こんばんは、藤井です。

本フォーラムは「運営より」とは違い、藤井個人として投稿致しました。あくまで1ユーザーとして、皆様の「批評について」の見解を、求めたく思ったからでございます。

さて、本投稿の主題は「批評とは」でございます。私は「現代詩投稿=批評プラットフォーム」の運営の身分でありながら、批評について勉強不足で、批評的な文章を書こうと思っても、中々満足いくものが書けてはいない現状です。
つきましては、皆さまと「批評」について、議論、というか意見交換のようなものをして、視野を広げたいと考えました。

もしお時間を頂けますなら、ぜひこちらの空間にご参加頂けますと嬉しく思います。

とはいえ、私なりに「批評」について見解を示さないといけないような気がしますので、無学ながら、語ったりします。

まず大前提として批評に求められる要素としましては
①作品を自分なりの価値観や定義で「一定の評価」を示すこと
②一定レベルの説得力を持った文章で記述すること
があるように思い、こちらにつきましては、一般的に理解されている(だからといって正しいと主張したいわけではありません)ことと存じます。
で、私が批評に重要な要素として付け足すなら何かを考えたところ
③他者へ「快不快」の感情を与えないよう尽くすこと
を考えました。
見解を申し上げます。よく「感想」と「批評」は違う、なる文章を見かけます。
また「批評は、作品に対して客観的であることだ」なる文章も見かけます。
しかし「客観的」という言葉を持ち出すと「客観的に書くなどありえない」「人は自らの思考を客体化した上で、文章など書けない」「客観的に自己を見ることは、それっぽいことは意識すれば可能だが、主張を書く以上は如何なる客観視もすることはできない」などなど、別方向の議論へ進行するような気がしていまして、つまり「客観視」という言葉選びは間違っているのではないか、と思い始めています。
で。
もっと適切な言葉があるとすれば「快不快を与えないよう尽くす」ことなのかもしれない、と考えています。
感想は、自分の思ったことを素直をベースにして書くことと考えていますが、「おもろいやんけ!」や「ゴミやんけ!」といった点を書くなら、論理的に言葉を尽くしても「つまりゴミ」という感想が底流に流れている場合、「ようするに、本作をゴミといいたいわけだね???」という感情を与えてしまい、あまりいい気持ちはしないような気がします。「おもろーい!」という感情についても、然りです。

んで。

作品は、一定の評価に落ち着くとは限りません。「おもっしょ!」と感じる人もいれば「おもんな」と感じる方もいて、「おもんな」と感じる方からしてみれば「おもっしょ!」派を認められないものであったりします。
批評は「作品へ評価をする」つまり「おもろい」とか「おもんない」とかを筆者なりに定義するわけですので、「おもろい」と批評するなら「おもんない」派閥に対する攻撃性を認めつつ、「おもんない」派閥からの反論を受け止める体制が必要な気がしています。

ここで確認しておきたいのは、もし「おもろい派閥」VS「おもんない派閥」の批評による議論が展開される場合、言論空間としてあるべきレベルでの展開が望まれるのではないか、少なくとも、子どもの喧嘩チックな感情のぶつけ合いは容認されるべきではない、と考えます。

このことを前提として進めますと、では感情のぶつけ合いを否定する批評とはなんぞや!となります。
私が考えまするに、文章を読んだ他者が「快不快」の感情を出来るだけ生み出さないよう努めつつ、堂々と「いい」か「悪い」かを丁寧に記述する、ことであると思っています。
これは「感情をこめてはいけない」という類の話ではなく、「褒められた!嬉しい!」「褒めてるけど、馬鹿か!」「けなされた、ウゼエ!」「駄作とか言ってるけど、アホなのか!」といった「評価」に関して与える感情を(完璧に排除するなど到底不可能ですが)極力排除するように「努めた証跡のある批評を綴る」こと、存在するのは「批評そのものが書かれたことの喜び、を目指すことが、B-REVIEWが提唱する「高いレベルの言論の場」であるのかもしれぬ!みたいなことを考えていたりします。

ひとまず私の見解ですが、是非、皆さまが考える批評について、ご教示くださいますと幸いです。

※なんか批評について語りましたが、感想を否定したい文ではございません。よろしければ、「言論レベルの高い感想」について、もしございましたらご意見を賜りたく存じます。

