作品投稿掲示板 - B-REVIEW

澤あづさ


投稿作品数: 0
総コメント数: 22
今月は0作品にコメントを付与しました。
プロフィール
記録
プロフィールはありません

澤あづさの記録 ON_B-REVIEW・・・・

活動的B-Reviewer

総合コメント数バッジ(くわしく)
獲得バッジ数

http://adzwsa.blog.fc2.com/blog-entry-39.html#IHMB 鑑賞に関しては上記リンク先のブログ記事に書かせていただきました。趣旨が伝わるか否か、筆者のわたしにも不安な体裁でして、心ある方にぜひ「批評技術を」批判されたいという意向なのですが。「この作品は重層的・拡散的なイメージが大変よくまとまっており、内容がすこぶる充実している。」ということを主張したつもりです。 しかし、わたしが充実した読書を楽しんだ(だから上記のような記事を書いた)という事実が、この作品の客観的な価値を保証できるわけではありません。記事内でも紹介した「この書き手のめっぽうすぐれた既存作品群」と見比べて、この詩が特別にすぐれているとは、やはり言えないと思います。 * 重層的・拡散的であるということは、「情報として不明瞭である」ということです。すなわちこの作品に、一般的にいう情報価値はありません。これは「自由詩」を名のる文章のほとんどに言えることで、この作品やこの書き手に限った特徴ではありません。 情報価値がないなら、ほかになんの価値があるのでしょう、「魅力」これ以外のなにを「自由詩」に期待するのでしょう。この書き手のめっぽうすぐれた既存作品群の、派手なフォルム、心地よいリズム、かっこいい物言いその他よりも、この作品が「魅力的」だと言えるでしょうか。わたしはわたしが一番重要と思っているその一点において、この作品に疑問を感じました。有り体に言えば、「この人ならもっと書けるだろ。」と勝手ながら。 * とは言え、わたしが充実した読書を確かに楽しんだこと(でなければブログにまで書くわけがないこと)が、上記リンク先のブログ記事で伝わるとよいのですが。 (INTERNATIONAL HIT MAN BLUES)

2017-07-18

見返したら上のレスに重大な二点の間違いがあったので訂正します。出かける前にあわてて書いたもので、申し訳ありません。 ①上のレスの「この文章には論理的な意味がない」というのは、「この文章には客観的に明瞭な文脈がない」の間違いです。作者の意図など関係なく、日本語に日本語の定義(たとえば「声」には「主張」という意味があるなど)があればこそ、わたしの最初のレスのようなのが起こるという事例を自分で先に出したわけですから、非論理的な物言いでした。 ②上のレスの「この詩にリンゴが出てくる」という勝手な断言は、「この詩には【激昂のソーダ】をサイダーないしシードル(リンゴが原料の炭酸)と想定できるような文脈がある」ということです。その根拠がわかるように最初のレスを書いたつもりですので、読まれていないことが意外すぎて、「リンゴという単語が出てこない」ことを失念しました。 (声のみの声――起草)

2017-03-26

kaz.さんへ。 重大な誤解が多々ありますので再レスします。 ①わたしはB-REVIEWのレスをすべて「ほかの人のレスを見る前に」書いていますので、どなたのレスの影響も受けていません。影響を受けていると思ったのは、あなたにわたしへの悪意のあるがゆえの先入見でしょう。筋を通さなければ、人の悪口を言うのはとても簡単なことです。 ②わたしはあなたのクイズを解きに来たわけではありませんし、この文章には論理的な意味がないので「正解」など存在しません。もしあなたが、この文章であなたの意思(さっぱりわからないという回答を得ること)を絶対的に表現したと勘違いしているのなら、それは勘違いだとしか言いようがありません。 ③善悪の知識の木の実がリンゴであるというのが俗説であることは、10年以上前から知っています。この詩にリンゴが出てくるから、解釈に俗説を利用しただけですが、なにが不思議なのか理解できません。論理的に問題があるのは、あなたのほうなんじゃないでしょうか。 わたしはあなたの信用を得るためにコメントを書いているのではありません。すべて「わたしの読者に向けて」書いているので、あなたの指図を受けるいわれはありません。(読解されるのがいやなら、楽譜で書いたらどうですか? 気に入らない読者を拒絶するための努力もせず、文章など書いてる時点で、あなたの主張は論外でしょう。) しかし、あなたは他者の論理に耐えられないようなので、今後はコメントしないことにします。とりあえず、わたしは上記で間違ったことを述べていないはずですから、それは了承なさるかご検証くださいね。 (声のみの声――起草)

