ハァモニィベル

ハァモニィベル

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和風にしているところまで匠みな一品ですね。日本社会に生きるオトナの姿を戯画化している作品です。 しかし、タイトル通り「腑に落ちる」かどうか は疑問です。形式は完璧なので、内容的な疑問ですね。 結局は、 逃げている黒子から、踊りながら戻っていくひょっとこまで、の枠のなかを抜けられず、暗くて静かな場所でないと本来の自分を思い出せない主人公なわけです。なので、太宰治的な自虐なら文学的な感じが滲むと思いますが、本作のように、ちょっと弱めの普通の日本社会人のメンタルを、ややハードボイルド風に語られても、微妙に腑に落ちないわけです。 この(「底のほうで」しか腑に落ちない)主人公である語り手が、もう少し己の弱さに自覚的でないとラストに違和感(平均にすぎないものをなにかプラスなものに置き換えようとしている感じ)が残るわけです。 一人称をもっと作者に特化するか、三人称にして「俺」と言わせるかして、 もっと精密に読者への配慮をすべきだと(わたしは)思います。というのは、 このままだと 一人称が普遍化されて暗示的な風刺が読者にむけられている作品なのですが、語り手一人称が自虐的にそれを引き受けているので(俺も読者さんあんたもみんなひょっとこだよ。それが大人さ)というマイルドに緩和された日本的な「腑に落」ち方を誘う作品にもなっているからです。 平均的であることが単に平均的であるにすぎないという認識を超えて、平均的であることを正当化する意識を見せられると、そういう感覚のない読者は座り心地の悪さを感じ、他方で平均的な弱めの自分を、正当化したい人たちには「腑に落ちる」作品になるわけです。本作は、若干その匂いが感じられるので、私には微妙な違和感が残りました。 おそらく題名をミスっているせいでしょう。そこが残念です。 題名を『腑に落ちる』ではなく、『日本男児 名無しの権兵衛』 にすれが、本作は名作だったと思います。 以上です。 * (腑に落ちる)

2017-08-12

 この作品は、表現された外皮を剥いて、その中身である作者を取り出して論じるべき作品である(とわたしは)思う。  表現面に関しては後で述べるとして、まずは、中身(作者)について。その要点をなるべく簡略に指摘してみるなら(因みに、この作品の語り手は、百歩譲っても自己にだけは誠実な語り手である。よって、語り手=作者だと私は考えて以下を論ずることにする)次のように言えるだろう。  この作者の本質は、じぶんの《心》を《それ》と置き換えることができることだ。《それ》とは本来なら外在する対象のことである。それが、《心》と同じとはどういうことか。  この作者は決してじぶんの《心》をつき離して《それ》としてクールに対象化したりはしない。その逆なのであって、本当なら外に在るべき《それ》が、じつは熱く苦しい自分の《心》なのだ。つまり通常は人が、自然や環境の脅威に晒され翻弄されるように、この作者は、自身の《心》に、心が、外に在る《それ》として自分自身を(内側からでなく自分の外側から)翻弄し脅威をもたらすことに晒されいるのである。  その自分の外側から襲ってくる《心》と自分との戦争と平和が、この作者の詩である、(とわたしは)思う。    表現面には簡単に触れて終わりたいと思います。先に指摘した点がこの作者の特異な持ち味である筈なのだが、それが、表現によって深化されないなのは、読みにくい文章のわりに、「愛ー時ー虹」対「傷跡ー嘘ー混乱」といった配置された語選択が平板単純だからである。作者の苦しみや再生平安の喜びが、同じ重さで読者には伝わらないので「読めない」と言われることになる所以である。   「私は心臓の部分を叩きつける」   「あなたが唇を軽く噛みなおす美しさ」  表現面をも加味して総合的に(あくまで私の眼でみると) この二行が、この作品の詩である、と思います。 以上です             (※)この作品の「あなた」については敢えて論じませんでした。 (不在)

2017-08-04

さて、まさかの再び登場で失礼します。 少し気になったので 「ハァモニィ・ベルさんの言わんとすること」 を、誤解のないように、もう少し補足しておきます。    「不在」というのは、    他の何よりも、誰よりも それが《心》の中に存在する   と、いうことです。 題名に採られている以上、(わたしは)そのように読みました。 この点はラカン(現実界・象徴界・想像界 etc.)について思い出して頂ければなと思います。 (不在)

2017-08-05

はじめまして。よろしくお願いします。 確かに「ノート」だな、と思って拝見しました。意図的に地味にしている筈の冒頭部分の置き方で読者を限定しますね。ここで処理されているようなゲームは、以前からわたしの好むものなので、過程を作品に織り込んで応用するアイデアは良いなと思いました。その結果仕上がってくる筈の作中作品の質については、コメントの替わりに、この作品のコメント欄だからこそむしろできる返詩を以下に添えることにします。 死体をくすぐっている 微量の幻が(なぜか) やさしさのように つつましく 調和して ゆれる 小さな輝く心の 焦げくさい喜びと楽しみ ゝ「ゆれる調和」で始まる聯 &   「小さな幸せ」&「くすぐったい風」の聯 を参考にしています。 (以上です) (草花ノート)

2017-08-10

私は、詩が、一般読者(教養ある読書人)に読まれるようになるといいな、 という立場なので、その観点から本作品を(わたしの視点で)論じてみます。 本作品を一読した時、第一印象は、まず腑に落ちない作品だと感じますが、 その理由は、作者が(作者が、です)ある特有の読者に呼びかけているところに発しています。なので、一般的な読者は、作者と読者のカンケイの中に入っていけないのです。むしろ、この作品の読者の中に、一般的読書人の読者が無理矢理入れられてしまうと、かなりの苦痛を感じなければならない。それが、この作品の腑に落ちなさにつながっています。 ただ、この作者と特有の読者のカンケイを、第三者として遠くから眺めるようにして見れば、確かに(それはそれとして)腑に落とすことはできるでしょう。 例えば、(1)なんだか精神的に病みがちな人たちばかりから手紙が届くラジオパーソナリティーが、皆そういう人ばかりだと思って、つい「皆さん」と呼びかけるような場合、その構図を外から眺めつつ一般教養人の読者は(ああ、なるほどな)と腑に落とすことができる。また、(2)部屋で化粧鏡を見ながら、一人話しかけている姿、この作品にその図を、横から眺めた一般読者は(ああ、なるほどな)と腑に落ちなくもない。 なので、特有の読者に親身なぶん、一般的読者を外に追いやっていることが、 この作品を違和感のあるものにしている、ということです。 特有の読者ファーストでいいではないか、これはそういう人達の詩だ、と言われるかも知れませんが、人というのは、奇妙なもので、以前、電車でお年寄りにシルバーシートを譲ろうとしたことがあるのですが、明らかに老人であるそのひとは、老人扱いされることを拒絶してむしろ怒りました。人とはそういうもので、明らかに特有の読者であっても、特有の読者扱いされたいとは限りません。 腑に落ちない作品であると指摘した理由は以上です。 ただの私見ですが、私の見解はそれだけではありません。 それだけで話しが終わりでは淋しいので、 一般読者よりも、感受性にすぐれている筈の詩人が読んだなら、 どうなるのか。それについても記しておきます。 詩人というのは、道に落ちている石を見ても、腑に落ちてしまうところが ありますから、わたしは、この作品を次にように読みます。 やがて死んでいく母親が、 残される子供に向かって これを書き残しているのだ ーと。 (この補助線を一本引くことによって、夏生さんの作品は  腑に落ちるものに変わるのではないか、と思います) 以上です。 (今を)