「批評とは!について、皆様のご意見を募りたく存じます。」に16件のコメントがあります
  1. たとえば、聞きなれない言葉、間違った言葉があったとします。
    日本語は、特に漢字は、わざわざ構成要素まで吟味して使います。たとえば、からだ、カラダ、身体、体、躯、躰、體、腔など。全て読みは同じなのに、もうひとつの意味や、文字のパーツから感じられるニュアンスが違います。
    だから、目で読む時と、耳で読むときで、印象が変わるように書いてる人もいます。
    言葉は流行や変化があります。小説とは違う言葉の変遷が、詩の世界にはあると思います。同じことは、短歌の世界、和歌の世界、俳句の世界、古典文学の世界でも言えると思います。ロボットのように、同じ読み方、同じ使い方しかしなければ、文学は衰退します。しかし文学を発展させる、或いは発展の兆しを、マウントが取りたいのかなんなのか知りませんが、自分の価値観や知識で捻り潰す警察は、侮辱の言葉こそ使わずとも、作者の人格や詩の題材への嫌がらせに過ぎません。感性を使う世界だからこそ、感性を否定すべきでない。たとえカタコトの外国人でも、詩は書けるはずです。
    もしおかしいと思ったら、「この部分はどういう意図で書かれたのですか?」など、作者の意図を知るべきです。その上で、間違っていて修正を望むなら提案し、間違っていても当時のライターズハイを遺したい、或いは分かってやってるなら、潔く自分の感性の鈍さや柔軟不足を認めて引くべきです。「書かないでください」とまで言わせるのはその時点でアウト。ましてや何度も言わせるなんて物書きの風上にもおけない。他人に自分の文学オナニーの手伝いをさせるな。

  2. 論点ズレてたらすみません。
    私はまだまだ甘ちゃんなので、運営からしたら迷惑甚だしいかもしれませんが、書ける場所を探してここにたどり着きました。今でこそ他者さんの詩に感想こそ抱いてコメントを残しこそしても、最初は自身の思いを書き留めるのに必死でした。

    ここに来て驚いたのは、詩に対して返詩としてコメントをしている人の存在です。もし客観性の極に批評という存在があるなら、否が応でも感情が乗ってしまう詩というかたちの存在をどう説明するのだろう?ただ、上手くは説明できませんが詩に対する向き合い方として返詩は真摯なものに感じました。

    言葉による感情の乗せ方にも左右されるかもしれませんが、純に抱いたものだったら批判も不快を抱くものでさえ、批評になり得ると思います。

    それは書き手のスタンスによって批評という形が変わるためではないでしょうか。

    書き手が経済的に売れることを目的とするなら、一読者の快不快はマーケティング上重要な情報です。

    書き手が感情の迷子者なら、より良き感性の発露を促す、ある種の療養が批評になるかもしれません。

    私はまだ知らない世界ですが、かの文壇のように
    詩の世界にも”正解”があるならそこに向かうベクトルが批評になるかもしれません。

    もしくはそれらの齟齬に詩の価値があるなら、批評のアウトラインも決めるべきではありません。

    当サイトの在り方の輪郭線をハッキリさせたいなら
    書き手の記すべき詩のベクトルとハッキリさせる必要さえ出てくるかもしれないという元も子もない拙い意見ですが
    議論の一助になればと思います。

  3. ●『文脈を理解したうえで客観的に行うのが批評』というのが大前提な気がします。

    デスメタルに「その汚い声はなんだ!」というオペラみたいな文脈から評価するのはズレてる、ということになりそうですし。
    では文脈とは?

    短歌には短歌の歴史、発展の過程(季語とか?)があるのでしょうし、
    個人的にはこれらをひっくるめて『文脈』と呼んでいます。

    でも現代時の文脈?って難しそうには思います。
    ●『自由な形式』というのは大きな柱としてあるのでしょうね。
    (でも自由≒感性?は良くも悪くも幅がありそうで、ここは行き違いの元にも成り得る?)

