、ということを重要に考えているのですね。生物を構成していた元素が、その生物の死後にも、消滅することなく、別の何かを構成しながらあり続ける、ということ、その意識が植物に仮託されています。 このような問題意識を、なかたつさんに読み取っていただき、また、新たな切り口を加えていただき幸いです。最後の三行に着目していただけたのもまた、嬉しく思います。僕はこの三行をを、あえて乱暴に書きました。というのも、「寂しい」「無意味」「世界」「いい」という言葉に対して、僕はその意味に暴力的なもの(あるいは、意味が信用しがたいとでもいいましょうか)を感じていて、むしろこのような暴力性こそが、先に挙げたような、生、死、世界、といった問題を取り上げる上では、そういった、ある種恣意的な物言いが必要だと、考えたからです。最後の「世界がいい」という表現に対しては、いかようにも捉えることができると思います。肯定的にも、投げやりにも取れる、そういう詩的な広がりを持たせたかったのです。 (センサイ)

2017-10-11

まりもさん、コメントありがとうございます。 評価していただいて、光栄です。 人は人より上に立って、いいこ、いいひとという暴力的な言葉を使って、なんらか支配してしまう、あるいは嘘をついてしまう。まるでそれを相手のためであるかのように。 そしてそれに気づいているからこそ、「僕」は葛藤している。まりもさんが具体的に例を出して下さったのは嬉しいですね。私は抽象的なイメージとして「僕」と「君」の閉鎖的な関係、依存的な関係に数字を投影させましたが、まりもさんの例えはごもっともで、「僕」と「君」の関係性は暴力性と誤魔化しをもそのままに、社会の中にも続いていく。そういうことに自分の詩ながら気づかされましたね。 亡くしたの部分など、細部まで読み取っていただけて非常に嬉しいです。ここには、「僕」の何かしらの不在性のようなものが刻まれてもいるんです。 まりもさんは最後を「美しい」とおっしゃってくださいましたが、不穏のなかに美しい何かをあらしめることができればな、と考えています。 (いいこ)

2017-09-26

前田ふむふむさん、コメントありがとうございます。 前田さんは、「数字」を社会的な側面から捉えてくださったのですね。そうして、それに関わるといくことの実存的不安と。 「数字」という言葉の取り方によって、この詩はどのようにも読むことができると思うんですね。個人的な、閉鎖的な関係についての詩とも、社会的な葛藤を孕んだ詩とも。「君が声を出さないように」という言葉が、「透明になればいい」と同居していること、それもある意味暴力なのかもしれませんね。 「僕」は悲しいと思いながらも、しかし続けていく。支配してしまう。騙してしまう。それはマクロにも、ミクロにも存在している。前田ふむふむさんの読みのおかげで詩としてのスケールが広がったように思いますね。 (いいこ)

2017-09-26

徐々にでいいからさん、コメントありがとうございます。 ユニークである反面普遍性も感じるとのお言葉、嬉しいですね。リアルだ、というお言葉をいただきましたが、それは私の狙いとしてあって、いかに特殊でいかに普遍的に書くか、ということを問題にしていきたい、という考えがありますね。 たくさん考えてくださると光栄です…! (いいこ)

2017-09-26

muさん、コメントありがとうございます。 数字をより自由に、という考え方ですが、そういうやり方もあったのかな、と思いますね。ただ今回は開始地点があくまで「僕」と「君」であること、数字が、ただただ数字であることを主眼に据えました。僕自身、数字には様々な意味性を付与できると思うのですが、この詩は、あくまで数字を数字と言い切っている、それによって数字のもつ、独立した、無色透明な鋭さを生かしたかった、というのがありますね。 災害、戦争における、死者と数字の関係について、数字はどこまでいっても数字なのだ、というように思いますね。数字はあくまで純粋に、数を作っていく。そこにある誤魔化しや、けれどもそれをしてしまう、というのはこの詩における重要な側面だと思いますね。muさんの批評、とてもためになりました。思ったからを丁寧な言葉で伝えてくださり、嬉しい限りです。 最終連について、今回は締め方に少し迷いましたが、このようにしました。僕にとって「いつか」という単語はとても暴力的で、それまでの流れを変えてしまうものです。一気に現実が想の世界に吸い込まれるからですね。もう少し、このような言葉の効果を説得的に書くべきだったのかもしれませんね。 そうですね、muさんがおっしゃったような、使われるものとしての数字、というものは確かにあって、つまり数字の色を決めるのは「僕」であり「君」なんですね。muさんがおっしゃったような、数字、隠喩ではないそのものとしての数字、こういう現実であり概念でもあるものは、詩を書く上で重要に感じますね。数字が空に帰ると気を求めてる、よい表現ですね。 (いいこ)

2017-09-26

上のコメントについて、誤字が多くて申し訳ないです (いいこ)

2017-09-26

Migikataさん、コメントありがとうございます。 返信が遅くて申し訳ありません。 数字は人に対して悪ではない、主観とは離れたところにある、というお言葉、僕は、実はとても共感しております。 この詩においては、実は、「僕」と「君」がかなり前提となっています。「僕」は(お言葉を借りると)「ココロ無き」数字を、自分の主観や、恣意に基づいて、「君」に呑ませていく、けれど、それをあたかもどうしようもないことであるかのように言うのですね。そうしてある種の勝手さ、暴力性、そうして、無垢であるがゆえに危険である「数字」というものが立ち現れます。この詩において、「夢や愛という言葉をむやみに振り回して、人を絶望に追いやる連中」に近いのが「僕」なのではないか、と僕は考えます。ただ、「僕」は「君」を駆り立てるのではなく、眠ったままでいさせようとするのですが。 ある意味で、「僕」は完全に主観のないはずのものであり、無垢であるはずの「数字」を、恣意的に使う、特殊な人間なのかもしれません。(書き手としては、やや主観的な考えとしての「数字」という言葉を使った、というのはあります。「僕」にとっては「数字」という”言葉”が奥深くで主観性を帯びているのだろう、というニュアンスです) 少し話は逸れてしまうのですが、Migikataさんの最後のコメントに、共感するとともに、感動いたしました。特に「飲んだ数字は飲んだ人よりも早く空っぽの浄土に帰っていく」という言葉。罪は、すべて人のものですものね。 (いいこ)

2017-10-11

初めまして、amagasasasiteさん。コメントありがとうございます。 「僕」と「君」の関係に注目してくださり、嬉しく思っています。長年連れ添った関係にみえる、ということですが、この二人の関係の、ある種静止的なところ、閉鎖的なところは、確かにそのような関係に見出せるものなのではないか、と僕は思います。「君」は徹底的に「僕」によって無力なものとして扱われます。確かに、「君」は死者かもしれません、「僕」によって、生きる時間や歳月といった数字を飲ませられ続ける、という一つの死者のあり方なのかもしれませんね。(自分の詩についてなのに推量の表現が多くて申し訳ないのですが、僕にはそのように書くのが一番自然なのです) 優しくて、悲しい詩、よおっしゃっていただいたのも、とても嬉しいです。「僕」は恣意的な人間で、「君」に対して支配的なのですが、それでもどこか「君」に対する複雑な感情、どこか恐れるような、慈しむような感情を持っているのではないか、そう思います。 (いいこ)

