なんか大変な議論に水を差すようで申し訳ないんですが、未だに詩って何なんだろうって思うわけです。
 いろんなサイトを渡り歩いてきましたが、よくわからないんですよね。そんな自分みたいな輩が投稿しているんですから、困ったものです。
 詩情っぽくイメージして今までは書いてきましたが、なんかコメもないし古いのかなぁとか。
 批評家の方々、一筆如何ですか?蘊蓄など。

「詩というものが未だにわからない」に32件のコメントがあります
  1. 音と意味が、上手に踊れたら
    それは詩だと思う

    音に意味を乗せるのが苦手な僕は
    未だに詩を書けた気がしない

  2. 上の匿名の方とはまた別の匿名の者です。
    静かな視界さんで検索してどのような詩を書かれておられるのか読んでみて
    古いのかどうか確認させてもらおうと思いましたがハンドル名での登録がありませんでした。
    これではコメントのしようがありませんね。

  3. 無理してわかろうとする必要はありません。みんな勘違いして書いているのが詩なので。
    あなたも勘違いしてわかったと思うまで待てばいいと思いますよ。

  4. だれも勘違いなんかしてないと思うけどなあ。
    2歳の子の詩だって面白い。2歳の子は何も知らないけど
    呟きたいときに歌や詩をつくる。
    それから野口英世の母の手紙なんか強烈なインパクトのある詩だ。
    あれはまごうことなき詩だ。
    中原中也に宛てた神父の日本語のつたない下手な手紙も強烈に胸に迫ってくる。
    中也の詩なんかちっとも面白くないし上手いとも思えないけどね。
    だれがだれに勘違いしているのか? 
    教えてくれまいか。
    おそらく勘違いしているのはランバダ海峡さまのほうだと思うのだが。

  5. 結局みなさん、具体的な詩をみせないで、概念とか理屈とかで
    詩を想像してあれこれ言おうとしている。
    そういうのは不毛なんですよ。
    詩はひとつひとつ生ものとして具体的に独立してそこにあるんです。
    詩でないとかあるとか、そういうのは書かれた具体的なものを前にしなくて
    空虚な概念をいじくってどうなるの?
    まずは見せないな。そしてコメントしている人も具体的な詩を
    遡上に上げなさいな。だれの詩でもいい。
    概念で詩はどうだのどうのこうのいってもまったく空疎で不毛ですよ。

  6. 具体例を挙げるというか、自分の話で恐縮なんですけど、これまでは創作において音は後回しだったんですよ。意味が最優先で、後は意味を崩さない程度に音を意識するという。音に対して意識が薄かったのですね。音よりも意味を伝えたかったので、音はどうでもいいと思ってすらいます。音は結果的なもの、副次的なものに過ぎなかったんです。そうして頑張って書いた作品よりも、昨日、騙されたと思って音を優先して詩を書いてみたんです。意味優先で頑張って書いた作品は何ヶ月もかかりましたけど、音を意識して1時間程度で少しの推敲だけで書いた作品の方が、読んでて楽しいと思ってしまったんです。(これは今度投稿します)何でかな、と考えてみたんですけど、音って説明不要ですよね。意味に拘って書くと、難解になっていくし、ついていくのもしんどい書くのもしんどいですけど、音は難解にならないので、音さえ良ければ楽しめるんじゃないかって思うようになりました。もちろん、両方とも大事なのかなと思うし、これまで長い間、意味に拘って書いてきたからこそ、音を優先しても瞬間的に書ける能力が少しは身についたような気がします。これは自分の話です。とにかくあれですね、意味と音を同時に美しく書ける人とかは、頭の中どうなってんだって羨ましくなります。

  7. わたしは押韻のことなど考えて書いたことはないですね。
    西洋における詩とはすなわち韻文のことで韻律などの音楽的要素が
    先立つものであったらしいですが、
    わたし個人としてはそういうものの必要性をまったく感じないですね。
    むしろ西洋的な詩の音楽的要素を削ぎ落とした日本人は素晴らしいと思う。
    (いや、別に音楽的要素があってもいいのだけど。個人的意見です)
    でも西洋の詩を読むときは原文で読みたいですね。笑
    押韻がさりげなく爽やかに使われている。

     What though the radiance which was once so bright
     Be now for ever taken from my sight,
     Though nothing can bring back the hour
     Of splendour in the grass, of glory in the flower;
     We will grieve not, rather find
     Strength in what remains behind…

