同じ日本語を使っていても、本当はそれぞれ違うリズム、音韻のなかで暮らしていることに今更ながらに気づきました。

私の片親は西の出身ですが(あえて地方はぼかします)、私はずっと東京弁で生活してきたため、この違いが何を意味するか、特に詩作においてどれだけ大きな違いを産むか、今考えればよく分かります。

私の親戚の西の言葉をどれだけ真似しても「全然違う」といわれます。自分では全然違うだろうな、っていうイントネーションやアクセントで真似すると時々「うまくいえてる」といってくれます。

要するに聞こえている世界が違います。私には聞き分けられない違いを私の親戚や祖父母は間違いなく聞き分けています。私には見えない言葉の色や温度がみえているのだと思います。

ビーレビ参加者もおそらく日本のあちらこちらにいらっしゃることと思います。そしてそれぞれ、自分が育った、あるいは自分が使っている日本語の音韻やリズム、アクセントが必ずあって、それはそれぞれ違うということです。

では、そのような状況において例えば作品の音韻やアクセントやリズムについて果たして建設的な合評って成り立つんでしょうか?

私はstereotype2085さんの作品に対して、主に言葉の調和がとれていない、といった苛烈な批判をしてしまいましたが、もしかしたら非常に見当外れな指摘をしてしまったのかもしれないと今更ながらに非常に重たい気持ちに襲われています。

stereotype2085さんにはstereotype2085さんの言葉の音韻の世界があるはずで、ツイキャスをお聞きする限り、それは私が話している日本語のそれとは違うものです。

ある文章が私にとっては平易で退屈でも、まったく別の音韻の世界を持った方々からしてみれば非常に色彩に飛んだ文章であるということがあるかもしれない。あるいは逆にある人にとって非常にくどい文章が、別の人にとってはそれくらいクドくしないと狙ったリズムが発生しないのかもしれない。

脳内再生されるときのアクセントやイントネーションは人によってかなりバラバラです、おそらく。そうなると、ある人にとって調和がとれていたものが別の人にとってはまったくバラバラに感じられたり、またその逆だったりする。

ビーレビの点数項目に「音韻」という項目があり、詩において音韻は非常に重要な位置をしめているのだと思いますが、果たして音韻や言葉の調和、リズムやアクセントの話ってもはや合評することが不可能なのではないか?と今鋭く感じています。

まず、この点を念頭にいれずに苛烈な批判をしてしまったことについて、stereotype2085さんには深くお詫びしたい次第です。

同時に音韻に限らず、詩の合評って果たして可能なのかどうか、考える必要がある気がします。
それぞれの見えている景色が違う、感受性もそれぞれかなりの幅をもって多彩に共存している、という状況のなかで建設的な批判というのはやはり成り立たないのではないか、と本気で悩んでいます。

survof は理屈っぽいし、絶対面倒臭そうだから遠慮しておこう(面倒なのは本当です)、ということであれば、コメントに残さずとも、こんなこといってたバカがどこかにいたな〜っていつか思い出してください、笑。

もし可能ならご意見いただけるととても嬉しいです。

「合評の不可能性について(とくに音韻をめぐって)」に10件のコメントがあります
  1. 別案件でフォーラムを執筆しておりますが、基本的にコメントフォームにおいては、作品に対して「自分が」思ったこと、例えば自分ならこうするだろう、とか、自分的にはここが問題点だと思うとか、そのような主観的なコメントで全く問題ないのではないかと考えています。勿論、そこに余りに苛烈な批判的文面が書かれていたり、「ダメだと思った。国語力が単純に足りてない作品という批判しか思い浮かばない。」などの理由とかがよくわからんコメントはダメですが、それ以外であれば主観的な意見を投げて、それによって白熱した議論が展開されていいんじゃないでしょうか。
    音韻も個人個人によって違うのは重々承知ですが、本当に個人個人で全く違う詩の感性を持っていて、評価がバラバラだから合評なんてやりようがないのが詩の世界なら、詩が上手いとか、下手とか、そんなものもないんじゃないかと思います。もし上手い下手が詩にも存在するのであれば、主観的な視点でもって議論を展開することに何の問題がありましょうや、と考えてます。ひとまず以上です。

  2. ふじりゅうさん
    コメントありがとうございます。

    >本当に個人個人で全く違う詩の感性を持っていて、評価がバラバラだから合評なんてやりようがないのが詩の世界なら、詩が上手いとか、下手とか、そんなものもないんじゃないかと思います。

    そうなんですよ。私は、もう、詩が上手いとか、下手とか、そんなものいえないのではないか、って結論をだしつつあります。あるとしたら自分にとって上手いか、下手か、があるのみで。

