蛾兆ボルカ

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私はこのゴダールの批評のカケラを、るるりらさんの詩について語ろうとして、今回初めて読んだのだけど、とてもわかり味が深い。これはまさに我々の根本的な理念であり、僕が詩を書くときにしばしば憧れる地点でもあります。 そして、このるるりら詩にもぴったりだと思うのです。 るるりらさんの詩は抽象的な場合もあるけど、この人魚の詩を含む多くで、具象を手放さない。可読性を手放さないまま、軽々と伝説を、情景を、主題を、科学と文学史を含む文化や文脈を、そして言葉を脱構築する。そしていい笑顔で微笑む。その裏には死があり、逆らえない運命や悲しみがあるのでしょうけど、るるりら詩はそこから自由になるテクニックをしっかり持ってる。 ・・・やはり僕は批評が下手なのだけど、そんなふうに思いました。 この作品は、とても良い詩だと思います。 (めるふぇん)

2019-07-13

同じレポートの8枚目で、映画監督のゴダールの大野批評が2つ引用されてます。 「我々はナンシーでフリルをひらめかせる死を見た。その永遠の顔と、その奇妙な眼差し、その笑みの健やかさを見た。」 「一雄は自然の源の中に最高の基礎を見出した。ーーー即ち、歓びである。」 (送信して続けます) (めるふぇん)

2019-07-13

しかし大野のダンスは進化とも、海底とも、ましてやヒラメとも無縁なんですね。ダンスを見ていてそうは解釈できません。のみならず、大野のダンスはそうした抽象的な動きではなく、具体的です。老いたお母さんが、ちゃぶ台でご飯食べて美味しいと思ったりする。全く別の文脈、具体的に解釈できる可読性があります。 引用したレポートでは、日本のダンスという文脈を逸脱することに躊躇いがない大野が、どれほどビックリされたがコレクションされ、冒頭でまとめられてると思うのですが、るるりらさんのこの作品にも、そうした文脈からの自由、デ・コードが愉しく起きている、と思います。合わせて、進化や生命の力も(進化とは(両性類の変態も)、それ自体がデ・コードです)現れてる。 (送信して続けます) (めるふぇん)

2019-07-13

大野一雄は、後にテレビ番組の中で、自分のダンスを説明し、進化について語っています。正確に引用できませんが……… 例えばヒラメという生き物は不思議である。あんなふうに海底にべったりくっついて、それがしやすい身体に目が寄って進化した。でもそのヒラメがある時、サメとかマグロとかになる、そういう生き方をしてそういう体になることを決心して、海底からグワッとたちあがつて泳ぎだす。そうだとすれば、それは生命の歴史何十億年を背負い、その果で、はるか未来の何億年かの起点になるグワッなのだ。でもそれはその一匹のしか見てない、密かなグワッなのだ。 私が舞台で着るフリルの動きは、そういう動きだ。 と、大野一雄が言ったのではないけど、正確な言葉は記憶してません。でも、私がそう解釈したことを大野は語りました。 (送信して続けます。) (めるふぇん)

2019-07-13

すみません。この作品は、とても素敵なんだけど、きちんと批評することは僕の能力を超えます。 でも、素敵なので、中途半端な語りになるかもだけど試みてみますね。 曖昧な引用で申し訳ないけど、以下のレポートの一枚目と2枚目に、僕が(出来るなら)語りたいことの枠組みがありました。大野一雄というダンサーについての批評です。 https://www.google.com/url?q=http://www.kazuoohnodancestudio.com/japanese/archives/analysis/pdf/ana-002-mutohwithout.pdf&sa=U&ved=2ahUKEwiVupaArrHjAhWPwosBHelVAdEQFjABegQIBBAB&usg=AOvVaw14F-wXlQvN958tbQWu83Hx (一度送信して続けます) (めるふぇん)

2019-07-13

あっと!空欄でも名前だけ記録されるのですね。 まだ批評を書く用意はできてないのですが、悲劇であるアンデルセンの人魚姫を転換する手際の見事さに感嘆しました。 悲劇という言葉を、私はアリストテレス/ニーチェ/バタイユを踏まえて、惨劇とは区別して使うのですが、この作品へのコメントとしてはどう説明するのが良いのかまだ整理できていません。 でもこれは悲劇を別のものに構造的に変えるにあたり、語ることを=カタルシスを支点として用いていると思います。 そこが素敵だなあ、と。 あと、音素がとても良いです。先行する名作「一つのめるふぇん」の影響により、メルヘンとは、砂であるような感覚を我々は予め持っていると思うのですが、かの名作を凌駕して、とても素敵に泡の印象を上書きされました。 (めるふぇん)

2019-07-04

(めるふぇん)

2019-07-04

イイね(^^) 一つだけ、無自覚なれば、を無自覚ならば、の方が良いのではないかという躊躇いが残る。 そこ、踏み切れない/踏み切らない のがこの作者のアジと思っておきますが、気合の入った詩人なら「無自覚ならば」にすると思う。言葉に頼らない、ということであります。 (わたしは死ねばいい)

2019-01-03

時分→自分てした。 重ねて失礼しました。 (秘法(第一巻))

2018-12-10

冒頭誤変換でした。 ×  この詩他の場合、フレーズを ○ この詩の場合、フレーズを 失礼しました。 (秘法(第一巻))

2018-12-10

追記させて頂きます。 この詩他の場合、フレーズをフレーズ自体てはない他のイメージに置き換えたり、比喩を読者である私の役にたつ(意味のわかる)文=教訓として受けとるということより、詩文そのもので味わいたいように私は感じます。 でも、一つの感想(なのか連想なのか)のようなものとして、トランプの話をしたくなりました。 私はトランプが割合好きだった時期があります。神田のカルタ店に時々トランプを買いにいったりしました。私は何につけ、詳しい知識を記憶するのは苦手だし、トランプについてもちゃんと勉強することもない、いい加減なことなのですが、自分で勝手に各カードの性質を決め、出た位置を勝手に解釈するのです。 例えば8は戦争や派閥間の深刻ないさかい、2は正向きなら友愛。スペードであったり逆向きのクラブなら、二人の間の対立。 3は硬い結束を示す聖数。4は世界の状態を示す聖数。 と、いった具合です。 トランプは、一見上下のないカードも、マークと端っこまでの間隔などが僅かに異なり、時分なりの上下を決めることができます。 引用  Ⅱ ばら瑠璃(月夜のトランプ) 「ペルシャンブルーの砂漠がですね、   象の骨を磨いてゐたのですよ。」 キャラバン隊のポスターを剥がす少女の初恋。  例えば、この詩文は、トランプのハートの2が正位置で示されたようなもの。  そんな風にも楽しみつつ、私は読んでいます。 (秘法(第一巻))

2018-12-10

気持ちがいいですね。 各スタンザが独立、表記上では分断したものとしてナンバリングされてますが、カウントアップで終りが予感される十で終わってますし、タイトルが儀式を連想させるためもあり、また全体に通低する流れが感じられてひとまとまりの詩として、愉しみました。おそらく無意識レベルでの、選語のセンスが良いです。 魔術にせよ、祈祷にせよ、ひとは何かしら希求するものをポジティブに実現するために祈る。 てもこのメランコリックな調子は、そして明るい雰囲気は何でしょう。 もし二回、創造を祈り、それが実現するなら、この世は滅びるわけですが。 (秘法(第一巻))

2018-12-09

思考の深さや、背景の濃さは、作品を読み込まなくても言葉選びから伝わります。 合評でやり取りする価値があり、実際にも可能なのは、その詩のレトリックが完璧であるか、読者に効果があったかだけだと私は思います。 もちろん、私以外の人は、他の交流の仕方もするけど。 (大海の王者)

2018-12-07

あるいは「島影」とかの、海から見た陸のイメージと夕陽で締めると絞まるかも。 (大海の王者)

2018-12-07

小林さんのコメントを読んで思ったのですが、この詩はラストの地平線を水平線にすると、それだけでがらりとかわり、現在より良くなりますね。 世界の全体ということで海以外の陸のイメージを持ち込みたいのかもしれないけど、面白いことに水平線は陸地を感じさせる。 水平線は、船からも見えるが、それよりはるかに多く、浜辺から見られるからだ。水平線というだけで、陸地に立っていることがイメージされます。 (大海の王者)

2018-12-07

つきみさん つい先ほどのことなのですが、リリースされたばかりの「抒情文芸」という雑詩を読んでいて、そこに掲載されていたリクター香子氏の「イタチ」という詩が素晴らしく、感銘を受けたところでした。 その影響を受けつつコメントを追記しますと、何か一つ、この詩に欲しいものをあげるなら、サスペンスてはないか、と思います。 この詩を拝読したとき、私は第4スタンザで気持ちが離れてしまいました。 第3スタンザまでは葛藤と苦悩の影が背景に漂うので、どうなのだろう、作者は私(読者)を何処に連れてゆくのだろう、という緊迫感の高まりがあります。 全体の構造では、最後から2つ目のスタンザが、起承転結でいえば転にあたり、最後のスタンザがクライマックスになってると思います。 もちろん第4スタンザ以後も重要で、切り落とせば良いというようなことではないのですが、読み進むに従って緊迫感や思いがけない恐怖の到来といった、あるいは逆に、自在な解放の高まりとか、そうした何らかの変化による流れのようなものが第4スタンザ以後もないと、この密度の優れた詩行は、読者として咀嚼するのが難しいなあと思うのです。 ご参考になるかどうかはわかりませんが、リクター氏の「イタチ」は、時間軸に並べず、サスペンスの有効な並びで展開します。 この詩のスタンザを並べかえたほうが良いということではなく、そうした何らかの細工があったほうが良いのでは、ということです。 あくまで一人の読者の感想として。 このままでこの詩は素晴らしく、私との相性というだけかも知れません。 (それは素粒子よりも細やかそれはあやとりそれは贈り物)

2018-12-06

まず、何これ?と、思いました。 次に最初と最後から2001年宇宙の旅を連想し、連想しても無駄に終わりました。 それから、記憶術として、頭の中に箱みたいなのを作って、その順番が思い出せるようにしておき、そこに数字でも何でも入れてくことを連想したけど、やっはり無駄で、何だったのかなあと思いました。 (ニューヨーク天神駅84「小児教育」)

2018-12-05

非常に豊かで多彩なイメージが展開して楽しいし、暗闇の中で手探りし、母の張り巡らす透明な糸に縛られ、言葉による内的自由に活路を見いだす語り手の闇と、その闇の深さがかえって浮き彫りにする柔らかな魅力。 そういったものを感じました。 でもこれは長いです。 人が何か印象を持つためには、それを記憶できなければならないと思うのですが、私には難しい長さでした。 構成として、各スタンザを記憶しながら読めれば、ラストですべてが洪水のように打ち寄せるようになっていると思います。でも私にはそれは起きない。他の読者には起きるかも知れないけど。 愉しく、ある意味、愛らしい、好感と興味を喚起する言語感覚がここにはあり、宇宙全体と人生全体という、チャレンジしたオブジェクトも、物語に頼らず言語そのものの性質を使って勝負するという手法も、とても良いと思うのですが、何かもう一段階、高めることができたのてはないか。と、いう印象でした。 (それは素粒子よりも細やかそれはあやとりそれは贈り物)

2018-12-05

>けれど貴方の病と娘への深い愛を知り、 この文の意味がわかりませんでした。 貴方というのは、楢の樹なのかな、と思ったのですが、 「貴方の病」への愛と「貴方の娘」への愛、その2つを僕が知った なのかそうではないのか。 順列組み合わせみたいに、いく通りか受け取れますが、どうとっても今一つしっくりこないように思います。 (鬱の治療)

2018-12-05

みうらさん コメントありがとうございます。 (海猫)

2018-12-05

つきみさん 引用ー もし宜しければ、私の言葉の中に何か、擦れ違う言葉や、蛾兆ボルカさんの立ち入ってはいけない部分に、私が入ってしまったのかなと考えています。 引用終わりー そういったことはありません。 拙作にコメントを頂き、ありがとうございました。 (海猫)

2018-12-05

つきみさん なるほどそういうことですか。 私はそういうのは作品の残念な点だとは思いません。 何故なら、もしあなたが思ったとおりなら、それは作品の欠陥ではなく、読者が残念な読者だっただけのことじゃないですか。作者にはどうしようもないし、私の場合はどうにかする気持ちさえない。関心外のことです。 それにどの読者も、読んで感じたことの一部しか語りませんので、語らなかったことはあるでしようし、実はコメントに暗示されているとも読めるけど、あえて私が(有り難く思いつつも)そっとそのままにしてコメントを返さなかったことも多々あります。 特にこの作品では、分析的ではなく直接的に伝わったかたの場合は、何が伝わったか言葉にしにくい場合もあったのではと思っています。もしそうなら、それは何か手品が成功したときのように作者は嬉しいです。 どのコメントも有り難いし、どの読者様にも深謝しているので、何も残念ではないのですよ。 そしてもちろん、あなたの評価(選考)も、楽しみにしております。 ありがとうございました。 (海猫)

2018-12-04

つきみさん 惜しい点だったのですか! 私としてはそこが自慢の点だったので、てっきり貴方もそこを誉めておられるのかと(>_<) それは残念というかビックリです。 でもありがとうございます。 今後も精進しますので、お目にとまりましたら、またコメント頂けると幸甚です。 (海猫)

2018-12-04

誤 このバージョンではり落としました 正 削り落としました 失礼しました。 (海猫)

2018-12-04

つきみさん あなたのほうこそ、その読みの深さと鋭さ、タダ者でない感が(^-^ゞ 絨毯を使った海や空への詩の解放、作者としては狙って、そのために改稿まえはこの後に続いていた行をこのバージョンではり落としました。コメント嬉しく拝読しました。 (海猫)

2018-12-04

galapagalapaさん ありがとうございます。 私も将来は、ウイリヤム・ブレイクのような立派な詩人になりたいと思っているのですが、 まだちょっと道は遠そうなので、そうなるまでマイペースとユーモアとリリシズムを大事に、精進します。コメント、励みになります。 (海猫)

2018-12-04

帆場蔵人さん ありがとうございます。 ネコごろん、狙い通りにウケがとれて嬉しいです。 (海猫)

2018-12-04

とても面白く鋭い論評、愉しく拝読しました。 個別の論評も面白かったのですが、総論として冒頭でおっしゃってることも、とても参考になりました。 引用ーー 「リフレイン、同じ言葉の重複」と「接続詞」と「括弧」と「言葉の順番による強調」と「半角全角スペース、区切る。連」については、ちゃんとした意味、作法が有ります。 引用終わりーーー この部分で、他のことはなんとなく思いあたったのですけど、リフレインについては、私は感覚的に使用していて、その効果は自明と思い込んで思考停止、その作法については読んだ記憶がありませんでした。 そういえばどうなんだろうと思って、とりあえずネット検索してみたところ、「やっすん」という人が管理している歌詞サイトに分かりやすい概説があり、参考になりました。 今後、図書館などで、調べてみようと思っています。 ヒントありがとうございました。 (十一月分フル選評)

2018-12-03

柿原さん ありがとうございます。 そうですね。 ゴロゴロして、サバってる(サボってる)のかも知れません。 るるりらさん ありがとうございます。 で、ほっとするやら わかります(^^) ほっとするやら、これではなんか残念でもあるやら、というところかも知れません。 ウミネコは、僕も子どもの頃は、ネコか魚の一種だと思ってたのではないかと思います。 (海猫)

2018-12-03

私は別件で、わかり易い/難解 関係について考えていたところでしたので、その観点からコメントさせていただきます。 この詩は意味がわからないとか、意味がないのではないか、という捉え方が(それをプラス評価するにしろマイナス評価するにせよ)あると思います。 しかし、その場合、たぶん本当は意味がわかったりわかりにくいのではなくて、この詩の「教訓」がわかりにくい、もしくは教訓がないと思われる、ということなのではないかな、と思います。 読者は案外教訓を求めるもので、その作品を読んだ、その作品でなんか感じた。それだけで停止しません。その作品に接して受け取ったことに、どう反応したら良いのだろうか、と考えてしまいます。 この場この時に笑えば良いのか、泣けばよいのか。それともしっかり記憶して、思考や感情の肥やしにすべきなのか。どういう影響を受けるべきなのか。 それがよくわからなくて、作者に訊いてしまうとすると、「この詩はどんな意味なのですか?」という質問になります。 その質問をもっと正確かつ直截に言い直すなら、「この詩を読んだ僕は、今後どう生きていったら良いのですか?」ということなのです。 しかしもしそう質問されたら、作者としては、「お前の人生だろ?勝手にしろよ。そんなの知らねえよ。」といいたくなることでしょうね。 詩の教訓がわからなくても、その作者には文句をつけないほうが良い所以です。 しかし、読書という行為において、教訓を求めることはダメなのかというと、そうではなく、結局のところ優れた詩は優れた教訓となり、人類史に残るのだろうとも思います。 (そうではない、教訓などいらない、という立場も取ることはでき、そうした作品は現代詩では過去に少なくなく、この詩も作者としてはそうした立場で書いたものなのかもしれません。私はその可能性は無視して勝手に教訓を読みます。) ただし、この詩における教訓は標語みたいな文や言葉で語れるものではなく、クレーンがびっくりするほどながく、やたらと、バカみたいに伸びること、それそのものとして読者の中に啓示される、のだな、と思いました。 (たったひとりで伸びていったクレーンへと捧げる詩)

2018-12-03

亡霊にはテロメアなんてなくて、 というフレーズがいいなあ、と思いました。 そういえば「墓場の鬼太郎」の、鬼太郎たちにはどうもテロメアがありそうなのではないか、と思います。 (夜空)

2018-12-02

回転が自転なのか、何か(例えば僕)を中心にした公転なのかに関して、イメージが少し不鮮明なように思いました。 自転と解釈して、君の視点で僕が目を回す、という感じが僕は好みかもしれません。 (恋)

2018-12-02

追記)つきみさんへ もう少し踏み込んだことを書くと、この散文で私は、化粧とは画一化だ、と仮定して記述しています。化粧により、何で女性は同じような顔にするのか、という疑問があり、それに私なりの答えを書きました。 つきみさんは、逆のご意見ですよね。まず化粧とは、肌の色や個々人の個性を踏まえてそれを引き出す個別化と捉えておられるのかな、と思いました。 どちらが、どうということはここに書きませんし、私には結論出せませんが、大変参考になり、興味深く思いました。 (女性の化粧について(エッセイ))

2018-12-02

つきみさん 表現は大事なことですから、出来ないまま放置されたとか、一度もまともに教わる機会がなかった、ということは人権(学習権)侵害にあたる残念な実情だと私は思います。 化粧ももし本当に自己実現のために大事なことなら、貧困や家庭環境が理由で学ぶ機会に恵まれないケースが無いよう配慮されるべきですし、そういう学科があれば、そこで化粧とは何なのかという本質も科学的または美学的に解明されてゆくのでは、と思います。 (女性の化粧について(エッセイ))

2018-12-02

鬱海さん 私の意見は、日本人男性の中でも少数派なのではないか、と思っています。 それ自体は本文にそう書いて置きましたので、あとはマイナーな意見をどう記述するか、という技術や技巧の問題だと思うのですが、そうした場合、自分の考えがマイナーであることは一旦脇においておいて、むしろ合理的で一般的な見解であるかのように書きすすめるのが普通なのではないか、と思います。 とは言え、ご指摘のアマゾンの箇所については、もしこれが論文であるなら論拠にあたりますので、もちろん数値を添えた根拠が求められる箇所でありましょう。 そうしたご批判に耐えられるようには作文していませんので、我々とあるが私は違う、とか、我々日本人の過半数が違うとか、といった異論は成立しうると思います。 (女性の化粧について(エッセイ))

2018-12-02

fiorinaさん 包装紙の最も大きなお役目は、剥がされること。そして剥がされるまで内部を保護することだと思うのですが、トッピングの要素もありますね。 つきみさん アイヌの人が好んだ眉は太くて繋がってるやつで、女性もそうした化粧(刺青)をしたようですね。縄文土偶も、女性の眉は太く繋がってます。 そうしたものは文化なので、その文化の外にいる者には自明には共有されてませんし、それを理解するには、あなたが書いたような「意味づけ」が一つの手段なのかなあと思います。 教育については、おっしゃる困難はわかりますが、原則的には私は違う意見です。 例えば美術教育も、詩作や小説作成の技術も、あなたが指摘したのと同じような課題があるにはありますが、できないというわけではありません。それらは、日本の学校教育ではかなり軽視されてきましたし、最近も減らされてますが、私は残念におもっています。 (女性の化粧について(エッセイ))

2018-12-02

つきみさん コメントありがとうございます。大変、勉強になり、興味深いです。 引用ー 肌呼吸をしないけれど、他者様と立ち会う際は、会う人によって化粧を変えるのは当たり前ですし。女同士で合う時の女子会でも、化粧を変えます 引用終わり まさに異文化!と、いうかほとんど異界(笑) それ、文字通り「化け」てますよね。すごいなあ。 私、やはり文化人類学的なツールを携えずに、この散文を書いたのは無謀だったかも知れません。 それと、ケアはやはり、別の話として興味深いです。 化粧は肌を痛めてもするじゃないですか。でもほとんど化粧しない人も、女性は肌に気を使うひと多そうですよね。それが出来てるかどうかは、ある種の優秀さのディスプレイでもあると思うし、魅力を感じます。 文化としての化粧ということでは、おっしゃるように技術であるにも関わらず、義務教育で基礎を教えてないのは、教育の欠陥でもあり、その文化がきちんと 尊重されてないか、理解されていないのか。あるいは私が主張するように、それは奇妙な風習に過ぎないとも言えたり、種の生き残り戦略として、理解されうるものなのか。 いろいろ思いました。 (女性の化粧について(エッセイ))

2018-12-01

落ちぶれる時に、何故か労働する方向に落ちぶれる人っていますよね。 早朝からパチンコ店に並んでる人とか、お金もうけを目的に苦労してるんだから、働いてるのと全然変わらないように思うのですが、わからないものです。 こういう甘い話につきこんじゃうのも同じで、そんなの夢とか自由とかじゃなくお金もうけなんだから、普通に働くほうが効率いいじゃん、と思うのですけど、やむを得ません。 くたばる時もキリギリスはキリギリスなように、落ちてもアリはアリなのかな。 そう考えると、冷めた寓話だな、思いつつ、なんか面白かったです。 (アリとキリギリス)

2018-11-24

あなまどい、という言葉を初めて知りましたが、「穴惑い」と書くと、無闇に性的な連想を誘いそうな言葉だなあ、と思いました。 この作品は、タイトルと一連を平仮名にすることで、無色の盲目的とも言えるような手探り感の辛さ・苦しさ・哀しみを醸し出しているように思いましたが、私はタイトルは漢字表記のほうが良かったのではないか、と感じました。 それと、心情のメタファとして拝読した葛餅を砕いて運ぶ、従って外的なアリの行き来する様子を比喩に重ねると、まだ穴に籠れない蛇のイメージを弱めてしまうので、私の感覚では、第3連を落として、第4連に繋いだほうが良いのかな、とも感じました。 秋の終わりのあり方が、過去の苦しみと、苦しくはなくともいや増す死の気配と共に定着せれてて、印象深い作品だと思います。 拝読したとき、おお!と思いました。 (あなまどい)

2018-11-24

ちなみにこの作品が登場人物のモデルと受け取られる人物を誹謗中傷したり、事実無根のデマを拡散して活動を阻害するものであるかどうか、というと、ギリギリセーフではないかと思います。 理由のひとつは、登場人物「なかたつ」と登場人物「三浦」は、ここでは役者が役を演じているのと同じことをしているのであり、事実とは無関係である、と読者が受けとるような細工がされているからです。 (ビーレビの昼ドラ)

2018-11-23

こんにちは。 僕はこの作品は好きだし、冒頭あたりの記述の混乱(登場人物の年齢設定など)以外は、よく出来ていて、文章も魅力的だと思います。 フイオリナ氏が指摘してるように、3人とも敗者だというところに工夫がある。また人か指摘してるように、「三浦」「なかたつ」など作品内部で完結せず、外部を参照する構造なので、それらをよく知らない私にはこの作品の評価はできない(内至、したくない)し、でもそうした評価不能な作品としての作りが面白くもあります。 作品の筋だてとなってる物語の恋愛に関する倫理的評価としては、語り手の分裂は無視するとするなら、3人ともセーフだと私は思います。 「俺」は浮気されて婚約破棄なので、彼女さんとよりを戻さないのは賢い選択でセーフ。 「貴音」は浮気したので少しアウトだけど、婚約破棄されたので応報。そのあとは、誘惑されたという言い訳は、有効に作用しなかったので、セーフ。堕胎は個人の自由なので倫理とは無関係。 「三浦」は、友人の恋愛と婚約を破壊したので少しアウトだけど、「なかたつ」と「貴音」の結婚はまだ成立してないから、まだギリギリで「貴音」は恋愛申し込み受付中。金銭等による賠償責任が「なかたつ」に対してあるかも知れないけど、「なかたつ」は請求より報復を選択したので「なかたつ」に対してセーフだし、「貴音」に対しては咎められる要素はない。 なので3人ともセーフなので、3人とも自分が幸せになるよう、今後は行動すればよいところですが、まだ不幸の中にいますね。 ここで一度気持ちをリセットして、まず「三浦」と「なかたつ」でホモセックスし、さらに同性結婚する。そこに「貴音」をセフレ兼家族として迎え、3人で仲良くやると良いと思います。 (ビーレビの昼ドラ)

2018-11-23

なんと!あなたでしたか! 先日、投票をした際に何方かが拙作を推して下さったことに気づき、探していましたが、十月私がもっとも深い憧れをいだいた詩作品「虹」の作者であらせられる、あなただったとは! 非常に光栄です。 ありがとうございました。 選評も楽しく拝読しました。 引用)春の萌え出ずるかのような思いだなと感じたら春。夏のような激情であると思えたら夏。秋の実りのような芳醇さだと秋。そして冬の継承という具合に分類しました。そして、四季のそれぞれを感じさせる詩の中から、るるりらの好みだったものを ピックアップさせていただきました。(終わり) 良いですね、こういうの。 自分の頭を、より柔らかくして選ぶために、偶然が入るゲーム性を仕組みとして入れ、本来の趣味趣向の他の要素を選考過程に入れて居られる。 そんなふうに選ばれたことも、とても嬉しく思います。 (十月のるるりら選)

