2023/08 作品と選評

 

8月も多くの作品が投稿されました。作品を投稿してくださった方々、コメントを残してくださった方々に感謝申し上げます。

また、今月から運営のほか、ゲストとして片々氏が選評を書いてくださっています。片々氏へ、この場を借りてお礼申し上げます。

では、8月に投票数が多かった作品から発表いたします。

 

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投票数が多かった作品

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【9票獲得】

私の愛をあなたに伝える 、小夜バージョン
湖湖
https://www.breview.org/keijiban/?id=11516

 

【8票獲得】
愛って抽象概念だけどあなたのなかにそれはあるの?
湖湖
https://www.breview.org/keijiban/?id=11483

 

【6票獲得】
撃鉄
たけだたもつ
https://www.breview.org/keijiban/?id=11407

 

友がみな われよりえらく なりました
ねねむ
https://www.breview.org/keijiban/?id=11457

 

 

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優良

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確か、花火を綺麗とも言っていた
白荻アキラ
https://www.breview.org/keijiban/?id=11558

 

やぶれかぶれ
昼行灯
https://www.breview.org/keijiban/?id=11515

 

喰らう
鯖詰缶太郎
https://www.breview.org/keijiban/?id=11552

 

天国の子どもたちは、腕を大きく伸ばして、泣き叫び、喜んで求めてゆく
勉強します。ありがとうございました。いろいろと迷惑をかけました。
https://www.breview.org/keijiban/?id=11497

 

なまこ
15歳
https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=11414

 

親戚のひと
yamabito
https://www.breview.org/keijiban/?id=11422

 

 

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佳作

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宛先のない記録係
ほば
https://www.breview.org/keijiban/?id=11533

 

あいかわらず
カオティクルConverge!!貴音さん
https://www.breview.org/keijiban/?id=11528

 

虫送り(チグリス チグリス ユーフラテス)
AB
https://www.breview.org/keijiban/?id=11416

 

友だち
中田満帆
https://www.breview.org/keijiban/?id=11471

 

こういうことがありました
鳴海幸子
https://www.breview.org/keijiban/?id=11460

 

チョコレート
1.5A
https://www.breview.org/keijiban/?id=11551

 

ドブとパイン
よんじゅう
https://www.breview.org/keijiban/?id=11529

 

 

選評

 

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投票数が多かった作品

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私の愛をあなたに伝える 、小夜バージョン
  湖湖
https://www.breview.org/keijiban/?id=11516

書き込みが多く、語意も豊富であり、最後へ向かって、言いたいことをこころを込めて言い切っていると感じられる。その読み応えが、票を集めた要因になっているとして、その時間を見つけて、というよりかは、この作者の作品は、どっしり構えて読んだ方が良いような気がします。【運営より】

湖湖さんが8月に投稿された「愛って抽象概念だけどあなたのなかにそれはあるの? 」とともに多くの票を獲得していました。螺鈿細工のような、あやしい光を放つ湖湖さんの作風が、支持されている証だと思います。【あやめ】

 

愛って抽象概念だけどあなたのなかにそれはあるの?
湖湖
https://www.breview.org/keijiban/?id=11483

年齢を得たパートナー同士、しかし女性性の話者は「腐ったみたいにロマンティスト」だから、語意を尽くして、何とか言葉をもってして、互いの関係性を再定義し直そうとするのは、詩人であり、且つ、ロックンローラーだからである。と書いて、この評がしょうもなく思うのは、やっぱりこの作品が迫力魅力を持ち、ガンガン迫ってくるからでそれに比して言葉を尽くすことが、まるで無為なように感じられる。ともかく詩というものは前衛的な側面を持っているけれど、それが過ぎれば、アナログのシングル盤のB面、またはこれは私のなかにない言葉なのだけれど、メタ詩と呼称される作品群になるのだろうけれど、この作品が教えてくれること、つまり言いたいことを書けってことだし、心を込めろ、ってことだし、王道で行こうぜ、ってことなのだと思う。前衛性という意味では、それはオーソドックスな、大枠の詩、に収まるのだけれど、心がこもっており、迫力が伝わってくるという点、素晴らしく、人気作になったのではないか。タイトルがいい。【運営より】

 