2017-10-11

最初の2行から、よい意味で様相を次々に変えていく詩だと思いました。 最初の2行や 「空には届かなかった君の羽ばたきが/今 空をひとり占めした」 という部分からは、どちらかというと、主観と客観が融和したような状態、極力主観のフィルターを透明にしつつも、現実に起こっていることを、詩的に転換している部分のように感じます。 そこから、聖書の引用を経て、語り手は自らの願いを強めていく。 ここでは、それまで世界と同一的に描かれていた主観が、浮かび上がるようです。「君」を湖に流したのは、どうしようもない語り手の願望があったからなのだ、と表明される。 そして、最後にまた、「君に空をあげる」。 「天へ向かえ」という言葉とともに書かれるとき、また、この詩の変遷を通過してしてきたとき、「空をあげる」は全く違った様相を帯びてきます。 はじめの、どこか夢幻的な印象から、もっと実感に富んだ、生々しい言葉へと。 個人的に、詩の力の一つは、同じ詩句に流れのなかで全く違った光を与えることだと思っています。この詩ではそういうことが見事に体現されていると思います。 (はじめ、最初の部分の美しさに惹かれて読み始めたのですが、読んでいくうちに驚きがありました) (「アゲハの水葬」)

2017-10-22

花緒さん  コメントありがとうございます。詩のリーダビリティについて考えているのですが、なかなかいろいろな問題をはらんでいるのだな、と思わされました。今回の作は、やや単純に、「こうだからこうなのだ」という言い回しを試みてみたのですが、そうした断定的な語りの試みと、イメージ、言葉の深度が悪い意味で連動してしまったのかもしれません。  「上手い」と言っていただけたのは幸いです。 (次の日の嘘つき)

2017-10-21

まりもさん  コメントありがとうございます。  「「意味なく」自分自身を撃ち殺す、その意味をやはり深めていってほしい」というお言葉、非常に勉強になりました。少し前から試みとして、断定的な言葉遣いで、そのままの生の感覚を書く、というものを志向していたのですが、自分のなかで、ややうまく行っていない感覚がありました。おそらく、その原因として、言葉やイメージを深め切らないことと、断定的であることが連動してしまった、ということがある、と思っています。  今回の詩は、それまでと主題的にも違う面、ある種の身体感覚と、直情性のようなものを書こうとしたのですが、僕自身の、世界をそのままで捉えたい、という願望が、詩としてのある種の幼さにつながってしまったようで、主題を深め切ることができず、という感じになってしまったようです。  僕としては、その幼さの部分にある種の成果は感じたのですが、やはり、それはオフィシャルな、批評されるものとしての成果ではなく、あくまで個人的なものだったようです。  「意味なく」のその「意味」を追うための胆力、そう言ったものが必要だと思わされました。 (次の日の嘘つき)

2017-10-21

もなかさん コメントありがとうございます。もなかさんの「be」へのコメントと一緒に、返信を書かせていただいたので、よろしければそちらをごらんください。 (次の日の嘘つき)

2017-10-21

もなかさん  初めに、僕のようなものに宛てて詩を掲載していただき、ありがとうございます。返信が遅くなってしまって申し訳ないのですが、その間に、この詩を幾度か反芻し、僕なり色々と思うものがあり(どのくらい妥当なことを言えているか自信がないですが)、そうしたものを書き込ませていただこうと思います。 何ぶん、個人的な書き方になってしまいそうですが失礼します。  実を言うと、初めに僕はこの詩をあまりわかることができませんでした。イメージや、感覚がとめどなく広がっていき、読者として置いていかれたように思ってしまいました。 けれど、この詩について、また憚りながら、この詩をもなかさんが掲載されるきっかけになった僕の詩について、様々に考え、考え、読み直すと、少しずつ、この詩が近くなったように感じられました。 「僕らは常にあるという動詞によってささえられ いやおうなしに訪れる冴えていく時間 どうしても伝えておきたかったことがあるんだ そうして僕はゆっくりと濁りはじめる」  僕はこの末尾の部分こそが、この詩の軸である、と考えました。 「常にある」、ということ、「いやおうなしに訪れる」時間、こういう、自分の意思とは関係なしに、そこに何かがあってしまう、という感覚。その中で、「どうしても伝えておきたかったことがあるんだ」という、「僕」の願い。ここから見返すと、この詩全体が、両義的に、「いやおうなし」に降ってくる感覚と、そのなかで、そうしたものに支えられながらも、自ら言葉を伝えようとする、という二つの要素を帯びているように思えます。すでにあってしまっている、という「透明な罪」、それらを確かに感じていようとして、「耳を当てる」こと。それは同時に、自らの感覚から自らを解放していくことでもあり、「観測して初めて存在する僕らの存在を/感触なしに確かめるよう」な、どこまでも不可能な、そうして、どこまでも自由で可能性を秘めた試みでもあります。  そのような、危うい葛藤を、「僕ら」はどこか優しげに身体に落とし込んでいく。「それは結んだ手のひらから零れる砂のようで」。「僕ら」はそうした身体性のうちで、互い、あるいは「僕ら」という一つの主体を確かめようとしているのでしょうか。けれど、最後に、「僕はゆっくりと濁りはじめる」。濁りはじめる時に、「僕」は、もう「僕ら」ではないのですね。この最後の行があるために、この詩全体が「僕ら」には気付きえなかったものを「僕」が「僕ら」(あるいはそれを構成するもう一人の存在)に伝えていく、というニュアンスを帯びるのだと思います。「僕ら」の時間が、「いやおうなく」過ぎていった中で。  もなかさんの詩を読んで、世界とか、すでにあってしまっているもの、自分自身、そうしたもののなかで、それを切り刻むことなく、けれどそれらを組み替えながら、詩を書けていけたらいいな、と僕は考えました。  長くなってしまいますが、ここで、僕の詩にもなかさんがくださったコメントへの返信も兼ねさせていただきたいと思います。(こちらも個人的な書きぶりになってしまいそうです)  僕はあの詩を書いた時、なるべく単純に、自らの周辺を見ようとしていたのですね。なんといいましょうか、理知的に、世界を切っていくような、あるいは、認識を疑ってかかるような姿勢、というものを、詩のなかで持ちようがない、あるいは、持たないことが一番自然に思えたのです。もちろん、どこかに戦略性のようなもの、突き詰める胆力のようなものがないと、詩はちゃんとした詩にならないのかもしれません。けれど、そういったものの根幹には、やはり、ある種切り取ることができない、核のような何かがあるのではないか、僕はそう思って、いや、むしろ、そうありたいと思って、あの詩を書きました。結果として僕自身も、この詩、このイメージや主題には、もっと手をかけてあげることができた、という風に思います。けれど、もなかさんがおっしゃったように、この詩にある種の純粋さ、幼さが見出せるのだとしたら、僕は本当に良かった、と思います、素直に。  もなかさんのこの「be」は、僕の目には、また違った形で、そうした核のようなものを見せているのではないか、と僕は思いました。勝手ながら、書き手の、なぜ書くのか、というものの根っこのようなものを感じました。(人と人との関わりや、言葉を言う事、という主題としても、確かに似ているところがあるように思います)僕のこうした幼い作を見て、自らの大切な詩を送ってくださり、感謝しかありません。  ありがとうございます。長文乱文失礼しました。 (be)

2017-10-21

もなかさん 返信の返信になってしまいますが、一言だけ。 作品をお読みくださったようで、非常に嬉しいです。 こちらこそ、もなかさんの詩の読者として、楽しませていただければと思っています。 ありがとうございました。 (be)

