小説と同じく、詩にもストーリーとプロットが必要だと思います。多くの詩には「私」の心境しか書かれておらず、何故、客観的な視点が全く存在しないのか理解に苦しみます。言葉のアバンギャルドに拘泥するあまり、映像的、音楽的要素が、詩から抜け落ちてしまっていますね。日本の「現代詩」なるもののほとんどが、上記のようなものですが、思うに一般読者の視点から詩について考える必要もあるのではないでしょうか。
「日本の「現代詩」について」に9件のコメントがあります
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小説と同じく、詩にもストーリーとプロットが必要だと思います。多くの詩には「私」の心境しか書かれておらず、何故、客観的な視点が全く存在しないのか理解に苦しみます。言葉のアバンギャルドに拘泥するあまり、映像的、音楽的要素が、詩から抜け落ちてしまっていますね。日本の「現代詩」なるもののほとんどが、上記のようなものですが、思うに一般読者の視点から詩について考える必要もあるのではないでしょうか。
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一理も二理もあるご指摘。
しかし、詩に親しみ、詩に興じ、詩に狂っている者が
普段、他者の詩作を軽く評したり、選り好みするのことはたやすくも
合評しあうということの難しさってありますものね。
俳句や短歌における合評では、自由律はまた別として
ルールのもとに「自意識の放縦すぎる振る舞い」は隠然と抑え込まれ
作者内面の底の底まで払底しきることなく、最後の一滴は残しておけるでしょう。
しかし、詩について合評は……
自作の詩を、まるで赤黒くなるまで怒張した「自意識の陰茎」のように股座に振り立てながら
対する詩を、大まじめに論評するような、独特の気恥ずかしさがありますね。
これが自分の「詩」ではなく他の表現であれば「自尊心の肛門」を衆目にさらすような
根源的な羞恥は生じえなかったでしょう。いいわけができたでしょう。
安易なセクシズム(性差別主義)な話に卑小化してはいけないけれど
スワッピング(集団性交)の場で、ちゃちな自意識を捨てきれず
どうしてもエレクトできず、走る愉悦に声も出せず、脱落してしまう男が多くいるのに対し
軽々と自尊心・羞恥心を乗り越えると腹を決めた女の、解放された肉体、陶酔しきれる精神。
詩を作る、詩を評する、詩を甘受する、という営為においても
男は女にとっての「永遠なる門外漢」のままなのでしょう。
話が「現代詩について考える」を考えることからズレてしまったようですが
タカンタさんの考察に相乗りしてしまいますと
《多くの詩には「私」の心境しか書かれておらず、
何故、客観的な視点が全く存在しないのか理解に苦しみます 》
の指摘ですが、「私」の心境をただ「うれしかった、悲しかった、怖かった、許せなかった」と
生のまま書き流してもよいのでしょうが、それを胎に抱きかかえず、外に流してしまうことで
いくつかの感情のインクを練り上げ練りこみ、特別な色を調合しきれていないことへの
示唆なのでしょうね。
「小説と同じく、詩にもストーリーとプロットが必要だと思います。」と書かれていますが「ストーリーとプロット」のない小説なんて星の数ほどありますよ。ノーベル賞作家のサミュエル・ベケットはその典型ですね。タカンタ氏が小説の前提として「ストーリーとプロット」をあげているのであれば、「小説と同じく、詩にも」という前提が崩れ去ってしまいますが、この点いかがでしょうか。
それから小説の議論で恐縮ですが「「私」の心境しか書かれていない」小説が「ストーリーとプロット」のある小説より優れていると言われていたこともあります(久米正雄「「私」小説と「心境小説」1925)。このような議論に対する見解もお伺いしたいと思います。「何故、客観的な視点が全く存在しないのか理解に苦しみます」以下の文章から「心境」を書いた詩より「客観的な視点」を持った詩の方が優れている、と思ってらっしゃるように見えたものですから。
ついでに付け加えますと、
「私小説と詩の表現は大まかにいえば対極的といえるであろう。私小説を、作者である〈私〉が実生活上の〈私〉の出来事を素材の中心として書くものとすると、もう一方の詩は、詩人の〈私〉が様々なものから触発された言葉にできない思い(深層心理)の動きを言葉にするところに発生するものであろう」(阿毛久芳「私小説と詩」『私小説ハンドブック』2014)
といった理解もあり阿毛氏はここで、でも私小説風の詩もあるよねと言って高村光太郎の『智恵子抄』や萩原朔太郎の『氷島』を(魅力的な私小説風の詩集として)あげています。なのでまぁ、別に「心境」書き連ねてるのは「現代詩」に限ったことではなく、詩一般(「近代詩」含め、の意)の普遍的なものかと。
そもそも、私は「現代詩」の書き手が「心境」ばかり書いてるとは思いませんが。
タカンタ氏のつよい主張には根拠も歴史も踏まえている形跡がなく「明晰」だとも私には思えなかったので書きました。タカンタ氏の文章は多分これ2回目かと思いますが、私見だけで声高に叫ばれても貴殿の文章を読まされる身としてはたまったものじゃありません。
問題提起(扇動)もされてますがアジビラとしても失敗かと。
左部右人様
コメント有難う御座います。
>ノーベル賞作家のサミュエル・ベケットはその典型ですね。
サミュエル・ベケットの作品にも、ストーリー、プロットは在りますよ。
