初めて、ビーレビューの存在を知ったのは大学生の頃だった。サークルの先輩が、私の描いた雨の絵を使って詩を書いてくれた。その投稿先がビーレビューだった。 当時の私は、まだ詩を書く人間ではなかった。ただ、画面の向こうに流れていく言葉たちを眺めながら、「こんな場所があるんだ」と不思議な気持ちでスクロールしていたのを覚えている。
詩を書き、誰かがそれを読み、また別の誰かが応答する。
そのやり取りは、私にとって新鮮だった。文学というと、もっと閉じられたもの、ひとりで抱え込むものだと思っていたからだ。けれど、ビーレビューには、言葉を介して誰かと繋がろうとする熱があった。
それから時が経ち、気づけば私は、その場所の運営に関わるようになっていた。
ネットの中に存在する無数のサイトのひとつだったはずのビーレビューは、いつの間にか、私にとって「帰ってこられる場所」になっていた。
顔も本名も知らない人たちと、詩を通してなら会話ができた。
普段の生活では上手く言葉にできない感情も、詩の形を借りれば、不思議と誰かに手渡すことができた。そこには、上手く生きられるかどうかではなく、「どんな言葉を持っているか」が存在していた気がする。
会話のひとつの手段として詩があり、そのための場としてビーレビューがあった。
私は、ビーレビューの長い歴史や、それまでにあった出来事をリアルタイムでは知らない世代だった。
だからこそ、ツイキャスで語られる思い出や、検索によって辿り着く過去の記録を通して、この場所にどれほど多くの人が関わってきたのかを少しずつ知っていった。詩を書いた人、批評をした人、傷ついた人、去っていった人、戻ってきた人。その積み重なりの上に、今のビーレビューがあるのだと思う。
その中で、私はVTuberとして配信を行い、詩や文学について発信する機会を得た。
ネットの匿名性と、VTuberという存在の曖昧さは、どこか詩と似ている。姿形を固定しないまま、それでも確かに「誰か」がそこにいる。ビーレビューという場があったからこそ、私は言葉を発する側としても存在することができたのだと思う。
それは、何事にも代えがたい経験であり、大切な思い出になっている。
ビーレビューがアーカイブ化されることで、そこに投稿された作品たちは、これからもネットの海に残り続けるのだろう。
流れては消えていくインターネットの中で、言葉が残るということには、きっと意味がある。誰かが深夜に書いた詩も、誰かを救えなかった批評も、衝動のまま投稿された一行も、その時代を確かに生きていた証として残っていく。
そして、いつか誰かが、そのアーカイブの片隅で一篇の詩に出会い、「こんな場所があったんだ」と思うかもしれない。
かつての私がそうだったように。
ビーレビューという場所が、多くの人の言葉を受け止めたひとつの終着点として、静かに残り続けてくれたらいいなと思っている。

海は、出会う度にちがう顔を見せる

きみと行ったとき、あの人たちと行ったとき
ひとりで行ったとき
囁いたり、寄り添ったり、荒れ狂っていたり

昔の人は、海の向こうにあの世があると考えていたらしい
ニライカナイ
私も、つぅっと目を細めてはるか向こうを見る
そこには
悲しみと、憎しみと、寂しさが
浮かんでいた

けれど波は
それらを責めることもなく
ただ何度も砂浜へ運び
白い泡に変えてゆく

制服の裾を濡らした少女は
貝殻みたいな沈黙を拾い集めながら
「海は全部知ってるね」
と、小さく笑った

夕暮れの防波堤には
オレンジ色の光がゆっくり滲んで
遠く、フェリーの汽笛が鳴る
帰る場所を持つものたちの音だ

私はまだ
どこへ帰ればいいのか分からなくて
潮風に髪を乱されながら
サンダルの先で波を崩していた

青すぎる海だった

泣いてしまえば
そのまま溶けて消えてしまえそうなくらい

少女は突然
空に向かって両手を広げる
まるでニライカナイから吹く風を
抱きしめようとするみたいに

その背中は細く
壊れてしまいそうなのに
どうしてか
島影よりも強く見えた

夜になるころ
海はまた別の顔を見せる
昼間に言えなかった秘密たちを

静かな波音で隠しながら
月明かりの下
誰にも見つからないように

私たちをそっと抱いていた