「愛という自己批判」
という作品を読んで、これは詩ではないのではないか? と感じました。
(URL https://www.breview.org/keijiban/?id=11745)
芸術や表現の本質は、海は海であることを認めることから本質に迫ることにあると思うのです。海に対し、都合が悪いからこうしろああしろと命令するのは、詩のやることではないのではないでしょうか?
ジョンレノンが平和を我らにと歌う時、平和になったほうがいいよねと歌っているように聞こえます。平和にならなければダメだと歌った時、表現は死ぬと思います。
わかりづらいかも知れませんが、
懺悔しろ、みたいな詩を自分のブログで綴る方もおります。
それは詩なのでしょうか? 私は違うと思う。
どう思われますか?
その線引きを誰が何処でどのように引くのか、ということが問題になってくるんだけど、質問者自身が断定ではなく問うてる以上いろんな答えが返ってくるのではないでしょうか。
横に見るか縦に見るかでもまた違って来るし、詩を現象として捉えた場合、感情として捉えるよりもうんと多くのものがそこに入ってくることになりますよ。林檎は林檎であってそれと同時に林檎ではない可能性さえも内包している、みたいな。つまりわかりやすく言うと、新しい学校のリーダーズはトップバッターに出してしまってはいけない、ということなんです。
断定を好まないのは、問いかけや疑問が常にあって。
「新しい学校のリーダーはトップバッターに出してはいけない」
それは詩の背景にあるものでしょうか? 正義を訴えているように感じるのですが、その誰に対して訴えているのか?
新しい学校のリーダーはトップバッターに出してはいけないと訴えるなら、新しい学校のリーダーに訴えるのではなく、学校の人たちに
「そう思わないか?」
と訴えるならわかるのです。
「新しい学校のリーダーはトップバッターに果たして出してはいけないのだろうか?」
そのロジックの根拠が、見えづらい。
新しい学校のリーダーというのは、新米の教師のことでしょうか? トップバッターというのは、頭に起用してはいけないということでしょうか?
なにに対しての新しい学校のリーダーがトップバッターになるなのか? 言い伝えでそういう言い回しがあるのか?
この詩や、私が考える
「こうしろ、ああしろ」
は対象者に対し迫るように思う。対象者には自由選択肢がある。
「平和になったほうがいいよね」
という仲間への呼びかけの訴えは連隊や共感を求めていると思うのです。
「平和にならなければいけない」
と対象者に迫るとき、対象者、つまり国家だったり政治家は拒否する権利がある。
「許せ」
と迫る場合、個人にプライヴェートで言うならわかるのですが、公の場で迫ると、目的が見えづらいし、許すか許さないかは本人の自由選択になる。
こうしろああしろと言うのは、大人が子供に指示するタイプのものに思うのですが、その正当性になる背景描写が見えない。
詩として完結した独立性が見えないのです。詩は詩の中で自己完結したものを、多く詩と呼ぶのではないでしょうか?
「私はこう思う」
それがシンプルに伝わる表現なら、いいと思うのですが
「あなたはこうだから、こうしろ」
と言うのは自分を表現しているのかが疑問なのです。個人の意見を表現するのが、詩なのではないか?
その
「あなたはこうだから」
と言う背景も見えない。すると色々疑問が湧いてくる。断定はしづらいです。変だなと思うので、フォーラムに投稿しました。
背景が裏にある場合、それを共有しているもの同士で楽しむならわかるのですが、それは仲間内で楽しむ言葉の遊びに感じるのです。
公の場に載せるものは、ファンクラブの会員の意見交換とは違うので、個人の意見を載せるものだと思うので、違うのではないか? と思います。
どういったものを投稿するべきかということを規定するのはなかなか難しいことですね。「正しい日本語」とは何かという議論と似ている気がします。
私は自分で何か思うところがあれば直接コメントとしてお伝えするように心がけています。それはそれとして読んでいただき返信をいただける。そうして互いに影響を及ぼし合いながら場を形成していくことが出来るのはとてもいいことだなあと感じています。
そもそもここは、詩onlyのサイトではないので問いかけの仕方が間違っています。
あなたにとって、該当の作品が詩でないとしても、このサイトは広く創作文を掲示するところだから良いんじゃないですか?