2017-11-02

カオティクルConverge!!貴音さん♪��さん コメントありがとうございます。 まず、(普段あまりしない試みをしてみた、ということからも)とても惹かれる、と言ってくださり幸いに思います。 カタカナ、ひらがなの使い方について、答えを聞けたら、ということですが、あくまで僕の当初の意図について、このコメントでは書こうと思います。というのも、ご理解いただけると思いますが、僕は詩において、結果として、作者の意図を離れて現れてくるものもまた、重要だと考えているからです。 という前置きをした上で、この詩において僕が試みたことについて書かせていただこうと思います。僕の関心として、詩において日常の文脈といったものを、どれだけ意識させられるか、また、どれだけ異化できるか、というものがあります。もちろん、こうした文脈があるために、日常では会話が成り立ち、互いのことを理解できるわけなのですが、詩においては、もっと言葉を自由に扱えるのではないのか、と思うわけです。 そこで、話はひらがな、カタカナの使い方に戻るわけなんですが、一言で言ってしまうと、これは「ノイズ」を狙ったものなのです。もう少し詳しく言いますと、まず、一つの狙いとしては、言葉の持つ意味を軽くすること。漢字が多く対象になるのですが、「重さ」と「オモさ」では、意味の重量のようなものは大きく違ってきます。こうして、語の持つ意味を削るということ。次に、もう一つの狙いとしては、(survofさんもご指摘くださったのですが)言葉の意味を乱れさせること、連想させること。例えば「歩く」を「アルく」と書いた場合、同じ読みの「有る」も連想することができますし、「アルコール」の「アル」も連想しうる、ということですね。これは必ずしも、作者が狙った言葉を連想してほしいというわけではなく、とにかく、一つの語の意味が、一つに限らない、という状態を意識させたいわけです。 ひらがなとカタカナの違いとしては、ひらがなとカタカナでは、先に言ったような重みが違ってくる(ひらがなの方が軽い)ということ、また、視覚的にも意味の乱れを意識できる、という狙いがあります。 少し話が大きくなってしまうのですが、人間は暮らしている中で、知らず知らずのうちに物語を作ってしまうものだと思っています。(僕はそうです)そうした物語は、人間が生きていく上で重要だとも思うのですが、反面、この世界が元々持っている、ある不確かさ、純粋さを見えなくしてしまうものでもあります。 僕はこの詩において、ただ日常の文脈を破壊するだけでなく、その二つが葛藤し、ギリギリで共存している、という様を書きたかったのです。もちろんそれは、詩の意味の中での主題と関わってくるものでもあります。 長くなってしまいましたが、お答えになれば幸いです。 (なガれ)

2017-11-05

祝儀敷さん コメントありがとうございます。 心地よいと言っていただけて嬉しいです。この詩においては、一つの単語の多用が、その単語の見え方を変えていく、という手法を取っています。「く」など、末尾の語を合わせて、言葉に流れを作る、というのも、古典的な方法ではありますが、実践してみました。 ゆっくりじっくり、ということですが、これはかなり言い当たっていて、僕はこの詩を書く際に、一つの事物、イメージに対する粘度のようなものを、かなり重視しました。 こうした主題に関わる試みが、結果として心地よさにつながったのだとしたら、非常に嬉しいですね。 (なガれ)

2017-11-05

survofさん コメントありがとうございます。 「アルく」「ナッた」について。カオティクルConverge!!貴音さん♪��さんへのコメントにも書いたのですが、この部分の意図を読み解いていただき、幸いです。 電車の広告の例えですが、非常にわかりやすいですね。イメージの闇鍋状態、というお言葉も、よい言葉をいただけた、と思い、嬉しいです。 カタカナの多用は、こうした意味の乱れを狙ったものであり、イメージの拡散につながるものでもあります。また、「カれの生リュ雨がウツり子んで」のように漢字を使った部分では、より恣意的に一つイメージの連想を狙っています。 最終連においては、それまでのイメージの拡散から、元の白い紙に話を戻しながらも、もう一度、より大きく乱れていく、といった感覚ですね。「ひトツぶヒとつブ/カエらズにめグっテいる」の部分では、それまでの、一つのイメージを求める動き自体がたしかになるとともに、けれど、意味はとめどなく乱れていく。この矛盾、そして融和を表したかった、というのがありますね。 (なガれ)

2017-11-05

カオティクルConverge!!貴音さん♪��さん 光栄です!よろしくお願いします……! (なガれ)

2017-11-07

糸井翼さん コメントありがとうございます。 「言葉以上の無限の可能性」「広がり」を感じた、ということですが、これを感じていただけたということは、本当にこの詩の作者として幸いなことだと思い、素直に嬉しいです。 もちろん、詩である以上、やはり言葉であり、僕は言葉として読みうるもの、としてこれを書いたわけなのですが、「言葉以上」へのあるいは、より初期的な位相(例えば、音や形)といったある意味での「言葉以下」への志向はこの詩のなかに含まれていることと思います。 糸井さんが連想された、「世界を包み込む時間の流れ」「無常観」というものですが、これは作者としては、この作品の根幹に関わる主題のひとつである、と思っています。ある種、物質的なレベルでの否応のなさ、というか、生き物が永遠に生き続けられないこと、そもそも一つのものがあり続けるということがありえないということ(それは大きなレベルでも、身近な事象でも)。こうしたものは、ある種、時間を超越した語りさえ可能な言葉にとっては、バグのようなものなのではないか、というところにカタカナを使った意図の一端はあります。 糸井さんが受け取った不安な感じは、こういったものに由来しているのではないでしょうか。ただ、この詩は、そのようなバグと、結局は詩であるということ、あるいは結局一つの紙の確かな手触りから詩が始まっている、ということの微妙な均衡と融和から、ある種の肯定感も表明しようと試みてもいます。 感覚的で、かつ鋭い読みをありがとうございました。 (詩の読解は読者と作品の共同作業だと思っているので、ズバズバと言ってくださって構いませんよ!) (なガれ)

2017-11-07

まりもさん コメントありがとうございます。 「なガれ」において、考えたかったことのひとつが、いかに、目の前にあるものに即して詩を書くか、ということです。紙に触れ、その上で指を滑らせていく、質感を掴み取ろうとする、その感覚を言い当ててくださり、幸いです。テクストを読んでいく、というのもその範疇に含まれるものでありますが、作者としては、まず、目の前に確かに紙がある、という感覚を書きたかった、というのがあります。詩に対して確かな質感を与えよう、と思った時に、僕はそうした一つのあり方が浮かんだのです。 「意味、としてではなく、テクストとして、という辿る」ということですが、これは作品内におけるテクストについてもいいうるものであるとともに、意味が危うい状態にある、この詩そのものへの言及にもなりうるな、と思いました。意味が解体されていく快感、ということですが、確かに、この詩には意味を奪われていく、というある種一回的なものへの志向が書かれていると思いますね。主題としては、そうした一回性への意思と、相反するような、巡っていくものへの意思がないまぜになっています。「ひトツぶヒとつブ/カエらずにめグっテいる」この最後の二行が、そうした要素を表しています。 最後に、新鮮、と言ってくださり、非常に嬉しいです。 (なガれ)

2017-11-07

「裸の水」という言葉がなんとも印象的ですね。時折、こうした、「この言葉とこの言葉が繋がるのか」という驚きを、詩を読んでいて受けることがありますが、おそらく、いわゆるポエジーというものの源と言えるものなのでしょう。 この「裸の水」という言葉は、(単純化させてしまうような読みで恐縮なのですが)雲のことなのでしょうか。 この詩全編を見ると、「永遠」や「邂逅」といったように、やや角ばっていて、観念的な言葉が多いように見えますが、こうした言葉も、不思議に浮いて見えません。おそらくそれは、「無機イオン」「水酸化イオン」といった科学の用語を巧みに使うことができているからでしょう。(どことなく宮沢賢治の『春と修羅』を連想させます) こうした科学用語を、「裸の水」という詩的な概念で包むことによって、それらにどこか柔らかい色を与えています。このようにして、科学用語の角を取っているのですが、それと連動するようにして、先に挙げた観念的な語彙も、どこか柔らかい感覚の中で提示されていますね。上手だと思いました。 (裸の水)