2017-03-26

わたしは祖父と父が二代続けて自殺した家庭に育っており、実父が実際に自殺するまでの経緯を鮮明に記憶しています。そのようなわたしにとって、感じ入るものの非常に多い作品でした。 語り手がなりたがる【傘】は、「持ち主を守るために自分が【ずぶ濡れ】になるもの」で、まさに、家の守り手として家に所有される「家父長」を象徴していると思います。日本の中高年男性の高い自殺率の背景には、日本の家父長制が【父】に強いている重圧があると、わたしは勝手に思っているので、感じ入るものが多かった次第です。 【傘】は「風」に対して脆弱な道具ですので、【父】ないし男性性は「風土」に対し脆弱なんだろうと考えます。日本という【この豊かな国】【自殺率の高い地方】の「風土」に煽られれば、「家」以前にわが身を守れないのが【傘】なんだろうと思います。事実わたしの祖父と父が、武士道とか男の甲斐性とかいった日本のジェンダーに屈して自殺したので、過剰な思い入れでそのように感じ入りました。 * 以上の思い入れから、わたしには語り手が男性に見えます。そして「弟よりも父に似ている」と自覚しているように思われます。 わたしが受けたその印象の核心は、【私は父から生まれたんだ。】(=私には母の性質が遺伝していない)という断言と、下記の引用の部分にあります。 ▼引用開始------------------------------- 。(私たちは家族ですか?) 自分で割った皿と豆腐の残骸を片付ける 父と、 ひたすら(※父をなだめようとして)発狂しつづける 弟と、 何か秘めたように黙ったままの 母と、 /私の食事を続ける  私と、/ みんな孤独だった。 -------------------------------引用終了▲ この描写を他人事として見る限り、語り手は、「父の背を見て育った(そのゆえ父を諭そうとする)弟」よりも【父】に似ています。【父】も語り手も、少なくともこのとき、自分のことで精一杯だったという点で合致しています。 自分の感情で精一杯だったのは、【母】も【弟】も同じ(だから【みんな孤独だった】)ですが、語り手は【父】と自分を過剰に責めているのでしょう。【父】の問題を【母】のように受容することも【弟】のように批判することもできなかった酷薄を責めているのでしょう。だから自己暗示をかけるように、【大好きだ】【幸せだ】といった歯の浮くような【虚像】(※しかしそれも本音の願望には違いありません)を並べるのでしょう。 【父】は、自分の感情を自分で片付けられなかったから豆腐に当たったので、豆腐を片付けても【父】の問題は片付きません。語り手も同じく、自分の食事を片付けたところで、自分の感情は片付きません。その結果として生じたのが、この詩の抒情なんだと思います。 ▼引用開始------------------------------- 私は傘になりたい。穴があいてなくて、向こう側のはっきり見えるビニール傘に。(できれば、柄が錆びていないとうれしい。) -------------------------------引用終了▲ 語り手のこの独白は、家/家族を守るための開放的で快い「道具」になりたい、家族の役に立ちたいという願望の表れだろうと、個人的に思います。そういう考えは気に入らないと思う人や、不穏な自責を感じる人もいるかもしれませんが、わたしにとっては胸を打つ言葉でした。 詩中のできごとの際、【父】は自分のストレスをひとりで溜め込んだので爆発し、語り手も同じように【父】から受けたストレスを溜め込んで沈黙し、周りが見えなくなるような状況だったので、そういう閉鎖性を打開したいのだと思います。また、家族のために自分を犠牲にするというような重圧を自分に課していたら、その犠牲の責任を家族に押し付けたくなってしまうだろうから、より軽やかな関係を模索したいのだろうと思います。 共感や希望は信仰に近いような主観であり、作品が客観的に表現することのできない事柄だと考えますが、わたしは上記引用部分に、上記の理由で勝手に共感を覚えました。 * 余談ですが、Tumblr版のフォーマットがとても美しいです。視認性が高く、「読者が重要な部分を読み飛ばさない」ためにも非常に有用なので、ぜひ詩人に広まってほしいスタイルだと思いました。 (明日も、雨なのですか。)

2017-03-22

【1】の【無垢の果実】の文脈が、(目についたところを適当に繋いだ結果の大雑把すぎる印象ですが、)「炭酸飲料を飲んだあとゲップを出すように【言葉】を吐く」というような描写に見えました。 【水子】を「りんご(エデンの善悪の知識の実)の果汁を【激昂のソーダ】で割った清涼飲料水」と大胆に想定すると、全文の意味を恣意的にはほぼ完全に取れるように思い、個人的に非常な関心を持ちました。 りんご(善悪の知識=罪を定める基準)を圧搾して取った果汁を、「実体」に対する【意味】と仮定します。 その【意味】を、【2】の【(たぶんエデンの)原野】に綴られた『ファウスト』のパロディみたいな文脈における、【(善悪/美醜/好悪などを判断するための合理的な)言葉】すなわち「定義」と同義と定義します。 この【意味/定義=言葉】を【激昂のソーダ】で割って飲むと、口からゲップが出てくるように【叫び】が出てくるのだと想定します。 以上の想定のもとで【叫び】の正体は、【激昂】であり【意味】ではなく、ユングの言う「感情」(美醜や好悪を判断する合理的心理機能)ですらありません。思考と感情の表現型である【意味=言葉】のりんご果汁は、【お腹】に収まり消化して、わが身の血肉か排泄物になるでしょう。ゲップ=【叫び】は、人体にとって有益でないどころか有害ですらあるために、人体に入るなり吐き出されるのだと考えられましょう。 そのようなゲップ=【叫び】を極端に美化して、【優れた死は意味から逃げようとする 私の顔を覆え 叫びよ】などとこの詩が語っているんだとしたら、それはもう単純に「笑える」としか、わたしには考えようがないので笑いました。そう思って作品全体を見回すと、誤変換みたいなダジャレの連打等が、まさに炭酸飲料水の泡沫のように見えてきてさらに笑えます。もちろん、とりあえず笑ったあとで、まじめにいろいろ穿って考えることもできます。 * 以上の解釈は、解釈したわたしが美や音楽に関心を持たず、人間の排泄欲求への蔑視も持たず、かつ詩に【意味】を────つまりそれを消化し自分の糧にしたいと────熱望する人間であるから生じたものです。わたしの解釈についての責任を、作者様に問うことはできないということを、念のため最後に付記しておきます。 (声のみの声――起草)

