作者様の作品のコメント欄を汚して迷惑をかけるようなことはしたくないので、この場で抗議します。mooo氏の「日常」という作品におけるコメントのやりとりに関してです。

この作品について渡辺八畳氏は「くどいまでのリフレインが意味をなしているかどうかは一度冷静に考えてほしい」とコメントしています。

そもそもこのサイトのガイドラインでは、「一言コメントでの酷評はしないこと。批判的な評を書かざるを得ない場合、作者や場に資するように配慮して書くこと。」とありますが、このコメントはそれに準じているのですか?酷評OKのタグが付いるから、「くどい」みたいな、それこそ「一言」じゃないからOKなのですか? そういう問題なのですか?

あの、だったら一体なんのために「一言はやめましょう」というガイドラインを設けているのでしょうか?

さらに、そのコメントに対してmooo氏がその指摘を認めた上で、こうコメントしています。

「くどいですね。でもそれが自分のスタイルなので。
むしろ繰り返す事によって意味を持たせたいとか、文字だけじゃなく音で感じたいとか思ってます。」

それに対する渡辺八畳氏のコメントは

「酷評OKつけているのだし、さして目新しくもないしレベルが高いわけでもない「自分のスタイル」に固執、否その言葉に逃げていることや、リフレインという技術がその巧拙を関係なしにすぐさま効果を成すと思っている誤解を叩いてもいいわけだけど、まあそんなのに時間取られてもね。

とりあえず、ムーンライダーズの「僕は走って灰になる」(https://www.youtube.com/watch?v=sQ_Zqf_Wgkg)を聞いてほしね。リフレインによって重厚さが増していくってのはこういうことであってさ。」

これがこのサイトで言う「批評」ですか? 作者に対して「酷評OKつけているのだし(それは、なのに文句言うなってことですよね)」「さして真新しいわけでもないし」「レベルが高いわけでもない」「自分のスタイルに固執している」「リフレインが効果をなすと誤解している」と、ここまで内容的にはすべて「一言」にすぎない(なぜなら渡辺氏がそう感じた理由をひとつも述べていないから)作者への「酷評」を書き連ねる意味はあるのでしょうか。

このコメントはただの一例に過ぎません。僕はこのサイトにきて、渡辺氏を始め他にも何人かが同じようなコメントや(本人曰く)酷評(のつもり)をしているのを何度も目撃しています。正直なところ、このサイトは一度「他人の作品にコメントすること」について全員でしっかり話し合った方がいいんじゃないかとすら思います。批評がとうとか、酷評がどうとか言うレベルの話じゃない。

とりあえず、渡辺八畳氏が「人の作品にコメントする」ということを一体どう考えているのか、見解を知りたいです。「何を言おうが俺の勝手だろ」というなら、このビーレビューという場はただ口が達者な人たちによる殴り合いの場でしかなくなってしまうでしょう。そんなのをこのサイトは目指してるのでしょうか。

「渡辺八畳氏のmooo氏に対するコメントに抗議します」に56件のコメントがあります
  1. こんにちわ。横レスします。

    最近、ビーレビューにあんまし投稿等していなかったので、誰、お前?って感じで見る方もいらっしゃると思うので、簡単に自己紹介しておくと、このサイトが出来てからその後1年半くらいの間、当サイトの運営をやっていたものです。その後、運営を譲ってから、現在、運営チャットも覗けないし、システムの中も入れないので、完全に一投稿者とおなじステーテスです。何が言いたいかというと、投稿者目線も運営者目線も両方それなりに理解できる位置にいるかも、橋渡しをしゃしゃり出たいかも!ということを申し上げたいのです。

    で、当サイトですが、マナーを重視する!まともな常識が通じる場を作る!と標榜して始まったのですね。設立当初は、ネット詩=荒らし上等!みたいなカルチャーが当然のこととされていましたから、マナー重視って雰囲気を作るのは結構大変だったんです。今のビーレビューとはちょっと違う状況だったのですよ。で、色々、マナー違反への取り締まりを厳しくして、とてもマナーが良くなった結果、その反面、ビーレビは馴れ合いだとか言われるようになりました。確かにマナーは良くなったけど、取り締まりの副作用か、掲示板で少しでも、逸脱するようなことをしたり、作品に対してネガティブなことを書いたりしてはいけない、という雰囲気が強く出過ぎてしまうようになったのですね。コメ欄が盛り上がらない、という悩みに運営者は晒されることになったわけです。

    そうした状況下、確かにマナーは良くなったけど、コメ欄がもう少し自由闊達に盛り上がるようになるためにはどうすればいいか、という観点から、例えば、私はライトレスと言われる軽めのレスを沢山つけるようにして、もっと、軽いノリでコメントを入れられるようにしていこうとしたりしていました。その流れで、ちょっと、作品を批判するようなニュアンスのコメントを入れたりだとか、要するに、酷評的ニュアンスのものを入れるようになったりだとか、そういうことを良かれと思ってやっていたのです。でも、私のライトレスがすごく良かった!とか、花緒の酷評が良かった!とかいう評はついぞ聞いたことがないですね。ここでの批評をどう考えてるのか?という疑問に晒されてもおかしくないものでもあったと告白します。今回のように直接、疑問を呈してもらえる機会に私は恵まれなかったので、弁明する機会もなかったのですけどね。
    要するに、私のライトレスでコメ欄が盛り上がることはなく、あんまし、私のやったことは、功を奏しませんでした。どうやって、レス欄を盛り上げるか、という課題を抱えたまま、ビーレビューは現運営である渡辺氏らに引き継がれていきます。

    で、運営を引き継いでからの話ですけど、渡辺氏と前代表の三浦氏の会話をなんとなく覚えているのだけれど、酷評オッケーかどうかを予め聞いておいて、オッケーな人には、多少、自由な感じのコメントを入れるシステムを導入してはどうか、みたいな会話があったような気がするんです。完全にうる覚えだから、あんまし自信ないけれど。で、これに沿って、多分、渡辺氏は良かれと思って、実験的に、ちょっとラフなレスを入れてみたんだと推測されます。

    が、が、が、まあちょっと渡辺氏のレスは行き過ぎた感じがありますよね。私もちょっとそう思っています。そもそもマナーガイドラインに書いてあることと違うことを、運営者張本人がやってるやん!という風に見えかねないと思います。特に、作者が不快感を示したあと、追い打ちをかけちゃっている点なんかがそうですよね。そもそも、酷評オッケータグってどういう意味なのか。マナーガイドラインの枠外になることを、了承したという意味なのか、なんなのか、ちょっとよく分からないですね。渡辺氏みたいなラフなレッサーが大量発生したらどうすんねん、とも思いますし、何も知らない人から見たら、運営者が私物化するようにして、偉そうにしてるだけじゃないかとも見えるでしょうし。正直、私は、哀愁亭氏の「抗議」はもっともとしか思えません。

    私は、この抗議はとても有意義だし、運営諸氏としてはすごくセンスが問われる難しい抗議だと思います。抗議はもっともだけど、抗議に対して、すいませんでした反省します、で済ませてはいけない気がするんです。まず、渡辺氏のレスがこれで良かったのかダメなのか、っていう問題だけじゃなくて、酷評タグの使い方ですね、これが含意するものがなんなのか、とか、あるいはこの場における言論で何が許されて、何が許されないのか、とか、運営目線でいうと、結構大きな問題に開かれる話だと思ってます。運営者のスタンスがすごく現れる問題だと思いますしね。

    まあ、本来、酷評オッケータグを導入したり、ラフなレスを連打する前にやっとかなきゃいけなかった議論なのかもしれませんが、色々試行錯誤しつつ、問題が起こってから考える!が、ビーレビューの伝統芸能だったかと思うので、そこは容赦してあげてほしい、と伝統芸能の定着に一役買ったものとして書いておきます。

    有意義で楽しい議論に開かれていくと良いですね。ツイッターで、センスが問われるぜ〜とちょっと煽った手前、誤解がないように、私の見解を書いておきます。ツイッターで私が言いたかったのは、これを端緒に、単に彼がただしいor間違っているという話に終始するのではなく、足りないところは私がサポート(擁護)するから、持論をちゃんと述べたりして、いい議論になればいいね!ということでした。花緒からは以上です。

  2. 哀愁亭さま

    運営の渡辺八畳です。まずは平素よりB-REVIEWを利用していただき、さらにビーレビについて深く考えてくださっているがために問題提起をいとわず行ってくださったことに感謝いたします。

    フォーラムに寄せられた文面を読み、哀愁亭さまの提起はつまりコメントの内容よりも「一言コメント」への是非についてのものだと判断いたしました。
    「一言コメント」かどうかの判断基準を厳格に定めることは難しいだけでなく、それを行うことは本質的なことではないでしょう。仮に「500字未満は一言コメント」と決めたところで、500字ちょうどのコメントと499字のコメントに1字の差以上の違いがあるとは思えません。また、長文ではあるが意図せんとすることが不明瞭なコメントもあれば少ない言葉で本質を突くコメントがあることは事実です。
    思うに、「一言コメント」の定義はその字面に惑わされてはならず、文字数よりもその書き方に基準があるのではないでしょうか。極端に少ない文字数のコメントに「一言コメント」となるものが多かったことから、ある種比喩的にそういったコメントは「一言コメント」と呼ぶようになった、のではと。

    では、「一言コメント」とただ字数が少ないコメントとの違いとは何なのであろうか。私は「コメント内で主語と述語の関係が取れている」ことがそれとして挙げられるのではと考えています。
    「一言コメント」の場合述語となる語だけが書かれていて、それが差し占める対象である主語が無い。そうなると何に対しその述語の内容を思ったのかが不明瞭になるため、コメントを受けた側は困惑をしてしまう。これが「一言コメント」を推奨しない理由でしょう。

    私のコメント「くどいまでのリフレインが意味をなしているかどうかは一度冷静に考えてほしい」は整理すれば

    【〈「リフレイン」が「くどい」〉から意味をなしていない】ことは一度冷静に考えてほしい

    といった構造で示せるでしょう。このコメントにて伝えたい内容は〈〉内です。このなかでは「リフレイン」が主語、「くどい」が述語となります。
    これがただ一言「くどい」だけでしたら批判の対象となるでしょうが、構造を紐解けば「一言コメント」とはならないのではないかと思います。

    明文化していない以上その定義は最終的にはユーザー各々に託されるわけですが、少なくとも私は「一言コメント」の定義を上記のように定めていて、自身のコメントではそれに接触しないように心掛けてきました。

    ~~~~

    もちろん、「一言コメント」でなかったからといってそのコメントがただちに質が高いものとなるわけではないでしょう。件のコメントに関しては私自身も決してクオリティーが高いものだとは思っておりません。実情を申せば、ビーレビの運営やプライベートの忙しさでコメントを手短に済ませてしまいました。「まあそんなのに時間取られてもね。」と書いたのもそれの表れです。実際、この返信は深夜バスで帰った実家にノートパソコンを持ち込んで書いています。
    コメントのクオリティを左右する要素は「論拠」だと考えております。つまり主語―述語の関係がなぜ成り立つかの理由。2回目のコメントではその論拠として「僕は走って灰になる」を挙げましたが、ただurlを貼りつけただけでは論拠としては不親切であり、またそれ以外の部分に関しても言葉が荒く(※1)、哀愁亭さまが問題視するきっかけとしてそれが働いてしまったのであろうと今では認識しております。忙殺のなかでのコメントであったとはいえ誤解を招く表現を行ってしまったことは偏に私のミスです。

    ~~~~

    「一言コメント」に限らず、コメントにまつわる課題はビーレビ当初からあるものです。現在でもコメントを全く書かなかったり、ほんのわずかしか書かない、またはごく特定のユーザーへしか書かない所謂「フリーライダー」の方が一定数見られます。

    「現代詩投稿―”批評”サイト」であるビーレビにおいては、コメント活動が活性化することはつまりビーレビ自体の活性化に繋がるでしょう。しかしそれを成すために、ルールを厳密化し「フリーライダー」の行ってしまうと、今度はコメントをすることに重大さを感じさせコメント活動自体を忌避させてしまうのではないかという恐れがあります。
    およそ人は、「○○しなくてはいけない/してはいけない」という負の感情で行動した時より、「●●したい/してもよい」という正の感情で行動したほうが結果に繋がります。ビーレビに関しても「フリーライダーをしてはいけない」と厳格に定めるのではなく、ユーザーが自然と「ビーレビへ積極的に参加したい」と思えるようにすれば発展へ繋がるでしょう。しかし正の感情への誘導こそ難しいものはありません。それこそ広義の意味での「デザイン」です。そこを意識してB-REVIEW3.0への改修を行いましたが、しかし素人仕事ですので完全にはいっていないのが現状です。

    哀愁亭さまはビーレビへの参加も積極的で場の活性化に繋がっているとスタッフ一同思っておりました。氏のようにビーレビのことを真摯に考えてくださり、そして健全にコメント活動を行ってくれるユーザーを増やすにはどうすればいいか、そのアイデアをぜひ頂きたいと思っております。

    ※1
    2ちゃんねるや各種SNS、そして文学極道に影響を受けてきた者の悪い癖です。余計なこと言えば、文極という面では花緒氏も同じ穴の狢でしょう。そこの御自覚はあるかと。
    だからこその、度々そして時には執拗に行われる私への言及なのでしょう。ご自身ではライトレスについてのみ書いていますが同時にけっこう辛辣なことを書かれていて、それによるトラブルも発生していたように記憶しています。自分と私が被って見えるからこそ行われる言及だ、と、そう考えてはいます。

  3. まず最初に、この抗議は僕個人が渡辺さんに謝罪を求めているわけでもなければ、勝手にmoooさんの代理人を気取って渡辺さんに謝罪を求めているわけでもありません。