2018-11-22

私の作品も、優良にご推薦くださり、ありがとうございます。 コメント拝読して、嬉しく思っております。詩作の励みになります。 (【フル】かるべまさひろの選評<2018年10月分>)

2018-11-22

コメント投稿後に作者のコメントを見ました。 私は作成意図ととはかなり違う読みをしたかもしれません。他意はありませんのでご容赦下さい。 (嗚咽 *)

2018-11-22

こんにちは。 仕事が辛い、泣けるほど辛い、ということを、効果で言えば明喩にあたるレトリックで語っている詩なのかなあと思います。 不登校の子どもみたいに辛いとか、兵士に家族がいることみたいに辛いとか。 そういう構造ではないのですが、効果としてはそうなることを、「あなた」と作者が共感できるであろう典型的な悲しい事例の提示という構造で、逆説的に語っているのかもしれない、と解釈しました。 しかしこうして拝読しながら感じたのは、あまり共感できないなあ、ということでした。 もしかしたら、典型的な例を抽象的にあげたために、明喩としての効果が弱かったのかもしれません。「○○のように悲しい」と、いう場合、○○は具体的なほうが伝わるように思うのですが、それと少しは何か関係あるかも、と思いました。 (嗚咽 *)

2018-11-22

村上春樹は、小説はしっかり書くのに、詩はびっくりするほど下手だと思います(海辺のカフカの作中作や、翻訳詩など)。いや逆、下手すぎてびっくりした、というのが、私の村上春樹詩の読書経験でした。 この三浦作品は、それと通じるところがあって、流れとか、バランスとか、極端さとか、そういった言語芸術としての美の追及への意志が欠如している。そのように【私には】感じられます。 どうしたんだよ、って感じ。過去の作品はもっと濃密なのもあったように思うのですが、「お話」として経験や思考を物語りにまとめることしかしてなくて、その物語を、それこそ夢見ていない感じがします。 (たとえ偽りに終わったとしても)

2018-11-18

推薦への推薦、ありがとうございます。 選評も励みになります。 (10月分 フル選評(まりも))

2018-11-10

引用 〉「イエス・キリストにもし会ったらどうしますか?(ボスケ)」「特に何も。なぜって私は彼を知らないから(ダリ)」 ほほう! つまり、ダリはもし神に会ったら、 「君、だり?」と訊くわけですな(*´∀`*) 優良への推薦と選評ありがとうございます。 私的には、豪速球を目指してはいないのですが、そういうのも良いかなあと思っています。 (【選評】201810XXの乱。ステレオが行く!「見せてみよ。己が勝負魂」)

2018-11-03

これ、問題作だなあ。 難解と言っても過言でないかも。 詩は、謙虚な文芸だと思う。 言いたいことは誰にでも、いつだってたくさんある。 その中で、心に偽りとなるものを捨て、妥協したものを捨て、飾りを捨て、お涙頂戴や物語への依存や説明を捨て、言葉少なく、詩的ビジョンの正面に立つ。 その鮮烈さにより説明ではないものを語る。 なんてことを私は時々考えてますが、この詩は! とにかく気持ち良いですね。 あと、るるりらさんの独特な柔軟さ、伸びの良さがある。 たぶん相当良い作品なのでは。 (よしっ)

2018-11-02

ふじりゅうさん 推薦への推薦ありがとうございました。 作品へのレスでのご批評も、こちらでの選評も拝読しました。ありがとうございます。 前文の、「自己表現と自己承認を詩の目的とする人は多くいるでしょう」って、パワフルなイントロですね(^^) 私はかなり長いこと詩を書いていますが、振り返ってみれば、誰にも(一人にも、詩作能力を)認められていないと感じたことは無かったように思います。あったとしてもごく短い期間だったのではないか。 でも満足したことも無いなー。 私にとって詩作で目指すところは、掛け値なしの傑作を書くことです。 詩作する動機は、わからないか、もしかしたら存在しません。何故かわからないけど書いています。書かないということはあり得ません。 だから自己承認って言葉に出会うと、驚きがあります。 ものすごく当然に承認を求めてる自分(承認を求めるのが当たり前と思ってる自分)があり、それは詩作においてはどうでも良いこととして、ほとんど忘れているのだけど、この作品では微妙だな。 もともと後半のみの作品だったのですが、後半に自信があったのに承認を求めて前半を付け足してしまったのか、おっしゃるように前半があってはじめてそれなりな作品となれるのであり、そのことを自分で気づいていたのか、(楽しく)考え込んでます。 (10月分 藤井のフル選評 「ネットの海の端くれで」)

2018-11-02

stereotype2085さん ありがとうございます。私はスペルを覚えるのが苦手でして、もし間違ってたらすみません。 なるほど。 投球に喩えると、この詩はいくつかの球種や球速を混じえた配球で、120キロの速球を160キロに見せ掛ける技術を使っているのかも知れません。 最終連、評価して頂き、嬉しいです。 (雑談と「ままならぬ恋の詩」)

2018-10-25

前半がうまく機能していないように思いました。 切りつめて、また、ストレートにしても良いように思います。 (例) 白色の花と朔月の真夜中に目印を付け、ずっと待っている始まり、十二の弦を張り替え奏でる他に、生があることを知れない。 誰かが金字塔を打ち立てても東京の夕暮れは変わらず再び暗渠の奥へとゆく。 出口にあるはずの朝焼けからひとりだけ、ひとりだけのユキがいる。 中盤、後半の流れは、感じよく思います。 語り手の、少しヌルイ感じがすーっとキープされてて、最後のほうは粋な雰囲気だと思います。 最近のモテる男子の特徴として、「死んだ魚みたいな目」というのがあるそうですが、沢田研二とかも昔からそういう目でした。 一瞬下を向いた時に、そうじゃない目をチラッと見せたりとかするわけですが。 この詩もチラリズムの詩なのかもしれません。 (コーヒーを飲もうか。)

2018-10-24

かるべさん ありがとうございます。 作者としては、前半と後半では、カメラの位置(視点)と語り手の関係を変えてるつもりですが、効果は明瞭ではないかもしれません。語り手が交代する、或いは語り手が消える(または語り手の属性がそぎ落とされる)、とも読めるかもしれません。 読み込んで頂き、嬉しいです。 構造を作った事が、奥行きみたいなものになってるといいなあと思います。 ひとを恋うる歌、ユーチューブで聞けるのですが、男性というものへの先入観や前提が揺らぐような歌い手が歌うと、一味違いますよ(^^)v チャ子さんという方ですが、オリジナルの歌を歌う方で、この歌はめったに歌わないそうです。 (雑談と「ままならぬ恋の詩」)

2018-10-23

待てよ(;-ω-)ノ これ、ホントに完璧なのかも知れないな。 「あのこ」の死をどの重さで読むかだけど、僕はこの春、大本萌景さんのライブ動画を繰り返し観ていて、なんかお留守のふりしていたい気持ちがしてました。 そんな時もあるし、もっともっとキツイときもありますね。 (仮死)

2018-10-22

とても良いなあ、と思いました。 平仮名も効果的で、「死んだら」ではないことにより、言葉にくっついた色や湿度が脱色されて、どこか遠くから聞こえてくる声みたいになってる。言葉の素材化がうまくいってると思いました。 少し気になったのは、説明しすぎなのてはないか、ということでした。 「しんだら きれいなものになれる」が冒頭でいきなり内容を説明してしまうし、そのあと繰り返されるので、強すぎる感じがします。 さらに、最後の2行も、全体とタイトルを説明してしまう。 そんなことを思いながら再読してみたのですが、例えば最初の行を削るとどうなるかなど、考えてみても、これは構成が緊密で削れないですね。 この詩はこれで完璧なのかも知れないけど、どこかをもう少し読者に委ねて、説明を控えると、より魅力的になるのかもしれません。 (仮死)

2018-10-22

るるりらさん ありがとうございます。 ロシア系のひととか、銀色の瞳の日本人のひとって、割りと居るものですよ。新潟あたりの別嬪さんとかに。 気がつくとドキッとしますな(^-^ゞ 合体ミチコは、なんかもう太陽の塔みたいなもんで、大したものですな。 皇后陛下の末永いご健康と、お静かな日々を祈念します。 (雑談と「ままならぬ恋の詩」)

2018-10-22

こんにちは渚鳥さん コメントありがとうございます。 拝読して、嬉しく思いましたし、はっとさせられるところもありました。 私にとっての言葉は、時々、盲人にとっての杖のようなものであったりするのかも知れません。 地下水の匂いのフレーズ、自分でも気に入ってます。 (雑談と「ままならぬ恋の詩」)

2018-10-21

こうした詩の難しさとして、 「そこ、気づいたのなら直せばいいじゃん。直しちゃうなら、直す前に書いても意味ないじゃん。」 と、いう感想を持つ人もいる、ということがあるように思います。 現実にはそういう無粋なひとはごく少数で、それを気にしないほうが良いのかもしれませんが、私は上述のように思ってしまう一人です。 たぶん感傷(センチメイント)という事なのだろうと思います。 感傷は何も改善しないし、この先ダメになってゆくことも、ダメになってしまったことも、今一時だけダメなことも、区別しないで平等に、そのまま見つめる。 ただ詩情だけでそれを乗り切る。または、詩情に逆らわない。 そうした作品として、まとまりが良い、という所には、この詩の良さがあると思います。 よく言うと、ヴィヴット。若い感性がないと書けない詩かな。 (Sunday Afternoon)

2018-10-21

詩を書くことに躊躇いや恥らい、その他ネガティブな想いを抱いて、詩を書いている他者にそれを示そうとする人が現れるのは、インターネットの特徴の一つに数えられると思います。 それは現代的で新しい現象とも言えるし、ネットの詩のサイトでは見慣れた風景とも言えます。 でも、詩(純粋な詩?)と詩作そのものを蔑まず、詩をツールとして使うことへの嫌悪ないし自己嫌悪に特化して作品化するのは、斬新で面白いかも(^^) それをやると、この作品が示してしまうように、自己承認を求めるツールとして詩を使うことへの否定になる、そしてそれはより深い矛盾を含む、ということは、私にとっては発見でした。 確かに詩をコミュニケーションのツールと考えることへの否定は、通説とか常識の地位にある、人気の思想だと思います。 でも、そうした考えの人々の多くも、自己承認のツールとしては否定してないのではないでしょうか。 自己承認は、まあ、求めるよなあ、と私は思います。 そこを否定しちゃうというのは、斬新ではあると思います。 (『藤井龍平の肉迫』より。)

2018-10-21

stさん こんにちは。お久しぶりです。 コメントありがとうございます。 昨夜私は盲目の老いた(というにはギリギリ早いか)女装者と、ライブをご一緒したのですが、そのひとが素晴らしい技巧のギターと、セクシーな美声で、与謝野鉄幹の「ひとを恋うる歌」を歌ってくれたのがとても印象に残りました。 惚れたかもしれない(^^) 「一を恋うる歌」は、ユーチューブとかで聴くと全然面白くないのですけど、そのひとが歌うとなるほどなあ、と沁みました。 (部分) あゝわれコレッジの奇才なく バイロン、ハイネの熱なきも 石を抱きて野にうたう 芭蕉のさびをよろこばず 「柔肌の熱き血潮に触れもみで淋しからずや道を説く君」 とエロく歌う晶子に、これでは負けてしまうわけですが、敗北にも美学はあります。 今回の拙作は、鉄幹の熱にすら遠く及ばず、芭蕉のさびにも甘えたかも知れないなあと思いつつ、ご指摘の構成においては、私なりに頑張れたかも知れません。 ありがとうございました。 (雑談と「ままならぬ恋の詩」)

2018-10-21

こうなんと言うか、投げやりなようで繊細。磊落のようで前向き。粗雑なようで構成的。 どうにもならない運命への諦めを背景にした美意識の一つに「意気(粋)」というのがありますが、そんなのを感じました。叙情的。 (癒ゆ)

2018-10-21

こんにちは。 この作品は詩としては、素直に面白く読みました。私はこれは詩なのではないかと思うので、面白い作品だと思うという結論になります。 ですが、このサイトは「詩ではないもの」をも曖昧に応募しているので(設立以来のコンセプトですが)、以下にすこし回り道しなければならず、個人的に面倒に思います。詩を応募していたなら、以下は述べる必要のないことなのです。 このテキストは、エッセイか小説として眺めたとき、甚だしく文が下手です。 その部屋は、時計の秒針の音が常にしていた。(完了) わたしはその音がとても苦手なので(時間を意識し過ぎてしまうからだ)自分の部屋には時計を置かないようにしている。(現在) しかし、その部屋はずっと音が鳴っていた。(過去) まるで、鳥が柔らかくて削りやすそうな木を見つけ、くちばしで木の側面を削っているみたいな、規則的で実際的な音がした。(過去) 『カチカチ』『カチカチ』 わたしは時計を探した。(過去) その部屋は、壁も家具も白で統一されて(受け身)いた。(過去) 小さなソファも、化粧台も、テーブルも、座布団も、ベッドの枠も、ベッドカバーも、全てが白だった。(完了) わたしはここが何処だか分からなかった。(過去) これでは、いつ起きたことを、どの時点から誰が語っているのかわかりません。 また、その部屋をそのように誂えたのは他人で、あたかも閉鎖病棟に幽閉されるように、閉じ込められているかのようですが、これに続く後半を読むと語り手の意思でこの部屋を調整し、ここに閉じこもっているようにも読めます。 しかしこうした下手な文により生まれる混乱した雰囲気が、積み重ねられて次第に切なさや悲しさのようなものを表してゆきます。 また、白さの積み重ねも絶望の美しさみたいなものになってゆく。 ここでは、文の破綻が詩としての面白さになっているなあと思いました。 それと死番虫でしょうか。見えない時計は最後まで説明されず、効果的な主題として狂気を高めてゆく。 その構成は技巧として上手いと思いました。 (白い部屋の秒針)

2018-10-21

かるべまさひろさん ありがとうございます。 男女を書き筋で異化するとは、語り手に関する解釈でしょうか。 味読していただき、嬉しいです。 (雑談と「ままならぬ恋の詩」)

2018-10-21

三浦さん 私はこの場で最も有益な文芸理論は、「限界芸術論」だと思っています。 その帰着する方法論は、ラスチ人協会、農民芸術要綱概論、ブレーメンの音楽隊等で賢治が示した理想的な合評であり、なるほど選考ではありません。 また、限界芸術論がこれまでの歴史的史な成果としたのは、農民の鼻歌の中に現れる、無名の天才の作歌を、作者不詳の民謡にまで高めたことであり、今後見込まれる成果は千年に1人の天才を召還する、千年の宴の実践です。 それも選評によってはなされません。 伝わったかどうかは知らないけど、私はあなたに繰り返しそう語りました。 しかしそれは私の勝手な考えですし、選評を嫌いだとか思ってないですよ。 選評は選評で、するのもされるのも全然嫌ではないです。 むしろどうして嫌なのか理解できません。 そういう私をあなたがどう理解するかはあなたの自由です。 でも私の気持ちはそうです。 (選評 詩についての詩は、一生に一つ書けば良いじゃないか)

2018-10-10

羽田さん、三浦さん、こちらこそ作品を読ませて頂き、また交流の場をご提供頂きありがとうございました。 三浦さん 誤解があるようですから、以下で少し、それを解こうと私なりに務めてみます。 (選評 詩についての詩は、一生に一つ書けば良いじゃないか)

2018-10-10

藤一紀さん ありがとうございます。 冒頭は、6、7、7、7と始まりますが、作者も気に入ってます。 私は3と4の戦いに惹かれるところがあり、それが関係するのかも知れません。 例えば、  わたしそれが  とても好きなの (3、3、3、4) と、いうのは気持ちよく感じます。 「の」への着眼も嬉しいです。 「の」の偏った出現と、ご指摘の箇所でのリフレインが、この詩のリズムとして伝わり、この詩にも生まれてきたかいがあったなあと感じています。 (オルガンの死)

2018-10-09

ふじりゅうさん コメントありがとうございます。 2連3連を性交解の表現と解釈する読み、嬉しく思います。 子どもの頃は、小さな刺激も大きく響くので、他愛ない思い出も性交のようでもあると思います。また逆に大人が経験する性交は、子どもの頃の他愛ない交流で比喩されうるものなのだ、と作者も感じています。 3連がオルガンへの皮肉という解釈も、ありがとうございます。 (オルガンの死)

2018-10-08

訂正します。 黒髪作品へ × がなければない ○が無ければならない 友達 作者名 羽田恭 が抜けました。 失礼しました。  (選評 詩についての詩は、一生に一つ書けば良いじゃないか)

2018-10-08

こんにちは。 今日はこの詩を読めて、私は嬉しいです。素敵な詩だなぁおいっ!って感じです。 今、「ビブリア古書堂の事件簿」というラノベを読んでいるのですが、その一冊、ちょうど読み終わった五巻が寺山修司の詩集を巡る事件という設定です。 寺山はそれを二十代の若さで死に瀕した病室にいたときに出したのですが、非常に広く美しい空を歌っています。 登場人物の一人がそれを不思議がって、とても病室で書く詩てはないのに、ととうシーンがあるのですが、名探偵がそれに答えて、寺山のフレーズを引用します。   どんな鳥も、想像の翼より高くは飛べないだろう この詩を読んで、寺山のその言葉を想いました。 (虹よ)

2018-10-08

stereotype2085さん コメントありがとうございます。 私はひたすら速度だけの豪速球や、絶対にキャッチさせない変化球にも自信(当社比)があるのですが、機会がありましたら、そうした作品もお目にかけたく存じます(^-^ゞ この作品では、ご指摘の通り、ひたすらコントロールの精度を磨くような詩作をしてるのかな、と作者も思います。 読み返して、例えば(幸福な眠りに落ちてゆくのだろう)というフレーズがありますが、ここは対面での合評にもってゆけば、十人中六、七人からは言葉選びが甘い、とお叱りを頂く所かと思います。 幸福な、という形容詞が響き過ぎて他の言葉に影響しているからです。 でもそれを(静かな眠り)とか(穏やかな眠り)にはしないところに、私の修練があるのであります。 そういう意味で、これはコントロールの精度をといたい作品であり、コメントは光栄です。 ダイナミックな解釈にも深謝です。 (オルガンの死)

2018-10-08

沙一 さん ありがとうございます。 私は花言葉には驚かされることがたびたびあります。 花言葉を知らずに詩を書いて、人にご指摘頂いて調べると、まさに作者の意図の通りみたいなことが頻繁に起きるのですが、記憶の奥にしまいこまれて忘れていた知識がそうさせるのか、本当に知らなかったのだけど、人類共通のイメージがあるのか、いつも不思議に思います。 複数の方からコメントを頂き、おかげさまで、作者にもようやくこの詩が見えて来たのですが、イチジクと「はだか電球」は、繋がるようにも思いました。オルガンという言葉のどこか尊大な響き、そこからの老人の死の連想も、有り難く思います。 (オルガンの死)

2018-10-08

エイクピアさん コメントありがとうございます。 イチジク・クリニックは、作者もその言葉をこの詩に使うことを思い付いたとき、ひとりでドヤ顔になっていたあろう言葉です。引っ掛かりを持って頂けて嬉しいです。 子どもの頃、私はピアノが欲しかったのですが、裕福ではなかったので買ってもらえませんでした。 代わりに買ってくれたのが安価なオルガンで、私はそれでピアノの練習をしました。当時はまだ電子ピアノも高価なのしか出ていなくて、仕方なかったのですが、タッチも音も違うし、鍵盤の数も少なくて、残念な思いもしましたが、買ってもらったときは嬉しかったのだろうと思います。 この詩は全編をいきなり思い付いたものを紙に写したものですので、作者もまだこれがどんな詩なのか解釈できていないのですが、オルガンという言葉との器官・臓器という意味は作者の意識にもありました。 人物の名前とする解釈も、その場合、全体と部分が交錯する効果のご指摘も、有り難く拝読しました。 (オルガンの死)

2018-10-08

あ、鈴木海飛さんに賛成。 鈴木さんと僕で意見が合うのは珍しいよね(^^) 、そして誰かを大賞に推すときも自分の好きを通す。 これは大前提。いちばん好きな作品でないものを大賞ノミネートに推挙するのは当然すぎて明文化が不要だけど、当然にダメダメだと思うのです。他のひとが、その作品を推挙するかしないかと無関係に、自分の感じ方考え方で選考すべき。 それは大前提でしよう。 私としては、そんなの当たり前だと思ってますが、今回は実はそこがポイントなのでは? そこはハニキヌ着せたり、気をつかったりしないで、運営としてビシっと言うべきですよ。 準大賞は、大賞と競り合った事実がないと、看板に偽りあり。と思うので、せいぜい1、2作品が良かろうとの私見。 とにかくいちばんいけないのは、ルールをコロコロ変えること。 それと、ルールがわかりにくいことだと思います。 「ガイド」に選考ルールを入れたり、トップからリンクするのが、いちばん大事なことだと思うなりよ。 (《ビーレビへの意見とそれへの議論を書くスペース》)

2018-10-06

(ノミネート」受賞扱いをイメージします。 その意味で、推薦を受けた作品は全て準大賞で良いのではないでしょうか。) ここも間違えました。 すみません。 大賞に推挙された全作品を、ノミネート賞としては、と提案します。 グレードは3で、準大賞より一つ下です。 (《ビーレビへの意見とそれへの議論を書くスペース》)

2018-10-06

佳作は、3ではなく4でした。 (《ビーレビへの意見とそれへの議論を書くスペース》)

2018-10-06

こんばんは。最近ご無沙汰してます。 まず賞の名前ですが、私もわかりにくく感じますし、推薦はやめたほうが良いと思います。 案としては、 1大賞 1から数作品(同点の場合両方受賞) 2準大賞 次点作品(大賞複数の場合、次点なし) 3大賞ノミネート賞 大賞に推挙された全作品 3佳作 審査員が褒めた全作品 です。 これまでの「優良」というのも、私は言葉としてあまりピンと来なかったのです。その作品は大賞を競えないのですから。 ベストに推薦しないけど、イイと思うよ!ということでしょうから、それには佳作という言葉が合うように思います。 これまでの推薦というのは、大賞に推薦していないのですから、それも佳作なのでは、と思います。 ベストに推薦したものは、アカデミー賞などの「ノミネート」受賞扱いをイメージします。 その意味で、推薦を受けた作品は全て準大賞で良いのではないでしょうか。 投票は、大賞を決めるためのものでしようから、ノミネート作品から大賞になりそうな上位だけで良いと思います。 5も悪くないけど、たぶん4か3のほうが割れないですよ。十は多くてあまり効果的ではないです。 あと、サイト名は、変えたほうが良いかもです。 もし変えるなら、検索ヒットを上げるためにも、このさい「詩」という言葉を入れてみては? あと、選考の仕方を「ガイド」に書いたほうが良いです。例えば私など、どうやるのかもう忘れています。 選考ルールは、トップからもガイドの当該箇所にリンクしたほうが良いと思います。 (《ビーレビへの意見とそれへの議論を書くスペース》)

2018-10-06

私もBReviewには大変お世話になりました。楽しかったです。 ありがとうございました。 インターネットでも公共概念はキーになると思うのですが、オフィシャルではなく、パブリックを、という想いを私は何度も感じてきました。 ここは日本のネット詩史の上で、「パブリック」な交流を実践した最先端のシステムの試みであり、最良の場だったと私は思っています。 今後につながるのであれば、今後の参加者自らの成長も、店主の裏方化も、英国の酒場「パブ」がそうであるという在り方を思わせます。 3人共に辞めると聞いて、思わずお引き留めしたくなったのですが、初代経営陣が消耗しきる前にオーナーとOBになるというのも、なんか面白いかも知れません。 BReviewが今後益々発展しますように祈念しますとともに、花緒さんの文学的冒険に豊かな稔りがありますよう祈念します。 (退任のご挨拶)

2018-08-05

stereotype2085さん ご丁寧な返信ありがとうございます。 私は、あなたを不快に思ったことは記憶していないので、海江さんのコメントを確認しました。 詩の作成方法や理解の方法は、人それぞれなので、私は私なりの考えもあり、それを述べることをあまり躊躇いませんが、他者の方法について感情的にどうこうはありません。 読み直すと確かにキツイ言葉遣いになっていて、申し訳なく思います。すみませんでした。 また、贋作詩人チャタトンについては、説明が不十分でした。 贋作は、現代では認められた一つの方法です。チャタトンは早すぎたために、また年齢に見合わない才能がありすぎたために迫害されました。 私はチャタトンの伝記を確か昨年読んだのですが、その伝記作者もチャタトンに対する特別に深い愛によりそれを編んでおり、英国の著名な詩人たちも、多くの賛辞をチャタトンに捧げています。 私自身は自分の得意な方法とするところではありませんが、否定はしていません。 (サンプリング)

2018-07-23

すみません、一つ自解を付けます。 私の所にビラブドという言葉がやってきた来歴ですが、複数の経路のうちの重要な一つが、トニ・モリソンの長編小説「ビラヴト」です。 トニは、1993年にノーベル文学賞を受賞したアフリカ系アメリカ人女性です。 単語はそうなのですが、この作品とは関係しないと思っています。 (ビサイド)

2018-07-22

誤) 私はパスティーシュはいい加減に引用するケースがあります。記憶で引用し、その際間違えが起 正) 私はパスティーシュを作るときは、いい加減な引用をするケースがあります。記憶で引用し、その際間違えが起 失礼しました。 (サンプリング)

2018-07-22

いまね。ほんたう、という単語に鳥肌が立ちました。 ありがとうございます。 (道は遠いです。) (ビサイド)

