日ごろからB-Reviewをご愛顧いただきありがとうございます。
この度はたくさんのご応募ありがとうございました。
びーれびしろねこ社賞、受賞作品の発表を行います。

なお、今回は良作が多かったということで、しろねこ社さんのご厚意により、大賞と優秀賞が2作品ずつに与えられます。

また、より多くの作品を評価したい、という審査員お二人の思いから、特別賞を設けました!特に賞品はありませんが、選評をお届けします。

それでは皆さん、メリークリスマス!

受賞作品

大賞

「食いちがう」向坂くじら
「バナナの足裏」草野理恵子

優秀賞

「ぼくたちはワンマイルウェアのままどこへ行こうというのだろう」 よしおかさくら
「みらいゆき」眞島脈搏

特別賞

「うちの娘」 蛾兆ボルカ
「接名」 なかたつ
「Public poet」 水上耀
「伝説と歌、あるいは「ふたたび殺戮の時代」の余白に」 原口昇平  
「わたしは海へ行った」 武田地球
「2021/11/27/14:00〜20:00グループホーム勤務」小朝うろたん
「弔い」 楽子
「孫」 yasu.na
「人工呼吸」 杉本 順
「https://www.youtube.com/watch?v=kqm-84TF9MQ」 cold fish
「星の星」 田邊容

選評

「食いちがう」向坂くじら

詩や絵など芸術作品に対峙する時に、僕が一番重要視するのは、作品を咀嚼した後に「引っかかる」ものがあるか、ないかである。この「引っかかり」は余韻として残る場合もあるし、思考という深い迷路に入り込む場合もある。

もしそれが本なら、何度も繰り返し頁を開いてしまう、という行為にもなる。

実数170もの応募投稿詩の中で最も僕がその「引っかかり」を覚えた作品がこの向坂くじらさんの「食いちがう」だ。

社会学者ウルリヒ・ベックは「リスク社会論」において、チェリノブイリ以降現代社会は「他者の終焉」であり、人間同士が相互に距離を保てるように高度に発達してきた社会の終焉であると言う。

他者と自己の壁が崩れた時に我々は何を為すべきか。いや、何も為せないと僕は思う。僕達に出来ることは、ただの「受容」だ。

向坂さんの「食いちがう」は、一見すると「わたし」の変容を「受容」する、あるいは「受容を拒む」という、自己と他者(男)の関係のように見える。が、「他者の終焉」の現代社会において、この詩は主客がともに入れ替わっても成り立つまさに象徴的な詩だと思う。

次々と喰らっていく「わたし」。男は腐った肉を喰らう「わたし」を怖れ懇願する。

「くさっている

 というほどではないのだ

 多少色がくすんでいるだけで

 男はなにを怖れているのだろう」

僕達は嫌悪するものでも、醜悪なものでも場合によっては「受容」せざるを得ない。

また「受容」し「変容」した「わたし」も男は「受容」せざるを得なくなってくる。

なぜなら、「わたし」も「男」もどちらも「わたし」なのだ。

詩の中ほどで主客が混同し同一化して、主語が「わたしたち」へと変わる。

「わたしたちの舌は食いちがって

 なにもわかってはいなかった」

さらに「わたし」は喰らう。後半部「男」に象徴される喰らわざるを得ない世の中の、「受容」すべき現代社会の「生きる」という定義の全てを。

「太ももを胸を尻を背中を食べる

 くちびるを舌を言葉を食べる」

生きるということはそういうことだ。

「わかるか

 これが

 わかるか」

それは哀しみか、諦めか。

物凄く将来を感じるエネルギーでした。向坂さん、おめでとうございます。

選評 しろねこ社主宰 Painter kuro

「バナナの足裏」草野理恵子

今回、審査に当たり目安として、一つの詩に5つの分野に分けて討議を重ねていった。その5分野でまんべんなく高評価を得たのが、草野さんの詩である。もう一つ投稿された詩「剃り残しの髭」を例えば大賞としても問題なかった。