撃鉄
たけだたもつ
https://www.breview.org/keijiban/?id=11407

以前、ニューウェーブ、口語短歌が登場したとき、その旗手的ポジションだった穂村弘の短歌と、前衛短歌を比して、ニューウェーブとは水鉄砲である、前衛短歌は本当の銃であった、という言説を私は読んだことがあるが、随分昔で、出典が記載できないのが残念である。いや、蛇足かも知れないけれども、私は勝手、作者と穂村弘をいっしょに考えていたことがある。世代的な問題だろうか?この作品は完成された文体を持つ作家の作品である。けっこうな数、書いていらっしゃると思うけれど、同じ単語に固執することもなく、ポール・マッカートニーのようにオールカラーを使って詩へ向かっておられる。今回は八月ということもあり、夏の行方を切り取った。この撃鉄、が、水鉄砲のようなイメージの世界じゃなく、ここだけ本物だとしたら?という危険な匂いがして、夏がその説得力を増している。【運営より】

 

友がみな われよりえらく なりました
ねねむ
https://www.breview.org/keijiban/?id=11457

石川啄木の有名な短歌に

友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買い来て妻としたしむ

(『一握の砂』第一部 我を愛する歌)

というものがある。

この歌を意訳してみるならば「友達がみんな自分より偉く見える日があるのである。そんな日は花を買ってきて、妻とその花を愛でるのである」といったところか。

花は心の潤いとでもいうべきものを指していて、劣等感や哀愁に咽ぶ日に心の潤いをパートナーと共にすることで癒しを求めている(求めることにより、その哀愁は読者にとってはいやますように感じられる)態を生き生きと想起させる。啄木は非常に精力的な活動をしていたことでも知られており、そんな彼でもふと劣等感に苛まれる瞬間があったということ(啄木には懐の太いパトローネスが二人いた。あるいは彼らに対する劣等意識であったか)、その内向的になった瞬間に自分の内心を伝えられるのが妻という存在であったことなど(実際には啄木は亭主関白で妻に花を買っていくことなどなかったそうだが)、作家像のギャップも詩として汲み上げることができるだろう。

ねねむ「友がみな われよりえらく なりました」は、タイトルからも明確にこの啄木の歌のパスティーシュであると考えられる。

この作品で描かれているストーリーをかいつまめば、「浮気がバレて妻に叱られる。そのせいで劣等感に苛まれる」という、啄木の歌に描かれている展開とは真逆の構成に、諧謔がある。キャバクラのキャストを「花」に見立てる(社交飲食業界ではキャストのことを隠語で「花」「お花」と呼ぶ慣習がある)点に関してはある種、家父長制度による男性優位の概念にいまだ帰属しているような感覚もあるが、この感覚も前述した短歌ではなく書き手としての石川啄木自身の観点を流用したと考えれば、作者のこの短歌への偏愛がより明確に伝わってきて、非常に興味深く思う。またこの作品がひとつの揶揄として存在する場合、現存するそうしたある種のミソジニー的表現へと皮肉的に踏み込む姿勢に関しても評価できるだろう。構造的にも非常によく練られ、パスティーシュとして成功した作品だといえよう。

短歌のパスティーシュであるから殊更指摘する必要もないであろうが、五七調を使うことによって、韻律に詩性そのものを預け、その中に私性を具現するという短詩型によく見られる手法を用いている。言葉と言葉の関係性よりも叙述性を強めることによって創作内事実を伝達することを主眼としており、その点に関しても前述した様に詩を韻律に預けているように思える。

韻律が崩れる(崩す)いわゆる「破調」という技法も使われており、

>わたくしは 気づく 由も無く

という描写をより生々しく(内容に寄り添うならば、より慌てふためいた感覚があり)表現し、次連以降のスラプスティックな展開の呼水としてうまく機能しているように思える。

またとても秀逸だと思った視点が

>空には 救いは ありません

>月には 救いは ありません

の言い換えの部分だ。

「空」という大きな範囲を見ている視点が「月」というその中の小さな一部に縮小されている。

これを切羽詰まったが故の視野狭窄として読むと、いかに動揺しているか如実に伝わってくるし、また次連の

>わたくしは 落ちるとこまで 落ちました

に関しても上部に向けられていた視点が「落ちる」ことによる言語上の運動が、実際の身体的動作に受け渡される働きを果たしていて、非常に効果的な要素となっている。

内容的にいわば死に体となった主体に対して最終連の

>南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

がくる訳で、このオチの付け方は筒井康隆の小説(『七瀬ふたたび』など)にもよく用いられる手法だが、パスティーシュであるという前提の上で再読すると、やけっぱち感がさらに上昇する良い帰結のようにも思えてくる。