2017-08-12

まりもさん   読んでいただき有難うございました。 >題名の喚起力の強さが、うまく全体に作用しているのかどうか、 >その部分に関して、私にはうまく読み込めない印象が残りました。 作者から解題してみます。 題名「ファイブ・ペニーズ」に籠めた作者のイメージのうち、 大きなものを取り出せば、 次の二つになります。 (1)これは小銭の集まりに過ぎません、という謙遜です。  もちろんアイロニーですが、 《金銭的価値のない小品に過ぎません》というのは、金銭が神である現代にあってみれば、 時代へのアイロニーを同時に含んでいます。   また、この(1.2.3・・)という構成を採ると、だいたい識者の方がきまって言われるのが「全体としての統一感がうんぬん」という事なので、それは(=バラけてるよ)ってことですから、それを事前に見越して、ペンスではない ペニーズ で、《はい、バラけてる硬貨ですがそれが何か?》という意味合いも籠めてあえて採用しています。ただし、バラけてはいても、同種の硬貨であるように、バラけた話のようでも、同じ作者が書いてる以上、統一があるに決まっています。それが読めないのでは、作者のことが解らなかった、ひいては作品が解らなかったと言っているのと同じですよ、という反骨精神も籠められいます。 それでは、いったいどんな統一があるのかね、と問われれば、それは、 《人生はアイロニーに満ちている》ということ。それが全編を貫いていることは言うまでもありません。 5篇ある内の、最初の話だけ補足(要らないとは思いますが)しておくと、動けないベンチと、やはり距離を縮められない艶やかな噴水が恋をしています。互いの目の前、すぐ近くにいる相手であり、強く愛し合っているのに、それ以上傍に寄り添っていくことができない。皮肉な関係に置かれています。   タイトルが、横文字でバタ臭いと思われるかもしれませんが、これも、内容との関連で、第4篇が日本情緒のある話で、あとは、様々にバラけている。これは、多国籍というか、無国籍な感じにしたかったからです。自分の少年時代の実話を出したのも、寺田寅彦という懐旧感のある引用をしたのも、これは、地理的にも、時代的にも(敢えて)バラけるように、ということで、それは、つまり、普遍性を志向しているからです(こう言うと硬直的な脱構築派には驚きかもしれませんが)。   何処でも、何時の時代でも、《人生はアイロニーに満ちている》というのが(この私の)実感ですから仕方ありません。     その意味では、あまり苦労のない人生を生きているような現代の読者は、この作品を貫いてるものが読み取れないかもしれませんね。     作者が籠めた諸々のイメージの内、大きなもの2つ、のうちの一つ目が、何故か、だいぶ長くなってしまいましたが、2つ目についても長くなります。  (2)これは、まりもさんご指摘の通り、有名な映画の題名とも掛けています。 映画の主人公は、非人間的な成功よりも、人間性を選んだことで、落伍者のような境遇のなかで人生をすり減らしてしまう。そしてそれは、どこまでもありふれた絶望でおわるかに見えた。 しかし、最後、主人公は祝福される。世に言う成功を自ら捨ててしまった男が、通常では得られない家族や友との深い絆を手に入れる。つまり、《人生はアイロニーに満ちている》。   本作の場合は、確かにHappy Endingではないカンジではありますが、これもアイロニーなのであって、映画のエンディングを踏まえた寸止めの終わり方になっています。   「鴉」ですね。 もちろん、「死」のイメージもあります。でも、それで尽きるわけではありません。私が使う象徴は、ただ単純な象徴ではありません。一定の解釈を許さない強度のある隠喩と反対でありながら、多様さにおいて似てもいる、そんな、《靭やかな象徴》です。それが、わたしが作品で使う象徴です。   「鴉」   かつて、私がまだ20代のころですが、IT関係のある特殊な専門分野だけを勉強するために、新宿の学校に通っていた時期があります。花園神社の辺りで、ゴールデン街を抜けていくのが通学コースでした。ホームレスが何人も寝ていて、鴉が何羽も列をなして、通勤する人達の顔を覚えるように見ている中を、サラリーマンの行列に混ざってそそくさと早く歩いていく、そんな毎日でした。ある朝、交通量が増え始めた時間、見るからに遅刻したと思しきサラリーマンがひとり、点滅が終わりかけた信号に構わず横断歩道に突っ込んでいきました、急ブレーキとクラクションの轟音がして完全に大惨事だと思いましたが、靴が片方脱げただけで、その人は横に滑って助かりました。鞄を車にみごとに踏まれてましたが。    その時、 私が驚いたのは、車でも人でもなく、その轟音の一件を一部始終観ていた一匹のカラスでした。鴉は、直後、その被害者の真上を大爆笑しながら飛んで去っていったのでした。普通の鳴き方とは明らかに異なる、人間の大声の大爆笑ですね。それを上空から被害者に浴びせかけて、飛び去っていった。  そのときから、わたしには、鴉=《都会人の象徴》なのです(下衆な現代人の象徴と言ってもいいかもしれません)。  もちろん、私の経験の中にあるイメージを、読者にそのまま読み取れ、とは言えませんから、微妙に異化しか感じが残れば、詩はそれでもいいかな、と思ってもいます。  ただ、本作のラストでは、「鴉」は、《現代人》を象徴しています。 現代人がみな下衆なわけでもないし、鴉にもいい奴はいるでしょうから、わたしも、鴉=悪とは単純に考えませんが、そういった全てのイメージを含んだ、本作のラストは、その寸止めによって、鴉と、映画で最後に友情の象徴として登場するルイ・アームストロング他の友人達が対比されて、作者から読者に、問いかけられているわけです。  本作第5篇の主人公は、鴉にまず当然「死」を予感しつつ、しかし「仲間」かもしれないとも柔軟に妄想(映画ですね。鴉次第です)しなくもないが、しかし、さて現実はどうだろう? というわけです。  本作の主人公には、どうせこんな人生なら、せめてこの身を鴉のエサにしてやろう、という友情(?)もなくはない。それほど、この主人公も語り手も作者も、鴉に期待していない。そういう心裡と諦観のうちに、寸止めして問いを投げています。  現代人への暗い諦めの予感が漂っている。しかし、まだ終わってない感も残って、漂っている。 そこで、中途で終わっている。では、もし、6が続くとしたら・・・  そのイメージに接続するのは、ゴーギャンをモデルにした、モームの『月と六ペンス』の世界です。(花緒さんは良い感覚で嗅ぎとったなあと思います)  私は、シュールとかキュビズムより、一枚の画布の中に、並行にいくつもの宇宙が描かれる、ゴーギャンの『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』に興味があります。隠しモチーフとして意識(無意識ではなく)しています。ただ、そっちはあくまで絵画なのでどこから鑑賞してもいいですが、文章だと音楽のように、鑑賞する順序がどうしても構成上できてしまうので、1.2.3・・のようになります。  ただ、6で絶望してしまうその、一歩手前に立戻って、というか、5に、巻き戻して、現代人というものと直面してみる、というのがこの作品のもう一つのラストのイメージです。 本作のラストは、映画のラストと対比をなしていて、 現代人と、美しい、あるいは、深い絆を持つことはできるのか。それは、モームの小説(ゴーギャン)のような最期ではなく、巻き戻して、問い直してみたら、 もう一度、絶望的ながら直面してみたら、 という、そんなイメージですが、抽象的に現代人というのを考えているのではなく、 現に、交わる、具体的なその人、その人、(この場なら、コメントを交わす一人一人) が現代人なわけです。そういう人達に、いまも、私は、この人生の途上で、直面している わけです。で、現在のラストシーンの先がどうなるのかは、だから、まだわからないわけです。 釈迦は、「人生は苦である」と言い、死を前にして「この世界は美しい」と言って死にました。 私はこの作品で、《人生はアイロニーに満ちている》と言っています。 この先が一体どうなるのかは、だから、まだわからないわけです。 なので、この作品を釈迦が読んだら、ラストにこんな一行を書き加えて読了してくれるかも知れません。  《その後、一人の砂漠の旅人が見上げると、真っ黒な鴉の群れの中に、一羽だけ、全身が真っ白な鴉が樹上に留り、美しいうたを歌っているのを聴きました。》 そして、現実はそうでないかも知れません。 (ファイブ・ペニーズ)

2017-08-22

花緒さん 漠としたヒントから、「月と6ペンス」を想起されたのはさすがでした。 本作5篇め『サハラ』の「俺」の様な、作中世界に拘束される《一人称》の語り手は、真実を知らない観察の主体ですから、ユートピアが鴉の巣であっても、そしたらまた、それならまた、そこからまた、「俺」は出発するしかないですね。 (ファイブ・ペニーズ)

2017-08-22

鈴木 海飛さん そういえば、『5つの銅貨』も、『ストレイト・ストーリー』も、実在の人物の逸話を元にした話ですね。  芝刈り機に乗って大急ぎの旅をする そのDryで、Wetな旅姿が、 「一番最高さ」 と言える感性をどんな時代であろうと持っていたいと思います。 よきコメント感謝します。 (ファイブ・ペニーズ)

2017-08-22

竜野欠伸 さん こんにちは。 美しく、かつ、きちんと読んでいただいて、とても嬉しかったです。 私は、〇とか×じたいは、左程気にしませんが、書かれているのが 均整のとれた〇なのか、×なのか、を興味深く読ませていただきます。 その人が、丁寧に読んでくれたかどうか、評者の認識を誠実に、そして、 やはり丁寧に語ってくれているかどうか。ですね。 竜野さんのコメントに、その両方の丁寧さをを感じることが出来たので 作者として心からお礼を申し上げることができます。 >温感について 「描写」と《展開のリズム》は、相反する関係があるので、なるほど、と思いました。 私は性格的に短気な方ですから、描写を厚くするより、展開に速度を持たせるのを好みますが、 いちど、すごく厚く塗ってみようかな、と、ちょっと面白課題のヒントを頂けました。感謝 (ファイブ・ペニーズ)

2017-08-22

蛾兆ボルカ さん 映画の『ファイブペニーズ』は、失意からの飛翔ですが、本作品では、失意で終わっていて、飛翔の部分がない(あるとすれば、鴉の飛翔)。なので、おやおや、と思わせますが(思うのはちゃんと読んでいるからこそです)、敢えて、作者が失意で切っているのは、小説『月と六ペンス』への暗示であり、同時に、その直前でのストップモーションだから、でした。 『月と六ペンス』が持ち出されるのは、ペンスとペニーという言葉の上のヒントからと言うよりも、むしろ、アイロニカルな悲運の《失意》で幕を閉じる、そこに、《芸術家の運命・詩人の運命》ということを感じとり、そこから、モームのあの小説が想起される、という自然な連想の流れがあるからです。 >タイトルは、「6ペンス(現実)の1ペンス前に」という含みに解しました 最後まで読むと、題名に、そういったニュアンスが隠れているのが解る人にはわかるだろうな、という感じでした。 『月と六ペンス』にいく一歩手前で、映画の『ファイブペニーズ』 でありたいけれども、・・・どうなんだろうね現代人、そして詩人の運命よ、と。 わたしには、《詩人の運命》というのは、非常に重いテーマなのです。 思い浮かぶ作品の系譜も多いですね。『月と六ペンス』以外にも、中島敦『山月記』、『老人と海』もそうです。よく、知られているのは、『フランダースの犬』のラストシーンでしょう。 ですから、 >いつか砂漠のオアシスで一緒に美味しいジュース飲みたいね。 というのは、定休日で閉まっているお店を、親切なご主人が出てきて開けてくれた ような感じの潤いのコメントでした。 * 私が敬意をもって最も憧れている詩は、河井酔茗の「ゆずり葉」です。 いつか、私も、倒れているマッチ売りの少女が思わず起き上がるような詩を 書いてみたいなあ、と思っています。 蛾兆ボルカさん 竜野欠伸さん 鈴木海飛さん 花緒さん まりもさん ありがとうございました。 * 追伸 (わたしは、正解はこれです、という意図で、解題していませんので、面白い解釈はすべてOKだと考えています。ー念のため) (ファイブ・ペニーズ)

2017-08-23

コメントさせていただきます。よろしくお願いします。 オクタビオ・パスによれば、実用品と芸術品を見分けるポイントは、「ポエジー」の有無だと言いますが、本作品のポエジーは薄いので、実用品に近い印象です。 ただ、芸術品でもなくまして実用品にはならないものも割りと在ることを考えれば、実用品に近いというのは、すでにかなりなものだと(わたしは)思っています。 が、同時に、実用品だから浅くてもよい、とは考えていないのです。 さて、 この作品では、「-し合う」「わたし」と「君」の関係が悲恋気味に語られています。語り手である女性「わたし」は、王子様とも認定する男性である「君」を、それでは本当に愛の対象として心に存在させているか、というと、語り手の女性は実のところはクールに割り切って見ているという感じが伝わってきます。 それは何故か、順に述べていきます。 本作は、アール・ヌーヴォーではなく、アール・デコな感じの整った一品です。そのせいなのか、文章が整い過ぎているがために、気付かれ難いような僅かな歪がかえって私には気になりました。 気軽に読むと、男女が「-し合っている」関係=恋愛という感じに、読めるし、そういう印象を与えるようにライト感覚で書かれてもいるわけです。 したがって、恋愛を基調に、ごく自然に読んでいくと、 恋愛模様には曲線が似合うのに直線で構成されています。作品じたいが、ピンクの女性的な額縁ではなくグレーの鉄で出来た額縁に嵌め込まれている。あるいは、ピンクの描線ではなくさめた青で描かれている。なので、 表面的な作品の基調と、深層に流れる作者のほんとうの気分のギャップが感じられ、むしろ強調されるのは、本来は、アンチ恋愛という心性を持った読者に訴求する作品でありながら、「らいとぽえむ」の読者にも売ろうとしている、という捻じれている印象を受けなくもない、といったカンジの違和感です。 (たんに恋愛表現を異化するというレベルを超えて、積極的なアンチの表現、もしくはパロディーになっているからです) 恋愛というか、強い愛がある、という場合には、お互いがその人でなければならない、と感じる(簡単に言えば、欠点も美点だと思う)世界なので、この作品のように、「わたし」と「君」を数理処置して客観的に対象化してしまうと、愛情の深い世界は見えてこない。と(わたしは)感じます。文章が整い過ぎている、といったのは、そういうニュアンスを含みます。 本作品の言わば眼玉である異化表現 「-し合っている」は、 気の利いた何でも代入できるイカス表現のようですが、 《愛》だけは、その本性上入らない。 だけど、本作では入るように数理感覚で書かれている。 恋愛もパズルだ、というライト感覚。(=極薄ポエジー) というわけで、本作品は、 よく読めば、「-し合っている」だけの関係にある二人(男女)に関する、女側から見た、ただの人物評なのです。 それは、ラストの部分によく出ています。 テクニカルな対句が綺麗に決まっているラストのところ。 >〔君は〕冷たすぎるかき氷 >〔私は〕蕩けかかったアイスクリーム これは鮮やかなのですが、しかし 本文をみると、 二行づつのセットにしてあり、そうしてしまった書き手としては 表現を結晶化しなければならない文脈の圧力を受けるところです。 そこを、作者は、 >君は甘すぎる桃のジュース >冷たすぎるかき氷 >私はぬる過ぎる夏の温度に >蕩けかかったアイスクリーム と処理しましたが、この対比はどうなんでしょうか? 彼の方は=「すぎる」ジュース=「すぎる」かき氷 彼女の方は=アイスクリーム(「過ぎる」のは温度であって彼女ではない) 「すぎる」は否定語になっていますが、 彼は二重に否定されている のに 彼女は「蕩けかかっ」ているだけなので、 普通のアイスに近い状態だから、実際はたいしたことはない。 なので、リズム以外(わたしには)成功した対句には見えません。 この破綻には、おそらく作者も気づいた筈です(それだけの腕はあるので) けれども、もともと、彼は甘すぎる「桃のジュース」だ、 というレッテルの方が先行してあったのでしょう。だから、決めの部分で、あまりにも紋切り型であるにも関わらず、どうしても、「彼」を、ただの甘い(すぎる)ジュースという、自分が安心できる枠の中に嵌め込むことは、むしろ動かしたくなかった(積極的にむしろ使いたかった)のではないか、と思料します。 スチール製の灰色の額縁のなかに、鮮やかな筆さばきで青く塗られた絵があるが、よく見ると、僅かな一箇所だけが、ピンクのマジックで塗られている。そんな印象を受けました。 以上です。 (こんなに-し合っている私と君は)

