B-REVIEWにおける詩の投稿数は、「作品の投稿は各自1ヶ月あたり2回までとする」とされていますが、それを増やして下さいますことを希望します。私が言うのは何とも憚るところですが、投稿数を2回に制限されているのは、B-REVIEWの品位、質を保つためかと思います。ただ、4本までであれば、それも可能であり、一層の活性化にもつながるかと思います。運営にてご検討頂けると幸いです。

「詩の投稿数について」に13件のコメントがあります
  1. 却下。2本でも多すぎるくらいだよ。
    そんなに自分の作品載せたいなら、別のところ行けば?

  2. 「通りすがり」と同じ方かな?

    >2本でも多すぎるくらいだよ。
    私の場合に、2本でも多すぎると言う意味ですか?

    ここでコメントする前に、まずは、ご自身の作品を投稿されてはいかがですか?

  3. 私は、1ヶ月に二作の現状のままで良いという意見です。理由は、ふたつです。

    ひとつは、多くの人の作品が読まれるためには ひとりあたまの作品数は、少ない方が良い。

    ふたつめは、どうしても 作品数を増やしたいのであれば、オムニバス作品として複数の作品を、一つの作品として 投稿すれば良い。

    オムニバス形式であれば、枠自体は ひとつなので、他の投稿者の作品も目に止まることを阻害しない。

  4. 私は、1ヶ月に二作の現状のままで良いという意見です。理由は、ふたつです。

    ひとつは、多くの人の作品が読まれるためには ひとりあたまの作品数は、少ない方が良い。

    ふたつめは、どうしても 作品数を増やしたいのであれば、オムニバス作品として複数の作品を、一つの作品として 投稿すれば良い。

    オムニバス形式であれば、枠自体は ひとつなので、他の投稿者の作品も目に止まることを阻害しない。

  5. ‪運営の渡辺八畳です。‬
    ‪現状では月の投稿数を増やすのは難しいと考えております。‬
    ‪理由はやはり、作品数の増加により作品ごとのコメント数が減ってしまうからです。‬
    ‪きちんとしたデータではありませんが、ビーレビ開始から半年ほどの頃は平均して一作あたり10のコメントがついていました。もちろん返信付きの数字ではありますが、それでも4、5人からはコメントを寄せられていたことになります。‬
    ‪対して現在はまったくコメントがつけられずにログに流れてしまう作品も多く、コメントがついても1件2件がほとんどです。‬
    ‪開始直後と現在ではユーザーの傾向や人数に大きな違いはあるといえど、この差はビーレビが持つ訴求力にも影響を及ぼしているのは明確です。詩人とはわがままなもので、他者の詩はあまり読まないのに自作品には読んでくれを繰り返す方が多い(いわゆるフリーライダー)。‬
    ‪もし無制限に月4作まで解放したらフリーライダーによるビーレビへの影響はさらに大きくなり、ビーレビは「投稿しても読まれない場所」となってしまうでしょう。‬

    ‪投稿数に関しては前々より考えておりまして、案として現在一番良いと思っているのは「コメント数に応じて3作目を解放」です。2作までは今まで通り無制限に投稿でき、追加の1作は過去の一定期間中に◯作以上に合計▲▲▲▲字以上コメントを書いた人に限り解放される。つまりボーナスです。賞罰より褒賞によって人を動かしたほうがいいですからね。さらにコメントをすれば4作5作を解放しても良いでしょう。‬

    ‪ただこれを実装するにしても資金やSEなどリソースが圧倒的に不足しているのが現状です。ボランティアでシステム構築をしてくれるSEを紹介してくれるなど、ユーザーの皆様にもご協力願いたいです。‬

  6. るるりらさん

    私も投稿数を増やした場合の問題点について考えてみました。
    ・様々な事情により寡作である方はおられるのであり、そうした方の作品が読まれなくなる可能性がある。
    ・初めて投稿しようとする方に心理的な圧迫を与えるかもしれず、結果的にB-REVIEW参加における敷居が高くなる。
    ・ビーレビの寡占化につながりかねない。
    こうした点から考えますと、投稿数増加は副作用が大きいようですので、私の希望は撤回させて頂きます。

    >ふたつめは、どうしても 作品数を増やしたいのであれば、オムニバス作品として複数の作品を、一つの作品として 投稿すれば良い。
    ご提案、有難う御座います。
    ただ、私自身の性格上の懸念から、現時点ではオムニバス作品としての投稿は控えておこうと思います。

    渡辺八畳さん

    ビーレビ開始から現在に至る経緯がよくわかりました。
    投稿数増加はビーレビ不活性化への危険性が高いようですので、上記に書きました通り、私の希望は撤回させて頂きます。