2018-07-22

以下は全て私見ですが、法的にも倫理的にも責任は取りません。参考にのみして下さい。 これは私は、ゴダール監督の映画における引用手法である「パスティーシュ」を連想しました。 パスティーシュというのは、一種のサラダです。 キュウリも美味いし、緑豆もトマトもレタスも美味しい。 でもサラダには、包丁技術、組み合わせの手際、そして何よりドレッシングがあり、キュウリそのものとは別に評価されます。素材ではなく、料理人が。そしてその味わいを確かめる(批評する)うえでは素材が。 ゴダールは、膨大な詩、批評、哲学書などからフレーズをサンプリングしますが、引用を改変したり、組み合わせたり、さらにはクレジットを(恐らくわざと)不完全にしたりと、元ネタを乱暴に扱います。その手際(の悪さ?または良さ?)を含めて、ゴダールらしさです。 そしてそうした手法を多用した彼の映画は、カンヌ国際映画祭で、かなり古い時代から昨年だかの新作まで、通ってしまってます。 まあ作者の責任でして、ゴダールも私も、この作品の適法性には無関係ですが、私はパスティーシュはいい加減に引用するケースがあります。記憶で引用し、その際間違えが起きることに、むしろ意味があると、私自身は考えるからです。 さて、作品としてですが、今ひとつインパクトが低いかなあ、と私は感じました。 もっとフレーズとフレーズの切断面を活かしたほうが良いように思います。異質さが際立つ並べ方とか。意味が変わってしまう並べ方とか。 サラダで言えば、トマトとレタスは大きく違うからこそサラダの面白さがあり、トマトの単独の味わいはときには犠牲にしても良いわけです。この詩は少し親切すぎかな、もっと乱暴でいいかな、と。 とはいえ、素敵だな、はどの言葉が素敵なのかを、うまく壊してると思いました。 また、サラダで言うところの包丁技術。すなわち切れ味。ここ切ってきたか!という感じ。引用に驚きが欲しいです。 それとドレッシング重要です。 作品全体を作品たらしめるため、自然な足し算からは出てこない、歪めて味付けるものが欲しいです。 以上、私見です。 その道に詳しくはないので、自信はありません。 (サンプリング)

2018-07-22

真夏の白すぎる光のなかでは、暗闇やよりむしろ幽霊に会いやすいというか、いや、そうは言えないか。会いそうな気がする、とでも言うような気分になります。 熱中症ぎみってことかな。私(読者)が。 そんなとき、会いたくない幽霊より、会っても悪くないとか、良い悪いじゃない幽霊のことを考えられるってのは、ある意味で幸せかなことなあと私は思うのですが、死に近づくようで、幸せに感じることが少し怖くもあります。 静かな味わいの恐怖。 ひさおとらん(字がわかりません)の、真昼の放浪を描いた小説のような、微かなズレを愉しんで拝読しました。 切なさの、品位ある表現と思いました。 (夏の木陰)

2018-07-22

流れがとても心地よいと思いました。思考の展開が自然でのびのびしてると思います。 例えば進化論で有名なダーウィンは、冒険旅行から帰った中年以後は百歳近くで死去するまでミミズの研究に没頭しましたけど、彼が行った実験の一つに、ミミズにピアノを弾いて聴かせたものがあります。 その結果、ミミズは耳がないけど、どうやら音は聴こえる。でも音楽は解さないようだ、と結論してます。 そんな風に、またこの詩みたいに、鳥とかって何考えてんのかなー、と思ったり、我々もするよなー、と思いました。 ダーウィンは最後までやり切るタイプだし、この詩も突き抜けるカタルシスまでやっちゃう詩作もあり得たとも思うのですが、こんな風に、アンチ・クライマックスに、ポンと置いてしまうのも、なんかイイな、と思いました。 (カタルシス)

2018-07-22

藤 一紀さん、ありがとうございます。 方法と思想を作品から読んで下さり、嬉しいです。 これは旧作のリライトなのですが、いまそれをやりたくなったのは、物理的な時間関係とは数日から数週間矛盾するけど(私は詩作は、日常的に、頻繁に、予知すると思っています。)、麻原の処刑に、残された者の心の在り方の側面から関心を持ったこと(持つこと)や、自分の身内が他界したこと(すること)と関係したと思っています。 ひとは色んなことを「とにかくそうなんだ」で乗り越えて生きるし、それはなかなか愉快なことです。そうとばかりは言えないにせよ、その側面だけ見れば、それも一つの明るさだと思っています。 まどみちおの「りんご」という詩があり、私の憧れです。あんなふうに、とにかくそんなんだと書けるとイイなあ、と思っています。 (ビサイド)

2018-07-22

ankoさん、ありがとうございます。 この詩はささやかな、ごく小さい作品だと自分で思いますが、こんな小さな気づきでも、伝わって嬉しいです。 (ビサイド)

2018-07-22

るるりらさん、コメントありがとうございます。 ビサイレント、ありましたね。 あれは当時中高生かつ当時から言葉フェチだった僕には、激しくエロかったです(^^) 今日は妻と喧嘩しました。たぶん私が悪い。そして今は、漱石の我輩は猫で【ある】を読んでいます。 Be動詞について、また考えてます。 (ビサイド)

2018-07-22

まりもさん、ご批評ありがとうございます。 ごく見慣れた物、例えば車のバックミラーとか、シャーペンとか、例は何でも良いのですけど、眺めていてふと、あれ?これ何だろう?と、何か異変のようなものを感じるときがあります。 観念にも似たことが起き、例えば「長さ」という観念が、ふと独り歩きしたりすることも有ろうかと思います。 言葉というもの(事?)にはそういう側面が割に強くあり、ある単語が普段見過ごしていた相貌を見せる時があって、そんなとき、おっしゃるような、何だろう?と思うような「ざわざわ」感を持つように思います。 この詩では先ず、ビサイドというカタカナの言葉が、ムカデのような姿で(直感的な喩えですが)私には感じられました。 (ムカデは夫婦二匹いると言い、一匹殺すときは、もう一匹に警戒します。喩えるなら、そんな想いです。) そんな風に、完全には把握できない生き物としての未知を隠した単語を、叙情してみようとしました。 ぞわぞわが伝わって、嬉しく思います。 (ビサイド)

2018-07-16

花緒さん、ご批評ありがとございます。 この詩は、かなり以前に書いたもののリメイクです。私は自作品を読むことが下手なのですが、時間をおいたために、この詩の場合は、作者としては距離をとって眺めることが、比較的可能な作品のつもりでいます。 そこで、コメントを頂いて作品を読み直したのですけど、作者としては、ミスによって分かりにくくなってる箇所は無いように思いました。 コメントを拝読して、どうもテキストの意味のレベルで伝わらない部分もあるような気もしたのですが、それは一つには相性かなあ、と思いました。もう一つには、意味を語る文体を用いて、実は意味ではないものを表現しようとしたフレーズや構成もあり、それは必然的に読むひとに戸惑いをもたらすかも知れません。 また、その逆に、言葉遊びのような形で、意味を表現したところもあります。 これらは一種の(あなたに対してはスベってしまった)ユーモアと思って頂けると、実情に近いかもしれません。 意図としては、死別やその他の離別 を宿命として受け入れた上でのラブソングであり、ある言葉が持っている叙情性を表現しようとしたものです。 (ビサイド)

2018-07-16

上記ニ作品を、全作品を審査していないし条件下での最高賞に推薦します。 大賞一作でしたら「るーしー」を大賞に。 大賞を推挙できないのでしたら、それに次ぐ優秀作品に、二作とも推薦します。 (【選評】笑顔はアートのお行儀です【一部作品のみ査読】)

2018-05-15

医師は、余命を告げた後でも、医療行為のことを治療と言います。 私事ですが、「治せないのに治療というのか」、と、違和感を持ったことがありました。  種を蒔くという行為には、治療ということとは異なる生命の根源的な活動に繋がるものがあると思います。 この作品では、治療ということが深められるわけではないのですが、種を蒔くということと並べて眺められる。 何かしらはっとするような思いがありました。 (ジニア)

2018-05-14

嫁という言葉が違和感としてよく効いていて、親しみを醸し出しつつ、完全には描き得ない実在の他者、その確たる存在感を感じました。 そのせいで、軽妙で不思議なやり取りも、すっと受け取れます。夫婦の愛として。 ラストの切り方も鮮やか。 とても良い作品だと思いました。 (入院)

2018-05-13

古いフランス映画の中の女優さんなんかの、なんとも言えない色気を、アンニュイ(倦怠と訳されます)という言葉で表現したりします。 それはメランコリック(憂鬱)ということを背景に置いているけどさめざめ泣くわけではなく、場面への向き合い方がクールな感じ。そして、破れかぶれでもなく、保たれて堪えられている感じ。 そんなのをアンニュイというのかなと思うのですが、この詩にはそんな感じを受けました。 好きな詩です。 なんか生きてく力を貰える。 場面の豊かさが良いのかも。栄養があると思いました。 (或いは)

2018-05-13

猫に目を向けられた私、そのため息、その立ち止まり(あるき出す前)。 そうしたことが猫の目に映るように、最小の言葉で綴られるように思いました。 でもちょっと、最小すぎかな。と、思いました。 たぶんですが、地面が書かれると違うのでは。コンクリートか、アスファルトか、土か、乾いていたか濡れていたかなど。 「私」はおそらく、視線を落として地面を見ていたのでしょうから。 直感的なコメントですみませんが、最終行は、るではなく、「た」のほうが余韻がでるのでは、とも思いました。 (この道の先)

2018-05-13

今日は。 描写が鋭く、楽しく拝読しました。 予感と予兆の季節の訪れを、小さな部分で啓示のようにキラリと光る美しい青で描いていると思います。 晴れる前の空。 そんな空もありますね。 (夏待ち、曇天)

2018-05-13

今日は。 難しい作品でした。僕には。 イメージや場面など、その詩が全体として表そうとするものが思い描けません。把握できない、という感じです。 また、感情の波がどこで盛り上がるのかもわかりませんでした。 作者様が自解しているように、短いフレーズの集積なのかな、と思います。 ですが、夢の中と、夢を思い出しているときと、こんな夢をみたいという想いを述べたフレーズが、その夢の中に流れる歌というものとともに、複雑な構成をなしているようにも思えます。 雰囲気や気分としては、拝読して心地よく、フレーズとしてもよく磨かれて角が取れているように思います。 音によって伝わるものが加わると化けるのかも知れません。 (青い街で見た夢)

2018-05-13

今日は。 内容は、カウセラーへのなんか納得できない感じを、結局あまり役に立たないというような「有効性」の観点から語った詩なのかなぁと思いました。 しかし語り口に微妙な心地よさがあり、ちょっとした明るさや軽さ、客観性みたいなものも感じました。 各行の長さを揃えたのがきいているのかも知れません。 ラストはカウンセラーの言葉を、皮肉な、または批判的な比喩で表現したのだろうと解しました。 その部分など、ちょっと、イキイキした感じがあるなあと思います。 言葉によって何かを届けてくれる詩だとは思わなかったのですが、誰かはどっかでいろいろ考えたり思ったりしてるんだな。と、作者の存在感を伝えてくれる作品でした。 (《 ソレ待ちカウンセラー、現在%d人待ち, it=comments 》)

2018-05-13

こんにちは。 拝読して、長すぎるな、という事と、全体に説明的すぎるのではないかなあ、という印象を持ちました。  (慟哭、今流れゆき)

2018-05-13

今日は。 拝読して、流れはとても感じが良いと思いました。 緩急というのか。 おさらムーム国と、場ルンバ国と、アクタ共和国について、僕も時々考えますが、この詩では意味を知らなくても感じが伝わるように思います。 百ppmは、アンモニアとかクロルピクリンなどの場合を除けば、自明に高い濃度ではないので、百パーセントのほうが良いようにも思います。 気分的なものとして、皆が同じ意見ではなく、それぞれが正義と考えるものを持って争うことへの他人たちへの残念な思いが、この詩に含まれているように思いました。批判というか。 私はそういう思いを共感しないのですけど、「もしそんな状況があれば、そう感じるかもしれない。」と、思いました。 (軽薄な自我か記憶無き散文か)

2018-05-08

あと、2連の最後がキラーフレーズだと思うし、それは悪くない感じなので、2連と3連を入れ替えたほうが良いように思いました。 内容的には2連を乗り越えて3連を出したいのかもしれないけど、2連のほうが詩情が美しいと思いますので、それを犠牲にして入れ替えたほうが響くように思います。 (恋という138億年のビートが詩になって)

2018-04-24

こんにちは。 一連目、音がスムーズじゃない気がしました。 朗読すると、出だしの「つ」と「っ」でカミそうになるけど、アクセントのような何かの効果になってないような気がします。たぶん、韻のくる場所のリズムが悪いのかも。 例えばだけど、ペンキより便器のほうが音的に並びがイイ(直感で言って)。 8音ごとにアクセントが来ることを、なんとなく意識してみては。 (恋という138億年のビートが詩になって)

2018-04-24

エイクピアさん コメントありがとうございます。 パウル・ツアランの孤独について、また彼の薔薇について、私も時々考えますし、この詩を書いたときも考えていたように思います。 (夜)

2018-03-28

まりもさん ご批評ありがとうございます。 この作品では、普通の引用ではなく、サンプリングした文のあったテキストのもとの文脈を無視したコラージュをしています。 しかし、読む上で不便であることに気づきましたので、以下に自解します。 「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である。そしてそのことがまた、今日詩を書くことが不可能になった理由を語り出す認識を侵食する。絶対的物象化は、かつては精神の進歩を自分の一要素として前提したが、いまそれは精神を完全に呑み尽そうとしている」 この部分は引用です。 「から、 私たちは詩を書こう それとも」 この部分は引用ではありません。 「聖母マリアを強姦しに行こうか」 この部分は引用です。 他に引用はありません。 通常の引用ではなくコラージュで示したのは、私(作者)の言葉として、作者の詩情のなかで語るためですので、まりもさんの解釈は嬉しいです。 ありがとうございます。 改造と、戦後における日本未来派に私も関心を持っていますが、不勉強で語れません。 また、宮沢賢治と土壌肥料分野の業績や限界については、準備不足で語れません。石灰肥料と窒素肥料のことで、また水稲の栄養生理を「やませ」対応を踏まえて理解することであり、準備すれば整理できるのですけど、今は語れずすみません。 結論だけ端的に言うと、賢治は土壌分析をして花巻の土壌マップを作った上で、当時の土壌学の先端から無理からぬ設計をしていたのですが、及ばぬところもあった、と私は思っています。 東北の稲作については、近年でも失敗を防げなかったことがあります。 それらの、頂いたコメントは今後のヒントにさせていただきます。 言葉そのものを暴力的に扱うことによりあることを示す、というご批評の趣旨、またそこからの展開については、作者ながら興味深く、また作者としてありがたく思います。 (夜)

2018-03-28

るるりらさん ご批評ありがとうございます。 同人誌で付き合いのある先輩の詩人たちが、第二次大戦のことをよく話してくれるのですが、日本では一夜で変わったのだそうです。 その前夜まで横浜ではダンスクラブで男女が踊っていた。 だけど次の日から、誰も彼もがそんなことは知らなかったかのように、体制に順応した。 恐ろしいことです。 1933年、何があったのかを私はすつかり忘れていて、この詩を書きました。 でもたぶん知ってはいました。 日本人は、ナチスが全権掌握する前に小林多喜二を殺したのですね。ファシズム先進国です。 そのことを私は知っていた(だからこそこの詩が生まれた)のに、ご指摘いただくまで自覚しませんでした。 先に進めます。いろんなことが見えました。 ありがとう。 (夜)

2018-03-26

藤一紀さん ご批評ありがとうございます。 カンパネルラがザネリを救おうとして死亡するのは、事故です。 ですが、ジョバンニがカンパネルラに質問して、カンパネルラが、「お母さんに申し訳ない。でも許してくれると思う。」というようなことを語るシーンがあります。 深い解釈をありがとうございました。 (夜)

2018-03-11

そう解釈するのは文学史的に妥当だと思いますし、上述のとおりでして、詩のレトリックとして解釈する上では、作者からはなんとも言えません。 (夜)

2018-03-10

さらに追記。 ここで布教活動してはいかんのでしょうけど、話の流れ的に、僕のお薦めのグルを一人上げるなら、宮沢賢治先生です(^^) (相対化する宗教の欠片~まがいもの~)

2018-03-10

追記 最後の部分。 神秘体験において、作者が適切なグルと出会う必要がある。の意です。 良い経験がないと、悪い経験も客観化できません。 (相対化する宗教の欠片~まがいもの~)

2018-03-10

設定としては、アーチャリー氏のことを少し思い出したけど、私は彼女の新教団のことは全く知らないので、この詩がどうなのかなんとも言えない。 田口ランディがオウム死刑囚について書いた本には、神秘経験を我々がどう考えるかについて、参考になることがありましたよ。ぐらいしか私に言えることはないですね。ごく簡単に言うと、適切なグルの指導に依らずにチャクラを解放すると身体もアタマも壊れちゃうし、悪い人になっちゃうよ、という事ですが具体的に書かれています。 この詩の、設定ってだけではない叙情ということにると、難しいな。 叙情というのは、人に何かの作用を及ぼす生命エネルギーや宇宙波動の実体化したものだ。とも経験から私などは思うわけです。てか、割と誰でもそう思うものだよね。 主題との相性が悪いというか、この詩の流れが美しいためには、グルが適切であり、素敵な人である必要があると思うよ。 (相対化する宗教の欠片~まがいもの~)

2018-03-10

このテキストには出典が示されていませんので、このテキスト(注を含む)のその文が示していることの言語学的な解釈としては、他のあらゆるテキストが出典の可能性があると解釈するのが妥当と思います。 文学的には、その注1で示したのは「夜と霧」ではなく、他のテキストを指していると解釈するのが妥当なのではと思います。 (夜)

2018-03-10

注1)アウシュビッツ以後〜 あるテキストからの引用 注2)聖母マリアを〜 別のあるテキストからの引用 (夜)

2018-03-10

論文を書く、という仕事のことを思いました。 百年後にも読まれる論文を、書くことはもちろん素晴らしい。 でも三年後には不要になってしまうほど、世界を革新する論文を書くことはますます素晴らしい。 人生と仕事について考えると、結局、真摯さってことに行き着きますね。 なんかしみじみする作品でした。とても良いなあと懐います。 (ROBOT TEACHER, WHAT CAN I WRITE?)

2018-03-09

今晩は。 この詩を私は、相当イイ詩だなぁ、と思います。 この一年ほどの間に、この掲示板で私が読んだ詩(一部しか読んでませんが)のなかで、五本の指には数えるだろう、と思っています。 明晰さが良いです。 苛烈な混乱や、大きな感動が背景に伺えるのですが、作品はしっかりしている。 それと、豊かさがイイナ、と思いました。 イメージの突き抜けた広さ(高さ、において)とか、言葉から空気になって満ちる青い色彩の美しさとか。登場する(イメージされる)二人の、生き生きした、心の動きや交流とか。 それとレトリックが素晴らしいです。 小細工ではなく、むしろ小細工を避けるようにして、傷と青空と、何か魂みたいなものとの間に張られた大きなレトリックの生み出すスリルが、素敵だなあと思いました。 (左手の蒼穹)

2018-03-06

高階杞一ね。 失礼しました。 (猫)

2018-03-03

こんにちは。 私はまだ今月の詩と思想を読んでいません。読んでまた、この詩については考えてみようと思うのですが、その前の私のコメントを書いておこうと思いました。 高橋源一郎はある批評で、短歌と小説両方に通用する歴史観として、「私」というものについての変化を述べています。 端的に要約しますが、彼は明治期には、「私」の輸入や獲得が短歌でも小説でもなされたと述べます。 しかし、そうした「私」は戦争で挫折し、戦後は「私」を疑うことが大きな流れとなります。高橋はそれを「私のモノ化」と呼んだりもします。 しかし、何故かそれがある時、終わってしまった。そうした「私」をモノ化する文学がなぜか唐突に書かれなくなります。高橋はそう書いています。 ここから高橋を離れ、私の意見ですが、現代詩では、それが1980年代に起きました。 その後現代詩はポップになります。「私」はその無力を断罪されるのでも、モノ化されて玩具にされるのでもなく、希薄になって行くのです。 しかし、それもニ十年続いたトレンドとして、すでに終わりました。 他ならぬ平居さんが、終わらせた一人だと私は思っているのですが、つまり、2000年ぐらいから、(やっぱこういうのつまんなくね)という意識が無詩の現代詩に向けられ、様々な形で「私」が復権してきたのです。 象徴的だと私が思ったのを3つ挙げます。 ひとつは現代詩手帖が山之口貘の特集を組んだことでした。 もう一つは、ライトバースの書き手である高階き一が、息子の死という私的な主題の作品化に成功したことでした。 そしてもう一つは、現在のこの時点ですら、「詩と思想」という「考える私」「社会的な私」を前提とした誌名の詩誌が生き延びたことです。 そうしたことを踏まえて、日本の詩は311を経験しました。 失われる私、死んでしまう私、というものは、本当には、どうでも良いものだったわけもなく、戦後から2000年ぐらいまでの文学史は決定的に古びたのだ、と、私は思うのです。 と、いうか、平居氏はそう思っているのではないか、ということに私は前から関心があり、こんどやはり会いに行こう、と思いました、今そう思ったのだけど。 さて、以上を踏まえまして、この詩についてコメントします。 私の読んだところでは、この詩は語り手のモノ化を前提として書かれています。 感情とか倫理観とかいう、私が「私」を世界の中心に位置づけて世界を客体にするためのツールは、放棄されています。 本当の意味での他者性、世界のよそよさしさが作品のすみずみまで充満し、「私」による統合(ここでは猫、または猫への同情)はありません。 つまり私によれば、これは古いのです。少なくとも「そのはず」だ、と考えられます。 しかし、実際読んでどう思うのかというと、もしかしたらこれが新しいのかなあ、と思いました。 ここでは「私」ではなく猫がひどい目にあいますね。猫の他者性を侵害せず、猫が不幸である世界を現しています。 無力であり保守的だけど、しかし実際、世界は「私」の思い通りにはなりません。それより、本当の意味での断絶した他者。引きちぎられてもその痛みを共有できない猫、という存在と同居している世界をそのままに受容することが優先するのかもしれません。 (猫)

2018-03-03

大丈夫ですね。 こんにちは、作者殿。 日本語には、文末の数語で主旨がまるきり変わってしまうという性質がありますが、この詩はそういう日本語の性質を上手く使った面白い詩だと思いました? 内容的にはナイーブな感じなのですが、表現は攻めてるというか、実験的な詩だなぁと思います。 (鰹節)

2018-03-03

テスト。 先程コメントを書き込んだのですが、反映されなかったので、テストコメントします。 (鰹節)

2018-03-03

今晩は。 出会いというのは、想像力を刺激するものだと思います。 どんな人なのかなあ、と考えながら、会話で探ったりするのでしょうけど、そういうこと自体が、楽しかったりもします。 しかし職業によっては、誰かと出会うとき、相手が死体であるということを日常的に経験するひともいますよね。 そういう場合も、やはり出会いは出会いで、ひとはそれを大事にするのだろうな、と思いました。 この詩の語り手は死体なのですが、私はそれを、解剖しているお医者さんの空想、と解釈しました。 そう解釈して拝読しまして、医師の優しさみたいなものを感じました。 私もこの解剖される女性に、なんだか優しい想いをいだきました。 (或る女の剖検)

2018-03-02

今晩は。 感傷ということをひとはしたくなるし、感傷的な作品に心を動かされる場合が、しばしばあると思います。 とくに若い人は感傷的な気持ちになりやすいように思いますが、年をとったらとったで別れとか絶望とか、感傷的になる機会にはこと欠きません。 しかし、感傷的な作品を書く技術というのはなかなか難しくて、北園克衛などはセンタメンタルの達人と呼ばれた詩人ですが、私などはセンチメンタルな詩を書いたつもりが、なぜかひとの怒りを買ったり、笑いをとったりしてしまうこともしばしばです。 いかにしてセンチメンタルな詩を書くかということ、それは詩というものの一部として、永遠に追求されることなのかなあ、と思います。 この詩は静かさがあり、雨音があり、切り詰めた会話があって、感じの良いセンチメンタルな詩だなぁと思いました。 表現としては、一つにはザーザーが横書きであることが、面白い効果になっていると思います。 雨は視覚的には縦に降るわけですが、雨音は横から来るような気がします。 もちろん、作者には選択の余地がなかったのかもしれませんが、私には横書きが効果になっているように思われました。 最後のフレーズの不可解な雰囲気も、なんだか暗闇を感じさせられ、しんみりしました。 (お星さまになった)

2018-03-02

くつずり ゆうさん ありがとうございます。 昨日私は、高橋源一郎氏の書いた「大人にはわからない日本文学史」という本を読んだところなのですが、この本は樋口一葉への批評が柱の一つになっていて、久しぶりに一葉の文に触れました。 一葉は学問は出来ませんでしたし、当時の最新流行の言文一致に背を向けた文体で、自分と同じように貧しい娘を描き、たった一年と少しだけ創作活動をして死んでしまったわけです。 しかし、圧倒的ですね。 どうにもならず、ひれ伏すしかない。 老若男女ひっくるめて、文学への知識のあるなし問わずに、全員薙ぎ倒す的なパワーが、一葉の文にはあると思います。 この作品はちっとも一葉的ではないかもしれませんが(^^)、 私の目指すことのひとつは一葉のようであることですので、ふだん詩を書いたり読んだりしない方にも届くと良いなあ、と思っております。 (アサダチ)

2018-03-02

誤字失礼しました。 見ていただけます○ (アサダチ)

2018-03-01

エイクピアさん ありがとうございます。 そうですね。 別のことでしょう。 サブジェクト(画題)を持つ殆どの絵が、おそらくは何か別のオブジェクトを持つように。 2月の拙作「トイレット・ペーパーの芯」が、ブローティガンのパスティーシュです。この作品の題名の横の、私の名前をクリックして頂ければ、見たいただくことができます。 (アサダチ)