2017-03-22

▼要旨 投身自殺の今際と、「呑み込んだ言葉が腑に落ちる」というような比喩が、みごとに重層的に描かれていると思います。 そのような想定で読んだら、わたしは作中の全表現に合点が行きました。 渋谷の路上へ身を投げ、渋谷の(アスファルトで覆われているため地には還れないから)天に昇っていく身体が、自分の(気管でなく)食道を通って自分の(肺でなく)胃に落ち、吸収されて自分の身体の一部になる薬剤に喩えられていると思います。 その奇想天外な情景の想像だけで、わたしはもうこの作品に夢中です。 そのうえこまかいとこまで冒頭からすばらしすぎて、とんでもない読み応えです。劇薬のような言葉に陶酔し、取り憑かれたようになり、もはや身体より言葉のほうが本体であるかのようだといった、物書きなら三日に一度は体験していそうな感覚までも、目覚ましく描写されていると思います。 このようなすばらしい読書体験の感動を、ぜんぶうまいこと説明するのは至難のわざですが、早急に言いたい二点だけ性急に書かせていただきます。 ▼鑑賞の一部(便宜上断定形で書きますが、すべてわたしの推測です。) 作中には、厳密に区分すれば二種の語り手が登場します。 ①三錠の言葉を呑み込んだ【私】(はトカゲ) ②内側に反転した【私】=【八重ちゃん】=呑み込まれた【言葉】(はトカゲのしっぽに当たる部分) ①は(このこと自体が比喩なのかもしれませんが)投身自殺をしているので、口にも鼻にも強い風圧を受けており、声を出すことはできないと考えられます。その事態が【三錠分の言葉を呑み込もうとしていた。】という奇想天外な比喩で語られています。 身体に呑まれた薬剤の、身体に吸収され身体の一部になっていくさまが、渋谷の地に堕ち渋谷の天へ昇る①の姿を象徴しています。 「投身自殺は気持ちいい」という俗説がありますが、現に①(身体)は、自分の言葉(②/この詩の語り)に陶酔しきっています。最後には身体でなく言葉こそが自身の本体であるかのように(「身を投げる」というのはそういうことなのかもしれません、)下記のいわく言い難いことを語ります。 【私はトカゲです。目を閉じたトカゲ。目を閉じたトカゲの魂。目を閉じたトカゲの魂の、そのしっぽにあたる部分。】 トカゲは敵に捕まった場合、しっぽを切り離して逃げることができます。上記は、そのようにして見捨てられた身体(①)の言葉(②)です。②によってそう定義されたので①がそうなるのです、言葉が身体を支配しているから言葉が身体を定義できるのです。うまく説明できないのが残念ですが、わたしはこの表現にしびれました。 * それにしても、この詩の冒頭は、なんという鮮やかな逆喩でしょう。 【三錠分の言葉を呑み込もうとしていた。言葉の内実がそっくりえぐり取られて、喉を下っていく気配がある。言葉の内実をそっくりえぐり取って、喉を下していったので。】 たとえば糖衣錠を飲んだ場合、まず表面の糖衣(薬剤ではない部分)が溶けるはずです。「オブラートに包んだ物言い」といった常套句は、そういう事実に基づいているはずです。 この詩がそのオブラートの溶けるさまを【内実がそっくりえぐり取られて、喉を下っていく】と表現しているのであれば、「オブラートこそが内実」ということになってしまいます。あたかもソンタグ『反解釈』の仮面の話です。 そう思って詩を見渡すと、確かにこの詩は、投身自殺の動機も、八重ちゃんと山崎さんとの関係も、【愛していますと泣いています。】といったオブラートのごとき比喩と集約と美化(?)によってごまかされています。なにもかも隠蔽されておりその隠蔽を【内実】と呼ぶのです。 つまり「悪いことは思い出したくない」というのが八重ちゃんの「本音」、それ以外に遺したい言葉がないから遺した「遺言」であるというのが、わたしは自殺した実父とその遺書を知っているので、とてもストレートにわかるような気がしました。 * 以上二点の感動だけ、早急に言いたかったので性急に書き込みました。 ほかのかたの読解や感動も読みたいです。 (私はトカゲ)