2017-11-05

こんにちは。 ライトレスになりますが、徹底して隠喩を使い続けることで、文字通り「ゆうゆうと」確かに、新しい認識に入っていけるような、作品であると思いました。 「そこは やはり/海であらねばならない」という言葉が裏打ちするように、「食べる」「白骨化」という、ある種生々しい言葉を使いつつも、それが幼子を抱く羊水でもあるような、海の暴力性と、それすらも優しく包み込むような大きさを感じさせます。 (ゆうゆうとしろながすクジラ                )

2017-11-13

白島真さん 初めてお読みくださったということで、どうもありがとうございます。 リーディング向きの詩、ということですが、そう意識して書いていたわけではないのですが、言われてみて納得した感があります。この詩においては、雨粒の音を「ひとひと」と発音すること、それによって、「人」が連想する、ということが一つの主題にあります。こうした連想には、音の混同が大きなスイッチになっています。 つまり、白島さんがおっしゃったような、音の繰り返しが、この詩全体の主題を作っていると同時に、リズムを創出してもいるわけです。(カタカナを使った意図の一つに、意味を薄められた、音としての言葉の要素、というものもあります) 今まで、内在律のようなものは気にしてきたつもりなのですが、自ら声に出して、ということはあまりなかったので、これからそうした面にも注目してみようと思います。 (ひとひと)

2017-11-22

なかたつさん コメントありがとうございます。(IN言語のパフォーマンス、素晴らしかったです…! 直接お話しできたのも嬉しかったです) 水のモチーフが多く使われている、ということなのですが、自分でも自覚があります。もちろん、詩ごとに水の表れは違ってくるのですが、説明することで詩の詩らしさが削がれないように、短く言うと、僕は水に、「本物」を感じるのです。 さて、この詩についてですが、なかたつさんはかなり僕の意図をくみ取ってくださったように思います。やはり、水の音、雨の音を「ひと、ヒト」と発音すること、そこからこの詩は始まり、そして最後にまた「ひとひとひと」と言われる。なかたつさんがおっしゃったような「人」ではなく意味がより軽い「ひと」ないし「ヒト」であることがやはり大切で、意味を持つ言葉の、音としての要素を拡大していく、ということですね。また、これは僕が明確に意図したわけではなく、事後的に気付いたことなのですが、その際に、「ひとひと」が擬音語であるということは、この詩において重要な部分であると思います。 「人」という字を堅い姿を持った人であり、それが「他のヒトは固定され結晶していく」という言葉に繋げられたのは、見事な読解であると思います。(僕の当初の意図を増大させて読んでくださった、という感じですね) なかたつさんが人、と自然という言葉を使って最後の二行を読み解いてくださったのは非常に面白く、水としての人と雨の結合が、より普遍的なテーマに結びつくのを感じました。 (方丈記の冒頭は僕も大好きです。無常観を言っているのにも関わらず、どこか肉感的な水を感じられるのが好きですね) (ひとひと)

2017-11-27

まりもさん コメントありがとうございます。 木版浮世絵の雨の表現を思い出したということ、気付きがありました。確かにつながるものを感じます。強い確信があるわけではないのですが、あの線には動きを感じる、と言いましょうか、雨粒の動きという時間的なものを、絵という空間的な芸術に写し取った、という感を受けます。 その点では、「ひとひと」という語の(この語の親である「しとしと」でもそうですが)、降ってくる雨の音の、動きを止めたまま、ある種包括的に言い直す、という性質はそうしたものに近いのかもしれません。 前に投稿した「なガれ」に続いて、この詩においてはひらがなや漢字を使うことで、意味を乱れさせる、連動させる、ということをしています。確かに、この「ひとひと」においては、「ひとひと」と発音された雨の音を、確かめていくという主題性があるように思います。それはまた、主題の深化でもあり、水と人との融和の流れでもあるように思います。 面白いと言っていただけて幸いです。感覚が外在化していく過程、ということですが、おそらく、それはこの詩における、内側へ落ちていくということに結びつく、と思っています。 (ひとひと)

2017-11-27

深尾貞一郎さん コメントありがとうございます。 カタカナの部分を読み手が想像してしまう、というのはこの詩の主題にも関わってくる部分ですね。意味がぼやけているが故に、さらに違う意味を重ねてしまう。音のレベルが同じ言葉というのは、意味が全く違ったとしても結びつくものだと僕は思っています。そうした意味のぼやけ方に、さらに文脈の力によって何かを繋げられたらいいな、というのもあります。あとは、そこにいかに実感を与えられるかで、そこが難しいところだな、と思っています。 詩の内容も面白い、と言っていただけて嬉しいです。 (ひとひと)

2017-11-27

コーリャさん コメントありがとうございます。 雨語、という言葉、非常に好きになりました。水や氵の成り立ちは、寡聞にして存じ上げないのですが(いずれゆっくり調べてみようと思います)、どことなく、水の系列の言葉には暗いイメージが内包されていますよね。人間に含まれているものであり、しかし徹底的に人間と違うものでもある、水にはそういう要素もあると思います。夜の海は、昼の海からは想像のつかないほど不気味な印象を与えますしね。 ふつうの言葉じゃない、と言っていただけたのは大変光栄です。 (ひとひと)

2017-11-29

花緒さん IN言語の時にはお話しできてうれしかったです。今後ともよろしくお願いします。 花緒さんのコメントを読んで、「なるほど」と思った節はあるのですが、初読の印象とまだ接続できていないので、とりあえずは、最初に読んだ時の感想を書いておこうと思います。 僕はこの詩は、「言葉にならない言葉」の詩であると考えました。少し前に読んだ、『悲しき亜言語帯』という、沖縄方言、沖縄文学について扱った本(作者名を忘れてしまいました)で言われていたことなのですが、「方言」話者は 、より「標準」とされる言語を話す人々の共同体の中にいる時、自分にとっての母語を、使うことができず、結果として、自分の内部に、母語の言葉のイメージが篭っていくということがあるそうです。言葉が使えない、という状態においては、言葉のイメージが内部濃縮されていく、ということがあり得るのですね。 この詩は、そのような「方言」、「標準語」といった言語の共同体の話ではないにせよ、こうした話を僕に思い出させました。「こんな子供」と(おそらくは教師から)言われる子供は、「誰とも話せない」「言語を理解しているかさえ定かではありません」とされる。僕は、「おかあさん」と呼ぶ言葉が、そういう「子供」の中に濃縮されている言葉なのだと考えました。 言語の共同体の話ではない、と先に言ったのですが、よく見ると、この詩のタイトルは「国語の授業」であり、(国語、という言葉は強烈に国という意識を感じさせます)そうして、学校に適応できない「子供」はある意味で言語的な共同体から締め出された存在でもあるのですね。こうしたところから、花緒さんがおっしゃった伝説の文部大臣賞作文というものがどういう存在か、ということへの取っ掛かりがつかめると思いました。 (国語の授業)

2017-11-27

まりもさん コメントありがとうございます。 「空、という得体のしれない、大きなものに向かって、能動的に関わりたい、そうせざるを得ない、そんな衝動が能動性となって表れている」、ということですが、おそらく、この主題がこの詩を読む上で、重要になってくるのではないか、と事後的にですが感じています。「空」、「水」という言葉を何度も繰り返すことで、形のない何かに迫ろうとする、そうした、ある意味で実態のない言葉への執着のようなものが、この詩の根本にあります。 その上で、「空」という字を「ひらく」わけなのですが、それは、「空」という感じを(平く、という意味合いですね)意味の薄められたひらがな表記に直していく、ということと関係があります。「空」という意味的に硬いものを、分解していく、ということでもあります。なので、「空」を「くう」なのか「そら」なのか、という疑問を提出してもらえたこと、また、「空」を分解すると「穴」が現れる、と言っていただけたのは、非常にうれしかったです。 そうした要請があるために、この詩においては、ひらがなが多いのですが、そのためにある種、詩全体のイメージが、柔らかいものになってしまう、というのはあると思っています。そのため、「焦燥感」を主題に読み取っていただけたことにはなんとなく、安心感のようなものがありますね。 改行の技法にも効果がある、と言っていただけて嬉しいです。名詞が前傾してくる感じだとか、内在律だとか言ったようなものを入込みたかったのです。 「君」の存在感の希薄さ、は、そうですね。ある種、失ったものを追い続けることの空虚さ、とでも言いましょうか。「水」、「空」という、イメージの中でしか、「君」を求められない、という主題を織り込みたかったのです。 (空をひらく)