    ただ僕は、渡辺さんのコメントにマナーガイドラインとの矛盾を感じたので、そこを指摘したまでです。

    そのことについて、渡辺さんから今回のコメントは主語と述語があるから一言コメントではないと判断している、という説明を頂きました。

    渡辺さんの一言コメントに対する解釈の是非について語り合う気はありません。問題はそういうことではないからです。

    また、僕はマナーガイドラインのルールを厳密化しろと言いたいわけでもなければ、実は、ちゃんとルールを守れ、と言いたいわけでもありません。

    なぜルールがあるのかといえば、それはトラブルを避けるためでしょう。それが一番重要なことです。だからルールを破ったコメント往復であっても、それがユーザー間のトラブルに発展しなければなんの問題もないし、逆にしっかりルールを守っていても、それでユーザー間のトラブルが発生すれば、そこにはなにかの問題があるわけです。

    今回の件に関しても、恐らく僕が横からしゃしゃり出て騒ぎ立てなければ、きっと大した問題ではなかったのだろうと思います。moooさんは渡辺さんのコメントを軽く受け流すことができる器量のある人でしょうから。

    でも、すべての人がそうであるわけでもない。そして、花緒さんも述べておられるように、ある新参ユーザーがいきなり運営者からラフなライトレスを受けるのと、そうでない一般ユーザーから受けるのとでは意味が異なります。

    このサイトでは運営者ができるだけ権威的にならぬよう配慮されているし、実際運営者はなんのメリットもないことを引き受けてくださっている方々だということは理解しているつもりですが、それでもやはり一般的に見ると運営者は一般ユーザーより上の存在と見えてしまいます。そういう存在であることもまたある一面では大切なことです。ただ、だからこそ、運営者の言葉に萎縮したりあらぬ誤解を抱いたりすることもあるでしょう。

    僕は渡辺さんに運営者として「理屈」ではなく「感情」を求めます。理屈としては問題なくても「あ、これはヤバイな」と感じて下さることを、ついてこれる奴だけついてこいよ!と先頭を走るよりも、一番後ろで走っている人と一緒に走ることを求めたいのです。

    さて、せっかくの機会ですので、この場で僕は自らの「酷評」に感する考えについて述べさせて頂きたいです。そして運営の方々のほか、いろんな方の意見を伺いたいです。

    僕は、酷評という行為はフェアじゃないと思っています。昔からこのサイトにいる人は「酷評し合おうぜ。新人でも遠慮せず言えばいいじゃないか」と思うかもしれませんが、普通はなかなかそうできるものではありません。また、古参ユーザーから新参ユーザーが酷評された場合、必ずしもそれに対して新参ユーザーが反論したり自分の意見が言えるとは限りません。「そんな奴は覚悟が足りない」って言いたい人もいるかもしれませんし、僕自身はそんな場合でも反論できる方の人間ですが、世の中にはそれができない人もいます。そして耳を傾けるべきは、それができないという人の声でしょう。

    なんにせよ、誰かが誰かを酷評した場合、そこには実質的な上下関係が生まれます。この見えなくても存在する上下関係が時にどんな事態を招くかは、たった一回の投稿でここに来なくなった多くの新規ユーザーがいることや、今回の抗議の元となったコメントの往復が表していると思います。

    特に今回の抗議の元になった件については、もし渡辺さんが新参者であるmoooさんに酷評を反論されたことを不快に感じて追い込みをかけたというのなら、そんな上から目線の酷評は最初からしない方がよいだろうと僕は思います。

    僕個人の意見としては、このサイトはキャッチコピーにもあるような「マナー重視」のサイトであってほしいです。コメント欄が盛り上がらなかった、という時代がどんなものだったかは分かりませんが、その頃が酷評に対して今よりもっと厳しかったのであれば、僕はその頃に戻ってほしいとさえ願います。

    コメント欄の盛り上がりがほしいのはPVが多い方が良いからでしょう。でも必ずしもコメント欄の盛り上がりだけがサイト全体のPV増加につながるとは限らないと思います。

    また、ここで敢えて酷評する自由を守り続けることは、このサイトの外部へのアピールポイントを一つ失うことになるかもしれない、ということを忘れてはなりません。

    僕はこのサイトに来る前に、「文学極道」とこのサイトと、どちらに来ようか迷ってこのサイトにしました。理由は、こっちの方が怖くなさそうだったからです。「文学極道」トップページの文言を見て、うわ、やだなと思ったからです。そういう人は意外に多いのではないでしょうか。

    このサイトは新運営陣になってからTwitterでの広報にも力を入れていると聞いています。マナーを重視した怖くないサイトだと外に向かってアピールすることで、僕のようないわゆるTwitterなどからのポエマーの参入を促すことになるでしょう。

    僕が酷評に目くじら立ててるのは、そうして流れてきたポエマーが「思ってたのと違う!」と逃げ出すのを見たくないからです。そして、運営の方々にはそのようなポエマー志向の人々も、ネット詩や硬派な現代詩志向の人々も、どちらも共存できるような場所作りを期待したいです。

    そのためには「価値観はひとつじゃない」という空気の醸成が大切だと思います。その空気の醸成のために、酷評OKの雰囲気は邪魔だと僕は思っています。それは争いの元になるでしょうから。

    このサイトがキャッチコピーにもあるように「現代詩からライトポエムまでなんでも歓迎」で、しかも「マナー重視」というのが事実なら、それが本当に事実であるとネット上で拡散されれば、このサイトに自分の詩を投稿したいという人は今よりもっと増えるでしょう。投稿者が増えれば、PV数も増えるのではないでしょうか。そうやってPV数を増やした方が、言いたい放題言い合って作品が炎上し、限られた人数が何度も見ることで増えるPVよりも、ずっとメリットが多いのではないでしょうか。

    酷評しないなんてそんなの馴れ合いだ、と言う人がいるなら、僕はこう反論します。じゃあ、あんたがしたいのは殴り合いじゃないか、と。馴れ合いと殴り合い、どっちがいいかと言われたら、僕は馴れ合いの方がいいです。

    僕は酷評OKタグなんてなくていいと思います。そんなのがあろうがなかろうが基本的に酷評なんて避けた方がいいし、どうしてもしなければならない場合は表現等によく気をつける、というのでいいと思うのです。やっちゃいけないことをやってると思った方が、厳密なルールを決めるよりずっと効果的です。

    それに花緒さんも指摘しているように、酷評OKタグがついていたら何を言われても仕方ないのか、などの問題が不明瞭なままです。マナーガイドラインとの折り合いをどう付けるのか、一言じゃなかったらいいのか、一言って何なのか等に関する共通の理解が必要だと思います。でも、撤廃しちゃえばその問題は解決です。(なんて、もちろんそんな簡単にはいかないでしょうけれど)

    もちろん、これはあくまでも僕個人の理想を語ってるだけなので「そんなの嫌だ!」とか「こっちの方がいいぞ!」って方がおられたらその意見を僕はこの場で聞きたいです。

    なお、このスレッドは僕が立てましたが、運営の方々は僕よりもむしろ僕以外の多くの方々の意見をこそ聞きたいだろうと思います。なので、宜しければどなたでもこの場でご自分の意見を表明してください。

    多分ここまで読んで「お前は何様のつもりだ」って思っている方も多いと思うので、どうかそのような方こそコメントしてください。僕の考えてることなんて全部頭から否定してくれて構わないので。

    そもそもこの抗議文がマナーを重視したものなのかよ、って自分でも思います。お前はどのツラ下げて渡辺さんを批判してんだ、って思います。ほんとそうです。ごめんなさい。

    最後に、このような挑発的な抗議文であったにもかかわらず真摯にご対応いただいた渡辺八畳様並びに運営の皆様、最初にコメントくださった花緒様、ありがとうございます。いつも感謝しています。

  4. 議論を興味深く拝読しています。

    開設当初から、新しいネット投稿掲示板への大きな期待をもって見守ってきました。一時はコメンテーターとして、かなり積極的に参加してきました。

    現在は、多忙という個人的事情もありますが、期待していた方向に向かっているのか(裾野を広く、奥行きを深く、高度な批評から初心者が安心して楽しめる感想コメントまで、幅広く読める、意見交換を出来るサイトになればいいな、という期待)推移を見守っているという状況です。

    明確に発言はしていませんが、酷評、という表現に違和感と疑問があるので(ツイッターで、その件については過去に発言したことがあります)しばらく参加を控えている、ということもあります。

    作品を親身に読んで、自分だったらどのように改稿するか?改稿の仕方がわからなくとも、もっとこうすればよくなるのにな、という漠然とした思いを、相手に、先方が理不尽な(やっかみやめんどくさい、というような個人的な理由や、日頃の鬱憤晴らしといった)一方的な押し付け的、攻撃的な「批判」であると誤解しないように伝えるためには、かなりの繊細さとエネルギーを要します。

    それでもなお、より良い作品とは何か、真摯に、あるいは楽しく、話し合える、語り合える人と出会いたい(それは数が多ければ良いというの手はなく、少数の、特定の人と人との交流になっていくことが多いのですが)という人達が、じわじわと集まり、自然にコミュニティーを作り、オフ会やポエケットや文学フリマでの直接的な出会いや、時には詩誌の交換といった交流へと発展していくことを、今もなお期待しています。

    そのためには、作品の質を向上させるための具体的な提示を含む「批判」コメントは可だが、「酷評」という単語の、特に「酷」という感情的ニュアンスや抵抗感を含むコメントと一般的に類推されるコメントは不可、というような、何らかの指標が必要でしょう。

    作品それ自体が多様に解釈され、作者も予想しなかったような、しかし、なるほど、そうも読めるなと新たな次元を開かれるような、新しい見地を得られる「批判」や「批評」は大賛成ですが、酷評という単語がはらむ、各人各様の解釈の幅は、出来るだけ制限して、誤解を生まないように特定していく必要があります。

    そのためにも、既に別サイトで別の意味に多用されている「酷評」は使うべきではない。
    これが、かつてのユーザーとしての意見です。

    ※私の考える、作者に寄り添った批評や批判については、「まりも」名の過去ログをご参照ください。

  5. 途中割り込み失礼します。といっても正義感からではなく、コメントについての議論が発展したら面白そうだな、、という単純な好奇心からですが。

    さて、私見を述べれば「酷評OK」タグをつけている以上、結構ひどいこといわれるのは仕方がなくない?いやなら、タグをはずせばよくない?「酷評OK」にするとどんな酷評がくるのかは最近のコメントを辿れば、渡辺氏の一言酷評を簡単に発見できるから、それがいやなら「酷評OK」にすべきでなくない?
    とまあ、このあたりが現実的なところかなあ、というところです。

    ただ、ミスリードが大好きな私がこれを突っ込むのは大変心苦しい限りなのですが、渡辺氏の議論は巧妙に論点がずらされています(あるいは自然にずれてしまったか)

    『では、「一言コメント」とただ字数が少ないコメントとの違いとは何なのであろうか。私は「コメント内で主語と述語の関係が取れている」ことがそれとして挙げられるのではと考えています。』

    というのが渡辺氏の弁であるが、渡辺氏はこの問題を論じるにあたり「一言コメント」を定義する必要は実はないはずなのである。というのはガイドラインに

    「一言コメントでの酷評はしないこと。批判的な評を書かざるを得ない場合、作者や場に資するように配慮して書くこと。」

    とあるとおり、主語、述語といった「一言酷評」の文章の構造が問題に焦点なのではなく、そのコメントが「作者や場に資する」ものかどうか、が酷評にあたっての問題の焦点であることが最初から明確であるからだ。法律文を解釈するかのように「一言コメント」とは何か?を定義しだすと、渡辺氏のような議論の迷路に入り込んでしまう。批判的とはいえ正鵠を射た短いコメントが、短いという理由だけで否定されるべきとは私は考えない(渡辺氏のコメントがが正鵠を射ているかどうかはまた別問題。そう感じる場合もあるし、そうでない場合もある)。あくまで、そのコメントが「作者や場に資する」ものかどうかを議論の軸にすべきだろう。

    となれば議論の焦点は、取りざたされている渡辺氏の一連の酷評ライトレスが「作者や場に資する」ものかどうか、という1点になるかと思います。
    例えば「黒い鎧」という作品によせられた

    「主張が青臭くて今更読みたいとは思えない」

    という渡辺氏の酷評ライトレスがどのように「作者や場に資する」ものであるのか、その点渡辺氏の意見を直接お聞きしたい。

    あえて場に資するというのであれば、このコメントは「青臭い文章はこの場において歓迎されていない」ということを伝えるという意味で「作者と場に資する」ということになってしまわないでしょうか?

    ところで、「くどいまでのリフレインが意味をなしているかどうかは一度冷静に考えてほしい」というコメントに関しては、私は哀愁亭さんとは半分別意見です。このコメントはある程度、「作者と場に資する」ものであると言えると思います。それは「リフレイン」という表現技法に注目したという1点においてのみで、そのコメント内容に特に特筆すべきものがあるわけではないですが、「注目させた」こと自体はある程度「作者と場に資する」と言えるのではないでしょうか?

