皆様、平素よりB-REVIEWを御愛好賜りありがとうございます。
この度、本サイトの新たな試みとしまして、「コメント数に応じて3作目の投稿を可能にする」というシステムを導入したく、ご報告申し上げます。
本システムの狙いとしては、本サイトのメインとして両翼を担う「投稿作品」と「コメントによる合評」の活性化、特にユーザーの皆様へ、合評活動の新たな付加価値を与えたいとの考えに寄る所でございます。
今現在、運営の方でシステムの導入や制度の詳細の作成に取り組んでございます。
システムの試用期間は1~2ヶ月を想定しております。以後、その是非によって継続して導入するか、廃止するかを検討致します。
皆様には、システムの不備等でご不便ご迷惑をお掛け致すこともあるとは存じますが、調整や改善に運営一同全力を尽くす所存でございます。本件、何卒よろしくお願い申し上げます。
———
以下、藤井の雑記
本件に関してですが、様々なご意見があることと存じます。
コメントに付加価値を与えるということは、例えば「コメントの質の低下」が考えられます。
つまり、非常に短いコメントや、よもや作品を読んでもいないと疑われるコメントで溢れる可能性も充分ございます。
また、新システムの導入自体への、皆様の疑問も当然あると考えております。そもそも変化をすることの必要性、それを問う方々もいらっしゃることでしょう。
まずコメント劣化についてですが、運営としてはある程度は想定しております。
ただ、本サイトはそのようないわゆる「ライトレス」も包括する姿勢であり、それに運営も沿っております。(勿論、長文でのコメントも大歓迎です。)
ただ、明らかに作品を読んでいないであろうコメント、その他明確に問題であろう発言やコメントにつきましては、運営の方で適宜チェックし対応致します。
それでも、是非の付け難い劣化コメントによって、サイトの魅力が低下する可能性も無論ございます。それに備えて、(恐らくシステム導入から後ほどになるとは思いますが)「文字数とコメント数」両方の規定を満たした場合のみに3作目を解放、という形も考えております。
二つ目に移ります。変化と安定は裏と表であり、安定を取るなら変化は極力避けた方が無難でしょう。ただ、本サイトの最大の魅力は「新たな挑戦」による「変化するサイト」だと個人的には考えております。また、変革を望まないと往々にして成長率は緩やかになり、いずれは下降するものです。我々の目指す所は「詩投稿サイト、ひいては詩そのもののメジャー化と興隆」にあります。ユーザーの皆様には、様々なアイデアに取り組み成長し続ける「B-REVIEW」という面白い場所を、どうか温かい目でお見守り下されば幸いです。
2019.08.06 藤井龍平
B-REVIEWに論功行賞のシステムを導入するということですね。
それは、詩を質ではなく量で評価することに繋がるのではないですか。
コメント欄はあくまで副次的なもので、コメントが投稿作品より重視されうる可能性があることは予想がつきますし、
それを試してみようと考えること自体が倒錯した論理ですね。
そんなことをするとパックポエム化が発生して、B-REVIEWは崩壊すると思います。
そもそもB-REVIEWが活性化されないと考えているとすれば、それはおかしいです。
少数の詩愛好家の場所でいいではないですか。
タカンタさん、こんばんは。本投稿執筆者の藤井龍平です。
コメントに付加価値を与えるならば、詩を質ではなく量で評価することになると考える、その論理の極めて明確な経緯をお話願えますか。何故なら、当方の考えるところによれば、「詩を質でなく量で評価する」と指摘されるシステムは「ひと月に最も多くの詩を投稿した方が大賞または何らかの利益を得ることが出来る」という制度またはそれに近いもの以外考えられないからです。なにゆえコメント数に価値を与えることで、詩が絶対的な数によってのみ評価されるとお考えになったのか、示して頂かないと分からない。
次に移ります。「コメントが投稿作品より重視されうる可能性がある」予想は私には出来ません。なぜなら、合評活動に励んだ結果到達するユーザーへの利益は「作品を投稿出来る権限」であり、最終的には作品へ帰結するシステムだからです。しかし、私の考えつかぬ思わぬ所の欠陥によって、貴殿の仰る予想の通りとなる可能性はございます。そこに至るストーリーを出来るだけ細かくお教え頂けますと、事故を未然に防ぐことが可能です。
すみません、自分無学ゆえ「パックポエム」の意味を存じ上げませんでした。大変恐縮ではございますが、よろしければ教えて頂きたいです。
まず、私がなぜ、変化をしなければ本サイトの成長が緩やかになると考えているのか、そしてなぜ少数の詩愛好家の場所では我々が満足しないのか、明示しなかったのは申し訳ないところではございます。話せば長くなるので短く纏めますと、まず、なぜ成長が緩やかになっていくのか、企業を例に例えます。会社設立当初、細かいところまでほとんどは社長及び上層部が決めます。しかし、それでは会社が巨大化した後上手く回らなくなってきた。そうして生まれたのが「事業部制」です。そして事業部制はさらに形を変えカンパニー制に、カンパニー制はさらに形を変えホールディングス制に、どんどん変化していきました。それは何故かと言うと、常に今ある場所を見直し、新たな制度を考えなければ生き残れなかったからです。勿論、社会の変化に遅れ、社長が細かい所まで決める制度のままであったり、企業努力を怠った会社は倒産の憂き目にあいました。変革してこそ組織であり、魅力ある場所となる。これを、本サイトにも当てはめることはおかしく、極めてズレた考え方でしょうか。
「少数の詩愛好家の場所でいいではないですか。」タカンタさんはそう思われる。大変恐縮ですが、私はそうは思いません。少数の詩愛好家の場所は、他に沢山存在するからです。山のように存在する詩投稿サイトの中で、B-REVIEWにしか出来ない、そのアイデンティティはどこだろう。それは「常に変化し続けるサイト」でした。多くは一定のシステム構築後、大きな変化は、特に最近起こっていません。だからこそ、新しく生まれたサイトだからこそ、本サイトは様々なアイデアをもって変革していこう、こう考えるのが運営一同でございます。
もちろん、このシステムをずっと導入し続けますと申している訳ではなく、試しにやってみよう、と考えるところであり、さらにそれは今まで明確なメリットの無かったコメントに価値を設け、ユーザーにコメントの意義を感じてもらいたいと考えているからです。確かに運営の理念にそぐわぬ方もいらっしゃることとは存じますが、ユーザーの皆様により良い場所、より盛り上がった場所を提供したいとの考えに寄る所でございます。批判のご意見にも、真摯に向き合いますゆえよろしくお願い申し上げます。
藤井龍平さん、こんばんは。
丁寧なお返事有難うございます。