詩としての体裁が美しく整っているのだ。

難しい言葉を使っているわけではない。複雑なレトリックで読者を煙に巻くわけでもない。

しかし、その詩を読むとまるでアート作品を鑑賞しているかのような不思議な感覚を覚える。

本作「バナナの足裏」はまさにタイトルから、そのことを体現している。

「バナナの足裏」というタイトルは、バナナ、足裏という日常的な言葉を規格外に繋げることにより、非日常になりアートになる。

これは美術において有名な話だが、例えば普通の椅子を作るとする。これはただの椅子である。しかし、誰も座れない巨大な椅子を作るとどうだろう?それは椅子という価値を喪失した代わりにアートになり得るのだ。

草野さんの詩はまさにそんな詩だ。

「バナナみたいな足でしょと言った

 どういう意味か分かんなかったけど

 適当にうんと言った

 嬉しそうに

 今 魚が入ったんです

 と足裏を見せる」

言葉が平易ゆえ、何の気なしに読んでしまいがちだが、この日常的な言葉の羅列の連続がこの先少しづつ少しづつ心に引っかかってくる。

(現実なら)足裏に魚が入るはずはないのだが、草野さんの詩的現実はそれを許さない。

彼はせっせと足裏の写真を送り彼女は毎日その写真を確認する。あたかもその行為が(現実を喪失して)新しい現実になるかのように。

「彼の顔や声は忘れてしまったけど

 膨大な彼のバナナに似た足裏の写真を

 印刷して大事にしてる」

この日常的言語を規格外に繋げることは、詩人なら多分多くの方がされているに違いない。

ただそれは下手なシュールリアリズムに陥りがちだし、詩としての体裁が美しくなくなりがちになる。彼女の詩も一見シュールリアリズム風なのだが、絶妙な言葉の繋がりで、僕達の意識を鑑賞者の位置に踏み留まらせてくれる。

それは頭で意味を捉えることではなく、感覚で本能で感じる心地よさを伴って。

最終節の前の4行が印象的だ。

「遠く遠く

 はるか遠く

 銃声に似た音が聞こえる

 空耳」

あたかも接続詞のような何気ない挿入が詩の体裁を美しく整える。

草野さんの魔法はとうとう「足裏の魚」を新しい現実にしてしまう。何故なら僕達はいつのまにかそれを当たり前と思っているからだ。

言葉は現実を喪失してこそ詩となるのだ。あるいは現実を喪失してこそ現実になるのだ。詩というものは。

草野さん、おめでとうございます。素敵な詩を今後とも楽しみにしています。

選評 しろねこ社主宰Painter kuro

「ぼくたちはワンマイルウェアのままどこへ行こうというのだろう」 よしおかさくら

 「観戦」、「ぼくたちはワンマイルウェアのままどこへ行こうというのだろう」2作品に共通するのは、一人語りの作品であるという事。それぞれの主人公が、それぞれの目線から、自分を語っている。だが、この二人が生きている世界や、見ている世界というのは、同じ現実(例えばサラリーマンの男性で、会社勤めをしながら生きている人)かもしれないが、違う人間のように見えたのである。そういう意味で、よしおかさくらさんは他者の目線を物語として描く事に成功していると思った。

 それは、逆に言えば、他者の目線を取り込む事によって、物語は生まれていくのではないか。現実の模倣と投影。それが非現実的であれ、超現実的であれ全ての基本なのかもしれないと思った。そして、その在り方を拡張させていくことによって、さまざまな物語を、複数の視点を人は文として描く事ができるし、他者を知る事ができるのではないだろうか。

 「観戦」は母の視線を取り込んだ話者、「ぼくたちはワンマイルウェアのままどこへ行こうというのだろう」は世代の視点を取り込んだ、言ってしまえば世代感覚を語る話者が出てくる。「観戦」のミクロで且つ近似的な存在との重なりと、「ぼくたちはワンマイルウェアのままどこへ行こうというのだろう」の同世代という広くてしかしその年代にしか分からないマクロな近いが傍にはいない存在達を綺麗に包み混んでいる。その感覚を最早憑依というべきタッチで、語り手の語りに込めて描いている。2作品を通じて思うのは、両極端な人間の視点の二面相を、行訳の凝縮した詩文の中に漏れなくしかしさらっと込めながら、優しい語り口で読者に語り掛けてくれているという事だ。