2017-08-13

田中修子さんへ お話し、興味深かったです。昔から文章が巧かったんだな、とあらためて感じました。 過去の男性と当時の作者、お聞きしたその関係の中にいる女性が《この詩を》書いたというのは、若干解せない感じもしますね。「説教三昧」の王子様は、ジュースより漢方薬のイメージなので。あと、この作品の語り手はドライな性格だからです。でも、まあ、関係というのは時間の幅もあるし、心理状態にも幅がありますから、貴重な告白談を尊重して感動するだけにしたいと思います。 本作を読むにあたって、ひとつ、どうしても作者に是非お聞きしたいな、と思うのは、 どうして、10年前の作品を、「パチン」だけしか直さずに、今此処に出されたのか? そこに意図があれば、参考にお聞かせいただければと思います。 (普通はあまり思い出したくない過去を、成長した本人がそのまま無修正では提出しないものだ、とわたしは、ですが、なんとなく思うから、の質問です) 特に解答する義務があるはずもありませんので、質問がお説教のように感じられたら適当にお茶を濁して頂いて全然かまいません。(無視でも、わたしは気にしませんので大丈夫です) (こんなに-し合っている私と君は)

2017-08-15

言語というのは面白いもので、文字は音符であったり、語句は記憶の映像であったりする。 そして文章は、新しい様式であろうと、古い様式であろうと、それは結局、優美な舞踏である。 巧い下手は別にして、そういう面があるものだから、中身よりも躰の外側を色々と無駄に動かす工夫に腐心したりするひとが後を断たないが、しかし、核心がない表現というのは読んでいてひどく退屈である。 核心があるなら、やさしい文で書けばよく、核心がないのを隠すために文を妙にひねり回して難解を衒う必要はない。 下手な描写というのは取捨選択がされていない。 「雪が降っている」という一般的な表現を、 「悲しみの雪が舞う」と表現し直すことが文学でない以上、 描写論の問題は形式論に尽きたりはしない。安易なものの多くは 「さらさら降」ったり「激しく舞」ったりと書かねばならない必然が 問われていない。 以上の観点からすると、 本作品は、冒頭から終わりまで必然で貫かれています。 流動的知性を担って登場するのは生意気な息子でなければならず、最後に平和な家庭で待っているのは、(柔軟性をもった個体である)プリンでなければならない。 ちなみに、 「プリン」を化合物として化学的に連想すれば、酸性やアルカリ性だとすぐ溶けてしまうが、 中性の環境には溶けにくい、といった暗示も含んでいます。 よって、本作品は文学的な作品として(私は)評価しますが、 小説か詩かという問題を孕みます。それについて積極的に述べると、長くなるので、別の機会に譲り、 ここでは、消極的なようですが簡単に、これもまた自由詩であるとしておきます。 (ペペロンチーノ・半熟目玉焼きのせ)

2017-08-09

はじめまして、よろしくお願いします。 いろいろな読み方ができる、というか、してみたくなる作品でした。 まず最初に、詩論として、二通りに読むことができ、次にまた作品としても二通り以上に読むことができます。  まず詩論としての第一は、行き詰まった現代詩からの呪詞となるのでダーク感は、芯に迫って漂っていることになりますが、しかしその場合には、内容的にはわりと単純だということになってしまい、この場合には、私の感想は、前に作ってから「ずいぶん」経つわけだから、(今、もしくはこれから)はどうしましょ?という感じになるだけです。  詩論としての第二の方は、なかなか興味深くて、作者の「書く」修行の過程が書かれている、と読めます。それだと、長い年月の書く修練を(他律的に)やって来たことへの感慨が漂い、新時代への寿詞を予感させます。  つぎに、テクストそのものを、あくまで作品として味わってみた場合、  第一に、これが、自分の子供に向かって、お前は「魂が入っている」か?と、言うつもりで書いた素朴な作品だったとしても、テクスト自体は、もっと広がりのある作品性を獲得しています。 例えば、近現代人というのは、「作」れると驕っていますから、そのあたりも突いているのか、とも取れそうでした。 「人を殺してはいません」と断り書きが入っていますので、その線は消えますが、しかし、タイトル「手作りの命」から、現代の大量生産工場=学校=現代人(≒詩その他TV番組も含めての作品群)批判までイメージの射程には(私が読むからか)入っている面白そうな気配を盆栽にしたような作品とも読めなくはありません。  第二には、ドラマチックに。若い頃、事情があって仕方なく子供を産んで置いてきた。その後、安定した家庭をもち子供が欲っしたが死産が続いた。という悲しみを綴った抒情詩。  又は、可愛く伸び伸びしていた我が子は、いま中学生になり、魂を失った死体のようになってしまっている、という日常風景を異化した(わりとありそうな)現代詩。 というわけで、色々な読み方ができる作品ですが、 わたしの最終的な鑑賞は以下の通りです。  わたしが読むと、1、2,3聯・・と曲を付けたい感じで、流れている。なのに、 最後の聯でいきなりストップするのが、特徴的であると感じます。 そのストップは懐旧感を強調します。 ですが、それは昔を良しとするのではなく、むしろ、昔を突き放して見ています。 視点は《今に至るまで》に向けられていますが、それも突き放して見ています。 唯一、これからに対する視点を欠いているか、題名の「手作り」+「命」のかけ合わせが、否定もできれば肯定もできることは承知のうえであろうことから、核に見えるのは、シニカルな視点で未来に対しては安全を確保している、という印象でした。 そういった意味では、まだ死体を作りきれていないし、魂を入れきれていないかも知れません。 ただ、そのどちらとも言えるようなものが「作られて」ここにあります。 (手作りの命)

2017-08-08

はじめまして。よろしくお願いします。 私はドラマ性のある作品は好きな方ですし、そういった作品ほど、誤魔化しが効きにくい分、見た目より実際に書くのは難しく高度だと考えています。ドラマ性を持った作品には完成度が求められるからです。 そこで、本作品も、完成度という視点から鑑賞しました。 一見よく書けていそうなこの作品が、どうして読者には腑に落ちないのか、 私が感じた所を以下述べてみます。 それは、作品冒頭にあって、本作を理解する上で重要である  >僕は何かに守られていると強く感じる。 という語り手の感覚が、読者にうまく伝わらないところが原因です。 子供が長靴を穿いた時に感じる、鎧を着たような無敵感、そして傘により語り手が雨から守られると感じた防御できる筈という感覚。それが、「弟」には至極あっけないものでしかなかった。という、この感覚がむしろ作者が伝えたい感覚だと思うけれど、それが、読者には、わたしが解説したようには伝わらないだろうと思います。 なぜ、それが伝わらないか、といえば、第一聯の書き方が不味いからです。 >雨が止みはじめた頃に、 >傘を差しはじめてみた。 これだと、かなり変わった感受性の持主が語り手だと読者は思います。(面白いつかみにも思える) そういうコンテクストで、 >びしょ濡れになって傘の下、 >僕は何かに守られていると強く感じる。 と続く二行も同じ流れで読める。だから、重要なはずの(作者は共感してほしいはずの) 「僕は何かに守られていると強く感じる」もまた、冒頭の流れのまま、一般人の感覚を離れた特異な感受性なんだろーな、と、誤読される方がむしろ当然と思える そういう書き方をしています。 で、特異な感覚の人の詩なんだろうな、と期待したら、次からはずっと >道の向こう側から、 >少年が歩いてくる。 >あの懐かしい長靴の黄色が、 >僕の目に焼き付いて離れない。 と、極めて紋切り型がならぶわけです。(以下最後まで) それはそのはずで、全体は、淡々とした、フツーの人のモノローグが味わいになっているドラマですから。 なので、面白い掴みのように書かれた、第一聯の前半部分が、 全体のドラマの雰囲気と整合しておらず、私から見れば残念な出来栄えになってしまっていると感じました。全体が淡々と平板な叙述で構成されている以上、第一聯前半部分も、もう少し丁寧に工夫する必要があったと思います。 以上です。 (ある雨の日、君の弟は。)

2017-08-09

カフカの『変身』を外側からみた作品といった印象です。 どちらがグロテスクかはわかりませんが。 (面白い作品ではあります) (「七階のセミ」)

2017-08-09

タイトルに惹かれて読んでみたら、読後感としては、  《ライティング便所のクリエイティブな落書き》 という感じだった。(正確な印象であり、けなしているのではありません) なぜ、そう感じられてしまうのか、私の考えを以下に述べます。 作品の感じとしては、筒井康隆風で、努力なく最後まで読めたけれども、変化に乏しくて、文章量に比して展開が単調な感じが、まず否めなかった。本作は、レトリックに配慮がある分、皮肉にも、作者の問題への切り込みが浅いために単調になってしまったことが明らかである。ゆえに、作中で起こっている事件のインパクトほどは作者にパンチ力がないと感じられる。本作から受ける印象の作者はチクリと刺すという感じの人なので、その小ささと書きたがっているなと感じることのスケールがアンバランスな印象を強く受けた。 というのが一点。 しかし、それよりも重要だと思うことは、この作品のデノテーションに関しては、皆、面白いし良いと感じられる筈だが、じつは、この作品から受けるコノテーションに問題がある。 本作品の発するコノテーションは、きわめて美しくないのである。 デノテーションとしては、暴走する本音は共同体、ひいては自身の崩壊を招くという寓話だが、 コノテーションとして読者が受取るのは、     《誰でも本音は醜い》ゆえに《美しいことばなんて存在しない。虚偽だ》 という感性。さらに、     《世の中を制圧できるくらい巨大な言葉》への憧れ(愉悦) である。 作者が糾弾していていながら、その作者みずからが、じつは、《美しいことば》を否定し、《巨大なことば》を肯定している、と読者には感じられる(ように思うのだがどうだろう)。だから、心ある読者は、本作品を心から肯定できない。 その違和感が、よく書けている作品でありながら、(わたしから見ると)本作をきわめて腑に落ち難い作品にしているのだと思う。 逆に、本音を書かなければ、腑に落ちる作品が充分書ける作者であることはわかった。 読後、タイトルに受けた違和感の内訳は、以上です。 (「便所の落書き」としてのクリエイティブ・ライティング)