も さんと同様の意見なのですが、このサイトのマナーガイドライン&ルールに、
「・投稿作品は「現代詩」に限定しない。PCスクリーンや携帯ディバイスで読了可能なテクストであればジャンルは不問。詩、エッセイ、評論、自作詩朗読動画etc.それらすべてを「クリエイティブライティング」とし、投稿ルールに抵触しない限りはひろく受け入れる。」
と記されています。
このマナーガイドライン&ルールは必読とされていますので、まずはこれを読んでから投稿されたほうがいいと思います。
カテゴリが明確に分けられてないため、詩の体裁をとっているけれど、詩ではないのではないかと思ってしまいました。
クラブカルチャー的な佇まいなら、バラエティでなんでもありだし、そこに人だかりが生まれるのは理解出来ます。
考え方の修正が必要に感じました。失礼いたしました。
新しい学校のリーダーズって最近ウケてるパーフォーマンスグループがいるわけで、それをネタに上の人が回答したら、「新しい学校のリーダーとは教師ですか?」というこのズレズレの空間がビーレビの面白いところ。それってイラつかせることにもなるし、スルースキルを持ってない連中がスキルを身につけるところでもある。他にも上がってる質問もだいたい同じ。なぜ詩じゃない?タグ付け自由化?Xでいくらでもやれんじゃん。まー、バカ周回で同じ質問が出てくるのもビーレビらしさ。
それを知っていないといけないんですか?
人は知らないこともありますよね?
知っていることがイケテいることなのかも知れないけれど、人はなにもかも知り尽くすことはできませんよ?
知っていることを貶しているわけじゃない。知らない人間は全て馬鹿ですか?
例えば生きていく。そのために、その情報を知ることが必要不可欠ですか?
スルースキルといったいけてるあんちゃんの好きそうな言葉だって、よくわからないけど、クラブ的なノリがわからない人だっていますよね。
それを馬鹿低脳と見下すのはいいですよ。
タグ付け自由化?Xでいくらでもやれんじゃん。
このヒップホップ乗りというかラップ乗りがちょっとわからない。バカは確かです。受け入れます。ありがとうございました。
でも、まぬけさんも、自分のことを、まぬけと名乗るのは、バカを見下すときに有効ではないのではないでしょうか?
バカを見下す以上、天才を名乗ったほうがいいと私は思います。
対比がない。比較したときに落差が出ないので、面白くない。聖に対し、俗がない。
俗+俗になっている。
間抜けが見下すばか。
そのグループが最近受けていていること自体は尊重します。
万太郎様、参りました。降参です。完膚無きまでにスベりまくりました。精進します。精進料理も食べます。
言いづらい話ですが、堕落の時代だと思うのです。食べると神経の尖が抑えられて、心地のいい人間になれると思ってます。
外に出かけるのを控えて、お菓子など食べる日々を送っています。脳に行く栄養が、腹の方に行くので、いいと思います。
仕事中はきつかった。神経使いながらだと食べられない。痩せてしまう。すると尖ってしまう。自宅で食べる。それがおすすめです。
りんごは赤いと言われて、当たり前だと怒る人と、本当にそうかな? と思う人がいる。
真面目に批判したら少しおかしいと思って笑ったのかな? と推察します。それで謝った。
そんな印象を受けました。
ほとんどの人間は、文明がなくても生き延びられる。
文明や法の論理に守られないと生き延びられない人間なんて、とってもちっぽけでか弱い存在。
そのことを教えてくれた気がします。
万太郎さんへ
文明なしに、どうやって生きられるのか、よかったら教えてください。
人間は他の動物に比べ、身体的能力において突出したものがあるでしょうか?
火をもって、槍を持ち、弓を持ち、その上で高度な文明を築き上げ、共同体を守って、知性や想像力。
理性を保ち、グループハーモニーの中で生きる。
人間にとって大切なものは、能力より協調精神です。
匿名で人を貶したり、それも一つのグルで共犯関係、共同体といえるかも知れない。
でも、少し卑怯だという美意識はないのかということです。
文明が行き着く果てが野蛮卑怯だとしたら、徐々に文化文明は衰退していくのではないか?
その世界で生き延びられるのは、野蛮であり卑怯なことが平気な共同体だと思います。
しかしそれが動物や自然界に敵うでしょうか?