2017-12-11

百均さん、コメントありがとうございます。 そうですね、空をひらく、という動きは、柔らかそうに見えて、結構暴力的な動作であって、全体にそういう気配をしのばせたかったというのはありますね。 (ひらく、というのは、漢字を平仮名にする、の意味でもありますしね) 空から落ちてない、という指摘がすごく的を射ているように思っていて、なんですかね。もしかすると、空を開いた後の空漠のようなものにもっと向き合わなければいけなかったようにも思いますね。 (空をひらく)

2017-12-25

Clementineさん、こんにちは。  どうも、こっちで会うのは初めてですね。  僕は今まで、基本的に君の詩を私的な読み手として読んできたのだけど、せっかくなので、批評的な読み方をしてみようと思う。ので、そのつもりで読んでくれると嬉しい。  雨か雪か、わからないものを名付けていく、それがこの詩に通底している心である、と僕は思う。「雨か雪か わからないから」という言葉。「みぞれ」という言葉は、「雨」と「雪」という極めて距離が近い二つのものの中間に、そっと開いた隙間のような何かを表している。おそらく、この世界を大づかみで捉えようとした時には、「雨」か「雪」かに無理やりに内包されていくような言葉だろう。そこを、この詩は、中間であることを意識しながら、丁寧に拾っていく。おそらく、それは、「するはずのない/カルキのにほい」、「指先にぎりぎり届かい/日向」、「産毛をかすかに揺らさない/風」につながる営みであり、人間が普段切って捨ててしまっている中間的な、かすかなとても小さな何かを、いかに慈しめるかということを意味する。  最初に、「みぞれ」と言ってしまうことは、ある意味、そういう中間的な繊細さを壊しかねないものと思ったのだけど、下記のような思考の経路をたどった結果、そうでもないかな、と考え直した。 「指先にぎりぎり届かない/日向のように」、「産毛をかすかに揺らさない/風のように」という細やかな手つきで、名付けていくこと、その結果として、最後には、「みぞれ」と「わたし」は呼ぶことができるようになっている。それは、つまり、名付けることの暴力性を、少しずつ、やわらげて、それこそ、「くすぐる」感覚で名付けの対象に触れていくということでもある。となると、逆に初めの名付けは、一見、こうした手続きを経ていないもののように見えてしまう。けれど、重要なのは、「だれかがみそれと呼んだ」という言葉であり、そこから、「だれか」がすでに呼んでしまったそれ、「みぞれ」と括られてしまったものを、同じ名前で、それでも、優しく、もう一度呼び直してみる、そういう流れが見えた。だから、納得できた。僕は、人が名付けてしまったものが受け入れられなかったら、新たに名付け直してしまう、という詩人なのだけど(それについては僕の「水のおぼえ」という作品を見てみてほしい)、ここであえて同語反復的になることにも、意味があると思った。既成の言葉に留まることで、そこから僅かに零れるものを捉えようとする感じ、とでも言おうか。  また、「みぞれ」を最初と最後に繰り返すのは、予定調和はあるにせよ、この詩の静止的な、ものすごく緩やかに流れる時間を描く上では、効果的であると思った。  最後に個人的なことを書いておくと、僕は久々に君の書いた詩を読めて、とても嬉しいです。(照) (「産毛」)

2017-12-13

北村さん、こんにちは。 IN言語の際にはお世話になりました、演奏、カッコよかったです。 少し、感想がまとまっていないのですが、タイミングとして、今だと思ったので、まとまらないままで申し訳ないのですが、コメントさせていただきます。 北村さんの詩の、言葉の連なり、一つ一つ、色を帯びている言葉が、基本的に好きなのですが、同時に、いつもそのイメージの量の多さに圧倒されている節がありました。書き手は相当体力を使ってこれを書いているし、読み手もまた体力を使って、真摯にぶつかっていかねばならない、そういうような言葉の密度を感じるのですね。 ただ、これは個人的に思ったことなのですが、北村さんの音楽に一度触れると、こういった詩も印象が少し変わって見えてくるのではないのか、と思ったのです。なんというか、ある種の音楽性のようなものが見えてくるのですね。(それを感じるために、一度北村さんの音楽を経由しなければならなかったのは、単純に僕の読み不足で、ちゃんと読まれた方なら初読でわかることなのでしょう) ある種、つぶやきのようなレベルの、しかし確かに音楽性を持っている、そして、映像的でもある。これはなかなかすごいことなんじゃないのかと思いました。 主題の解釈に入りますと、ある種、崩壊や終焉といったようなものを感じさせますね。本来、円環的になるはずの曜日において、名前が消滅していく、ということ。それも「死骸」や「遺灰」という言葉とともに。そうしたイメージは、空や、太陽といった大きなスケールで語られつつ、海(都市の比喩でしょうか)、というイメージにつながり、その中での僕に注ぎ込まれていきます。個人的に、あまりに美しい夕暮れを見ると、「世界は終わるんだなあ」と思ってしまうのですが、それを肌感覚に落とし込んだような気がします。 海、のイメージを都市と連動して語る、というのは結構使い古された手法(それゆえにしっくり来る)と勝手に思っているのですが、この詩においては、ある意味で都市に近い硬質な言葉である「空中戦」、文明を連想する「星条旗」という言葉のために、古さを感じさせないものになっていると思います。そこから、空を見る僕の視線、都市によって僕に突き刺さる視線を経由して、僕の溺死という実感が出来上がっていく。夕暮れ空の不気味さを、溺死に例えたのは見事だと言えます。僕はとても実感のこもったものとして、「水死体」の部分を受け取りました。 ただ、一つ質問なのですが、最後に、大きなイメージから入った終焉の感覚を、「僕」の個人的な領域に止めて終わったのにはどういう意味合いがあるのでしょうか? 個人的には、「僕」ひとり溺れていくのではなく、世界全体が終焉していく、という広げ方もあったように思います。(読み違えだったらすみません) ともあれ、僕はこの詩が好きです。蛇足になりますが、「茜色の飛行機雲」という言葉に、非常にしみじみとしています。長文失礼しました。 (海に砂糖を、僕には何を?)

2017-12-08

こんにちは。 とても好きな主題が書かれているので、コメントさせていただきます。 僕は、個人的に、言葉の一つの作用に、星と星を繋げて星座を作るようなものがある、と思っています。例えば、ロートレアモンの有名な詩句、「手術台とミシンの美しい出会い」でしたっけ。(うろ覚えですみません)この詩句においては、本来全く違うものである、手術台とミシンが、線で結ばれて、新しい一つの星座(イメージ)を作っているように見えます。そこには、イメージとして、新しい価値が生まれるわけですが、ある意味で、本来そこにあった、手術台とミシンの本質的な断絶が置き去りにされてしまう、ということもあるのだと思っています。 この詩は、そうした、人がイメージを形作って行ってしまうことの残酷さを物語っているように思います。そうした点で、スマホというデジタルな世界と、宇宙という本来割り切れない世界をぶつけたことに、面白みが見出せます。 そうして、「オリオン座を/オリオン座だと思う」という部分からは、そうした人間の暴力性のようなものが滲み出てきます。 しかし、結局この詩も、そうした、イメージを形作る暴力性から踏み出すことができていないのではないか、というのが正直な感想です。花緒さんが既におっしゃった「一捻り」の部分なのかもしれないですが、もっと野心的に、割り切れない「宇宙」を、オリオン座の星と星との壮絶な隔たりを、割り切れないままに語ろうとする努力をするべきだったのではないか、と思うのです。そのくらいのことを仮に百パーセント成功しなかったとしても、試みることができるのが、詩だと個人的には思っています。つまり、言葉の暴力性を意識しながら、言葉で括れないものを語っていくことが、できるのではないかと思うのです。 と、批判しましたが、冒頭にも書いたように、この詩の主題、イメージは主題に好きです。できれば、これのもっと育ったものを見たいなあ、と思うくらいには。 駄文を失礼しました。 (Stars)