    その後のやりとりを含めるとコメントの表現にはちょっと意地の悪さが感じられないではないですが、作者はもちろん、他の読者もリフレインという技法について考えたい、と思えるからです。少なくとも私はリフレインについて考えさせられましたし、そしてそれをキーワードにして該当作品を新たな視点で読むことはできました。もちろん書き方はちょっと感じ悪いな、とは思います。ただ「ひとこと」であるというのはこの際あまり問題にならないように思います。

    どちらかというと、気になるのは作者の反応のほうです。渡辺氏のコメントのあと作者は一種の不快感を示し、一連のアドバイスに感謝しながらも「自分は生徒ではない」といっています。では作者は「酷評OK」のタグをあえてつけることによりどういった「酷評」を期待していたのでしょうか?哀愁亭さんもこの点、言及しておられますが、問題はコメントする側だけにあらずです。

    これ以上書き続けると私の場合、論点がどんどんスライドしていきますので、一旦ここで筆をおきます。

  6. まりも様 survof様

    コメントありがとうございます。

    まりもさんの仰る「酷評」と「批判」は別に考えるべきだという意見に僕も同意します。「作者に寄り添った批評や批判」と、そう思えない「感情的ニュアンスや抵抗感を含むコメントと一般的に類推されるコメント」を一緒に考えてはいけない、ということですよね。

    じゃあ誰がそれを分けるのかといったらその基準を定めることは難しいので、多分言われた人になるのでしょう。その意味で、ハラスメントと似ているのかなあと思いました。それは言い過ぎなのかもしれないけれど。

    また、survofさんが指摘された「作者と場に資する」という点に関しても、場に資しているかどうかは回りから客観的に判定できても、作者に資しているかどうかは誰も判定できない。

    そこで、「酷評ではないまっとうな批判」で「場に資する」コメントであったとしても、作者が「自分に資していない意見」だと思った場合はどうなるのか。

    というのは、僕自身、すでに自分の作品のコメント欄https://www.breview.org/keijiban/?id=3506でも述べているのですが、基本的に自分の作品は誰かから見て稚拙なように見えても、自分にとっては完全なものだ、と考えているからです。不遜ですが。

    moooさんが渡辺さんに述べた「これが自分のスタイルですから」「あなたの生徒じゃありません」というのも、そういう意味のような気がします。

    そうすると判定権が作者側にあるのだから、あるコメントがOKかNGかは言ってみないとわからない、ということになる。あと、この人だったらいいけど、この人に言われるのは嫌だ、ということもあるでしょう、ひどい話ですけど。

    ふと、そんなことを思いました。(なんか、そう言ったことでますます僕の作品には誰もコメントしてくれなくなる、というただの墓穴を掘っただけのような気もしますけど)

  7. あ、ちなみに上記はあくまでも僕の考えであり、僕はそういうつもりでmoooさんに「酷評タグなんてつけない方がいいですよ」と言った、という話です。moooさんがどういうつもりかは分かりません。多分、別の考えがあると思います。だから、上記コメントで反感持つなら僕だけにしてください。(結局迷惑かけちゃったかも。ごめんなさい)

  8. ごめんなさい、さらに追記です。「この人だったらいいけど、この人に言われるのは嫌だ、ということもあるでしょう、ひどい話ですけど。」というのは、論理的、あるいは感情的にこの理屈だとそういうこともあるよね、という下手なブラックジョークです。実際にそう思っている人がこのサイトにいる、というわけではないです。

  9. >『survofさんが指摘された「作者と場に資する」という点に関しても、場に資しているかどうかは回りから客観的に判定できても、作者に資しているかどうかは誰も判定できない。』

    これは確かに。ただ、このガイドラインの文言は「酷評」に限定されるものではなく、作品に対しての「批判的な」コメント全般に対して適用されるものです。一度「酷評」は議論からはずして「批判的コメント」「否定的コメント」に議論を絞ります。

    「作者がどう思うか」は作者でないと判定できないのでそれを判定できるまでは否定的なコメントはするべきではない、ということになってしまえば、ビーレビにおいて「批判的なコメント」「否定的なコメント」は書いてはいけないことになる。それがビーレビの発展に寄与するのかどうかは深く考えるべきかと思います。

    まりもさんが

    『作品を親身に読んで、自分だったらどのように改稿するか?改稿の仕方がわからなくとも、もっとこうすればよくなるのにな、という漠然とした思いを、相手に、先方が理不尽な(やっかみやめんどくさい、というような個人的な理由や、日頃の鬱憤晴らしといった)一方的な押し付け的、攻撃的な「批判」であると誤解しないように伝えるためには、かなりの繊細さとエネルギーを要します。』

    と指摘されているように、相手の心情は十分に考慮すべきですしそうするのはとても骨の折れることです。でもそのことは作者にとって不愉快なコメントにならないことを保証するものではない。それは、まりもさんのように本当にこの点、十分に細心の注意を払われたケースでも例外ではないかと思います。実際、合評形式で優良作品を決めていた時期には、まりもさんの悪意のないむしろ誠実な言動が発端となって炎上したことがあるのです。

    つまり批判的コメントがゆるさている限り、どんなに誠実さやマナーを尽くしたところで、作者が傷ついたり、何かしらのトラブルが発生するリスクは必ずあるわけです。ではそうしたリスクのために否定的、批判的なコメントは排除されるべきなのでしょうか?

    私はそうしたリスクがあっても批判的コメント、批判的コメントには建設的役割があると感じます。もちろん批判的コメントが真に建設的になるためには、コメントする側は特に作者の感情に注意を払い、同時に作者もそうした批判的なコメントに対して、反論するのか受け入れるのか、そうした態度が必ず必要になってくるでしょう。ただ、それは簡単なことではありません。それぞれが至らないながらも努力している点ではないでしょうか?

    さて、この先議論を進めるにあたって、何のために投稿しているのか?に関する共通した土台がなければなりません。はたしてそのように土台を共有することは可能なのでしょうか?もちろん参加者全員において、その目的の一致を実現することは不可能でしょう。なので、参加者の意識の最大公約数を取ってきて、それをビーレビのポリシーとして反映していくしかないのではないでしょうか?

    今回の哀愁亭さんのご提言が最大公約数の近似値であれば、哀愁亭のご提言に近い方向へ議論は流れていくでしょうし、もしそうでないならば、議論は、そしてビーレビは哀愁亭さんの希望とは違う方向へ進むでしょう。

    少なくとも私は、哀愁亭さんの

    『基本的に自分の作品は誰かから見て稚拙なように見えても、自分にとっては完全なものだ、と考えているからです。不遜ですが。』

    という作品論をどうしても共有できません。私は常に自分の至らなさを感じますし、さらなる技術の向上を望みます。それは何も詩を書くことだけに止まりません。仕事にしても「自分の仕事は上司から見れば稚拙なように見えても、自分にとっては完全なのものだ」などとは決して考えません。かといって上司の仕事が完璧であるとも考えません。誰もがその成長段階において未熟なのではないでしょうか?常に課題があるからこそ、取り組み甲斐があるのではないでしょうか?

    そんなに簡単に自分を満足させられたなら、私にとってあらゆる創作活動は、そして、あらゆる人間のなしうるあらゆる仕事は魅力のないただの機械運動ということになります。

    そして、向上のためには必ず第三者の助言が必要であると私は考えます。

    ここで果たして議論を発展させるための相互に共有しうる何かしらの前提を仮定できるでしょうか?意見は人それぞれです。ただ、これだけ意見に隔たりがあるなかで、この先、議論は果たして意味をもつでしょうか?

    >『そこで、「酷評ではないまっとうな批判」で「場に資する」コメントであったとしても、作者が「自分に資していない意見」だと思った場合はどうなるのか。』

    この疑問に対する私なりの答えはこうです。つまり、なぜ作者がその意見が「自分に資していない意見」なのかを説明すればよい。例えば、作品の意図を読み違えているならその点を指摘すればよい。ただそれだけの話ではないでしょうか?

    渡辺氏の酷評コメントや「酷評OK」タグについてさらに議論したいことはまだまだあります。ただし、哀愁亭さんの問題提起は「酷評」に対するものではなく「批判的なコメント」そのものにあるような気がしてきました。

    私は別に哀愁亭さんに反感を持っているわけではありません。ただ、できれば私は「批判的コメント」を「あり」としたうえで、酷評コメントや「酷評OK」タグについてさらに議論したかったのです。

    誤解があるかもしれません。一旦ここで区切ります。

  10. survof様

    ごめんなさい、ちょっと今時間がないのと、ゆっくり考えたいので一点だけ

    哀愁亭さんの問題提起は「酷評」に対するものではなく「批判的なコメント」そのものにある

    これはNOです。僕としてもsurvofさんと同じく「「批判的コメント」を「あり」としたうえで、酷評コメントや「酷評OK」タグについてさらに議論した」いです。

    ただ、「酷評」と「批判的なコメント」を分けた際、「あり」だとしたい「批判的なコメント」について語り合うため、僕はおそらくすべての人から共感されるとは思っていない自分の考えを提示しました。どう言えばいいのか分からないのですが、批判的なコメントそのものに批判的であるにもかかわらず、僕自身は批判的なコメントが「あり」なのです。だからここに来ている。人に見せなきゃいいのに、見せている。

    ごめんなさい、どう説明したらいいか分からないです。なのでとりあえず僕自身の価値観云々は抜きにして、まあそういう訳分からん奴もいるってことにして、議論を続けてくださればと思うのです。なんて、無理なお願いかもしれませんが。

    また、もう少し頭が整理できたら改めて何かコメントするかもしれません。

    取り急ぎ、失礼します。

  11. 哀愁亭さん
    了解しました。お忙しい中、ありがとうございます。

    運営の皆さま
    途中で議論を乗っ取るようで恐縮ですが、論点を整理するため、まずは以下の点、明確にしていただけますか?
    ・「酷評OK」の「酷評」って何?
    ・「酷評OK」が導入される前から普通になされていた「批判的コメント」と「酷評OK」の「酷評」との違いは何?

    ガイドラインに含まれておらず、運用ポリシーの不備だと感じておりますので、この際、明確にしていただけないでしょうか。
    もしかしたらTwitter上なので、すでに議論されているのかもしれません。ただ、当方だいぶ前からTwitterはやっておりませんので、このサイトのガイドラインが文字通りガイドラインです。

    もし、まだポリシーとして十分確立されていないというのであれば、この場で議論を続けるなり、新たにフォーラムを作るなりして、このサイト内で議論をしていただけないでしょうか?少なくともすでに搭載されている機能であり、かつかなりセンシティブな機能ではないかと思います。

    よろしくお願いします。

  12. こんにちは。
    「酷評」及び「酷評OK」タグについて、以前から疑問を感じていたので、この機会に私見を述べさせていただきます。

    いわゆる辛口な評であっても、文面に礼節や相手への思いやりが備わっていれば、それは酷評というより、真っ当な意見ではないでしょうか。
    反対に、どんなに正鵠を射た発言であっても、礼節や相手への思いやりが欠けていれば、酷評以前にマナーガイドラインに触れているのではないかと思います。
    故に、「酷評OK」タグについては、実装される前から疑問に思っていました。
    (ただ、新しいことへの挑戦や変化は、ビーレビの特色の一つだと思っているので、そうした取り組みを尊重したいと考えています)

    現代社会人なら誰にもあてはまるであろうことですが、時間がなく、忙しいからこそ、気持ちに余裕をもつように心がけたいものです。
    たとえば交通マナーもそうではないでしょうか。すこしの気持ちの余裕、すこしの思いやりをもつことで、未然に防げるトラブルもあるはずです。

    以上です。あたかも諭すような私の発言を、不遜に思われた方がいましたら申し訳ありません。

  13. かるべです。
    流れから発言をします。運営の意見ではないです。かるべの意見です。

    ——
    「酷評」の定義や意味を、運営が「明確に」できるとは思いません。

    survofさんの説明に、とてもかるべは同意しています。
    だからこそ運営が示せるとも示すべきとも思いません。運営もまた人間であるからです。

    ただガイドラインの不備という点は同意しています。
    (根本的には、ガイドラインやマナーの規定など不可能です。哲学的過ぎることです。だからこそ)サービス提供の観点で僕は考えています。

    survofさんのおっしゃるとおり、最大公約数で進んでいく、ことは論理的理想ですが、それも根本的には無理です。これも運営が人間だからです。

    全部とりあえずやってみたことですし、結局、規定もその時々で変化させていくことです。ただそのスピーディな仕組みはありません。良くも悪くもカリスマ的な運営者がいない、サイトを公共化する上で、袋小路に詰まっている、と感じます。

    ——

    酷評、に関して、
    かるべは当時から、反対でした。そもそも酷評タグもポイント制もアイディア自体は……。

    先日も、自作のコメント欄でなぜ今ここに投稿するのか、という話題に触れました。
    しかし、これも根本的には、なぜそのように生きるのか、という話にも通じていて、一部の人にはこの態度や事実の突きつけは重すぎると感じます。

    答えを誰も提起できない中、サービス・学術研究としての「批判」を深められたら、それが一番、楽しいもの、とかるべは感じています。

    かるべは真実を追究する気も、線の焦点をハッキリさせる気も、かと言って「嫌な思い」をおざなりにする気もありません。しょうがないもの、と割り切ったり割り切れなかったり、中途半端に悩みます。それを続ける以外に人間っぽくある方法もわかりません。

    頼れる政治家、を信用する敬虔さもないので、僕は曖昧で一緒に模索しましょうよ、というビーレビの態度が好きで投稿を始めました。根本的に人間っぽい。それは詩って何か、という話と重なります。
    基本的に答えを持っている人は、去っています。
    でも答えを持っていない人だって単純に同じようにいるよね、じゃあ考えるし、否定的感情コメントはどうなんって思ったりもするし、しかしまぁ作者に資するかどうかは言わないとわからないし、でも言ってみたらそんなことは問題じゃないとか作者に言われたこともあるし、でも面白くないって意見は聞きたいし、でもこっちの意図も伝われと感じるし、傷付くとそのユーザーさんにはコメントしないでおこうとか思うし、でもこうして勇気を出すこともあるし、社会活動である以上、福祉的配慮に満ちあふれている世界ではないし、でもポリティカルコレクトネスもいつも板挟みだし、

    それでも、B-REVIEWで詩のこと・書くことを考えたい人や、初めて感想をもらうという人や、色んな人が来てくれて、法治が現在以上に必要なのかは慎重派です。コンクリートポエムが何かを、酷評タグが何かを、考えてタグをチェックするように、考えて投稿されている方がほとんどだと感じています。

  14. かるべまさひろさん

    ご返信ありがとうございます。こうしてありのままを正直に曝け出されてしまうと(それはかるべさんの対話の最大の長所の一つであると私は考えているわけですが)正直何も反論などできるはずはありません。運営の難しさをこのように提示されては、「あなたにそれを担えるか?」と問われているのとほぼ同義であると私は感じるからであり、かるべさんが提起された問いはどれも、運営ではない一参加者の私であっても感じるどうしようもない現実であるからです。私の側に運営に参加する意思がまったくない以上、筋道だって私がいえることはもうないのです。

    実際のところ、今回の件に関しても他の何かしらの問題に関してもつまるところ、運営で一番発言力と決定権を持った人間がビーレビをどうしたいか?自分はそれに同意できるか?ただそれだけの問題として、私のなかではある程度解決しつつあります(運営各自が互いにリスペクトしあって何か明確なビジョンを共有しているなら主語は「運営」ということになりますが、おそらく現状そうではないと推測します)

    そして一連の渡辺氏の投稿作へのコメントやこうしたフォーラムにおける渡辺氏の言動はその方向性をかなり明確に指し示しているように思えます。私はしばらくビーレビを離れていたせいで文脈を見失っていて、何が起こっているのか把握するのに時間がかかりましたが、今回のこのフォーラムのやりとりでそれは私のなかでだいたいはっきりしました。

    かるべさんの取り繕わない本音を聞けたのが一番嬉しかったです。私としてはこれで十分です。ありがとうございました。

  15. それなりに収束しつつあるようにも思える中、とはいえ、運営にかかる論議として見れば、何一つとして、明確な結論が出ていないようにも思うので、
    空気を読まず、一石投じてみます。

    まず議論の前提として、しょうもない話からすると、一言コメントでの酷評って、死ね!アホ!つまらん!みたいな「一言」だけを指すのでは無く、あまりにもぶっきらぼうだったり、論拠が書かれてなかったりする、酷評を総称しているように思うんですよ。
    「例えば、読んだけど、つまらなかったです」は一文になってるけど、一言コメントでの酷評に該当しますよね。「くどいまでのリフレインが意味をなしているかどうかは一度冷静に考えてほしい」も、さして変わらない気もするし、そもそも論点に上がったのは、この一つだけじゃ無くて、そのあと、追いかけて罵倒しているところも含めてでしょう?