それがダヴィンチが描いた文明の末路です。
文明のない世界で生きられるかはわからないけれど、粗雑だったり適当だったりごまかしを働いたり、そういった全般に無頓着で生き延びられるのではないか? という疑問点において、それは文明の仮面を装いながら、非文明ではないか? と言う問いです。
黒髪さんは、茶髪ではないのだと思う。それはいいんです。
長ったらしいことを書く。すべて暇だからです。しかし、忙しいとこうも短文で人を貶せるものか?
私は私なりに放送メディアで素人賞を受賞して経歴を作ろうと努力している。
しかし、実際に社会貢献している人々は、こうも見下しから真剣にものを考える人間のことを、短文で貶めるものか。
保守だろうと、なんだろうといいけれども、ちょっとおかしくないと思うから、外に出ないこともあるでしょう。
文明なしにどうやったら生きられるか?
猿がバナナを求めて弱い猿を蹴落としてバナナをもぎ取る。それを山分けする。
するとそれは文明的ではない。そのために十分な脚力を持ち、日々鍛えることです。
そうすると、生き延びられる可能性はあります。
万太郎さんへ
人間が突出している身体能力は、マラソンです。そのようにして狩りを可能にしました。
卑怯で野蛮なのは、動物ではないですか?人間だけが平和を望み、文明を作り上げた。鳥が子育てをするのに、枝をついばんで巣を作る。
これが、鳥の愛であり、鳥の文化です。だから人間は鳥より大きな愛を持っています。
決して貶す意図があったのではなく、ただ事実がおかしいと思ったので、質問をしてみただけです。
なにぶん、若造なので、礼儀を知らないところがあるため、失礼な物言いになってしまったところがあるとすれば、
大変にすみませんでした。ご容赦ください。
髪様
全体的に世の中全体がスポーツや身体肉体による能力を賛美する傾向を感じておりました。
漫才もそうですが、早い。テンポが速い。
全体がスポーツ的なのです。
マラソンに関し、人間がシンプルに足を上下に弾ませて早く走るスピードを競う。
しかし、それだったらチーターはどうか?
速さでは動物界でも抜きん出ています。
彼らが悪を働きますか? 卑怯をやりますか?
餌を取り、メスを追いかけ、合理的なことをやることがほとんどです。
私はそれをとても美しいと思う。そこに卑怯はない。野蛮か? それも違うと思う。
動物的な直感と本能のままに動く。それを私は美しいと思う。
しかし、人間がそれをやるのは無理がある。企みがある。企画がある。
人間には知性がある。その知性能力をどう使うか?
2+2=4
こう使うか?
2+2=8
こう使うか?
無職になったら、人を殺してもいいか?
無職になっても最後まで諦めずに仕事を探すか?
人文と数式は似ています。感情を考慮に入れなければ、どこまでも透明に正しい答えを突き詰められるのです。感情が邪魔すると、正しいことを言われると、頭にくる。それが暴力行為に向かいます。数式的なロジックで受け止めれば、それはそうかと笑い始めるくらい面白い批判をされていることがわかるはずです。
立場見識虚栄心が、正しい認識を邪魔しております。
人は誰もが働きかけの世界で生きる宿命をおい、奴隷としての人生を引き受けます。
どれだけ社会的ステータスがあるか? どんな身分立場か? あらゆる社会的尺度で人を評価し、決して素のままありのままに言葉を受け取ろうとしません。
なにか言われると、だからどうした?