この度、本サイトの新たな試みとしまして、「コメント数に応じて3作目の投稿を可能にする」というシステム
>コメントに付加価値を与えるならば、詩を質ではなく量で評価することになると考える、
その論理の極めて明確な経緯をお話願えますか。
コメントと作品の質とは無関係です。
コメント量が多くその「質」が一定以上であれば、低レベルの作品でも多く投稿出来ることになります。結果
的に量が質を駆逐することになると思います。また、全体を通して見ると、不思議なことに本業である詩より
副業のコメントの方が上手く書ける方が多いようですね。これも私が懸念する要因の一つです。そもそも、多
くコメントを書けば、下手な詩しか書けなくても優遇されうるというのはおかしくないですか。
>合評活動に励んだ結果到達するユーザーへの利益は「作品を投稿出来る権限」であり、最終的には作品へ帰
結するシステムだからです。
合評活動に励むのはあくまで副次的作業ですね。コメントにいそしむ暇があったなら、それを作品の質向上に
充てるべきでしょう。コメント投稿により「作品を投稿出来る権限」が与えられるのであれば、それを狙った
コメントが増えることは必然です。適当にそれらしいコメントを作り上げることは誰でもできますが、優れた
作品を書くことは幸運に恵まれた者にしか出来ません。言い換えれば、いい詩は努力すれば生み出せるという
ものではないのです。
>まず、なぜ成長が緩やかになっていくのか、企業を例に例えます。
>勿論、社会の変化に遅れ、社長が細かい所まで決める制度のままであったり、企業努力を怠った会社は倒産
の憂き目にあいました。変革してこそ組織であり、魅力ある場所となる。
その考えはおかしいですね。
詩作は組織で行うものではなく、あくまで個人の所為です。詩作に組織の概念を持ち込もうとするその発想が
私には理解しかねます。それは個人における主体性の放棄に帰結するでしょう。詩人は会社員ではありません
し、もしかするとB-REVIEWは会社であり、運営は取締役会に当たるものなのですか?言葉の綾だとしても、芸
術の場所として適切な例えだとは思えません。確かにある種のサイトは「活性化」していますが、それはB-R
EVIEWとしても望む形ではないでしょう。
>「パックポエム」の意味を存じ上げませんでした。大変恐縮ではございますが、よろしければ教えて頂きた
いです。
「パックポエム」は、「パックジャーナリズム」を援用した私の造語です。
わからなくて当然です。すみません。
要するに大衆の志向に媚びた詩や、それに群れをなして読者が集まるような現象をその言葉の意味に込めまし
た。今でもそのようなことは発生していますから、それを助長する可能性があるな試みは止めたほうがいいで
すね。
>もちろん、このシステムをずっと導入し続けますと申している訳ではなく、試しにやってみよう、と考える
ところであり、さらにそれは今まで明確なメリットの無かったコメントに価値を設け、ユーザーにコメントの
意義を感じてもらいたいと考えているからです。
おそらく、一旦、導入したならそれを取りやめることは難しいでしょう。何故なら、ある程度の「質」を保っ
た工業的コメントは必ず増えるであろうからです。また、「コメントの意義」を感じさせるような雰囲気を助
長するようなことはしない方がいいですね。コメントは個人の自発性に任せるべきでしょう。コメントを半ば
強要すると、自発的なコメントが、工業的コメントの中に埋もれてしまいます。ちなみに、作品に批判的なコ
メントを書くことは勇気が必要ですね。全ての人を敵に回しかねない危険性があります。その根拠を正確に示
していればいいのではないかと思うかもしれませんが、欠点を挙げればきりがなく、(そもそも根本的に駄目
な場合が多いので、コメントを書く前に途方に暮れてしまう)それを直接的に指摘することは、私にとっても
なかなかしんどいことで、お互いに得るものは無く反発を買うだけだということもあります。おそらく、殆ど
の人にとって、総スカンをくらって異端者とみなされることは精神的な圧迫となり、自身の詩作にかなり悪い
影響を及ぼすでしょう。(私の場合、詩作は既に終了しておりますので、嫌われまくっても詩作に具体的な悪
影響を受けないですむことは幸いでした。)では、作品を褒めればいいではないかと思う向きもあるでしょう
が、それを私は見つけることが難しいのです。多くの方たちは簡単にその詩の良いところを発見できるようで
すが。無理矢理に「褒めるコメント」を作れないわけではありませんが、それは私にとっては苦痛を伴う「仕
事」です。
結論として、文学の存在意義が問われている状況でそれを「活性化」しようとすることに無理がありますし、
無理に無理を重ねることはなかなか難しいことだと思います。
「少数の詩愛好家の場所でいい理由」
お互いに考えが根本的にずれていることは横に置いておいて私に言えることは、
かつて、文学は少数の限られた人たちのものでしたし、その中に入るには資格を必要としました。
ただ、今は時代が違うと言われればそれまでですね。
最後に、勝手なことを言いますが、私は詩作を既に終えており、また、無限に存在する考えの一つに一致点を
見出すことに詩作上のメリットがあるとは思えません。私はB-REVIEWに参加したてであるので勇みこんで意見
表明をしましたが、殆ど得るものはあまりありませんでした。根拠を示せと言われても、考えてみれば、相手
を説得できたからと言って、こちらから相手に与えるだけで、相手から与えられるものは無いので、根拠を示
すために時間を費やす気にはなれないのです。まあ、とりあえずトリガーは渡したので、後はご自分で考えて
くださいということです。
※改行が上手くいかなかった為、再度、コメントいたします。
申し訳ありません。
可能であれば、前のコメントは削除してください。
藤井龍平さん、こんばんは。
丁寧なお返事有難うございます。
>コメントに付加価値を与えるならば、詩を質ではなく量で評価することになると考える、
その論理の極めて明確な経緯をお話願えますか。
コメントと作品の質とは無関係です。
コメント量が多くその「質」が一定以上であれば、低レベルの作品でも多く投稿出来ることになります。結
果的に量が質を駆逐することになると思います。また、全体を通して見ると、不思議なことに本業である詩
より副業のコメントの方が上手く書ける方が多いようですね。これも私が懸念する要因の一つです。そもそ
も、多くコメントを書けば、下手な詩しか書けなくても優遇されうるというのはおかしくないですか。
>合評活動に励んだ結果到達するユーザーへの利益は「作品を投稿出来る権限」であり、最終的には作品へ
帰結するシステムだからです。
合評活動に励むのはあくまで副次的作業ですね。コメントにいそしむ暇があったなら、それを作品の質向上