 また、2作品には哀しみが背後に漂っていると思った。これは文章の中で明言されていないが、「観戦」に出てくる母はおそらく死んでいて、幽霊になりながら、色々な球場を巡っているんだろうなと思う。「ぼくたちはワンマイルウェアのままどこへ行こうというのだろう」では、日々の仕事に忙殺され、言ってしまえば生きる意味を見失ったサラリーマン達の哀しみが見える。そういったある意味での悲劇を包み込んでくれる語り手がいるという事。そして、語りてが寄り添っている、語り掛けているのは読者だと俺は思っている。

 読者が、正にこの感覚を持つ当事者だった時に(更に言って仕舞えば当事者がその感覚を孤独に一人抱えていた時に)、よしおかさくらさんの作品を読んだら、その思いは救われるのではないだろうか。また、その感覚を持っていなくても、本作を読めばそれを体験する事ができるのではないだろうか。人が本を読み、自分の認識を破壊し広げ、色々な事がある世界の中で生きていくために力となる言葉になるのではないだろうか。それは文字通り人の命を救っていることにならないのか。そして、しがないサラリーマンをしながら昼休みに浴びるように作品を読んでいた俺の心に、2作品目が強く刺さってしまったのは、もうどうしようもないのだ。

 未来に向かって投機されるべき言葉というのは、結果的に言えば、それを読んだ人間が残したいと思うか、残された言葉が本になって誰かにとっての言葉となり、それが連綿と受け継がれるかにかかっている。そのために必要な動機を備えた作者の様々な感覚を、是非いつか一冊の本として読みたいと思う。今回大賞にはならなかったが、是非これからも書き続けて欲しい。

 一読者として楽しい読書だった。ありがとう。

選評 百均

「みらいゆき」 眞島脈搏

「みらいゆき」っていうタイトルがよかった。

160を超える投稿作を読んでいく中で、それぞれの作品が、それぞれに甲乙つける事ができない程によかったと思うし、それは特別賞に入らなかった作品に限らず、その作品にもいいポイントがそれぞれあって、読み手を刺激させてくるものがあった。

その中で、タイトルを覚えていて、直ぐに暗唱する事ができたのは、僕にとって本作だった。

一番僕の心にタイトルが残った作品という意味で、特別な作品だ。

「みらいゆき」は未来雪、未来行きの二つに見えた。未来向かって降る雪なのか、それとも、未来に向かう何かしらの大賞や目的を指しているのか。そういった、何かしらポジティブなニュアンスを感じる所もありながら、しかし、ゆきに未来があるのかというのは、考えた事がなかったのだと思う。

そしてこの作品を読んで思う事は、タイトルに反して、ただ、雪は降るだけなのだという事だった。どこにもいけない。何も起こらない。牢獄のような「わたしたちの王国」に閉じこもっているのか、閉じ込められているのか分からないが、しかし、わたしたちにだけ通じる言葉で会話していという事は、そこで話される言葉は他者に理解される必要も、理解する人が存在しないいっちゃうと限界ギリギリのコミニケーションとしての言葉であり、伝わらないことが逆に強く何かに伝えようとしてしまうという、複雑な秘密だ。暗号文にしたくて暗号文にしたわけではないのだ。状況がそうさせてくるだけじゃないのか。

どこまでも閉じていく世界を寓話的に描きながら、これでもかと、幻想的なイメージを提示するが、私たちはどこにもいけないのだ。雪だけが、外の世界を舞っていくのだ。流れていく時間だけが未来を志向していく。
>しなやかに
>こんなにも やわらかく
>しにちかづいて いる

>雪が
>ほほをかすめ
>雪だけが
>かすめ

そして、雪は絶え間なく降っていき、時間は過ぎ去り、皆大人になっていく。

>ものがたりをせがんだこどもたちは
>まだねむれずにいるというのに

こどもたちと言えるのは、この言葉を発している存在がこどもではないからだと思う。正確に言ってしまえば、みんな最初は子供なのだ。でもそこから何かしら成長する事によって、こどもから切り離されていく。そしていつの間にか大人になっているのだが、だが、それは中身の話と外側の話に分けて考えた時に、身長が大きくなって、見た目は大人かもしれないが、心の中はずっと子供のままなのではないかという存在を思ったときに、それは時間が過ぎ去った後に訪れた生態的な変化であり、残酷な事と言ってしまえば、ただ、死に近づいただけの子供なのではないだろうかという事だ。