と口にしてしまうのは、働きかけの世界に慣れすぎているからです。
私はこう思う。
それを聞いて、嗚呼そうか? それが本当の人生です。
なにか俺に要求したのか? そればかり始終考えて生きている。すると、働きかけられること自体に耐えられなくなっていく。それが末路です。
こうしろああしろと言葉でやたら訴えたり、これはこうである。こうに決まっている。
これは見えない暴力なのです。
空気があります。ただ吐いて吸うだけです。それが気持ちいい。それが人生です。そこに益はない。そこに見返りはない。だからいい。
スポーツというものは、人間が思考し、考え続ける想像力の世界に生きることを、拒否していると思うのです。
人間が平和を作り上げた? それは人間が逆に言えば野蛮たる所以と言えます。
例えば私が今目の前にいる人間をぶん殴る。それはやりたいからやったということだけれども、相手が自分と同じように辛い思いをするかな? そう思うとやれない。そこで想像力が働く、その想像力はどこから生まれるか? それは負けないと生まれません。殴られて、肉体的に現実に破れないと、イマジネーションの世界に沈むことは出来ない。
結果として平和を望む。誰が? それは、その殴られた相手といた時間が楽しかった。
その記憶に違いありません。
殴られた人間にとって記憶だけが頼りです。現在はありません。しかし、殴られた人間と共に過ごした時間に楽しい。この人たちといて良かった。そう思うから平和を望む。殴った相手が何故それを許すか? それはもしかしてバツの悪さかも知れないし、卑怯かも知れない。それを私は許したい。
若いということは無条件に素晴らしいことです。間違えることもあるでしょう。
しかし、永遠に間違い続けることはない。いつかは間違いに気づき、誤りを修正する時がいつか来る。
失礼を承知する。それはお茶を飲んで、湯を沸かすことと一緒です。つまり礼儀作法社会マナー、それが出来て社会人です。ユーモアを大切にして欲しい。難解な言い回しをするのは、知的な想像力の膨らむ世界にあるユーモアを知って欲しいからです。そのユーモアが会話におけるクッション材になります。
ユーモアを聞いて怒り出す人がいる。それは数式を間違って覚えているのです。
2+2=4
これを5と覚えてしまうのは、願望が勝っているからです。
りんごは赤いと言われたら、ワハハと笑って欲しいのです。
正しいことはおかしい。そりゃそうだ。納得できる意見には余裕がある。そこに無駄無益な空気がたくさん入る混んでいるからです。そこでこそ我々人類は自由に空を飛べる思考による飛躍ができるのです。
鳥より大きな愛を持っているか?
愛は伸縮運動を繰り返す。大小で物事を考えるべきか?
鳥よりも大きい? その尺度は?
そこには裏付けが必要になる。
鳥は小鳥のために巣を作る。シンプルこの上ない愛です。
これより人の愛が上だという裏付けを知りたい。
人間は鳥ではない。しかし鳥になれる。
木ではない。しかし、木になれる。
肉体によって滅びても知性と想像力理性感情によって、ありとあらゆるものになれる。それを愛というなら、愛のコピーかも知れない。愛。模倣。人間のなすすべては自然の模倣です。
なにかより優れているか? 私は人間の本質は「愚」だと思う。
この「愚」にこそ、人間の凄みがある。愚を認められますか?
願望が勝ってしまう自分を認められますか? それを認められなければ、外へ飛び出すことは出来ません。
自由になることは出来ない。他人と手に手をとって生きることは出来ない。
自分が優れていると思う限り、他人と仲良くして生きざるを得ないと気づくことは出来ないのです。
万太郎さんへ
マラソンをやったことはありますか。ただ足の上げ下げを工夫することで速くなりますか?そのためには、ペース配分を考え、苦しくても走る根性を
身につけなければなりません。
チーターが速く走るのは、獲物を殺すためですね。それが卑怯でないと言えるでしょうか。全く悪を犯していませんか。
学校で習った通りなら、2+2=4ですが、それは十進数の場合のみの話であり、2+2=8が正解であるという世界を想像することも
可能です。習わなければ正解はわかりませんが、本当にその式がなぜ正しいのかということを知るためには、数字計算の意味
というものを、自分で考えなければなりません。数字というものは、ただその手助けをしてくれるだけです。
奴隷は一生奴隷でいる方が幸せで正しい生き方でしょうか。頑張って、奴隷から解放されることを目指すべきだと、ぼくは思いますが。
人間が鳥になることは、不可能です。ただ鳥の気持ちが理解できるだけです。
人間の本質は愚でしょうか。愚かな人間が、社会で生きていくことが、出来るようになるでしょうか。あまり愚かなことを続けていると、
そのうち地獄に落ちると思いますよ。
なぜ手に手を取って生きることができないんでしょうか。ただ、手を取ればいいだけですよ。それが不可能なんですか?