    ナタリー・ウッド主演の映画『草原の輝き』で使われた詩句ですが
    あの映画のラストで涙が出てとまらなかった。
    でも、日本には日本の言葉独特の豊かさがある。
    それが大好きなものですから、とくに音について考えることもないですね。
    日本語に無理に西洋的なものを接ぎ木しょうとしても
    ちぐはぐになるだけのような気がしますね。

  8. 押韻のことか分からないのですが、読んでいて音が良い作品ってあるじゃないですか?韻を踏まれているのか気になったことはないです。感覚的な話です。個人の嗜好だと思います。ちなみに西洋の詩で好きなものあったかなと思ったのですが、ボードレールは好きでした。原文で読んだことはないですね……これからもないでしょう。英語もちょっとしか分かりません( ˘•ω•˘ )

  9. それとアントナンアルトーも好きです!原文読めるようになりたいですけど、俺は頭悪いし、他に目的があり外国語を学ぶことは目的にそぐわないので、これからも無いです。だからアントナンアルトー、ボードレールの生の音として韻を知ることは無いですね……残念だと思いますが、日本でも優れた詩人はたくさんいるし、面白い詩人はたくさんいるので、🙆‍♀️。西洋の詩は翻訳で読むしかないんですが意味が本当に一致しているかはもう信じるしかないなと思っています。単に読み物として面白いので、アントナンアルトー🙆‍♀️

  10. 詩というものが分からないのは詩を何のために使うのか分からないからだと思う。

    たとえばイスとは何か疑問に思う人はいない。もちろん私たちが座るためにイスというものは作られる。だけど立ち上がって花札でも置けばそれはテーブルとして使うことになる。これを指して、イスがテーブルであるのか、はたまたテーブルがイスであるかと議論することに意味があると私はあまり思わない。それは言葉のあやというか、表現上のちょっとした違いでしかないと感じる。

    もっと単純に、私たちがイスと思うならイスだし、テーブルだと思えばテーブルだと言って良いと思う。そうすれば、イスとテーブルを混同することはなくなる。

    つまり、もしも言葉の「定義」みたいな話をしたら、私は詩とイスとはまったく同じ曖昧さを持つと思っている。じっさい、イスは形だっていろいろだし、色が赤色なのは許せないとかサイズは一人用であるべきだとかを規定できると思わない。もしも誰かが座ってるイスにコーラを乗せたらどう定義するべきか分からない。だが使用者がこれはイスだとかテーブルだとか言うのは好きにすればいい。それで何の問題も感じない。どうせ人間がいなくなればそんなのは何の意味もなくなるから。

    静かな視界さん、あなたがどんな人かは知らないが、あなたは詩を読むときに、ご自分が何を得ようと思っているのか理解してないんだと思う。つまりわからないのは詩ではなく自己のほうだ。ひょっとしたらそんなよこしまな欲はないのかもしれない。あるいは存在し、だがとても複雑なのかもしれない。

    私のように利己的な人は利己的に詩を読みふける。だから私にとってそれはとてもシンプルだ。

  11. でもね、それが正しいかどうかわからないという領域を一度くぐった方がいいと思うね、結局自分を信じさせるだけだと人によっては行く行くは他者への攻撃に向かったりするからね、わかった気になってみっともない真似晒したりして。
    間違ってないよって言うんじゃなくて、間違っててもいいよって言ってあげなくちゃ、と思うんだよね。なんか詩をそこで勝手に止めたがる人ってたまにいる気がする、わかってもいない段階で。

  12.  いろいろとコメントいただきましたが、私的には詩はすでに其処にある・・という考え方なんですね。実際そこにあるんですが、上手くそれを表現できない。そのジレンマの中で書き続けているということなのです。まぁそれはその人の生き方だとか、共有するものが違うという部分で、感じ方は違ってくるとは思いますが。
     多少、名のある詩人の詩集など読んだことは当然ありますが、一般詩人の詩集に感銘したりすることはありますね。
     私的には、比喩にしても直喩が多く、隠喩は苦手というか大変難しいものだと考えていますし、タカマクラ氏の作品などまったく読めたものではありませんし。ああいう作品を読むと、読めないことで劣等感しか生まれません。以前、イカイカ氏が読めない奴は書けないという名言?を発していましたが、それもアリかなという気がしています。まぁしかし、詩を書くという行為は私にとっては排泄と似た感覚?あるいは依存みたいなものであって、どうにもやめられるものではないのです。言ってみれば生理現象みたいな。できるなら、それが排泄ではなく、食事のような生きにできればいいのにな、とか思ったりはしてますが、難しいですね。しかし、書かないと始まらないとは思います。書いて書き続けると自分の詩が嫌になり辟易します。飽きるというんですか、でもその中からちょっとづつボウっとしたものが見え隠れしてくる。こんなものが詩なんじゃないかと思ったりすることもあるんですよ。