2017-12-08

こんにちは。  不思議な形式だな、というのが、第一印象になってしまいました。というのも、僕が初め、Bonus trackを一つ目の部分の続きとして読もうとしたから、なのですが、個人的には、メインのもの一つだけを掲載するのが良かったように思います。貴音さんの詰め込み感を出したい、という意図は十分伝わってきたのですが……  ひとまず一つずつの詩について言及するなら、僕は第一部が素晴らしいと思いました。世界の終焉に、世界自体が走馬灯を見る、という設定、その中で、異様な速さで動く世界と、イメージの乱打。それでいて、人々の反応などは、リアルさを感じさせます。  一番リアルに感じたのは、「私」の感じ方ですね。何が起こっているのか、をある意味冷静に見ながら、自分は世界を救えるかもしれないと思いながらも、個人的な死を遂げざるをえない。結局、世界の終わりというのも、無数の固有な死の集積でしかない、という切なさと言いましょうか。世界の終わりという形のないものが、一人称的に語られることによって、リアリティを帯びてきます。ただ、暴徒が「カオスでアバンギャルドな」事をした、という部分については、もっとその内実を見せて欲しかったな、と思いましたが。  世界の終わり、走馬灯、という発想についてですが、星新一に「午後の恐竜」という作品があります。こう言っている時点ですでにネタバレをしているようなものなのですが、この詩と近い主題を持っているので、よろしければ一読してみてください。(個人的には貴音さんの作の方が好きですが、こうした素晴らしいアイディアも、先に書いてしまった人がいる、ということはある意味示唆的です)  その後の韻文の部分は、世界の終わりから、始まりへとシフトします。宇宙の誕生と、「私」の誕生が一致していく。「テーテーテー」の音を走馬灯の始動音と取るならば、これは、「私」の走馬灯が始まった、ということを意味していますし、反対に、世界が終わり、再び、ある意味でループ的に始まっていく、「世界の終わり」がそのまま始まりになる、という読みも可能です。僕個人としては、ループ説を取るのですが、こうした読みの幅があるのも素晴らしいと思います。また、散文部分を「私」と「世界」の終わり、その中での「私」の個人的な、孤独な死、という主題で読むなら、最後に、宇宙的な感覚で「私」が誕生するのは、感動的な移行ですらあると思います。最後の一行も、良いと思います。  こうした、世界の終わり、始まり、といった主題を持つだけに、Bonus Trackは不要だった、と思うのですね。一つ目のものは、むき出しで見たかった、というのが正直なところなのです。 「ヨミテニ・タクス2」ですが、残念ながら、僕はこの詩を積極的に読み解こう、という気が起きませんでした。(あくまで個人的な意見なので、他の人は違うでしょう)というのも、「ヨミテニタクス」と言われると、僕は不親切な読者で本当に申し訳ないんですが、「そっかあ、託されちゃったかぁ」と思ってしまうんですね。作者が、最初から、何かをわからないまま出しているのだな、と感じるとちょっとたじろいでしまうのです。「キラキラ光る…」という言葉から、何か宇宙的な感覚を求めているのかな、とも思うのですが、(そしてそう思うとこの記号が星のように見えないわけでもない)それでも、最初の詩のように練れたものが作れるなら、解釈ができるものを出して欲しいと思ってしまうのです。たぶん、こういう、書き手にも意味がわからないような詩に求められるのは、一種の迫力だと思うんですが、それは読者に対して「何もわからないけれど、惹きつけられる!」という感覚を与えられるか否かだと思うんですよね。そういう点では、僕は、もう少しだけでも、読者をひきつける努力をして欲しかったな、と思ってしまいます。それさえあれば、貴音さんの詩のわからなさは、すごく魅力的になりうるものがあると思います。 「ご相談があります」、これは素直に面白かったです。まりもさんに近いようなことを、僕も感じましたね。ある意味で、リアルな感覚を保っているが故に、異常さがわかる、という感覚ですね。ただ、この詩のよさも、Bonus Trackであるという意味から、第一部のおまけのように見えてしまい、ちょっと残念です。最後の「世紀末ポア」についてですが、面白いアイディアであると思いました。ただ、個人的にはもう少し、元の曲の面影が残っていた方が、面白いな、と思います。元の意味が残っていた方が、元の意味が歪められていくその瞬間が見えて、面白いと思うのです。その際、元の曲で、あまりにも有名なものを使うのも、ありかなとか思ったりしました。  最初に話が戻るのですが、一つ一つの詩を、しっかりと活かす力があるのだから、一つずつゆっくり見たかった、というのが、個人的な感想です。ただ、これも僕の理解力が低いからなのかもしれませんが。  しかし、読んでいて楽しかったのは言うまでもありません。もちろん、いろいろと言いましたが、詰め込み感も楽しかったです。(僕が言ったのとは逆に有機的な詰め込み感を出しに行くのもありかもしれませんね)  長文失礼しました。。。 (お子さん、SUNgです。)

2017-12-12

連投、失礼します。 ちょっと読み違えていて、僕のコメントの「ヨミテニタクス2」とある部分は、「キラキラ光る、お空の欲しいよ」に差し替えて読んでいただけると、助かります。 申し訳ない、、、 (お子さん、SUNgです。)

2017-12-12

芦野夕狩さん、こんにちは。 非常に楽しく拝読しました。  自慰のイメージと、密室の結びつきが面白いと思いました。自慰、というものは基本的に人目を憚って行われるもので、それを知る人、見る人も自慰をしている本人しかいない、というものだと思っています。そうであるが故に、姉の自慰は密室の中でしか行われることはない。けれど、密室で行っているが故に、隣の部屋にいる弟にはその声が聞かれてしまう。そして、弟に届いているのは声だけである、そのために、弟の中では姉の自慰のイメージが膨れ上がっていく。そして、株価の変動のイメージが姉の自慰と結びついていく、という流れ。  弟が、マンションを買おうとしないのは、そうした姉の自慰のイメージが、誰にも聞かれないことによって、逆に普遍的なものになってしまうのを、恐れているから、と勘ぐりをしてみました。見えない、聞こえない、存在しないものほど、普遍的なものはないかな、と思ってしまうので。ただ、「小さな箱」で姉の自慰が演奏されるのは、密室のイメージがさらに密室のイメージに結びついているから、という読みもできると思いますね。    と、いう風に僕は初読で読みました。その上で、他の方のコメントと、芦野さんの返信を見て漠然と、作品の見え方と、作者の意図とが、どう関係してくるか、というのは結構難しい問題だなあ、と思いました。 (姉の自慰)