に充てるべきでしょう。コメント投稿により「作品を投稿出来る権限」が与えられるのであれば、それを狙
ったコメントが増えることは必然です。適当にそれらしいコメントを作り上げることは誰でもできますが、
優れた作品を書くことは幸運に恵まれた者にしか出来ません。言い換えれば、いい詩は努力すれば生み出せ
るというものではないのです。
>まず、なぜ成長が緩やかになっていくのか、企業を例に例えます。
>勿論、社会の変化に遅れ、社長が細かい所まで決める制度のままであったり、企業努力を怠った会社は倒
産の憂き目にあいました。変革してこそ組織であり、魅力ある場所となる。
その考えはおかしいですね。
詩作は組織で行うものではなく、あくまで個人の所為です。詩作に組織の概念を持ち込もうとするその発想
が私には理解しかねます。それは個人における主体性の放棄に帰結するでしょう。詩人は会社員ではありま
せんし、もしかするとB-REVIEWは会社であり、運営は取締役会に当たるものなのですか?言葉の綾だとして
も、芸術の場所として適切な考えだとは思えません。確かにある種のサイトは「活性化」していますが、そ
れはB-REVIEWとしても望む形ではないでしょう。
>「パックポエム」の意味を存じ上げませんでした。大変恐縮ではございますが、よろしければ教えて頂き
たいです。
「パックポエム」は、「パックジャーナリズム」を援用した私の造語です。わからなくて当然です。
すみません。要するに大衆の志向に媚びた詩や、それに群れをなして読者が集まるような現象をその言葉の
意味に込めました。今でもそのようなことは発生していますから、それを助長する可能性があるような試み
は止めたほうがいいですね。
>もちろん、このシステムをずっと導入し続けますと申している訳ではなく、試しにやってみよう、と考え
るところであり、さらにそれは今まで明確なメリットの無かったコメントに価値を設け、ユーザーにコメン
トの意義を感じてもらいたいと考えているからです。
おそらく、一旦、導入したならそれを取りやめることは難しいでしょう。何故なら、ある程度の「質」を保
った工業的コメントは必ず増えるであろうからです。また、「コメントの意義」を感じさせるような雰囲気
を助長するようなことはしない方がいいですね。コメントは個人の自発性に任せるべきでしょう。コメント
を半ば強要すると、自発的なコメントが、工業的コメントの中に埋もれてしまいます。ちなみに、作品に批
判的なコメントを書くことは勇気が必要ですね。全ての人を敵に回しかねない危険性があります。その根拠
を正確に示していればいいのではないかと思うかもしれませんが、欠点を挙げればきりがなく、(そもそも
根本的に駄目な場合が多いので、コメントを書く前に途方に暮れてしまう)それを直接的に指摘することは
、私にとってもなかなかしんどいことで、お互いに得るものは無く反発を買うだけだということもあります
。おそらく、殆どの人にとって、総スカンをくらって異端者とみなされることは精神的な圧迫となり、自身
の詩作にかなり悪い影響を及ぼすでしょう。(私の場合、詩作は既に終了しておりますので、嫌われまくっ
ても詩作に具体的な悪影響を受けないですむことは幸いでした。)では、作品を褒めればいいではないかと
思う向きもあるでしょうが、それを私は見つけることが難しいのです。多くの方たちは簡単にその詩の良い
ところを発見できるようですが。無理矢理に「褒めるコメント」を作れないわけではありませんが、それは
私にとっては苦痛を伴う「仕事」です。
結論として、文学の存在意義が問われている状況でそれを「活性化」しようとすることに無理がありますし
、無理に無理を重ねることはなかなか難しいことだと思います。
「少数の詩愛好家の場所でいい理由」
お互いに考えが根本的にずれていることは横に置いておいて私に言えることは、
かつて、文学は少数の限られた人たちのものでしたし、その中に入るには資格を必要としました。
ただ、今は時代が違うと言われればそれまでですね。
最後に、勝手なことを言いますが、私は詩作を既に終えており、また、無限に存在する考えの一つに一致点
を見出すことに詩作上のメリットがあるとは思えません。私はB-REVIEWに参加したてであるので勇みこんで
意見表明をしましたが、殆ど得るものはあまりありませんでした。根拠を示せと言われても、考えてみれば
、相手を説得できたからと言って、相手に与えるだけで、相手から与えられるものは無いので、根拠を示す
ために時間を費やす気にはなれないのです。まあ、とりあえずトリガーは渡したので、後はご自分で考えて
くださいということです。
ご返信ありがとうございます。藤井です。
確かに現状、優れた作品を書いたからといって優劣及び利益を得ることの出来る、何らかのシステムが導入されているわけではございません。その意味でいうと、仰ることはよく分かります。
賞罰制に関しましては、今後導入すると思います。
>そもそも、多くコメントを書けば、下手な詩しか書けなくても優遇されうるというのはおかしくないですか。
>合評活動に励むのはあくまで副次的作業ですね。コメントにいそしむ暇があったなら、それを作品の質向上
に充てるべきでしょう。
ひょっとしたら、本サイトの参加者の多くが勘違いしているのかもしれませんが、B-REVIEWは作品を「投稿する」だけの場所ではございません。作品を「読む」場所でもあります。我々が最も危惧するところは、作品投稿数は多いもののコメント活動が盛んでなく、読まれない場所になってしまうことです。はっきり申しますと、作品を投稿することは、こちらに参加されている方の多くが行っているものの、多くの作品を読んで、感想を書いて頂ける方は相対的に少ないです。それは何故かと言うと、コメントを書くことは「難しい」「ハードルが高い」「めんどくさい」「興味が無い」といった、負の感情を孕んでいるからとも思えます。
何が言いたいかといいますと、コメント活動に積極的な方、つまり作品を「読み」「感想までかいて頂ける」方は大変貴重であり、当サイトにとって非常にありがたい存在なのです。
貴殿の仰るところの、下手な作品を書いていても優遇されるのがおかしい、とのご意見もよく分かります。ただ個人レベルでなく、大きな枠組みで考えるとコメント活動に積極的な方は、先程も申しました通り有難い方。そして、「優遇」につきましてですが、逆に言いますと、難しく、人によっては面倒臭いとも考えられる「コメント活動」を行っている方に、現状何の処置もなしえない。このことを私は申し訳なく思っているのです。
そして、そこまで優遇をお気に召さないのであれば、2作品投稿出来ることと3作品投稿できることの差は、貴殿にとって大きなことなのだろうなと捉えました。しかし、はたしてそこまで「優遇」と申され嫌悪されるほど、大きなものでしょうか。たしかに、2作品より3作品の方が読まれる確率は高くなるかもしれません。しかし、コメント活動に積極的であった→3作品投稿可能ということは、他者の作品もより多く読んでいる方だということです。作品を沢山読んで、感想書いてくださった方ならば、作品を他者に公開できる機会を増やせるようにしよう。この図式ははたして不自然ですか。