現世成仏もできない作中主体がこれからどんな風に生きていくのか。あまり想像したくはないが、ろくなものではないかもしれない。しかし、意外と仲直りして円満な家庭になるかもしれない。この物語の続きを思わず考えたくなってしまう欲求が発生するのは、詩性を韻律だけに絞り叙述をひたすらにしてきた手法によって、今後起きうる事実を連続的に想起させる仕組みがもたらすものだ。この点に関しても作者は詩的描写(詩語による表現)に逃げずよく描ききったと賞賛してもよかろう。またこの作品に通底する石川啄木的男尊観とその否定を構造的に成し遂げたという観点からも、佳き作品として評価されるべきだろう。

ビーレビには珍しい、良質なパスティーシュ作品として、ねねむ「友がみな われよりえらく なりました」を顕彰したい。【片々】

五、七調で、人間のどうしようもなさを謳いあげた大作。コメント欄も湧いていました。何か書いた途端、ネタバレになってしまうエンタメ作。御一読下さい。冷やでも嗜みながら呟いて読んだのならばこのような立派な大人になれるでしょうか。【運営より】

 

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優良

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確か、花火を綺麗とも言っていた
白荻アキラ
https://www.breview.org/keijiban/?id=11558

内容もライトさも素晴らしい。美しく、まとまっていて、完成度の高さと読む愉しみがある。私とあの人は同じであって、嫌うものと自分でさえそう違わないというメッセージを読み取った。嫌う、嫌わないについての考察。【黒髪】

端的な表現なのだけれど、内容が凝縮されており、しかし端々、それは読者に委ねられる、想像の余地、内容整理の余地が、詩情と相まって立ちのぼる。ともかくも、それで言い切れる内容ではないのだけれど、「私の嫌いな人が同じ感性を持っていた」ことを、多分、大雑把に把握できればいいと思われる。いいえ、他に言及すべきことはあるけれども、それではまるで解剖のようになってしまうし、言い仰せたところで、その、想像の余地、内容整理の余地から立ちのぼる詩情はどうなる?消えてしまうだろう。だから、この作品にはある程度の距離、それは「感覚」だけれども、その感覚でふれて、あとは言わぬが花、とした方が私にとってはいいことのように思われてならない。【田中教平】

 

やぶれかぶれ
昼行灯
https://www.breview.org/keijiban/?id=11515

「海を見に行くことができる」が良い。酒を飲む場面の描き方も良い。野良猫も男も俺も、何かはできるし、生きている、という一つの情景として、価値のある詩。【黒髪】

狙いすぎないように描かれている、まっすぐに生きる人間の滑稽さが「そうでもしなきゃ、/生きていけない。/そうまでしてでも/生きてゆくのさ。」という素朴なフレーズに痛切さを与えています。「 ふざけるな! お前にしかできない事を聞いているんじゃない! お前ができる事を聞いてるんだ! 」というセリフが印象的、なにか新しい知識や技術を得ることが、その先にあるかもしれない自由への扉だとして、「男」はその扉を渇望しているのではないか、と思いました。その答えとして「俺」は「夜の海へ行く」といった、非日常を提示するのですが、そのささやかだけれど、思いもよらなかった答えが、「男」には福音のように響いたのではないか、と私は思ったのです。【あやめ】

 

喰らう
鯖詰缶太郎
https://www.breview.org/keijiban/?id=11552

多くの冒険譚が、そこにある問題を解決しようとすることで展開され、主人公の成長や、ハッピーエンドに繋がっていきますが、鯖詰缶太郎さんの「喰らう」では「俺」の友人と思しき「高橋」という人物が恐竜になろうとも、その高橋に喰われそうになろうとも、それらを問題として認識するようすも、解決するようすもなく「今日のところはこれで勘弁してくれないか?」と譲歩することで現状の維持を図り、小説や漫画や映画だったら冒険の始まりを予感させる状況を静かに飲み込んでしまいます。

わたしは、子供のころ、福永令三のクレヨン王国の十二か月がだいすきで、ファンタジーの世界を完全に信じ込んでいたわけではないのですが、主人公の少女とシルバー王妃のように、かろやかに国から国へ旅をしていくこと、見たことのない風景や言葉に触れることを夢見ていたように思います。当然、大人になってしまえばそんなことは難しく、夢を見るよりも暮らしていくことに重心は傾いて、少しバランスを崩すと何かを壊さないように、失わないように、割ってしまわないように暮らしてしまうのですが。