あまり、”常識”にとらわれない方がいいと思います。
>私小説
小説は原則としてフィクションですね。
フィクションであるが故に、作者の思想、人間に対する総体的な結論が説得力を持ち得るのです。
また、作者の造形する人間が魅力的でありえるのは、フィクションだからです。
随筆と区別のつきにくい私小説では、作者自身が魅力的でなくてはならず、大変な困難を伴います。
私小説が廃れたのも当然だと思います。
>そもそも、私は「現代詩」の書き手が「心境」ばかり書いてるとは思いませんが。
私にはそう見えます。
また、日本詩壇の大御所とされる詩人の作品も私視点の作品ばかりで、うんざりします。
追記
私の言葉についての私見ですが
私がコンサートに行く。
コンサートの内容を第三者に伝える。これが言葉の役割ですね。
その場合、例えば、
「ヴァイオリニストの弓が弦に触れたとたんに、耳障りな不協和音が鳴り響いた」
などと書く。しかし、上記のような表現は証明できないですね。
証明できる表現で伝えるべきだと思います。
追記
結論ありきで、自分の考えに都合のいいように小説や詩を書いてはいけないのは、言うまでもないことです。故に、作者には誠実さが求められます。
「最近、面倒な仕事ばかりが私のところに降りてくる」
を、肯定的な表現に言い換える。
簡単?、難しい?、人それぞれですが、常識に囚われなければ、すぐに答えは出ますよ。
多くの方は、上記の言い換えについて詩とは関係ないと思われるかもしれませんが、
これが出来るかどうかが、優れた詩を書く上での分岐点です。
もし、出来ないのであれば、その理由を考えることです。
拙文に対する返信を有難うございます。
本来、会話の噛み合わない方とは距離を取るのが一般的で「常識」的な振る舞いと思われますが、ここは一言。私の書いた文章に対するコメントの中で、貴殿は私の問いかけをほとんど無視されていますが、貴殿にとって私の問いは無価値だったのだということなのでしょう。貴殿が言葉のキャッチボールを知らないのであれば、ですが。
ベケットの「小説」は「常識」的に読んで「ストーリーもプロット」もありませんが、そう言った「常識」を無視した、主観のみで語られる言説に如何ほどの価値があるのでしょうか。せめて立場の表明をしていた方が、貴殿の主張も伝わりやすいかと。「日本詩壇の大御所とされる詩人」がどなたを指しているのか分かりかねますが、例えば谷川俊太郎は主観的な詩も多く書いていますが、「いるか」のような構造に凝った作品も書いていますよね。そう言ったケースは他の「大御所とされる詩人」にも当てはまります。佐々木幹朗とかどうでしょう。
今後、私が貴殿に何か言葉をかけることはないと思いますが(レイヤーがちがいますものね。例えば、私は「私小説」と「心境小説」も分けて考えていますが、貴殿は違うようですし)、貴殿の言う「誠実」さに従って、貴殿の中の詩作や批評を行っていただけたらと思います。
左部右人様
相手の意見を「主観」として切り捨てることはお止めいただきたいと思います。
コメントの返信において、あなた様の為に丁寧に細かく書くことまでは致しかねます。
論文を書くわけではありませんので。
従って、ベケットについても、私の考えを詳しく説明することは出来ません。
また、私に対し侮辱的なことを言っておきながら、立場の表明をしろとは虫が良すぎませんか?
詩人にとって大切なことは、独自性であり、世間に流布された多数意見にに組することはやめた方がいいと思います。
私の信条は、常に少数派であり、異端として独自に考え、行動するというものです。
谷川俊太郎は、私から見れば駄作しか書いておりませんので論評に値しません。
佐々木幹郎は、読んだことがありませんから、わかりません。
左部右人様は、ご自分の考え、才能に基づいて詩をお書きください。
結局のところ、私と左部右人様の考えのどちらに説得力があるかを決めるのはお互いの作品ですよ。
良いですねえ~このヒリっとした感じ。ある作家に対する一般的な見解を潰そうとする意見に関しては、その根拠がなければ「主観」と裁断されてもおかしくないということはよくお分かりですよね。「あなた様の為に丁寧に細かく書くこと」を私は求めていませんが、ここは誰もが読める公共の場、と言う認識ですので。読者の為には、丁寧な説明をしていただいた方が良いかと。
「私に対し侮辱的なことを言っておきながら」→「立場の表明をしろとは虫が良すぎ」の因果が私には分かりかねます。侮辱し
ているのは「立場の表明」がないから、というのも当然ありますのでね。
「詩人に対して大切なことは独自性であり」という貴殿の「世間に流布された多数意見」に組することは私には到底出来ませんが、精々ガンバっていきましょう、互いに。「少数派であり、異端」であることと目も当てられない程に愚かしい、ということも違いますので。「日本詩壇の大御所」が貴殿にとってどなたを指すのかよく分かりませんが、貴殿が谷川俊太郎を作品を「駄作」と考え、佐々木幹朗も読んでいない、ということはよく分かりました(大御所=吉増剛造あたりですか?)。互いに「自分の考え、才能に基づいた詩を」書いていきましょうね。
「説得力があるのかを決めるのはお互いの作品」ですからね。「常識」的に考えて。
左部右人様の作品を拝読させて頂きました。
私の評価は、かなり辛辣なものですが、それを具体的に書くことは止めておきます。
思うに、あなた様の先ず行うべきは、ご自身の才能について再考なさることです。