2017-03-14

5連までは、創世記の大洪水のイメージが、無理のない飛躍で豊かに列挙されていると思います。 6連(唯一3字下げされている部分)にはいわゆる「大洪水のあと」、バベルの塔やら大淫婦バビロンやらの、劇的に歪んだイメージが自然に想起されます。 7連の最高潮では、(冷たい)大洪水と(弁当のための熱い)料理の対流が、ともに【かつていきものだったものが/箱の中に散乱してつめたくなっていく】さまとして収束します。これは人間が【神様】の食い物になっていくさまでもあるのでしょうか。対義的で両価的で、説明もつかないような重厚な情景です。 以上の比喩は、終連まで読み進めないとはっきりとは読めませんが、その終連に、 窓の外の景色もすべてモノクロで なにかに喩えてやりすごすのはとてもむずかしい このような皮肉が書かれています。慌てて再読するとなるほど描写が、大洪水のあとなんて陳腐なネタに【喩えてやりすごすのはとてもむずかしい】。「気持ち悪い」という【叙情】が、いろんな意味であらゆるものへ徐々に波及していって、7連で破裂したように盛り上がり、終連で一気に下がり。冒頭へ【反覆】し繰り返し。 とても丁寧な、読者にきわめて(この書き手のめっぽうすぐれた既存作品群と比べると驚くほど)親切なつくりだと思います。この書き手がこんな無難(ものすごく強いて悪く言えば半端)に収まっていいんだろうか。。。と、個人的には思いましたが、欠点が見つからないので批判もできません。 * 詩はどうやらこの幻想(むしろ幻覚)を、「自分は創世記の大洪水によって滅ぼされ、死んでいるはずの人間だ。」という前提で語っています。 ものすごく簡単に言えば、「自分は神に見捨てられている」そして「自分も(自分を見捨てた神のように)すべて見限っている」ということが、語られているように感じます。 詩の語る【傍聴席に座っている神様】は、語り手自身の比喩でしょう。神に見捨てられた者が別の神になるという、人類のまさに【反覆】の象徴でしょう。【いつも日没は反覆だった】という出だし、あっけにとられるほど当たり前ですが、その当たり前のことを改めて噛みしめさせる説得力があると思います。 そうして神様は 水没した世界をごみ箱に捨てた 日没の夕焼けも、乱立するビル群に埋まっていくような都市も、校庭でふざけ合う(語り手にはなじめない)人形になっていく子供たちも、嘔吐も内蔵も、ごみ箱に捨てられる弁当もなにもかも、終連で明示される「創世記の大洪水」を、曰く言い難く重厚に示唆しています。繁殖することと滅ぼされることを、絶妙に両価的に暗示していると感じます。 弁当が冷めるように、血の気が失せて人形になっていく子どもたち。色の失せる【モノクロ】の光景がしっくり合っています。あるいは解凍された惣菜のように、熱を吹き込まれて銃を取る人形たち。そのようになれない語り手の、熱を拒むような拒食症とぴったり符合します。そのような収束で、拒食というありがちな話材を、深くえぐっていると思います。 6連の唯一3字下げされている【母】の部分は、つまり回想なのでしょうが、「学校の教室にいるはずの語り手が、その場で実際に見るわけのない場面」です。文字通り【神の視点】ですので、いわゆる「大洪水のあと」のバベルの塔とともに、黙示録の大淫婦バビロンが自然に想起されます。そのイメージは劇的に歪んでいます。 横たわってばかりいる母の 枕元にたかく積まれた新聞紙はいつも 遠くの国に住むだれかのことを語ります わかる言葉で書かれているから まるでほんとうみたいでした 【たかく積まれた新聞紙】は、いかにもバベルの塔ですが、言語が混乱するのではなく「解釈が混乱する」から意思疎通ができないのでしょう。 新聞が報道する他国の情勢を【まるでほんとうみたいでした】と、報道も他国も偽りであるという前提で語る、病的なまでの極端な疑念は、「自分は創世記の大洪水によって滅ぼされた、死んでいるはずの人間だ。」という前提から湧いてくるのでしょう。 その【叙情】をこのように、【うつくしい】理屈で無理やり説明すればするほど、わたしはこの詩の本質から遠ざかる。この諦念を表現する手段を、わたしは一切持たないので、この詩から読むしかないわけだ。相変わらず、この書き手の詩は、手に負えませんわ。わたしの確信している価値を説明できないのがほんと悔しいです。 (セパレータ)

2017-03-06

わたしは中田満帆さんの筆致が大好きで、B-REVIEWのフォーラムに三浦さんがアップなさった短篇『光りに焼かれつづける、うち棄てられた冷蔵庫のブルーズ』は、特に好きな作品です。 ▼『光りに焼かれつづける、うち棄てられた冷蔵庫のブルーズ』 http://breview.main.jp/index/wp-content/uploads/wpforo/default_attachments/1485695414.pdf ※この作品は合評対象にならないのでしょうか? 大好きなので華々しく絶賛したいのですが。 上の「小説としては問題がありすぎるほど詩的な(筆致が圧倒的に魅力的な)小説」と比べると、やはりこの詩は「わたしが期待している中田さんの魅力が活きていない」と言わざるを得ません。もちろん魅力的な詩句はたくさんあり、『ブロスの下着』の冒頭三行も【かの女がくそをしたあとの、/便所の水のながれをずっと聴いてたい】もすばらしい詩句ですが、その魅力が、説明的な心理描写に埋没してしまっていると思います。 文字通り「小さくまとまりすぎ」なのではないでしょうか。このような抒情は、心理描写を主として簡潔にまとめると、ただの愚痴に見えてしまうおそれもあると思います。もっと思いっきり、でたらめなくらい大胆に飛躍して、情景を描写していただきたいです。 中田さんは「作法など一向に気にならない、欠点が見えなくなるくらい魅力的な筆致」を持つ、稀有な書き手だと思っています。強烈に期待しているので、身勝手な酷評を述べました。失礼でないことを祈ります。 (ひさしぶりに詩と呼ばれるらしいものを書いてみたんだ、アリシア。)