暮らしていくということは、譲歩することの連続だと思うのです。譲歩し、冒険を手放す。それは決して悪いことではないのですが、諦めや、逃げ場のなさ、閉塞感のようなものを伴います。「喰らう」からはそういった苦みと同時に、自分の物語のために冷蔵庫(女性)を犠牲にしない、周囲を大切にすることでの冒険の破壊というやさしさを感じたのですが、この作品は何かを感じさせる、思わせるだけではなく、乾いた語り口と、自由にひろがるような言葉のセンスで、読ませる、惹きつけるところにまで持ち上げ、書かれている意味を飲み込もうとしなくても、気に入ったフレーズを引き出してポケットにしまっておくことができるような、詩を読み込むことが苦手な人でも楽しめるような、そんな親切な設計になっている点も大変素晴らしいです。【あやめ】

 

天国の子どもたちは、腕を大きく伸ばして、泣き叫び、喜んで求めてゆく
勉強します。ありがとうございました。いろいろと迷惑をかけました。
https://www.breview.org/keijiban/?id=11497

ネット詩にはネット詩に於ける、ある種の軽さのようなものがあると思っており、三十分くらいかけて、書かれ、そうして昔私の知りうる限り、ネット詩に於ける即時性アップということを主張されていた方がいらっしゃったので、ネット詩が非常に「インスタントなもの」であるとして、この作品は浮いてしまっている。その言葉が否定的であるとすればそうではない。超・ネット詩だと思う。愛、という抽象概念、これも非常に真摯に使用されており、又、冒頭の自らの恥ずかしさを省みるという態度、それが記述されているということも、前述した「インスタントなもの」からこれは非常に重たく、だから、ネット詩というものから頭が一つ抜けている作品、と言えるのではないだろうか。その天国の子供たち、という語をタイトルから拾ったときに、これは子供が夭折したことを指しているのではないかと考えた。ともかく、人が、それは子供か、とおくにいってしまう感覚を指しているのは間違いないであろう。傷ではないのだけれども、抽象的な語の多用によって成立しているとして、そのセンテンスの一行に、人によっては深い思索を促される。そうして、映画を観て思ったこと、の挿入があるのだけれど、抽象的な語の多用が連続する詩文に於いて、一つの引き締め、が行われている。ソフトにいえばスパイスだろうか。しかし、その映画を視聴していない者、に対してはそもそも訴えることはできないし、しかし、詩が、他のカルチャーの感化の内にあるという点でも、それはビーレビューの志向する実験的手法に適っている。大仰だが、私はこの作品をARTとして読み扱いたい【田中教平】

 

なまこ
15歳
https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=11414

他の評者からだが、この作品の作為性のようなものについて、言及されたけれども、それは作者の言でいうと、読者にある感情を起因させるように記述した、とあるから、その評者の言はきっともっともなのだろうとして、私はこの作品にショート動画や、或いはクラシカルな音楽、うん、音楽性が顕著だと思ったのだけれども、それは言葉の響き、頭韻や押韻ではなくて、ストーリー全体を通しての和音進行を聞き取った。その和音進行は、カノン進行のような王道な和音進行でありつつ、どこかういういしい子音、を添えられたものとして、記述された海の景色やなまこの生なましさを、色鮮やかに映し出すことに、成功している。そうして、先の作為性のことであるけれどこれは何度読んでも、わりと<書くことができる書き手>が、ぶち当たる問題のように思えて、その問題は、私にとって高次であって、作者がその問題を寧ろ、意図して、開き直る形でこの素直な作品を書き上げたことは、私にとって幸福であり、眼福であった。【田中教平】

 

親戚のひと
yamabito
https://www.breview.org/keijiban/?id=11422

人間は、基本的にネガティブな事の方がよく覚えている。そういう風にできているからこそ、基本的に教条的なものは、ポジティブな事を訴えているのではないのかと思うが、この作品はまるで黙示の世界の様な、独特の暗さを醸して提出されている。個人的にもこの歳になって覚えていることは、過去の暗さだと思う。この作品はしかし、過去を整理、清算する為には記述されていないように思える。ここで過去を分断して、さあ明日から健やかに生きていこうというよりは過去を、それは暗い過去としてそのままに、脳の、記憶のどこかに押しこみなおす。ここにアルバムがあるとして、パッとその印象を認めつつ、その埃を雑巾で拭い、また仕舞いなおすように。ここにポエムを読んだあとのようなある種温かい余韻は少ししかなく、あるとして滋味深いものだ。事件が挿入されているけれども、再読してその事件に対しての話者の態度も、ドライであるように思われる。乾いていることと、山中に差し込む光が、互い違い、ついに試練の冬、雪の描写となって、追想は終わる。【田中教平】