  13. 詩がわからないとしても、小説や散文ならわかるのではないでしょうか。そして、詩は小説や散文とは異なっているということを、漠然とでも感じてはいないでしょうか。

    小説も散文も詩も、読んだ人の心が動かされることに肝があると考えます。

    小説は、物語や描写によって。
    散文は、主張内容によって。
    ──いずれも意味を理解することでもたらされる感動です。

    一方で、詩は、レトリックを通して感動がもたらされるといえます。
    象徴・比喩・飛躍・音韻……等々。
    ──ゆえに、その感動には必ずしも意味の理解が伴うわけではありません。

    また、レトリックの妙が備わっていれば、詩ではなくても詩のような感動がもたらされることがあります。小説や散文、映画や漫画などの表現が、ときに〈詩的〉と形容される所以もそこにあります。

    反対に、小説的な詩や、散文的な詩もあるでしょう。しかし、作品が物語や描写に重点を置こうと、主張に重点を置こうと、文章である以上、レトリックは切っても切り離せません。

    仮にレトリックに拠らないとしたら、その作品が必ずしも詩でなければならない理由はないはずです。
    つまり詩は、レトリックに拠り所のある表現形式だといえます。

    とはいえ、詩の探求に、終わりはないのでしょうけどね……

    未熟者ながら、自分なりに詩の定義について整理する機会をいただきました。ありがとうございます。

  14. つまり詩は、レトリックに拠り所のある表現形式だといえます。

    その結論の是非はともかく、そんなことをいったところで何もかわらないわけです。
    また詩を書く上でもあまりたすけにもならない。
    こういう洞察がどうして虚しいかというとしょせん、概念を弄んでいるしかないからです。
    「詩」「レトリック」「表現形式」これらの言葉もすべて概念でしょ。
    プラトン以来、延々と続くイデア論の最大の欠点だと思うけどね。
    〈詩〉などというイデア、つまり概念をあれこれいじくってもそんなものは無なんです。
    花などどこにもないあるのは具体的なバラや桜だみたいなことをいったのはだれだっけ。
    それと同じで
    詩なんてないんです。あるのは具体的な一つ一つの書かれたものなんです。
    そこから共通性を抽出してレトリックといってみたり詩と命名しているだけなんです。
    そこをつい忘れてしまっているのが現代人なんですよ。
    いつまでもイデア論でものを論じる不毛の世界にいる。
    抽出されたレトリックで詩を書いたものが面白いのはゲームとしての知的な感覚でしかなく
    実存的な深さや豊かな抒情性とは関係がない。
    日本の現代詩がつまらなくなったのはレトリックなどに惑溺してしまったからで
    偏執的な傾向性のある日本人の悪い癖だ。
    詩を定義されるのは結構だけど、胸の中を覗けばそんなものなんの意味もないし
    毛ほどの充実感もないことはご自身にもおわかりだと思うけどね。

  15. 煙突太郎さん

    すみません、仰るとおりだと思います。ありがとうございます。

  16. 煙突とはまた言い得て妙ですね。笑
    ありがとうございます。
    もちろん風呂屋の煙突でしょうね。
    今にも倒れそうに古いのに横柄に立ち上がり人々を睥睨し
    てっぺんから不満たっぷりに煙をあげている。
    わたしはそういう愚昧な人間ですが、見事に言い当てられて
    むしろ愉快ですよ。

  17. 詩というものが分からないのは詩を何のために使うのか分からないからだと思う。

    ハッとしました。何のために使うか。
    日本人が英語を使うのはなぜか?
    アメリカ人が日本語を使うのはなぜか?
    第二言語、第三言語を習得するには、
    それなりの理由があると思います。
    日本人が英語を覚えるのは、
    仕事のため、受験のため、ナンパのため、恋のため、洋楽の歌詞の意味を理解するため、原文に触れるため、知的好奇心を満たすため、バイリンガルにならざるを得ない環境だったため等が一般的に挙げられると思います。
    詩を何のために使うのか、というのは、不思議な問いかけでした。
    意味を伝えたいのなら、日常的言語で、誰が読んでも分かる文章を書いた方が効率的で、出来る限り解釈の余地を作らないことが重要なはずで、詩を使うことは?
    意味は分からないけれど感動する、それが不思議で。
    詩とは何か?と思いを深めることは、感動とは何か?と思いを深めることと同義なのかもしれません。
    あんまり心を動かされることがない、冷たい人間の私は、何かに感動したい、心を動かされたい。
    心を動かされる詩に出会った時、心から読めて本当に良かったと思う。
    感動とは何か? 詩を何のために使うのか? 感動させて、どうしたいのか? 素直に感動すればいいし、私はその感動で生きる力を貰えます。好きな歌があって、でも歌手の目的など気にすることが無いように、黙って感動し、黙って聴いていればいいのだと思います。オイオイ、この歌手、やたらと俺を感動させて、一体この俺をどうするつもりなんだ?!と考えることは、やや病的かな。

