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mu


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潮音

2017-09-30

散文詩のようであり、随筆のようでもあり、覚え書きのようでもある。冒頭に言葉をポンポンと宙に浮かべたと思ったら、突如、こちら(読者)に顔をぐいっと近けて、ですます調で語りかける…。一直線に並んだ文章が破城しかけているようで、でもそれは作者が嗾ける仕掛けであって、その断層から妙に説得力のある情景が地下街の蒸気のように浮かび上がってくる。グロテスクと品格の衝突。錯乱すらも様式に回収される。我々は、常に記憶に繋ぎとめられているからだ。創作と経験をイコールで結ぶことは無意味だ。書くという行為、それ自体が経験なのだから。 初めまして。拝読して、思ったことをつらつらと書き連ねてしまいました。 お気を悪くされたのならごめんなさい。 フラニーとゾーイーをオマージュされた「サリンジャーに捧ぐ」と題された作品も、その後の作品も、スラスラと読めてしまいました。(音とリズムが小気味好いからでしょうかね。)別々の作品にも関わらずどこか低通しているようで…まるでナイン・ストーリーズのようでした。連投は避けるようにと、ガイドライン上には書かれていますが、そのような効果を狙ったものなのでしょうか?どちらも面白く読めました。(小説の場合なら、この褒め言葉は的はずれにはならないですよね…)でも、私は、個人的には、こちらの作品が一番グッっときました。 こんな感想を書くことで、三つの作品の繋がりと、その配置を壊してしまうようで忍びないですが…。 (moment_memory)

2017-09-27

はじめまして。大変美しく、また、悲しい詩だと思います。素晴らしいです。 私自身の好みとしては、「数字」がもっと抽象度を増し、育つもの、根を張り、水を汲み上げ幹を伸ばし、降り注ぎ、「僕」の頭上を覆い尽くすものとして、動き回っていてほしい、循環を繰り返していてほしい、と、思ったりもしました。でも、そうすると、この詩のうちに流れる静謐さが失われてしまうのかもしれません。 それにしても、この「飲まされる数字」という言葉は、イマジネーションを掻き立てます。 「ゴクゴクと飲んでいく」という表現はどことなく、ツェランの死のフーガを連想させますし…震災のことなのでは?とか、戦争と虐殺のことなのでは?とか、年齢という歳月を積み上げることの空虚感なのでは?とか、いろいろ……。 と、いうか、最初「悲しい数字」という言葉を読んだときに、思い起こされるものは、私には一つしかありませんでした。それから、批評を読み、詩を読み返し、別の読み方を探してみましたが、どうも、私には、はじめに受けた印象から逃れられませんでした。 震度XX、死者数XX、負傷者数XX、上空XXを通過、半径XXキロに渡って壊滅的打撃、あれからXX年、など…。私たちは、とらえ難いもの、咀嚼し難いものを、数字で無理矢理のみこもうとします。というか、否が応でものまされます。 「数字は何も教えなかった/だけど君は飲み続けた」 死者が数字に置き換えられたとき、それはもはや人間ではない。どんな家に住み、どんな暮らしを営んでいたか、誰を愛し、家族は何人いたのか、庭でラヴェンダーを育てていたのか、それとも、ベッド脇に服を吊している貸家だったのか、誰も気に留めなくなる…彼らは、無機質で事務的なただの数字になる。 というような言葉を思い出しました。(出典は分かりません。正確でもありません。誰かの名言なのか、小説で読んだのか、映画のセリフなのか…とにかく、このような意味の言葉です。)そしてそれは、恐ろしいくらい真実です。 そんな仕方でしか悲しみを飲み下す術を持たない私たちは、それ故に、「君はいいひとなんだよ、いいひとなんだよ」と、「大丈夫、大丈夫だよ」と、口ずさんでいなければならないのかもしれません。「亡くしたものだけが美しくみえたりも/した」のだとしても……。 死者に向けられた言葉は、同時に私たち自身に向けられたものでもあります。 「僕」と「君」の境界が曖昧なのもそのせいなのかもしれません。 人様の詩に批評などするのは初めてなので、ちゃんと批評出来ているのか、自分の解釈を書き連ねているだけではないのか?そもそも、見当違いの読み方をしているのではないかと、甚だ心許ないですが、素人だと思ってどうぞご容赦下さい。 もちろん、詩はなぞなぞではないので、正解も不正解もないことはわかっていますが……。 私には、そんなふうに読めました。(批評というものは、作品に踏み込む行為では無く、こちら側に引き寄せる行為なのですね。とかく私の場合は……。なので、ここで書かれている事は、詩作品そのものとは別の次元で機能しています。一種のオマージュというか…コラージュというか…) 失礼ついでにひとつだけ。最終連の、「大丈夫、大丈夫だよと、言って/そのためにどこまでも不安だった」から、「いつか」への繋がりが唐突で、少し解決を急ぎ過ぎているように感じました。いっそ、宙に浮かせたままでもいいな、と……。けれど、その後に続く「いつか/数字に触れる手が/樹々の透明になるといい」という詩連は、作中、最も音楽的な美しさを有しているので、切り捨てるのは間違いでしょう。「いつか」へと続く適切な詩行があればいいのですが…野暮ったくならない程度に…難しいですね…。始めにも書きましたように、この詩の持つ美しさは、言葉数を切り詰めたことによって生まれる、張り詰めた静謐さだと思いますので、それを損なうことだけは、何としても避けた方がよろしいかと……。それに、あまり筋道立てると、「数字」という言葉の抽象性によって引き出されるイメージの多様性も失われるでしょうし……。そう思うと、手を加える必要などないのかもしれません。 物理学では、数式で万物を言い表すことができるそうです。そうして、数字に捕らわれた天才物理学者は、周りの景色が数字に見えはじめ、ミイラ取りがなんとやらで、精神の均整を保てなくなった者も少なくないと言います。 あながち、数字というのは隠喩とは言い切れないのかもしれませんね。数字は私たちの周りで蠢き、そっと息を殺して、飲まれ、そして空に帰るときをひっそりと夢見てるのかもしれません。 長々と失礼しました。 (いいこ)

2017-09-25