    なんにせよ、主語と述語があり、一行コメントなので、一言コメントではないのです、という論旨は、本質的な回答になっているのだろうか。
    というかね、誰がどう見ても、今回問題に挙げられている渡辺氏の一連のレスは、マナーガイドラインの精神にもとると思うんすよ。
    Survof氏が指摘した黒い鎧での酷評レスについては、そもそも、酷評OKタグさえついてない作品に対するものですし。

    せっかく交通整理してあげたのだから、いやガイドラインに抵触してないわけじゃないっす!という論旨でクネクネ主語だの述語だの言うのは、ちょっと違う気がするんです。
    この場の一番の権力者が決めることが、この場のルールや!というなら、現在、それは渡辺だと思うので、それならクネクネするなと。
    クネクネされちゃうと、粘着的に追いかけたり、辛辣に批判したりしない限り、議論は成立しなくなってしまったりするから、クネクネしないで欲しい。

    でね、渡辺氏のレスを逐次取り上げて、ガイドラインに抵触しているor抵触してない、を云々したいわけじゃ、この場の全員ないのは明白ですよね。
    今のところ、登場人物の民度は相当高い気がするし、最初に交通整理した通り、彼なりに場の盛り上げに資そうと思って、良かれと思ってやったことだろうし、渡辺指摘の通り、私も抵触してんじゃね?というのを全くやったことがないというと完全なる嘘になる。

    そんなことより、みんなが聞きたいのは、要するに、酷評オーケータグでなにがしたいの?ってことだろうし、
    それから、運営者自ら、ガイドラインに抵触するようなことを確信犯的に連打して、ガイドラインをなし崩し的にうやむやにしようとしてない?ってことだろうし、
    場を盛り上げるために必要なことってラフな酷評なんすか、違うやろう?てことでしょう?

    掲示板でのマナーを重視しましょう!はこのサイトの根幹となるサイトコンセプトだったはずなので、絶対変えちゃいけないとは思わないけど、なんのステートメントもなしに、有耶無耶にしていくのは違うんじゃない?って皆さん思っている気がするし、私もそう思ってるよ。

    渡辺でもいいし、違う方でもいいけど、主語だの述語だのそういうのじゃ無くてさ、
    変えようとしている側の人間が、なにをどう変えたいのか説明して、議論に対して開かれた姿勢を見せたほうがいいんじゃないですかい?

    無論、その前提として、酷評とは何か、みたいな論議もありうるとは思うんですけど、その種の高尚な議論とは別に、現在は、明らかに、酷評アリな領域を増やしたり、酷評オーケーな雰囲気に場を変えていこうと自覚的に、確信犯的に運営者というか渡辺はやってるわけでしょう?

    意図してやっているラフな酷評オーケー化の動きに対するステートメントを出せ、
    出せないようなら元に戻せ、

    と私は思います。

    ループ詩人として、連呼しますが、私の論旨は、

    意図してやっているラフな酷評オーケー化の動きに対するステートメントを出せ、
    出せないような元に戻せ、

    です。特に渡辺氏が中心の動きだと思うので、渡辺氏は回答されたい。

  16. 帆場です。

    皆さまのコメントを読み、ぼくなどが話しに加わる意味があるのかを考えていましたが、Bレビューという場所でいくらかでも投稿してコメントする一ユーザーとして、考えたことを少し述べようと思います。

    まずぼくは酷評タグが提案された際に深い思慮もなく、自作に酷評をどうぞ、と手を挙げました。これは恥ずかしい話し作品の質向上のために、技術的なアドバイスや発奮材料として書き手として至らない点を指摘してもらおうと思ったからです。しかし、考えてみればそれは何も酷評などというどこか感情的なタグをつけなくても、自身の言葉に責任と覚悟がある方であれば、相手に礼節を示した上より作品が良くなるのではないか、を伝えられると考え直しました。それは酷評タグが始まって一月も経過していなかった時期であり、本来なら哀愁亭さんが声をあげられる前に、ユーザーとして一言でも言うべきだったと思っています。また、

    『先方が理不尽な(やっかみやめんどくさい、というような個人的な理由や、日頃の鬱憤晴らしといった)一方的な押し付け的、攻撃的な「批判」であると誤解しないように伝えるためには、かなりの繊細さとエネルギーを要します』

    批評や助言をすることはまりもさんが言われるように、時間も精神的にも書いてくださる方に負担をしいる一面もあります。そんなことを酷評などという言葉で求めてしまったことを恥ずかしく思います。では、ひとまずこれにて失礼します。

    哀愁亭様、意義のある提言をしていただきありがとうございます。

  17. 取り急ぎ。花緖さんのその「言論」か、渡辺さんの文章作成に必要な時間を過分に増やしています。静観する、と宣言したら静観を、辛辣にするならもっと論理的に追い詰めてください。感情を表す言葉が多過ぎです。回り回ってかるべのキャパにも及んでいるので、どちらの態度かハッキリ宣言してください。

  18. 取り急ぎ過ぎましたが、渡辺さんを擁護しているわけではないです。そして、渡辺さんに関してはあまり炎上するような言い回しをしないで欲しいです。

  19. かるべさん
    失礼しました。以降、静観させて頂きます。

  20. かるべさんの負担になりたくないので付言すると、かるべさんは酷評化にどちらかといえば反対というお立場だと表明されているので、私は貴殿に聞きたいことはないです。
    私は、ラフな酷評オーケー化の動きを推進している人たちの意見表明がちゃんとあってもいいのでは、ということが言いたいのです。

    感情を表す言葉が多すぎです、は私のことを指してらっしゃるのですよね。申し訳御座いません。謝ります。

  21. 後、上記のことを言っておいてなんですが、ステートメントがなかったり、遅れたりしても、私個人は別に暴れませんので、悪しからず。その意味では、静観、です。はい。

  22. 横から失礼します。運営のステレオです。かるべさんのレスポンスは、文脈上花緒さんに向けられている可能性が高く、帆場さんに向けて「静観」か「辛辣にするならぱ論理的に」と言及しているわけではないようです。よって帆場さんが謝罪する必要は全くないと存じます。さて酷評タグの扱い方ですが、私は当初から反対でした。従って自作品に酷評OKのタグをつけたことは一度もありません。ビーレビューが極端に辛辣な批評や、俗にいう斬り捨て型の酷評からユーザーを守るために立ち上げられたのは明らかで、私個人もそのようなビーレビューのスタンスに魅了された人物の一人です。私の記憶によれば、コメント欄が褒め合いに終始し、慣れ合いと化すのを回避するために、またサイトの活性化を図るために実験的に、酷評OKタグを導入しましょう、というやや見切り発車な形で酷評タグが導入されたはずです。この点運営において議論が熟していなかったのは、ミステイクとして認めるところです。今後酷評タグの取り扱いについては一層の話し合いを重ね、批判的なコメントと酷評の違いについての考察も含めて、善し悪しの結論を出すことでしょう。これは運営の見解ではなく、私個人の見解ですが、批判的コメントは、酷評タグをつけようがつけまいが、建設的な合評を目指して自然発生的に起こるだろうことは、容易に想像出来、呼び水としての酷評タグは闇雲に刺激的なやり取りを喚起させるものとして特段必要ではないと考えています。私からは以上です。

  23. 失礼。「辛辣にするならぱ」×「辛辣にするならば」〇

  24. かるべさんが何が言いたいか速やかに理解できなかったんだけれど、要するに、運営に負担がかかっているから、花緒は黙れって言っているのだよね。
    了解です。黙りましょう。

  25. 論理的に追い詰めようとすれば、それは論理的に答えのでない問題であるといわれる。そして論理で対抗できないならば、と花緒さんがあえて感情的な言葉をつくして真意を訴えれば、感情的な言葉が多すぎると言われる。ようするに負担が大きくて諸々支障がでるから、、、ってことなんでしょうけど、そうならそういってくれればそれでいい話ではないでしょうか?これではまるで議論にならない。ステレオさんの発言だってまるで政治家の「善処しますのでよろしく(それ以上は発言しないでね)」と同じレベルです。渡辺氏に至っては文章の作成に時間がかかるのかなんなのか、一切返信がない。いま文章作成中です、っていう一文もない。
    つまり運営は議論を放棄しているのと同じです。つまり黙れってことを私はかるべさんから昨日いわれたわけですけど、ここまで全員黙れといわれている図ってのはいい目覚め薬になりました。はい、すみません、黙ります。

  26. 修正:
    × 論理で対抗できない —> 〇 論理が通じない

    失礼いたしました

  27. じゃ、僕はもうすでに空気なんか読まない偉そうな新参者だということはみなさんに知られていると思うので、それでも喋らせていただきますよ。

    そもそも僕が理解できないのは、なぜ運営者さんたちがリーダーシップを発揮しなければならないのか、ということです。ここは非営利のサイトでしょう?だったら、コメント欄が盛り上がってなくたって別にいいじゃないですか。だって俺たちそういうのが好きなんだもん、で終わりでしょう。そういうのが好きな人が集まってるのがこの場でしょう。

    ビジネスでやってるわけじゃないんだから、目標なんていらないじゃないですか?目標は明日も来月も、来年も再来年も平穏無事にこのサイトがあること、それだけでしょう。そしたら運営者さんたちの負担はぐっと減るんじゃないですか?基本的には、運営が主導して新しいこと始める必要なんてないでしょう。むしろ運営さんたちがやることは、誰かが何かやりたいとかやってほしいとか言った時に「面倒くさいからやだ」「そんなのできない」「無理です」「じゃああなたが別の場所でやってください」って言うことでしょう。だから、かるべさんはすごく正しい。これは皮肉じゃなくて、本当にそう思ってるから言ってます。

    このままじゃこのサイト、新しい機能をどんどん追加して売れなくなった日本製品みたいになってしまいますよ。このサイトが進化し続けるサイトだとしても、ユーザーを置いてきぼりにしてサイトだけ変化し続けたって意味がない。

    そうは思いながら、でも、何か変えていこうぜ!っていうのが好きなんだよ、そういうのもこのサイトなんだよ!という気持ちも分かります。

    でもまあ、何かやるならそれについてちゃんと検証することが大切でしょうよ。やりたいからやりました!結果どうなったかは知りません!ってのは、いくらここが遊びの場だとしても無責任でしょう。大人がやる知的な遊びとは思えない。

    なので、とりあえず、僕ちょっと調べてみました。ここ90日間の作品について

    コメント総数が多いランキングトップ30(最後の欄は酷評タグをつけているかどうかです)

    1.訳詩:Diving into the Wreck PV741.9 コメ数 30 人数 6 批判 0 数/批判 0% 酷評〇 
    2.「文学」って何?(第3回) PV1556.5 コメ数 27 人数 5 批判 12 数/批判 44% 酷評〇 
    3.神の庭           PV1559  コメ数 25 人数 11 批判 12 数/批判 48% 酷評〇 
    4.ノーカントリー       PV1609.6 コメ数 22 人数 11 批判 4 数/批判 18% 酷評〇 
    5.わたしがミイラ男だったころ PV1677  コメ数 22 人数 12 批判 2 数/批判 9% 酷評〇 
    6.そらおそろしい       PV1983  コメ数 21 人数 14 批判 6 数/批判 29% 酷評〇 
    7.花             PV1115.3 コメ数 18 人数 9 批判 0 数/批判 0% 酷評〇 
    8.わたしの龍         PV2012.7 コメ数 17 人数 9 批判 2 数/批判 12% 酷評 
    9.Anemone coronaria      PV1662.8 コメ数 17 人数 7 批判 0 数/批判 0% 酷評 
    10.真実            PV1732.9 コメ数 17 人数 6 批判 2 数/批判 12% 酷評〇 
    11.陽・いずる         PV1524.3 コメ数 16 人数 9 批判 0 数/批判 0% 酷評 
    12.永遠            PV1103.8 コメ数 16 人数 9 批判 2 数/批判 13% 酷評 
    13.批評:そもそもBE-REVIEWは始PV1078.3 コメ数 14 人数 4 批判 4 数/批判 29% 酷評 
    14.書物            PV963.9 コメ数 13 人数 5 批判 0 数/批判 0% 酷評 
    15.魚屋でギター売っちゃ悪いの PV918.4 コメ数 13 人数 6 批判 0 数/批判 0% 酷評 
    16.トビウオ          PV1187.4 コメ数 13 人数 8 批判 6 数/批判 46% 酷評〇 
    17.黄昏の告別         PV1731.7 コメ数 13 人数 4 批判 0 数/批判 0% 酷評〇 
    18.日常            PV1028.7 コメ数 12 人数 6 批判 3 数/批判 25% 酷評〇 
    19.庭園にて          PV1363.4 コメ数 12 人数 7 批判 6 数/批判 50% 酷評 
    20.初化粧           PV1495.8 コメ数 12 人数 7 批判 0 数/批判 0% 酷評〇 
    21.僧             PV1161.8 コメ数 12 人数 6 批判 2 数/批判 17% 酷評 
    22.産声            PV932.6 コメ数 12 人数 6 批判 0 数/批判 0% 酷評〇 
    23.空想と星空         PV1201.1 コメ数 12 人数 7 批判 0 数/批判 0% 酷評 
    24.揉む            PV1495.1 コメ数 12 人数 7 批判 2 数/批判 17% 酷評 
    25.14の空           PV866  コメ数 12 人数 6 批判 2 数/批判 17% 酷評〇 
    26.赤道直下で朝昼 女郎蜘蛛の PV1194.6 コメ数 12 人数 6 批判 2 数/批判 17% 酷評
    27.進学や就職        PV1683.2 コメ数 12 人数 6 批判 2 数/批判 17% 酷評〇
    28.湖歩行           PV1182.7 コメ数 11 人数 7 批判 0 数/批判 0% 酷評〇 
    29.B-REViEWは終わった    PV1522.1 コメ数 11 人数 8 批判 2 数/批判 18% 酷評 
    30.うつせみ          PV1105.4 コメ数 11 人数 6 批判 2 数/批判 18% 酷評〇 

