わたしのような孤独な単独者は静かなところで活字文字(本)を読んで暮らすことが多いのですが、
活字文字によって綴られた言葉というのは、書いた側の作者にとっては完成品でしょうけど
読み手にとっては、いわばデッサンでありスケッチであり骨格標本なんです。
詩や小説そのものはもちろん作者によって完成されたひとつの言語芸術ですが、
実のところまったく完成なんかしておらず、
それを読む単独者一人ひとりがそれぞれの経験や哲学や感性をもって素描された言葉に色彩や音楽や感動や意味を付け足しているのです。それが読書だとわたしは思っています。
この、未完なものをこちら側で完成させるという作業、結果的にはそれは作者との共同作業の成果なのですが、これが読書というものの快楽ではないでしょうか。
もし活字文字といういわば不定形な、雲のように浮かぶ夢に、
最初から音楽や色彩や絵や意味がついていたらわたしたち読む側はどうすればいいのでしようか。
そこに何を付け足す自由を見い出せばいいのでしょうか。
その場合、わたしたちが新たに何ものかを生み出す余地はほとんどなく、わたしたちは、ただたんに完成したものを”与えられる”だけです。
つまり他人が完成したものを彫刻のようにあるいは盆栽のように鑑賞するだけです。もちろん二次創作ということもあるから、完成された作品をみてそこからさらに何かをつくりだすことができないこともないでしょうけど
全部飾りがつけられてしまってからでは、かなりむつかしいし、発展の可能性も限定されてくるのじゃないでしょうか。
つまり読書というものは実は受け身ではなく積極的な創造性をもつ行為であると推測されるのです。

今、youtubeで「映像詩」と打ち込んでみますとNHKあたりの音楽と音声とナレーション入りの映像が出てきます。
活字文字としての言葉に映像や音楽や音声がきっちり色付けられた「映像詩」は
本を読むのとは逆で、
それを鑑賞するとき、こちら側の精神は受け身になっています。通俗てきな例を出すと映画館での映画鑑賞なんかが典型です。あれは薄暗い闇のなかで徹底的に受け身であることを要求されます。
わたしたちは単に映像に没入して「反応」するだけです。涙を流したり笑ったりゾッとしたり怒りを覚えたりホッとしたりしている。この「反応」だけをとれば読書がもたらす感情の生起と変わらないように思う人もいるでしょうけど、
まったく違います。読書の場合は自分で感動の根拠を作り出しているのです。だから映画鑑賞とは違って読書中のわたしたちの前頭葉はフル回転しています。
一方、映画やコンサートの場合は受け身ですからその究極の姿勢というのは心地よい眠りです。
わたしは小中学生のころよくオーケストラのコンサートに連れていかれましたが
いつも最前列でぐーすか気持ちよく眠っていました。いつだったか目を覚ますと、演奏を終えた指揮者が居眠りをして下さる方が一番演奏をわかってくださっている観客に向かってニコニコしながら語っていたので、冷や汗ものでしたが、これは半分本心なんだったのだろうと今では思っています。何もかも忘れて没入できるほどいい音楽だということです。

こういうことがあるからなのでしょうか、
単独者として読書に親しんできたわたしは言葉(活字文字)に音声が色付けされた「詩の朗読」というものをなぜか生理的に受け付けないのです。自然に心が拒否反応を起こします。
なぜかというと声というのは音楽の一形態で、これは言葉あるいは映像とはまったく別の次元のものだからです。
声は活字文字が生み出したものを一旦、殲滅(せんめつ)します。
ある詩を読んでせっかく我が心の中に生まれたひとつの
夢が粉々になって吹き飛ぶがごとく。詩の朗読というのは活字文字によって生まれたわたしのなかのその詩を御破算にします。非常に原始的で粗忽な行為です。
それが固有なニンゲンの生活じみた生の声によって踏み潰されるのならまだしも
完成された、出来合いの「みんなの声」であるプロ発声家のナレーションによって消し去られたとき
わたしはそれこそ無を感じます。虚無です。じぶんがどこにもない。
ところがなぜか詩の朗読を行う詩人たちはできるだけプロっぽいナレーションで語ろうとする。
朗読する者が発声のプロであろうと、いい声だろうと巧みに感情をこめていようと
わたしはそんなレベルで詩の朗読の良し悪しを決めていないのです。
詩の朗読というのは発声の訓練を受けたプロのナレーターなり声楽家がやっているからいいというわけじゃないんです。
そういう問題じゃなく、わたしならわたしが詩の書き手とともに生み出したひとつの作品を声によって壊すことなくどう処理して声に転化できているかということが最重要な問題なんです。これは、至難の業です。
至難です。
ところがある散文投稿家はわたしのいってることをまったく理解しようともしないで
プロのナレーター、鍛錬したプロの発声家が詩を朗読しているのに、
この室町礼という罵倒家は「耳をふさぎたくなった」などと「罵倒」しているとブログに書いてわたしを糞みそにけなしています。
このバカな男は声を聴いてプロの発声家どうかもわからないのか、笑止である。という。
でもねえ、わたしはそういう次元で詩の朗読というものをとらえているのではないんですよ。レベルが違うんです。

と、ここまで書いた上であえていうのですが、純粋な「映像詩」はちょっと違うとおもうのです。
(この場合の「純粋な映像詩」とは音声と音楽が介入しない映像と字幕詩のコラボのことをいってます)
この場合は少し糊代があります。いや、下手するとたいへん大きな糊代になるのかな。
多くの方が誤解しているように思えるのですがじつは映像と活字文字は同じ領域に属するものです。とくに象形文字を使う日本語の文字は本来、映像と親和性をもつ。だから詩の朗読を忌み嫌うわたしですが詩と映像のコラボは嫌いじゃない。
コラボというのは詩文を示す活字文字の字幕が映像に記されているもののことです。
これ、ふたつが決まったときは実に気持ちがいい。
石村利勝さんの映像詩『夏の水』これをわたしは音を消して鑑賞した。
じつにいい。映像と字幕の詩文が一体となって流れていく。この映像作家さんは石村さんの詩をとことん読み込んで映像をつくられているような気がひしひしとしてきました。
そういうことで音声と音楽なしの「映像詩」には大いに満足したのですが、
やはり音を入れてみたくなった。
そこでちょっと古いかもしれないけど日本初の総天然色映画だったか、あるいは日本初のパノラマ映画だったかという売り込みの『カルメン故郷に帰る』という大昔の映画の主題歌を聞きながら
この無音の映像詩を鑑賞してみました。
この主題歌の曲の流れはじつに遅いのです。遅いのですが石川利勝さんの純日本的とでもいうべき詩にぴったりあっている。
これはこれでいいと思いました。どうもわたしは俗物で本格的なオーケストラは合わないのかな。
それから『夏の水』についた音楽と音声ですが、これは独立した音声と音楽としてのみ聴きました。
するとこれは詩とはまったく別の次元のものとしてそれはそれなりに完成されたものであると評価できました。

映像も詩も音楽も音声も『夏の水』はそれぞれ完成されたものですが
あまり関心がもたれていないことの理由を探れば新しい詩の分野としての「映像詩」にまた新たなものが付け加えられるかもしれません。
石川利勝さんの『夏の水』まだまだ一杯語りたいことがあるのですが
わたしがこれ以上、映像と詩の関係について語るとかなりやばい領域に入っていきます。
作者という存在をすっぽかして滔々と語りだす危険性がありますのでそれは石川氏に誤解を与えかねません。
これにて失礼します。

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