2017-08-13

花緒さんへ 丁寧なコメント返しありがとう御座います。 長編小説全5巻とかですと、第二巻あたりは全編あるていど単調でもよいわけですが、ショートショートだとすれば展開とラストのオチが重要性を増してきますね。 本作では、ノートに書いた文字がオブジェ化するんだな、と読者が充分認識しているのにそのパーンが重畳するので、そこを「単調」と評言しました。 >本作は、文学、ではないし、詩作品でもないし、 ><便所の落書き>としてのクリエイティブ・ライティングである 云々という辺りを、再度聞くと、そこが腑に落ちないところになっちゃうんじゃないかなぁ、というのが僕の感想なんですね。更に説明することもないんですが、ようするに、花緒さんはご自分の作品にしか「便所の落書き」とは言わないでしょ?。 ここを利用する人の作品に、これは「便所の落書き」ですね、こっちは「文学」ですよ。って明確に区分して論評しますか。でも、自分の作品にはするわけでしょ。そうすると、どう思われるんでしょうか。 この作品の問題は、そこにあって、花緒さんは、じつは、投稿作品をみて、内心《便所の落書き》だと思ってるんだろうな、と思われることになるんじゃないでしょうか。 「クリエイティブ・ライティング」という明るい言葉をいくら混ぜてみても、それで救えないで、《便所の落書き》という暗い色のほうが濃くメインに出ちゃうわけです。 そしてもう、色はどうやっても戻せない。 立場上、それに気づかないようでは、「問題への切り込みが浅い」と私から言われて、ややキツめの論評を受けても仕方ないわけ、がそこにあります。 その誤解を解除する何かを作品にはめ込んでおく配慮が必要だったと思いました。 本作のラストは、芥川『蜘蛛の糸』風に、主人公の利己保身のことばによって自分が押しつぶされて死にますが、それでは わたしは、罪が軽すぎると思うわけです。 もし、私が書けば、きっとラストは、  ノートに最後の一行を書いたときこれまで最大のオブジェが  起立していただがそのとき丁度そこへあの泉の女神のまだ小  さな娘が俺に釣り竿を返しにやって来るのが見えた俺はあぶな  いと叫びながら慌てて助けに走ったが小さな娘は釣り竿を差し  出したまま最も巨大なオブジェに俺の目の前で押し潰された  ・・・助けに走った俺といっしょに。 というものになります。(これは見本のつもりではなく、私はこういう個性です、という自己紹介です)わたしは、性善説なのでこういうラストを思い描きます。 ただ、ある人物が、どんなに性善説を唱っても、生物である以上、自己中心性は消し去れない、だから、性善説じたいが胡散臭い、というのは現実的な深い認識だと思うし、花緒さんの隠れた良き持ち味なんだと思います。それが公衆のことを考える精神の柱になっているのだろうなと思いますから。 わたしのように、本当にマヌケなほど性善説だと孤独にしかなれません。 脱線ついでに、最後にもう一つ補足すると、 この作品が、仰言るような、本当に「便所の落書き」であるとしたら、これを書いた人は、相当長くクソをしていたことになります。そんなに長くクソをしている人はかなり文学的な人だろう(とわたしは)思いますよ。 ただ、私の言葉を、花緒さんがそのまま受け止めてくれるかは、心配ですが。 (「便所の落書き」としてのクリエイティブ・ライティング)

2017-08-13

花緒さん 確かに話しがズレはじめたようです。 >私〔花緒さん〕が投稿作を<文学>と<便所の落書き>に区分してどうと言った批判 などは、そもそも何処にも出ていないからです。 読者にどう感じるか、という話をわかりやすくしたつもりでしたが、 わからなければそれでも構いません。 先程のコメントの最後に、わたしは、ちゃんと 「私の言葉を、花緒さんがそのまま受け止めてくれるかは、心配ですが。」 と書いてありますしね(笑)。では、ごきげんよう。 (「便所の落書き」としてのクリエイティブ・ライティング)

2017-08-14

はじめまして。よろしくお願いします。  「人間の存在の現実それ自身はつまらない。この根本的な偉大なつまらなさを感ずることが詩的動機である。詩とはこのつまらない現実を一種独特の興味(不思議な快感)をもって意識さす一つの方法である。」(西脇順三郎「PROFANUS」)  この定義に照らして見たとき、本作が、果たして「不思議な快感」をもたらすか、それが読者から眺めたときに問題になる。  本作では、《内的独白》と言った感じの、《意識の流れ》に読者は付き合うことになるけれども、とりたてて《意識の流れ》などとそう感じるのは、若干退屈するからである。読み終わったとき、”さっさと皿を洗わんかい”とツッコミたくなるほど。しかし、それが《意識の流れ(内的独白)》の特徴であるから、そもそも、そういうコントとして書かれてもいるのだろうと感じられるので、基調として私はそれは嫌いではないが、もう少しファルスな感じの仕上がりの方が(あるいはもっと深刻な方が)、より愉しませる作品になったのではないか、と思う。 全体として、語りが薄味な印象を受けた。  どんな作品も、色々な愉しみ方が、無論、読み方によって出来ると思うけれど、もっともツマラナイ読み方に帰着されてしまう可能性は畏れなければならない、(と、わたしは)思っていて、本作の場合、その可能性が消し切れていないことを指摘しなければならない。  作者の施したデコレーションに魅了される読者はよいとして、それを薄味だと感じる読者は、デコレーション以外の骨格や、核の部分に眼が行くことになる。そうすると、そういう読者の眼に、本作品読了後、最後に強く印象に残るのは、 >お前は俺を何と見るのか?妻よ、 >皿を洗う男。直立している。 この二行である。 この二行を、《不思議な快感》によって消し切れていない。一人の読者であるわたしは、そんな風に感じた。 *〔以上です〕 (スポンジでものを洗う)

2017-09-01

コメントさせていただきます。よろしくお願いします。 一読したとき、独特の語り回しが、箇所箇所で異様に「です・ます」調に崩れるところが点々とあるので、その部分だけ抜き出して繋ぐと、メッセージが現れる暗号詩なのであろう、と思った。やってみたら、成立していたので、それを一つの鑑賞として述べることもできるのだが・・・、それは、まあ気のせいということで、本論に入ります。 (結論としては、) 所謂「現代詩」を一般の(教養ある)読者が読んだ場合に受けるでろうナンセンスな感覚を、そのまま専門的マニアにも感じさせる現代詩のパロディ作品として、わりと面白く読みました。 私にも、『 日曜日のザナドゥは後戻りできないホ短調』(2016/03)という作品がありますが、私が書くとどうしてもポエジーが含まれてしまうので、本作品のように、外形の捻り具合に比べて内部は単純だという面まで抵抗なくパロディにできている点では、本作はよりパロディになっているなという印象です。 作者による注釈によって、それがより強調された感があって面白かったです。 (わたしの使う「面白い」はfunnyでなくinterestingです) ただ、作品は、書かれてしまうと作者の手を離れ、完成は読者に任されるものですから、本作品の場合などには特にですが、《読者による注釈》もまた存在し得るだろうと思います。 『白夜の終わり』は九聯構成で 「暮れない白夜」が終わり、「瑠璃色の夜空」に変わった。  やがて降ろされるその、深海の呼吸〔のように明滅する〕  夜空の「天幕」の中を、「ケンタウロス」が駆けていく。 といった感じの (なぜこう美しく書かないか疑問が拭えない)長い長い作品ですが、 中心になる語は「 」で括った4つの語句に絞れます。 この4つの言葉について、 私流の注釈(つまり勝手読み)の一例は、 以下のようになったりします。 「暮れない白夜」  《この里に手鞠つきつつ子供らと遊ぶ春日は暮れずともよし》(良寛) 「瑠璃色の夜空」   瑠璃色=濃い青であり、深海に通じる。深海は息苦しくもあるが   圧力もすごい。そして闇である。ただ、闇の中で自ら発光する魚もいる 「天幕」   テントなら若者であり青春モードで注釈したいところなのだが、良寛の   せいばかりではなく、光から闇へと来ているので、「天幕」もここでは   医学用語(大脳と小脳を仕切る骨の壁=天幕)で解そう。この大脳側に   動脈瘤ができることが多いが、そうすると「眼前暗黒発作(=めまい)」   に襲われたりする。 「ケンタウロス」   半人半獣を徴すので使い勝手のいい象徴であるが、ここまでの私流の   注釈の流れでは、生と死に関連してきたこと、と、ケンタウロスが   《夜空に輝く二人の人馬の姿にちなむもの》であることから、此処では   ケンタウル祭―→『銀河鉄道の夜』を連想し、そこから、死と再生   の冥府降りの物語を勝手に深読みしたかったなあ、と不満までを註記し   てみるのも、やはり、読者としての奪われない権利であろう。       ジョバンニは自分といふものが〔…〕       みんないっしょにぽかっと光って       しぃんとなくなって〔…〕そしてその一つが       ぽかっとともるとあらゆる広い世界ががらんとひらけ  あらゆる歴史がそなはりすっと消えるともうがらんと       したたゞもうそれっきりになってしまふのを見ました。                    (『銀河鉄道の夜』より)   以上です。 (白夜の終わり)

2017-08-11

はじめまして。よろしくお願いします。  読み手に解り難く書いてあるような前衛作品ならば、わたしもまた前衛的な批評を試みたりしますが、分り易い文体を使って内容で勝負するような作品の場合は、なるべく寄り添って読むようにしています。ところが、本作の場合、文章を捻っているのか、下手なのかが不分明な為、わたしとしてはどういう読み方をしたものか少々迷うところです。先程の分類のちょうど中間にあるようなカンジですから。  そういった作品の場合というのは、あたかも、頭がライオンで尻尾がネズミであるような動物の鑑定に似ているので、それを、頭だけを見て、これはライオンだ、というのもちょっとな、という気がするし、逆に、これはネズミである、というのも、(部分だけ取り出して論じるのは)外れてはいないが、ちょっと、当たってはいない、という気がするわけです。 そこで、うまく全体を掬い取れるような、読み方ができないか、と思いながら読んでみました。 (というわけで) 高架線の下で電車の轟音に掻き消されてしまう個人の「足音」という純粋な結晶を取り出すには、本作品は、混合物(あるいは雑音)が多すぎるような気がしました。 その読み方だと、他の雑多な要素をどうするんだ、という取りこぼしてる感じが残ります。つまり、ネズミの尻尾が見えていないことになる。作者は、批評者がへんだなと思う部分にもその作者なりの力を込めているでしょうから、なるべく、その(へんな)部分も無視せずに全体に沿って読んでみたい気がします。 そうすると、本作品を、きちんと成立するように、一貫した作品として読むためには、この「男」が既に、轢死しており、その幽霊が冒頭から登場していつもの家路をかえっていく、そういうわりと単純な話になっているのだろうと理解するしかありません。 そういったわけで、 作品が「がたごと」しているので、掻き消されないように読んでみました。(以上です) (高架下)