2017-02-22

わたしはシュールやナンセンスについて、「語り手のキャラや構成の意義が不明瞭であれば、なにをおもしろがればよいのかわからない。」と思うタイプです。そういうわたしにもこの作品は、笑えるという意味でも興味深いという意味でも、とてもおもしろく感じられました。 ひとりではパンも焼けずお茶も沸かせず虫も殺せない男の甲斐性なしぶり、恐ろしいカマドウマ────あれはゴキブリ以上に恐ろしい虫だと思います────に動転したあまり思考がどんどんあさっての方向へすっ飛んでいく感じが、圧倒的な構成力で描写されていると思います。「よくわからんがたぶん、無口で仏頂面で『おーいお茶』しか言わないような典型的な日本の旦那が、本気で虫を恐れるとこうなるんであろう。」と、思わず納得しました。 * ひとまず単純に「カマドウマを見て動転したあまり、わけのわからない思念が走馬灯のように、語り手の脳裏を駆け巡っている」と思って拝読し、どれほどカマドウマを恐れたらこんな思念が脳裏を駆け巡るのかと思って笑ったのですが。ともすれば、この状況全体が独身男性の妄想であって、妻は(体長3メートルのカマドウマ同様に)実在しないのかもしれません。 隣の部屋に恐ろしい虫がいるというのに戦いもせず、女が片付けてくれるのを寝室に隠れて待っているような男が、恋愛結婚できたというのも(既婚の女の立場からすると)不思議な話です。もちろん結婚後、多くの夫は家事をしないので、カマドウマでもゴキブリでも、戦うのは妻である場合が多いのですが。 そのように、人生に密着したさまざまな事柄を想像させられる意味でも、これは秀逸なギャグだと思った次第です。作者様にとって「ギャグ」という解釈が不本意であれば、示唆を明瞭にするなんらかの努力が必要だろうと思います。 (妻の夫)

2017-02-22

▼論旨 わたしは文学極道で、この作品のフォルムがまったく異なる初稿を、「見映えが悪いので、内容をまともに読む気がしない。」というような理由で酷評したと思います。案の定落選しザマアミロと思った記憶すらあります。 この版は、その初稿の五億倍くらいよくなりました。「語り手のパニック発作の診断」という、語り手とAとの関係を想像するためのキータームが明瞭になり、「行間を読むこと」が容易になりました。この改訂は英断だと思います。「読者にとって重要なポイント」を、的はずれなフォルム(『反解釈』ふうに言えば「愛しようのないスタイル」)に埋没させるのは、文芸にとって本末転倒だと思うからです。 ▼鑑賞の論旨 作品の内容(行間)ですが、「距離感」という重いテーマを強く感じます。段落行頭10字下げという大きな余白が、語り手が思い悩んでいること・発言をためらっていること・つまり「うまく言えない」ということ、またこの作品の「大きな余白=大規模な(感情、説明の)割愛」を示唆していると思います。形式に強い必然性が感じられます。 修辞に注目すべき点がたくさんあります。特に三連の「転」が秀逸と思います。このことは書いているときりがないので、全体的な所感をものすごく簡単にまとめます。 * 同居している語り手とAとの言い争いは、(パニック発作の示唆からして、語り手に非のある蓋然性が高いと思いますが、)おそらく「距離が近すぎるから起きたこと」です。適切な距離を置いていれば、もっと恋を楽しめたのだろうに、距離を縮めたがために言い争いをするはめになったのでしょう。 詩に登場する【夢のようなケーブル】には、そのような「適切でない距離」を作り出してしまう危険があり、【藝術としての詩】には「せっかくの恋を台無しにするような危険」が潜んでいるのだと感じます。だから語り手は悩んでいる、それがため息のような字下げの余白に表れているのだろうと。 物理的にも精神的にも、遠く離れている人たちを安易に繋げば、本来なら起こり得ない衝突が必ず起こります。(これはネット詩壇にも顕著ですね。)【藝術】あるいは【藝術としての詩】は、その「本来起こり得ない確執を、あえて誘発するような勇気、あるいは迷惑なほどの愛情」から生まれるものなのかもしれない、とものすごく簡単に言えば感じました。 * 余白の多い作品なので、作者様の意向によっては、ミスリードを避けるために筆削すべき部分があると思います。上記がその筆削の参考になったら幸いです。 (#芸術としての詩 03)