2018-03-01

kaz.さん ありがとうございます。 口語自由詩は自由なので、目指すものがひとそれぞれ違う、と思っています。 あなたの作品をいくつか拝読しました。そして、私の作風とどんな距離にあるのかを考えたのですが、ベースになる地図(現代詩観)によって様々な観測の仕方がありますね。我々は9次元以上の構造を持つ宇宙で暮らしているのだなあ、とあらためて思いました。 北園克衛のコンクリートと、あなたの作風と、私の作風と、宮沢賢治を、どんな距離にプロットするか。上述のようにそれは地図によるのですが、昨年来私が贔屓にしている「限界芸術論」の地図は、純粋芸術と生活芸術(大衆芸術)を両極に置き、その中間に限界芸術の領土を置きます。 私なら北園の実験は純粋芸術の極北に、あなたの作風は南極大陸にポップアートやジャンル文学とともに、私の作風は賢治とともに南回帰線と北回帰線の間の密林に置くでしょう。 あなたはおそらく、別の地図に別のプロットをするのでしょうね。 芸術の面白いところは、ある地図で遠い地点も、別の地図では近くなることだと思います。 また、ある人にとって地理の分からない遠方の作品は、その人にとっては確かに評価はしにくい。 やはり地図を見るのと踏破するのは違いますから。 (アサダチ)

2018-03-01

こんにちは。 この詩は、寓喩として読みたくなるのですが、「詩」が何かの比喩なのか、詩が何かされたり存在したりするその動作のほうが何か別の行動や現象の比喩なのか、どっちかなあ、と思いました。 例えばウナギというのは、取りすぎだったのか、そろそろ絶滅が懸念されているようなのですが、生物として詩情がなくもないです。 この「詩」はウナギなのか。違いますよね、きっと。 それと同じぐらい勝手な空想として、もしかしたら「紙」かなあ、とか思いました。紙にもラブレターとか、0点のテストとか、破られた日記とか、本とか、いろいろありますが、ウナギと同じぐらいの速度で絶滅しかかっているのかもしれません。 述語のほうが比喩だとするなら、解剖的な批評が、詩を味わうことや、詩の命である詩情を楽しむことから乖離していることとかなのかなあ、とも思いました。 不思議な表現をした、綺麗な詩だと思います。 (思い出す詩のことなど)

2018-02-28

藤一紀さん ありがとうございます。 最近、「新しい小説のために」という批評書が気になっています。 分厚い本で、読めそうにないのですが、そこでは、近代文学と批評を見直して、ある対立軸が比較整理されます。 それは、書くということは、「このように書いたから、このように世界が作られた。」ということなのか、それとも「世界がこのように見えたから、このように書いた。」のか、ということです。 フィクションの批評は、もちろん前者を前提に書かれることが多いわけですが、どんなにそう論じられようと、後者の立場で創作していると告白する作家は現れ続けます。 私は後者であり、「作品において語り手と作者は同一人物である」、と、全ての自作品に脚注してかまわない、と思っています。美観を損なうのでしませんが。 そして、あなたが言及しておられる宮沢賢治も、そうした「作者」であり、語り手である、と私は思っており、私のこの作品も、メンタルスケッチ・モディファイドなのだと思っています。 最近、「永訣の朝」を繰り返し読みました。 それとこの作品を並べると、やっぱり少しだけ、照れちゃいますけどね(^^) (アサダチ)

2018-02-28

今晩は。 緊密な詩行、無駄のない言葉、注意深い構成といった、詩のボディが好ましく、ストレスなく愉しく拝読しました。 選語については、作者自身のコメントに反するかも知れませんが、私はこの詩の選語はスタンザを超えて統一感があると思いました。 例えば「距離」と「時間」の入れ替えを、あざとくなくやっていたり、「あまり」「ひたすら」など、詩語を意識するテクニシャンが避けるであろう言葉を、あえて無造作に使う(それによってわざとらしさを避ける)ところとか、色彩をイメージさせる言葉を限定的に用いてモノクロームな場面をつくり、「女」と「旗」そして血の2箇所のみでパーツカラーのように赤を表現しているところなど、(私の勝手な受容ですが)心地よく愉しみました。 表現で私が面白く思ったのは、手への意識の指向性です。 運命線、という言葉が、深く伏線となっていると思いました。 また手が繋ぐものであったり、何かを手渡す器官であることも、先人から我々の子どもたち世代への眼差しも、統一感のある表現となって主題を表していると思いました。 そんなふうに読んで感じたのは、共感ですね。 どんなに悪い時代になっても、誰かの家に集まって、小さな朗読会を開いたりすることはできると思います。 そうやって生き延びることが、来るべきときのレジスタンスか、または破壊後の再生につながるのではないでしょうか。 そんなことを思いました。 (    )

2018-02-27

蔀 県さん ありがとうございます。 ブローティガンをパスティーシュした詩では、「かっちりしている」、というご意見を複数の方から頂きました。 これはもう少し、ややフリーダムよりな感じの詩なのでは、と思っております(^^) 両方にコメント頂けて、嬉しいです。 詩であることを担保していない、というコメントを頂きましたが、それは私が個人的な詩論として心掛けていることの一つです。 思想に頼らず、形に頼らず、詩語に頼らず、熟語に頼らず、副詞や形容詞に頼らず、描写に頼らず、批評に頼らない。 ただミューズに頼るのみ。です。 エレガには頼るけど(^^) (アサダチ)

2018-02-27

こんにちは。 私もこの詩は、とても緻密に組み立てられた作品だと思いました。そして、緩急がうまく、畳み掛けも効果的で心に響きました。 加えて思ったことなのですけど、まず初読から私は、 「政治的思想に溺れる主婦」 と、いうフレーズに引っかかりました。 貧困の問題や、セイフティネットを弱体化させてきた近年の状況は、やはり政治的課題でもあると思います。 むろんその前に、個別の現実として、眼前にあるものを目に入れる、ということがあり、この詩の語り手はそこを語っているので、ここで語り手が政治的解決を語るのは違うようには思います。 しかし、上記のフレーズは、解決を遠ざけてしまっているように感じて、そこに違和感のようなものが私には生じました。 しかし、再読してみると、この語り手は、他のことについても、自ら解決への道に背を向けているようにも思いました。 例えば母の死についても、この叫びは自らを傷つけることに立ち止まっているようにも思えます。 気をつけて、そこを見ると、「私」が別行に置かれたフレーズも、あえて何もしない語り手を表現しているように思えました。 この詩には一枚奥があって、語り手の悲痛や混乱を隠さず率直に解き放ちつつ、しかし語り手への批判的な(もしかすると自己批判的な)、より大きな眼差しが全体の裏側にあるのではないか、とも思いました。 (ゴミ)

2018-02-26

こんにちは。 水死した父親である語り手が、誰かに送る怪文書。そこには自殺した息子や気のふれた妻が書かれますが、後半から最後は死そのものの詩といった趣だと思いました。イメージしたのはビジュアル系といって良いかどうか知りませんが、衣装や化粧や歌詞などに死を表現するタイプのロックでした。ヘビメタというのかな。 読んでいて、語り手が「詩」にこだわりをもつことを、なぜなのかなあ、と不思議に思いました。もちろん、詩に思いのある亡霊の語り手(書き手)だからこそ、作品の後半が出てくるのだろうともおもいますが、死んでまで様々なタイプの詩を試みる、前向きな亡霊というのがナチュラルな仕掛けだったかどうか、と思いました。 一つのスタイルに絞るか、様々なタイプの詩であることをキャラに位置づけるかすると、受け取りやすいかなとも思いますし、私が大きく読み落としたことがあるのかも知れません。 (安泰宛の怪文書)

2018-02-26

好きなところは、3連でした。 名探偵ではない自分。すなわち語り手でもなく、登場人物でもない自分。かと言って批評家でもない、作者が、ひとつの激情に耐えて、穏やかに立っているイメージでした。 社会は、そんなふうな個人でできてますし。 (社会)

2018-02-24

主題的に魔女の宅急便に通じるものがあるのかも知れませんね。 ひとは何度も何度も成長します。 でもひとつのステージが終わるごとに、感慨はあるし、それをセンチメンタルに感受するか、ドライに眺めるか、雨の日に缶ジュースを飲むような内面的な経験とするか。 その反応の仕方もステージごとですね。 初々しさがこの詩の魅力だとすれば、二連は少し硬いかな。 地を出そうとして緊張してしまった感があります。そこが流れたらリズムが内向的な詩情を生んだのでは、と思いました。 (社会)

2018-02-24

蔀 県さん ありがとうございます。 ブローティガンは茶目っ気やサービス精神に溢れているように見えるところと、猛烈にマイペースなところが混ざっているところが魅力だなぁと思います。 僕の好きな詩では、彼が酒かなんか呑みながらだと思うけど、ロウソクを見ていて、ロウソクの外と中をひっくり返すことを思いつくんですね。 で、彼が勝手にそれを想像して、イイだろ?とか言って詩が終わってしまう。 こんなのアリかよ!と思うのだけど、実際に想像するとものすごいことになるんですね、読者の頭の中が。ブローティガンはとっくに詩を書き終わってあの世で知らんぷりなのに(笑) 僕はもう少しイサギ悪く、もう少し長生きします。そしてもうちょっとネタを割る(^^) 偉大な詩人の作風と比べて読んでくださり、光栄です。 (トイレット・ペーパーの芯)

2018-02-23

るるりらさん 素敵なご批評ありがとうございます。 あなたが、書かれたそのコメントのようなものこそを詩の批評というのではあるまいか。そうしたものを書きたいものだ、と私は思うのですが自分では書けたためしがありません(^^) 詩を生きること。 そのささやかな生活を、まあせいぜいのんびりと、楽しみましょう。 この小さな詩が、しばしのあいだあなたとご一緒できて幸甚です。 (トイレット・ペーパーの芯)

2018-02-23

コメントしてから思ったんですが、1999、2011、2017は素数だったんですね。 そして1984は素数ではなかった。 素数であることに、それがどうという格別の思いは私には無いのですけれど、この詩にはそこになにか、静かな語り(むしろ沈黙)を感じます。 (カズオ・イシグロ)

2018-02-19

2つの点で面白かったです。 一つは改行。 この作品は改行されていないのですが、スマホで縦表示で見ると、最終行までピッタリと並んでいます。 半角数字四桁は改行されないとか、表示の仕組みをいろいろ知ってるひとが工夫したのでしようけど、どうやるんだろう、と思いました。 もう一つは素数の出現率です。 素数と素数を掛けて素数じゃない数ができるわけですから、大きな数になって行くほど素数じゃない数が出現しやすくなって、素数は出現しにくくなりそうなものですが、二千代までを百づつ眺めると、おんなじようにたくさん出現してますね。 (カズオ・イシグロ)

2018-02-19

ある場所に作品を発表する意味というのは、その場における常識の破壊にほかならない、と私は思っています。 一例を上げれば、ネット詩の今というシーンでは、「作中の「私」は作者ではない。」と、いう論が、あたかも妥当であるかのように流通していますが、これを文芸批評で誰が言い出したかというと、軽く五十年は前の論ですし、小説技巧だと、二百年ぐらい昔の生まれで、ホコリをかぶりまくりですわな。 そのまんま進化しないのかよ、と私などは思います。 背表紙を見ただけで未読ですが、「新しい小説のために」という最近の批評書籍では、作者と語り手の問題をモロに扱ってるようですし、学術としての文学は、いくらなんでも五十年寝たきりということはなく、もう少し進んでいるのでしょう。 さてこの作品ですが、もし語り手を作者と峻別して読みますと、語り手はバイバイと言ってるけど作者は去らないよ。とも、読めます。作者がこのあと、そうコメントしたらどうなのか?アリかナシか。 でもそれは、私の世代(ネット詩第一世代)の言葉で申しますと、 「ネタにマジレス乙」 と、言って言っているのと同じなのではあるまいか。 そんなのアリでいいのか? と、いうことがあろうかと思いますが、アリなんでしようね。ネット詩の今のシーンでは。 だけど、ナシだと見なしうる場合のみ、この作品の発表は芸術行為だと私は思います。 (さよなら、インターネット)

2018-02-18

今日は。 私もこの詩は、面白くないとは思いませんし、面白さの向こうにいろんな経験もあるのかなあとも思いました。含蓄が深い、みたいな、ですね。 でも表現について、私が自分で思っていることからすると、どうなのかな、という点があります(後述します)。それは私の考えだから、作者はそれと関係なくご自分の目指すものを書かれたら良いと思うのですが、感想の一つとして書かせて頂きます。 我々は、非常に頻繁にドラマ化されたものを観ます。テレビ・ドラマとか、ビデオ・クリップとか、お笑いコントとかですね。 その結果、現実と作り物の間に、あまり意識がいかくなっているところもあるような気がしているのですが、それが無防備に作品に出てしまうと、安っぽい印象になるのではないか、と思っています。 (引用) 愛」と書いた紙を丸めて 窓の外に投げ捨てました この部分なのですけど、これは現実にはやらなそうな気がします。 では比喩なのかというと、そういうことではなく、語り手が場面を演じているのだと思うのですね。 非常にビデオ・クリップ的だと思います。 そうであることによって、この詩は、想像の軽やかさにより、状況を乗り越える物語を差し出している、とも言えるのですが、、、果たしてそうかなあ、と私は感じてしまいました。 おそらくビデオ・クリップそのものは、自然に非現実的なのではなく、意識して、演劇的なのだろうとおもうのですが、ここでは、語り手が半分だけパペット人形に入れ替わってしまったような、感じがしました。 詩の在り方は多様なので、違う感覚や意見もあろうかと思います。 一つの感想として。 (誰かに愛されたいならば)

2018-02-17

破壊されたギリシャの彫刻が、連想されました。 トロソーとか、腕を壊されたミロのビーナスとか、サモトラケのニケとか。 メルとは何なのか、私もわかりませんでした。 メモリーに似た音の言葉だな、と思いました。 (メル)

2018-02-16

全部ひらがなで、句読点もないので、ぱっと見にはとっつきにくい感じがしたのですが、タイトルがパワフルで読みたくなりました。 夜が来たのだ、と私も感じます。この詩の語り手の知りえない、私の日常と私の精神における、私の隠喩において。 共感にむけて開かれた詩だなぁと感じました。拝読して、ほっと息をつく感じ。 (しらないものをさけることはできない)

2018-02-16

非常に注意深く、丁寧に言葉が選ばれていると思うのですが、「絶望感」という言葉だけが、荒削りだと思いました。 そこが良いですね(^^) その前後でユーモアが装われ、それが全体に伸びやかさや華やかさを、ごくささやかにもたらしていると思います。 その一語は、逆に全体を壊してしまいかねなかった、勇気のいる粗雑さであり、あざとさと紙一重の技巧だと、そんなふうに私は味わいました。 できることはやる、という感じの、力を尽くす、良い追悼だと思います。 (可愛くない犬だった)

2018-02-16

何だろう。 何故か惹きつけられました。 ある語り手が、あまり一般的ではない経験を語る。 語り手は太陽の落下を無力に見ている。それは当たり前のことだけど(地球は回るし、ときは流れるから)、語り手は当たり前ではないかのように見つめます。 また、鏡の中に、アフリカの凧を見てしまう。それはちっとも当たり前ではないのですが、語り手は当たり前のことであるかのように意識の焦点を移動させ、携帯が鳴るのを見る。 世界に対して、ここまでどうにもならん感を感じることは、僕にはないので、この詩は共感をあまり感じないはずなのだけど、感じますし、惹きつけられますね。 大雑把には、メランコリーと呼ばれる感情は、実は物凄く多様な、ほぼ個別な感情なのかもしれない、と思うのですが、何故か伝いあえる。 そして、メランコリーは詩情豊かに描かれると、何故か、美しくなりますね。 この詩も綺麗だなあと思います。 (未処理)

2018-02-16

二重送信になり、失礼しました。 ねむのきさん 今日は。 コメントありがとうございます。 13個も思いつくとは、素晴らしい。 お察しのとおり(かな?(^^))この数字は、私が実際に試みてみて、そこから無茶となる数字を出してます。また、もし2分に1個思いつくなら、3時間とすこしで、つまりは夜明け前に書き上がる数です。 (トイレット・ペーパーの芯)

2018-02-16

夏野ほたるさん ありがとうございます。 この詩を収めた詩集は、発行直前まで「詩が書けない」というタイトルにする予定でした。同タイトルの詩篇も収められています。 私自身、あなたがおっしゃるようなことをブローティガンに言われたような気がします(^^) (トイレット・ペーパーの芯)

2018-02-16

夏野ほたるさん ありがとうございます。 この詩を収めた詩集は、発行直前まで「詩が書けない」というタイトルにする予定でした。同タイトルの詩篇も収められています。 私自身、あなたがおっしゃるようなことをブローティガンに言われたような気がします(^^) (トイレット・ペーパーの芯)

2018-02-16

奇偶さん コメントありがとうございます。 うむ。皆様真面目ですな(^^) 私もですが。 もうひと工夫欲しいというのは、私もこの詩に感じるところなのかも知れません。だからこそ、詩集の巻頭に置いたのかも。 (トイレット・ペーパーの芯)

2018-02-16

失礼。極みなのでは、と思いますが、ブローティガンはそれに通じるところがあると思います。 この詩はパスティーシですので、マネにも程が有るほど真似ています。とはいえ、盗みにも、盗みの手口にも鮮やかさということはあり、そこで競えるのでは、と思うのですが、どうもブローティガン本人のイカス盗賊ぶりには遠く及びません。彼の場合、何を盗んだのかわからないぐらいですから。 (トイレット・ペーパーの芯)

2018-02-16

藤一紀さん ブローティガンの影響を受けたのであろう詩を、私は現代の日本の詩誌や詩集で時々見かけます。ブローティガンは詩の手品のように、お茶目なテクニックを次々使うので、マネしたくなるのだと思いますし、ブローティガンの使うテクニックには、入沢康夫と同じ趣向のものもあり、もともと彼にある東洋趣味が私達に響くのかもしれません。 端的にかっちり書くことでは、俳句や川柳がそのきわみ (トイレット・ペーパーの芯)

2018-02-16

私がこの詩を初めて読んだのは、もう1年以上前になると思うのですが、やはり私の詩を読む力は、あまり進歩しなかったようで、この詩は私にとっては今もとても難しいです。 私の解釈では、ここではポエジーと現実の衝突が起きていて、それはシュールレアリズムの美であるところの、異質なものの偶然かつ明晰な出合、(文が長くなりますが)、即ち女神に引き出しのついたダリの絵のようなものを思わせられます。 完成度の高い作品だと、あらためて読んで思いました。 シュールの絵画は、私に沈黙を齎すのですが、この詩も、これを前に自分が何を感じているのか、私はうまく語れなくなります。 しかし、魅力を強く感じますね。 この暖かく素敵なものと残酷な現実の、冷たい衝突の向こうにあるものは決して描かれない。だけど見つめ続けたくなるんですよね。 反美学とか反ポエジーとか言ってしまいたくなるけど、こうして読むと、やはりそうではない、と思います。 この反復の穏やかなポエム的味わいは、それ自体も仮象ではない。 不思議な詩だなぁ、と思います。 こういう視力でしか見えない何かが、現代にはあるのかも知れませんね。 (うしのはんすうし (B-REVIEW EDITION))

2018-02-13

渚鳥さん ありがとうございます。 励みになります。 (トイレット・ペーパーの芯)

2018-02-13

Rさん コメントありがとうございます。 展開を褒めてくださり、ありがとうございました。 四連もブローティガンのパスティーシュだったかどうか、正直に言って私は覚えていないのですが、村上春樹の文体を意識してはいなかっただろうと思います。 実は私は他の作品について、春樹のファンの方からは、春樹っぽいと言われたことがあるのですが、春樹を読んだことがない方から言われたのは初めてで、少し驚きました。 私は村上春樹の小説でしたら、ほぼ全作品を読んでいますし、彼の小説を高く評価してもいますが、彼はあまり詩的ではないと思っています。悪い意味ではなく、彼は小説家として、特殊な才能を持っている人だと思うのです。 春樹は詩人と対談することもあり、詩の翻訳もしていて、詩について面白いことも述べてはいるのですが、自分の詩作への影響となると首をひねるばかりです。 しかし春樹のクセを模写した文体にすら似ているとのことでしょうから、やはりどこか似てるんでしょうね。 少し意識してみたり、ひとに聞いてみたりしようと思います。 (トイレット・ペーパーの芯)

2018-02-13

KURA_HITO さん ありがとうございます。 この作品はパスティーシュの小品ですが、詩集では巻頭に置きました。この詩のウィットがすべっていなくて、イメージが伝わったようですので、作者はとても嬉しいです。 ありがとうございます。 (トイレット・ペーパーの芯)

2018-02-13

いやぁ参ったな、と思いました。 どうやったらこんな素晴らしい作品が書けるのだろうか、と思いますがどうやるもこうやるもなく、思考や心を縛らなければこういう詩がかけるのであろうと愚考し、自分もかくありたしと思います。 かつて映画「おっぱいバレー」で私を泣かせた、女優の綾瀬さんが、最近、新作お披露目会見で、希望は何ですか(夢は何ですかだったかな)と、訊かれ、 「世界平和です。」 と、答えたそうです。 また泣かされてしまいました。 あなたはオードリーヘップバーンかよ(良い意味で)(^^) とも、私は思いましたけど、そういうもんなんだろうなあ、と思います。 自由、というのは気持ち良いですね。クジラのお刺身、美味しくご相伴にあずかりました。 (おもてなし妖怪2018)

2018-02-13

これは素敵な詩だと思いました。 最初、パッと目に入った瞬間、なんだか切ない感じがしたのですが、言葉を追ってみると何かが苦しいとか切ないとか書かれているわけではないのですね。 でも何かぐっとくるものがあって、何なんだろうと思ったのですが、三次元の実物としては実現しない、涙ではない涙、みたいなものを感じました。 それが制御されていて、大人な感じ。アベンチュリンが効いてると思います。 綺麗ですし。 上手く言えないのですが、わかりみが深いです。 (過眠)

2018-02-13

夏野さん ありがとうございます。 よろしくお願いします(^^) (トイレット・ペーパーの芯)

2018-02-13

花緒さん、survofさん ありがとうございます。 コメントを頂けて嬉しいです(^^) 花緒さん ブローティガンは、ボードレールが気に入ったらしく、いくつかの詩に「ボードレールの猫」が登場しますが、とてもお洒落な引用の仕方をします。 確かにボードレールには、禁断詩篇のなかにあると言えばあるんですが、実は無関係なようでもあり、そうでもなさそうでもあり、、、冗談と真摯さ両方をたっぷり持った詩人です。 ここでは、変な引用の仕方も、ブローティガンに見習いました(^^) survofさん ありがとうございます。 拙者は、男の美学とは誤魔化しの技術、あるいは強がりの技術と心得まする(^^) 微細な陰影を読んで下さり、幸甚です。 (トイレット・ペーパーの芯)

2018-02-13

今日は。 僕もコメントを読んで初めてコンセプトがわかりました。 まず、その時点で(僕に対しては)作品が失敗していますので、おそらく、ポエムしか愛さず隠喩を嫌うひとに対しても、嫌悪より前に無理解を齎してしまうかもしれないな、と思いました。 再読して、感想としては、「この作者さんは宮沢賢治を愛してしまえば良いのに。」と、思いました。 「マルドロールの歌」は、幼児を虐殺することを喜びとするシリアル・キラーを主人公にした、数百ページに及ぶ長編詩ですが、この詩でパスティーシュされてるところは、直喩の一部です。 直喩は、AがBではないことを前提に、AはBのようだ、と語ります。 例えばマドンナのライク・ア・ヴァージンは、ヴァージンじゃないことが前提であり、マルドロールの歌も、そこで直喩が使われたことは意味深であり、全編をピュアなラブソングと解するひともいたと思います。 それと対象的に「俺は一人の修羅なのだ」、と語ったのが宮沢賢治であり、ふわふわした童話しか愛さない読者層に、彼は強烈なビンタをかまし続けて、もうすぐ百年ですか(^^) そんなことを考えました。 (ワタシのきもち (エルサポエム))

2018-02-12

今日は。 この詩は、スタイリッシュでイイな、と思いました。 一番と二番みたいな構成になってるし、「まあそんなんだろうな」の所はスリリングに変調するし、その次の行はシャウトする感じがあります。また、文節は五音をベースに整えられてます。 最後のキレもイイと思いました。 (蔑まれ者)

2018-02-11

すみせん。石ではなく、すみれでした。 (letters)

2018-02-11

今日は。先日は「姉の自慰」の朗読を許可して下さりありがとうございました。ステージで読んでみて、新たに深く、孤独な感動がありました。 この作品ですが、私は冗長さを感じました。途中で魅力を感じなくなってしまい、集中できず、読み返して、3度目にやっと全体がつかめました。 4回目、読み直したときは、すっと読めて、情感も伝わりました。 言葉に頼って、言葉で伝えようとしてしまって、弱い表現になっている感じがします。 また工夫の効果のわからないレトリックがあり、印象を散漫にしていると思います。 (引用)  これは紗代ちゃんのおめかしなの、と あや子が摘んできたものだ その花びらに刻み込まれた皺の一つを辿り 幾重にも錯綜する筋に多くのまちがいを繰り返して やがて最初の皺がすみれの一枚の花びらを横断したころ 昇ってきたのが朝陽だった (引用終わり) この部分、さやちゃんと、石と、語り手と、あや子が登場します。また隠喩としても書かれている雰囲気があります。 例えば引用冒頭は、台詞が地の文に融合しているため、語り手視点で読みましたけど、あや子がまだ登場したてなのに、語り手が邪魔なように思いました。二重フィルターを通過しないとあや子に届きません。 シワの表現に漢字が多数使われていますが、最初の筋への着目に戻ってしまい、読んでいったイメージがリセットされてしまうので、これだけの説明をスルーして意味を追ってしまい、隠喩としてはあまり作動しません。 最後も、冒頭からの伏線のラインが浮き上がれば締まりますが、そうでもないように思いました。 内容は味わい深いですし、言葉を検討した気配を感じますが、もっとガッと掴んでドンと置くような、目覚ましいフレーズが、この詩の着想を活かすのではないか、と思いました。 (letters)