2017-08-13

(笑)どうなんですかね。そもそも、ライオンの頭とネズミの尻尾というだけで、他はまだ不明ですから。ライオンネズミには前足が有るかどうかもわかりませんので。 ただ、推測ですが、頭がライオンのなので、虎が優しく殴っても、あくまで強めの猫パンチくらいにしか感じないかも知れません。 (高架下)

2017-08-14

「ナメクジの夢」の後、 「光が踊るような、冬の朝」が訪れるなら それもまたよく、 ナメクジの夢と光が踊る朝を往復するのが、本当の知的人間かも知れませんね。 光で照らすと、ナメクジの夢だったと、後で解る場合も、 偶にあります。 (獣の変身)

2017-08-14

曖昧のなかを夢中で泳ぎながら、=《体験している》。そこでは、イメージが生きている。それが、見慣れた日常の言葉に置き換えられた途端に死んでしまう。 ホフマンスタールの書いた『チャンドス卿の手紙』のように、書けなくなってしまうという皮肉もあれば、リルケのように、「書く」のではなく胚胎したものを生むという誠実もあるでしょう。 19世紀ならば、ゴーゴリの『鼻』のように、悪夢も現実に戻ってきます(夢オチですね)、20世紀以降は、カフカのように、悪夢は現実のまま醒めることができないのです。 それらは、セオリーではなくて、本質的なことを教えているように(わたしには)思えます。 もともと日常言語で出来ている人の場合は、詩を偽装することしかできないのではないか。 ということです。もともと《詩人》というのは、その内部が、日常言語でできていないのだが、 なるべく、日常言語に近づけて自分の内部を翻訳している、のではないか。 そうすると、発想が逆なんですね。 なるべく日常言語を離れようと、心がける人は、元来の詩人ではなくて、 なるべく日常言語に近づけようとしてるけどオリジナルなことを書いてしまうのが詩人です。 そんなことも、ささやかに、ふと、思います。 (獣の変身)

2017-08-24

はじめまして。よろしくお願いします。 読後の(わたしの)印象を、理由を明確にしつつごく簡単に述べます。 * 前景として、水を遣ってしまったがゆえに、 せっかくの 「夜の重さ」 が、 ただの水の重さのような印象になり たいした重さに感じられない。(というのが結論です) 言葉の妙にただ、作者が酔っているだけ、という カンジになってしまうのは、 「夜の重さ」を、作中で、ただ感じるだけならまだしも、 平凡な水遣りという動作から導入してしまったので、 読み手側からすると、作品に説得力がないからである。 花は、きっと 《朝の軽さ》に揺れている こともあるだろうから、 「夜の重さ」というものに形式だけでなく 実質も籠めたいところである(と、わたしは思う) 短詩も短詩、かなり短く書くことを追求するのであれば、 本作品では、  >花に  >水を遣る という二行も余分であるから削ったほうが良かったのでは ないだろうか。 * (以上です) (夜の水遣り)

2017-08-27

はじめまして。よろしくお願いします。 不快なキャラクターを巧みに演じる俳優の名演技 を、鑑賞させてもらえるような作品でした。 なので安心しつつ見ていられます。これによって実際に作者が逮捕される ことはないのが読み手にはよく解るので、ファミレスで騒ぐ子供のような 破壊力が微笑ましく伝わってくるからです。 * 太宰治がこんな話を書いてますね(以下引用が長くて恐縮です)。 ●――――――――――――〔引用開始〕 男は、突然、咳にむせかえった。こんこんこん、と三つはげしく咳をしたが、これは、ほんとうの咳であった。けれども、それから更に、こん、こん、と二つ弱い咳をしたが、それは、あきらかに嘘の咳であった。身だしなみのよい男は、その咳をしすましてから、なよなよと首(こうべ)をあげた。 「ほんとうかね」能面に似た秀麗な検事の顔は、薄笑いしていた。  男は、五年の懲役を求刑されたよりも、みじめな思いをした。・・・ ・・・不起訴ということになって、やがて出牢できたけれども、男は、そのときの検事の笑いを思うと、五年のちの今日(こんにち)でさえ、いても立っても居られません、と、やはり典雅に、なげいて見せた。」 ――――――――――――●〔引用終了〕(太宰治「あさましきもの」より) 坂口安吾は、    「そういう自卑に〔実は内心でじぶんが〕人一倍苦しむ太宰」 について、 こんな風に書いていました(「不良少年とキリスト」から下記引用)。 ●――――――――――――〔引用開始〕 思想とは、個人が、ともかく、自分の一生を大切に、より良く生きようとして、工夫をこらし、必死にあみだした策であるが、それだから、又、人間、死んでしまえば、それまでさ、アクセクするな、と言ってしまえば、それまでだ。  太宰は悟りすまして、そう云いきることも出来なかった。そのくせ、よりよく生きる工夫をほどこし、青くさい思想を怖れず、バカになることは、尚、できなかった。然し、そう悟りすまして、冷然、人生を白眼視しても、ちッとも救われもせず、偉くもない。それを太宰は、イヤというほど、知っていた筈だ。  太宰のこういう「救われざる悲しさ」は、太宰ファンなどゝいうものには分らない。太宰ファンは、太宰が冷然、白眼視、青くさい思想や人間どもの悪アガキを冷笑して、フツカヨイ的な自虐作用を見せるたびに、カッサイしていたのである。 ――――――――――――●〔引用中断〕 ただ、実際に太宰と交流のあった安吾には、 先輩を訪問するときには羽織袴でやってくるような太宰を知っていた。 ●――――――――――――〔引用続き〕  太宰はフツカヨイ的では、ありたくないと思い、もっともそれを咒(のろ)っていた筈だ。どんなに青くさくても構わない、幼稚でもいゝ、よりよく生きるために、世間的な善行でもなんでも、必死に工夫して、よい人間になりたかった筈だ。  それをさせなかったものは、もろもろの彼の虚弱だ。そして彼は現世のファンに迎合し、歴史の中のM・C〔マイ・コメディアン〕にならずに、ファンだけのためのM・Cになった。 ――――――――――――●〔引用終了〕 そんなことごとをちょっと思い出させ、仮構の意味を考えさせるような、 (わたしには)そんな作者と作品でした。 〔以上です〕 (マックシェイク飲む、いつも。)

2017-08-29

はじめまして。よろしくお願いします。 ホラーではなく、ダリ風のシュールレアリスムな感じ漂う作品です。こういう作品を書く書き手は、自身の文学的特徴をきちんと読み込んでもらえないと、書く度にがっかりするのではないか、と(わたしなどは)推察します。 作者は3つの層において文学的に捉えた人間観(日本人観)を、自分でもよく分からないものとして(つげ義春風とでもいうんでしょうかね)描き出しています。若干、借りて来た要素が多くて、前田文学とまで言えないのが残念といえば残念なところです。 * 途中で間延びしてしまうのも、わたしが読んでいて残念なところでした。この作品のキーワードは、「黄色」と「猿」ですが、さり気ない「黄色」と違って、メインの謎として提示されているのが「猿」です。 この謎が、だいたい敏感な読者には真ん中くらいで分かってしまう。途中で犯人分かってしまったミステリ小説のようなものですね。読者は飽きてしまう。それなのに、飽きさせない工夫が施されていません。作者は、まだわからないだろうと思って、謎をつづけてしまっているので、3以降が退屈です。ただ、ここが本当は上手く書けていないと、「黄色」の含意が読者に伝わらないでしょうね。 「猿」は、 「白い睡蓮の花」と対比されるような、人間が抱えている本能的・本源的な醜さですかね。それを強く意識させるキーワードですね。ヒトののシャドウ。それでも高い知能がありますし、何より、人間は自分自身が猿ですからね。どうしたって否定できない直面するのは恐ろしい部分なわけです。夢や鏡を通してしか見たくない。 わたしなら、たぶん、こういう認識は、『詩を書くサル』というタイトルで、評論的な詩作品にします。でも、前田さんは、こういう作品を書く。そこに私との違いがありますね。 「黄色」(タイトルにも使われている) に籠められた印影については、二年前に、わたしが別の作品についてネットでコメントしたことがあります。自分の文ですが、必要なのでここに引きます。 ●――――――――――――〔引用開始〕  「色」はもともと、色々な意味で面白いのだけど、ご存知の様に、日本語の色には、<アカ、クロ、シロ、アヲ>しかなかった。その後、古代人もさすがに語彙を少しづつ増やし、植物などからとる染料顔料の色名などが増えていく。チャイロ」「ミドリ」などですね。 ・・・・  ・・・ この色古語の新旧の差異は、〔アカシ、クロシ〕(今だと、〔赤い、黒い〕)/〔チャイロナ、ミドリナ〕という時代の用法の違いに反映している。黄色も、新しい言葉なので、キイロシとは使わず、江戸時代まで〔キイロナ、キイロニ〕という用法で使われてきた。(現代、茶色い、黄色い、と使うのは語のリズム感からの創発変化らしい)  黄色は、万葉集にはみえず、明治維新の頃から、「黄色い」という使われ方が現れる。 ――――――――――――●〔引用終了〕 この点をイメージに入れると、 「黄色」+「猿」は、明治以降の日本人(つまり、近代日本人) とも読めますね。 わたしが、3つの層において捉えた人間観・日本人観だろう、と言ったのは、 1つには、まず、母親という一つの対象に対して、その「猿」を見て苦しむ。 2つには、おのずと、自分自身の中にも「猿」を感じて(抱えて)苦しむ。 3つには、日本の社会、世間一般にも、その「猿」の姿をみて苦しむ。 それが、シュールな夢という味付けで展開されていく、そういう作品だと思います。 わたしの勝手な読みですが、以上によれば、 ラストに鏡に映った猿は、 自分でもあるように描く方がよく、母親だとして描いてしまうと、 作者が、人間の「黄色の」「猿」の部分に対して、苦悩よりも受容的であるのが明らかなので、 作者の苦悩の方には共感できなくなってしまいます。 わかりやすく言うと、《人間は醜いものさ・(理性あるいは倫理的に)弱いものさ》ということを引き受けていくというか、噛み締めていく、というカンジでしょうか。ただ、そういうポーズは、最近はやりの大衆に媚びるTVの風潮と本質的には同じです。大衆は弱さを攻められないこと、平均でよいと言われることに安心するからです。ならば、文学が衰退するのは当たり前ということになる、と、(わたしには)思える。そういう感じがしてくる微妙な違和感がそこにはあります。 なので、もっと「猿」を効果的に使う必要があったかもしれません。 猿の中で猿でいることは苦にならないからです。 《猿70%》さん達の中で、一人《猿17%》でいるから辛いのです。 ただ、この作品は、作者が、家庭環境のなかで葛藤してきたことの詳細を読者に悟られること無しに、作者自身は告白ができており、そんな、《黙秘の文学》として詩を利用している、そんな作品のようにも思えます。 (以上です) (黄色の足跡)