言葉で語る事のできる事とは何かと思ったときに、言葉にならない状況や思いは、逆にそれが言葉にする事ができるんじゃないかということだ。これは日本語で書かれているから、俺にも読めるのだ。だが、それを平坦な日本語で描かれたとしても俺はただ雪が降っている中で、日本語じゃない誰かが何か話している、と短い感想を書いて終わってしまうだろう。そうじゃない遠回りかもしれない言葉の積み重ねと、それを描くための新しい言葉、みらいゆきという詩語に託された思いや情感や情景が、きれぎれの限界的な状態の中で言葉を可能にしているなと思った。そういった作品の在り方を俺は信じたいと思ってしまった。

選評 百均

「うちの娘」 蛾兆ボルカ

物語がある。軽快である。ボルカさんの詩は読んでいて楽しい。そして何故か完結されている。もっと読みたい。本にしたらさぞかし面白いのが出来るだろう、と審査員一致した。ありがとうございます。今後もっともっと読ませて頂きます。

選評 しろねこ社主宰Painter kuro

「接名」 なかたつ

実はこの作品大賞でもおかしくない位僕の中で素晴らしかった。 人間の匿名性というのは、安部公房なんかもやっているんだけど、こんなに上手に詩に出来る方がいるとは驚きました。 ラストもいい。 (だからさ、ポストに入れれば届くと思ってるの?) (届かなくてもいいんじゃないかな?) せめて僕は僕であると主張しよう。 で、それは確かなことかい? 今後を楽しみにしております。ありがとうございます。

選評 しろねこ社主宰Painter kuro

「Public poet」 水上耀

-見て、深夜の西友でえのきを持っている真顔の私笑-
言葉の選択、羅列が秀悦な作家さんだと思う。しかも理路整然と言葉を展開されている。恐るべし。投稿ありがとうございます。今後ずっと見守りたい、と思います。

選評 しろねこ社主宰Painter kuro

「伝説と歌、あるいは「ふたたび殺戮の時代」の余白に」 原口昇平  

これ好きだなあ。ホドロフスキーの映画を見ているみたい。ホドロフスキーというのは僕の最大の賛辞。場面場面が計画された偶然のように繋がる。稀有な才能だと思う。もっともっとこれからも(もっと長い詩もどんどん長い詩を)書き続けて下さい。ありがとうございます。

選評 しろねこ社主宰Painter kuro

「わたしは海へ行った」 武田地球

純粋である。素直である。まっすぐである。しかし何と心強い響きを持つことか。時制は風景に溶け込む。これが武田地球さんなんだろう。どうかてらわずに自らの詩を突き詰めて下さい。宇宙に届くまで。ありがとうございました。

選評 しろねこ社主宰Painter kuro

「2021/11/27/14:00〜20:00グループホーム勤務」小朝うろたん

まず何が言いたいかというと、俺は本作を読んだ時に一目ぼれした。ぞっこんである。

 最初は何が書いてあるのか分からなかった。だが、読み進めて行く内に、それはグループホームで勤務している時にお世話している方の声なのが分かっていく。「順番が回ってきて時間なので、お風呂に入りましょうか。」から、この作品はおそらくではあるが、二人の会話を切り出した作品であることが伝わってくるのだ。誰かの声をスケッチしながら、その中で話を聞いたり聞かなかったりする話者がいる。最後の最後までは、機械的に話を聞き流している話者に大して構わず話しかけてくる、誰かの声が延々と行訳で描かれている。
 
 また、面白いのは、話者と誰かの関係というのは、グループホーム勤務とあるように、仕事以外の部分で感じることはできないという事。話者は仕事をしているだけ、誰かは話者に大して、話しかけているだけ。えらいのは、この作品は、必要以上に二人の関係を感じさせることを否定している。拒否しているといっても構わない。だからこそ、「声」が入って来る。それだけを見せられ、読まされてしまう。まるで出来のいい漫才みたいに、二人の会話だけがクローズアップされて、何を見せつけられているのだろうかと思いながら声を追ってしまう。そのラストの会話に全てが詰まっている。