2018-02-11

「ひとをののしるひと」を、上手に罵る詩だなあ、と思いました(^^) 冒頭からの三角の形態は、私には狙いがわからなかったのですが、わからないためにかえって、「なんだろう」と思ってじっくり読んでしまいます。 その結果、「ひとを罵る言葉は君の精神だ」というメッセージを受け取ってしまい、哄笑されてしまう。 一つの思想詩として、効果的にできてるなあ、と思いました。 でも感想としては、だから何?的な想いはありました。 ひとを罵るひとは、おそらく醜い心の持ち主でしょうし、自らの醜さに気付いていないのでしょう。 それは一読者である私自身についても、批判として受け取らねばならないなあ、と思いましたけど、この詩も、そうしたひとを罵る以外のことをしていないように感じました。 (ノノシル)

2018-02-11

今日は。 他界した私の母は、童話作家だったのですが、実体験した怪談を書き残しています。 空襲の直前に、親しかった軍医が現れて「起きろ」と言う。 怖くて泣き出して大騒ぎして家から飛び出し、何事かと家族も出てくる。そこへ焼夷弾が降ってくる。 間一髪で助かった話ですが、あとから調べるとその軍医さんはそのときすでに、出征した戦地で亡くなっていたというのですね。 この場所を去らねばならない、という強い想いにとらわれることは、多くのひとが経験すると思います。母の話もあり、そういうときは行動したほうが良い、と私は思っています。 ましてや、異界から何者かがそれを教えてくれたのなら、その場所から去る方がいいなあ、と私は思います。(一般論として) ありがたいのだろうけど、でも、異なものとのコミュニケーションは怖いですね。 この詩は、そんな、背筋がゾッとして走り出す瞬間を、鮮やかに描写しているなあ、と思いました。 (曖昧な憂鬱)

2018-02-11

改行に特徴があるなあ、と思いました。 北川透は「詩的レトリック入門」で余白の重要性を強調します。 そして、改行詩の改行とは、余白を生じさせるレトリックだ、というようなことを述べていましました。 (作品より引用) きみの言葉をかき消す たびに風が抜けて この部分は文としては、「きみの言葉をかき消すたびに、風が抜けて」だと思ったのですが、繋がってるところで改行されています。それによって、一度流れが止まり、息も止めさせられるような気持ちになる。そしてすぐまた、つながる。 この詩にはそういう改行がいくつもあり、小さいけど強い余白が、いくつも発生して、「わたし」と「かの女」の別れのあり方を、上手く表しているように思いました。 解釈としては、二年前の別れがあったのだけど、そのときバッサリじゃなくて、2年かけて少しづつぷちぷちと切れてゆき、それをふと見かけた、傘をさす女から認識した。と、いうように私は読みました。 それと「彼女」は、男性をさす場合もある「彼」という言葉が入った表記を嫌い、「かの女」と書く書き方をしたのかなあ、と思いました。 僕の学生時代の女友達に、 「彼女とは、「彼(かれ)の女」という意味。女は男の所有物じゃないから、自分は使わない。」 と、主張して、いつも「かの女」と書くひとがいました。 そのひとの説明が正しいかどうかは知りませんが、私もその影響で、「かの女」という書き方に違和感がなくなり、そのまま今日に至ります。 漫画「最終兵器彼女」が描かれるずっと前です。 (quasi-)

2018-02-11

追記します。 なかたつさんの論考を私は過去に読んだ記憶がありますし、その趣旨を興味深く思い、賛同しました。 それはこの詩を着想するより前だと思いますので、なかたつさんの論考に影響されて私も思考したのではないか、と思います。 記して感謝します。 (昨日私は悲しみについての詩を書いた)

2018-02-06

なかたつさん コメントありがとうございます。 あなたのその論文は、拝読した記憶があります。虫歯の例はとてもわかり易いし、論旨について同意です。 その上でですが、この詩では、どこまでも科学が進化し、無限の時の果で悲しみの理由が解析しつくされた、というSF的な仮定をします。そして、そうその時すらも、どうしても理由が分からない悲しみがあった、とも仮定されている、と思います。 あるいは、一つの解釈としては、そうも読めるのではないか、と私は思います。 (昨日私は悲しみについての詩を書いた)

2018-02-03

るるりらさん ありがとうございます。 あなたからコメントを頂いて、私も温かい気持ちになりました。 ここに出して良かったです。 投げ瓶通信だな。いつか読んでくださると思ってました(^^) コメントを拝読して、一つ、忘れていたことを思い出し(思い付いたのかも)ました。今思いついたのか、前にも言ったか、どっちだったかなあ。 「悲」という漢字は、一般には非と心ですが、実はダンゴムシに由来する象形文字なのかもしれません。 それは嘘ですが、そんな気がします。 (昨日私は悲しみについての詩を書いた)

2018-02-03

この詩は、私は好みで、イイなあと思いました。 言葉が何かを意味したり伝えたりする過程の、生なましい現場を繊細な写真技術で写し取ったような、喩えとして良いか悪いかわかりませんが、短歌ではなく俳句を思わせる作品でした。 一連と二連は場面を歌い、言葉を生きた状態のまま保つことについては、繊細で高度ではあるけど、特にわからない描写はありません。 強いて上げるなら、短歌的な我の心情吐露ではなく、私を横に置くようにして、場面が読者にポンと渡されます。子どものいる風景、だと思います。誰の記憶にも、キラキラした川面とビーズみたいな子どもたちがあろうかと思います。 3連は、悼む、ということを巡る心が、意味や情景としてではなく、言葉の向こうや隙間に定着されます。なんというのでしょう。吐露ではない、とは思うのですが、表現とでもいうのか。 メモリー、というのはとても大切なものだと私は思うのですが、詩とは、メモリーを大切に、言葉少なく、メモリーのままに置くためのものなのかも知れません。 四連は、この作者の個性や独創性なのかなあ、と思うのですが、読者に渡さないものが何かあり、隠蔽と封印の気配の中に留め置かれます。 しかし、記憶というものはそうしたもの、個人がそれを握りしめ、お腹に押し付けて、さらに体をダンゴみたいに丸めて、守り抜くものでもあるなあ、と思います。 感じの良い隠蔽というか、或いは逆に、語り得ないものまでも表現した、ということかもしれません。 (撹拌)

2018-02-03

わかりにくさは、たぶん方言の女言葉と男言葉のちがいなんじゃないかな。 (相対化する高校生の欠片)

2018-02-02

コーリャさんのおっしゃるように、これ、エモいです。 僕は好きです。青春ラブポエムだ(^^) 昔、もう二十年ちかく前のことだけど、ポエトリーリーディングのスラム(投げ銭全額獲得、タイマンバトル式の大会)で、審査員をしてた詩人のMさん(あなたもネットで知ってるひと)に、実に印象深い言葉で褒められたことが僕はあります。 とても真剣な、ちょっと怖い顔でね、 「とても良い。まず、剥けてるかどうか、と言うと、ズルムケですね。」 と、言われたのですが、それは確かに褒めてるんだろうけど、女性もいるのに何言っちゃうのよこのひと、みたいに、そのときは思いました。でも、その後、それは僕のモノサシになりました。ステージを降りるとき、(今夜、俺のココロのちんぽは、むけていたか。)と、自分に問いながら降りますよ…。 そんなわけで、この詩は一皮剥けてて、良い。と僕は思いました。 読んでてイライラしないし、ジンとくる。オーディエンスに敬意を払ってるし、スタートラインに立ってから書き始めてる、と思います。 いくつかの言葉がとても良くて、しかも阻害されずのびのびしてます。 言葉をナイフに喩えるなら、エッジが立ってるね。 「卒業」、「夜逃」、「好いとう」、「先生」。 どれも刺さってくるけど、「夜逃げ」が研がれてて良いです。 それと、ある言葉を詩で、どう活かすか、についての話に回り道しますが、白井さんというひとから、明示と暗示のことを聞いて、勉強になったことがあります。 この詩では、「夜逃げ」他は、言葉として(意味ではなく言葉そのもの)、とても良い状態で【明示】されてます。それも良い。 でも、暗示されている「自殺」と言う言葉も、その言葉の運命のままに暗示されてるよね。そのあり方も、とても良いと僕は思いました。 描写としては、お父さんがイイね。先生はエロくないのでそれほどでなもないけど、この詩ではこれで良いような気がしました。 (相対化する高校生の欠片)

2018-02-02

グーグルグル夫 さん ご批評ありがとうございます。とても有難いです。 コメントを拝読して、この詩には、仏教的な世界観や思想につながるものがあるのかもしれないなあ、と思い、光栄に思っております。 この詩を収めた詩集も、宗教的な伝説と(やや遊び的に)関係します。 アガルタとは伝説の地底国であり、シャンバラとはそこにあるとされる理想郷です。 横尾忠則は、宇宙の生物は、シャンバラのビラミッドから放射される生命エネルギーで生きている、と解釈した時期があり(今もかもしれません)、この詩集に収めた標題作「アガルタのシャンバラ」は、横尾の描いた曼荼羅図により着想した詩です。 とは言え、それもかなりふざけた詩でしたし、あなたのコメントを拝読するまで、この作品と仏教の関連は作者は意識していなかったのですが、いろいろ考えてみると作者ながら頷かされるところが多々ありました。 地蔵菩薩は、一切諸衆が救われるまで自分は成仏しないとの悲願を立て、地獄に立っておられるとのことですが、この「悲願」という言葉の「悲」という言葉は、悲しみではなく、「強い想い」の意味だといいます。 そのことを私は十代の頃、小耳にはさみ、今に至るまで時々思い出します。 作品を豊かにする読みを、ありがとうございました。 (昨日私は悲しみについての詩を書いた)

2018-02-01

夏野ほたる さん ありがとうございます。 理由のない悲しみ、ということについて、私に説明ができると良いのですけど、難しいです。すみません。 あまり良い説明ではないかも知れませんが、自分が(いつかは)死んでしまうこととか、そのあと忘れ去られることとか、そういうことと漠然と関係していそうな、全身を包み込まれるような感情です。 「ダンゴムシや生きる人々への無理やりじゃない、寄り添うような優しさが感じられてとても好きです。」 と、コメントして下さり、嬉しいです。 三浦さんのご批評にも通じますが、そうした詩を書くことを目指しております。 (昨日私は悲しみについての詩を書いた)

2018-02-01

岡田直樹 さん ご感想ありがとうございます。 今後の詩作の糧にさせて頂きます。 (昨日私は悲しみについての詩を書いた)

2018-02-01

survofさん ご批評ありがとうございます。 先月、「焔」という同人誌で、稲村さんという方が私について作家論的な批評を書いて下さいました。 その中で、「純粋おっぱい」という拙作を取り上げて、「おっぱい」を全部消してもいいのかも知れない、という実験的な読みがあり、面白かったのですが、この詩でも、もしかしたら「悲しみ」を全部消しても何かが残るのかも知れません。 「本当には、 「理由がない○○を悲しむことに意味がないかどうか、 「私はわからない と、いった調子です。 それは、あなたがおっしゃるモノへの変換ということと、何かつながるのかもしれないです。 クセかもしれませんが、たぶん私なりの技巧です。ですが、それについては、まだ作者にもよくわかっていないことが多く、コメントを興味深く拝読しました。 ありがとうございます。 (昨日私は悲しみについての詩を書いた)

2018-02-01

まりもさん ご批評ありがとうございます。拝読して、作品が広がるように思いました。有難いです。 生きとし生けるものは喜怒哀楽を感じるのだ、と私は思っています。まだ科学がそれを理解していないだけで。と。 それはきっと、詩人VS科学者の長い戦いですが、あと数千年は決着が着かず、それまでは「擬人化」という言葉の仲裁を受け入れて(あるいは受け入れたふりをして)、我々人類はやっていくのだろう、と思います。 (昨日私は悲しみについての詩を書いた)

2018-02-01

花緒さん ご批評ありがとうございます。 拝読して、なるほどなあ、と得心しました。 三浦さんの、言葉に対する感覚を私は高く買っているのですが、彼はしばらく前にツイッターで、「死にたみ」がどうのとかほざいていやがりました(笑) そのとき、私はスルーしましたけど、「それだよね」、と、思いました。 消えたみ、とかね。 「よごれつちまつた悲しみに」 と、いうフレーズが、若い人たちの唇に戻るのは、今ではないのかも知れません。 その感覚を私も持っています。 しかし、私は悲しみということを大事にしたい気持ちがあり、この作品が、そこへと誘う力を、もつことができていたならば、それは光栄です。 (昨日私は悲しみについての詩を書いた)

2018-02-01

緑川さん ご批評ありがとうございます。 頂いたコメントの中の、花を生けない生活、という言葉にハッとしました。 私は詩をかなり意識的に書いていますけど、出来上がった作品には、無意識に書いたのだとしか思えないことをしばしば見出します。 おっしゃる通り、このテーブルには薔薇は生けられていません。 そして、その秘密がどんな秘密なのかは、、、 秘密なので秘密なのですが(^^) 藤一紀さん ご批評ありがとうございます。 秘密というのは、とても大事なものであり、それを持つことができたときは、そのことに感謝する、、、しかないのかな、と私には思えます。 そして、互いに秘密を許さない契約と言うものも、大事なものだと思います。そうした大事な契約を持つことができたことに、、、それも感謝するしかないなあ、とも思いつつ。 この詩を愉しんでくださり、幸甚です。 (薔薇)

2018-02-01

三浦さん いや、僕のほうが、あなたよりカッコイイじゃんか!ダンゴ虫、イカスし!ナウシカなんかダンゴ虫の上歩いて伝説ですよ!と、思いました(^^) なんちゃって、ありがとうございます。おっしゃることは、ありがたく、よくわかります。私の目指すところでもあり、光栄です。ドブネズミみたいに美しくありたいですよ。クロマニヨンズも良いけどね(^^) (昨日私は悲しみについての詩を書いた)

2018-02-01

ユーチューブ聴きました。 携帯からだと、アドレスを選択して、点々から「ウェブ検索」を選ぶと、聴けますね。 私も時々、詩を朗読するのですが、朗読は朗読で作品であるという面もあり、テキストで読むときと少し違う面もあると思っています。 例えば、 「お前一度は思ったことあるんじゃないのか判んねえけれども」 というフレーズですが、テキストで読むと、「あるんじゃねえか」、と「判んねえけれども」の力の配分がぴったり同じに読めてしまい、「あるんじゃねえか」がいくらか打ち消されて弱まってしまうと感じました。 でも、朗読ではそうならなず、むしろ突き放されることによって「あるんじゃねえか」が強まると思います。 これは朗読を作品として味わって、テキストは理解を深める補助と考えたほうがイイかも、と思いました。 で、私は朗読作品として、これはとても好きです。いいなあ、と思いました。 「上手く騙せてると思ったら大間違いなんだよ バレバレなんだよこの野郎」 この↑フレーズ、炸裂してますね。グッサリ来ました。 ここから、疾走感が心地よいです。真っ直ぐに展開していて、何一つ間違ったことを言っていない。 間違えていない、ということを軽くみる風潮が世間には(それこそ世間には)あるけど、それは違うと私は思う。間違えてない、というのは大変なことで、みんな這うようにしてそうしたもの(それを思想と言うと思うけど)にたどり着くわけですね。それには価値があると私は思います。 「これは個人的な話じゃないんだ 「本当の気持ちに誇りを持てよ人類と言いたいんだよ 怒りというものが、何らかの美であるのは、正当性を伴うときであると思います。しかし、正当性をロジックで示せるときと示せないときがある。それが戦いなので、勝てるときも負けるときもあると思うのですが、真実を大切にすることによって、勝てる見込みが出てくるのだ、と思います。言い換えると、このフレーズは腰が座ってる、ということで、さらに言い換えると、そういうのがカッコイイです。 「己の道をゆく苦しみは 己を抑圧する苦しみと比較すれば随分と開放的だ」 これもグッサリと差し込んでくる、真っ直ぐなフレーズだと思いました。 (スカルブレイン)

2018-01-31

この作品、仕組みに気付いたときに何故かゾクっと来ますね(^^) ミステリはそれ自体がサスペンスを誘発するんだなあ、と思いました。 (もぬけの穴のけもの)

2018-01-31

あ!化物じゃ(笑) (もぬけの穴のけもの)

2018-01-29

も も  へ へ の の  の の  も    も  へ    へ こうして比べると、ものもの氏のほうが、ちょっと思慮深そうだつたり、ちょっと平安時代っぽかったりするかな。と、思いました。 へめへめ氏とかも、良いように思います。 も抜けの穴というのは、もを入れましても「もあな」では意味にならず、フレーズからもを引いても隠した意味にならず、さらには「も」と「穴」が漢字の部首にならないかなど愚考しましたが、わかりませんでした。 でもなんか暗号っぽい雰囲気がありますね。 音としては、もこもこして言いにくいのが、面白いかも、と思いました。 へ へ め め (もぬけの穴のけもの)

2018-01-29

タイトルと、作中に使われた「さもしい」という言葉がイイですね。 私は意味を知らなかったのだけど、さもしいとは、極めて強い罵倒語なのですね。ひどすぎて、あまり使われない言葉なのかな。 例えば特定の女に、「あなたはさもしいひとですね。」と、言うなら、それは凌辱するに近いような人格否定であり、日本語にこんな言葉があったんだなあ、と思いました。 そこがこの詩の良いところだと思います。 坂口安吾の小説に「白痴」というタイトルのものがありますが、あれも作中である女を嘲って白痴と呼びます。私がとても好きな小説なんですけど、「さもしい」という言葉のもつ暴力は、あれを連想するなあ、と思いました。 ただ、私が感じたのは、そのせっかくの「さもしいひと」という言葉を、この詩は殺してしまっているなあ、ということでした。 先日、カリフについても思ったのですが、作者の言葉に対する感性の鋭さ、というものを私は感じます。 だけど、それを安全に運用してしまっていると思います。 さもしいひと、という言葉を危険に使ったら、もしかしたら逮捕されるかもしれないし、「カリフ」を危険に使ったら、暗殺指令が出るかも知れません。 だからブレーキをぶっ壊せ、とは言いません。そこは自己責任で。 でも、ブレーキを踏む前にアクセルを踏まないと、読んで面白い詩にはなりようがないのでは、と思いました。 (さもしいひと)

2018-01-29

良い詩だなあ、と思いました。 濃密で官能的。快楽と退廃。 それでいて、わびさびとでもいうのか、自分の運命への諦念と、相手への配慮を背景にした、軽やかな絶望。 イキですね。 (フライングバレンタイン)

2018-01-29

詩を書くときに、描写も暗示もしないで、読者に作品をポンと投げ渡してしまうような書き方もあると思います。名作にもそうした詩はあると思いますし、じつは私もそういう書き方が好きで、ときどきするのですが、一発勝負なので、わりと勇気がいる書き方なんじゃないかなあと思っています。 この作品は、そうした投げ渡された作品のようである反面、受け取る直前に、最終行で取り返されたような感じもあり、戸惑いました。 ボールに紐がついていて、キャッチする直前に戻された感じです。 もし、最後の二行がなければ、そうした感じにはなりません。取るとスッキリすると思います。 しかし、もし最後の二行がこの詩の大事なフレーズなら、前半や中盤になにか仕込むなど、構成を工夫して、この最終行の思いが唐突でないようにした方がいいのでは、と思いました。 冬の寒さと人気無い静かな感じは、しっかり伝わるように思いました。 (あっちいね)

2018-01-28

こんばんは。 人工知能の進歩により、様々な未来が想像されます。 この作品では、人類と人工知能の戦争の可能性が指さされ、それと愛や恋が関係するケースが挙げられています。 可能性としては、それもあるでしょうし、それにも様々なケースが想像できます。 大切なひとを守ろうと頑張らなければならない未来もありえますが、ここではどんなふうにそうなるのか、書かれていません。 また最後には、恋人が人間ではなく人工知能である未来が想像されていますが、それもあり得ると思いますが、いろんなケースが想像されると思います。大切なひとを守って戦うことと、恋人が人工知能であることが同時に想定されるケースが、どんなケースなのかも書かれていません。 いずれの段階でも、この作品では、どんなケースが想定されているのか、私にはわかりませんでした。 そういう点で、これはひとに伝わりにくいテキストなんじゃないかなあ、と思いました。 面白さとしては、題材と語り口両方が新鮮だと思いました。 やはり、主題が花鳥風月や、生老病死とかばかりではなく、いろいろあると読んで楽しいです。 語り口も、語り手が自分の考えを語る語り口で、SFの掌編として書かれていません。そのために、このテキストが存在する必然性が増していると思いました。 (Singularity)

2018-01-28

注2):POEM ROSETTA掲載、「悲しみについて」 (昨日私は悲しみについての詩を書いた)

2018-01-28

今日は。 例えば、ですけどね。 今、この語り手が一人の女を刺殺したのだとします。 返り血で、男の白いワイシャツは赤く濡れ、この事態は覆い隠すことがもはや出来ません。 どれだけの時間、ぼんやりしていたのか、気がつくと雪が、降っている。 体は冷え切り、このまま凍え死にそうな予感がしている。 雪は全てを埋め尽くす勢いで、大量に降り注いでくる。 そんな場面を想像します。 するとなんだかしっくりきました。 俺はそんなに白くない 俺はそんなふうに埋め隠せない 呟きが聞こえてきそうです。 そして、そんな場面のことは忘れる。 ただの空想ですから。私の。 そしてもう一度読むと、白くなくて、そんな風にはできない誰かが、雪に敗北しながら、雪を見ていますね。 この誰かの気配が、なんか感じがいい、と思いました。 上に述べた殺人犯と違い、わからないことがものすごく多い、ほぼ知らない誰かなのですが、むしろ親しい感じがします。 それはリズムとか流れによって、ダイレクトに伝わるものがあるからかなあ、と思いました。 (〈 雪 〉)

2018-01-27

上述、特殊な場合とは、主に擬人化のケースです。 お茶碗や風やRobotが、「私はまるまるした」、と語る詩を少数の例外として、私の詩においては、「私」とは作者を指しています。 加えるなら、セリフ引用の場合です。 (薔薇)

2018-01-23

原口さん ご批評ありがとうございます。 久しぶりにコメントを頂けて、とても嬉しいです。 この詩は、言葉や文が、散文としても成立するように書いたつもりですが、同時に明示されたこと以外のことを暗示したり、比喩したりするようにも書いたつもりです。 ですので、全体を通じてどういう詩であるのか、散文的には語られていない部分が多いと思うのですが、それはこの詩の欠点というよりは特徴だろう、と作者としては考えています。 そうした作品ですので、原口さんがおっしゃるような読みもあり、ご批判ももっともかなあ、と思いました。 そのうえで、これを散文として見た場合の、文意のレベルで、一つ可能であろう読みを冒頭について申します。 そこだけを作品から切り離して眺めていただくと、「あなた」が誰を指しているか不明確なのではないか、と思います。それは、もしかしたらハムスターとかかもしれないし、人間であるにしても、どんな人なのかは不明と思います。語り手の子どもとかかも知れない。 ただ、曖昧にせよ、薔薇でだけはない、という解釈も可能かと、思います。もし、薔薇だったら、と言うのですから。 そう読めば、薔薇の秘密なら(例えば香りの仕組みなら)、花弁を全てすり潰して、成分分析するかも知れない。でも、あなたは人間なので、それはしない。と、いう文にも、表面的には解釈可能かと思います。 ただ、本当にそう言いたいなら、そのフレーズのあとにカッコして、(だがあなたは薔薇ではないから、殺せない)と、書けるのだけど、この詩では作者にはそうしたことはできません。 原口さんの鑑賞のとおり、暴力としての殺人を読むことが可能であることが、この詩には必要なのです。 作者としては、この作品を、他者への暴力の肯定(可能性としても)として書こうとしたのではありません。 暴力とは無関係な、ある贖罪または感謝として、またある愛についての描写(記録)として書こうとしたのですが、それは作品そのものとしてそうなることを目指し、散文の言葉では作中に書かず、むしろ暴力の肯定とも受け取れるであろう要素を含めて構成しました。 そうなっていない、と解釈された読者の中には、ご不快に思われる方もいたのかなあ、と思いますし、そうした作品であろうと思いました。 なお、個人的なことですが、拙作においては、特殊なレトリックを使う少数の例外以外は、いつも、「私」は作者を指します。 そこは個人的なスタイルなので、わかりにくかったかもしれません。 話者を女性と仮定して読み直しましたが、そうすると、作品としてすんなり読めますね、確かに。 そしてその場合、原口さんがおっしゃるのと、殆ど同じ理由で、私もこの作品の愛に、自分が好きではないものを感じました。 (薔薇)

2018-01-22

藤井さん ご批評ありがとうございます。 ダークの反対はブライト。ねじ曲がるの反対は素直、でしょうか。 ご批評を頂いて、ダークでねじ曲がった愛について、考えたのですが、それはある意味では、眩く、素直な愛なのかも知れません。 (ゲド戦記、巻頭詩) ことばは沈黙に 光は闇に 生は死のなかにこそあるものなれ 飛翔せる鷹の 虚空にこそ輝けるごとくに (薔薇)

2018-01-22

KURAさん コメントありがとうございます。 何度も読み返してしまう、とのこと、嬉しく思いました。 この詩は、生活についての詩なので、書く方もそんな反復的な感じがありました。 (薔薇)

2018-01-22

まりもさん ご批評ありがとうございます。 この詩では、色を色名で示していないのですが、作者としては、前半は紫系、後半は赤系の雰囲気にしたいと思っていました。 「か」音の反復の狙いは、正確には作者にも不明なのですが、効果としては「赤さ」を出すことに繋がっていれば、と思っています。 深い解釈、ありがとうございます。 (薔薇)