2017-02-22

告知のスレッドで、天才詩人さんのコメントがついた作品は、展示に選ばれる蓋然性が高いと聞きました。この作品が展示されるのなら、展示されるまえにやはり、秋田弁のあきらかに間違っている箇所を(技術的に可能なのであれば)修正したほうがよいと思い立って再来しました。 それというのも、方言は郷土愛のかたまりです。あきらかに間違っている方言は、その地方の出身者には、侮辱のように見えてしまうかもしれません。この作品がそのような誤解を受けるのは、わたしには耐えがたいことです。ですので以下、わたし自身が「必要最低限」と個人的に思う修正をしてみます。 ※秋田弁っぽい語彙を乱用すると、どうしても難解になり、詩の持ち味が薄れると思ったので、用言の修正は避けました。またrの脱落や「の」が「ん」になる傾向なども、文章が難読になると思い無視しました。濁音化には明瞭な法則がありますので、法則通りに修正しました。 ちなみにわたしが勉強しているのは秋田「市」の方言です。秋田県どころか東北の出身者ですらなく、単に秋田が好きなだけのおたくに過ぎませんので、あきらかに間違っていたら本当にごめんなさい。。。 ▼わたしが必要と個人的に思う秋田市弁修正 旗 はだめぐ 鰰(はだはだ)の 旗      はだど 立ぢ止まって    しょげだままで いいがら    ハダハダパイ 食(け) 海どご休めれ 鰰の海さ 鰰 来ねぐなったごどもあってな 三年我慢すべ 鰰ねぐなってしまうどって取り決めだ 漁さね三年に 船なげるやづもいだ だども 三年待ったっけ 雪の中さ雷ひかり 鰰の群れの銀色が 船だば大漁 神どいっしょに大笑い   な あせるな   ほれ このハダハダパイ食(け)   おめの海にも   神いっぺ群れだって育ってるや ▼以下、直したほうがよいと思われるポイント ※秋田のみならず東北・北海道の広い範囲で、「捨てる」は「なげる」と言います。これは東北弁のシンボルのような語彙です。また「け(食え)」は秋田弁のシンボル的な語彙です。シンボルは使ったほうがよいと思います。 ※秋田市弁では「しない」が「さね」、「休めろ」が「休めれ」になります。共通語とは動詞の活用が異なるのでそうなります。また「なくなる」は、秋田市弁では「ねぐなる」です。(※秋田弁は地域によって語彙も発音も大きく異なるので、難しい話です。) ※秋田市弁には共通語の「を」に相当する格助詞がありません。ほかの東北弁には代わりに「ば」があるのですが、秋田市弁には「ば」もありません。目的格はもっぱら省略され、必要なら「どご」(原義は「~のこと」)が用いられます。 ※係助詞「は」は、秋田市弁ではあまり聞きません。もっぱら省略され、必要なら「だば」(共通語の「ならば」)が用いられる傾向にあります。 ※共通語の格助詞「に」に相当する秋田市弁には、「さ」「に」「がら」「がって(にがって)」などいろいろあります。位置や方向は「さ」、は時間・場所・変化などは「に」ですが、使い分けの基準は人によって違うようです。「いっしょに」など助動詞「だ」連用形は共通語と同じです。 ※詩の最後の【育っているど】は、秋田市弁だと「育っているそうだ」のような伝聞の意味になります。文脈から見て、この文章が伝聞だとは思えないので、「ど」は使わないほうがよいと思います。「ど」でさえなければ、ほかのなんでもよいかと。 (はたはたパイ 食べろ)

2017-02-22

二連で語り手が自分の頭から天へ伸ばす【細くてかたい線】は、ひとつには、白湯を飲んであたたまった語り手の体からのぼる、湯気の幻想なのだろうと思います。冬の朝に飲む【一杯の白湯】は、、「有り難い」くらいしか形容の言葉もないような幸福だと思いますので、そこから【祈り】が出て来るこの詩は、わたしにとって非常に自然な美しい情景です。 さらに、その【細くてかたい線】は、操り人形のようなものである語り手を、操る糸のようなものでもあるのだろうと思います。人間は【窓に張り付いた霜を指の腹でくずしながら無為な時間を過ごすだけの生き物】、天命に操られる傀儡のようなものだという、厳酷な現実にみずから身を委ねる【祈り】、というように読まれました。 自分と自分を操る運命をつないでいる【かたむすび】は、冬の朝に飲む一杯の白湯のような、小さなできごとだが圧倒的な幸福によって、簡単にほどけてしまうのかもしれません。あるいはそうでなく、人間というのは遺伝子やホルモンや脳波に操られるロボットで、美しいとか有り難いとか思う心すらも、ただのプログラムに過ぎないのかも知れませんが、この詩のような美しいものを美しいと思う心さえあれば、わたしはべつにロボットでも操り人形でもなんでもかまわないかなと思いました。そのようなことを考えさせられる美しい詩でした。 * ただ、これは作品の問題ではなく読者の問題ですし、作者様には言うまでもない話だろうと推測するのですがが、損をするかもしれないなと思うのは文体です。こうした耽美的な、陶酔感と多幸感に満ちた文体は、ちまたの詩によくあるタイプですし、着眼も技術(重層的な描写)も珍しいものではありません。 言うまでもなく、よくある作風にはライバルが多いです。こういう文体のすぐれた作品がたくさんあるなかで、ある作品だけが「図抜けて特別な作品」と認められるのは、この作品に限らず厳しいと思われます。狭き門に挑む作者様には、頭一つ抜けるためのなにかを、貪欲に追求していただきたいと思います。この作品に欠点を見つけられない者がこんなことを言うのは、まったく無責任な話なのですが。 (prayer)