仲良くして生きざるを得ないということは本当ですか。子供のころ仲良くしたのは嘘だったんですか。楽しくなかったですか、子供時代。
私は手に手を取って生きる存在を見つけた。
そしてそのことは決して人に自慢するものじゃない。
あなたの全体のロジックは一つもハートに届かない。歪んだ優生学だ。地獄に落ちた方がまだマシだ。
イマジネーションの世界に生きながらワープしているのはあなただ。
左翼的な夢物語をどこかで信じているその想いは尊重したい。
ヒューマニズムの腐りきった自己顕示欲。もうあなたと私が会うことはないでしょう。
最後の一文に関しては、もう腐り切った歪み切った現代日本人の姿を表していると思う。
私は誰よりも楽しい。生きているから苦しい。あなたが楽しく見ているドラッギーでハッピーな夢にくその匂いとピザのシャンペンで最後の花向けと乾杯を、さようなら。
死なないでね
万太郎さんの詩読みてぇー!誰だか気になりすぎる。
私も、チーターは卑怯ではないと思うな。
人間を猿が貶める最良の方法。その見本のような内容だな。うんこには、沢山の、ハエがたかる。異臭がするということにおいてだ。
人間にとっての賢さというのはこの企みと企画性によるものかね。
つまり、こいつは、こいつを支持する人々も、自分が賢いとどこかで思ってる。この賢さが僕にはわからない。言葉を扱う世界にアマチュアが入ると、どんどんそういうことが蔓延していく。少しは品のいい文章に会いたい。そう思う。
「内容がないよう」
という駄洒落がある。ここまでのバカでも、ある種のトリッキーなゲームなのか? クラブハウス的なゲーム。猿回しの芸のようなもので、楽しませれば勝ちということだな。
俺の詩が読みたいと。読ませたくない、お前みたいなクズには。
私もチーターは卑怯ではない? そう同意する根拠と裏打ちを知りたい。これは動物実験だ。是非聞かせて欲しい。
カウンターカルチャーはいいと思ってた。どこかで本当は違うんだ。マシだと思っていた。
「理由なき反抗」
という映画がある。なんで理由なく反抗する? 要はセックスなんだ。セックスよりも知性が見つかれば、反抗はしない。知性が見つからなかったから反抗した、
盗んだバイクに跨って走り出す。それはバカだからだ。
大人が理解する必要のない人間というのがいる。
小便が溜まると沢山の性液がたまる。それをドバッと浴びせられれば喜ぶ人もいるだろう。
私はありとあらゆる手を使ってこれらのものを美化しようとしてきたと思う。そろそろ限界だ。
匿名 より:
2023年10月17日 21:26
死なないでね
匿名 より:
2023年10月17日 23:27
万太郎さんの詩読みてぇー!誰だか気になりすぎる。
私も、チーターは卑怯ではないと思うな。
すいません、死なないでね、という匿名は私、黒髪です。
下の匿名は私ではありません。
一番最初の匿名の人があなたで、2番目の人も匿名。
それを読んだら、同じ人だと思う。
2番目に匿名を名乗った人のために謝ったと考えていいですか?
2番目に匿名を名乗ったら、同じ人間だと思われてしまう可能性がある。
その人のために謝った。
そういうことでいいでしょうか?
最初に匿名を名乗った人の謝る理由がどうしてもわからない。
「死なないでね」
と励ましたエールを送った。
その後匿名の人がもう一つ別のエールを私に送った。
それに対し私が不快だと言った。
その時に、同じ人物かなと書いたことに
それは違う人間です。申し訳ありません。最初のが私ですと言ってきた。
なんであなたが謝る?
①味方を庇った
味方だという理由がわからない。わかる必要がないことがある。
わかる必要のあること。生活のありとあらゆる種々雑多。
詩っていうのはそういうことじゃない。わからないことを不思議だなという暇人の時間潰しなのかもしれない。
その人が自分の味方だという根拠と裏付けを知りたい。
①の理由が正しければそれを教えて欲しいです。よろしくお願いします。
②以降は憶測ですが
夜中にお酒を飲んでいてラリっていた。それで情緒不安定で支離滅裂なこと。感情をぶつけた。
その場合日頃のストレスが原因かもしれない。
⑶は、空気を読んでなんとなく謝った。そういうことは山ほどある。なんで謝るのかわからない。なんで謝られたのかわからない。
万太郎さんへ
そうですね。死なないで、とエールを送ったのですが、皮肉や余計なことと取られてしまったのではないかと怖くなったのです。
それで、あとの匿名の人が誰なのか知るのは、僕にはできないので、なんだか混乱させてしまったのではないかな、
と思い、正そうと思ったのが、理由です。
なんだか悔しいのだが万太郎が書くものは的を射ているし分裂気質なようでありながら流暢でイマジネーションに富んでおりけしからんこんなところに凝った文章を落書きするなんぞ実にけしからんおまえはバンクシーか器物損壊だぞ
くっさい現代詩が読みたいわあ
こってり豚骨ラーメンみたいな
くっさい現代詩が読みたいわあ
>すいません、死なないでね、という匿名は私、黒髪です。
下の匿名は私ではありません。
↑
>そうですね。死なないで、とエールを送ったのですが、皮肉や余計なことと取られてしまったのではないかと怖くなったのです。
それで、あとの匿名の人が誰なのか知るのは、僕にはできないので、なんだか混乱させてしまったのではないかな、
と思い、正そうと思ったのが、理由です。
左翼的なヒューマニズムを言い訳にするのは格好悪いと思わない?