2018-01-22

あ、すみません、追記します。 早くしてよ、と言うのだから、夫か子供あたりの誰かと一緒に玄関を出るのかな。 何重かの画像が重なってる感じもしますね。 もっとガッチリと現代詩な感じでも書けるのだけど、あえてポエムなテイストにしているように感じます。しかしそれがあざとくなく、親近感を感じました。 (花子はある朝突然比喩した)

2018-01-17

誤字が多くてすみません。 ☓ 仮定 ○ 過程 ☓ 作者としては自身 ○ 作者自身 テンポがよく、また嫌味がなく、読みやすく分かり易い。と、思います。 感じの良い詩だなぁ、と思いました。 (花子はある朝突然比喩した)

2018-01-17

情景としては、ポスティングの仕事に出掛ける女性をイメージしました。それは日常なのだけど、花子は今朝はなぜか詩に出掛けてしまう、みたいな。 玄関には夫や子どもの革靴が散らばっていて、一瞬イラッとくる。でも、地平線はいつも気持ちが良い。 見渡す未来を持たない、老人たちばかり残る平日の昼の街に於いてすら。 なんてゆう感じをイメージしながら拝読しました。 詩を書こうとするとき、作中の主体とか視点となるようなものと、作者そのものとの距離をきちんととり、独り言とかではなく、作品として手作りする、というような方が多いように思います。 短歌の書き手には、心を集中させ、内面吐露することによって作成する、みたいな方も多くいると思うのですが、自由詩ではそうではなく、もっと作る仮定を意図的に行う方が多いと思います。 しかしこの詩では、そうした「作る過程」が、さらに作品化されて断片として入れられています。 その効果として、逆に作者としては自身の体温を感じさせられる、と思いました。 端的にいうと、作者自身がうっかり(を装い)顔を出すことで、柔らかな暖かい言葉になってるなあ、と思いました。 (花子はある朝突然比喩した)

2018-01-17

すみません、語り方をミスしました。 人生と生活の全事象が、政治と関与する。そして、森羅万象が詩の主題となりうる。したがって、ある詩の主題が政治の課題となったいることをもって、その詩を批判することは出来ないと思う。 と、いうことを述べようとしました。 (メリークリスマス)

2018-01-12

渡辺八畳さんのコメントについて、私にはいくつか異論があるのですが、一つだけ示させて頂きます。 「人間においては、人生と社会の全事象が、政治と関与する。」 と、私は思います。 例えば、性的関心の対象者にどんな属性のひとを選ぶかは、もちろん個人の勝手なのですが、現実には同性愛はしばしば政治的に抑圧されます。 しかし、サッフォーが同性愛を歌い上げたからと言って、彼女はレスボスの詩人ではなく、レスボスの思想家ないし政治家だ、などと主張できるとは、私には思えません。 戦争を嫌悪することも、嘆くことも、本来的には人の自由ですが、政治的な場面においては、政治の課題になる場合もある、というだけなのではないでしょうか。 戦争の惨禍を扱った詩としては、「国破れて山河あり」で始まる漢詩が著名ですが、作者杜甫の詩人としての評価は、現在のアジアにおいて、確定していると私は思います。 (メリークリスマス)

2018-01-12

今日は。 現在というものについて、私はトランプは、中国に核兵器の販売を密約しただろう。その売り込みに行ったのだろう、と想像しています。 アメリカの軍事費を抑制する方法としては、核兵器がどこかで使用されて、一発あたりの効果を人類が再認識するのが近道ですし、売れば儲かる。戦場がアメリカでない限りは。 そうした非常に残念な、殺伐とした現状認識にいる私が、昨年しみじみ思ったのは、自分は「生の言葉」のシャワーを浴びて、詩的にずいぶん痩せたなあ 、ということでした。 言葉が出て来にくくなりましたよ。 しかし、それを避けて美しい言葉に閉じこもるのは、より大きな野蛮さに加担するようで、嫌であり、「マイペース」の在り方を探しています。 この詩は、生の言葉ではない、詩的な構成とフレーズにより、地球の人々の有様を描いていて、拝読してほっと息をつく思いがしました。 閉塞感を感じさせず、状況から目も逸らさず、神の沈黙と神を語る者の欺瞞を、生の言葉で語らず、希望や理想を手放しません。 映画の引用の仕方としても、エンドロールが流れるシーンで語るとことこか、カッコイイと思いました。 (メリークリスマス)

2018-01-11

りんごは、始め絵のサブジェクト(画題)であり、詩のオブジェクト(意識の流れの向かう対象)なのですが、事物としては具体的なりんごであったり、絵であったり、イメージであったりします。 そうなりながら、詩の中では、具体的な事物であったり、隠喩性をまとう事物か概念であったりします。 その自然な移り変わりが、りんごを「象徴」または「イデア」に昇華してゆく。 拝読していてそれが愉しかったし、そうした詩的昇華は難しいので、良い詩だなあと思いました。 エピソードのクライマックスは絵本で、そこも切なくて良いのですが、私は携帯が震えるとこが良かったです。 あれ、不思議なことですけど、親しい女性からは、そのひとがかけなかった電話がかかってくることがありますね。確かに震えたのに誰からも着信してなくて、変だなあと思っていると、数分後にそのひとからメールが来る。作品にはそんなこと書かれてませんが、そういうことを思いました。 それと写真の笑顔のエピソード。イイですね。 海は新潟の海を想いました。もちろん私が勝手にですが。どこの海も繋がっていて、同じ海だけど。 言葉については、「古本屋へ」という語りは、少し気になりました。 そこは、誰かが誰かに説明する口調で、作者が言葉の背後に登場します。それが効果的かどうか、私は疑問でした。 (齧りかけの林檎)

2018-01-11

沙一さん コメントありがとうございます。 何故だろう。昨日私も三島の金閣寺のことを考えていました。不思議な気がします。 作品と薔薇への解釈とご感想をありがとうございます。想像上の存在だからこそ、何よりも美しく、魅力的なのだろうとのコメント、嬉しく思いました。 そう言えばこの詩は、もし三島が読んでくれたら、彼には好まれたかも知れませんね。 それと、この詩では、読者に対して、薔薇への興味をそそるような書き方はしていません。それはこの詩の特徴なのではないかな、と、作者としては思っています。 実際、植物としての薔薇は、沈黙してただ咲くだけです。 人がどんな名前で呼ぼうが、どう思おうが、薔薇自身は関知しません。薔薇ですから。 それはツレナイようでもありますが、薔薇としての誠実さなのかもしれません。 (薔薇)

2018-01-11

仲程さん コメントありがとうございます。 ご指摘のこと、作者である私には、思い当たります。 おそらく私は、どうしても薔薇の詩を書きたかったのでしょう。 そして(或いはしかし)、これは不在の(或いは不可視の)薔薇ですね。 それはこの詩の欠点かも知れないし、何かしらの限界みたいなものなのかも知れません。 ゆらゆら感がいいというコメントも嬉しいです。ありがとうございます。 (薔薇)

2018-01-10

花緒さん コメントありがとうございます。 コメントしにくい詩かなあとも思いつつ、自分では気に入ってますのでアップしてみました。 妙に強い叙情というコメントを頂き、また どのレトリックが効いているのか、分析できないところがある、とコメント頂きました。 光栄です。 何故かそうなってしまっている、というような詩を書きたいと願っています。 survof さん コメントありがとうございます。 僕はセイウチ、でしょうか(^^) ドラムスの乾いた感じとか含めて、カッコイイ歌ですね。連想して頂き、光栄です。ジョン・レノンの作詞らしいけど、イカスなぁ。 解釈とご批評も感謝します。感受により場面と薔薇を見て頂き、嬉しいです。 (薔薇)

2018-01-08

日常の中で、何も日常を超えていない、でもこの一瞬を忘れるのがとても嫌だなあ、という一瞬があると思います。 心がピンチのときに、それが立ち直りのきっかけになったりすることもあったり。そんなのでは立ち直れないなりに、何か良かったり。 ごく正直に言って、私の場合、それが「パンチラ」の風景である場合も、無いではないですね。あると言い切りにくい世の中ですが(^^) この詩は、詩的技巧によりパンチラを描くことに成功していると思います。それは手柄だと思います。 ここでは小説的描写を使わず、「でも見えなかった」だけでいくつものことや感情を表現しています。 そして1枚の写真みたいに、記録する。上質な表現だなあと思いました。 (moment)

2018-01-07

これは強いなあ! 鮮明に描かれてると思います。 悲しいとか、痛いとかといった安易な言葉がないために、かえって詩のベースに場面を静かに見つめる作者の視線を感じたのですが、表面的には語られない、無声慟哭みたいなものがそこから感じられました。 明るい陽の下の絶望みたいな。無関心にとても近い、一種の優しさをまとったテキストだと思います。 (種子)

2018-01-07

今日は。 昨日私は、仕事で車を運転していたのですが、運転しながら聞いていた「子ども電話相談室」で、 「にじは、だれがかくんですか?」 と、いう質問がありました。質問したのは未就学児だったかな。 回答は聞き漏らしましたが、回答者の先生は大学の理系の先生などですが、「別に誰も書いてないけど」、などと答えるわけにいかなかったでしょうし、子どもの感じかたや世界観って油断できないなあ、と思いました。 この詩も油断できません。 これは、子どもの感性にまで通じるような、幅広い、自由な発想をどんどん続けて、そこから生まれて来た詩なのかなあ、と思いました。 素敵な詩だと思います。勉強になりました。 (虹)

2018-01-06

感性の柔らかさや、言葉の伸びの良さ、元気さを感じました。拝読していて、楽しかったです。 若さの良さかなあ、作者の年齢は存じませんが。私も詩の言葉の流れは、この作品のように濃密で柔らかくありたいと思うのですが、なかなかままなりません。 形としては、切れが鮮やか。内容的には皮肉が、逆になんとなく可愛らしく、ユーモアを感じました。ジョン・レノンで自信なくして壁から落ちる丸い奴とか。 あと、確かに涙の味って、甘さを引き立てて、美味しいときもあると思いました。それを描く詩的発見みたいなものに、はっとしました。 (嫌な夢)

2018-01-06

今日は。 乳児が花を見て、嬉しくて笑う、というのではなく、 花に笑いかけているというのが面白いなあと思いました。 私の子どもも生まれて退院前だった頃、襖(ふすま)に描かれた鳥に興味をもち、何やらコミュニケーションを取ろうとしていました。 相手が鳥だと普通な気もしますが、花に笑いかける、というのは面白いことで、たぶん他の動物は、花とコミュニケーションしようとしないのではないでしょうか。 小さくても人間だなあ、という感じがしました。 (未明)

2018-01-06

追記、失礼します。 落書きとしての文学の場としてのネットの可能性、探求する価値があると私も思います。 また、テキストのそうした在り方ということにも、(私の場合は安部公房の「箱男」に導かれて)関心を持っております。 昨年は、ドーアの「すべての見えない光」という小説を読み、現代文学における落書きの重要性がますます増しているのを感じました。 次作も楽しみにしています。 (泣けたい。)

2018-01-06

一人称文体で語り手を伝える技術が優れているなあ、と思いました。 この語り手は、身長も髪型も何も描写されませんが、そこはかとなく手渡されます。 それと、非ー詩であることが、くっきりしてる感じがしました。一人称でありながら、この語り手には作者を感じません。 抒情に関する何かなのか、作者の目指すものはわかりませんが、 もし作者が、詩の技巧も使いつつ詩ではなく、小説でもないものを書こうとしているなら、成功しているように思います。 ストーリー以外の面で、読んで愉しむ観点から見ますと、文字化け部分ですが、詩の読者は私ならずとも、この羅列に何かしらを読もうとしてしまう、あるいは鑑賞しようとしてしまうと思います。 そうすると、2行ぐらいで反復しているのかな、と気づいてしまい、迫力とか執念に驚かされません。 つまり、コピーするなり、エクセルなどを使えば出来てしまうことに気づいてしまいます。 この長さがあることによって、その部分で、このテキストが小説であることは、よく破壊されていると思うのですけど、もう一つ圧倒的な詩的技巧が凝らされると、なお良いのではないかなあと思いました。 あるある的な面白さは共感するところが多々ありました。 このコメントも、こんなに長く書かず、「それな」とだけ書こうかとも思ったところです。 一つは才能を巡る悲哀。踏んだり蹴ったりと言いますか、ブラックジョークと言いますか、私なども歳をとりまして、いろいろあります(笑) (泣けたい。)

2018-01-05

今晩は。 この詩は、カリフという言葉が良いと思います。なんか磁力みたいなものがあるのでは。 でも、フレーズが殺してしまっています。 書き換えるなら、この詩の一行目は、 カリフを探す 砂漠で と、いうフレーズで始めると良かったのかも知れない、と僕は思いました。 語り手のいる【ここ】は、本当に砂漠ではない別の場所なのか? 語り手は本当に「待って」いるだけなのか? と、いうことなのですが、作品の通りにフレーズを味わうと、「他人事」感があり、読者のひとりである私に、差し込んで来ません。 こういうテロリストに殺されたのでは、浮かばれませんよ。 何の比喩であるにせよ。ないにせよ。 もっと元気に、私を殺して、美しい星の下、砂漠にマントを翻し、カリフを見つけにゆくオトコの子(オトコの娘でも可)が、あらま欲しいです。 ()

2018-01-02

今晩は。 タイトルが秀逸だと思いました。 また、ネットの投資でしょうか(詳しくないのですみません)お仕事の進みと、お姉様の盛り上がり具合が同時に描写されていく感じがとても上手く、言葉の真摯な離れ業となっていて、濃密な詩情を感じました。 一方で、 「お腹のへそのゴマあたりがとてもいたくなる」 と、いうフレーズには、少し小技というか、わざとらしさを感じてしまいました。 その後の、「このことの作品化」を思わせる、ライブハウスでの演奏についての云々も、少し興醒めな感じがします。 この語り手の優しい耳のすまし方からすれば、感じの良い、素敵なお姉さんというか、お姉さんの素敵な自慰じゃないですか。その寂しさや虚しさも含めて。 むしろ「曲にして演奏したい」ぐらいがしっくり来るように思います。 最後の一行はまた、ふわっとして、とても良い後味の作品だと思います。 (姉の自慰)

2017-12-31

今日は。 この詩は素敵な、美しい詩だと思います。ひとは死を素敵だと思ってしまうときもあれば、生きることを素敵だと思えるときもあります。何れにしろ、また何を描こうと、詩人は性(サガ)として素敵な詩を書いてしまいますが、死を素敵に描くことは出来ればさけたい。 この詩は、揺れつつも、生きることに繋がる、「食べる」ということを描きます。泣きながらも、そこにこの詩の、詩行は、唐突にではなく自然に、たどり着く。そこに美しさがある、と私は思います。 私はかつて、チーズケーキに救われたことがあります。 何気なく食べたチーズケーキが涙がでるほど美味しかったり、たかがチーズケーキに救われる自分を面白く思ったりしました。 そのような体験は、特殊ではなく、割合ひとが経験することではないかと思うのですが、美しく書けるひとは稀ではないかと思いますし、この詩は、しみじみと来るものがあります。 なお、私はこの詩の表現は、散文とは違うけれど、わかり難くはないと思いますし、味わい深いと思います。 試みに、いちど詩行を飛ばして読んでみます。(私はそうも読んだあと、それを放棄して、そのままの行の隣同士の並びを味わいました。) (1) 街中にちらばる (クリスマスのすこし前にも) (幾つものいのちが死んで終わる) 神の無慈悲は (季節に祝福されてしまうから) (キリストはひとり) 讃美歌を絶叫している (2) 街中にちらばる (クリスマスのすこし前にも) 幾つものいのちが死んで終わる (神の無慈悲は) 季節に祝福されてしまうから (キリストはひとり) 讃美歌を絶叫している その他、様々な組合せをスタンザの骨格とし、その隙間から複層を読むことも出来るし、そうせずに、そのままの流れを読むことも困難ではありません。 街というもの、そして世界と言うものの大きさが、この表現によって描かれていると思いました。 それが、カピカピした小さなケーキの、悲しいほどの美味しさに反射してると思いました。 (ケーキと福音)

2017-12-25

今晩は。 呪いについて、なのですが、誰かに呪われたとき、その被害を避けるための様々なオマジナイがあると思います。それらによって受け取り拒否された呪いは、どうなるかと言うと、色々なお話や漫画とかで、大抵の場合、呪った者に倍返しで帰ってきてしまいます。 お話の話ですけどね。 でも呪いには、そんな面も無くはなくて、受け取られない呪いは危険を齎すように思います。 この場合、俗物という言葉ですが、誰かが手を上げて、「ハイ、僕が俗物です。」と、グッサリ来てくれれば良いのですが、そうしないと作者に帰ってきて、作者を刺しちゃうなあ、と思いました。 なかなかそんな、気の利いた大人物の俗物はいないですよね。 ですので、私としては、こういうのは、もっと鋭く研いで、もっとコッソリ至近距離に詰め寄って、逃げようがない一撃をかますと良いように思います。 情感はよくわかります。 俗物だけが幸せな世の中かもしれません。それは嫌だなあと思います。 (泡)

2017-12-24

今晩は。 私は詩を書くとき、意識の流れを偽造して、そこにリズムのようなものを誂え、いわば一本の紐のような書き方をするのですが、この詩は絵のように意識を対象全体に拡散して書かれているように感じました。 時間を止めることに優れた叙述で、感情も止まって見えます。無音が耳に聞こえるような印象がありました。 とても個人的な偶然ですが、私は数千か数万匹の蛾を解剖して、その卵巣を取り出して、ある実験をしたことがあります。ですので、複雑にビーズを繋げた首飾りのような、あの卵巣を想像しましたが、それを冬の蜂の巣に喩えるのは、不思議な感覚でもありました。無音の中に、何か始まるもの、と解そうかと思いましたが、腑に落ちず、残りました。 この詩は、もしかすると、ある種の原初的な風景であり、そこへのノスタルジーを誘うのかも知らない、という気配を微かに感じましたが、どこかまだ、物足りなさも感じました。 (*)

2017-12-24

まりもさん コメントありがとうございます。 解釈、構成、語り口を丁寧に検討して下さり、また率直なご意見をいただき、嬉しいです。 この詩の口調を選択したのには、シャープさを減じて、キメを先延ばししたいという気分もあったように思います。また感情の流れも、語り手の動線も、行きつ戻りつします。ですから、ご指摘の通り、人によっては弛緩した印象となるかも知れません。 (黄色くて丸いパン)

2017-12-24

今日は。 「僕」とはシモベを意味し、「君」と対をなしてへりくだることを語源として響かせつつ、今は「坊や」的な素直さの雰囲気をまとって、フランクに自分を指すコトバだ、と私は感じております。 それは本当です。 ところで、僕(シモベ)の由来ですが、古代に主人が奴隷を躾けるとき、言葉を交すと主人の穢れとなりますので、黙ったまま棒で殴って教えました。奴隷は物覚えが悪いので、かなりの力を込めてなぐりましたので、そのたび、奴隷の身が、ボクっと鈍い響きをあげました。撲殺するとか、ボクなんとかという語に残っていますが、これが「ボク」の由来です。嘘ですが(^^) 今、思いついたことなので、もしかしたら、偶然、本当にそうかもしれません。 それはとにかく、このように沢山読むと、「僕」の音がボクであることに、なんか不穏が漂いますね。 「僕」が異化されてる、とも言えるかと思いました。 (僕)

2017-12-24

今日は。 一句目、情景がうかび、良いなあと思いました。 乗り継いだ経験はないけど、矢切の渡しを渡って散歩したことを思い出しました。 (四季)

2017-12-23

まりもさん コメントありがとうございます。 今回は、切れ字は使用せず、多くは体言か終止形により、句末で切れを表そうとしました。 今回は、語り手を含めた光景を描く、客観的な写生をしようとしました。 たとえばヘビ玉の句で、「寒月や」と切ると奥行きは増しますが、作為がまさり、主観を語り手が語る句になる、と感じて避けました。 ご意見は、そのまま戴きます。ありがとうございました。 (寒月とその他)

2017-12-23

hyakkinnさん 花緒さん コメントありがとうございます。 この詩は、最初、黄色いパンの素敵さに心撃たれて、ニコニコしていた子どもへの心からの賛同、「いいパンだったねえ!」と、いう思いを作品にしたくて書き始めたのですが、さんざん難航しました。 推敲していて、ある時ハタと、そうか俺はあの子に謝りたかったんだ、と気づいて(最初は全く気づきませんでした)、この形にこぎ着いて、なんとか自分で納得できた作品です。 でもこの件だけで言えば、僕はそんなに鬼畜な所業をしたわけではありません。この子は僕のせいではなく、神から罰せられたようなものですが、何の罪なのか。罪びとは神秘ですね。罪と言うことも、自責ということも。 戻ったとき、無かったというのは、ご指摘のとおり、宙吊りにしていると思います。 もしそのまま落ちていたら、僕はそのパンを拾ってどうしたのか。どうするつもりで駆け戻ったのか。 そう言えば、初期のバージョンにはそれを書きました。 なぜそれを削除したのか、正確には思い出せませんが、拾ったとしても母子をホームまで追いかけはしなかったでしょう。たぶん、少とも踏まれるのは嫌だった。せめてゴミ箱に捨てたかった。でもそんな自分は、そのまま書きたくはなかったのかもしれませんし、なぜか上手く書けなかったのかもしれません。 パンの落下を、夢や見間違いとする解釈は、個別具体的な解釈ですから、その可能性もあると読むかどうかは読者にお任せです。それが許したりうるかどうかも。 しかし、パンが消えてしまったことで、事態が語り手には完結不能なものとして、読者に渡されてしまうことでは、作者も花緖さんのおっしゃる通りだと思いますし、そこに着目いただき嬉しいです。 動機はともあれ、作者もあえて、パンがそのまま落ちていたケースを語らない形にしました。 (黄色くて丸いパン)

2017-12-19

数ヶ月前の作品で、既に作者からのコメントもあるところに、コメントして良いのか、迷ったのですが、私もこの詩を拝読して、他のコメントされた方とは、たぶん少し違う感覚から思うところがありました。お邪魔でしたら申し訳ありません。 今、旧暦(太陰暦)生活を勧める本を読んでいるのですが、その中に、我々の体は7割がたも水でできている、という指摘があります。 月はあの大きな海すら変形させる。で、あれば人間の体の水分も引っ張って、影響を与えるのではないか。と、いう指摘で、私はなるほどと思いました。 それを思い出しつつ、音楽も、我々が水でできていることと深く繋がるものがあるかもしれないなあ、と、この詩を読んで私は感じました。 波紋のような図を鉤括弧で示し、少しづつ、水を語ってゆく。音楽も波紋であることが、腑に落ちました。 また、給水塔の穴からの小さな虹と水を視覚や触覚に感じ、それが展開して、無限定の巨大な水への感覚を呼び起こされます。 僕は、この詩はイイなあ、と思いました。 (音楽)

2017-12-19

今日は。 昨日、うちの子供が「有名人の顔を描く」と、いう美術の課題で、誰を書くかという話をしていて、美男か美女で、しかもアイドル歌手は外したいと言うので、私はフランスの新大統領とかどう?とか、ドストエフスキーか夏目漱石は立派で良いのではないか、どう?とか勧めたのですが、やはり若く、しかも個性的な顔の人が良ろしかろう、という話の流れになりました。 僕はジェームス・ディーンやアル・パチーノを勧めたのですが、子供はそんなやつ駄目だと言う。もっとカッコイイやつがいい、と。 そしたらすかさず、妻が映画「時計仕掛けのオレンジ」の主人公の青年を勧めました。あの三角形のポスターのやつです。それで困ってしまって、皆でビックリしたり、確かにあの目つきヤバイよね、とか話したり、それなら草間彌生さんの若い頃とかどう?と、団欒しました。 で、この作品のなかの「この作品」ですが、文字作品ですよね。でも映画に喩えたら、僕はなんか「時計仕掛けのオレンジ」を思い出しました。 あれ、うちの夫婦間では傑作扱いなんですが、家庭教育には向かないよなあ。一般向けにあれの愉しみかた注意事項を書くとしても難しいけど、この作品みたいな感じになるかもしれない。 作品としては、食べられないので延髄から入れてください、と、いうところで、作中の「この作品」の謎感が増して、その後も途切れずラストまで連れて行かれた感がありました。 (作品)

2017-12-19

hyakkinnさん、渚鳥sさん コメントありがとうございます。 私は短歌は好きでして、「週間実話」でゴーストライターと言いますか、常勝投稿者をさせて頂いていた時期もあります。自由詩を主に書いてはおりますが、なぜか時々短歌を書くと、体調が整うような気がして、煮詰まったりスランプを感じたりしたら短歌を書いています。 一方、同じ定形なのですが、俳句には苦手意識があり、数年前、小林一茶を読んで目覚めたばかりです。 今年は、口語自由詩の先輩が創立した句誌に、強引に、ではなく豪快に誘われまして、「短歌ではダメですか?」と伺うとダメだ、との仰せ。ただし、季語字余りその他一切、まるまる自由に気軽に作ってよろしいとのことですので、フリースタイルで書いております。 安達太良の句は、雪はまだ、と、冬眠す、と季節を示す語を重ねた、季語重ねになる句かと思うのですが、フリースタイルとしては問題なく、自分では気に入っています。目に止めて頂き嬉しく、福島に住んでおられた方に、想起して頂けたのは光栄の至りです。 また、詠まれた事象と作者の間の紙一重の距離をご指摘頂き、そちらも何となく得心がいきました。 私は、自分の内面に、何かしら語るべきことを見つけ、自分の口の語るに任せる、「短歌的な真実、真情」で作るフレーズを多用します。それは、自分の自由詩の方法として、僅かながら自覚してもいます。 しかし俳句は文字数制限があまりに厳しいため、「私」を描く余地がありません。その結果、情景を見ている「私」を含めた、客観視点の情景描写で書くことに落ち着いているようです。現実の、また作中主体の左肩から30センチだけ、ずらした、カメラ視点のようなもので、私の自由詩と短歌にはあまり使いたくない、ある意味「スカした(意気がってカッコつけた)視点」なのですが、普段は使わない分、禁を解いて楽しんで書いています。 細かいところ、コメントして頂いて嬉しいです。 (寒月とその他)