    ちなみに、批判コメントの数には作者がそれに返答したものも含まれています。また、批判コメントの中には「それって別にいいんじゃないの?」というものも含まれています。たとえば、「ノーカントリー」における花緒さんと柴田蛇行さんの会話とか。要するに、批判コメントの方に下駄を履かせて普通より多く見えるようにしています。

    で、それでもこうやって見た場合、ほかのサイトがどうであれ、このサイトがある種の批判をきっかけにしてコメントが盛り上がるといった現象が起きているとは思えない。明確にそうだ、と言えるのは南雲さんの「「文学」って何?(第3回)…」と、moooさんの「日常」だけでした。「神の庭」も数字だけ見るとあれですけど、ちょっとよく分からないです。あの作品に寄せられたコメントが「批判」や「酷評」なのか。で、「日常」は僕がここで大騒ぎしたせいでしょう。ということは、ここ90日間で批判的コメントがコメント欄の盛り上がりに貢献した、と言える事例は1件です。そして、こんな盛り上がり方はもう嫌だ、と思っている人がほとんどなのではないでしょうか。

    それどころか、ここ90日間のコメント数トップ30を見る限りにおいては、そもそもこのサイトの人たちは酷評タグが付いていようといまいと、ほとんどの人が誰かの作品にあまり批判的なコメントをしていない。さらに、コメント数の多い作品トップ30のうち、およそ50%がそもそも酷評タグをつけていない。

    コメントの盛り上がりがどれだけPV数に影響するのかも少し疑問です。というのは、PV数のトップ30を調べると、半分くらいの作品が入れ替わります。僕の投稿した作品はコメント数トップ30には二つ入っていますが、PV数ランキングではどちらも入っていません。つまり、コメントの数ほど見られていない、ということです。

    要するに、酷評タグは期待した効果を発揮していない、きついことを言えば、失敗していると言い切ってよいと僕は思います。ただ失敗しているだけでなく、この件のように運営者さんやあるいはユーザーに無駄な負担をかけている。(もちろん、その原因の大半は僕のようなめんどくさい奴だとしても)

    といって、酷評タグが失敗だとしても、そもそもそれを取り入れようぜ、となった原因が解決されるわけではないですよね。

    コメント数やPV数を増やしてサイトを盛り上げるためには、なにをしたらいいんだろう。

    運営さんにとってのその問題が消えたわけじゃないです。

    それについて、今回僕が自分なりに調査して出した答えは、こうです。

    「みんながいい作品を書くしかない」

    それだけです。誰かが思わずコメントしたくなるようなものを多くの人が書くしかない。アホみたいな結論ですけど。で、運営さんがするべき新しいことって、動画投稿できるようになった、みたいな、「みんながより良い作品を投稿しやすくすること」でしょう?結局はそういう作品が、みんなが「いいね!」「ここがすごいね!」って思わずコメントしたくなるような作品が、このサイトでは実際にPV数やコメント数といった結果を残しているんですから。

    ここの人の多くは、どちらかといえば誰かを褒めたがっている。この作品すげえよ!って言いたい。酷評や批判がしたいわけじゃない。そういう権利は決して手放さないとしても。

    でも、それってすごくいいことなんじゃないですかね。そんな当たり前の結論にちゃんとたどり着いているのは、素晴らしいんじゃないかなと思うのですが。むしろ酷評タグやラフなライトレスが何らかの効果を発揮したら、この当たり前の結論にたどり着けなくなるかもしれない。僕はそれはまずいんじゃないかな、と思います。

    以上、空気を読まない新参者の愚見でした。

    *)
    なお、このデータは当然のことながら僕が恣意的に出したものです。なので信憑性等に疑いを持つ人は、ご自分で調査されるとよいと思います。

  28. あ、そうだ。もしここをみている僕と同じような新参の方がいたら、こう言っておきたい。このサイトは、酷評タグをつけなきゃ見てもらえないわけでもないし、コメントをもらえないわけでもない。だから、付けたくなきゃ付けなくてもいい。いいものを書いたらコメントがきます。僕も新参者ですが、これは今回調べた上でのデータ上の事実なので僕が言い切ってもいいと思います。

  29. survof様へ。私のコメントが政治家の「善処しますので黙ってね」と同じレベルであるというのは、言葉を扱う人間としてこれ以上ない罵倒のように感じます。ですが私は憤ったりはしていません。私のコメが議論を一時的に中断、鎮静化させるかのような印象を抱かれたとしたら、それは私に幾分かの非があったのでしょうから。私がこのスレッドにコメントを寄せた理由は、帆場氏がかるべさんのコメントが自分に向けられたと解釈しているようだから、ケアをお願いしますと運営内で依頼を受けたからであります。またそのコメント内で私は酷評タグについて、理想的な合評サイトの在り方について、多少の自身の見解を述べましたが、それは「善処しているので黙ってね」という意味合いではないのはご理解いただきたいし、当然survof様の理解の範疇内でしょう。私のあのコメントにおける役割は帆場氏のケア以上でも以下でもなかったのです。それがかような批判を浴びるとは若干心外な気もします。私は議論が沸騰し、活性化するのは大歓迎ですし、有意義であることには間違いないと思っています。それを留める権利も、つもりもありません。
    さてsurvof様が提示なされている議題、もしくは運営に望んでいる回答。酷評OKの酷評って何? その酷評と以前から行われていた批判的コメントの違いは何? についてですが酷評OKの酷評とは「あえて厳しい意見に自らを晒すことで更なる向上を果たしたい作者がむしろ歓迎している否定的コメント」だと私は解釈しています。しかしこの意味合いは定着もしておらず、周知徹底もされておらず、また運営内においてでさえ共有されている価値観ではありません。ですから多くの誤解や失態を生む原因になっているのは明らかです。ゆえに私は議論を重ねると述べたのです。そして以前から行われていた批判的コメントとは「該当作品が大きな伸びしろを持っている、あるいは議論をするに値する問題点を抱えている際に、作者が望むと望まざるとに関わらずレッサーが寄せる厳しいコメント」だと私は解釈しています。つまり酷評と批評的コメントの差異とは、酷評=作者が望んでいるが有意義な議論に発展するかは未知数。批判的コメント=作者は望んでいないが有意義な議論を生む可能性を持っている。だと私は思っています。随分長々とした文章で読みづらかったかもしれませんが、これが私の回答です。加えて繰り返しますが、私は酷評なるものに好印象を持っていません。タグの存在そのものも、私の定義が合っているのなら不毛な言い合いになる可能性があるので否定的です。そう改めて言明させていただきます。以上で僅かながらでもsurvof様への返信に値する文章が書けたと思って筆を中断しますが、最後に私が言いたいのは、このコメントにおける解釈、回答は運営の総意ではなく、あくまで私個人の解釈、考えだということです。その点は留意し、また鷹揚にも見ていただきたいと存じます。

  30. stereotype2085様
    今朝の私の発言に関しましては、ほとんど私の苛立った感情ぶつけるためだけのものであり、運営の皆様それぞれに対して攻撃的な発言をいたしました。この点に関しては一切言い逃れできません。反省しています。大変申し訳ありませんでした。

    「酷評」に関してはたった今は平和的な態度で何かをコメントするのはとても難しく感じます。私としても、もし道が残されているならば有意義な議論に発展させたいと思っていますが、その前に私は一度頭を冷やす必要があり、また頭を整理する必要があるようです。

    また後ほど改めてコメントさせてください。よろしくお願いします。

  31. 藤井です。

    まず、大して詩歴もなく若輩者ながら、こちらの議論に参加致しますことをお許し願いたく存じます。

    まずこちらのフォーラムが、渡辺さんのコメントがガイドラインに反するのではないか、という指摘により始まっている以上そちらにも触れるべきかもしれませんが、そちらに関しては渡辺さんが謝意を示しております。よって私からのこれ以上の発言及び追及は失礼に当たると考え、控えさせて頂きます。

    さて、まず話しておきたいことは「酷評OKタグ」についてです。(以下酷評タグと略記)
    酷評タグに関しては、コメント活動の活性化、筆者の実力の向上など、様々な考えが存在するものと認識しております。
    あえてこのタグの問題点を、私なりにまとめてみます。
    1.「酷評」というワード
    酷評、というワードを用いることにそもそもの問題点があると考えます。なぜなら、ガイドラインにおきまして
    >合評の名にかこつけた、他者を攻撃する行為を厳格に禁ずる。また、十分な理由を明示しない酷評/罵倒を禁ずる。一言コメントでの酷評はしないこと。
    酷評、を禁ずるという言葉が明確に記述されてあります。この点での混乱、また矛盾がまず第一の問題点と致します。
    2.参加者のニーズに的確に答えられていない
    こちらは後ほど。
    話は少し変わりますが、ビーレビに参加する方々は、以下のニーズをお持ちになっているかと考えました。
    A.詩を(ただ)多くの人に見てもらいたい。読み解かれたい。
    B.詩にアドバイスをもらい、更なる自作の発展へ昇華させたい。
    ※補足致しますと、BはAを含む場合がございますが、AはBを含まないとさせて頂きます。つまりAのみorA+BorBのみという構図となります。
    Aのパターンは例えるならツイ詩においてのファボをニーズとする、Bは文極の辛口コメをニーズとする、といった様相でしょうか。(念押ししますと、これは例えです。)
    ABのニーズを私が理解していなかったので、哀愁亭さんにご迷惑をお掛けしました。この場をお借りして謝罪申し上げます。
    上記を踏まえた上で、前述した酷評タグの問題点2.を考えていきます。まず、ビーレビは辛辣な、人としてどうかという辛口なコメントを排除し、人間らしいマナーに溢れた合評活動の出来る投稿サイトとして立ち上がった経緯があり、その精神は今も根底に根付いているという前提の元話を進めます。更にいうなら、ビーレビはいわゆる「酷評」と言えるほどの厳しい評価を嫌った参加者が多いということをもう一つ、前提条件として進めます。
    前提条件から、酷評、という言葉が参加者全体のニーズにそぐわないのは仕方ない事でしょう。しかし、ここで問題なのが、Bを求めている方々です。Bはアドバイスを求めて上昇することを求める方々ですので、是非ともアドバイスが欲しい。しかし酷評タグを付けてしまうと、どんな辛辣なコメントが付くか分からない。参加者の、特にBはこのジレンマに悩まされることとなります。
    つまり、こうです。酷評タグという名前にすることで、1.という問題点が沸き起こるばかりか、2.という、参加者のジレンマを引き起こしてしまっております。さらに言うなら、Aとしても、酷評タグのコメントがAにも(タグを付けていない方にも)及ぶ危険性を孕んでいるとも言えなくはありません。
    ただ、誤解をして頂きたくないのは、私は酷評タグそのものには好意的です。私はBを多少なりとも含んでいます。
    さて、ここからは私の結論及び提案です。そもそも、なぜこのような問題が起きているのか。その原因は単純に「名前」がまずかったと考えられます。そして、私からご提案させて頂くことは、タグの名前を変更してはいかがか、ということです。
    さらに、ここからは私の勝手な考えとなりますが、例えば「アドバイス募集」というタグ名はいかがでしょうか。これなら、1.2.そしてAB両者のニーズをすんなりと取り入れることが出来ます。この提案の問題点としては、アドバイスタグを付けなければアドバイスを貰えなくなるということですので、今までの情勢から変化を起こす可能性があることです。

    さて、次にいきます。運営者の権利及びビーレビの目標関連のことです。
    まず、運営者の権限ですが、私としてはあるのがごく自然な流れと判断します。なぜなら、運営者がいるからこそ我々がビーレビという素晴らしい場所で詩に携われるからであり、水面下で多大なる苦労をされているからにほかなりません。ただし、私が述べる権限というのは、ガイドラインを多少無視しても、とかそういったことでは断じてありません。ビーレビを、リーダーシップをもってして運営者の権利で改革し、運営し、様々なビーレビのアイデアやイベントなどの前線に立てるという権利です。これは、運営者しか持ってはいけない、明確な権限だと考えます。
    また、哀愁亭さんの仰る、目標、に関して、私なりの考えを述べさせて頂きます。私は、目標を持たないことも、持つことも、全て運営者の権限であり、我々がそれに口を出そうとするのであれば、目標を持たなくても良いのではないでしょうか、など、丁寧に発言すべきかと存じます。なぜかといいますと、上記の理由が全てです。繰り返しになりますが運営者の皆様は水面下で大変な苦労をなさっており、だからこそ運営者がビーレビの方針を決める権利を有している。逆に申せば、水面下での苦労をしておきながら、ビーレビを引っ張るのは支えられている我々という構図が出来上がってしまいますと、残念ながら運営者を誰もしないのが道理です。
    話を戻して、目標、ということを私なりに考えます。私の意見ではなく、渡辺さんや、旧運営の方の花緒さんの発言を考えた上での、私の考えです。渡辺さんは、詩をもっとネットに参入して、(ネット)詩を活性化させたい、と。花緒さんは、クリエイティブライティングと称した、詩にとらわれない様々な文章の形が、広がっていって欲しい、と。(失礼ながら、要約です。ご了承を。)こちらの考えがビーレビに残っていると仮定すれば、ビーレビの現在の目標はそのようになると考えられます。
    私からの考えは以上です。勿論、矛盾点、反論などございましたら遠慮なく申してくだされば幸いです。お目汚し失礼致しました。