それなりに正義感から書いた文章だったと思うんだよ。それに対し、これは詩じゃないのではないか? という指摘に対し、詩じゃなくてもいいだろうと結論を出そうとした。でも、詩じゃなくてもこれは表現なんでしょ? 表現だったら個人の視点から意見を述べないものに関し、納得はいかないかな。
批評だって、原点にあるのは個人の見識であって、私はこう思うだと思う。詩じゃない、評論でもない。
それでそれなりに自分の正義を貫こうとした人を擁護する内容としていい加減で済ませようとしているわけだ。
なんで死なないでとエールを送ってしまったのか教えて欲しいなぁ。
死んでほしくないんだよね。それはなんで? その理由がわからない。で、そのなんで僕が死ぬと思ったの? 痩せてるからかな?
好きで痩せてるわけじゃなけれど。
ベートーヴェンで感じるのは運命だね。宿命というか。彼が才能のある人間だから、親父がスパルタを働いた。それが良かったとは僕は思わない。
僕がモーツァルトや古今和歌集を自分で朗読して感じるのは、全体の音楽的な柔らかみなんだ。これは体罰や肉体的暴力、精神的暴力の中で生まれる表現の中でどれだけ表現し切れるかはわからない。
近代以降表現というものがどんどん硬質になっていく。それが肉体的に貧弱な人間を生み出していると思う。
こうしろああしろと迫るとき、精神的な暴力を個人的に感じる。その上で言い分が明確でなく、正当性も感じられないと法的に訴える価値のあるものになりそうですね。
万子さんへ
分裂病というのは、家庭内というドメスティック空間において、同調圧力から精神的に逃避する人間に生まれやすい。
外に相対性を求められない時、内側に相対性を作る。それが一人語りです。
外側の要求圧力に対し、絶対を求められれば、内側に相対性を生み出すしかない。
ブライアンウイルソンや、多くのドメスティックバイオレンスの世界に行きた人々が精神分裂病を患っています。
落語家でも、いじめられっ子は、その手のものが得意な人が多い。厳しい世界ですから、一人語りが多い。
問題は内容が面白いかということですが、僕はそれなりに玄人肌の人に認められて入る。
素人にはわからない。
知性的な面において、大衆というものは情緒に偏るのです。その弱点は私も気づいている。
普段外で喋ると内容がほとんどなくあやふや。気持ち悪いのですが、それはほとんどの人が言葉を情緒で受け止めているからです。
万子さんが、言ってることはもっともな気がするけれど、なんだかおかしいと感じるのは、その情緒性において、共感が圧力をかけている方によるということだと思うのです。
しかし、言葉を情緒だけで受け止めてしまうと、内容がないものを、どんどん受け入れるようになっていく。文化の崩壊です。
>草井万子さん
九月号あさひてらすでどうぞ。SNSで掲載されてますよ。おののもとという名前。もう変えようかな。
ところでどうしてその臭い現代詩が読みたいのか知りたいのです。豚骨ラーメンみたいな臭い現代詩。それ自分の文章を読めばいいのではないか? と思うのですが。冬場は僕はコッテリが好きです。今年の冬は寒いと思います。例年になく。小田和正の歌がいいなあ。臭そうなラブソングで凍えた肌を温めてくだされ。
だけど、あなたは男なのでは。
ネームに関してですが、思うんです。美意識というものないのかな?