ただ、貴殿は根底にあるのが性悪説であるのだろうなと考えるところであります。私は性善説ですので、そこの食い違いはあるのだろうなと思い、しかしながら合意点を見つけていきたいものですね。
二つ目の引用です。合評活動とは、良いところ、印象に残ったところ、はたまたアドバイス、その他諸々を書き記すことも意義のひとつとしてあります。良否、それを個人的に書くことで、どのような作品が優れているのか、またはどのような文体が失敗へ導くのか、それを理解できるのも合評活動の魅力と個人的には考えます。逆に申しますと、他者の詩を読みもしないで、詩を書き、投稿して、感想読んで、満足する。それは悪く言えば「自己満足」の域に到達していませんか。自分の作品は完成しきっていて、自分の詩を成長させる気もないし、また投稿したからといって感想貰いたくもないけど、とりあえず投稿だけしておく。そのような方であればその活動を止めはしませんが、よりよい詩を作ろうとする意思のある方なら、作品を書く、作品を読む、この二つは必ず必要です。必要でないと仰るなら、例えば優れた小説を書くなら、ノウハウを学んだり表現技法を学び、何より小説を「好きになる」為にたくさん作品を読む、それは無駄なことだと否定するようなものです。その例えは詩には当てはまらない、詩は読まなくてもいい作品を書き続ければ上達するんだと仰るなら、私の申すことは無視して構いません。
>コメント投稿により「作品を投稿出来る権限」が与えられるのであれば、それを狙ったコメントが増えることは必然です。適当にそれらしいコメントを作り上げることは誰でもできますが、優れた作品を書くことは幸運に恵まれた者にしか出来ません。言い換えれば、いい詩は努力すれば生み出せ
るというものではないのです。
上から。少しばかり口調を荒らげますが、私はそれを予想しており、こういう対処をします、それでもダメならシステム自体を取り止めますと申しました。なぜ、まるで私に対して、こんなことも予測できないのかと仰るような高圧的な言い方をされなければなりませんか。全部対策を打つと申したではございませんか。足りなければ、こういう所がさらに懸念材料になるよね、と書けばいいではありませんか。私も勿論、一人の人間です。お互いの最大公約数を得る為に議論をしようという意識でいましたのに、なぜそこまで上から目線でかつ、無礼極まりない言い方をされなければならないのですか。
優れた作品を書くことは、才能もありますが努力もあると個人的には思います。よく、芸術家は、降ってきた、と仰ります。それがホームラン(貴殿仰るところの「幸運」)だとしましょう。しかし、ホームランを打つためには、コツコツ積み重ねるしか道はないような気がします。例えば、貴殿の理論でいえば、学生時代に無学極まりなかった、もちろん詩には1ミリも触れたことのないやんちゃな男が、突然詩壇の重鎮の誰もが納得する名作を書けるということになります。さすがにそれはありえませんよね。となると、ホームランを打てるのは、やはり努力をコツコツ積み重ねた者だけだと私は考えます。
大衆の思考に媚びた詩も、そうでない詩も、名作足り得るかどうかはやはり書き手の実力です。それが好きかどうかは個人の問題であり、少なくとも多くの方から評価される詩を、大衆に媚びた詩と切り捨てるのはいかがでしょうか。(これにつきましては、私の読み違えかもしれませんので、その場合は大変失礼を致しました。)
>ある程度の「質」を保った工業的コメントは必ず増えるであろうからです。また、「コメントの意義」を感じさせるような雰囲気を助長するようなことはしない方がいいですね。コメントは個人の自発性に任せるべきでしょう。コメントを半ば強要すると、自発的なコメントが、工業的コメントの中に埋もれてしまいます。
一理あります。確かにそうですね。
コメントに意義があることは先程申しあげた通りですが、貴殿仰るところの工業的コメント、例えば「よかった」だけのコメントに関しては、今まで以上に具体性を求める必要があるかもしれません。(まあ、そもそもこのシステムがあろうと無かろうと、「いいと思った」だけのコメントなどあまりに酷いものは追及を受けて然るべきなので、システムが導入されたからといって特別その辺を厳しく取り締まるわけではございませんが。)
>結論として、文学の存在意義が問われている状況でそれを「活性化」しようとすることに無理がありますし
、無理に無理を重ねることはなかなか難しいことだと思います。
容易な道だとは決して考えていないし、もっというならそれは茨の道かも知れません。しかし、我々は前述の「詩の活性化」を目指す為にビーレビを支えている一方で、我々もまたユーザーの皆様に支えられています。ユーザーの皆様がいるからこそ、目指そうと思える目的なのかもしれません。
>かつて、文学は少数の限られた人たちのものでしたし、その中に入るには資格を必要としました。
ただ、今は時代が違うと言われればそれまでですね。
昔はそうです。しかし、今は誰でも詩を書き、読める。そんな素晴らしい環境下で、我々は詩に携わる事ができることは幸せだと思っています。
>意見表明をしましたが、殆ど得るものはあまりありませんでした。根拠を示せと言われても、考えてみれば、相手を説得できたからと言って、相手に与えるだけで、相手から与えられるものは無いので、根拠を示すために時間を費やす気にはなれないのです。まあ、とりあえずトリガーは渡したので、後はご自分で考えてくださいということです。
それは逃げでしかありません。私は批判意見を一身に受け止め、タカンタさんにはっきりいうと遠慮なく私の考えを述べ、お互いが減りながらも合意する最大公約数を目指していました。意見を申されたからには、私も真剣に向き合います。最後の一文は、真剣に向き合った私に対する侮辱としか受け取れない。なぜなら、あなたは自分の考えを伝え、より良いものにしようとする意識はないと私に公言したからだ。真剣に向き合わないだろうと考えて申されたならまだしも、現に私は貴殿のご意見に丁寧に、そして真剣に、裏付けも合わせて申しあげた。そんな私に対して、あなたは、ご自身に得るものがないから、時間の無駄だから、とりあえず意見は言ったけど理由とかは言わないよ。勝手に考えてね。と仰っているのですよ。これほどの侮辱がありましょうか。あなたは私を、感情を持たない機械か何かだと思っているのですか。