2017-02-16

面接でどれほどショック受けたらここまで自由の翼なのかと思いますが、おもしろいですね。あなたの近作には問題があると思ってたのですけど、これはとてもいいです。ややこしいほのめかしが希薄だから読み疲れないし、見るだけ・音読するだけでふつーに楽しいです。 【だから、птушка, ミスティカ。Mistakea. ザンボーロ(※サンポーロ?)、露(※ロシア)と米(※アメリカ)とをかきまぜたスゥプにて。】 こういうとてもよい意味でのくだらなさは個人的に大好きなので、あなたの以後の作がこれくらい軽妙になったらいいなと思います。つまりより「読者が笑えるように」ということですね。あなたがセンスのいい書き手であることは知ってるので、しっかりしたギャグを書こうと思えば書けるのじゃないかな? ただのナンセンスとして「自分にとって興味深い誤変換」みたいなのを連ねてるだけでは、読者にその価値を訴求することはできないと思うし、あなたもう詩集を売ってるわけだから、訴求の目標を持つべきだと思うわけです。最後に改めて、この作品はよかった。以後もこの調子で行ってほしいです。 (映画)

2017-02-16

いい詩だども秋田弁が本地(ほじ)ね。(←秋田弁) そこだけ、いま自分が秋田弁主人公の小説書いてるため不満であるものの、これは悩ましいところです。【はたと】を【はだど】と本格的に書いたら、非東北出身者には解読できなくなってしまいますからね。るるりらさんの魅力を損ねない方向で、どこまで工夫できるのか。 * 繰り返しますがよい詩です。秋田で「猫もまたいで通る」の異名すら取る下魚の鰰(はたはた)が、「魚の神」であるという逆喩。うなぎ(※言うまでもない乱獲大問題)パイと同じく主役が入ってないハタハタパイを食べて乱獲を控える、つまりそれだけ漁師たちがハタハタを愛しているという想定。着眼が、あーるるりらさんだなーって、もはや愛おしいです。 今年はイカが回転寿司から消えるほどの大不漁ですから、時事ネタとしてとてもよい。ハタハタの禁漁にまつわる展開が、ニシン(春告魚)御殿を彷彿とさせるのも時候的によい。押さえるとこぎっちり押さえた、るるりらさんらしい好ましい詩だと思います。個人的な問題は、秋田弁をどうするかだけ! * 秋田弁って、古語と漢語と仏教用語がどっぷり残存した、詩情の宝庫みたいな方言なのですよね。それをるるりらさんの着眼で使いこなせば、とんでもなくスゲー詩が書けるんじゃないかと、いま唐突に思いましたよ。わたしの感性ではぜんぜんだめで、るるりらさんでないと無理という気が急にしてきました。もうこんな話は余談っつうか私欲だ。 (はたはたパイ 食べろ)