 

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佳作

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宛先のない記録係
ほば
https://www.breview.org/keijiban/?id=11533

作り物めいた感があるのは、狙ったものか。情景と問題が、良く補い合って、良作。問題というのは、僕と他の人々との違いがあり、そのさみしさが何らかのよいことを作り上げている、ということ。【黒髪】

第一連目、射し込む光、・冬の虹・虹の変調・水の波紋といった言葉を率いて抒情をつみあげてからの「買い物袋のなかの野菜たち/その切断面を想像する」というような日常と危うさで刺すようなフレーズの差し込みはすごい!です。ハッとさせられます。

他者と自身との間にある、どうしても埋めることのできない溝、その溝に直面することで生じる痛みやさみしさや違和感、それだけではなく、他者に接触することで浮かび上がる自身の姿への驚きや拒絶など、だれもが通過する、生きる上で逃れることができない事に名前を与えようとすると、このように美しい作品になるのだなと感じました。【あやめ】

 

あいかわらず
カオティクルConverge!!貴音さん
https://www.breview.org/keijiban/?id=11528

優しさや愛を巡るような想念が、適切で効果的な語句とともに描かれており、素晴らしい。愛についての内的な思索が、普遍的な日常の中で詠まれている。どことなく現実にプラスした善の意識が感じられる。【黒髪】

 時々、誰かに優しくしてしまったとき、あるいは優しさを分け与えてもらったとき、それが高所から流れる水のようだったような、後から後から、本当に優しさだったのかどうか考え込んでしまうことがあります。この作品では「光みたいに眩しく掴めない日常」の対岸に自分を置きながらも、どこかで死のうとしている誰かを想ったり、「思っているほど弱く出来ている」のが「私」ではなく「私達」だったり、話者は常に傷ついた他者を自身の中に存在させています。愛を与える対象と話者が同じラインに存在していて、愛とかやさしさが高い所から垂れ流される水としてではなく、同じところに一緒に湛えられている水としてそこにあるのです。けれどそれは何か強い志や意思でもって、そう在ろうとしているのではなく、性に近いようなものに感じました。そのどうしようもなさ、逃れられなさが、美しさやかっこよさを装おうとしない、生のままの文体からあふれています。【あやめ】

 

虫送り(チグリス チグリス ユーフラテス)
AB
https://www.breview.org/keijiban/?id=11416

文章が面白い。真面目でいい作品。人物に託して、理想の実現と怒りや願いの意味を表現していると思われる。【黒髪】

あかるさを求めているのだけれど、そのあかるさが一体何なのか、なぜそれが必要なのかもわからないまま、しつけられたまま勤勉に進んでいる大人を描いたものとして読みました。そういった大人を描く作品には、皮肉や憐みのようなものが込められているか、そうでなければ応援歌になっている場合が多いのですが、この作品はそのどちらでもなく、ちょっと異質だなと感じました。それは作者であるABさんの、あかるさを求める者へもひかりを与えようとする視点がそうさせているように思います。【あやめ】

 

友だち
中田満帆
https://www.breview.org/keijiban/?id=11471

作者は自己の文体を確立する為に苦心してきたようであるけれども、その、文体が、個人の発声を、つまり話すこと、語ることを基本とするのであれば、周囲にその話すこと、語ることを聞いてくれる存在が必要になる。そうして「友だち」というシンプルで、しかし孤独な者の胸を打つタイトル、特殊な引力を持って投稿されたことは、意味深い。さて、内容はというと、文体はこれは確立されたものとして、安定感があるのだけれど、そこで語られている小物のハイセンスさに尽きると思われる。<洗いざらしのウェスタン・シャツを着て、リーバイ・パタの詩画集をひらく かれの語る声が聞えるよ。〉寧ろ、文体は、このハイセンスを前面に押し出す為に必要最低限の文「体」──体に過ぎなくて、そこに何を着るか、という点で、クールだ。その、青年期というものは、そういったことに苦心するもので、よく分かる。そうして何を着るか、を排したところでもってしても、作者のピュアネス一点でもって、だってタイトルが「友だち」なのだから、信頼に足るのではないだろうか。そうして、現代のネットワーク環境、繋がりというものは、その、相互入れ替えというものを、非常に簡単に許す側面がある。昨日の友だちが今日そうでないことは哀しい。ここで詠まれていることは今後も、非常に現代人の胸を打つという点、息の長い作品であると読んだ。【田中教平】