また、得るものがないから、相手に何もしないということは、利他の精神を持ち合わせていないと考える。我々が、良くいうならボランティアで運営を行っていること(つまり報酬などは一切無し)をご存知ないのなら、今知って下さい。手前味噌で恐縮ですが、そんな我々に、利他の精神がないよと表明した。少なくともこの場においてご意見を仰ったなら、最低限の礼儀や相手への配慮は弁えるべきではないでしょうか。せめて奉仕の精神を持って、こちらへ意見をして欲しかった。ただ我々を否定したいだけとしか、こちらからは受け取れない。
かなり辛辣になりましたが、私からは以上です。
詩作と批評は本質を同じくするものであるという偉大な先人の見解について、よくよく考えさせられています。
たとえば、なにかにふれて感動したとして、なぜ感動したのか(あるいは、なぜ感動しなかったのか)、掘り下げて、客観的につたわるように表現することは、たしかに批評行為といえるのかもしれません。その対象が、自らの体験であれば詩になり、他者の作品であればコメントになる。対象が異なるだけで、詩作と批評は不可分の関係にありそうです。そうなると、作品が主で批評が従であるとは、一概には云えないのだと思います。車の両輪のようなものでしょうか。
なので、積極的にコメントを読み書きすることは、詩作の力量を伸ばすことにもつながるのではないかと考えます。
運営の皆様、新システムを考案してくださり、ありがとうございます。私としては、賛成でも反対でもなく、新しい試みをただただ興味深く思っています。
藤井さん、丁寧なお返事有難うございます。
コメント量が多くその「質」が一定以上であれば、低レベルの作品でも多く投稿出来ることになります。結
>優れた作品を書くことは、才能もありますが努力もあると個人的には思います。
よく、芸術家は、降ってきた、と仰ります。それがホームラン(貴殿仰るところの「幸運」)だとしましょ
う。しかし、ホームランを打つためには、コツコツ積み重ねるしか道はないような気がします。例えば、貴
殿の理論でいえば、学生時代に無学極まりなかった、もちろん詩には1ミリも触れたことのないやんちゃな
男が、突然詩壇の重鎮の誰もが納得する名作を書けるということになります。さすがにそれはありえません
よね。となると、ホームランを打てるのは、やはり努力をコツコツ積み重ねた者だけだと私は考えます。
さて、「幸運」は「才能」を言い換えた言葉です。
わかりやすく説明したいので、国語のテストを例としますね。私は国語の勉強は一分もしたことはありませ
んが、国語のテストでは漢字の書き取り以外は間違えたことがないのです。その為、国語の勉強をするとい
うことの意味、いい点数を取るために頑張った人の気持ちはわかりません。美術についても、小学一年生の
写生大会で絵を描いていると、私の周りに先生が集まって騒ぎになったことは覚えています。幼い私には驚
き以外の何ものでもなかったのですが、それを、今、私は苦々しい思いでしか振り返ることは出来ません。
国語についても同様に才能など無い方がいいほうがいいのかもしれません。そうすれば、孤独を感じること
もなく、こつこつと努力をする楽しみを得ることも出来たでしょう。
私が今、生きていることは不思議なのだが、遇えてその理由を求めると不運そのもののなかにも稀な幸運に
恵まれたことと、ほんの少しの才能を私が持っていたからです。
私のことは横においておいて、本題に帰ると、「詩には1ミリも触れたことのないやんちゃな男が、突然詩
壇の重鎮の誰もが納得する名作を書けるか」と言えば、私は書けると思います。
>よりよい詩を作ろうとする意思のある方なら、作品を書く、作品を読む、この二つは必ず必要です。必
要でないと仰るなら、例えば優れた小説を書くなら、ノウハウを学んだり表現技法を学び、何より小説を
「好きになる」為にたくさん作品を読む、それは無駄なことだと否定するようなものです。その例えは詩
には当てはまらない、詩は読まなくてもいい作品を書き続ければ上達するんだと仰るなら、私の申すこと
は無視して構いません。
詩の巧拙等を批評することはかまいませんが、詩を読むことにより詩を書く能力が高まるであろう期待は
持たない方がいいですね。詩はあまりにも短く言葉が圧縮されすぎている。その為、作品完成に至るまで
の道筋を見つけることが非常に難しい。小説ならある程度はそれが可能なのですが。私見では、詩を書く
力を高める為には、詩以外のものを読んだ方がよい。もちろん、詩を読んでも構いませんが、詩とそれ以
外のものの比率は1対4位が妥当と思います。
私の詩の評価は読者に御任せするとして、私が読んだ詩集は海外のもの一冊、詩集に近い近いものが一冊
、そして日本の詩人が書いた詩集は一冊も読んだことはありません。私は日本の詩集を読まなかったこと
は正解だったと考えています。変な色に染まらずに済んだからです。、
詩にかかわらず、総じて批評により何らかの能力が高まることは考えにくいです。例えば、スポーツがそ
うですね。詩と批評は同じように言葉を使用しますが、実際には別物です。批評により比喩が巧みになる
ということはありません。巧みな比喩を書ける人はその構造を解き明かすことが出来ますが、批評をいく
らしても比喩の微妙なセンスを理解することは難しいでしょう。
批評とは作品を読むことですね。
ですから、批評をしても詩を書く能力が高まることは、可能性としては高くないと思います思います。
沙一さん
>詩作と批評は本質を同じくするものであるという偉大な先人の見解
優れた詩を書く人は間違いなく優れた批評が出来ますが、優れた批評をする人が優れた詩を書けるとは
限らないことから見ると、詩作と批評の本質は異なると思います。これを別の形に置き換えると、ピア
ニストは音楽について語ることが出来ますが、音楽評論家がピアノを弾けるとは限りません。これも、
詩作と批評は本質を同じではないことの傍証ですね。ピアノすら弾けない文芸評論家の音楽論は信用で
きないですね。私は、小林秀雄の「モーツァルト」を読みたいとは思いません。
別の視点から見ると、詩の最も重要なものは表現ですが、これは作者の個性に伴う資質で書かれるもの
なので、普遍性を基盤とする批評ではそれを解き明かすことは困難です。従って、詩作と評論の本質は
やはり異なると思います。
、
閑話休題。
ちなみに、私にはどの作品を読んでも白紙にしか見えないのです。日本の大詩人の作品を読んでもそう
なので、これは私の感覚がおかしいのかもしれません。最初からいい作品を書ける人はいますが、いい
作品を書き続ければ上達することはないですね。これは天才においても同じことだと思います。誤解の
ないように言い添えておくと、作風の変化は上達ではありません。しっかりと見ればそれはわかります
が、錯覚する方は多いかもしれません。厳密に言えば、芸術には上達、進歩という概念は無いのです。
新しい分野が開拓されたことは有りましたが、今後はそれもないでしょう。
>それは逃げでしかありません。私は批判意見を一身に受け止め、タカンタさんにはっきりいうと遠慮