2017-12-19

今晩は。 武者小路実篤の詩を、僕は非常に好きなのですが、あれは詩ではないとか、ああゆうのは現代詩とは違うものとして評価すれば良いのではないか、などと言うひともいます。 ある人は、武者小路実篤の詩は、描写の詩ではないし、叙情の詩でもない。しかし、詩には思想詩というものもあるのだ、と言います。 歴史的には、思想詩こそが自由詩の始まりであり、それはアメリカの思想詩人ホイットマンに始まる、という見方もあります。 ホイットマン(「ぼく自身の詩」で検索すると、雰囲気がわかると思います)と、自由詩というものを初めて日本に紹介したのは、武者小路実篤からさらに時代を遡り、おそらく夏目漱石そのひとでありました。 下っては吉本龍明が、バカみたいに愚直な、泣かせる思想詩を書いてもいます。 さてスタイルとしては、そのように僕は肯定的なのですが、思想詩は思想が正しいかどうか、正しさでひとを感動させるものだと思っています。だから、誰でも書けると言えば書けるけど、むしろ難しいです。 この詩は、一言も間違ったことは言っていない、という爽やかさがこの詩にあるか? そう思って拝読すると、まだツッコミどころがあるかなあ、と僕は思いました。 ツッコんでみますと、 (1)天才に雑用させんなよ。天才は自分の仕事してもらえばいいじゃん。 (2)あなたこの詩で、「考えて」るじゃん。 などです。 俺は俺で良いんだ、という思想は正しいと思います。また、天才に任せときやいいんだ、と言うのも思想としてアリかと思います。 だけど、もう少しギリギリの真実みたいなので作らないと、思想でひとは泣かないよね、と思いました。 (バカモノ論)

2017-12-18

まりもさんも同じところをあげてますが、僕も「ファインディング・ニモ」が、固有名詞かどうかが気になりました。ニモならいそうですが、ファインディング・ニモは長いですよね。 例)ニモという名のクマノミを〜 これの良し悪しはわかりませんが、「ニモ」でよいなら二文字(^^) でコンパクトに納まります。 (短歌~無題)

2017-12-17

祝儀敷さん コメントありがとうございます。しかし、おそらく、「うまく言えて」いません。 エッセイには、文芸として歴史もありますし、現在の日本にも、エッセイを主目的にした協会やクラブがあり、教育コースや理論があり、お金が動き、自費出版も盛んで、まともに修練してみたことのない者には、とても口が出せません。 まずそこ、「エッセイとは何か」への考慮が、あなたのコメントには欠落しているように思います。 正面から受け取ると、そんな感じなのですが、おそらくあなたは「うまく言えていない」のではないか、と思います。 スタイル論として、他人のスタイルを否定するのは、多くの場合、不毛です。あなたの好き嫌いに合わせたスタイルで、私が書く道理がありません。 「エッセイのような詩」に、どれだけ膨大な数の、文学史上の傑作や名作が当てはまるか、、、 こんな話ではなく、もっと有意義な対話を希望します。 (黄色くて丸いパン)

2017-12-17

り さん コメントありがとうございます。 丸い、ということ きいろい、ということ たべもの(パン)である、ということ その3つの出会いは、何なんだろうか、と思うのですが、何なのか考えるだけで嬉しくなりますね。 パワーワードという評価、ありがとうございます。詩作の励みにさせて頂きます。 (黄色くて丸いパン)

2017-12-17

岡田直樹さん ありがとうございます。 小さいけど、悩ましい痛みをくんで頂き、また好評を頂けてとても嬉しいです。 (黄色くて丸いパン)

2017-12-16

今晩は。 一口に高橋っていっても色んなひとがいるでしょうし、コメントで作者が具体的な高橋モデルについて、もし語ろうと思えば作者には語れることを示しているので、読者が勝手に「高橋」を想像できるのかどうかわからないのですが、僕は高橋源一郎を思い浮かべました。 僕は、高橋源一郎が翻訳してくれたお陰で、ある面白い詩に出会えたし、彼の小説は面白いので、わりと愛してます。僕にとって高橋先生といえば、愛の対象です。 さて、この詩は第一連では、何か抱えて捻くれたひとが、高橋先生に、自分はひとになれましたか、と問う。 その問自体が鋭いけど、第2連では少し変わったやり方で問が鋭さを増す。 第2連では、どの文も、文が、ポキンと折れてます。折れることによって、なんだか心も折れるような痛みを感じるし、折れた断面の鋭さを感じました。 第3連はさらに鋭く、鋭く断面を露出させ、最後は高橋先生に、グッさり刺す。 気の毒な高橋源一郎さん(^^) では、さすがに私にとってもなく、最後の高橋先生は、もう少し人でなしなのかもしれない、顔のないイメージの先生でした。 語り口と内容が、相互に高めあっていて、面白い詩だと思います。 (高橋先生)

2017-12-16

今晩は。 こうした些細な、未来の自分すらもが忘れてしまうかもしれない、むしろ忘れる自分で在りたいような、小さな、珍しくない日常の一コマというのは、描き止めなけれ消えてしまうものだと私は思います。 それをどうやって描いたものかと、私はよく想うのですが、この詩は、こりゃあイイですね(^^) ゆったりとした、力強い言葉の流れによって、のびのび書かれていて、気持ちよく思いました。 (ある朝にぼくは)

2017-12-13

内容的には、アイロニーと解しました。ただし、このアイロニーは誰に向けられた、どんなアイロニーなのか明かされません。 中島敦の「名人」という不可解な小説に、不可視の矢で鳥を射落とす、弓の名人が登場します。アイロニーの矢は、思いがけぬ方角から飛来するとき効果的であると言いますが、見えぬ矢はその極致で、この作品のアイロニーもそうしたものかと思いました。 その関連として、カフカの短編の不可解なアイロニーも想起しました。 さらに解釈したのですが、私の解釈では、この作品のアイロニーは、カフカの作品のアイロニーが(私の解釈では)もしかしたらそうであるように、作者自身を射抜くものであり、しかしそうは記述不能なものなのではないかと思いました。 この作品は、嫌な緊張感のなかで、アンチクライマックスに終わります。スカッとしないし、何か足りないような思いを残します。 だから私はこの作品は傑作ではない、と思います。 しかし、これはこれで良くて、この不可解のまま、静かに存在を示し続けると良いなあ、と思いました。 (かみさまのはなし)

2017-12-13

今晩は。 第一印象として、私は小説として拝読しました。1つの視点から後半もう1つの視点に移動しますが、描写では何れでも視点のブレがなく、スムーズに読めました。設定された書き手が、前半では回想中の人物に感情移入して語るという構造で、書き手と視点が特殊な関係にありますが、それもそれが崩れて書き手と視点が近づいていく後半の、嫌な緊張感(一種の恐怖感)を産んでいて効果的だと思いました。 この恐怖感は、詩を書く人の多くが、その入り口で感じるであろう「詩を書くことへの恐怖」に似ていて、面白く思いました。フィクションの中の語り手と違って、この私は何を書いてしまうかわからない。私は何を書いてしまうのか、という恐怖です。それを思いました。 (コメント、続きます。) (かみさまのはなし)

2017-12-13

三浦さん コメントありがとうございます。 苦笑というのは分からなくて、少し読み直したり想像したりしてみたのですが、安達太良山は、名は有名ですが思いがけないほどたおやかな面影の山で、それと教えてもらわないと、あれが安達太良だと気づかなかったりしますね。 (寒月とその他)

2017-12-13

今晩は。 拝読しまして、一人の人、ひとつの心(作者)が、冬の日の家々のひとつの、その窓の向こう側に存在し、もの思う気配を感じました。 冬が来るなあ、って、窓の外を見てる。 言葉の流れの深部に、心の在り方みたいなものがシッカリとあり、寒々しくもその寒さがしっかり見つめられていると思います。「君」へと思いが動くのもナチュラル。心地よく拝読しました。 (再開)

2017-12-12

今晩は。お世話になっております。 拝読して、なんかもやもやするなあ、と、思ったのですが、もやもやの正体がわからず、しばし考え込みした。 以下はもやもやを切り捨ててサクッとコメントしますが、本当はもやもやしながら考えました。 このクレーム爺さんは、(詩などの)表現者としては最悪で、こういうのを甘やかすと、シーンが腐敗すると思います。 才能がある作者には敬意を、優れた作品には称賛を贈るべきです。そうではない作者や作品を、つべこべ言葉を貼り付けて讃えたり、優れた作品を放置したりすることは、芸術を損ないます。 一方で、才能を見抜いたり、優れた作品を正当に評価したりするのは、とても難しいことであり、例えば私など、私を高く評価しない評者や読者は、全員すべてボンクラだと思っています。 表現者とは、そういう生物ではないでしょうか。 才能がないとか、つまらぬ作品しか作れないとか自ら思うなら、表現することをやめれば良いのです。 そうした傲慢な表現者と、冷厳な批評家の相克なら、私は面白く拝読したかも知れません。 しかし、この芝刈りの翁さんは、自ら負けを認めた上で、立つ瀬を求めます。未練がましいです。そこを認めたら、創作などできないのではないか、否、しないほうが良い、と私は思うのです。 この作品は、私が今述べたような考えによらず、迷いながら書かれているように思いました。歯切れが悪いです。 それと、創作者は、批評ばかり気にして、批評家に受けることをモチベーションにしたりはしないほうが良いと私は思います。 むしろ批評から距離をおくことも、しばしば重要なのでは。 コンテストに勝とうが負けようが、花咲爺さんは、アーティストですし、花を咲かせることに余念がないことでしょう。 (芝刈レビュー 〜あなたの芝刈り見せてください〜)

2017-11-13

まりもさん ありがとうございます。 結果部分を最初におき、他をそれをあとから注解する書き方のご提案やご意見は、理解しておりますが、より親しく納得しました。 やっぱり、作品にどう感動したかを語ることが重要ですよね。私もそう思っております。また、そういうスタイルをとる、岡部糸子や、岡本太郎にかつて親しみましたので、ご意見はわかります。 科学論文には、ときどき、砂を食むようなドライな論理で固めているのに、それを乗り越えて我慢して読んでいくと、一文だけ、あるいは一語だけ、コッソリと歌い上げているものがあります。この散文では、そうしたツンデレ論文のスタイルを意図しました。 ですので、ツンのあとにデレ、としないと作者的には納得出来ないのです。 ですが、それに効果はなかったかもしれず、また考えてみます。 (歌詞「TOKIO」について(批評))

2017-09-25

追記 ここに述べた提喩や隠喩の定義は、ヤコブソン他の複数流派の言語学を参考にしつつ、最終的には防衛大の赤木氏の説を中心に取捨選択して、この論考内での用語使用として、私が独自に定義したものです。ヤコブソンだけでも引用しておけば、違いが分かったかもしれず、レファレンス不足を反省してます。 また、言語表現でないもの(ポスターなど)をレトリック論で解析した部分は、その論旨は「材料と方法」に書いた部分も私の独自見解ですが、その方法として「寿司批評」などを敢行したロラン・バルトの方法や、高橋源一郎が小説で行った各種の記号論的応用を参考にしました。そこはバルトのエクリチュール概念だけでも引用で示すべきだったかもしれません。 それらはこの散文の欠点だったと思います。 (歌詞「TOKIO」について(批評))

2017-09-23

いや、「結果」は、ベルさんと森田さんに、複雑に依存して発想していて、今回書いた以上には、オリジナリティを整理できない、か。 「材料と方法」について、この書き方は、どこまでが独自見解か分離してないから良くないかも知れない、というところですね。 (歌詞「TOKIO」について(批評))

2017-09-23

丁寧な補足、ありがとうございます。 ご指摘について、レスポンスに悩ましいところがあります。 どうしようかと思ったのですが、書いておきます。 この論考は、冒頭の全文引用以外、ほとんど引用はありません。 「材料と方法」に記したシャネルと糸井の隠喩的な手法についてなども、ソンタグの写真論やその他、記号論の影響を受けていそうですけど、実は私の独自見解を、さも通説のように偽装して書いたものです。 というか、過去の説の参照をきちんとやつてなくて、実は誰かの説であるかも知れないかとを、「私が思うこと」として書いており、論文でやるようにはオリジナリティの検証を固めていません。 結果」部分はフルオリジナルですが。 やはり、論文として、もっとガッチリ書けばよかったような気がしてきました。 (歌詞「TOKIO」について(批評))

2017-09-23

まりもさん ご批評ありがとうございます。 なるほど、この散文は、主要な主張がわかりにくいかもしれません。と、いうか、かなり混乱した文章かもしれません。わざとではないのですが、わかりにくく、長くてすみません。 「結果」とした部分から書き始めたほうが良かったかも知れないし、むしろ「要約」を冒頭につけると良かったように思います。 それか、普通のわかりやすい論理立てで書いてしまえば良かったかも知れません。 まりもさんがおっしやる批評の定義は、素敵な定義だなあと共感します。 実を言えば、私自身もそのように思う場合がほとんどですし、この散文を作成していたときは、 「批評とは、テキストについて、人々とコミュニケーションすること。それにより、テキストを人々と自分の言語の海の中に受け取ること。」 と、考えていました。 まりもさんのおっしゃる批評観と同じではありませんが、繋がる部分もあるのではないか、と思っています。 (歌詞「TOKIO」について(批評))

2017-09-22

とても気になる作品だなあと思いました。 カフカの小説には、軽妙な面白さと、ひとが意識したがらないような最悪の予感が混在しているように私は思うのですが、この詩もそんな感じがします。 (フランツカフカと遊んでる)

2017-09-21

おはよう御座います、12時間前のるるりらさん。 コメントありがとうございます。 ・佐藤イイよね (歌詞「TOKIO」について(批評))

2017-09-19

読者の創作とは考えていませんが、(2)は、糸井の予知能力を前提するため、「考察」で退けました。 残る(3)を妥当な解釈とした上で、(2)を結論に採用して作品評価しました。 これは、批評対象としたテキストに対して、可能な全ての思考を検討し、最も妥当なものを採用する、という網羅法を行い、その上でそれらより「感動」を根拠にしたということだと思います。 (歌詞「TOKIO」について(批評))

2017-09-18

ハアモニィベルさん コメントありがとうございます。 今回立てたスレにおいては、「批評とは何であるのか」と、いう問に前提としての答えは無いという設定で出発し、実践によって、参加者がそれぞれ自分なりの答えに、(なるべく遠回りしながら)近づいていくことを目指します。 このTOKIO論では、私に可能だった3つの解釈を示しましたが、そのうち最もニ次創作的だったのは、(1)ではないかと思います。(1)については、それがテキストだけからの読みでは困難であり、読者側からの持ち込みが多すぎるから、という理由で、「考察」で却下しました。 結果(2)と結果(3)については、ど (歌詞「TOKIO」について(批評))

2017-09-18

追記。 最後の一行は、無い方が良いと僕は思いました。  にたいと思ったり、 なたくないと思ったりは、ある種の状況や気分のときに、頭の中に巡る言葉だとは思うのですが、この詩のこの場所にはしっくり来ないような気がします。 それまでの流れから浮いてしまっているのでは。 (日記)

2017-09-17

今日は。 心配してるんだからね、と、いうフレーズが核になって、しっかり纏まった作品だと思います。 平仮名に開くことも含めて読む速度の緩急が工夫されていて、読み手を飽きさせない、ということも、優れた特徴だと思います。 (日記)

2017-09-17

今日は。 リズミカルに言葉がコロコロ展開して、感じのよい詩だなあと思いました。 タイトルは、18歳、というような意味にとりましたが、全体の流れや「おばあちゃん」という言葉の出現させかたや、ラストの切り上げ方が絶妙で、色んな事が唐突に起きたり、それでいて何にも起きないような気もする18歳を、どう暮らそうかなあ、みたいな感じが伝わりました。 (18)

2017-09-17

緒言において、誤字がありました。すみません。 ☓ 太郎政 ◎ 多様性 森田拓也さん コメントありがとうございます。 褒めて頂き、嬉しいですし、プレイヤーたちや仕掛け人たちが、あの歌に何を思ったのかとかは、この論考を否定的に乗り越える視点を出してもらって嬉しいです。 でも僕は、六十歳のジュリーがTOKIOを、実に楽しそうに歌う姿をユーチューブで見て、ジュリーらしいなあ、と思ったよ(笑) (歌詞「TOKIO」について(批評))

2017-09-17

考察において、以下を書き間違えました。 すみません。 >しかし、この歌詞を作者が好きなのは(誤) 正しくは、 この歌詞を、筆者が好きなのは (歌詞「TOKIO」について(批評))

2017-09-16

ハァモニィベルさん ご批評ありがとうございます。 詩作の励みにさせて頂きます。 (獣の変身)

2017-08-24

(るるりらさん) 伊藤桂一の「溶ける詩集」という詩を、遠い未来で構わないので、いつか読んでみて下さい。私からのオススメです。 夢は、それを見たひとに、おそらく何かを、時には見つめにくい何かを語っています。しかし、それは詩も同じ。作品は作者に、何かを語ってしまう。作者は作品に、語られてしまいます。 それに耐えて(伊藤はそれを知り、詩から離れましたが)、あなたはスランプ脱出されますことを、願っております。 私たちは、焦らず弛まず、自分の詩作を続けていきましょう。 (獣の変身)

2017-08-24

るるりらさん コメントありがとうございます。 (返詩) 山の谷間の、湖のほとりで 私は焚火を見詰めていた タキギをくべようと手に取ったマキに ナメクジが一匹くっついている 眼柄の上の、2つの小さな目が、 たぶん私を見ている 私はナメクジが嫌いだから そのまま火にくべようかと思案する 立ち上がり、 私から2メートル離れた地面にマキを置き もとの場所に戻って、ベツのマキを火に投げる 炎を、 私は見ている たぶんナメクジも炎を見ている ある観点では美しい、ビーズみたいな目で ぬめぬめした肌を、 ある見方では美しく光らせながら 無数の星たちが、私たちを 哄笑しながら 無音で 見おろしている (獣の変身)

2017-08-24

(続き) 門番について考えたりしながら、うーんなるほどと思いました。ありがとうございます。 文体についても、ありがとうございます。 一見、ユルい選語に見せる文体を、私はときおり好んで選択するのですが、この作品については、作者ながら自信がない、とは言いませんが、まだ切り落とせる感があります。 ありがとうございした。 (獣の変身)

2017-08-19

まりもさん ご批評ありがとうございます。 足なんかあってもなくても、怪獣は怪獣ですよね(笑)心とは不思議なものですね。 コメントを拝読して、私はカフカの短編に出てくる不思議で意地悪で怪物的な門番についてかんがえめ (獣の変身)

2017-08-19

私は『月と6ペンス』をまだ読んでいなかったようです。タイトルは、「6ペンス(現実)の1ペンス前に」という含みに解しましたが、『月と6ペンス』を読んだら、またこの詩を読んでみたいな、と思いました。 冒頭と第2パーツは、静かに個人的な想いを立ち上がらせてきます。 ここでは、 (引用) 埋めたい距離を隔てた  目の前にある  《こちら》    に、 彼女が、時折激しく語りかけるから。 (引用終わり) という表現。これは精密な描写とでも言うのでしょうか。遠い、しかし、その隔絶のこちら側にとっては切々と近く。印象的な、素敵な詩的表現だと思います。 続くパーツは、我らは何者か、何処から来て、どこへ行くのか。ということに、拙速に答えるのではなく、過去を呼び出し、近づいていく『マグネシウム』。 現実、現在を高次な隠喩で語るサハラ。そしてそこで(5枚)で終わる。 そういう詩かなあ、と私は鑑賞しました。 感じの良い詩だと思います。 砂漠のオアシスが幻影か現実か。それは砂漠を征く者しか知りえないことだと私は思うのですが、いつか砂漠のオアシスで一緒に美味しいジュース飲みたいね。そんな、感想も抱きました。 (ファイブ・ペニーズ)

2017-08-19

ハァモニィベルさん ありがとうございます。 頂いた解釈は、ひとは悪夢を、悪夢から醒めたときに、今は悪夢の状態でないことを実感するために見ている。と、いうセオリーを背景にしたもののように思いました。 この語り手の語る内容は、それで解釈しきれるように思いました。おそらく、おっしゃる通りなのです。朝が美しいとすれば、その美しさの細部に、(私の嫌いな)ナメクジの跡をも含まれていることの発見は、それもまた良し、というしかないことであります。 迷っているときに、地図を頂いたような気がします。 ありがとうございます。 (獣の変身)

2017-08-14

(続き)非常に鋭利な、有り難い解釈ですね。これはおそらく、寓意詩なのです。 ご指摘の、不足部分についてもよくわかりました。あと少し、例えば五文字ぐらい必要だったように思います。 (獣の変身)

2017-08-14

花緒さん そうかなるほど!と、思いました。ありがとうございます。 寓話における寓意というのは、表面的な意味とは「違う意味」でもありますが、むしろ表面とは「逆の意味」であるケースもあると思います。 おっしゃるように解釈すると、この作品を (獣の変身)

2017-08-14

アーティストステートメント 「怪物の多様性」 妖怪とか、お化けとか、怪獣とかいうもの(ひつくるめて怪物)は、人間の想像力の産物と言ってよいのかどうか、ちょっとわからないところがあります。もしかしたら、単純に実在かもしれません。でも、おそらく現在主流の考え方では、それを人間の認識力と想像力のアイノコ産物と考えるのではないでしょうか。 ところで、なぜ怪物にはこんなに多くの、しかし生物種数よりはずっと少ない、「種族」があるのでしょうか。 想像力の産物なら、一匹一種ぐらいで、何億種族もありそうなものだし、実在なら十種族ぐらいになりそうやものです。 私の実生活で、明日にも私の生命が失われかねない、恐ろしい存在と言うと、まずはクマです。次はスズメバチか、マムシかなあ。そらからマダニとか、ヤマビルとかがいて、寄生生物や病気を媒介する生物がいます。クモもゴケグモとかいますし、トビズムカデも嫌ですね。 一つ一つの遭遇リスクはひくいのてすが、やはり恐怖というのは生活の中に結構あります。道を歩いていても、トラック何かは結構な怖さの存在ですね。 怪物がたくさんの種類いるのは、もしかしたら、恐怖を分割、分類するためも知れせん。もし、怪物が一種類しかいないのなら、出会ったら即死てすよね。 それは、クマに対する恐怖とヤマビルに対する恐怖が混ざるようなことで、怖すぎてとてもやってられません。クマに会ってしまったらダメかもしれません。でもクマだからと考えれば、心構えもあるのかもしれません。 この詩はかなり前に作ったものですが、この夢は実際に見た夢で、これを見てすごくホッとしたのを覚えています。どうせこの怪物に殺されるのは、変わらないわけですが。 (獣の変身)

2017-08-13

失礼。七五五の間違えてす。 (青)

2017-08-12

撥音便(ん)をノーカウントにしますと、 私の青は(5)、あの夏に(7)死んだままだ(5)。 と、なり、定形詩なのかなあ、と思い、拝読しました。 「青」がよくわかりませんでしたが、わからないながらも、「私の青」という言葉に惹かれました。 (青)

2017-08-12

こんにちは。 私は定形詩と自由律は、批評できませんし、短詩も批評できません。 そこで、ごく私的な感想を書かせて頂きます。 長音を一音とすると、 山盛りの(5)トマトスープ(5)・パスタ、氷水(7)。明日(あす)も晴れ(5)。 と、いう音数で、すらりと読めるのですが、これは何か詩形を踏まえた作品なのでしょうか? その疑問で、私は立ち止まりした。 私がよく知らないからかも知れませんが、もし音数になにか踏まえたものがあるなら、それは解説を付して頂いたほうが、よりたくさんのひとにわかるんじないかな、と思いました。 今回は、定形でも、自由律短歌でもないと考えて、鑑賞しました。 最後の、明日も晴れ、が決め所かな、と思い、勢いは、そこによく集約していっているようにおもいましたが、肩透かしと言いますか、「何で?」と感じてしまいました。 ほんとに明日晴れるかどうか、よく伝わってこない、という感想です。 (無題)

2017-08-12

だいぶ前のことになりますが、レス中、ずるぷかる君の名前を間違えてしまい、大変失礼しました。 (縁)

2017-08-12

こんにちは。 電気といえば科学技術の代表みたいなところがありますが、電灯と言えば、何だかわびしげな気配も漂います。 マメ球となると、昭和な感じとでも言いますか、和風な感じで、むしろ光の外の闇を暗示するようでもあります。 そんなこんながありますが、これ、茶色の光なのかな。「淡く」のサンズイが、水に通じることとか、何か惜しいところで活かせてないように思います。きゅう、という面白い音が耳に残ることも、タイトルと打ち消し合ってしまい活かせてないし、と、いうのが私の感想でした。 (電灯)

2017-08-12

続けようと思ったのですが、このステートメントはここで終わりにします。 急いで一つ記すなら、私は結晶のような詩を志向しながら、それに反する詩論を我が詩論としたい。と、思っています。 それが、荒地にいると思いつつ書く者には、適しているのではないか、と。(ステートメント終わり) (ペペロンチーノ・半熟目玉焼きのせ)

2017-08-10

(ステートメントの続き) 黒田三郎を薦められてしばらくした夜、隣で呑んでいる寺西さんに、私は「紙風船」のことを聞いてみました。 荒地派とはこういうものだと語られていることと、「紙風船」の作風は、と、いうか黒田の他の詩の作風は、なんだかしっくりこないような気がしたのです。 「どうして書いたんですかね?」 と、聞いて、その答えに納得できず、また別の日に 「あれはどうやって書いたんですかね?」 と、聞き直したりしました。 寺西さんが何て答えたか、思い出せなくなっちゃったんですが、 「ふと、書けてしまったんやろね。」 とか、 「降りて来たんやろね。」 みたいなことを、ぽつんと言ってました。 黒田を知ってからもしばらく、僕は荒地派とは、コウチハだと思っていました。 何ヶ月だかわからないけど、気づくまでそう発音していました。だって、アレチなら「荒れ地」と書きそうなものではないですか。 でもアレチ派が正しいですね。 インターネットは荒地だ、と私は思います。 (ツヅく) (ペペロンチーノ・半熟目玉焼きのせ)