>君さ、あれやな、幸せなんやな

 この一行を話したのは話者だと思う。そしてこの一文の後に続く「うん」だけが、二人の会話になっているのではないだろうか。
 「うん」との間にある感情を思うと何も言えなくなってしまう。

 「会話」「会話」とさっきから言っているが、ここでよくよく考えてみるとだ。
 この二人の「会話」って果たして「会話」だったんだろうか? ということだ。
 形式的な文言のやり取りと、それに合わせようとしない誰かの「声」の連なりなのではないだろうか

 最後の、砕けた口調は敬語的な、言ってしまえばビジネス的な会話ではない、人と人としての会話であると思う。
 サービスを受ける顧客と、サービスを提供する従業員が、その関係が一瞬だけ離れた瞬間を切り取った瞬間だと思う。
 だが、この作品は最初に書いた通り、必要以上の関係値を描こうとしていない。会話が始まった瞬間んに会話が終わるのだ。
 
 そこからは、地の文では淡々と作業に戻っていく話者が描かれる。
 そのスケッチの描き方と切り取り方に泣いてしまった。俺はこの作品の中で会話を見つけてしまい、そして見つけた会話の中で話者は幸せについて考え始めてしまうのだ。

 残念ながら俺は『戦場のメリークリスマス』を知らない。でも、うろたんさんは2作品の中でずっと考えている。それだけは分かる。その態度っていうのは、正に誰かの声を取り込もうとしている語り手の態度そのものではないだろうか。そのスタンスを真っすぐに本作から感じてしまったことが、俺が本作にほれ込んだ全てなのかもしれない。

 幸せとは何か、とは分からないが、俺は本作を読めて幸せだった。

 審査員じゃなかったら読んでいなかったし、出会わなかった。労働する事によって、対価を得て生活していかないといけないのは人間として生きる上において仕方の無い事だ。でも、その中で、やっぱり結果的に言ってしまえばみんな幸せになりたいと思って生きていると思う。(そうじゃない人もいると思うけどね!)
 
 そして、幸せになるためには、他の人がしたくない事=だから賃金の発生するサービスとしての仕事をこなさないといけない。(そうじゃない人もいるけど、対外の労働って誰かがやりたくない事だよ。)星はどこにあるのか分からない。サービスを受けているもう一人は話者は幸せだという。でも、この作品の語り手は幸せなのだろうか。幸せの星はどこにあるのだろうかと考えた時に、1つ言える事は、話者が会話した人は、これは推測が入っているかもしれないが、話者のお陰で幸せな時間をすごせたんじゃないだろうか。それが例えこの短い関わりの中であっても。労働は、働いている人を幸せにする訳ではない。働いた結果としての報酬で幸せになる事はあっても。でも、働いた結果幸せになった人がいたという事。更に言えば誰かが、話者に大して幸せだって言った事で、話者は幸せに一瞬なったかもしれないという事だ。幸せに出来た事を知った時に、幸せになる事ができるというのは変な話かもしれないが。

 という感想は、俺の中の思い入れも多分に入っているし、うろたんさんはんな訳あるかいかもしれないんだけど、俺はこの審査員をしていて、自分の本業以外の時間と睡眠時間を削って読んでいた時に、凄く疲れた場面も多々あった。でも、その結果として喜んでくれる人がいるならやるしかないと思っていたし、それが喜ばれない結果を生み出したとしても覚悟の上で臨んだつもりだったのだが、俺は本作と出会ってしまったんですよね。そして、読んでて幸せになりました。まぁそういう事なんでしょうね。きっと。

 クリスマスプレゼントとしての大賞賞品を挙げる事はできないが、俺からのプレゼントとしてこの選評を送ります。ある意味唯一のクリスマスが入ったサンタクロースみたいな本作に、プレゼントを送ったっていいじゃないかと、ささやかな言葉のプレゼントを送ります。

 俺をしあわせな気持ちにしてくれて、ありがとう。
 メリークリスマス!