    もし、そうだとしたら、個人的な「上手いか、下手か」は「好み」に還元されてしまう。

    私は若干極論に走っているようなところがありますが、「好み」の問題であれば議論はやはり不毛なものなのではないか、という気持ちが消えません。

  3. survofさん、ご返信ありがとうございます。
    そもそも芸術は理屈によって、ここが良い、ここが悪い、とするやり方もありますが、結局なんで芸術に理論的観点が生まれるのかと言えば、最大多数の方々の琴線に触れる、最大多数の方々が「好み」と言って貰えるためにどう芸術を構築すれば良いのか、そこが重要だ。そんな理論を仮定とします。
    そうであれば最大多数の方々が「好み」という作品こそが「上手い」と言えるのかもしれんとも言えます。
    ただ、「好みとは言えないけど非常に上手いと思う」こんな感想もありえます。
    とすると、「好み」と「上手い」は別々という図式が成り立つ為、仮定は棄却されるでしょう。

    では、何が言いたいのか。「心の琴線に触れる」事と「好み」は別々であるんじゃないかな、と、また仮定を立てます。
    「心の琴線に触れる」の意味は「良いものや、素晴らしいものに触れて感銘を受けること。」なので、つまり
    〈感銘を受けるが、好みではない〉という図式です。
    で。
    感銘を受けるのは万人に共通の価値観で、素晴らしいものを書けば感銘を受けることは普遍的に可能。
    好みは個人個人がもつ価値観であり、感銘を受けはするもののどうしても好みではない作品もありえる。

    この図式ならどうでしょう。

    では、好みを合評に反映させることに意味は無いのか。

    分かりません!
    が、たぶん意味はあるんじゃないかな、と考えています。好みは全ての人民が全く違うベクトルをもつバラバラな方向のものではなく、ある程度パターンというか、好みの方向って何億も別々に種類がある訳じゃない気がします。であれば、そのような「主観」を伝えることが全く意味が無いか、と言われると、意味はあると考えることは出来そうです。
    また、琴線に触れる為にはこうすればいいんじゃないか、的なコメントもまた意義があるのではないでしょうか。詩を書いていると、このように書けば良いんだな、的な理論みたいなものが段々出来てくると思います。それを伝えることに、意味は無いとは流石に言えないんじゃないか、とも思います。それが全くもって主観的な、個人的な考えであっても、基本的には他者の詩作に対する理屈や、それに基づく欠点を議論することは十分価値があるのではないでしょうか。

  4. ふじりゅうさん
    なるほど!そっか、琴線か・・・。たしかに。琴線ってことについてはあまり考えてなかったですね。「琴線に触れる技術」ってことで考えるとなんか意義が見つけられるかもしれません。ちょっとじっくり考えてみます。ありがとうございます!

  5. survofさんへ。こんばんは。まずはお詫びする必要などありませんよ、というのが一点。あれほど熱く盛り上がり、最後はスリリングな推理と種明かしにまで至った議論。そのきっかけであるsurvofさんの批評は、私にとってとても刺激的なものでした。survofさんの批評は、詩の一語一句に込めた意味、ドラマ性、そしてそれらを配置する意味について私を大いに考えさせました。それらの思索は次回作に早速反映されることでしょう。あの作品におけるやり取りは、一言で言って意義あるものだったのです。

    次に二点目。人はそれぞれの音韻の世界で生きている。だから一概にこれは良い、あれはダメとは言えないのではないかという指摘。そしてそこからの合評の不可能性への言及。とても興味深いものです。私の考えは、survofさんとの対話で出てきた客観性という言葉を借りるならば、人は客観性を限りなく持ち得ることが出来るが主観からは完璧には抜けられない、というものです。つまり合評とは客観性に限りなく近いであろう主観を用いてやり取りするしかないということです。ですがそれを否定したり悲観しても始まらないとも思うのです。ゆえに合評は危うい論理と後ろ盾で成り立っているがやってみるしかない。そう挑戦的にも考えるのです。とりあえず楽観視して行きましょう。

    ちょっと堅苦しい文章になってしまったので路線変更。私の好きな先輩で「詩の批評、批判のしあい?しようもない。そんなの出来るの?自分でイイと思ってるんだからそれでイイじゃない」と仰った方がいるのですが、私は前後倒錯するようですが、実はこの考え方が好きなのです。いや実際書いた人がイイと思っていて、少数の支持者がいる。詩の世界とは、創作の世界とはそれで充分だとも一面思っています。しかし折角これほどの書き手たちが集まるコミュニティがあるのだから、それでは勿体ない。詩書きや物書きが集合意識のようなものを持っていると仮定すると、各人の役割は違えどある一定のゴールへその集合意識は向かっているはずです。そこでみなが知恵を出し合いより一層そのゴールへ効率よくスピーディに達するための「合評」をしていく。そんな考え方も出来るのではないのでしょうか。合評とは誰も目に見えず、誰も手に触れられない集合意識の、みなの舵取り。そう定義すると論理では説明出来ない部分にも手が届くように思います。まあつまりはそんなロマンティシズムめいたことも考えて依然としてやっていきましょう!という結論です。良いものを最大限褒め、良くないもののどこが良くないのか考える、そんなシンプルな考えでいいのではないでしょうか。