 

こういうことがありました
鳴海幸子
https://www.breview.org/keijiban/?id=11460

ともかく作者は翻訳作業に苦心している、そうしてその描写があるとして、その専門の用語であるのか、これは私の知識の外だとして、瑞々しい文体で読ませてゆくのであるが、ホメロス、テニスン、そうしてサンスクリット語といった辺りでやっと「分かり得る」ことが挿入されたので、ほっとした所だ。その、ネット詩とはアカデミズムであるのかという議論があるが、それはそのまま保留しておく形で、知識分野、知識層から、やはり一般人、一般ユーザーにアプローチするとして、その手を緩めない。そういう気概のようなものが感じられて好印象だった。コメント欄に於いては、この先行する作品に対する評価のある種、アングリーからこの作品は書かれたようなのですけれど、結果、その先行する作品「こういうことがあります」と、止揚して、怪物作になっているとして、その端から端まで、憎いくらいに心配りができているというか、流石、翻訳作業をされる方だけあって手抜かりなく行われてることが素晴らしい。加えて後半、これは「こういうことがあります」でもっても展開された、謂わば「呪術」であり「魔法陣」という風に捉えたのですが、再読してその力は尚発揮されていた。中毒性が高い。【田中教平】

 

チョコレート
1.5A
https://www.breview.org/keijiban/?id=11551

体中を廻るような文体がしゃべるような速さでずっと流れていくのを目で追っている間にジャックはガムを噛むように溶けてしまっていたのだからこの涎は誰に垂らせばいいかとチョコレートを食べて歯を磨かない誰かに聴いている間にまた嘔吐する音が聞こえて扉が開かれて閉じられていくのだから歯をきちんと磨きなさいと教わらなかったいいえ私は教わったはずなのに身体を透明にする事ばかりに気が行って何を吐いているかもわからないくらいに吐瀉物だけが透明じゃなくて体が透明ならタバコの煙は透けて見えるの?と私の目が追いながら言うのでどうなんだって溶ける前のジャックにガムを見ながら聴いたら涎は作者の文体のようにだらだらと流れ流れていく様を見ているきっと作者はたくさんしゃべりたいことがあるのだろうけどその中に埋もれてしまうことよりもしゃべりつづけることを選んだ文体が良い表現を埋めてしまう事への恐怖よりもたくさんたくさん走り続ける快感に酔っている姿がまだ初々しくてはにかむように私もそんな文体いくらでもできるよと私の中のジャックが水のような匂いを垂らしながら吐き戻されてまた嚙み始めるガムのように

ところどころ光るようなフレーズがあるけれども、作者が使用している改行や句読点の無い文体によって生かされているか、埋もれさせてしまっているか、のどちらととるかで大きく評価が分かれると思う。私自身は、私がまだ書き手の意識が強いのでその立場で他者の作品を読むが、この改行や句読点のない文体は一度は誰もがやろうと思ってやってみて、案外、簡単にできてしまうものだとおもうので、埋もれさせてしまっている、という理解だ。チョコレートや噛むやなどから文体自体が意味を持って選択された、という読解でいるがそれよりも、この文体に耐えられるような埋もれないような強いフレーズの連続が必要なのではないか、または、もっと洗練された文体が必要なのではないかと思う。参考に、少し違うが谷崎潤一郎の春琴抄を手に取って読んでみても良いかもしれないと思った。ただ、間違いなくこの作者はまだまだ発展途上にあるように思われるし、センスがあると思うので、これからもどんどん書いてってほしいと思う。【Ceremony01】

 

ドブとパイン
よんじゅう
https://www.breview.org/keijiban/?id=11529

いたるところに不安をおもわせる描写が潜んでいますが、全体をつつみこんでいるのは軽さで、その軽さは重さへの拒絶から来ているように感じました。深みにはまることを回避するように、形容しきれないものをパインやおじさんという言葉に変換して、流れる思考を流れるままにしている様子は、冒頭の「酒を垂らせば夏なら午後糸をひいた衣類とともに自分自身もほぐしていく」という気だるい雰囲気をしっかりと作品全体で形にしています。

読点を排除することで流れを作り、作品をひとつの空間にしているため、踏み込んだ読み方をしなくても、感覚で心地よさとか、楽しさとかを掴めるようになっている点もとてもいいです。

それと、よんじゅうさんは、単語が持つ棘や毒のようなものを抜き取り、その単語への発見を読者に与える力がありますね、その力をどんどん発揮してほしいなと、私は思っています。【あやめ】