2017-08-22

前田ふむふむさんへ 私も長々とコメントを書く以上、真剣に読んでいますので、それに対して、お体裁でないお返事を頂けて嬉しいです。 私のコメントにも書き手の趣旨がありますので、 「ダリ風のシュール」と断っているのを「シュール」と断定的に裁断されるのは、 明確にするため、というよりは、曖昧な詩の世界的な捉え方なんでしょうか。 私は、批評畑の人間なわけでなく、何畑の人間でもない悲しいシロートですが、 批評コメントを書くときは、批評的に明晰に発言するだけです。 >僕は、母が猿であると、どこにも書いていません。 作者の意図としては、曖昧にした筈だ、ということでしょうかね。 曖昧になってないので、そこは不味いな、と正直に、(わたしの)意見を述べました。 私が、明確に書くのは、議論が錯綜しないようにという配慮のつもです。 わたしは、《母親のこと》と書いてしまっている感じがする、と言い、 作者さんは、「どこにも書いていません」と言いましたね。 では、果たしてどうなんでしょうか? ラストシーンで、  介護ベッドで寝ていた母は、「起き上がって髪を梳かしている」 これは、まあ、ベッドに座っていると解釈できるでしょう。 立ってはいなそうだ。  一方、主体は不明だが、母に朝食の「支度をしている」人(か猿)がいる。 「(朝食の)支度をしている」というと、 通常、立っている感じがしませんか? で、その主体が >振り替〔ママ〕えると >一頭の黄色い猿がすわっていた 「すわっていた」と書いてますよね。 わたしは、《母親のこと》と書いてしまっている感じがする、と言い、 あなたは、「どこにも書いていません」と言いましたが。 私が、先にコメントで、  《ラストに鏡に映った猿は、 自分でもあるように描く方がよく》 と敢えて、言ったのは、  なんで、猿が「すわっていた」と書いちゃうんだろうな、 という意味でした。それは、批評畑の人間じゃないと分からないことではありません。 ふつーの国語力があれば、わかる指摘なのでした。 そもそも、 >なにも、説明していないので、 >猿が、何者か、分かっちゃうのが、逆に、僕は、驚いています。 と言えるのかどうか、よく検討してみて欲しいと思いました。 「なにも、説明していない」ように書いていただけると真摯な読者はたすかりますし、 再コメントする必要も省けますので。 まあ、 >僕は、そんなことは、どうでもいいのす。 >・・・・ >まあ、猿で行こうか、という感じです。 とあるので、そんなに真摯に読むものではなかったのでしょうかね。 とりあえず、(わたし)という読者が、(わたし)なりの見解を、明確に書くと、 「断定」感をつよく感じられてしまう作者の《御様子》なのに、 >読み手が独自に読んで頂ければ、幸いなわけで と、も言ったりして平気なわけですね。 科学もひとつの主観であると言われて久しいのだから、 「断定」も、べつにひとつの意見であって多様に在りうる見解のなかの一つにすぎず、 あえて、「断定」などと過敏に反応する必要はないし、 「説明していない」などと、言いながら、 テキストは説明が加わっていることに、気付かない。 それでは、たんに、論理に鈍感なだけ、という印象が拭えませんね。 >無礼 >不快 については、(相手が小人であれば)わたしの方が恐縮なくらいです。 たいてい、小人ではなさそうな人に批評コメントしているつもりですが、 わたしの場合には、  書かれた へのへのもへじ をみて、天才ですね、と褒める方が不快だし、  作品の大きさに合わない箱へ詰め込もうとする論評のが無礼です。 >お互い様、勉強であると思います それは、まさにその通りですね。真剣に書いた者と真剣に読んだもの同士が、 率直に、やはり真摯に真剣に、誤魔化さずに話し合えればうれしいですね。 わたしは、詩も批評も、教わらずに書いていますが、 優れた人や作品からは学びたいといつも夢見ています。 (黄色の足跡)

2017-08-22

【返詩です】 * 悶えたすえに、胚胎する 戦場に立つほどの あられもない神を 抱いて ジアン・ダアクでなければ 破れない城がある * (流露)

2017-08-23

:Artist Statement: タイトルに関してだけ簡単に補足します。 「カンパネルラ」というのは、いうまでもなく『銀河鉄道の夜』に出てくるキーパーソンですが、名前の由来について、宮沢賢治が当時読んだ、大西祝『西洋哲学史』に乗っていたルネッサンス期イタリアの哲学者Tommaso Campanellaからであろう、という説があります。  この人は、靴職人の子でしたが、幼少から知能と記憶力にすぐれていたそうで、のちに書いた『太陽の都』という理想郷(ユートピア)を描いた著作が知られています。  カンパネラは弾圧されましたが、亡命先の仏ではインテリの間で時の人となり、投獄された思想家としてソクラテスに擬して評されたりしたこともあるようです。危険を承知でガリレオの弁護をしたりする、そんな所を賢治は気に入ったのかも知れません。  銀河鉄道のカンパネルラが、このカンパネラだという説を追っていくと面白いことに、〈Tommaso Campanella〉トマゾ・カンパネラが修道士になる前の洗礼名は(Giovan Domenico Campanella)ジョヴァン・ドメニコ・カンパネラなんだそうです。(但、賢治が知っていたかは不明) というわけで、《ジョバン二と、カンパネルラは、同じ人だったのかも知れない》というその予備知識だけ、この作品のタイトルを読むときに、若干必要になるイメージの膨らみになっています。 また、 ご存知のように、イタリア語の「カンパネッラ」は、英語の「ベル」=鐘という意味なので、もちろん、それもイメージのなかに含まれています。 それは、作者が自身をカンパネラに重ねているという意味ではなく、 サブタイトルを《私からハァモニィベルへ》とも置き換えうるという意味であり、 それを踏まえて、もう一度作品を読んで頂くと、現代人に語り掛けているこの詩が、 書き手が作者へ語りかけてもいる、という、もう一つの意味も感じていただけるのではないか、 と思います。 この他にも、様々な意味を読み込んで頂けれると幸いです。 この散文詩は、信頼できる人の到着を待っている作品ですから。 (無人駅  ~ジョバンニ発、カンパネルラ行~)

2017-08-21

花緒さん  読んで頂き有難うございました。 >最終行などはちょっとスウィートが過ぎるかもしれない。 待っている相手が、必ず来てくれるなら、本当に、Sweet なのですが、 待ちぼうけ、かも知れない。 その点では、かなりの bitter も覚悟した、そんな寂しさもありますが、 花緒さんの到着で、だいぶ和らぎました。  * * まりも さん 読んで頂き有難うございました。  >1と9、かけ離れているようでありながら、・・・ 地方の駅だと、同じ「〇〇線」が、バラバラのホームに発着していて、(東京の路線に慣れている私は)戸惑います。来た時のホームと、帰るときのホームが全然違って、やたら離れてたりして。 同じホームなので、〇〇線だと思って油断していると、「△△行」と「▲▲行」が、時間帯によって入れ替わったり、「●両目」からは、あり得ない遠方行きだったり・・・。油断すると、完全に違うルートへ運ばれてしまいます。慌てて降りても、今度は、戻りの電車が、1時間以上来ない・・・。地方駅のそういった事情を、踏まえて、本作は書かれているので、都心の線路に慣れている人は、読んで戸惑うことだろうと、思います。(本作では、不思議な味、として使いました) なので、地方駅では、同じ路線が、かけ離れたホームを使っていたりします。 そして、地方駅でも、1番線と2番線は、共通のホームを使い、その両側です。 ですから、本作でも、  >日に何本も到着する1番線の列車を背中に見ている。 ということは、この作中の「俺」は、  1番線(=哀しみ)を背に、  2番線(=喜び)の方を向いて座っている(到着を待っている)わけです。 すらすら読める文章だと(かえって浅く読まれがちではありますが)、 テクストをしっかり読んでもらうと、その辺りが読み取れると思います。 誰でもいいわけではない。けして、ありふれてない 「モノでない君」(=君でなければならない君) の到着を心待ちにしている、 ・・・そんな、都市の無人島に漂流している独りの男のうたです。 * (無人駅  ~ジョバンニ発、カンパネルラ行~)

2017-08-27

なかたつさん 丁寧に読んでいただき有難うございました。 >1番線に来る列車より少ない9番線に来る列車を待っていて、・・・ このホームと列車(路線)の不思議な関係(つまり、同じ路線が離れたホームに存在する)については、地方駅の事情として、まりもさんへのコメント返しのなかで説明した通りです。 (電車が来たのになかなか扉が開かないのでどうしたのか、と思っていたら、じつは、自分で開けなければいけなかった、等、トラベルミステリーのトリックは多く、ここでも) 無人駅の1番線に到着した電車、哀しみ本線は、無人駅からは、違う名前の《○○線》ー思い出特急とか、トラウマ・ライナーとかーに、なぜか、当然のように切り替わるのです。 どんな哀しみも、どんどん出て行ってあとに残らない駅を利用している人もいるでしょうし、 悲しみは来ても、哀しみは一度も見たことがない人たちもいるかもしれません。でも、 本作の駅では、 1番線という頻繁にやって来る(哀しみ)は、まるで此処が終点のように、 やって来るばかりで、なかなか、9番線から出て行ってくれない。 (いつまでも1番線に停車している。でもよさそうですが、それだと、新たな哀しみが追加される様子が表現できず、他のホームまで哀しみが占領することになれば、異様な哀しがりということになってしまいますから) そして、何線を待っているか、については。 >「背中に見ている」という表現が重要ではないかと感じた。 おっしゃる通り、さり気なく置いた読解上の重要ポイントでした。 1番線に背を向けて座っていますので、2番線の方を向いている。 2番線は、(哀しみ)とは反対の意味をもち、「君」がやってくる路線。 無人駅には滅多に入ってこないか、通過するだけの、(喜び)本線 ということになります。 >不思議なのは、無人駅に1番線と9番線があるのだろうかということ。 そう、通常、無人駅は、鄙びた小さな駅ですからね。 なので、これも本文にさり気なく  「俺には、東京駅も、新宿駅も無人駅だ。」 と入れておきました。地方にも大きな駅はありますので。 >この世界が全体として比喩であったとしても、 >俺が待つホームというのは、 >1番線なのか9番線なのか、 このあたりに関して 最後になりますが、本作は、多様に解釈できるようにも書いてありますので、その1例に触れてみます。 1番線は(哀しみ)がやって来るところだから、「俺」は直視できずに、背中を向けている。 でも、その1番線に乗らなければ「君」はこの無人駅に到着できない。無人駅の1番線は、そこで(哀しみ)本線であることをやめ、大抵は回送(回想)電車になるのだが、「君」の到着するその日のその時刻だけは、特別、誰もが乗れるわけではない《銀河鉄道ライン》へと切り替わり、そこから新たに出発(飛翔)する。だから、「俺」は、「君」の乗ってくる哀しみの列車が停まるのを、そこで、今はじっと待っている。 銀河へと繋ぐ列車に乗り、ひときわ大きな、あるいは、ひどく小さな、それでも《星》に、 なるために。 以上の例のごとく 本作の《無人駅》が、銀河鉄道の発車する駅でもありうるように、 多様な読みを誘うべく、サブタイトルにもイメージが添えてあります。 * 「哀しみ」は、哀しみであって、悲しみではない、など、 読みどころがポイントとして幾つかある作品ですが、誰も到着しないかな、 と諦めていたところに、よき人が来てくれて嬉しかったです。 (無人駅  ~ジョバンニ発、カンパネルラ行~)