なく私の考えを述べ、お互いが減りながらも合意する最大公約数を目指していました。意見を申された
からには、私も真剣に向き合います。最後の一文は、真剣に向き合った私に対する侮辱としか受け取れ
ない。なぜなら、あなたは自分の考えを伝え、より良いものにしようとする意識はないと私に公言した
からだ。真剣に向き合わないだろうと考えて申されたならまだしも、現に私は貴殿のご意見に丁寧に、
そして真剣に、裏付けも合わせて申しあげた。そんな私に対して、あなたは、ご自身に得るものがない
から、時間の無駄だから、とりあえず意見は言ったけど理由とかは言わないよ。勝手に考えてね。と仰
っているのですよ。これほどの侮辱がありましょうか。あなたは私を、感情を持たない機械か何かだと
思っているのですか。
藤井さんに言ったわけではありません。
しかし、誤解されても仕方のない書き方でした。
実は、以前のフォーラムでのやり取りについて書いたのです。
藤井さんの感情を傷つけたことについては、大変、申し訳ありません。
ただ、フォーラムでのやりとりについて、ひとつ言わせて頂くと、私は「小説と同じく、詩にもストー
リーとプロットが必要だと思います」とは書きましたが、「全ての文学作品には必ずストーリーとプロ
ットがある」と書いた覚えはありません。にもかかわらず、「ストーリーとプロットの無い文学作品も
ある、それについてはどう思うのか?発言の根拠を示せ」と返答することは、こちらの意図を全く読み
取ろうとしていないと判断せざるを得ません。理解力の乏しさにはあきれるばかりで、何を考えている
のだろうかと思います。全く議論になっていません。不毛です。
>また、得るものがないから、相手に何もしないということは、利他の精神を持ち合わせていないと考
える。
私は利他の精神を持ちません。人間にはうんざりしているんです。しかし、私がナチス時代のドイツ人
であったなら、ユダヤ人が私のもとに飛び込んできたならば、それを行うことにより自分が命を失うと
確信したとしても、私はユダヤ人を助けます。それは私の信条であり、愚か者の為に私の魂を捨てるわ
けにはいかないからです。ひょっとすると、藤井さんは、私をがっかりさせない人なのかもしれません
ね。「人間、こいつは誇らしく響く」という藤井さんのお姿を垣間見ることが出来たなら、私にとって
はとても嬉しいことです。
最後に、私としては、これ以上の争論を望みません。
藤井さんに不愉快な思いをさせたのであれば、大変、申し訳のないことをしました。
こんばんわ。
一投稿枠で、複数の作品が 投稿できる現在ですし、大差はないきがします。
しかし、なにか
付与されるのは、嬉しいのかしら。
やってみないと、そのシステムの 良し悪しは、わたしは 想像できません。
それよりも、コメントをくださった方への罵倒もカウントされるとしたら、悲しいです。
コメントは、精査するとのことですので、今回のコメント数案については、
わたしが いうまでもないことでした。
失礼しました。
人海戦術でしょうし、たいへんですね。作業するかたのご苦労と いい意味で、無理があるならば、勇気ある撤退も視野に おいれになったほうが 良いきがします。
沙一さん、こんばんは。藤井です。
偉大な先人を自分は存じ上げず、無知を恥じ入るばかりではございます。しかしながら、合評活動と詩作は「車輪」とのご意見、私はなるほどと感じました。
興味深く思ってくださっているとのこと、大変ありがたく思います。正直成功するか、否か、我々としても未知数ではございますが、何卒よろしくお願い申し上げます。
タカンタさん、再三のご返事頂きありがとうございます。
まず、タカンタさんの仰る通り、勉学にしろ、詩作にしろ、100.年に一人と言われる天才は実在するでしょう。自分はそのような才に恵まれず、詩作を投げようとした時期もございました。ただ、そのような才に恵まれた人は、努力をしなくとも自己を満足させる作品をかけているのかどうか。つまり自作の限界点たる作品を毎度書き続けているのか、と言いますと、中々そうはならないだろうと思います。天才はその初期値と成長値がずば抜けているだけで、既に全てのパラメータがMAXであるわけではない。いやむしろ、貪欲に高みを欲する姿勢を継続して持ち続ける者を、本当の意味での天才と呼ぶのかもしれません。
次に移ります。実際のところでは、そもそも「詩を書く」動機はなんなのか、という話から入ります。己の言葉をアウトプットしたい、詩独特の世界を己の思うがままに築きたい、様々望みはあるでしょうが、誰しもが「持つべき」ことは「詩が好き」であることかな、と考えています。これは、強制的に詩の作品を愛さなければならないですとかそういったことではありません。例えば、色んな詩を読んできたが、もの足りない。己の力で詩界隈に革命を起こし、自分が読んだ作品を超越する詩を書けるようになりたい。これも、立派に「詩が好き」な事由であると考えます。何にしても、わざわざ詩を書き、さらにその詩を評価されようと考えるなら、詩が好きであり、情熱を注ぐのが自然な流れではないでしょうか。例えば「自分の悲しい気持ちを見て欲しい」「いたたまれない心を解放したい」なら、詩という媒体を使用する必然性がなく、Twitterで大いにさらけ出せば良い。しかし詩を「わざわざ」選ぶなら、そこに芸術思考や詩への興味が少しでもないと、詩を選んだ意味が無いと考えます。とすると、合評活動によって詩を「語る」ことは、自分の詩作に有益であり、また非常に楽しいものだと思います。
また、なぜ有益なのか。貴殿はスポーツに例えてらっしゃいますが、では野球選手は野球の試合を、自分が出ているもの以外は全く見ないのでしょうか。もしくは、試合を見ることはプロ野球選手にとって副次的な、自身のプレイの向上に関係ないことなのでしょうか。
現実として、やはりプロ野球選手は野球が「好き」であり、幼い頃から様々な「プレイを見て」「憧れ」、「努力」を重ね、プロになった後も他者の試合どころかピッチングフォームまでをも見て研究するのではないでしょうか。また、プロ野球選手が野球を語る時、やはり生き生きとしています。
合評活動をやらなくても、詩は成長するでしょう。しかし、合評活動をやった方が、視野が広がり、詩の成長をブーストさせることができるかもしれません。厳密には正直未知数ではございますので、合評活動を強制は致しません。しかし、あくまで個人的には、せっかく合評活動が「できる機会を与えられている」のに、「使わない」のは、詩人として勿体ないような気がしています。だからこその、本システムです。
優れた批評をする方が優れた作品を書くとは限らないとのこと、それはその通り、といいますかそりゃそうです。批評、もっと悪くいうと偉そうに語るクセに、いい詩を書こうという意気込みの欠片もない人がいい詩を書けるわけありません。ただ、いい詩を書く方は、単純にいい詩を見つけ、合評する、詩が好きな方なのだろうなと考えています。ではなぜこのようなシステムにしたのか、それは既に述べてございます。