    ●あと戦後史?からの人間の在り方?を絡めた文脈もあるのでしょうし。
    (個人的にはこういう方向から語られると苦手です)

    ※個人的には詩の歴史・分類?も良く分かってないので感想に留めること、
     コミュニティの空気を壊さないように書くことを意識してるかもしれません。

    ※歴史・分類(文脈)を理解できてる方は、作品の文脈を理解し、適した批評は出来そうに思います。

  4. 批評とはなんぞや、というような抽象的思考には関心がありません。しかしながら、敢えて意見を述べるならば、批評を加える場合、自分自身或いはその寄って立つところが「まとも」であることを示しながら言を述べることが肝要であると考えます。「まとも」が意味するところは簡単ではありませんが、まともであることのレベルが高ければ高いほど優れた批評になる可能性が高いことを思います。

    抽象的な話をしていると思われますか?あまり難しいことを考えずとも、マナーガイドラインの意図するところを守っていれば、最低限まともな批評になると思います。実のところ、まともであるか否かは比較的容易に透けて見えるものです。他者への攻撃やマウント、感情をぶつけるために言を弄しているわけでないことが滲み出るように書く。感情の発露があるならば、作品がどのように感情を刺激したのかを言を弄さずに正面から丁寧に書く。ごくシンプルな話です。あるべき批評に関する考えが混乱しているのは、即ち、マナーガイドラインが浸透していないだけのことではないだろうか。

  5. 骨林さん、早速のコメントありがとうございます。
    仰る通り、と申しますか当然のことながら、合評にかこつけたマウント取りや罵倒、はこちらの場所で求められるべきではありませんので、私もできるだけ誠実にマナー違反対応に当たりたいと考えております。
    >もしおかしいと思ったら、「この部分はどういう意図で書かれたのですか?」など、作者の意図を知るべきです。
    につきまして。「作品は投稿された時点で筆者の手から離れる」などとよく耳にしますが、私も基本的には同意しておりまして、平時の場合における作品の読みについては読者に委ねられることが多いと考える所、ケースバイケースであると考えます。恐らく、骨林さんの仰るところは平時でない場合のことなのだと読みました。
    当然のことながら、「雲がわたがしのようだ」が主題の作品について「第二次世界大戦の実情を調べたうえで、その有様とのギャップを対照的にしながら作品を展開すべきだ」とコメントがつく場合、「筆者に読みが委ねられている」とかそんな常識のレベルで語っていい話でもないように思います。
    ある方から「批評とは、反論を想定した上で書かれるものだ」とお伺いしたことがございますが、まさしく、こちらの言葉が当てはまるのではないのであろうか、と感じ、付記致します。
    「カタコトの外国人でも、詩は書けるはずだ」とのお言葉に、詩における感性のウェイトの高さを思いました。勉強になります。

  6. 一足遅れた戦友さん、ありがとうございます。B-REVIEWにて活動していただきまして、陰ながら喜んでいたり、掲示板に流れてきた作品を拝読したりしております。ご迷惑など、とんでもないです。
    B-REVIEWでは返詩/連詩カルチャーを支持しておりまして、真摯とのお言葉は、その通りに思います。
    他方で「批評」かと問われると、私の主張での①②より、否定的な立場です。コメントというひとつの広いジャンルの中の、違う種類の分野であると考えております。

    >純に抱いたものだったら批判も不快を抱くものでさえ、批評になり得ると思います。
    >書き手が経済的に売れることを目的とするなら、一読者の快不快はマーケティング上重要な情報です。
    につきまして、非才ながら考えを申し上げたく存じます。
    はっきり申し上げますと、「この作品はダメだ」と言われれば、嫌であると考えられます。私もまた、「ダメだ」と評価されれば、嫌です。
    しかしながら、「嫌」だからいい作品を目指そう、といった感覚も同時に存在するものと思います(いかなる評があったとしても自分の作風を貫く、との考え方もございますが、主題からは外れてしまいますので失礼ながら割愛致します)。
    逆説的な展開になりますが、「嫌である」という感情こそが次なる創作の糧になるのであるとも考えられます。・・・・①

