創作物に於ける蔑称の使用は作者の裁量の範囲で自由だと思ふのだけれど、冒頭一行目にいきなり「ちんば」とか書かれるのはアイキヤツチ的と云ふか、何だかあざとくつて厭ネと思ひ此のお手紙を認めてをります。別に処分をして頂戴とかぢやあないのです。唯蔑称の使用には高い中毒性や依存性が御座ゐますから、何れ一線を越えるか既に一線を越えて了つてゐるやも知れぬと懸念する由、皆みな様は創作或いは鑑賞の折、一寸立ち止まつて考へてみて下さいと、さう切に希つてをります。

かしこ

「これつて言葉狩りなのか知ら(反語表現)」に11件のコメントがあります
  1. すみません、釈明ではありませんが、これは私自身にある障害の事実を書いております。だからといってどなた様かが不快になることを配慮しないでよいとはならないとも考えます。ただ、私自身はそのことで、時に差別的な言葉によっていじめを受けたこともあります。ちなみにですが、二十代になって矯正トレーニングを受けました。今はよくよく私の歩き方を観察しなければわからない程度に収まっております。

    特に告白などの意でのトピックではないこと、理解しておりますが、作者として表明したく思った次第です。

    なんとなく、誤解は誤解のままにの私の主義を貫いて黙っていた方がよかったようにも思いますが(みうらおぢさんのイメージが変わる、みたいな)。

  2. ポリコレ的な言葉狩りは根本的になにかが間違っているとおもう。
    大事な何かが置き去りにされているような気がしてならない。
    人は一人で生きているのではない。
    同じように
    言葉(名詞)も一つ一つが単独で存在しているのではない。
    どちらも
    関係性のなかではじめて意味や意義や価値をもって存在している。
    人なら他者との関係性のなかで存在の意味をもち、
    言葉なら他の言葉との関係性のなかではじめて意味をもつ。
    人も言葉も生まれつき関係性のなかにあるから、
    これらは後付のものではなく先天的なものだ。
    その関係性を棚に上げて
    言葉だけを攻撃するなど愚の骨頂ではないかと
    常々思っていた。
    言葉は関係性のなかで、いかようにも変化する。
    だから言葉狩りもひとつひとつ、どのような情況で語られたかが
    重要になってくる。
    ただ単に「放送禁止用語」を決めるような、
    言葉だけを単体で取り上げて規制する狂気のような
    言葉狩り社会にわたしは与しない。

    狂気というのはネットで検索すればすぐに出てくるが
    恋人を「彼女」「彼氏」というのは差別だ、「奥さん」とか「女房」とかいうのも差別だ
    世の中は男女だけじゃない、様々な性意識をもった方がいるから
    彼女、奥さん、女房などという言葉はやめよう。

    「お袋の味」「お袋食堂」もやめようう。世の中には親のない子もいる。
    さまざまな宗教の人がいるから「メリークリスマス」という言葉もやめよう。
    こんなことが真面目な顔でポリコレ信奉者のなかで語られるようになった。
    そして米国の一部社会では実行に移されつつある。
    狂気を通り越して異常である。

    狂気が精神の病いとすればこの「狂気」もいずれ差別用語になるだろう。
    異常が神経の病いとすればこの「異常」も差別用語にしなければおかしい。
    こんなことをやっていればいずれすべての言葉は使用禁止にするしかない。

    大事なことはひとつひとつの単語ではなく
    それが使われた情況だ。
    だれかを差別したり揶揄するために使われたかどうかは、
    だれにでもわかる。
    そうでないのならつまらない言葉狩りや放送禁止用語の制定と抑圧に
    わたしは全存在をかけて抵抗する。

    言葉ではないのだ。ひとつひとつどのような情況で語られたか
    それが問題なのだとおもう。

  3. あの、このトピックから少し離れた書き込みになるのですが、ご容赦ください。三浦果実は何度か名指しで(まあ、こちらのトピックも私の作品だと特定できますから入れますね)フォーラムにて告発を受けていて、その度に、必要性を感じて、さまざまなレベルの開示をしているんです。で、おそらくは、投げかけをされるスレッド主さんはそれなりに意義を感じて告発されてるのでしょうが、過去の告発も、今回のも、見識が浅過ぎるなあと感じております。私もたいがいは誤解は誤解のままに完全スルーするんですが、けっこう私、誠実なんです。なのでそのスレッド主さんの向学のためを思ってこういう書き込みをするんですが、本音をいうと、名指しで何かをききたい、解消したい疑問がある、そういう時は普通に表の掲示板の作品のコメント欄に書きにきて欲しいかなあって思ってます。
    こちらで名指しでトピック立てられて、あまり良い結果は得れないですよね。私も含めて俯瞰してみれる人らが上手く着地させてますけど。
    失礼しました。

  4. 反語にわざわざしなくてもいいだろうとか、本当は反語じゃないから敢えて此処に書いたんだろうとか、余計な深読みをいちいちしてしまいます。

  5. 「関係性」と申しますれば、先ず「文脈効果」なるものが思ひ浮かぶのですが、その点「見識が浅過ぎる」や「向学のためを思って」等も、「あゝ、『ちんば』と書く人の言葉遣ひだわ」と全く腑に落ちる次第で御座ゐます。

    さて、言葉に絡まる関係性を一旦解き異なる形に繋げ直す事もまた詩歌の営みにありますから、「昨日はOKでした」「余所では無問題でした」と云ふ経験則も恃みにしてはならぬわなあ、と私は考へるものです。さうすれば、果て其の言葉を遣ふ必然が在つたのかと、必然疑問も浮かんで参ります。其の際「別の表現(言葉)」を模索する事も、私はいつかな苦になりませぬ。以上、私しの創作姿勢の表明でした。

  6. 「ちんば」には「ちんば」の言葉の歴史、つまり人間の歴史がつまっている。
    これを表現として使うさいに、何の制限もあってはならない。
    それは人間を否定することだ。

  7. 一般会話ではなく表現(詩、小説、散文)の場合にどうして「ちんば」をオーケーかというと
    表現のさいに「ちんば」がダメなら、そういう昔には差別であったと知らないで使っていた
    差別者、蔑視者を描けないからだ。
    たとえば座頭市で「めくら」ということばを喧嘩相手がふっかける。
    これはこの喧嘩相手が差別者で蔑視者であることをはっきりするために「どめくら」と
    叫ばせている。これがもし使用禁止になれば昔は差別言語を話す蔑視者がいなかったことになる。
    そんな不自然な話はないだろ。むかしは確実に「どめくら」「ちんば」と叫ぶ者がいた。
    それはちゃんと表現しなければならない。その差別語に歴史も自然も人間のあり方もすべて
    そなわっているからだ。表現に関わるものは上からの差別語指定に抗うべきだ。

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