    2019.06.17 藤井龍平

  32. 改めてコメントさせていただきます。

    ですが「酷評」については、私はこれ以上議論しないことにします。

    どうすればビーレビがより有意義な場となりえるか?その点に絞っていくつか意見を述べるとすると、まず上記でふじりゅうさんが提案されている「アドバイス募集」タグは非常な妙案であると感じました。

    渡辺氏の言葉をお借りするなら「およそ人は、… 負の感情で行動した時より、… 正の感情で行動したほうが結果に繋がり」ます。この言葉には同意せざるを得ません。コメントする時にも同様で「負の感情」でコメントするより「正の感情」でコメントするほうがおそらく建設的です。

    言葉は感情を喚起するものです。ですからふじりゅうさんのご提言は非常に的確であると思うのです。

    もう一つは「現代詩」という言葉にとらわれないことではないかと思います。この点、ふじりゅうさんも言及されていますが花緒さんの「クリエイティブライティング」なる概念がどこか胡散臭いながらも、私にとってとても魅力的だったのは、ジャンルにとらわれない柔軟さ、「現代詩」として読むとクズとみなされるような作品のなかにも、何かしら新しい魅力を見つけていこうというそうした建設的な姿勢があったからです。

    「現代詩」を読みたいなら詩誌や出版されている詩集においていくらでも上質な「現代詩」を読むことができます。これは私一個人の感想に過ぎませんが、少なくとも私はビーレビにおいていわゆる「現代詩」を特に読みたい、書きたいとは思わないのです。特に「現代詩」の周辺を読みたいです。「現代詩」というジャンルが取りこぼしてしまうような、それでも魅力的な文章を私はこのビーレビで読みたいです。

    そしていろいろな読み方をしたい。こんな読み方があったのか、と目から鱗がおちるような経験がたくさんありました。そうしたコメントをたくさん読みたいです。

    ですから、今回の件、非常に残念に思いました。

    これは私のわがままに過ぎません。また私がビーレビユーザーの声を代弁しているなどと図々しいことも考えてはおりません。いちユーザーの感想として参考していただければそれだけで十分です。

  33. 運営諸氏及び皆さんへ、私の勘違いから要らぬ方に話が行きかけたようで申し訳ないことでした。stereo type氏、ご配慮ありがとうございます。静観、と書きましたが……藤井氏のタグ名の変更は一つの案として良いか、と思います。mooo氏が自分は生徒ではない、という旨の発言をされていたことからも、酷評タグを何らかの形で残すとしたら、何のためのタグなのかが明確でないと駄目なのだと感じます。

  34. 今このスレッドで行われていること自体が「批判的批評とは何か」「それは果たして本当に建設的な意味があるのか」ということです。なぜなら、このスレに寄せられたコメントはどれもビーレビというこのサイトの「批評」だからです。このサイト自体が批判的批評に耐えられないのに、このサイトの中で投稿された作品に寄せられる批判的批評は建設的なものとしてあってよいと思う、というのは欺瞞です。

    僕は先のコメントで目標なんてなくてもいいんじゃないか、酷評タグも効果をなしてないんじゃないか、と指摘しましたが、もちろん、それでも運営の方々が目標を持つことや、このサイトが酷評タグをそのまま、あるいは改善して残し続けることを選ぶことを否定するものではありません。先のコメントは建設的なものとなることを期待したこのサイトに対する批判的批評です。

    僕の言葉遣いに対してふじりゅうさんから指摘がありましたが、僕が運営の方々を軽んじているのかどうかということは、「どんな言い方をしているか」ではなくその内容の是非によって判断していただきたいです。その上で、もしも運営の方々が僕の発言を不快だと感じられたのならお詫びします。

  35. 藤井です。

    まず前提条件として、批評が適切であればコメントにおいて何を話しても良い、というものではない、と私は理解しております。
    そして、それは哀愁亭さんも同じところと私は理解しております。理由を申し上げますと、フォーラム投稿の文章におきまして、
    >「何を言おうが俺の勝手だろ」というなら、このビーレビューという場はただ口が達者な人たちによる殴り合いの場でしかなくなってしまうでしょう。
    この言葉からは、まず、口が達者であり、殴り合いをする事は、良いことではない、と読み取れます。また、一つ一つを例に挙げて解説する事をしない非礼をお詫び申し上げたく存じますが、今までの発言を総括して、前述の通り、哀愁亭さんは批評が正しいならどんな言葉を放っても構わない、という思考の持ち主ではないということを、私の方で理解しております。(=Aとする。)
    運営者の方々が極めて大変である理由としてはこの上なく局所的かもしれませんが、ビーレビ公式キャスにおいても、極めて綿密にトークリストを作成して臨まれています。そちらを理由として提示するのはあまりに不適切だ、と仰るなら、どうぞご糾弾下さい。
    上記をなぜ提示したかを申し上げますと、運営者が本当に大変であるのかどうかの、具体性がないと当方が考えたからでございます。

    転じて。

    1.>ビジネスでやってるわけじゃないんだから、目標なんていらないじゃないですか?目標は明日も来月も、来年も再来年も平穏無事にこのサイトがあること、それだけでしょう。そしたら運営者さんたちの負担はぐっと減るんじゃないですか?基本的には、運営が主導して新しいこと始める必要なんてないでしょう。むしろ運営さんたちがやることは、誰かが何かやりたいとかやってほしいとか言った時に「面倒くさいからやだ」「そんなのできない」「無理です」「じゃああなたが別の場所でやってください」って言うことでしょう。だから、かるべさんはすごく正しい。これは皮肉じゃなくて、本当にそう思ってるから言ってます。

    2.>このままじゃこのサイト、新しい機能をどんどん追加して売れなくなった日本製品みたいになってしまいますよ。このサイトが進化し続けるサイトだとしても、ユーザーを置いてきぼりにしてサイトだけ変化し続けたって意味がない。

    哀愁亭さんの発言したコメントを抜粋したものです。

    また、私のコメントをお読みされた上でのコメント抜粋が以下
    3.>僕は先のコメントで目標なんてなくてもいいんじゃないか、酷評タグも効果をなしてないんじゃないか、と指摘しましたが、もちろん、それでも運営の方々が目標を持つことや、このサイトが酷評タグをそのまま、あるいは改善して残し続けることを選ぶことを否定するものではありません。先のコメントは建設的なものとなることを期待したこのサイトに対する批判的批評です。

    4.>僕の言葉遣いに対してふじりゅうさんから指摘がありましたが、僕が運営の方々を軽んじているのかどうかということは、「どんな言い方をしているか」ではなくその内容の是非によって判断していただきたいです。その上で、もしも運営の方々が僕の発言を不快だと感じられたのならお詫びします。

    以下、指摘されている私のコメント抜粋
    >また、哀愁亭さんの仰る、目標、に関して、私なりの考えを述べさせて頂きます。私は、目標を持たないことも、持つことも、全て運営者の権限であり、我々がそれに口を出そうとするのであれば、目標を持たなくても良いのではないでしょうか、など、丁寧に発言すべきかと存じます。なぜかといいますと、上記の理由が全てです。繰り返しになりますが運営者の皆様は水面下で大変な苦労をなさっており、だからこそ運営者がビーレビの方針を決める権利を有している。逆に申せば、水面下での苦労をしておきながら、ビーレビを引っ張るのは支えられている我々という構図が出来上がってしまいますと、残念ながら運営者を誰もしないのが道理です。

    前述の理由から、運営者が実際に水面下で支えて下さっていることはご理解頂けたものと仮定して話を進めます。
    1.から参りましょう。
    まず、氏の1.における発言を整理致します。
    B.目標なんていらない
    C ビーレビの運営者がすることの断定(それだけでしょう、から)
    D 運営者の負担を減らすことのみに注力し、新しいアイデアや実行を良しとしない発言
    E 「「面倒くさいからやだ」「そんなのできない」「無理です」「じゃああなたが別の場所でやってください」って言うこと」を運営者の仕事と断定

    続いて、2.を見ていきましょう。
    F ビーレビの将来を、売れなくなった日本製品と予知し、それを「しまいますよ」と、事情を大枠から内側まで知っているかのような発言(知らないと、ここまでの大言壮語など不可能)
    G ユーザーをおいてけぼりにした進化を、意味が無いとする

    言葉が行き過ぎた表現がございます。それについて、誤解だ、あるいは言い過ぎだ、とのお言葉及び批判を受けることと存じますので、お答え致します。誤解だ、と申される件に関しましては、誤解だと仰って頂きたく存じます。私はB〜のように受け取りました。また、言い過ぎだ(ビーレビの精神に反する)という批判にお答え致します。言い過ぎ、のように聞こえた為、B〜のようにあえて記述しております。

    それを踏まえた上で、3.を拝見致します。まず、もし目標を、持つことを否定していないとすれば、なぜあえて目標を持つことを否定するような誤読をする書き方をしたのか、あるいは私が誤読をいたしておるのか、ご教授願いたく存じます。なぜなら、私は生来読解力に欠けておりまして、往々にして意味を取り違えます。現に、私は1.の文面を、目標を持つことを否定していると現在捉えております。なぜ否定を装ったのか、今一つ腑に落ちぬ故、お教え願いたい。また、哀愁亭さんの述べたことと私が述べたことがズレているなら、ここにおきまして謝罪を申し上げます。
    また、3.では建設的と述べてらっしゃる。こちらをHとしましょう。
    4.に移ります。運営者の方に意向を委ねるとの言葉、まこと正しく思います。私も同様に思います。
    ではなぜ私がこうしてコメントを書いているかと申せば、私のコメントに対してのご返答でしたので、運営者ではございませんが私の見解を述べておきたかったからでございます。どうか御容赦を。
    4.では、Hのような意見の、中身によって判断してもらいたいと論じてらっしゃる。私の考えをここに載せます。
    まず、Aから、Hであればなんでも発言しても良いという考えは持ってらっしゃないことが分かります。それを、私のフォーラム一回目のコメントの抜粋部分でも申し上げております。私も同じ考えだと。
    私は、フォーラムのコメントにおきまして、忌憚なく申せば、運営者は水面下で大変な苦労をなさっているから、特に件の発言は無礼ではないか、と書かせて頂きました。
    具体的にどのように感じたか、はB〜Gで示しております。
    そして、3.4.を総括すると、哀愁亭さんは、発言の無礼さではなく、内容の是非(善し悪し)で裁量を願うと述べてらっしゃる。
    ご自身はそのように認識されてないのかもしれませんが、私は、発言にちぐはぐさを感じることを否めませんでした。また、氏は、運営を軽んじているのかどうか、と申しておりますが、私がどこかで、哀愁亭さんは運営を軽んじているのだ、と発言しているのなら、その発言を抜粋願いたい。また、そのように誤解されたのなら謝罪申し上げるとともに、真意を述べます。こちらの私のコメ抜粋の意図は、遠慮なく申せば、支えられている立場の我々が、何の理論性もなく、ただ単に推論と勝手な方針を、上から目線で運営者に発言するのは無礼でないか、ということです。何度も話しておりますが、私の矛盾点や誤読がありましたらご提示下さい。
    無論、私も哀愁亭さんに、コメントにおいてはからずも非礼をいたした事がございます。そして、哀愁亭さんにそちらを糾弾された際には、謝罪を申し上げております。
    もし、私の追及が誤っているなら、遠慮なく糾弾致して下さい。誤りであると認識しましたら、謝罪を申し上げ、自身の読み解く能力を磨き、ご迷惑をお掛けせぬよう尽力致す所存でございます。

  36. ふじりゅう様

    ご意見いただき、ありがとうございます。

    口が達者であり、殴り合いをする事は、良いことではない

    ということは、互いに了解し合っていることと思います。にもかかわらず、貴方は何度もご自身のコメント内で「ご糾弾ください」と仰る。なので、最初にお断りしておきます。これから申し上げることは、貴方に対する糾弾ではありません。この場所は、僕と貴方が僕の言葉遣いについて議論するための場所ではないからです。そのため、これから述べることに関して納得していただかなくても仕方ありませんし、仮に納得していただいたとしても、そのことで謝罪していただかなくても結構です。僕と貴方との間の対話は「殴り合い」ではない。このことを互いに了解し合っている、と再度確認させてください。

    「私も哀愁亭さんに、コメントにおいてはからずも非礼をいたした事がございます」と貴方は仰りますが、僕は貴方から非礼を受けたとは思っておりません。僕はただ、貴方から頂いたアドバイスが適切ではない、と申し上げただけです。そして、その説明を差し上げたに過ぎません。その意味で、もしかしたら僕の方が「非礼」であったのだろうとも思っています。そのことについてはコメントでもお詫びいたしました。僕の中ではこの話はもう既にそこで終わっています。このスレのどこかでsurvofさんが仰られていますが、作者が意に沿わないコメントを受けたらそれについて反論すればよい、と僕は思っています。そのため、あの場でそうしただけのことです。貴方は最初のコメントと今回のコメントの二度にわたってこの話を持ち出しておられていますが、どうかもうそのことは忘れてください。忘れなくても、この場で持ち出すのはやめてください。