選評 百均

「弔い」 楽子

個人的にはかなり勝負している作品だと思った。人を数で数えるあり方というのは、コロナの情勢においてよく目にする光景だ。
 別にコロナじゃなくても、震災でもいいし、東京みたいな都会の中で死んでいく物たちの話もでいい。
 そこでは、数は被害の大きさを示す煽りとして大きくなることにおいて、センセーショナルに報道され、人の心を動かす効力があると思っているし、現に色々な所で踊らされていると感じている。

 だが、この作品は逆なのだ。「弔いの場」という、言ってしまえば数が減っていく現場を小さな数字で示しているのだ。身近な人の死を数字に込める感覚を俺は知らかった。俺なら、もし書くとしたら大切な物として描いてしまうだろうと思った。いつも、小さな数というのは忘れてはいけない事であって、一人の人間や、大切な存在として抱えていく事が正しいと思っていた。また、現在でもそう思っている部分はなくはない。でも、それだけではないという事も確かにあるという事を教えられてしまった。今回の賞である意味一番勉強になった作品だ。

 ドンドンやせ細っていく一族が集まる場として法事が舞台になっていると思う。思い返せば、現に俺も、自分の両親の親戚と会うのは、楽しい事があった時ではなく、人が死んだときだと思う。また、この詩にあるように、法事に幾たびに来る人は減っていっていなと思った。更に言ってしまうと、俺の母親の一族は、10年前に滅んだ。母はその苗字の末裔だった。俺は父親の苗字を継いでいるので、おそらくではあるが、その家の歴史は終わった事になる。長い間繋がれてきた墓石にはもう誰も入らない事が決まっている。そういった事実をふと思い出し、俺の中に去来してきた感情は隠されてきた俺の想いとしてあって、それが暴かれてしまった。何が、小さな数を大事に思っているのだろうか。別に10年くらいなんとも思ってないじゃないかと。

>顔も知らない、私の顔によく似た、あなたを弔って、たった7人で、席についた。もう広すぎるよ此処は。かつて14人がいて、今は7人だった。まるで花弁をちぎるように、回数を重ねながら、物事は小さくなっていく。どれほど抱き合っても語り合っても混ざりあうことはできない、2という数から上はその寂しさを数えることしかできないのに、私たちは、必死に、あつまった人数を数えている。

 引用する他に術を知らない詩行だ。7人という奇数から始まり、それが偶数から抜け落ちていく数と増えない数を示しているかのようで、絶妙だし、この数を見た時に、弔いという文字がなければ、俺は数字を人だと思えなかった。そして、数字人を指し示しているのではないかと分かってしまった瞬間に、俺は人を人として見ているのかと深く考えてしまった。その時点で、俺はこの作品に惚れている。

 人間は、当然かもしれないが、一人では生まれる事ができない。精子と卵子が受精する事によって人間が生まれるし、その数は原理的に一組のペアが2人以上の子供を産まなければ減っていく一方になる。少子化とかでかい話ではなく、人間は動物であり、動物は子供をうみ、自分の血を家族に分け与えてる事によって命を繋いでいくシステムを原理的に抱えているが、しかし、人間は動物ではなく、人間を刈り取る存在は、人間でしかない状況に陥っている程、既にシステムとしてある意味壊れかけの生き物かもしれないなと思った。
 
 数字で現された事で目の前に現れてくるのは、試されているのは読み手の感覚なのではないか。そういった数字に、減っていく数字に何を思うのかは、正に読み手に委ねられている。まさしく比喩であるが、比喩ではない。

>私たちはかつてあなたでした、あなたから生まれました、そしてあなたではなくなりました。世界が凍っていく中で私たちはただ祈っているのです。そして恐れているのです。かつて14でした、そしては今は7。あなたは私たちの顔も知らない、それでもあなたによく似た顔を持つ私たちをおいて、あなたは1人で悲しくなって、数えなくなって、あとは私たちが、うろたえながら、おびえながら、泣きながら、数えているのです。

>よく凍った床の上では、ひとしく凍えることしかできず、良く通った鐘の音の中では、ひとしく聞き入ることしかできず、胎内にいるときのように私たちは、喪ったあなたとわたしたちを想いながら、しわくちゃの頬を濡らしているのです。

 あなたと突き放された、それは話者の母であることを飛び越えて、グレートマザーというと大袈裟かもしれないが、しかし、誰もがどういう形であれ母=あなたから生まれる。あなたから分かたれて生まれる。人は人を生む度に、混ざり合ってあなたを知らないかもしれないが、最初は1つだった。1が分かたれて私たちは生まれたのは神話の始まりみたいだと思うし、そういう意味で神話的な感覚が込められていると思ってしまう。

