標題の意見書を作成しましたので報告します。ご参照いただけましたら幸甚です。
●拙文「B-REVIEW第8期運営への意見書」(自サイト)
https://adzwsa.blog.fc2.com/blog-entry-71.html
※いかいかさんとゼンメツさんには、掲示板での対話を踏まえた、個人宛の附記を設けています。
上記は澤あづさの文責を明示するため、また情報の錯綜を避けるために、管理権のあきらかな自サイトで作成しました。ご回答は求めませんが、記事に問題や重大な誤解がありましたら、このコメント欄でも当該意見書のコメント欄でも、運営各位のご都合のよいほうにお知らせいただきたく存じます。どなたも魅力的な書き手である運営各位が、今後その筆力を遺憾なく発揮なさることを、澤あづさは切望いたします。
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澤あづさは上記の件について、他投稿者との合評を求めません。それでもなお上記に意見なさりたい運営陣以外のかたには、ここでなく意見書のコメント欄にお越しくださいますよう、切にお願い申し上げます。理由はリスクのない匿名の場で調子づいた荒らし、電波、罵倒家などに、粘着されたくないからです。
こうして切にお願い申し上げたにもかかわらず、このコメント欄に運営陣以外の書き込みがあった場合、それは荒らし、電波あるいは粘着罵倒家と、澤あづさは即断いたします。ご諒承くださいませ。
もはやヒステリィだな。笑
おれのサイトに来いとは、偉そうにまあ。まるで大親分だ。笑
現運営も小学生じゃあるまいにへいこらと従っている。
ここはもはや投稿者のためのサイトじゃなくなっている。
たいした批評もできないのに恫喝だけでここまで
阿呆を従えたのはたいしたものだが、
早々に閉鎖すべし。
こんにちわ。
澤氏のblogでの文章を拝見し、私なりの返答をさせていただきますね。
まず、私は、常々、ネット詩における批評と作品の非対称性の問題を考えておりました。
それはつまり、作品は、無数にあるが、批評や一定量の読解は非常に少ないということですね。
そういう意味でも、ある一定上の文章量と読解を書ける書き手の希少さという点において、澤氏の
読解を、詩作品よりも上位に置いております。これは、私自身の感覚になりますが、私は質がどうでも
良いであるなら作品はいくらでも書けます。でも、評論を書くのはかなりの労力を要しますし、だれもが
作品を書くことに重点を置いて、評論をあえて好んでかきたいというプレイヤーは、個人的にも掲示板の
活性化の視点でも大事にしていくべきだと思っています。
昔の自分―ポチーのやり取りを見て懐かしく思いますね。このころの自分の鋭さは失われてしまった気がします。
それが良いのか悪いのかはわかりませんが、澤氏の評論に関しては今後も投稿されることを願っております。
ただ、投票システムと選考に関しての問題は、私以外の運営の者に投げております。
何度も申し上げてる通り、「興味ねぇんだわ」なんです。
だって、私はやっぱり、自分が現代詩で一番、とりたいんです未だに。
↓澤あづさ本人確認
https://twitter.com/adzwsa/status/1703395195071660168
●室町礼さんのなりすましさんへ
自己紹介乙。
・拙文「B-REVIEWで罵倒を罵倒したら、わたしだけ実質出禁くらった話」より
「罵倒家・室町礼の詳報」
https://adzwsa.blog.fc2.com/blog-entry-69.html#BACKBONE
上の記事に記録しました通り、室町礼さんは澤あづさに「今後いっさいコメントしない」と公言しておいでですから、ここにお越しになるはずがありません。この記事の執筆者が澤あづさ本人であることは、記事で案内したURLから、客観的に明白ですものね。
すなわちおそらく、上の変質者はなりすましです。この者やうちの夫のストーカーであるtakoyoなど、ビーレビには変質者が数多く潜んでいますね。
fiorinaさんの記事でも、同名の変質者が、澤あづさについての虚報を流布しています。
https://www.breview.org/forum_blog/archives/3242
標題の意見書をまともな精神状態で読めばだれでもわかるはずですが、澤あづさはいかいかさんの運営就任に賛成していません。このような不名誉は、かれにふさわしい活動ではないと主張しています。
●いかいかさんへ
イヤアアアアアアアアア敬語で低姿勢のいかいかさんなど見たくないイイイイイイイイ。
さてはきさまもなりすましだな。殴り合いのすえ手を取り合え!
澤あづさ氏のブログなんかにまったく興味はないのですが仕方なくURLのブログを訪れ
檄文を覗いてみまして、なにやらヒステリックに叫んでいるのだけはわかりました。
いちいちヒステリックなかなぎり声をあげなくとも字は読めるし字は逃げないのに
なにをそうきりきりと悲鳴をあげるのかさっぱりわからないのですが、自分の批評について
物凄く自信と不信のあいだの波が激しいのだなということだけは伝わってきました。
それはまあ置くとして
そのゼンメツ氏の「無題」が次点になったということに怒っておられてですね
その「無題」という作品を読んでみました。
あれを詩と呼ぶのか、ただの作文じゃないかという驚きはありましたが我慢して最後
までなんとか読んでみて、なるほどなと納得するものがありました。
わたしには面白くもなんともないのだけど他の人たちが「無題」という作文を面白がる
心裏はなんとなく理解できるような気がしたのです。ようするに”漫才”が好きか嫌いかだけの
好みの話しにすぎないのか。
これは批評の問題じゃないということでした。でも作文を詩と勘違いし、また、
その勘違いが多数を占めるネットという空間でかんたんな批評の原理を説明しても虚しいし
まあそれならそれでご自由にそのマンガ的というか漫才的なものを面白がるセンスで
やっていけばいいという気がしました。
でも、当時の文学極道の選者たちの次作だかなにかという判断は間違っていなかったと
思うので、ヒステリックにがなり立ててもそんなもの狭いネットのマンガ的批評空間でしか
意味をなさないと思いますね。
詩を読む人たちの感性が劣化して意識の均一化と好みの均一化した空間なんてもう
死んだ空間です。その死んだ空間でヒステリックな金切り声だけが響き渡るなんてホラー
だから二度とみたくないですね。
このご時世に女性をヒステリーと呼ばわったら、差別者とみなされ全言動の信用を失うとみるのが、およそ常識的な判断でしょう。他人の尊厳をここまでわきまえず、そのうえ、
「澤あづさ氏のブログなんかにまったく興味はないのですが仕方なくURLのブログを訪れ」
この言動の異常性と危険性に気づかず、上から目線でみずから吹聴する超常現象。このような者の呼び名は「罵倒家」より「変質者」がやはり適切でしょうね。標題の記事に追記したとおり。