    貴方の僕の文章に対するご指摘は、改めてゆっくり拝読させていただき、参考となる部分は今後の参考とさせて頂きます。ありがとうございます。

    貴方が仰るように僕のコメントにちぐはぐさを感じるというのであれば、それでかまわないと思います。そのことも含めて、運営の方々やこの場のほかの方々が僕の意見を参考にしたり、あるいは参考にしなかったりすればよいと思います。

    どちらにしろ、もしも貴方が僕を糾弾したいのであれば、それはここではない別の場所にしてください。

    「何の理論性もなく、ただ単に推論と勝手な方針を、上から目線で運営者に発言するのは無礼でないか」と貴方が感じられたということはよく理解いたしました。そのことについて、もしも僕が貴方に対して謝罪しなければならないのであれば、謝罪いたします。誠に申し訳ございませんでした。

    また、貴方のご意見を受けて、渡辺さんやステレオさんが僕に謝罪を求めるのであれば、その際にはお二方に必ず謝罪いたします。

    もしも貴方がどうしてもこの場で僕を糾弾したいのであれば、僕はこの場の議論の妨げとなってしまうことを防ぐためにこの場から去らねばならなくなります。貴方が仰っていることは、すべて僕自身にのみ付随することだからです。ですが、ここで話しているのは僕に付随することではないし、そうであるべきでもないでしょう。

    この場で僕と貴方がどうしても共存できないのであれば、僕か貴方か、どちらかが去るしかありません。それでしたら、僕がこの場を去ります。

    どうかご理解のほど、よろしくお願いいたします。

  37. 哀愁亭氏へ。
    氏のご指摘、ご意見の中で一つ、気になった点があったのでコメントを。
    氏は「(サイトに)目標なんてなくていい」「運営が主導して何かをする必要はない」「新しいアイデアを試したが結果がどうなろうと知りませんは無責任」という趣旨の発言をなさっていますが、これはとても大切なことです。酷評タグの失敗、その一点だけでこれまで運営(特に渡辺氏、かるべ氏)が取り組んできたサイトの整備、特にシステム面での明らかな改良、刷新、近代化を否定するのはいかがなものかと私は存じ上げます。哀愁亭氏がどこまでサイトがリニューアルされる前のビーレビューについてご存知か分かりませんが、改良前のビーレビューは旧態然とした、それこそ掲示板として存続すればいいというだけのものでした。私は積極的に関わらなかった、もしくは関われなかった一面があるものの、サイト整備面での渡辺氏やかるべ氏の多大な尽力、貢献はとても献身的なもので、私はそれを間近で見て知っています。特に渡辺氏はサイト整備のための企画書を一人で書き上げ、その労苦は賞賛されこそすれ、否定されるものではなかったと個人的には考えています。そしてそれはプログラム面で甚大な努力をなされ、多くの時間を費やされたかるべ氏についても同様です。哀愁亭氏の酷評タグへの批判的な姿勢から来る当サイトへの苦情、ご提言はありがたいものですが、渡辺氏、かるべ氏の努力、意向、割いた時間、労苦、そして熱意までを否定するまでに考えが至ったのは残念でならず、悲しいことに賛同もしかねます。そして氏のご意見がそこまで特化してしまった事実にも、私個人としては悲嘆を拭えません。なぜ現運営が「サイトに目標を持たせ」「サイトを整備し」「多くの新しいアイデアを導入したか」は、ひとえに現代詩界隈を盛り立てて、ビジネス面でも多くの詩人が成功するように願ったところから来ています。この点については渡辺氏に詳細を話してもらうよう現在私から勧め、促してもいます。一先ずは渡辺、かるべ両氏の献身を知っていただきたく筆を進めましたが、私がコメントを寄せた理由についても想いを馳せていただけたら幸いです。
    なお哀愁亭氏の提言の多くは有意義であり、議論を活性化させるのに貢献していると申し上げて、コメントを締めさせていただきます。

  38. stereotype2085様

    コメントいただきありがとうございます。もしもこのスレがこの場でコメントされた方々による合議によって何かを決定するためのものであったならば、僕のコメント内容は変わっていたと思います。しかし、ここはそのような場所ではないでしょう。ここでどのような議論があったにせよ、決定するのは結局運営の方々です。

    ならば、僕たちがこの場でできることは何か。

    まさかとは思いますが、この場で僕に集まった方々の意見をまとめることを期待したわけではないでしょう。そんなことは僕には不可能です。

    僕がこの場で自分にできると考えたこと、それは少しでも多くの意見や考え方を提示することです。運営の方々がなにかを決定したり選択したりする際の材料となるように。

    そのため、僕はこの場ではなるだけ自分の中にある最もラジカルな面を表明しました。こういう考え方もあるよ、こういう人もいるかもしれないよ、と。意見の幅が広がるように。

    僕は自分の意見を運営の方々に取り入れてもらおうと発言していたわけではありません。僕の意見はすべて却下してもらってかまわないのです。ただ、頭の隅に置いておいてくれたらよかった。そういう人もいるかもしれない、と。

    そもそもの議論についての考え方に、運営の方々と僕との間で齟齬があったのかもしれませんね。僕はここで意見をまとめるつもりは最初からありませんでした。

    多様な意見など必要なかった、ただ応援してほしかった、と言われればそれまでです。お前の意見で渡辺さんやかるべさんが傷ついた、というのであれば深くお詫びいたします。本当に申し訳ございません。

    僕はこの場で本気でこのサイトについて考えました。ここ数日、ずっとずっと考えていました。

    そうして、運営の方々やこの場の他の方々がどう思われたかは分かりませんが、僕はずっと現実的な意見を述べてきたつもりです。

    理想はなんとでも語れます。批判が建設的な議論になればいいよね、とか、これまでの努力はきっと報われるよね、とか。そりゃ、そうだったらいいなと僕も思います。

    でも、実際には今この場がこのようなことになっているように、やはり批判を建設的な議論にすることはかなり難しいものです。努力だって、必ずしも報われるとは限らない。思いは結局伝わらないことの方がずっとずっと多い。本当に現実は厳しい。残酷です。見たくないです。

    だからこそ、そこから目を背けちゃいけないと僕は思います。その覚悟があるから、こんなめんどくさい男の話を聞いてやろうと思われたのだと思っていました。

    でも、その現実だって結局は僕の主観に過ぎないのかもしれませんね。

    (サイトに)目標なんてなくていい

    そういう考え方もあるんじゃないですか?という話です。ないならないで、それもいいでしょう。目標を持つな、なんて言ってません。そうした方がずっと楽だ、と言っています。そしてその楽な方法を取ったところで、誰にも批判はできません。という話です。

    運営が主導して何かをする必要はない

    これも同じく、そうしたら随分楽になるよね、という話です。だって、ボランティアなのでしょう?だからそれでもいい。無理して運営の方の誰かが倒れるくらいなら、楽してください、と思いますから。

    新しいアイデアを試したが結果がどうなろうと知りませんは無責任

    これを言われて傷つく、というのは意味が分かりません。「ボランティアなのにそんなこと言われる筋合いはない」と思っておられたのなら、最初からそう言ってほしかったです。だったらここで議論なんてしなかった。渡辺さんの回答がよく分からないものであっても「なんか、そういうことらしいよ」でこのスレの話を終わらせることもできたのですから。本気じゃないなら、こちらを本気にさせないでほしかったです。

    以上が僕の言いたかったことです。もしそう受け取れなかったのなら、それは僕の表現力不足でしょう。そこをまた取り立てて糾弾するのはやめてください。もう、疲れました。とても現実的に疲れています。

    かるべさんや渡辺さん、ステレオさんの努力は素晴らしいものだと思います。でも、それを評価したからといって数字が変わるわけじゃない。そんな魔法が使えたらいいけれど。

    大してお力になれなかったこと、本当に残念です。

    この度はお騒がせしてしまい、また、運営の方々を傷つけてしまい、誠に申し訳ございませんでした。

  39. 哀愁亭様へ。
    ご返信ありがとうございます。私は「お前」の意見に「傷つく」人がいるだなんて言っていないし、思ってもいませんよ。どうか自分を一部卑下なさるのはおやめになってください。哀愁亭様のご意見のお陰で私は、過去のビーレビュー運営のやり取り、また取り組んできたことを思い返し、考え直すことが出来ました。それにはとても感謝しています。あと多様な考えがあるとしっかりご意見してくださったことにも。私が伝えたかったのは、たしかに現実的問題もあり、魔法など使えませんが、魔法の一歩手前の力が働くように、献身した方々(旧運営含む)ということです。どうか僕の言葉でこれ以上疲弊なさらぬよう願うばかりです。フォーラムへの投稿、そしてご意見本当にありがとうございました。

  40. 追記・「献身」という言葉は現運営、旧運営に限らず、哀愁亭様を含めた、建設的議論に参加された全ユーザーにも当てはまるものです。ここに追記として残し、私のコメントへの言及がこれ以上なければ、私はこのスレッドから退く所存です。それでは。

  41. こんにちは。わたしは、この議論である渡辺さんのコメントには意見は あまりありません。あえて一つだけ言うなら、一言であれ長文であれショックをうけるときはうけます。
    一言コメの批判と 長文コメのコメントに対して「そんなこと言うな」という反論をいう場合に、長文コメのほうがエネルギーを必要とします。長文コメだって、大変です。一言コメなら 作者の方のための援護射撃もしてさしあげやすいです。なぜ 一言コメだと 長文コメよりダメなのか、わたしには良くわかりません。

    それよりもっと言いたいことがあります。
    今後のために「酷評」タグについて、意見を書かせていただきます。
     わたし一個人は「酷評」タグが廃止になることを願っています。
    理由は、私は投稿のたびに 「酷評」タグを入れようか入れまいかと迷っているからです。いままでは迷いながらも、多様な意見が欲しいので「酷評」タグをいれてきました。
    いざ 自分の感情が乱れてみると その後で 自分の選択を後悔しました。なぜ「酷評」タグをいれたのだろうかと。

    哀愁亭 さんの分析を拝見して思ったのですが。ここ90日間で批判的コメントがコメント欄の盛り上がりに貢献した、と言える事例は1件だけで、そのレアケースとは私への批判ということになりますよね。わたしへのコメントが酷評かどうかは わかりません。ですが、私は なぜ「酷評」タグをいれたのだろうかと。自問自答で悩んだのは事実です。

    よって わたしの場合は、投稿時に 「酷評」タグを入れるか入れないかで 自己の耐性を投稿のたびな自身に問うのが苦痛だという理由から、「酷評」タグに反対します。

    わたしは、「酷評」タグを入れようといれまいと 誠実なコメントに対しては誠実に向き合うつもりです。だから、投稿前に 「酷評」タグを入れるか入れないかで迷いたくないです。自分勝手な理由かもしれませんが、だったら 「酷評」タグがなければ良いと思うのです。
     酷評タグに反対なので これからの私は酷評タグを入れませんが、厳しいご指摘がいただきたいという思いが消えたわけではありません。

    できれば、酷評タグなしの方向で善処していただきたいです。

  42. 追記です。

    わたしの意見で コメントの短文長文が、なぜ 良い悪いに分かれるのかがわからないと書きました。では、善悪が どのような文であれば わたしにも分かるかを、考えて みました。

    現代詩フォーラムのふみだせば、ルールブックは わかりやすいです。参考にされてみたら いかがでしょうか?

  43. 表現が、稚拙でした。以下のように
    訂正します。

    現代詩フォーラムの文書である、ルールブックは わかりやすいです。

    失礼しました。

  44. もろもろ多忙を極めているため返信が遅くなっていますが、まずは私の最近のコメントについて。

    運営になって私は短いコメントを多くの作品につけるようになりました。その理由はひとえに「枯れ木も山の賑わい」で、全くコメントがつかずにサイトが過疎ってしまうよりは多少質が落ちてもコメントが書かれる頻度が多くなる(=サイトの更新頻度が上がる)ほうがサイトひいてはサイトを利用するユーザーにとって有益だと思っているからです。
    私の考えの根底にあるのが「良い作品は正当な評価を受けるべきだし、そのためには露出が増えなくてはいけない」というもので、作品の露出が増加されるためにサイト自体の露出が増えなくてはいけないと思っています。
    だから、過疎るよりは多少酷評や一言コメントがあっても賑わっていたほうが良いと考えます。もちろんその酷評が過疎化への原因とならない限りですが。

    まりも氏が『先方が理不尽な(やっかみやめんどくさい、というような個人的な理由や、日頃の鬱憤晴らしといった)一方的な押し付け的、攻撃的な「批判」であると誤解しないように伝えるためには、かなりの繊細さとエネルギーを要します』と書かれたように、私が現在行っているコメントをすべて高水準で書くのは難しいです。そのため今回の「日常」のように低水準なコメントが発生する原因です。それでもね、書かれた方がいいと思うわけですよ。コメントがゼロよりは短文でも酷評でも1つあった方が。私だって、別に必要なかったらさして良いとも思わない作品へわざわざコメントしない。

    私が一番恐れているのは、褒め合うコメントばかりになってユーザーがサイトを飽きてしまうこと。結局人が居なければ、良い作品も良い批評も良い議論も起こりえないわけでして。
    新運営就任時のキャスでも言っていたことですが、私はビーレビの「マナー重視」という点にはあまり価値を見出していません。その理由の一つ、キャスで言ったことは、マナーなんてのはそれを売りにするまでもなくクリアされるべきものであるからです。そしてもう一つ、こちらが本音ですが、マナーばかりを求めた空間は去勢されたような日和見の意見しか出なくなって空間自体の価値が下がっていくからです。だいたいにおいて日和見に価値を見出す人はその空間の価値を高めてはくれませんし、そういった空間は長くはもたない。ビーレビを外への展開が無い互助会にするつもりはありません。

    酷評タグはその日和見を避けるためと、またふじりゅう氏が書いている「詩にアドバイスをもらい、更なる自作の発展へ昇華させたい」方のニーズ獲得が目的でした。現代詩のフィールドには多くの方がいますが、B-REVIEW3.0ではそれらを包括できればと考えています。その現れが、リーディング界隈を取り組もうとした動画投稿機能です。
    こういってはなんですが、本スレはふじりゅう氏で言うところのAのみの方ばかりだったので、Bの面が強い私はなかなかしっくりしていませんでしたが、そこを的確に言語化してもらえたのでBの説明には助かりました。