芸術に上達はない、と仰っていますが、私は芸術とは才能と努力だと考えていますのでこちらに関しては分かち合える時は来ないでしょう。しかし、それもまた一興、というものでしょうか。芸術論が万人において画一的では面白くありません。
フォーラムでのやり取りにつきまして、私がそのようなやり取りを致した覚えがございません。どなたか私には分かりかねますが、その方に変わりまして、タカンタさんへ配慮が欠けた言動をお詫び申し上げます。
これ以上の論争を望まないとのことですので、私へのご返信はこちらからは要望致しません。タカンタさんのご希望ご期待に添えぬ部分があり、大変申し訳なく存じます。ただ、詩投稿サイトという大きな枠組みである以上、皆様全てのご希望の通りに事を運ぶ事が出来かねます。ただ、皆様のご意見は真摯に受け止め、再考に再考を重ねる所存です。タカンタさん含め皆様には不快に思われることもございますこと、大変申し訳なく存じます。ただ再三になってしまいますが、我々も我々なりの目的に沿って、様々に試行錯誤をしていく所存であり、その摩擦を避けることは出来ません。ただ、出来るだけ最大公約数を目指す所存でございますゆえ、どうぞよろしくお願い致します。
るるりらさん、コメントありがとうございます。藤井です。
実際のところ、コメントを逐一調べ、その数を人間の手により数えることは流石に出来ません。なので、言わば機械的にシステムを構築する予定でございます。
すると問題となるのがコメントの質です。こちらにつきましては対策をある程度は申し上げましたが、足りないようでしたら遠慮なくお願いします。
コメントにおいての罵倒に関しましては、システム云々でなく論外ですので、そのような事態を把握なさった場合はどなたでも運営へ御一報頂けますと幸いです。
転じて、コメントは自作のコメント返信もカウントせざるをえないので、人によってその必要数はまちまちとならざるをえません。こちらについてこの場を借りて述べさせて頂きます。
まず、自作に沢山コメントがくる、この事は炎上の事案を除いて喜ばしいことであり、そちらのコメント返信をカウントすることに大きな矛盾は起こらないと考えています。
転じて炎上事案でありますが、そもそも今回のシステム導入と同時に、炎上、自コメ上げ、罵倒コメ荒らしコメなどなどは今まで以上に、ある程度見過ごしてきた部分を含めて厳しくすると想定しております。これは先人の「マナーが徹底された詩投稿サイト」の系譜を受け継いでいる為です。
今後も皆様に、安心して、楽しくビーレビライフを送って貰いたく、我々も全力を注ぎます。どうぞよろしくお願い致します。
お返事ありがとうございます。
もし 決行となりましたら、とりあえず
自身なコメントや 他の方のコメントに
詩へのコメントとは いえないものを見かけたときには、カウントとはならないように、連絡させていただきます。
るるりらさん
密告の公言だけは看過できませんので少し書かせて頂きます。
密告は表現の自由における自殺行為です。
いかなる理由があろうと、芸術を志す者は密告をしてはいけません。
(それがたとえ詩と関係の無い暴言であろうと。もちろん、密告によらず運営が見つけることはかまいません。)
連絡と称しても、密告は密告です。
密告をした人は、その瞬間に芸術に関わる資格を失うことになります。
とにかく、私は密告をすると自ら宣言することに羞恥心を感じない詩を書いて欲しいとは思いません。
以上、私の考えを書かせて頂きましたが、あなたの返答内容には期待していません。
誤:とにかく、私は密告をすると自ら宣言することに羞恥心を感じない詩を書いて欲しいとは思いません。
正:とにかく、私は密告をすると自ら宣言することに羞恥心を感じない方に詩を書いて欲しいとは思いません。
藤井さんへ
遠慮なく言ってほしいとのこと。感謝です。
わたしが、このサイト倫理に照らし合わせて、
または、わたしの常識と照らし合わせて、
詩へのコメントとは思えないものは、コメントとして
カウントされることのないように、申告させていただきます。
具体的には、わたしが 誤字脱字を していまっために、コメント数を増やしてしまったケース。それから、詩の感想や批評とは関係のない罵倒と思えるものは、コメントとは言えないと考えていまし、藤井さんも罵倒は論外であるとのお考えですので、もし本件が試行されたら協力させていただきます。
わたしな意見を 読んで、納得された場合は なコメント数からマイナスをされたら良いですし。ご納得されず、るるりらの誤字報告コメントも数に入れられるとか、わたしが罵倒に思えたことが、ただの意見であると判断をされるなら、カウントしてくださってかまいせん。
今すぐに、試行されるとは おっしゃてませんので、わたしは 今の時点の気持ちを書いたまでです。なお、試行するかしないかの最終決定は まだ先だろうなという理解ですので、現状での意見は、最初に 言ったケースは申告させていただこうと 思っているに すぎません。また、試行案が変われば、そのつど わたしの個人的な意見を考えてみますので、試行の参考にしていただければ幸いです。
藤井さんへ
密告を奨励するのだけは止めて頂けませんか。
そんなことをしたら、私たちは、るるりらさんの顔色を窺わなくてはならなくなります。
とにかく、密告はサイト倫理以前に、芸術倫理として絶対にやってはいけないことだと思いますよ。
私は「平凡人の常識」なるものに屈服することはご免です。
平凡人は悪人より世界に害を及ぼすものです。
そもそも芸術家は常識に縛られないから芸術家なのであって、常識を口にすることに矛盾を感じない人は芸術家ではないんです。
それは、ただの「自称芸術家」に過ぎないんですよ。
「自称芸術家」に監視されるのは、皆さん、いやじゃないんですか?
運営がご一報と言っているだけならともかく、それに対して、
密告すると公言する人が現れた今では状況が違うと思います。
密告するにも、メールで行うわけにはいかないので、フォーラムに密告コーナーを作るしかないですね。
密告コーナーのある詩サイトは、ブラックジョークだと思います。
お疲れさまです。主旨内容は理解しました。中には二作よりも三作あげたい!という多作の方もいらっしゃるでしょうから、これによって有意義なコメントが増えて、書き手読み手双方に得るものの多いサイトになると良いですね。
藤 一紀さん
有意義なコメント云々は、読むに値する詩を一篇でも書いてから言って下さいね。
残念ながら、あなたの作品からは得るものは何もないんです。
後は、運営の見識に期待するだけですが、密告がまかり通る詩サイトはいやですし、
そもそも密告について何の疑問も持たない方に詩を書く資格はあるのでしょうか?