  18. 詩を何のために使うかって、こんなことをいう人に怒りを覚えますね。
    世の中そんなプラグマチックなことばかりじゃないんですよ。
    ちょっとおたずねしますが、あなたがたは恋愛を何のためにするんですか?笑
    何か利用するために恋愛してるんですか。
    あるいは
    線路に落ちた幼児をとっさに救おうとする青年がいましたが、何のために赤ん坊を救うの?
    とその人に質問できるわけ?
    ●カという二文字はここでは使用禁止でしたね。
    でも●カじゃないかと腹の底から怒りがこみあげます。
    この世のものは何でも使用意図があって存在しているとでも思っているの?
    信じれられない方々が詩なんどを書いておられるのですね。
    どんな詩を書いておられるのか是非みてみたいですね。

  19.  いろいろとありがとうございます。
    たぶん、なんか、言えるとすれば、今のところですが、おもいの強度っていうか、そういうものをつたえるしゅだんとしてしっていうものがあるのではないかと思うわけです。ですからその思いを力強く(っていうのも変かな?)伝える手段としてメタファとかがあったり、直喩があったりするのかなと。

  20. そういうものをつたえるしゅだんとしてしっていうものがあるのではないかと思うわけです。

    そういうものを伝える手段として詩っていうものが・・・

    となります。

  21. わたしはメタファとか直喩とか考えたこともないですね。
    それでも現代詩フォーラムに投稿すれば、みなさんのお情けで
    4作に3作はトップ10に入れてもらってます。
    全然下手くそな詩なのにとてもありがたく思ってます。
    その詩ですが、わたしはほんと直喩なんて考えてません。
    直喩だの隠喩だのなんだのといろいろみなさん分別しているようですが
    詩人で思想家の吉本隆明は直喩だの換喩だの隠喩だのという区別は
    言語学者にとっては意味があっても詩人にとっては何の意味もない。
    まとめて「比喩」といえば十分だといってます。わたしもそうです。
    そして「比喩」などと意識して使ってもいません。
    あのねえ、詩なんて書いていけば感性や直感で知らずにちゃんと
    レトリック使ってるんですよ。
    意識的にレトリック使っている人いますし、それがなにか高級なように
    思われているようですが、そんなことはありません。
    これまでの詩の指導がまったく誤っていたとわたしは思っています。
    とりあえず詩は何も考えずに好きなように書くこと。
    それでいいような気がします。

  22. たとえ理由はなくても原因や目的は存在する。その領域を個人がどう認識するかは自由度のある問題になる。たとえば、わたしたちは生まれたから生きているのだと考える人は、同じ境遇を生きた者にしか理解されない。

    私はその個人的な領域を十分に考えることなしに「詩とは何か」と問う行為には意味がないと考えている。それは学生が見どころのある学生だと思われようとして質問をする行為に似ていると思う。だが、わたしたちはインターネットをもっと素直に使うべきだと思う。

  23. なんというのかな、上のコメントは御本人の頭の中では整合性のとれた
    ひとつの考えのかたまりとしてあるのでしょうが、
    そういう内部の認識を外へ出すときちゃんとした論理の
    器に載せないと、なにをいってるのか支離滅裂に映りますよ。

    わたしの見るところあなのコメントは
    すべての文節や句行が接続詞の前と後では論理的にはつながっていない。
    たとえば
     
     それは学生が見どころのある学生だと思われようとして質問をする行為に似ていると思う。
     だが、
     わたしたちはインターネットをもっと素直に使うべきだと思う。

    日本語の助詞や接続詞は論理そのものなんですが、この「だが」という接続詞の前の文と後の文はまったく
    論理的なつながりをもたない。でも
    ひとつひとつを独立にみれば何も問題はないから、おそらく本人の頭のなかだけで、奇妙に
    接続されているのだろう。笑
    だけれども人に見せるときはそれではいけないのじゃないかな。
    これは、その前の文もそうで、
     