    そういった、非常に功利主義的な考えで行動して、それこそが全体の利益になると考えていることはご理解いただけると幸いです。

    だから、哀愁亭氏が書かれた
    『コメント欄が盛り上がってなくたって別にいいじゃないですか。だって俺たちそういうのが好きなんだもん、で終わりでしょう。そういうのが好きな人が集まってるのがこの場でしょう。』
    『ビジネスでやってるわけじゃないんだから、目標なんていらないじゃないですか?』
    というコメントには非常にショックを受けました。
    哀愁亭氏は続けて『運営の方々が目標を持つことや、このサイトが酷評タグをそのまま、あるいは改善して残し続けることを選ぶことを否定するものではありません。』とも書かれていますが、しかし本音は前者なのでしょう。

    詩人自身が、詩は読まれなくていいと言い出したら終わりじゃないですか。でも、皆さん本音はそうなんですかね?
    私は前述の通り、どうやったら詩が読まれるかを考えて運営を行ってきました。しかしそれはユーザーの皆さんにとって別に重要なことではないとしたら、もう徒労ですよね。
    哀愁亭氏が述べている『みんながいい作品を書くしかない』という意見は(ネット詩に限らず、むしろ中央詩壇を主にして)いままでの詩人からも多く発せられてきましたが、それで全くこの「詩は読まれない」という状況は好転しませんでした。どんなに良いものでも宣伝をしっかり行わなければ享受者までは届かない。その宣伝をさぼってしかし「みんながいい作品を書くしかない」とだけ言っているのは「うちの商品は良いものだから何もしなくても売れる」とふんぞり返っている経営者と同じです。
    しかし、ごくごく小さな身内のみで回しているのが本望ならば、なんの宣伝行為もしなくていいでしょう。私も楽になりますしね。実際多くの詩人はそうです。何とは言わんが、ホームページビルダーを使えば1時間程度でサイト作れるのに未だmixi使ってる詩関係の運営もありますし。それじゃ人集まらんでしょ。

    今回の件について「ではどうすればいいか」の具体案を出してくれたのはふじりゅう氏のみでした。「アドバイス募集」という提案は私としてもかなり納得がいくものであり、今後導入する可能性が高いです。
    本件の発端である私が言うのも非常におこがましいですが、この「議論」が何かに繋がるでしょうか。たぶん一時期ワイワイやったらあとは自然に終わってしまいます。みなさんPDCAサイクルのCheck(評価)しかやっていません。Plan(計画)はたびたびありますが、Do(実行)はまずない。また、Pは「それをどうやるか」「誰がやるか」の視点に欠けたものが多いと感じています。言いっぱなしの投げっぱなし。
    私が行ったPDはまさにB-REVIEW3.0です。(企画書、いまは見れなくなっているのでアップローダーに投げておきます。 http://whitecats.dip.jp/up/download/1560971858/attach/1560971858.pdf パスワードは「breview」)
    この3.0は、私がやらなきゃ他の人は絶対にやらなかったと確信していました。詩人、「何を」は言うけど「だれが」「どうやって」は考えないよね。方法が伴わない案は机上の空論です。ブレインストーミングなんてはごく初期に行うもので、いまはもうその段階ではない。

    最近思うのは「詩人は詩を書くこと以外に怠惰」です。ネット詩に限らず、数時間でできる改善策も行わないでただただ詩を書き続けて、そして「詩は読まれない」とつぶやく。そりゃそうでしょ、良い詩を書いている自負があるなら、読まれるようにしなきゃあ。それを成さなくてはさぁ。
    ほんと、何様だよって話ではありますが、このスレや「日常」を非詩人の知人に読ませたら「この程度のことでなんでみんなこんなにわちゃわちゃやってるの」と言われました。
    その感想はつまり、各々「お気持ち」は述べているがそこで留まっていて、PDCAのAciton(改善)まで至っていないからだと解釈しています。Cばかりですよ。
    PやDもやってほしい(私ばかりじゃ身がもたない)のが本音ではありますが、せめてAは成してほしいです。てか俺ばかりPDやって皆さんはCだけ(それも無いことが多い)ってのに疲れています。トップダウンの組織でなく運営―ユーザーの関係が対等ならなおさら批評家はいらないわけでして、むしろ求められるのは実行者です。詩人誰も実行しねぇ。ほしいのは軍師でなく兵士です。
    哀愁亭氏による酷評タグとコメ数の相関分析は大変良いものでしたが、欲を言えば「みんながいい作品を書くしかない」以外のAを言及してほしかった。それは理想論であり、効果が成さないと分かっているAはAとして成り立ちません。ただただ良品を生産してもうまくいかないことは詩に限らず多くのことで証明されています。「みんながより良い作品を投稿しやすくすること」とは具体的に何か、Pを考えてほしい。

    詩をより多くの方に読んでもらうならPDCAの循環を続けていかなくてはいけません。どうか、ユーザー各位もそれを成そうと動いてください。私は疲れました。

    無論、「べつに詩は読まれなくてもいい。身内で回していればそれでいい」というのが本音ならばPDCAをする必要はありません。詩を読まれるようにしたいのか、別にどうでもいいのか、皆さんの本音を聞きたいです。

    ~~~

    私もいまけっこう疲れてるので、自分でも良くない文章だなと思っているし、なんならいまや4万字以上あるコメントを的確に読めている自信もありません。そのためこのコメントもよくわからないことになっているかもしれませんが、そこは誠に申し訳ございません。

  45. 追記

    もし、ビーレビにてDoをやろうとする人が現れたら、私は最大限の助力をします

  46. ●合評マナーのうち、以下の文言の改訂を提案します。もちろん草案です。

    ・合評の名にかこつけた、他者を攻撃する行為を厳格に禁ずる。また、十分な理由を明示しない酷評/罵倒を禁ずる。一言コメントでの酷評はしないこと。批判的な評を書かざるを得ない場合、作者や場に資するように配慮して書くこと。
    ・掲示板外で作品や作者を酷評・攻撃する行為は慎むこと。発覚した場合、厳格な対応をとる。

    ●以下が改訂案です。ポイントは二点です。
    ★まず改定案

    ・合評にあたって、他者を攻撃する暴言を厳格に禁ずる。
    ここでいう他者を攻撃する暴言とは、対象が明確な誹謗中傷および脅迫的言動のことであり、

    侮辱罪
    名誉毀損罪
    信用毀損罪
    偽計業務妨害罪
    傷害罪(心的外傷による)
    等を引き起こすことが強く疑われるものを禁止ずる。

    なお心的外傷と なり得る具体例は以下の通りである。
    (煽り,相手の尊厳を傷つける目的の言葉。差別発言。いじめ,嫌がらせ。ハラスメント。生命を軽視する発言)

    ★以下の二点が改訂ポイントです。
    一つ目のポイント。どのような事柄が、他者を攻撃する行為なのかを明記してみました。
    二つ目のポイント。「一言コメントでの酷評はしないこと。」という文章を 除きました。酷評という文言は、具体性が欠けるというのと、一言であるか長文であるかがどうかは、受けてのショックを思えば問題ではないというのが、私の考えだからです。

  47. 渡辺八畳さんの、率直なコメント、大切に読ませて頂きました。特に以下の部分、私自身もこうあってほしいなと思い、その「意見」を述べてはいますが、今はその「実行」の部分を放棄している。

    〉てか俺ばかりPDやって皆さんはCだけ(それも無いことが多い)ってのに疲れています。トップダウンの組織でなく運営―ユーザーの関係が対等ならなおさら批評家はいらないわけでして、むしろ求められるのは実行者です。詩人誰も実行しねぇ。ほしいのは軍師でなく兵士です。

    対面で、「私のやりたいこと」が実行できるのは、10~20人くらいまで。
    そこで「体験」し、実際に自分でもやってみたい、と思う人が現れたら、それをサテライト的に別所で「実行」してくれる人が現れてほしい、とは思っていますが、それとてなかなか、現実には動いていきません。

    ネットでそれが果たして可能なのか、と思いつつ、やはり、一人の「コメンテーター」が毎月のように継続的に「新規に投稿してくる作品や作者」に意識を注ぎ続けることは難しい。たからこそ、多数の「作者」が多数の「読者」として参加すること、一人一人が(出来る範囲で)実行者になることが必要なのだと思います(これを読んでいるあなたが、こうした掲示板を求めている、のであれば。)

    投稿する人が、1作品を投稿するときに「たまたま」目についた作品でよいから、せめて2作品以上に感想や批評をコメントするようにすれば・・・と思ったときもありました。
    強制的に、他者作品にコメントをしなければ自作が投稿できない、というシステムを(自分にはプログラムに関わる能力が無いので、あくまでも提案として、述べたに留まりますが)取り入れてはどうかと思ったこともありましたが、自主的にやりたい人がやりたいことをやる、という、活力に満ちたサイトにしたい、という運営の方々の考えに希望を感じたのでした。

    ランダム表示やコメントの多い順、少ない順、投稿順など、読者の興味に応じて読めるようなサイトに、具体的に(渡辺さんやかるべさん、ステレオタイプさんたちの目に見えない尽力によって)改革されてきているにも関わらず、投稿だけして、他者の作品を読んで、多少は考えて、自分の言葉でコメントしてみる、という「実行」を行う人が少ない。その現状を、投稿者の方々は、どう考えておられるのでしょうね・・・。

    「酷評」に関する懸念は既に述べた通りですが(マナーカイドラインをよく読まないまま、通りすがりに、思い付きで投稿してみた、というような参加者もいるわけで、やはり、「酷」という文字の持つ意味には抵抗を覚えます、)こうした点が変更されていくなら、毎月、5から10作ほどの作品へのコメントを再会しようと思っています。

    ※少数のコメンテーターが特権的にコメントを付ける、それを投稿者が享受、拝受する、という関係性ではなく、相互にコメントを付け合う、対等な関係性が保たれる場になるためには、どうすれば良いのか。
    本音か建前かはわかりませんが、あなたのようなコメントは付けられない(だから、やらない)という意見を聞いて、私はやり過ぎているのか?と思ったときもありましたが。

    そういう「気遣い」もまた、サイトの不活性につながってしまうのでしょうね。

    長々、失礼しました。

  48. 訂正 

    たから→だから

    再会→再開

    スマホから電車内での打ち込みなので、悪しからず。

  49. 渡辺八畳様

    お忙しい中、ご返信いただきありがとうございます。

    フォーラムというこの場を使ってこういう議論をみんなでした、これが僕のDOですよ。議論に参加してくださった方々にとっても。貴方がどうそれを評価したかはしりませんが。

    そしてそれに対して貴方が最大限の助力をしてくれた、とは僕は評価していません。

    僕は自分に出来る限りのことをしました。それがこのサイトにとって戦力にならないことであったというなら(つまりはそういうことでしょう。そんなことは一言も言ってないとか、もうそんなつまらない議論はごめんです)それもそれでよいのでしょう。

    ありがとうございました。

  50. 哀愁亭さま

    「フォーラムというこの場を使ってこういう議論をみんなでした、これが僕のDOですよ。」
    哀愁亭さまの提起によってこの場がはじまり、そして話が続いたというのは事実ではあるでしょうが、しかし私が先に書いたコメントの「この『議論』が何に繋がるのでしょうか」という疑問には申し訳ありませんが応えてくれるものではないです。
    私が求めているものは「『目的遂行』のための『議論』」ですが、哀愁亭さまがDOしたとおっしゃっているのは「『議論』のための『議論』」です。
    詩情や文学性など形而上のものを追い求めるならば議論のための議論でも良いでしょうが、いまは「B-REVIEW」という形而下のものをどうするかが問題となっているため、行われる議論は現実へ作用し得るものである必要があります。
    議論のための議論はそれこそ投稿掲示板上ではおおいに意味を持ちます。それはそちらで行ってもらうとして、可能であれば目的遂行のための議論をぜひこちらで行っていただきたいと思っていますが、いかがでしょうか。

  51. 渡辺八畳様

    これはステレオさんにも申し上げたことですが、そもそも議論ということについて僕と貴方たちの間で齟齬があるようです。

    詩情や文学性など形而上のものを追い求めるならば議論のための議論でも良いでしょう

    僕は、そしてこのサイトにいる人の多くもそうだと思うのですが、そのためにここにきているのです。現代詩を外に広めるためとか、そんなことのためではない。貴方の目指しているものは分かります。でも、僕はそのための兵士になるつもりはない。

    なので、この先の議論を僕はお断りします。それは、貴方と貴方の(あるいはネット詩や現代詩の)兵士たちの間でやってください。

    僕が言うべきことだと思ったこと(それは必ずしもすべてが僕自身の信条やモットーだというわけではありません)は、もう言いました。それを利用するのもしないのも、具体的だと思うのも思わないのも貴方たち次第でしょう。

    今後のこのサイトの発展を陰ながら応援しています。

    ありがとうございました。

  52. るるりらさま

    具体的な提案ありがとうございます。
    とりあえず、これは完全にアウトだと断定できることを明文化するのはよいかもしれません。というのは、「相手を傷つけない」ということですとその判断は相手に委ねられるわけですから、いくら自分が注意したとしても対処しきれない。他人の怒りは天災みたいなもんですから。
    それをされたことによって相手が傷つくかどうかは別として、行為の禁止は当人によって回避可能です。そのほうが楽。

    ただ、罪名の羅列はいかつすぎるなというのが正直なところです。

  53. 現代詩フォーラムを参考にしました。
    罪状列挙は いかついですよね。わかります。

    ただ 空想とリアルが、いりみだれるのが
    文芸です。もめごとがあったときには、ネットワーク内だけでなく、地に足のついた一般社会の法規と てらしあわせてみると、一時的に争ってしまってる相手も たいがいの場合は そんなに悪くはないケースだなと、 たちもどれる気がしたので、書いてみました。

    繰り返しますが、もちろん 草案です。

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