 そして最後に絶滅してしまう私たちを嘆く母の声がある。俺は祖父の声なんて覚えていない。ましてや過去の大昔の1つだった時の話など分かるはずもない。もう既に失われてしまったものとそして、今正に喪われていくわたしたちを弔う事。
 
 滅びゆく物を確かに書き留めながら、それを数で描くという挑戦。またその向き合い方は、無数の母を描きながら、無数の残された人たちを描きながら、それらの集合体としての言ってしまえば人間の抱えた哀しみを描きながら、最後にただただ、「しわくちゃの頬を濡らしているのです。」と締めている事に大して強い共感と驚きを覚える。

 読ませていただきありがとうございました。

選評 百均

「孫」 yasu.na

選考作品を読んだ中で、一番笑ったのが「孫」だった。娘を思う気持ちが孫を飛び越えていく様子が軽快だし、その認識の変化や激昂の瞬間を切り取った作品だと思う。yasu.naさんに孫がいるのか分からないのだが、そういった娘を思う気持ちが、孫という関係値を超えていく描き方が新鮮だったし、面白かった。年末のM1じゃないけど、素直に面白くて笑える作品に出会えたことは、審査員の心を癒してくれた。

選評 百均

「人工呼吸」 杉本 順

言葉を読んでいる時に、絵が見える作品がある。杉本さんの作品は両作とも作品の光景が見えてしまった。見えてしまったという事実に、俺は何も抗うことができない。やまいだれのコートもよかったけど、なにより、人工呼吸からの青色のピアニカへ息を吹き込む男の子への綺麗なスライドからの最終行の描き方が綺麗でした。敢えて形容するのであれば、リリカルな作品だった。哀しみを背負ってくれるイメージの連鎖が、最後まで読ませる力を与えてくれた。

選評 百均

「https://www.youtube.com/watch?v=kqm-84TF9MQ」 cold fish

 GEZANの東京良かったです。

 というのが1つ。その内容との照らし合わせについては、正直あんまり言語化出来ていないので選評を書くこの場においては話せる事など何もない。ただ、言える事があるのだとすれば、「抒情しようとしたら蕁麻疹が出ちゃう」って部分との反目みたいな部分かもしれない。と言っても、GEZANの歌っている内容が、正しいのかもしれないけど、信じきれない部分もあるかもしれないっていうこれは自意識の問題かもしれんが。という中で、それでも書いているcold fishさんがどういう状態なのかは分からん。けど、言葉が続いているのであれば、続けて欲しいなと思った次第だというのが率直な感想だった。魔法については俺は分からんけど、GEZANを聞いて、俺は魔法にかかった振りして生きていくのもイイかもなってちょっと思ったのと、でも魔法なんてどこにもないから、こうして聞く事で誤魔化すしかないよなって思ったよ。

 というのは、前置きで、俺が特別賞に推薦したのは、やっぱり音が気持ちよかった。という事。詩はなんであるかというと、やっぱり俺にとっては音韻から始まるし、それは繰り返し読まれるい物みたいな事を俺は詩において、結構大事なテーゼとして抱えているので、音がいいとそれだけで読み返したくなるという事に他ならない。日本語の音っていうのは、やっぱり他の言語比べても音の数が少なく、その少なさをカバーするために同じ音だけど異なる意味を持つ単語というのが無数にあるし、それが、適当な見識をベースに述べてしまうが(これは謙遜としてではなく、事実として)575の型に埋め込むのが最適解な日本語の音の形の中において、韻律を韻律としてではなく、その世界を広げる力を与えているなと思った次第だ。ってこんな話どこでも誰でもできるよね。

 言葉を出してはやめて、出しては辞めて、言葉を知る事は哀しみを知る事で、また書き出してあほらしくなって、なんで気が付かないのか怒って、むなしくなって、その結果として、魔力が喪われていく己があり、それでも書いている話者の存在と

>(深く、

> 生きていくことに、

> 沈んでいく、

> と、

> 深く、

> 死に向かって、

> 歩いていることを、

> 忘れてしまう、

> これは、天使のしわざだ)