     学生が見どころのある学生だと思われようとして質問をする行為

     個人的な領域を十分に考えることなしに「詩とは何か」と問う行為

    をコメント者は並列的に=で結んでいるけれども、この2つの行為は前者は心理的な行為であって
    後者はたんに段取りの不用意に関する個人的なコメント者の意見にすぎない。
    この全く違う範囲に属する行為は本来、論理的につながりようがない。それをなぜか
    なんの架け橋もなしに、平然とつなげているところにこのコメント者の一種の意識的な混濁を感じますね。

    なんでもかんでも不用意に断定していくのではなく、もっと冷静にじぶんと向き合って
    外部というものを考慮に入れる必要があると感じましたね。

  24. わたしたちはインターネットをもっと素直に使うべきだと思う。

    インターネットを素直に使っていない人とは、どういうものなのかを示してください。
    原因と目的は存在すると私も思います。例えば、魚釣りの目的は魚を食べることでしょうか? 魚を食べたいのならスーパーマーケットや魚屋、寿司屋に行けばそれで済む話です。試しに、魚釣りが盛んに行われている港にでも出向き、こう訊ねてみてください。
    「あなたは何のために魚を釣るのですか? 海鮮市場には新鮮な魚が売られています。そちらで魚を買われる方が効率的ですよ。」
    詩は、空気や水、食事のように生きていく上では必ずしも必要なものとは言えません。しかし、楽しみの一つであることに間違いはありませんでしょう。

  25. 最近つづけて出されたフォーラムの2つのスレッドをみて思ったんですけど、
    今の人たちは物事を論理的に考える能力をかなり失っていますね。
    世界認識の方法がなってない。
    それでもなんの支障もなしに詩は書けるのですが、それが怖い。
    非常に幼稚な詩が蔓延している。

  26. 個人的な好き嫌いをここで吐露させていただきますと、
    わたしは知的なゲーム感覚の詩には
    (たとえそれがどれほど優れていても、評判がよくても)
    いっさい近づかないですね。

    それがいいとか悪いとかじゃなく、
    それだったら別に囲碁将棋やっててもいいじゃないの?と
    思うからです。
    それとは逆にどれほど下手にみえる詩でも
    それが作者の懊悩が
    書かせたものだと感じれば、知的に優れていなくとも、その詩の側に寄り添って
    その詩に声をかけたくなります。
    お互い顔も知らない、男女の別もわからない作者の詩だけど
    わたしはそういう詩と出逢えばわたしと出会ったような気になりますね。
    でも
    頭の悪いわたしは知的な技巧と、おしゃれな文章を目指した粋でクールな詩は
    そういうのが好きな人におまかせして、
    申し訳ないけどわたし個人はそういうものに近づきません。
    お題とはずれたコメントかもしれませんが、
    わからない詩があったらそれはあなたのせいじゃなく、
    相性があわないだけだと思うことにすればストレスなくていいのじゃないかと
    思っています。

  27. そもそもが詩に勝手な服を着せたがる奴が多過ぎるんですよね。
    詩はいつでも裸だ。
    お前が勝手に好みの服を着せてるだけだ。
    これがわからない奴に限ってわかった口で詩を語る。

  28. 私は逆に書かれた詩、出て来た詩に対しては余計な色は付けないな。
    それはすべきではないと思っているし、どの作品も等しい。
    上も下も無い。出来不出来はあったとしても。
    私に好みがあるとしたらそれはむしろ詩論の方。
    心持ちがダメなのはダメだな。どこまで行ってもダメ。
    そんなダメな奴でもいい詩は書く。
    出て来る詩に罪はない。

  29. れみんぐ大移動さま
    駅前執刀医さま
    お二人様、
    なにをいってるのかわからない。
    なにがいいたいのかもわからないね。笑
    >これがわからない奴に限ってわかった口で詩を語る。
    <心持ちがダメなのはダメだな。どこまで行ってもダメ。
    根拠のないただの不平不満にしかすぎないのだけど、
    そういう意味不明の不平不満をいうことも大事なのだろう。
    このお二方にそっくりそのままブーメランするだけの
    コメントのような気がします。

  30. ブーメランって言葉を使うってことは心当たりがあるんだ? へーそうなんだ。じゃ意味もわかったってことなんだね。へーおもろい。
    作品が未熟なのは後でどうとでもなるけど、詩論がひん曲がってるのはどうにもなんないんだよね。おっさんは特にね、学ばないし入ってかないし。

  31. 僕は死ぬまで詩を書くので、死んだ後にわかったらいいなと思っています。
    多分、詩を書くのを生涯やめてから、わかるんじゃないですかね。

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