2017-08-29

渚鳥ならぬ 渚鳥s さん //返詩への返詩です//* title〈 美しい友達 〉 痕跡のような細い道を通って やっと、此処まで来たという ガス灯のなかに浮かび上がった彼の姿は まるで海の底であり、洞窟の内部だった 透明な建築物のような孤独がそそり建つ この場所へ。無邪気な装備を抱えただけで 彼は転がり込むように現れて、息を吐きながら 「居合わせるよりほかにないよ」とだけ、言った。 彼は此処までの道中、ネコを二匹拾った話をした。 一匹めは、頭の左がわが半分ないネコだった。 ゴットリープと名付けたが、好き嫌いの激しいネコで 付けられた名前が気に入らないらしく、すぐ居なくなった。 二匹めは、眼が両方無いのか、じっと眼を閉じたままの 真黒なネコで、なのに、しっかりモノが見えるのだった。 クローチェと名付けて、可愛がり、さっきまで居たのだが、 と周囲を探し始めた。「昔飼っていた芭蕉という鳥もね……」 と、彼は何か思い出したらしく、しみじみとした眼差しで 「新しみつつ寂しむほかにないのかな」とだけ、言った。 * (無人駅  ~ジョバンニ発、カンパネルラ行~)

2017-08-31

はじめまして。簡単に読後感を書きます。 鈍感な者は鈍感な者どうし、繊細な者は繊細な者同士でないとうまくいかないのかも知れませんね。これを読むと、そんな風に思えてきます。  将来の夢だとか、いまの仕事のことやなんかを、「結構真面目にみんな話して」いるときでも、「秘密主義」にみえる「彼」。  こういう人は、私の経験だと、実際に何も考えていない人が多いんですが、そうでないとすれば、  「彼」は、じぶんが、正直に言ったときの周りの反応を知っているわけでしょう。言えば、笑われるか、蔑まれるか、あるいは逆に、嫉妬されるか、あるいは、同情されるか。そういう反応を見越して、敢えて黙っている。密かに抱えている方が、周囲との関係を静かに保存しておける、だから、皆が話しているときに、《黙っていなければならない苦痛》を選んでいるわけでー「彼」を、作中話者自身も「優しい・立派」と評するカンジに通じるものでしょうー、(わたし的にみれば)言わないことで言っている、沈黙で表現しているのだ、と思います。  また、作中の「私」も、  《どうして秘密なの、心を開いて話してよ。なんでそうしてくれないのよ) と、直接「彼」に向かって、言いはしないで、この作品のような事柄を別の所に綴るわけです。 ぶつかると、関係が壊れてしまうと感じるような、互いに信頼のないカンケイのなかにいる。  しかし、「彼」のほうは、ふと、どこかで、秘密の内容を、ちらっと漏らしてみたり、何気なく滲ませたり、話そうとした瞬間があったり、したかも知れません。でも、「私」は、そんなときに限って、気づかなかったり、他のことに夢中だったり、記憶してなかったり、最悪、受容拒否的だったり、するように、「彼」には見えているかもわからない。 「いっそ嫌いだと言って」ほしい、作中の「私」に対しては、  作中の「彼」は、ずっと《お前に俺を愛せるものか》と言っているような気がします。 そんな見えない平行線を辿るように いろいろ考える上で、 いい作品だと思いましたが、文体に工夫が足りないように思いました。  もっと下手にするかもっと上手くするかすると、この作品はもっと作品らしくなります。 このままだと、たんに、作者の思いに終始するだけのものとして評価されてしまう可能性も高くなります。最終行の一文によって、特に、そう感じられるわけです。  その理由は、ここで切り取られた世界が、(明示的にはでなく、暗に)おのずと読者に《コミュニケーション》の問題を提起してくるけれども、その問題についての作者の認識は、最終行の一文なわけですから、本当は作者にそういう問題意識があるのだ(と仮定しても)、この一行程度のものなんだな、で終っているからです。 (以上です) (好きだった人にいっそ嫌いと言ってもらいたい)

2017-08-26

ちょっと気になったところだけ書きます。 >頬が昂揚する女の眼のなかを >剃刀のような鋭さで  >その光景が >出ては 消え また 姿をあらわしてきた ここは、 「剃刀のような」が、重要な部分だと思いますが、 >その光景が >出ては 消え また 姿をあらわしてきた は、自然ですが、 >剃刀のような鋭さで >その光景が >出ては 消え また 姿をあらわしてきた は、描写の鈍ろさが瞬間性を殺してしまうので 残念が気が(わたしには、《私には》です)しました。 「剃刀のような鋭さで」・・・  「出ては、消え」(は、いいですが、) 「剃刀のような鋭さで」  ・・・「また 姿をあらわしてきた」 この部分だけ、違和感が残りました。 此処がもう少し丁寧に書いてあると、朦朧とした男の独り語りでなく ある哀しみを背負った男女がふたりいる姿が見えてきたでしょう。 (以上です) (愛の名前)

2017-08-27

はじめまして。よろしくお願いします。 (作中の問い、に)一言で答えるなら、「読者」が感動するものを、書くことでしょうね。 よく整理された文章であるにとどまらないような。 作者が、何かを考察したり思考しているのであれば、読者のほうも、そこから、何か発見なり感銘を得たいと思って読んでいるわけですから、掘ってみたら何も出なかった、というのでは、犬でなくても腑に落ちないわけです。(仮に、問題提起であれば、鋭さが要求されますが、それがべつに鋭くなければ、やはり腑に落ちない、ということになります) 本作は、わたしが読んだカンジでは、 中にどっぶり居るだけではアホだから、外に出られるチセイはいいのだが、 外に出たままで、中でアホになって楽しめないのも困る。 というカンジでしたが、 人間というのは、どこまでも、外には出られないものです。出た処がまた中だからです。 また、人間は、どこまでも外に出て行けます。心がひとつ外に出れば、その外に出て行ける心もあります。 同時に、中にも居るし、外にも居る。こうなれば、悟りを得たひと、なのでしょうねおそらく。 人は、いろいろです。 どう生きるべきか、と道を尋ねるように問える人間というのは、シアワセな人なのであろう。 と、思います。 そうとしか生きようのない枠の中で、自分にしかできない生き様を必死で晒している人間には、 「少し参考に」してもらえるような血反吐は、気前よく吐けそうもないけれど、(作中、読者へ向かって)請われた以上、一読者の読後感として少しだけ、呟いてみました。 *(以上です) (ときどき人に話すこと)

2017-08-28

田高節さん わたしのコメントの主旨は(もう一度書きますが)   《一言で答えるなら、「読者」が感動するものを、書くことでしょうね。》 これだけです。 あなたが言いたかったことや伝えたかったことが、読み落とされていると感じる場合は、作者コメントで説明なり補足すれば、あるいは、自身が一読者となったつもりで読みを披露すれば、それでもう十分ではありませんか。ましてや、 >嬉しいかな私の言いたいことは田中修子さんのコメントでほぼ尽きております。 ということであるなら、とくに、私に質問なさることは全然ないと思いますよ。 あれでほぼ尽きているなら、わたしも、特に貴方や貴方の作品について誤解していなかったことが確認できたので、特にコメントを修正する必要をぜんぜん感じません。 因みに、ですが、 わたしのコメントにあった「そうとしか生きようのない枠」 という文言を読んで、  >どのような「枠」とて というようでは、わたしのコメントが貴方には読めないわけですから、 わたしから貴方に何をお答えしても無駄だと思いました。 たとえば、ひとつの解りやすい例として どんな、善人にせよ、悪人にせよ、知者にせよ、愚者にせよ、 あるいは、君子にせよ、壮士にせよ  心臓が鼓動していることは変わらない。  そして、それがやがて止まることも。 しかし、貴方は、  >どのような「枠」とて  >もし誤っているならば手段を尽くしてうちこわし、  >新たな秩序を打ち立てようとします。 というように、ご自分の発想の(枠)内でしか受け取ることができていません。 一たび去りて復た来てくれたのに 今回もまた、   風蕭蕭として易水寒し  といった感じで申し訳ありませんが、 結局、  >失望を繰り返しつつなお良案はないかと ご自身に問われるのが最良ではないか、と思うほかありません。 (今回もまた俺の真意が通じなかったか、  と感じられたなら尚更、そういうことです) *以上です (ときどき人に話すこと)

2017-09-04

はじめまして。よろしくお願いします。 雄総の桜堤から夜の長良川にいたる叙景詩。絵画ならラファエル前派など神話伝説を題材にしたみごとな作品がありますが、本作も、スケッチというより絵画のように彩られた、伝説をモチーフにした作品ですね。 《ひとに命を捧げるものを詩人という》という定義にしたがえば、この小さな祠に祀られた、偉大な少女(=《詩人》)をタイトルにした詩としては、一読したとき、ドライな印象を受けたので、むしろ「おくわ」より「伝説」という方に重点をおいたリアリズムなのかな、と思いましたが、よく読むと、渋い(抑制のきいた)ロマンチシズムが香っている、あるいは、拭いきれないロマンの苦さをさり気なく湛えた、とても好ましい名品と(わたしは)感じました。  「とり残された桜並木」からおちた路上の花びらに薄れつつある血のにおいを思い出す。その抒情から、一聯めのおわりは、一転団子の話へ(リアリズムを思わせる)。  つぎの聯でも、同じく、情景描写から、さいご一転、「恋人たちは祠の影にも気が付かない」 とリアリズムな感じ。  そこで、リアリズムな感性の作者なのか、と思わせながら、じつは、第三聯からは、 「わたしの片脚に絡みついた川藻が取れない」とリアリズムにはなり切れない心情が、かすかに吐露される(ようにわたしは感じた)。  なぜなら、次の聯で、「鵜」が、「苦しまぎれに何かを吐き出」さねばならなかったから。  それが、たんに鵜の嘴に瞬殺されたアユであるなら、(鵜自身も)なにも苦しむことはない。けれど、それが、人々のために自らを貫いた《覚悟》であったなら、その偉大な《詩人》のこころを想うもう一人の詩人のこころに、絡みつき、胸につかえたものになるに違いない。  私は、そのようにこの作品を読みました。 (以上です) (「おくわ」伝説)

2017-08-30

《テクストの引力》というものを考える上で参考になる作品でした。 通常の物語性で引っ張るという意味でのリーダビリティとは違い、それでも、言葉の連携によってなぜだか、不思議と、読者が最後まで読まされてしまう、というような、《不思議なリーダビリティ》というのは、存在するものだと思いますが、そうした面白さ=リーダビリティを本作品が追求していると仮定して、読んだ場合、 (わたしが勝手に仮定した)その効果に、ひどく反しているように思える箇所・部分があります。 逆に言うと、それ以外の全体は、ひじょうに巧く成功しています。 冒頭から、ずっと青を軸に、言葉的に面白く読ませる展開がつづきますが、ある処までは面白く感じられるが、もうこれ以上は、脳が受けつけないという、生理的限界に達する箇所が、 >夜の空にうつる青の空、泳ぐ魚、青く、眠る。 ここからは、ちょっと、もういいや、という感じになります(変化に失敗しています)。 その直前までは面白さを持続しているのに、不思議です。ここから >夜にぼやけた航路を描く、空からの道。 までは、ものすごく苦痛です。 それ以降は、また面白くなります。 以上は、一読者としての、わたしの感性・感覚による、ひとつの意見にすぎません。 (青の断章)

