おはようございます。みなさんいかがお過ごしでしょうか。私なんかは、明日、将棋のボランテァがあるのに関わらず寝ておりません。アホですね。さて、みなさんは、貴音さんが巻き起こしたと私は認識してるのですが、昨今の批評ブーム、ビーレビないにおける、その幼稚性について、いかが思われるでしょうか。私なんぞ、三作これまで推薦文を投稿しましたが、ダメだと自分で思います。そして、みなさまの批評文を拝しますに、まともな批評文を投稿してらっしゃるかたは、1人もいないように見受けられます。まともなんて言葉を使う日が来るなんて!私の一番嫌いな言葉!

みなさまは、批評について、如何お考えでしょうか。小林秀雄の本を私なんかは一冊買ったことがあります。一行も読みませんでした。一行は読んだかな、どうだったけ……。
みなさまは、インターネットそのものが、現実に対する批判、もとい批評になっていることに気づいておられますでしょうか。 その上で、詩=現実と仮定いたしますと、現実を虚構により構築する愚挙を行なっていることに気づかれると思います。昨今蔓延る、思想の乱れ、意識の乱れ、罪や穢れを払拭するには、意識の根本から見直し、みなさまのさんの批評性を導き出さなければいけません。しかし、わたしなんかは、無力、無力。これまで経過を辿るキャスが、ついこの間は、鶏の旭日旗を基盤として形成された、素晴らしき批評性を伴う画像を使っておられました。運営の方々の英断に、萎縮いたします。
さて、みなさは、これまで、ビーレビという空間をどのように次元化し、意識して、内奥より引き摺ってこられた、詩の創作意欲を掻き乱されることなく、邁進しておられたと思います。しかし、現実の社会情勢を鑑みれば、詩など書いてなんの意味があるのだろうと、不審な気持ちを抱く方も増えていることでしょう。ここで、私が提言したいのは、絵画による批評でございます。現在、詩を文章により表することが、一般的です。しかしそれは、言葉に言葉で対峙するという、ある種の矛盾を孕んでいる。きわめて、異質な出来事として、絵画を、そこにぶっこみたい。わたくしはそう考えるのです。わたくしなんぞは、絵も彫刻も、うまくいきませんが、どなたか有志の方が、我こそは!とやっていただきたいものです。他力本願なしがない主張でございますが、耳の片側、からもう片方は通過することなく、どうか、胸の内にしまっておきたいと、思っていただければ幸いです。

「批評について。」に4件のコメントがあります
  1. 柳煙さん、こんにちは!
    興味をそそられる、新しい批評スタイル!? と感じましたが、詩の批評と絵画とを、どのように繋ぐのでしょうか?

    よろしければ、詳しく、例えばどんな感じなのか、イメージしたく、おしえていただければありがたいです。

    将棋ボランティアが、終わってからでも、いつでも。
    ゆめの

  2. ゆめのさんおはようござぃす。今日は、ボランティアを休まず行こうと思います。絵による批評についてですが人間の情緒に関するなんらかの議題を模倣することによって、肉体の美を描き出すような、慣例性を持たせた真空の虚構を突破する、破滅的な意味を求めております。

  3. りゅうえんさんが何を言ってるか全く分からなかった。でも、やっぱり自分はぜんぜんだめだ、もっと頑張らないとだめだ、もっといい批評文を書けるようになりたい、もっとポエムがうまくなりたいと思いました。

    私は自分のことが本当にきらい。だってめっちゃ馬鹿だしポエムはゴミ、あと毎日ゲームしかしてない。

    が、この方向に間違いはない、と思えることは存在する。私はその方向に向かって進まなければならない。

  4. 文章力ないから難しいよなぁ(私の文のこと)
    ゲーム飽きて、詩かけばいいし、そんなに気にしなくてもいいっぽい。いすきさんなんて、批評文書けそうだけどなぁ。無理せずコツコツやればいつかはなひらきますよ。

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