2017-02-15

▼論旨 初連の【風(化)】から終連の【ばらばらになる】に至るまで、全修辞に強靭な必然性があり説得力があってもう最高です。具体的には、たとえばこういうことです。 ①記憶が「風化する」(初・終連) ②記憶を「噛みしめる」(2・5・終連) ①②は一見、対照的な(相反する)事柄ですが、どちらも「父を【ばらばらに】(終連)するもの」として、詩の最後に集約されています。だからこの詩の結論には、逆喩のような重みがあり説得力があるわけですね。人を忘れることも、人を忘れまいとして噛みしめることも、どちらもその人を失わせる行為にほかならないのだね、と感じにです。 もう忘れかけている父の断片的な記憶を、おそらく的はずれなまま噛みしめ、継ぎ接ぎしているのだから、この「信頼できない語り手」の心象風景は、感覚のずれた非現実的なものにならざるを得ません。全表現に強靭な必然性があり説得力があります。「この詩は単なるでたらめな詩情や、単にかっこいい字づらの羅列ではない。このように書かれるべくして書かれたのだ。」と納得できるから、安心して堪能できるわけです。 * 強いて、欠点と見なせるか否かも疑問であるところの欠点を上げるなら、「解釈の幅がありすぎる。」これだけですね。語り手をなに者と想定し、語り手が父をどう思っていると見なすかによって、詩から読み取れる内容が、まったく変わってしまうということです。 たとえば、「語り手は父から性的虐待を受け、認知症の父の介護を拒否した女性である。」と想定して読むと、エセ心理学的な筋が完璧に通ってしまいます。「この詩は全体が比喩であり、【十字架】の象徴する贖いとその思想を表現している。」と想定して読んでも、やはり筋は通ってしまい、しかも宗教的解釈の大混乱に(読者が勝手に)苦しみます。そういうのを欠点と思うか思わないか自体、作者様の信条によりますから、読者の側から一概に欠点と断ずることはできません。 「解釈の幅がありすぎると、どう読まれてしまうのか?」 これを吟味なさったうえで、解釈の幅を欠点と見なすか見なさないか、作者様が判断なさるべきだと思うのですね。そういうわけで参考事例として、下記にわたしの趣味の鑑賞を置いていきます。 ▼鑑賞(※文章を煩雑にしないため断定形で書きますが、すべて筆者の推測です。) 題名『藁の家』は、聖書においても三匹の子豚においても「一大事のとき真っ先に消え失せるもの」ですね。詩はそれを【男】に擬えていますが、これは日本の家父長制を【家】と極論したものでしょう。藁葺き屋根のような、枯れたような老いた髪の、貧しい寂しい父の姿が目に浮かびます。それは戦争など一大事のとき、真っ先に死ぬべきであったのに、生き残ってしまった男の姿なのかもしれません。 男性優位社会において父は、「男の甲斐性」という強烈な重圧にさらされます。いままでいったいどれほどの父が、その重圧に押しつぶされて死んだことでしょう。わたしの実父も、病気で働けなくなったのち、家族に保険金を遺すために自殺したのですが。そのように父を文字通り押し殺す重圧は、「家族の重み」にほかなりません。 だから子である語り手は、孝行してやれなかった父の死に対して、原罪さながらの罪悪感を強いられるのでしょう。罪悪感のゆえに、逆恨みもしているのかもしれません。 【夜の岸辺】、此岸と彼岸を隔てる三途の【海】に、父は逃げたと詩は語ります。亡父は彼岸へ渡してもらえず、死んでも死にきれない亡霊として語り手に縛られています。死んだ父が生きている子を縛るのではない、生きている子が死んだ父を縛るのです。 * 情景の核心は、「父の記憶を噛みしめる」動作の描写にあります。その動作は、初連に顕著に提示される「父の記憶の風化」に対抗するような行為ですが、どちらにせよ父を【ばらばらに】する事象です。 記憶の【ばらばら】の断片の、継ぎ接ぎでしか父を語れないので、語り手の父に対する意識は「的外れ」(※原罪の原義)です。墓参りに来ているのに、2連以降、夢のようなあいまいな情景でしか父を回想しないという表現が、その複雑に的の外れた心象を描出しています。 語り手は的はずれなまま、風化した父の記憶を噛みしめています。おそらく父も生前は、自分が負っている語り手(子)の命の責任を、的はずれなまま噛みしめていたのでしょう。 父は、語り手に噛みしめられて【ばらばらに】なります。【味が消える】ほど噛みくだかれ、しかし理解はされません。ずっと咀嚼され続けて、いつまでも飲み込まれません。 「未消化」「腑に落ちない」「溜飲が下がらない」。父の死を理解してやれず受け容れてやれないという感情が、父の記憶の風化に抗うように、詩句につきまといます。 たとえば初連。 ▼引用開始------------------------------- 墓参は真冬 風は 石の十字架を鉄に変える その手触りは 記憶の父にそっくりで -------------------------------引用終了▲ 【十字架】には無数の示唆がありますが、ひとまず、題名の【家】および5連の【渇ききった歯】との関連で、「骨/骨格/肉体(霊の対義)」と見なせるでしょう。足を閉じて立ち両腕を左右に伸ばせば、人間の体は十字架を象ります。磔刑に処されたイエスは、その格好で死にました。 したがって【十字架】は、父の死をイエスの磔刑に擬えたものと思われます。父が贖いのために死んだ、語り手のための犠牲であったことを示唆するかもしれません。 【石の十字架】は父の墓碑でしょう。言ってみれば父は、その十字架に磔にされているようなものです。 対して父の記憶の【風】化によって現れる【鉄の十字架】は、クリスチャンのシンボルでしょう。語り手は首に意味の風化した象徴を書け、胸に「磔られた父の死体」を下げているのです。その姿を想像すると、まるで「父の磔が語り手の体に磔られている」ようです。 父を磔けている十字架が、子の体に磔けられています。そのように亡父は、子と不可分であり、しかし一体とはなりません。理解されず受け容れられません。噛みしめられ続ける父は、いつまでも子の腑に落ちず、子を活かす糧にはならずに、実態のない象徴として子の胸に居座り続けます。親からすれば「死んでも死にきれない」待遇でしょう────そのように「的外れ」(※原罪の原義)な感慨に、この詩が満ちているのは、風化した記憶を噛みしめるとこうなるという黙示です。 ▼結論 きりがないので大概にしますが、いかがでしたでしょうか。上記の鑑賞が作者様にとって不本意なものであったら、それはこの詩に「解釈の幅がありすぎる」ため起きたことだというわけです。 読者にとってよい詩の鑑賞は、ひたすら楽しいのでして、作者様がそれをどう思うかなど、ぶっちゃけ知ったことでありません。であればこそ作者様が、自作の解釈の幅をどうすべきか、読者をどこまでリードすべきかをですね、真摯に判断なさらんといかんのです。以上の教訓をもって話を終わりますが、つまり結局、どしゃぶりさんの詩はすごいですね。ひたすら楽しいのでもっと読み語りたいです。 (藁の家)

2017-02-15