    >投稿数に関しては前々より考えておりまして、案として現在一番良いと思っているのは「コメント数に応じて3作目を解放」です。
    ビーレビのシステム構造がわかりませんので、あくまで推測ですが、案を実装するためにはユーザ単位の履歴管理を要し、
    そのデータ量は無制限に増えてゆき、かつ、レスポンス時間それに比例して悪化し続けます。
    また、履歴の保管場所も必要ですね。
    こうしたことを、きちんと見積もりしてシステム化することは、ボランティアではかなり困難だろうと思います。

  7. 詩について考えるたびに、いちいちスレッドを立てることは望ましくないので、あえてここに書きます。
    タイトルと内容が一致しませんが、ご容赦下さい。

    ・「電子レンジ」、「カップ麺」などの時代、地域に縛られる言葉、固有名詞の使用は望ましくない。
     あらゆる地域、時代に通用する普遍的な言葉を使用すべきである。
    ・高踏で抽象的な内容から突然、即物的、現実的、下品な内容に移ると詩が壊れる。
     詩の最初から最後まで調子の一貫性が必要だ。
    ・言葉の対を複数並べてそれを段落とする場合、その対の間の距離は均等でないと不自然な印象を与えるだろう。

  8. スゴい詩、現代詩の最先端と絶賛されている谷岡俊太郎「二十億光年の孤独」、大岡信「夏のおもひに」、吉増剛造「燃えるモーツァルトの手を」を、インターネット上で読みましたが、私には唯の駄作、日本の狭い世間で独自進化を遂げた島国文学としか感じられず、どこがいいのかさっぱりわかりませんでした。

  9. ・平凡人に合理的に考えるようにと教えると、とんでもない惨劇を起こす危険性がある。
    ・「馬鹿は死ななければ治らない」とすれば、戦争は最も有効な馬鹿の治療法だ。
     その中でも日本の特攻隊は画期的な試みと言える。
     集団と同じように考え、行動することしか出来ない人間にとって、
     世間から異質と見られるくらいなら死んだ方がましだったのだろう。
     もちろん、その死は「自己責任」であり、同情の余地は全くない。
     ただ、結果的に下らない人間が減ったことについては良かったと思う。

  10. タカンタ様ヘ。
    唐突ですが、はじめまして。
    先ず、主題より甚だしく逸脱をしてしまいます事を、ご容赦ください。

    飽く迄、私見ではございますが。
    下らない人間、など、一人として存在しませんよ。

    全く論点がずれてしまいますけれども、
    戦前の様な硝煙の匂いを、危うくも覚える昨今の私の妄想などを、認めさせて頂きます事を、どうかお許しください。

    私には、戦前-戦中の若者達と、現在の若者達には類似点があると、感じられるのでございます。
    それは孰れにも、過剰な同調圧力の前に、屈服せざるを得ない社会現実が、
    知らぬ間に――蔓延している様に思われる、ということでございます。

    暫し、お付き合い下さると嬉しく存じますが、
    現代を生きる若者たちに附きまして、思う処などをつらつらと。

    唯、彼等は状況や情報の海に溺れ乍ら、自分が誰であるかを見失っているだけの様に、私には思えます。
    縦糸を喪失してしまった私達の、短く長い「戦後」という時間のなかで、
    育むべきものを放棄してしまった私達への結果が、
    この際限なき相互無理解の荒地を作り出してしまったのではないでしょうか。

    そして、‘育むべきものを放棄してしまった私達’は、
    個と個へ区分、断絶された「自己責任社会」と言う――允に愚かな優劣、極端をしか創造し得ない――、
    常識という名の怪物、 
    に知らぬ間に同調をする様に 強要 を促され、結果、いつの間にか群衆をそこへ向わしめるがごとき
    「何某かのアジテート」を、靴音硬く、闊歩せしめるを許す起因となっているのではないでしょうか。

    今、私達に必要なものは、この様な文章の遣り取りではなく、
    血の通った肉声、そして人間を考え、人間を育み宥め、ときには衝突し合い、
    その様な、孤独を接ぎ合い――とても有触れて、陳腐かも知れない――「縁‐関係」を培うことなのではないでしょうか。

    きっと、
    心より愛されて育った子供は、屹度誰かを愛し得ることができるでしょうから。

    それでは、長々と、失礼を致しました。

  11. カップ麺だろうが、電子レンジだろうがコンドームだろうが、10円玉だろうが突き詰めていけば普遍的な詩は書けるでしょうに。詩を縛って窮屈にしてもいいことはないでしょう。

    前に書かれていたタカンタさんの現代詩に”私”の視点が多過ぎるというのはわからないではありませんが、例え個人的な体験であれ突き詰めて俯瞰的に言葉にしていけるのであれば普遍的なものを描けると思います。何あれ、持論を展開することは悪くはないですが安易に他者の作品を否定しても、得るものは少ないのではないかと思います。

    個人的にはタカンタさんの作品は好みではあるので、作品は楽しみにしています。

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