歪な食い方歪んだ笑顔、私を睨むその瞳。正しい論理など絶対に許さない。私が世界を支配する。
それは女鬼畜です。
女鬼畜的なものを表現したかった。全体にそんな印象を受けました。世界は女が支配する。同意見です。ありがとうございました。
万太郎さん
ありがとうございます。
おうふ。あさひてらすのご紹介ありがとうございました。だけど私はどっちかというと、万太郎さんがここにコメントしているキレッキレの文章が好きかな。ごちそうさまです。
切れる若者見たいのがいますよね。私は感情で切れるのでなく、論理で切れるタイプですので、社会的に不遇者です。
なんとなもうダメだという予感がしています。ある種のオーディションは受かりましたが、電車賃がなく、辞退。
あとは、スーパーで二、三年働こうみたいなところに落ち着く予定です。
ここで切れてもお金が入らない。そこが難しいところですよね。つまり仕事にならないということです。
私がこの表現作品を読んで特におかしかったのは、私はこの表現作品の体裁を取り繕っている表現作品の中で伝えたいメッセージが、親のために息子が身を犠牲にしろと訴えていることです。
本来次世代の可能性を念頭において考えると、旧世代のために、新世代が人生を棒に振ることを推進することはおかしい。
国が保護するために出すお金は本人が全額使うことになっている。20から親が6万五千円あるうちから5万5千円使っている。これを外で言われると怒るということは、内心の後ろめたさの表れかもしれない。
洗濯機を深夜にかけ続けて騒音苦情を無視するのも、立派な家庭内ハラスメントです。これが元で入院した人を私は隣近所に知っている。
自分は音のしない部屋ですやすやと寝ている。
そういったあれこれも踏まえると、反体制によって国を貶め、表向きだけ取り繕って生きる舐め切った生活態度を推進し、押し付けているように感じる。
命令してはいけない命令しては。それは表現ではない。
あとプライヴェートで死ねとか送ってくるのもやめてほしい。やめてください。一人で焼肉食べてるのもおかしい。別にいいけど。少しモテたほうがいいんじゃないの。DJを生業にしてるなら。人前に出る仕事をやっている人が一人で焼肉。それを報告されたら少し悲しい。
ピカソが絵を描いたときに平和にしなければいけないと思って描いたわけじゃない。
絵そのものが表現作品。
これは次世代文化について未来振り返っていい内容のフォーラムになったと思ってます。
この内容を見て人権ヒステリーほど、優生学者だということがはっきりしたと思う。
僕が渋谷陽一の言っていることがいいと思ってる時に、それを支持するリスナーごといいと思ってる。
それは優生学の考え方じゃない。
アナログ信仰にどこかで不信があったのは、人生ゲームというゲームがあって、これは現実を丸写しにした遊びなんだ。お金の計算と利益の中で生きる現代人。これが遊戯としての人生だとはとても思えない。
僕を見て人が羨ましい尊敬を口にするのは、生活保護を受けて家にこもって、人と会話もしない人がいる。
僕の場合どんどん新しいアイデアと画期的な遊びをバンバン捻り出してくる。そのアイデア量の放出が、金になるならない以上に、僕と会う人は面白がる。特に女性。
男性が知性的な遊戯を女性に教えてないことが、彼女たちを見ているとわかる。
女遊びが男と遊ぶよりよほどマシだと思うのは、知性的な遊戯を知らない人間と遊ぶのと、女性と遊ぶのとどっちがいいかという話。女性は僕の頭の中を感心して聞く。僕は話してる方が面白い。
投稿と受賞の繰り返しで、名を挙げようというような人生を棒に振るようなギャンブラーのような生き方をしているんだ。
掛け値なしにに面白い生き方をしている人間を、貶めるような表現作品にもなってない文章を載せるのは、ホモサピエンスのやることとは言えない。遊んでない。ビジネスライクで芸術に接している。そこが寂しい。
サッカーや肉体系より、ゲームボーイをやって引きこもる男の方が創造性豊かなことがある。
男の遊びを知らない男より、女とお喋りしてた方が面白い。
肉体はあなたにあげる。お金の世話をするのは、男性でいい。僕は色んな女性とお喋りしてる方が好きだな。男はつまらない。この男の頭の中を見てもわかる。文に丸ごと表れている。
女は僕に不安を覚える。安定してお金を稼ぐような男とは思えない。それでも魅力を認めない人はいない。
魅力に乏しい男が女を養えばいいのです。