2017-08-31

(Artist Statement:①) 詩行の形は、冥府への下り坂を、 一段一段、階段を降りていくイメージです。 (ペルセポネの哀しみ)

2017-09-14

survofさん 読んで頂き有難うございます。内容面で「感じることさえ拒まれている印象」という意外なご意見がありましたので、内容面に関する Statement を以下に追加してみます。  (Artist Statement:②) ペルセポネについて ギリシア神話に出てくる女神で、地獄を司る神ハデスの妻。元々は、母なる大地の女神デメテルの娘で幸せに暮らすお嬢さんだったが、ある日ハデスに攫われて無理やり妻にさせられ、結局騙されて地獄で暮らすことになる悲運の女性。ペルセポネが実家に帰って地上で暮らす時期が始まると春になり、冥界にもどって暮らしている期間が冬になるとされる。 ギリシア神話にはよく冥府降りの物語が出てくるので、そこでよくペルセポネは登場するのですが、 本作においては、直接、このペルセポネを主人公として描いているわけでもなければ(そう読んでもOKですが)、なんらかの神話をモチーフ(背景)にした作品となっているわけでもありません。 ペルセポネという神話の女神が、逆に象徴するのは、現実のー現代のー日本において、どんな女性なのだろう?と、そう考えたとき、男に無理やり連れ込まれた現代の地獄で暮らす一人の現代の現実の女性。そういうものが私には浮かんできます。実際に、わたしは、幼少期からしばらくそうした境涯に生きている女性を傍で見ていたし、大人になってからしばらくそうした女性たちの、悲劇ともいえる現実生活(DVその他の人間関係の地獄絵図)にまつわる哀しい悩みの相談をうける機会も割りに多くあったので(作者は男なんですが)、そうした現代のペルセポネたちの血の通った痛みをともなう心情光景を、なるべく丁寧に掬い取って、絵画的なイメージ造形をめざしつつ作品に写してみようと思った、ということです。  (Artist Statement:③) 第三聯では  ・・・・・・・・・・・  都市生活まで含めたイメージも込めています。 以上、Statement を追加してみましたが、追加せずとも 例えば、単純に《結婚に破れたもう若くない女》の姿や、風俗店で働く女、ヤクザの情婦、 あるいは、《若く美貌の女優であったのが、今は見る影もなくなり荒んでいる》姿や、・・・・・・ ・・・・・・などなどくらいのイメージを感じ取るのに何ら拒むものはないような気が (わたしには)するのですがどうなんでしょう。 取り敢えず、作者からはこのくらいにしておきます。 (ペルセポネの哀しみ)

2017-09-14

三浦果実さん 読んでいただき有難うございました。果実さんの検討に触発されて、以下わたしも、ちょっと考察してみました。 たとえば、三好達治の『雪』なんかは、難しい言葉や特にヒネった言い回しはありませんが、 わずか二行しかないので、読者には、文脈のヒントが乏しすぎて、イマージュが元々乏しい読者だったりすると、そこに何も広がらず、掬い取れるものがないと感じるかも知れず、反対に、イメージ力の旺盛な読者の場合は、それだけでも充分、作品へのテレパシーを発揮できたりもする。つまり、 文脈ヒントの少ないテクストほど、読者のイマージュや読解力が問われる、ということになります。 仮に、〈其処は地獄だった〉という一文だけがあるとしたら、その「地獄」の意味が、どういう文脈に置かれた地獄なのか特定できなくて困ります。西洋的地獄なのか、東洋的地獄なのか、あるいは全くオリジナルなその人固有の地獄である可能性もあるからです。しかし、〈其処は地獄だった〉という一文だけしかないという事によって、それら、様々な「地獄」と言われるモノに、共通する本質的なイメージ・ニュアンスで、「地獄」を感じ取る、読み取るということが可能になります。 本作の詩行のレイアウトは、冥府への下り坂の印象をこめていますが、ご覧のように、その下り坂は、真っ逆さまの急転直下ではありません。九十九折りの下り坂です。 ペルセポネが居る処は地獄ですから、本作にも、地獄はイメージされていますが、ここで作者は無論、「地獄」をファンタジックな地獄世界が在ると捉えているわけではないので、この世の或る現実を切り取って喩として「地獄」と考えているわけです。ですが、 作者が考える地獄の本質というのは、九十九折りのように、歩んでいる本人にそんなつもりはないまま、一定のあるパターンを繰り返しながら、徐々に徐々に堕ちていく。懸命に歩いても、そのパターンから抜け出せない。だから「地獄」だと感じ、「地獄」というコトバを使う。 そうした、《地獄》の本質をニュアンスとして、九十九折の詩行に匂わせている。 ただ、その辺りを感じ取ってもらえるかどうかは、読者の力に依存します。 それは、ものすごく圧縮した『詩』だけのことではなく、 大衆的なマンガであっても事情は同じです。 手塚治虫が、鉄腕アトムについて、作者自身の「アトム」像は、 世間が考えているようなものではなく、   >「アトム」というのは、たいへん残酷なマンガだと思うんだ。 と、語っています。   >実際は「アトム」は、自分で言うのはおかしいけれど、   >さみしいマンガだと思う。      (―― 手塚治虫『虫られっ話』潮文庫 より) * (ペルセポネの哀しみ)

2017-09-16

あさぎさん  (はじめまして)読んでいただき感謝します。 これは、わたしが詩を書き始めた頃のもので、その頃は日に3本づつくらいのペースで書いていて、本作は19作目の作品です(今回数カ所微修正あり)。先月、田中修子さんの作品へわたしが批評コメントを寄せた折に、作者の田中修子さんから頂いた返信を読んで、そういえば、こんなのを書いたな、と思い出したのですが、そこに、今月のBレビュー投稿作品をパラパラと読んでみて受けた全体的な印象から、ふと、これを投稿してみる気になった、というカンジです。 あさぎさんが言われた  >横書き表記であるが故に、  >然るべき表記であれば、 その点については、本文をワード(=MS-WORD)に貼り付けて、縦書き表示に切り替えていただくと、判るわけで、慧眼ですね。その場合は、作者のステートメントも、 《降り坂の階段》ではなく、《ペルセポネの涙》であり、《途切れてはまたぶり返す意識の断続》 といったイメージの含意となるでしょう。で、そのほうが、この作品がより詩的に高まる、というのはわたしもそうだと思います。(表示場所によって色々、印象が変わることへの配慮は、いつも、苦しむところで、欲を言えば、字体と文字の大きさを複数使えるなどレイアウトがより自在にできるといいのにな、と、ブログなどのネット環境全般でよく思いますね。) * 横書で書いていくのと、縦書きで書いていくのと、survofさんも触れておられましたが、 わたしの感覚でその違いを説明するなら、まったく別人になって書いているような気がして、《横書きの私 と 縦書きの私が 別々にいる》ような感じがしますね。前者は論理的に明確になり、後者は情緒的に滑らかになります。 * (ペルセポネの哀しみ)

2017-09-18

読後感をまず最初に率直に書くと、 行方不明になった蛾兆ボルカさんの机の抽き出しから出てきた手記の断片を読んだ、 と言った感じの気分の味わい だけが残りました。 *   《 批評の機能は、…作品がまさにそのものであることを明らかにすることであって、    それが何を意味しているかを示すことではない。》 という、60年代的な、というか、ソンタグに倣って、解釈とは「芸術作品をその内容に還元した上で、それを解釈することによって、飼い馴らす」ものだと考える人たちから見ても、そんなに腹の立たない「解釈」を展開している試み、なのかな、とお見受けしました。 *  スーザン・ソンタグの『反解釈』が出たのは、 1961 年なんですが、その同じ年、じつは、   《 解明されない美は私を苛立たせる 》 と言ったウィリアム・エンプソンの『曖昧の七つの型』も出ているんですね。 それによれば、   《 批評家の仕事とは、彼の読者が望むものを彼らのために引き出してやること。     すなわち、実際、批評家が創造するのだと言ってよいかもしれないもの      ──時代の嗜好── を合成することである。 》  本作がこの立場での批評ではないな、ともお見受けしました。 *  本作の批評の立場は、   《 文学批評とはテクストという戦場で作者を滅ぼすことを目的とする     洗練された「解釈ゲーム」である 》  というような立場に合致するわけですが、それを主張したスタンリー・フィッシュは、  こんな風に言っています。       《  私の仮説は、読者の自由の大幅な拡張を求める。つまり、意味は正しくあるべきであるという義務から自らを解放し、ただ面白さ(錯覚にもとづき、客観性とはまったく無関係な反応をしてよいという基準)だけを心がけるように要求する。私が従事すべきことは、テクストを復原したり回復したりするよりはむしろ、テクストを作ることであり、また他の人々が自らの解釈戦略のレパートリーを増やしてテクストを作るように教えることである。》    この立場では、   ① 解釈は自由だが、それは面白さのあるものを目指すことが要求される。   ② 読者のほうがテクストの意味を生成する真の芸術家とされる。  と、してみると、  本作が、もしもこの立場に親和的な批評である場合、わたし的には、果たして、本作が  上記①と②の要件を充たしているのかは疑問でした。 *   私も、以前から対象作品によっては、フィッシュ的な立場の批評をお見舞いすることはありますが、割りときちんと読むという原初的な当たり前の作法を普段はむしろ重視しています。   「反解釈」を読めない言い訳に利用して持ち出すひとは、「反解釈」なのではなく、 「半解釈」の輩だと思うからです。   その意味では、わたしに、英国の詩人W.H.オーデンも同意して次のように言っています。    《 読むことは翻訳することだ。なぜなら、作者と読者の二人の人間の経験が      同じであることはないからだ。まずい読者は下手な翻訳者のようなものだ。      彼はパラフレーズすべきときに逐語訳をし、逐語訳すべき時にパラフレーズする。 》 *   精確に読む(トランスレートする)という話を欄外に置いた場合、誠実に読む、面白く読む、という余地がまだ残されますが、しかし、そもそも、批評においては、読むことは作業の前提であって、それだけではありません。批評には、[ 読んだこと(+プラス)アルファ]のアルファが必要です。言ってみれば、そのアルファが、「面白さ」なのだろうと、わたしなどは考えます。読むのもなかなか大変だけれど、それにプラス・アルファを加える(批評する)のもなかなか大変なわけです。    《  芸術の達人は彼の作品を創造するのに想像力を使ったのであるから、      本の消費者側も自分の想像力を使うというのが、当然であり、公平でもあるだろう。》                         (ナボコフ『ヨーロッパ文学講義』) 「読者の方が、意味を創造する真の芸術家だ」という場合には、 とくに、読み手が背負う荷物は大きくなると言っていいでしょう。 * さて、それでは最後に結論。  「反解釈」の徒は(半解釈の徒も)、   《 「形式」を感受する「芸術の官能美学(エロティクス)」 》  を主張したがりますが、   本作は、フィッシュ風味の      意味を勝手に感受する官能美学 を ー目指してみたものー   なのだろうと(わたしは)お見受けしました。 *以上です* (歌詞「TOKIO」について(批評))

2017-09-18

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