 生きている事は死に向かって生きている事に他ならないのに、生きれば生きるほど、死が近づいている。永遠に魔力があって、それが喪われないのであればよかったけど、そういう訳じゃない。言ってしまえば今ここが平和であったのかもしれないけど、別にこれから先ずっと平和じゃないよね。だって、死に近づいているんだもの、どんどん壊れていったとしても、壊れかけている時に、壊れている事に気が付かないように。多分GEZANの曲を聞いて忘れてしまったように、明日も漠然と生きていると思ってしまう。だから、書いて読んで書いて読んで、これは一円にもならんが、1つ言える事は、忘れていた事を思い出す事ができるのって世の中にある作品を読んだり聞いたりすることだよな。と、それを忘れて、また思い出して、自分の愚かさを自覚して禊して、更にそれを忘れてだんだん死に近づいてくたばってしまって、まぁそういうのが無常なのかもしれないけど、そうやって生きているよねって事を思い出しましたね。

選評 百均

「星の星」 田邊容

自分で選んでおきながら、うまく言葉にならない詩だ。結局の所、俺が一番好きな詩というのは規定できない事の方が多かったりする。時間も短いというのは所詮言い訳で、俺の手に負えなかったという事になる。組み立ての話をすれば、一日の時間を割りながら様々な事を書いているという事。その詩行の切れ味については、文句がない。展開なや組み立ても見事だ。という事はできるが、ハッキリ言ってしまえば、読めなかったのだ。でも、読めなかった事が、本当に悪い事なのかというと、そういう訳ではない。俺は読めない作品が一番好きだ。だって、ただ読めるんだったら、やっぱりに詩にしないし、俺は最高の遠回りな文章を数年かけて何度も読み返すのが好きだ。

白旗を上げながら賞を贈るなんてのは審査員として最低だが、やっぱりなんか最後の最後で読み返していて、一番最後にこの文章を書いているんだけど、繰り返すことと、縛られていくこと、それは言葉でも、時間の中でもいいんだけど、そういった感覚が常に襲ってきていて、時間は人が感じる感覚の速度はあれど、俺の場合は、何もしていない時間や、自分がダラダラ過ごした後で、他の誰かが同じ時間を使って成果を上げて居たりするのを知ると滅茶苦茶怖くなるんですよね。自販機の所がリアルで、俺はみんなが仕事をしている時に自販機に行って、ジュースをよく買うんだけど、毎回席に戻る時に滅茶苦茶罪悪感があって、俺はその時、自分はこの場から逃げたいがためにコーヒーを買っているのであって、煙草を吸っているのであって、別にコーヒー飲みたい訳じゃないよなって思うんですよね。そういった積み重ねの中に生きる話者の最後の笑いっていうのが、誰に向かっての笑いなのかとかはまだ読めてないんですけど、俺が掴んだ詩の表情としての雑感を最後に足して、また読みたいと思います。個人的にはやっぱり投稿作滅茶苦茶あったけど、本作は異質でした。その異質さは言葉にならん。みらいゆきと逆の事いってますね。あはは。

選評 百均

最後にこっそり雑感 by mmm

この度は皆さんご応募ありがとうございました!約160作品ものご応募の中から審査員お二人が議論を重ねて受賞者を選出しました。今回しろねこ社さんからのお話があってこのような企画となりましたが、皆さん楽しめていただけましたでしょうか。しろねこ社のKuroさんが「祭」と形容されていましたが、びーれびの1つの年末イベントとして、皆さんの間で盛り上がっていたなら、個人的には大変うれしいなぁと思います。この度は、ご参加いただき誠にありがとうございました。

また、僕自身は選考そのものに関わっておらず、かつ公私ともにバタバタしてて賞そのものに関われてない時期あったのですが、そんな中審査員のお二人はすべての作品に目を通して議論を重ねて、選評もぎりぎりまで書いていらっしゃいました。この量の作品を短い期間で評価すること、大変だったかと思います。感謝しております。

色々な経緯あってなんでか運営になってしまった僕ですが、こういったイベントの開催ができて、第5代?運営として貴音さんやyasu.naさんと一緒に1つ仕事ができたようでよかったです。今後ともびーれびをよろしくお願いいたします!

2021年12月24日 クリスマスイブ B-REVIEW運営一同