表現の自由を行使することは極めて難しい。殆どの人間にとって、表現の自由は重荷に過ぎない。愛国心、憎悪にに訴えるものが大衆に受け入れらるのは、それが表現の自由とは無縁だからだろう。文学に親しむ者であることを自負するのであれば、常にそのことを頭の中に置いておくことだ。もちろん、ビーレビとても例外ではない。

「表現の自由について」に5件のコメントがあります
  1. ユニクロの服は、デザイナーの下にある時は個性的だが、集団がそれを着ると没個性となる。
    「量的変動は、突然、質的変動に転ずる」
    マルクスはやはり天才だったんだろうと思います。

  2. シェークスピア劇の登場人物は理解しがたい行動をする。
    シェークスピア俳優が存在する理由はそれだ.

  3. 「ロミオとジュリエット」あまりにも悲しい物語です。
    私としては、二人には幸福になってもらいたかった。
    そこで、多少、セリフを修正しました。

    有名なセリフ。
    ジュリエット「ロミオ様、あなたはなぜロミオ様なの」
    ロミオ   「わたしをただ恋人とよんでください。さすれば私は新しく生まれ変わるでしょう」

    これを、以下のように修正します。

    ジュリエット「ロミオ様、あなたはなぜロミオ様なの」
    ロミオ   「いや、それは母さんに聞かないとわからないな。家に帰ったらさっそく母さんに聞いておくよ、ジュリエット」

    こうすれば、ジュリエットは侯爵と結婚でき、ロミオもこれからの人生を朗らかに生きてゆけただろうと思います。

    ロミオがなぜロミオなのかは母親にしかわからないのは「常識」ですね。
    人間は「常識」に沿って生きてゆくべきです。
    「非常識」に生きるから悲劇が訪れます。
    そして、その悲劇は「予測」できたはずですね。
    私たちはそれを「予兆」あるいは「予言」とも呼びます。

    注:「非常識」は、その前に「常識」でなくてはならない。
      と言うより、「常識」と「非常識」の境目は曖昧だ。
      シェークスピアの悲劇が優れているのは、それを私たちに感じさせるからだろう。

  4. 水戸黄門のような作品。助さんの掲げた印籠が今までの経緯も、人の心の葛藤も、矛盾もすべて解決してしまう。
    例えば、仲の悪い夫婦に対して黄門が夫婦仲良くするように諭せば暫くは夫婦はお互いを思いやるかもしれない。
    でも、一年後にはよりを戻したように見えた夫婦もおそらく離婚をするだろう。
    実際には何も解決されてはいないからだ。
    水戸黄門のようなものを文学と呼べるだろうか?
    しかしながら、水戸黄門のような手法を用いた傑作は存在する。
    文学作品を私たちの思い込み、流布されている定説、それを唱えた人の権威で判断してはいけない。
    それこそ、水戸黄門の印籠と同じことをしたことになる。

  5. 日本語は詩に相応しい言語ではない。
    従って、日本語の特色を生かしたように見える
    (ひらがなのみ、カナ文字のみ、日本でしか通用しない言葉、和製英語)
    などの使用は控えた方がよいと思う。
    優れた詩は、使用する言葉を自ら制限することによることが多い。
    このことは詩を書く人の言語への矜持である。
    だから、ビーレビだからかまわないと言うことにはならない。
    もちろん、私の考えを強制することは出来ないが。

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