    話は変わりますが、B-REVIEW発足当初の現代詩投稿掲示板は、罵倒酷評どんどんござれ、的な思想が充満していたと耳にしていまして、B-REVIEWはそういった風潮へのアンチテーゼの側面があった、と記憶しております。
    ではなぜ「嫌」な罵倒酷評を否定したのかについて私がお伺いしたところは、「罵倒酷評」によって生まれる嫌な感情が筆者の創作意欲を削ぎ、また罵倒酷評とは無縁に作品を投稿できる自由が保証されてはいなかった、とのことです。・・・・②
    ①②を纏めますと、「嫌」であるという当たり前の感覚をプラスに作用させることも、批評のひとつの側面なのではないか、と考えた次第であります。
    >批評のアウトラインも決めるべきではありません。
    とのことですが、確かにそうなのかもしれません。私は批評が何なのかの己のルールを決めたうえで、そのやり方に沿って執筆に望まないと「これは批評ではない」というご指摘についてしっかり説明できないように思ったのですが、現在、あくまでそのルールは個人ベースに留まっているような感じがしております。再定義化、といえるほど大仰なものでもありませんが、この機会にぼんやりと「B-REVIEWにおける批評のスタンス」の輪郭を作る必要があるのでは?との考えでありました。それは「詩」に正解を求めるために行うのではなく、あくまで「言論の場」としての在り方を模索しているところによります。

  7. tOiLeTさん、お久しぶりです。復活なされたようで、安心しております。

    >『文脈を理解したうえで客観的に行うのが批評』というのが大前提な気がします。
    仰る通りと思います。私は詩以上に短歌や俳句についての造形は皆無ですので、批評などもってのほか、みたいに考えています。他方で、コメントは批評のみならずわりと幅広く開かれているように思います。
    私としては、文脈を相当理解していないと批評的なる文章を書くことは許されないのか?を考えると、そうではないような気がしております。皆無はまだしも、文学者レベルのインテリでないと批評は掛けないのかを考えるに、もっと風通しがよくあって然るべき、と考えます。
    映画批評などがネット上などで盛んに行われているのを目にしますが、映画の歴史から伝統から何からを隅まで知ったうえで書いているのか???といった疑問をぶつけてくる人っているのだろうか、いるとすれば、じゃあお前が書けや、となるのではないだろうか、といったことを不遜にも考えてしまいます。
    とはいえ、やはりそれなりの文脈を理解する必要性はやはりあるのではないか、とも思えますところ、私はややもすると、難解に考え込みすぎているような感じもします。

  8. 花緒さん、コメント頂きありがとうございます。

    >あまり難しいことを考えずとも、マナーガイドラインの意図するところを守っていれば、最低限まともな批評になると思います。
    とのお言葉、確かに仰る通りなのかもしれないと考えています。
    「難しいことを考えずとも」につきまして、私は天才詩人氏の「テクストと批評について」を拝読したことがきっかけでありました。(http://po-m.com/forum/myframe.php?hid=11361)
    こちらを参考にしますと、今まで文芸や美術などの一般に「高尚」と呼称される分野に対してのみ行われることであったが、今や漫画やアニメに代表されるサブカルチャーにも広く批評が展開されるに至ったという点、また批評の俎上に上がる作品や物事を総称して「テクスト」とし、批評を考察するという点が書かれてあります。天才詩人氏は言うまでもなくこちらのサイトの創設者でありますので、そのような方の語る「批評」、そしてB-REVIEWが目指すべき「批評」、を考えますに、ご意見をお求めしたかった次第であります。
    とはいえ、私は木を見て森を見ずみたいな思考回路であったような気がしております。「マナーガイドラインが浸透していないだけのことではないだろうか。」とのお言葉、真摯にお受け止め致します。

  9. 上で自分で書いたのを読んで気づきましたが、詩の文脈って『統括』されてるんでしょうかね?

    ●戦後とか前衛などからの流れ?はある程度語られてる気はします。

    ●『自由な形式』という前提があるゆえ現在は百花繚乱、さらにネット詩?が出てきて現状は統括不可能?

    ●結果、それぞれのスタイルや文脈が出来上がる。いわゆる細分化?

    〇荒れる時は『各々が、各々出来上がったルールや基準をぶつけ合う』
     それぞれのスタイルの微妙な差異が、荒れやすい原因になる?
     (それとマナー問題が絡む?)