2018-01-07

まりもさん コメントありがとうございます。  息をすること、生きることの連動は、この詩において重要なものなのだ、と僕も思います。後付け的に言うならば、この詩における、生きること、は、複数の影を持ってしまうことであり、一方で、息というものは、一つの影だけを持ったままに、消えていく。本来同根なはずなのに矛盾している。  僕にとっては、こうした矛盾が大切なものに思えたのです。  あき、と、いきの対比、は半ば自然発生的に出てきたものでもあるのですが、やはり、息をする、という行為が、空にいきを放っていく、ということと繋がる、ために生まれたものなのだと思います。息、生きは、空きが、前提となっているからあるのかもしれないですね、、、  「かげ」の話について、少し調べてみたのですが、なかなか奥が深そうで、はっきりとはわかりませんでした。「かげ」の語を光の固まり、とする用法、また、物が光をさえぎることで作り出すシルエット、とする用法、双方ともに、万葉集において見られるそうです。ただ、国語辞典、古語辞典の用例の引かれている数を見ると、「光の固まり」としての用法の方が多かったように見受けられ、「シルエット」の意味で使われているものは、一つしかないみたいです。そこから時代が降り、源氏物語になると、双方の意味での用例が見られるようになる。その過程として、「かぐや姫」はあったのでしょうね。  こうした移行の延長として、「シルエット」の用法を一般的に捉える現在の傾向がある、と考えて良さそうです。角川古語辞典には、「かげ」の意味を四つに大別していて、①光源、②(光を受けて浮かび上がる)形、③シルエット、④光が当たらないところ、となっています。この四つの用法が、順々に現れたのだとしたら、個人的には納得がいくかな、と思っています。  光源から、光を受けるものとしての形、姿、そこから、光を受けて作り出されるシルエット、最終的に、光が全く当たっていない状態、巨大なシルエットとしての、光が当たらないところ、という移行、ですかね。  見ること、と光、の関係を昔の人たちが意識していたのだとすれば、面白いですね。例えば、景なんて言葉は、まさに光と見えるもの、風景の結びつきの上にできているように思えます。 (冬、いき)

2018-01-12

緑川七十七さん  コメントありがとうございます。  すごい感受性、と言っていただけて、純粋に嬉しいです。ほんの少しだけ舞台裏を話すと、僕は小学校から高校を卒業するまでの間、冬に多く雪が降り積もる地方に住んでいたのですが、そういうあたりでは、冬の朝など光が強い時間には、自分の吐いた白い息の、影がぼんやりと、雪の上に見えるのです。もちろん、白い息がすぐに消えてしまうように、その影もすぐに消えてしまうのですが。  読み解いてくださったように、この詩では、幾重にも影を持ってしまうこと、が、ただ影を持つものであること、ただあること、(そしてそれに対する憧れ)に逆行していくように描いています。それでも、「いき」という限り、それは一つである、という矛盾も孕んでいるわけですが、、、  書き手として、こうした矛盾についてどう考えていこうか、と思っています。少し思うのが、自意識とか、自分をどう認識するか、とはまた別の自己のようなもの、そうしたものが、「ただいる」ことへの契機なんじゃないか、ということですね。 (冬、いき)

2018-02-06

百均さん ご無沙汰してます。コメントありがとうございます。 僕の作品には解体していくような、拡散していくようなところがある、という点、どこかわかるような気がしています。浮遊、というか、遠のいていく感覚ですかね。そうした感覚は、割と詩を書くときに重視、というか無視できない、といった感じがしています。 この詩では、おっしゃる通りに、拡散と収斂が、同時に起こっている、というか、いき、という言葉の中に、それが篭っていく、という感覚ですね。そこには、一つの矛盾があって、けれど、ある意味で、融和的なものなのだ、と僕は思っています。 待ち人、というのが何なのか、という点。作者ながら無責任なことを言うと、この詩には、分裂が、時間と関係付けられて語られている。時間を生きていくこと、それが、自己を分裂させていくことである、となっていて、でも、待ち人、というのを待ち続ける、ということは、一人の存在に意識を収斂させていくことでもある、ということなのかな、と漠然と考えてみました。 (冬、いき)

2018-02-15

桐ヶ谷忍さん  神話的な話を丁寧に描かれていて、とても面白かったです。  神話的、と言いましたが、この作品にはリアリティもありますよね。特に、「私」と「夫」が眠り続けるという場面。災害用の缶詰を食べて、寝ての暮らし。夫と同時に起きることはない。けれどその体温を暖かに感じている。僕はこの部分の描写がとても好きです。  一転して、雲が溶けてからの日常生活が変化しつつも戻ってくる、という部分がファンタジックだな、と僕は思いました。一つの理想を、社会が共有しているような、それによって、地上が天国的になっていくような感じがあります。どこがファンタジックであるか、というと、初めに個人のレベルで語られていた、天変地異が、急に共同的なものになるから、ですね。  ある意味で、ここで理想とか、答えとかが出てしまっているのですが、僕は、この部分は個人的にあまり好みではありませんでした。もっと、個人のレベルで語ってくれたら、と僕は思ってしまったのです。犯罪のニュースがなくなり、隣の奥さんの愚痴がなくなり、夫は定時に帰ってくるようになり、、、いいことづくめなんですが、僕にはどこか「幸せ」像が世界と人々に押し付けられているように思えてしまったんですよね。  どこか「カミサマ」に支配されているような、居心地の悪さと言いましょうか。たぶん、これは僕が自分の性格の悪さを晒しているだけのようなものなのですが、、、  僕がこの世界にいたとしたら、雲が溶けた後に、忘れたくない苦しみのことも、忘れてしまうんだろうな、と思ってしまいました。社会が同じ方向を向くようになっていく中で、取りこぼされてしまう何かがあるような気がするのですね。  でも、この詩を貫いているのは、本当は優しさなんですよね。それはわかっているつもりで、あくまでも個人的な、捻くれた意見を言わせていただきました。素晴らしい作品に、水を差すようなことを言ってしまい、申し訳ないです。 (光臨)

2018-01-25

 近しい人間に中国系の人間がいるもので、この詩に関しては、ちょっと感傷的になってしまいますね。もちろん、国と国の間に問題はあったりするけども、中国人や韓国人に対して偏見を持っている人たちも、彼らにとっての「陳さん」がいたなら、もっと違うだろうに、と思います。  陳さんと若者たちの交流が、波紋として語られるのが、とても好きです。人間関係は、どこか、波紋に似たものだと、実感として思うからですね。 (陳さん)

2018-02-22

タイプして気付いたのですが、このタイトル自体がループしているんですね。ちょっと感動。実は、全くの私事なのですが、僕も牛、と名付けに関する小説を書いたことがあって、なんですかね、牛には人の名付けだとか、呼び名に関する何かを刺激する力があるのでしょうか。 この詩においては、いわゆる、「こそあど」が牛の弁別に作用していますよね。そして、こそあど、というのは位置関係のことであるから、すぐに牛たちは互いをとっかえっこしてしまう、自らを取り替え可能にしてしまう。ただ、思うのは、「こそあど」というのは、語り手から見た位置関係を表す言葉であるということ、つまり、「語っているうしくん」、本来なら視点の位置に置かれているうしくんも取り替えられている、ということ、これをどう考えるかによって解釈が変わってくるのではないか、という点です。 語り手が動くということ、もっとフラットにいうと、この詩の語りの不気味さを、ある種の「心地よい気持ちの悪さ」と捉えるか、それとも作品の破綻と捉えるか、が人によって分かれそうです。 おそらく、こういった取替え可能性というところが、「はんすう」とも関わっているのでしょうが、その部分はいまいち読み込めませんでした。ただ、処女作?の頃から一貫していて、読んでいて楽しかったです。 (うしのはんすうし (B-REVIEW EDITION))