    長くなりましたがsurvofさんにこのようなスレッドを立てていただいたことに感謝します。それでは良い夜を。

  6. 議論も終息してきた頃に恐縮ですが、私も詩の合評には賛成で、stereotype2085さんの意見におおむね同意します。

    ・評価と主観のこと
    哲学の議論を否定するつもりは毛頭ありませんが、主観を一切廃した議論の多くは自明なものになりかねないと思います。(たとえば文字数のような。)むしろ主観的な評価軸で意見が分かれる部分ほど示唆に富むような気がしています。

    ・合評を肯定する道具的な理由1
    好みの問題が議論をしばしば不毛なものにすることは理解できますが、好みの問題にも人にとって本質的に大切なことがたくさんある気がしています。詩の究極を理解するかわりに、せめて大多数にとっての詩の合意を追求するというのは、良いことだと思います。

    ・合評を肯定する道具的な理由2
    場合によっては、評価に理由は不必要だと思います。なんとなく良い、なんかダメ、という感性には理由が存在しないか、あったとしても遠い祖先が海の底で刻み込まれた恐怖心に由来するかもしれません。しかしながら、懸命に言語化することは重要だと思います。また、「なんかダメ」は教えられなくても理解しやすいので、合評に理由が求められるということには賛成です。このとき「なんかダメ」をよりよく理解する上で、「数字が伸びない」は参考になります。

    ・道具的な観点から評価する上で気になること
    死ぬほど議論されたことだと思うので今になって蒸し返すようなら大変申し訳ないのですが、現在の数値による評価方法にはあまり賛成しません。誰が何点入れても良いというのは確かに評価に掛かる心理的なハードルを下げているとは思いますが、結果的に数字をほとんど理解不能なものにしているような気がします。Amazonレビューの星の数のように、目安程度のものは提案されていたほうが良いように思います。これは詩の合評そのものに関する議論ではありませんが、詩の合評を機能的な側面から肯定する際には、読み取り誤差に関しても一定の注意を払う必要があると感じています。

    ここからは単なる感想なのですが、実験的に投稿される各詩について議論するとともに、「詩とはこうあるべきだ」とお考えの方がいる場合に、それを共有できる場があれば良いなと思いました。(ここがそうかもしれませんが……。)運営様は大変お忙しくされていると思うので、これは無責任な発言かもしれませんが、酷評レビューを見かけるたびに、その人がどういう思想的な背景でそう判断されたのかをより良く知りたいと感じます。各人が個別の詩からなにか詩に関する抽象的な理論を得たと感じたときに、その正当性を評価し合うことができたら面白いと思います。そういった方向へ発展することも考えると、詩の合評を試みるのは良いことだと思います。

  7. stereotype2085さん
    コメントありがとうございます!

    「客観性に限りなく近いであろう主観」っておそらく「現代詩」の文脈(とそレに対する各自の解釈)っていうことになると思うんですよ。ただ、私も含め現代詩の文脈に通じている参加者はあまり多くはない印象なので、悩めるところです。
    (現代詩の歴史を「文脈」として扱っていいのかどうか、私は現代詩の浅すぎる歴史と、現代詩読者の層の浅さを考えてしまうと、甚だ心もとない気持ちですが・・・)

    そうなると、やはり後半にご指摘してくださった「主観」に寄った合評というところに行き着くのかもしれません。

    が、「集合意識」や「各人の役割は違えどある一定のゴールへその集合意識は向かっているはず」というご意見に対しては全く賛成できないですし、むしろ嫌悪感さえ覚えます。

    すみません。こんな感じでやはり真面目に考えようとするとやっぱり喧嘩売りたくなるんです ^^;

    もう少し自分のなかで熟成される必要があるのかもしれません

  8. いすきさん

    「主観的な評価軸で意見が分かれる部分ほど示唆に富むような気がしています。」とのご意見には確かに一抹の「真理」があるように感じます。
    あるいはそうした主観的評価によって投稿作品が分野分けされていくような感覚っていうのを私は感じていて、それを非常に興味深く感じています。
    つまり感受性や好みの近い遠い、がはっきりしてくるという現象が面白い、ということ同時に、それが遠い作者同士で好意的な評価がかわされた場合、その作品には何かしらの普遍的な「よさ」があるということになるのかもしれなくて、つまりその両方の現象がみれるのが掲示板のよさかもしれませんね。

    少し考えるヒント与えていただいたような気がします。コメントありがとうございました!

  9. 追記:
    あるいは逆に感受性や好みの近い人同士での率直な、時には批判的な意見というものはそれなりの建設性があるように思って居ます。

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