密告をする人たちのコメントは空虚なものだと思います。
タカンタさん
先ほどのコメントは運営に向けています。何かと言葉を挟みたがる出しゃばりもけっこうですが、ここはあなたの出る幕ではありません。それくらいは「サイノーのあるゲージュツカさん」でもご理解くださいましね(^^)
藤 一紀さん
運営に向けていようが、誰に向けていようが
あなたのような「サイノーのないゲージュツカさん」の出る幕ではありません。
それくらいはご理解くださいましね(^^)
と、罵りあいになってきたので、一旦、身を引きます。
とにもかくにも実名を挙げたことはまずかったです。
謹んでお詫びいたします。
藤井さん、運営の皆様
おつかれさまです。
やはり、運営の方がかなり大変になるんじゃないかなあ、と気になります。
以前の「選評(フル)」を書いてもらった方に、、、ぐらいのほうがわかりやすいのかな、なんて思います。
失礼しました。
熱くなってしまったが、考えてみると、私は二年分の詩作が既に終了しているのだし、
投稿数によって作品の質が上下するわけでもあるまい。
それに、いくらコメントをして上手く立ち回っても、それなりの方はそれなりなのだから。
それよりも、密告に対する反応の鈍さは気になるところ。
私には理解しがたいところでもあります。
>やはり、運営の方がかなり大変になるんじゃないかなあ、と気になります。
それほど大変ではないでしょう。
月末に集計プログラムを実行すれば5分で終了します。
集計後の上位コメント投稿者のコメント内容の精査は必要だとしても。
タカンタさん、再度のご返事痛み入ります。藤井です。
現実論として、我々も仕事でやっている訳では無いので私生活ありきです。となると、私生活の合間をぬって運営活動を行うこととなる。いえそれ自体に同情ですとか、凄いと言われたいとかそういった事ではなく、単純に我々も隅から隅まで監視は出来ないのです。
そこで、皆様がご不快に思われたコメントなど、諸々ありましたら遠慮なく我々に仰って頂きたい。そういう意味では、まあ密告ですし、サイトユーザーの全ての皆様が監視者です。なぜなら、マナーを守る必要とは、ユーザーの皆様が気持ちよく当サイトを利用できるようにとの意味が込められているからです。
顔色を伺わなければならない、とありますが、むしろ伺って下さい。人と対話し、対面する時に、顔色を伺わずにズケズケとものを言う、といったことはないでしょう。人と対面した時、顔色を少しでも伺わない方がいらっしゃったなら、それは失礼です。そもそも、まるで王に謁見する臣下のようにユーザーがなってしまう、というような口ぶりで仰ってございますが、マナーを守らなかったらダメだよ、と申しているだけでございます。
また、ご報告があったからといって、必ず対処果ては処罰を与える訳ではございません。あくまで実際その現場を見て、決めるのは運営です。逆に過度な(コメントでの)私刑は、行き過ぎるとその方もガイドラインに違反してしまう。だからこそ、運営側で言わば公的に対処させてね、ということなのです。
確かに、芸術家はアブノーマルな点がないとは言えませんが、だからといって暴言罵倒を吐かれ、それを報告してはいけないとはならないでしょう。いや、それが芸術家だから仕方ない、なんて言えません。人を不快にしないように、合評活動を大いに楽しんで頂ければ何も問題は無いのです。
私からは以上です。
タカンタさんへの追記:
私が勘違いしておりました。るるりらさんの「申告」発言のことを仰っておられたのですね。
るるりらさんの仰るところの申告とは、自分の作品で、これはカウントされないだろうというものは報告します、ということだと読みました。他者のコメントにつきましては、恐らく、といいますかもちろんノータッチだと思いますよ。もし他者のコメントにつきましても、ということでしたら、流石にそれは個人の自主性の問題ですのでお断り致します。
以上です。
るるりらさん、ご返信ありがとうございます。藤井です。
コメントについてですが、仰られた全てに対処とはならない、つまり最終的な対応は運営に寄る所となります。ご了承ください。
ご意見参考に致します。ありがとうございます。
藤一紀さん、コメントありがとうございます。藤井です。
好意的なお言葉を頂きありがとうございます。
今後ともビーレビをどんどん活用し、お楽しみ頂けましたら幸いです。
なかほどさん、コメントありがとうございます。藤井と申します。
確かにシステム構築などはかなり大変ですが、頑張ります。ただ、やはりエンジニアは欲しいです 笑
ご提案ありがとうございます。恐縮ながら正直に申し上げますと、フル選評ほどの大きなこととなると、雑なフル選評問題などがより表に浮上するかもしれません。ただ、確かにプログラムを必要とせず制度を導入出来るのは限りない魅力ですね。
ご意見お気遣い大変嬉しく思います。ありがとうございます。
タカンタさん、藤一紀さんのやり取りを拝読して:
忠告です。フォーラムであろうと過度な暴言や軽率な発言は厳禁です。
転じて。
タカンタさんの最後にくださったコメントを拝読して:
申告の反応のにぶさ、を理解しがたい、と仰っていますが、私に対しての発言でしょうか。それならば、ご返信遅くなってしまい大変申し訳ございません。ただ、私も常に時間がある訳ではなく、返信内容は言葉を吟味しております。お時間要してしまうこと、どうかご理解頂けますと幸いです。
また、確かに導入後は大変ではないかもしれませんが、まだまだ未知数です。なぜ運営でないタカンタさんが、我々ですら未知数であることを断言してらっしゃるのか。それを返信出来るのは運営ですし、もしプログラムなどを充分理解しており、断言できるとあっても、「サイトのシステムにもよりますが、恐らく導入後に運営がそこまで過密スケジュールにならないような気がします。ただ、導入自体は時間を要するのかもしれません。」などと配慮すべきでしょう。
私からは以上です。
藤井龍平さん、お忙しいところご返事を下さり有難うございます。
>申告の反応のにぶさ、を理解しがたい、と仰っていますが、私に対しての発言でしょうか。
藤井さんに向けてのものではありません。
誤解を与えまして申し訳ありません。
>忠告です。フォーラムであろうと過度な暴言や軽率な発言は厳禁です。
今後、暫くはコメントを控えようと考えています。
私の場合、おそらく作品に対する批判的なコメントが多くなり、それが根拠のあるものであっても、
作者に不快感を与えるだろうと思いますので。
>また、確かに導入後は大変ではないかもしれませんが、まだまだ未知数です。
実は、私はシステム構築関連の仕事に就いておりまして、
職業上の経験から軽い気持ちで言ってしまいました。
ボランティアで行うシステム開発には、また、別の苦労があると思います。
配慮を欠いていました。
申し訳ありません。
今回のコメントはお詫びの為ですので、ご容赦ください。