    統括は無理なんでしょうが、渡辺八畳さんが某所で『数式のようなもの』で詩という形式を表現したのを見かけました。
    映像詩?も含めた現状では、するどい指摘(まさに客観的な)になってる気がします。

    ※ふじりゅうさん、お気遣いありがとうございます!
     最初の投稿で『大前提』と書いたのは固い印象になりすぎた気がして反省してます・・・
     統括できない以上、花緒さんが仰るように『マナー問題』に帰結する話なのかもしれませんね。

  10. 合評の場で読み手から発せられる物言いは大別して三種類になるかと。簡単に書いてみます。

    ①感想。ライトレスなどが当てはまる。批評について話している場ですが、感想を否定するものではありません。

    ②作品への指摘や評価
    言葉の誤用や、辻褄が合わない、使用している技法が意味を為していない、説明的であるなどなど。構造や技術、の分析などもそうでしょうか。これらを一定の価値基準に従って評する。そしてこれらを評する際には根拠を示した上で行うのがマナーガイドラインに沿ったまともな遣り方です。

    ③ 読み手が作品から何を感じたか。その作品が表現しようとするもの文学的な意図、と言えばいいでしょうか。ではそれを表現するためには自分であるならばこのように表現するだろう、と言うものです。俳優が舞台や映画を観て、私ならこのように演じる、と言うようなものではないか。そうしますと、時に読んだ作品を糧に批評はひとつの作品になるかと思います。

    専ら批評は③ではないかと思いますが、合評の場が作品を評してより良い作品を生むための場でもあるなら②も必要です。私自身、③が上手く出来ているかを問われたら怪しいものですが。後、ふじりゅうさんが言われる”快不快”は結果として生じることもあるでしょうが、上記したようにマナーガイドラインを遵守するなら大きな問題とはなり得ないかと考えます。

  11. あ、①の感想に追補しますと意味はわからないがいい!、理解が追いつかないが素晴らしい作品だという場合もあり得るので、それは感想に含まれますかね。

  12. 批評は一般的には、対象の長所と短所、優れているところと劣っているところなどを見極め、それを他者に理解できるように記述することだと認識しています。
    その上で私は、対象の魅力を引き出す批評を書いていきたいと思っています。
    詩人それぞれが自らの詩論をもっているように、人それぞれがその人ならではの批評論をもっていてもいいのではないでしょうか。

  13. tOiLeTさん、ありがとうございます。
    B-REVIEWには批評を書くことが絶対条件で求められるとは全く思いませんが、批評もまたB-REVIEWが目指すもののひとつではあるだろうと考えております。
    批評の見解も、詩の見解も、文章の見解も多種多様に存在するからこそ、多様な視点での評価が書きこまれたり、それについてのやり取りが活発であることが、B-REVIEWのベースラインであるのかもしれないと考えます。再度のご返信ありがとうございます。

  14. 帆場さん、ありがとうございます。
    大別しますと、仰る通りの3パターンになると存じます。批評について広辞苑では「物事の善悪・美醜・是非などについて評価し論ずること。」とあり、論である以上、論理的であり議論の俎上にあげられる事を最低限押さえておくべきであると理解していますが、高度なレベルになると批評そのものが作品として成立するのかもしれませんね。
    運営で長く議論となっている「推薦文の推進」につきまして、推薦文は批評というよりかは、どちらかというとレビューに近い(英語でレビューは「批評」ですが、日本語において批評とレビューは微妙に違う意味があるような気がしております)と考えております。特に推薦文においては、推薦文そのものもまた作品として見られてもおかしくはない、などと、理解しております。

  15. 沙一さん、ありがとうございます。
    そうですね、批評を書く段にあって、どのタイプの批評を目指すのかということもまた人それぞれですし、タイプごとの考え方があってもいいのかもしれません。一言に批評とかいっても、中々難しいと感じる今日この頃です。
    ご回答ありがとうございます。

  16. 「批評」という言葉の持つ印象がありますし、よりよいあり方を探るのは難しいことですね。
    先日から参加させていただきました。
    この「B-REVIEW」という場においては読む、既読を付ける、そしてコメントする。
    その時点ですでに何らかの価値判断をしているというメッセージとなるというところが非常に面白いと感じます。
    コメントの内容についてはこれは何もコメントに限ったことでもないですが私自身は実生活においても「人の批判」をすることがあまり好きではありません。
    本来はその人と対決しなくてはならなくなる行為だからです。
    そこから生まれるやり取りにはまるで「ディベート大会」のような白々しさを感じたりもいたします。
    相手のことを尊重しよりよい「場」を作り出せるように心を尽くせば自然といいコメントになるでしょうし、それが「批評」としていいものだと他者から評価してもらえるものであればとても幸せなことですね。
    まとまらないままつらつらと書いてしまい失礼いたしました。
    最後までお読みいただきありがとうございます。

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