2018-02-15

花緒さん、コメントありがとうございます。 言葉の流れが柔らかいとのこと、評価いただきありがとうございます。本格的なコードをおさえたものなのか、平板なポエムぽさをなぞったものなのか、ということですが、この言い方だと、僕が何らかの「型」をなぞって書いた、というように花緒さんには感じられたのですね。 僕としては、結果としてどう見えるか、という点は置いといて、意図としては本格的なコードをおさえて書いたもの、でもなく、平板なポエムをなぞったものでもないわけですね。むしろ、意味の交差を織り交ぜつつ、自立した一つの物語、自分にとってしっくりくる言葉の反応を狙ったものなのですね。 もちろん、僕の技量不足のために、今までにあったものを真似しているように見える、ということ、あるいは僕が使おうとした童話的なイメージが、逆に僕の詩を食ってしまって、結果一つのパロディのようになっている、ということはあり得るでしょう。ただ、最近の個人的な懸念として、花緒さんのような、前衛的な試みを自称して果敢に詩の形式に挑んでいく、という方には、僕の書くような詩は、全て何か古典的なもの、何かをなぞったもの、という枠に入って見えてしまうのではないか、ということがあります。もしかしたら、僕の思い違いなのかもしれませんが…… (あなたにたくさんの柑橘)

2018-02-22

まりもさん、コメントありがとうございます。  少女のイメージを、童心の表れ、童話的なイメージの投影ととっていただけたことが、僕としては嬉しいです。その上で、少女ではなく、「わたし」が男になっていく、という読みをしてもらえると、僕の(作者の半ば身勝手な)意図を実現できたのかな、と思います。「わたしも」という言い方で自ら阻害してしまったのかもしれません。僕のイメージとしては、子供を産んで、去ってしまった少女、子供を産むことができない(とされる)、男になっていった「わたし」の別離が、そこにあるかのように思えるのです……  第三連の、ルーティン的になっているというご指摘、こうした、言葉の並列的な置き方を、時たまする必要に迫られてしまうのですが、確かに、そうした時にどうルーティンに陥らないかは、もっと注意が必要な気がします。  全体的にこの詩は、結果として観念の詩になっていると思います。書いた側としては、第一連の言葉の感覚が、その後の観念的な部分に耐えうるか、という点を心配していたのですが、逆の懸念をするべきだったのかもしれません。観念と感覚のバランス、言葉が言葉を導いていくような感覚が重要なのですかね。細かく作品に即したコメント、ありがとうございました。 (あなたにたくさんの柑橘)

2018-02-22

百均さん コメントありがとうございます。温かい物が、何か、この詩の中に流れているなら、それを百均さんが汲み取ってくれたなら、非常に嬉しいです。 (あなたにたくさんの柑橘)

2018-03-11

まりもさん、HAneda kyouさん、百均さん。  皆さんコメントありがとうございます。せっかく返詩をいただいたのに、こんなに時間が空いてしまい、しかも、まとめて返信することになってしまい、申し訳ありません。初めは、僕の方からも詩をお返しできればいいな、と思っていたのですが、手をこまねいているうちに、時間が経ち、身の回りでも様々なものが変わってしまい、返信できないでいたのです。フレッシュな詩として返すことができないで、申し訳ないのですが、それでも何か言えたらと思って返信します。   まりもさん  僕は、2011年3月1日にあったことを語る、ということは、「きみ」や、「わたし」、「ぼく」といった呼び名について、問い返すことでもある、と感じています。もちろん、こうした災害を前にして、「私たち」というような、共同性、地域の一体感のようなものは重要なものに違いないのですが、僕は、そうした災害を前にして、「私たち」と自称する時に、追い出されてしまった、掬いきれなかった存在が重要に思えるのです。おそらく、その中には、この詩のなかの「ぼく」「きみ」といった不確かな存在、そして、死んでしまった人、というものもあるんですね。  だからこそ、まりもさんが詩の中で「わたしは だれ」と問いかけたことがとても大切なことのように思いました。「私たち」ではなく、「わたしはあなた」「わたしはきみ」であるような優しさ、もありえていると思いました。 HAneda kyouさん  海みず、があくまで海みずである、ということ、黒い水が青い水に変わったということ。そうしたスケール感で決定的にされてしまいがちな「あの日」を語る、ということ、僕にはHaneda kyouさんの詩は、そういうことを表しているように見えました。「ここ」としか呼びえない、一つ場所が確かにあって、例えば、それは「被災地」とひとくくりにしてしまうことの残酷さから離れた場所にある、と僕は考えてしまいます。「ここ」である、ということ、海を前にして、今、ある、ということ、それこそが、「ここ」にはいない人を思う、よすがであるように、僕は感じました。 百均さん 「人も波もそういう意味では同じだ」という言葉に、感無量でした。ここまで、詩は伝わる、というよりは、僕が思ったものとは別に、同型の感情を、惹起させられるのだな、と思いました。まどろっこしい言い方をしてしまいましたが、本当に、僕はこの詩を書きながらそういうことを見出していったような気が、するのです。 (海のとき)

2018-04-06

ふじりゅうさん コメントありがとうございます。夜のなんとなしの恐怖、というものに触れてもらえたのは嬉しいです。私にとっては、どちらかというと、不安、といったより漠とした感覚に近いですが、そういう夜の感覚は、この詩において夜の許すようなところと背中合わせになっているような気がします。 なぜ、「てのかげ」なのか、おそらくはその影の、不在感のようなものがそうした夜に触れることと関わっているのではないかと思います。 全体に、主題を述べるというよりは、そこにあるもの、を書こうとした詩ではあるので、雰囲気を好きだと言ってもらえたのは嬉しいですね。 (いくえ)

2018-10-05

まりもさん コメントありがとうございます。少し、久しぶりの投稿になりました。 正直に言いますと、この詩については自分でもわからない部分があるのですが、夜の生理的な感覚、というのはこの詩の軸であると思います。そして、また、生理的であるとともに、この夜は、非在を秘めているように思うのです。(おそらく、そのような生理的であり、非在でもある、という世界との距離感はリルケにおいて私が強く親しみを感じるものでもあります) 伝達性、についてのご指摘、ありがとうございます。なかなか分かりづらい詩である、という自覚はありますね。どこがどう繋がり、またどう繋がらないのか、ということは意識していたいと思います。 返詩について、ひとり、なのだな、という感慨がありました。肌の輪郭が溶け、しかし夜との同化ではなく、否応なくひとりを意識させられる、という点が興味深いです。 (いくえ)

2018-10-05

帆場蔵人さん コメントありがとうございます。景色、そうですね、ここに書かれているのは景色だと、僕自身は思っています。うちゅう、と呼ばれている、夜の、頭上に広がっている何かに、帰っていくこと、また巡っていくこと、について、それは故郷であるのだけれども、また不安を帯びているという感覚。そういう感覚をこの詩は持っているような気もします。酔わせるもの、というものがあったというのは、嬉しく思います、やはり、詩にはどこか醒めているものを道に迷わせるところがあったらいいと思うので。 (いくえ)

2018-10-12

田無いなるさん コメントありがとうございます。うちゅう、空、とその何かを呼ぶとき、こぼれていくものがあるような、そんな感覚があります。それはつまり、名付けを拒むこと、名付けから離れ、そこにある、一回性でしか無いものに触れようとすることであり、同時に、どこまでも触れないでいようとすることでもある。「それでも何かにふれるときがくる」そうですね。いつかは失くし、あるいは、またいなくなってしまうけれど(そしてそれこそが「ある」「ふれている」ことの証明でもある)、こうして影を重ねている、という状態であると思います。 こちらも少し抽象的な感じになってしまいました。いい詩、だと言ってくださって、嬉しいです。 (いくえ)

2018-10-12

stereotype2085さん コメントありがとうございます。読み取りにくさ、から、読み手の心を捉えていく、という動きがあった、ということについて、僕自身、書いていて、途中から何かを分かっていくということもあるので、こうなっているのかもしれません。途中から、興味を感じて下さったなら幸いです。諦念、達観、のような感覚はあると思います。ただ、個人的には、もっと幼児的な感覚に近いと感じています。無責任な、その分世界に生身でさらされているような感覚、ですね。 (いくえ)

2018-10-12

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