2017-08-10

Kaz.さん 返詩ありがとうございます。 アノマロカリス、私は知らなかったので、画像検索してみました。 これ、欲しいです。  https://goo.gl/images/i185Tg (ペペロンチーノ・半熟目玉焼きのせ)

2017-08-10

(アーティストステートメント) 「私は「荒地派」っぽくありたい」 私は詩のことを殆ど何も知らずに詩を書いていたのですが、いや、今もそうなので、先輩諸氏や研究熱心な若い方々に、非常に多くを学ばせて頂いてきました。 ある時期、詩学社社長の寺西さんに、それこそ「詩学(エチカ)」手ほどき連続講義みたいなことを、(振り返れば)していただいたなあ、と思います。 と、言っても、今にしてみれば講義だったと思うだけのことで、その時は酒を呑んでいただけのことだったのですが。朗読会の隅っこなどで、私などは親しくしてくれる人もなく、一人で呑んでいる。すると、いつから居たのか、いつの間にか寺西さんが横に居るんですね。 せっかくね、色んな人がくる夜会に来たわけですから、僕だってホントはイカス美女さんとかと知り合いたいわけですよ!まあ、そんな野望は潰えて、独りで飲んでるわけですが、寺西さんが横に居るのに気づくと、なんだよー、と思うわけです。 だけどそういうとき、あの人はとっても良い笑顔をしてるんですね。しょうがないんで、会場に生じた別空間に入るみたいな感じで、二人で呑むのですが、私があまりにも無知だから話ははずみません。お互い、ポツン、ポツンと話すのでした。 印象的なのは、当時の私は、「四季派」を知らなかったですね。ポエニクを主催していた「いとう」さんが、その頃、何かの弾みに四季派の話をして、私は知らなかったので、知ってるふりをしたのを覚えています。 荒地派は、もっと赤面エピソードで、寺西さんが私に、黒田三郎を読むよう薦めてくれたんですね。私は知ったかぶりをして、実は黒田も知らなかったんですが、 「ああ、黒田イイですよね。あれが詩だよナー。やっぱ四季派じゃないですよ。」みたいなことを言いました。 寺西さんはそういうとき、ニコニコ笑って黙って呑む。そういう人なんだよね。 後日、焦りながら黒田を読んで、僕はほっとしました。ホントに黒田が良かったからです。 後年、私は結晶性の高い詩、という言い方で一部の詩を呼ぶようになりました。これは黒田の紙風船を念頭においています。 (続く) (ペペロンチーノ・半熟目玉焼きのせ)

2017-08-10

ご批評、ご感想、そして返詩、ありがとうございます。 最初、なかなかレスがつかなかったものですからドキドキしておりましたが、好評を頂きとても嬉しいです。 また、しっかりした解析によるご批評や、深い味読を反映した「讃」のような返詩を頂き、光栄です。 (ペペロンチーノ・半熟目玉焼きのせ)

2017-08-10

て、ゆうか、やっぱり釣られておこうかな(笑) 死んだ語り手と言うのはユーゴーでしたっけ?死刑囚の最後の一日を一人称で描くのですが、死ぬとこまで書いてしまうので、誰にも書けたはずがなくて変。ってのが、文学史で引用されますね。 落書きの場合、それは有り得てしまう。落書きは、誰かが書き足したり、書き加えてしまうから、です。その場合、語り手が何処からか偽者なのだということになりますが、実は語り手は、そもそもの初めから偽者なのかもしれない。と、いうことになりましょう。 (「便所の落書き」としてのクリエイティブ・ライティング)

2017-08-08

2000年代初期、陰口専門の人に侵略される前の2ちゃんねるで、北さんも楽しんでいましたが、私や私の仲良くしてたひとたちも、テキストが自分から離れたところから発生することを楽しんでいました。 ポチツトナー氏による、現代詩自動生成ソフト「詩人の辞書」や、最強詩人氏による、いったん書いた詩のテキストをランダムカットバックをするためのマクロ「テキストツイッター」が面白かったです。 そうしたことをしても、最後は何故かそのひとらしい詩になってしまう。不思議なことです。 この作品でも、だいぶ「北さん節」みたいなところがあり、なんかイイね、と、思いました。 (草花ノート)

2017-08-08

面白いと思います。 私の鑑賞では、最後のブロックが作品で、そこに至る過程も読者に経験させる、インスタレーション作品として読みました。 その鑑賞だと、澤さんのディスプレイでは、力点が最終パーツに集約せず、分散してしまうことと、写真が鑑賞でかてしまうため、詩が発生してしまうことを読者が経験する、ということからは逸れてしまうように思いました。 (草花ノート)

2017-08-08

この作品を私は、十六文字改行で見ています。 それで拝見すると、フォルムがとても綺麗で、良いなあと思いました。 折り返しなしの表示にすると、三角の連続で、やや単調で、私の好みとしては折り返しがある方だな。と、思いました。 (門)

2017-08-08

私は1980年代から95年まで、落書きコレクターでした。 主にトイレの落書きですが、その他の壁とかも、写真に撮ったり、ノートに書き写したりしてました。 1980年代に、私はダンボール一箱分の詩を書きましたが、その頃の代表作が、その名も「便所の落書き」というタイトルの一篇でした。 コレクションした落書きをコラージュして、私のフレーズと当時の愛読書の数ページをアレンジしたものです。三人しか読んでないけど。 当時は、デジタルカメラも、インターネットもありませんでした。 花緒さんのこの詩を拝読して、時代だなあ、としみじみ思います。 植松聖を称賛するバカが、未だにネットにはいるそうです。新聞にそう書いてありました。 落書き、と言うものは、政治になってしまいました。とても野蛮な政治にです。 この詩は、その現実を踏まえますが、意見を述べず指し示す。 一種のアイロニーの詩なのかなあ、と思います。 (「便所の落書き」としてのクリエイティブ・ライティング)

2017-08-08

私は、語り手は真実を語っている、と考えて詩に向き合ってみる、という読み方をします。 それでうまくいくときもあれば、それではうまくいかない時もありますが、この詩については一つの解釈が可能でした。 語り手が十四年前に産んだ子供「きみ」が、お気の毒なことですが意識不明な状態になり、そうなる過程で語り手は、延命のための選択なり行為なりをした。 と、いう背景で、語り手が自分は二度、きみの命を作ったね、と「きみ」に語りかけている。と、いう解釈です。 その解釈で鑑賞すると、ひたすら切ない詩ですが、でも奥深い。 必要なら、何度でも生み直す。死体としてしか産めないなら、死体としてでも産むよ、という、これを何と言うのか。やっぱり愛かな。 (手作りの命)

2017-08-08

パンテイをかぶることで変身するヒーローの映画、「変態仮面」で、ヒーローがヒロイン(非変態)に、自分が変態仮面であることを隠していたのですが、 「君のパンテイをくれ、正義のために。」 と、泣きながら頼む、(一部のひとにとって)感動的なシーンがあります。作者は知らないかもしれませんが。 それを思い出しながら拝読しました。 現実には、この詩のようにヒロインには裏切られるよね。しかし、そうわかっていても、「君のパンテイをくれ」、と言った変態仮面は、正しいのであるし、この詩の女の子にパンツをあげた語り手は正しい。何故なら、言葉というものは、真実を語っていると信じて読む(聴く)べきものだからですよ。そこからしか始まらないのです。 なんてことを考えました。夕日に染まる白パンツ、イイね。あと、このヒーローは、真正変態ですね(笑) (白を信じて染みが付く)

2017-08-02

すみせん。 ☓ 発現 ○ 発見 (△)

2017-08-01

星を見る視線、という言い方では、僕の解釈は語れていないな。 太陽エネルギーを浴びる視線で、水平方向を見ることの発現。と、解釈しました。 (△)

2017-08-01

私は朗読もするので、この詩の言葉の速度とか、染み込みとか、広がり(会場へ言葉が拡がっていくときのナチュラルさ)みたいなことを想いながら詩を読みます。 この作品の、「底辺確保」というフレーズは、オーディエンスを圧倒するよ。その一言のポエジーの炸裂で。 これによって、僕らはピラミッドに閉じ込められたまま、その側面から外を見るのではなく、頂点から見る視点を発見する。 そして、そのピラミッドを九十度立てて、ピラミッドの頂点から星を見る視点で、過去や未来、また空間的な水平方向を見る視点を発見します。 星を見る視線で、隣にいるひとや、過去にいるひとを見ることを見つけるのです。 なるほど、序列や制度の檻は砕け散るよ。 凄まじい、魔法の一言です。それが飛躍ではなく、しっかりした言葉の繫がりで出てくるのは、この場合、僕はプラスに評価します。 るるりらさん、Poetry Japan出ればいいのに。勝てばパリに行けるよ。 (△)

2017-08-01

私はネットで詩を見るとき、ごく僅かな例外わ除けば、どの作品にも読む楽しみを感じるのですが、それと同時に、これは詩になってないじゃないか、と感じることが多いのも、ネットの特徴だと思っています。 私の感覚で詩ではない作品も楽しんでは読めます。しかし、「なぜこの作者は詩から逃げたがるのかな。」とか、「斜に構えて、詩をズラしてるけど、これで作者は楽しいのかなあ。」とかといった疑問が残り、なんとなく寂しさのようなものを感じることが多々あります。 その点、この作品は詩を書こうとして書かれた作品であるなあ、ということを明瞭に感じ、気持ちが良かったです。 レトリックとしては、テレビではバラエティ番組をやっている。それを写しているテレビごと部屋が映画館として幻視され、その映画館では淫らな映画が上映されている。あるいは淫らな場面が、かな。テレビにADULTものとか、エロティックな場面が映ってれば簡単なんですが、そうしない。 この構造であるための力が、彼女の描写になつてるのかな、と思いましたが、裸で映画館にいて、淫らでありながら冷めていることについて、もっと個人的な経験からくるものが伝わってくると、もつと良かったのでは、と思いました。 (氷の女王)

2017-08-01

ごめんなさい。思いついてしまって追記です。 女が動かず、変化し、男が動く形は、中心を真ん中に、持ってくれば保てますね。 性で男女反転させると、婚も生きますよ。 (結婚)

2017-07-30

その自解は、無い方が良かったかな、と思いました。 これ、くっついてるとき、イタシているから、性という言葉があるのかと思ったのですが。一行一月ならシテから二十月後の出産なので、そのオトコの子ではなくなってしまいます。 文字が離れているときにイタシていたか、妊娠判明前は時間の流れが速いのか。 破綻までいかないけど、作者コメントによって、「減ってしまった」感があります。 (結婚)

2017-07-29

(追記)読み返すと、言葉足らずなコメントでした。 「大麻でまちおこし」で検索すると、厚生省のページに行けて、隠語としての「まちおこし」がなんとなくわかります。 まちおこし、には言葉として他の意味へのつながりがあったはずだが、この作品ではそれには繋がっていない。大麻などを栽培するとか、それを販売したり吸引すること。また、それを目指すひとが集まること。と、いう意味で、まちおこし、という言葉が使われていて、そこにとどまっている。 と、私は解釈しました。 (カニ族)

2017-07-29

そこでこの風変わりな詩をどう考えるかですが、一種の「贋作」として理解しました。 詩は不思議な文芸で、天才と称えられる贋作詩人もいますね。チャタトンという少年贋作詩人のことを想いました。 ところで、もし作者に自責の念があるのなら、自己処罰としては、海江さんが死ぬ詩をたくさん書くと良いかもしれません。色んな死に方をすると、なお良いかも。たくさん書いて、詩集にまとめると、味わい深い贋作詩集になるのではないか、と思います。 (海江さん。)

2017-07-29

クレタのパラドックスではありせんが、例えば誰かが、 「俺は常に嘘をついている。」 と述べるなら、その言明は何も意味しない文であるとしか、受け取りようがありません。もしその言葉が本当なら、語られた台詞は嘘なわけですから。 同じ事情で、小説家が、「この作品はフィクションです。」と語ることは、とても滑稽なことだと私は思っています。 また詩は、小説ともエッセイとも、リアルとの関わりかたが違い、ある詩作品を、これはフィクションか?と、問うことはナンセンスでもあり、不可能でもある、と、詩の読者としての私は思っております。書き手としても、詩に嘘を書くということは、私には想像することもできません。 (海江さん。)

2017-07-29

すみません。 操作が下手で、不注意もあり、コピーに失敗しました。 上記は、(蛾兆ボルカ)と、あるところから下がこの作品へのコメントで、その上は他の方の他の作品へのコメントを、間違えてコピーしてしまったものです。 (続けます) この作品における天使とか、天国という言葉ですが、詩とは何か、ということを、暫定的にせよどう考えるかで、評価が別れるかなあ、と思いました。 私は一般論としては、吉野弘の詩論を信頼しています。 彼は、詩とは、対象(作者にとって大切な、特別な何か)を褒めることだ、と述べていました。 特別なものを褒めるためには、用意された言葉なんかない。そのための唯一無二の特別な言葉を作るしかない。それが詩だ、というロジックであり、なかなか強力な詩論だと思っています。 しかし私は、しばしばこの詩論を捨てて詩を書きます。 この言葉で書いてしまうのは安易なのではないか、というまさにその言葉をあえて選ぶのです。 それは、また異なる、詩とは降りてくる言葉だ、という詩論の帰結です。 その詩論を実感するとき、それに逆らうことに私は意味を見出しません。言葉とは、みんなで作るものだからです。 この詩で、天使という言葉がこのフレーズに使われたということは、人類の歴史の(微細ではあるが)一部であり、この天使という言葉の運命のひとつだ、と、私は考えるのです。 以上です。いろいろミスがあり、すみませんでした。 (海江さん。)

2017-07-27

やや熱を帯びた 真夏を過ぎて 悲しみの向こうに からりと乾いた汗は 優しい匂いがするのかもしれない コメント欄を隠すTwitterでシェアFacebookでシェア 花緒 花緒 (1 時間前): 初めまして。生きること、と、悲しみ。相反する訳ではないのかもしれません。ポジティブとネガティブが対比された作品ではないですが、生、と悲しみが、繰り返しリフレインされ、ぐるぐると回っていくところに、音楽、があるのかもしれません。後半、もう一段伸びやかさが欲しかった気もしなくはないですが、楽しく拝読いたしました。 蛾兆ボルカ 蛾兆ボルカ (3 分前): この詩は結晶度が高く、何万年もかけて育ったクリスタルのように美しいと思います。 にも関わらず、これは今月亡くなった方に捧げられた、今月書かれた、機会詩です。 話が脱線しますが、私は、人生のほとんどの場面は、たった一つの言葉でしのげると思っています。「俺はまだ本気出してない。」と、いう言葉です。 でもこの言葉でしのぐからには、一つの言葉をときどき言えるようでいたい。「俺は、キメるときは、キメる。」と、いう言葉です。 しかしそれは、難しいんだな。 機会詩を書くときに、この詩のように、結晶として書くというのは、日々の鍛錬が偲ばれるし、亡くなった方との交流の素敵さを証すものだと思います。 人が死んだとき、人間に何ができるか。ある関係にあるある人は泣くでしょう。例えば、最愛の息子を亡くした母親の誰かは、涙が涸れても泣くでしょう。因みに、涙って意外とすぐ涸れますね。本気で泣くと、一晩で、泣いても出てこなくなります。それでも声だけで泣きつつけたひとを、私は知っています。 そんなこともしてあげられないひとは、何をするか。 詩でも書くしかないよなあ、と、思うのですが、なかなか難しいことですよ。 この作者は、それをしっかりやっているなあ、と思いました。 (続く) (海江さん。)

2017-07-27

ちなみにこの作品におけるカニ族の語は、ヒッピーの隠語として、さらにヒッピーとはマリファナ吸引者の隠語として使用されていている。そしてそこに停止している。と、私は解釈しました。 花緒さんの解釈は素敵だし、なるほどそう読みたいところだが、もしそう解釈するなら、前に進めずに、旅行者というより車内引きこもり者であった自分が、もっと切なく、カニ族として自覚されなければならないし、禁制品の運び屋であることが暗示されている箇所も、語り手の立ち位置の混乱になつている。 まあ、一読者の一つの読みなのだが、私には、上述の印象だつた。 (カニ族)

2017-07-27

カニ族とまちおこしを、単に隠語として使用している。象徴や隠喩として芯が通っていない。それは、いささか下品なのではないか。と、思った。 例えば、SMの女王様は、「たたせろ」という命令に奴隷が応えようとするとき、 (よしよし。芯が入って来たわね。) という言い方をします。 これは、象徴や隠喩に通じてるから、なんか、もののあはれ、みたいなのが漂うわけです。 でも、この作品でのまちおこしは、単にマリファナをめぐる隠語として使用されていて、だから深みや味わいがない。 花緒さんとは逆の読みになるが、だからこそやっと安心して書けるわけですけどね。 花緒さんのように読む人もいるかもしれない。僕もこの作品に、青春の抒情があることは認める。 (カニ族)

2017-07-27

おはようございます。 作者の内心を知るすべのない、いち読者として、なんですが、ひとつコメントを付け加えさせていただきます。 この詩は、スマホから読むなら、スマホを横長にして、小さめの文字で表示したほうがイイね。 (BACK TO THE ACID PLANET   (B-REVIEW EDITION))

2017-07-27

これはまた、ものすごい傑作なのではあるまいか!と、思いました。 数週間、私は「アガルタのシャンバラ」という自作品を改稿して、それを表題作にした詩集を作りました。 シャンバラというのは、地底国アガルタにあるという都なのですが、そこにピラミッドがあると言うのですね。 そのピラミッドに私も惹かれていたのですが、ピラミッド自体は主題にできず、温泉の詩になりました。 なんで僕には、ピラミッドの詩が書けないのか、不思議だったんですが、この詩を拝読さて、「ユリイカ!」と叫びたくなりました。 これでしたか。あれは三角つてより、四角いんだよな。底辺に寝っ転がって宇宙を見る、ものすごい視点マジックです。 (△)

2017-07-25

まあ指摘は長々できますが、要するにタフな作品だよね。コイツわかってねーな、と言わせない作りです。 それと、エスプリがイイね。 経済がなぜこんな無茶苦茶なのかと思考する、クールヘッド、バット、ウオームハートな感じもよいです。以上なり。 (BACK TO THE ACID PLANET   (B-REVIEW EDITION))

2017-07-25

とても面白い傑作だと思います。センスの良さが、感じいいナ。 二本の五階建てビルの形状の詩ですが、その縦横比や一行空きのシマシマ模様など形状の美しさと、ビルの現れ方の偶然性(少し環境依存するため、読者ごとにいくらか違う形になる)と設計性のバランスも良いと思います。 テキストは、各連に、無自覚な映画的手法がない、という特徴がハッキリあり、文を書くということへの意識の高さが、この作品が読むに値するテキストであるための水準を超えることを支えていると思います。 例えば、映画のエスタブリッシュ ショットのようなものは、この詩では各連冒頭にありません。カットバックや、切り返しショットのようなものもない。もともとそんなものは現実には無いのだから、文と現実の関係を思考したことのある書き手なら、安易に映画的な手法で書いたりしません。 他の観点でも、「お話」や「説明」ではないものへの集中など、 (BACK TO THE ACID PLANET   (B-REVIEW EDITION))

2017-07-25

アバウトな紹介をしてしまい、すみませんでした。 僕が連想したのは、藤田嗣治の、アッツ島玉砕、という絵です。 画像検索してみたところ、残念ながら、形が分からないまでに低品質な画像しか私は見つけられませんでした。この絵には、ところどころに花が描き込まれています。それが判別できる画像がもしありましたら、その絵です。 しかし、関連書籍や、図版を収録したムックは多く出ていると思いますから、後日、図書館へ行く機会がありましたら、観ることができるかもしれません。 (唸る絵筆と折れた傘)

2017-07-23

こんにちは。 拝読していて、僕はフジタが戦争協力して描いた(とされる)絵を、ふと想いました。実物は見たことがないのですか。 ただ、僕が想起するフジタ作品とこの詩の情景は細部が一致しないし、フジタは積極的に戦争協力したと思われることとか、彼は無名ではなかったことなどから、フジタがこの詩の主題とは思いませんでした。もっと後悔しながら戦争画を描いたひとを想像しましたが、あまりはっきりせず、作者の感動の在り方がわからない、という印象でした。 この詩は、色面、空間構成、量塊など、絵画的な要素を言葉で表現しようとする苦闘みたいなものは、私にはあまり感じられなかったし、主題も曖昧なように私は思いました。 (唸る絵筆と折れた傘)

2017-07-22

詩を書いている成人の男女が、自分の子供が自分の詩をどう読むのかな、などと、ふと思ったりするのは不思議な事ではないし、時々は詩に自分の子供を登場させて、いつか子供に読まれることを織り込みずみの詩も書いたりしたいのも奇妙なことではないと思います。 僕も時々、子供に読まれることが前提の詩を書くし、知人もそうした詩を書いています。 また、そうした語り口の詩には、口語自由詩にも過去の名作もたくさんありますね。 種類としては、そうした、取り組みの多い、ある意味王道、ある意味ライバルの多いジャンルじゃないかと思います。 この詩は、産まれた日、という、その子供固有のものを丁寧に詩に昇華し、慈しんでいて、そのオリジナリティの高さが、その子供へのプレゼントとしての素敵さになっていると思いました。 ただ、細部がどうなのかな、と思いました。 詩は読者により読みが違うので、あくまで僕の読みにより感じたことにすぎません。また、どちらにせよ、小さな違和感に過ぎないのですが、二三個を具体に上げておきます。 タイトルについて。 タイトルは、英語で不合理な、の意味。 実数をリアルナンバーと呼ぶのは、ずいぶん面白いことで、無理数を不合理な数と呼ぶのも、変で面白いことです。この語から予測不可能な子供の歩みを連想するのは、詩的な発見だと思いました。 でもそういう詩だと思って読むには、なんか物足りない感じがします。それは、ルート5が無理数になることのおどろきが、論理の必然として、または感情の困惑としても、しみじみわかるようには表現されてないからではないか、と思いました。 とほく ここはなぜ遠くでないのか、違和感がありました。 右目と左目について 右目は左脳、左目は右脳に関わりそうに思うし、そうだとすると、この詩は逆のように思ったのですが、違いましたでしょうか。すみません、調べてはいないのですが、なんかそうだったように思います。 僕が間違つてるのかもしれませんが、もし僕が勘違いで違和感を持ったとすると、他にもそんな人はいるかもしれません。 そのあたりの科学的な話は、注があったほうが良いようなきがしました。いや、それは常識とみなせるからこれでいい、と、いう意見もあるかもしれません。 どっちだろうと思うのですが、いずれにせよ、僕はそこで引っかかりました。 (irrational)

2017-07-20

書きはぐりました。 後半の扉は、朝まで呑んで、店を出るときに押し開ける扉を主に、そして灯台の海への扉を重ねて、僕はイメージしました。 (扉)

2017-07-20

バッハのピアノ曲に、三個とか四個の複数のメロディーが同時に進行するものがあり、グレン・グールドのような名手が弾くと独特の哀しさと明るさが漂います。そんな詩を書きたいものだと思うことが僕はあるのですが、これは、三声(三つのメロディー)の詩として拝読しました。 冒頭の扉は、崖の上にある、灯台のような建物のなかにいて、海に面した扉を開くイメージ。そしてそこから最後まで、海辺のイメージが続きますが、それを綴る言葉で、僕には新宿ゴールデン街で飲み歩いている初老の詩人のイメージが浮かびました。 さらに、それらと別の、第三のメロディーとして、街に立つ晩年の老婆のイメージが浮かびました。ちょうど、グールドが右手の一部と左手の一部で、第三のメロディーを弾いていくように。 昔、新宿冬子さんから買った詩集に、街頭詩人についての記述がありました。 街頭詩人は民衆の根源的な在り方なのではない。街頭詩人は群衆の根源的な在り方なのだ。 その詩集は既に手元にありませんから、正しい引用はできませんし、そもそもその詩集は引用禁止が明記されたものなのですが、そんな群衆論がそこにあつたと僕は記憶していて、その記憶が、白島さんのこの詩を拝読していて、老婆の下りで僕の脳裡に蘇りました。 (扉)

2017-07-20

そうか、タイトルをクリックしてから、コメントを入力すればいいのか!! 今、気づきました! 世の中、僕の気づかない、他の人たちが気づいてることつて、たくさんあるんだろうなー。なんかびっくりです。 この作品ですが、とても難しいことをやっていて、気持ちがイイです。上手いなあと、思いました。 日常語では簡単だけど、詩ではなかなか書けやしない、難しいこと、例えば「お兄ちゃん、最近どう?」、みたいな大事な言葉を詩で書くには、たぶん呼び水みたいな魔力のある言葉がいるのでは無いかと思うのですが、作者はずるぷうか君を上手く掴まえました。 チャンスには前髪しかないとか。 (縁)

2017-07-19

腰が座ってるとでも言うのか、感情がコントロールされた強度で展開してて、流れがしっかりしてるかんじがしました。スター性を感じるなあ。 僕は、ロックンロールな朗読詩人に、四人ぐらい出会いました。 ジュテ―ム北村さん、TASKEさん、ワンダーボーイさん。一人は出会えずに、死後に詩集を読みました。それはカウミン タウリさん。 あなたのフレーズはそういう素敵な人たちに共通する響きを持ってると思います。朗読で聴いてみたいな。 それと、この作品は、言うまでもなく、あなた自身を追い込んでしまいかねないわけですが、これだけにとまらないで、他の詩も書けば続けられると思います。マイペースを大切に。 (泣きボクロちぎり取って投げた、金魚たちが食ってら)

2017-07-19

文があちこちして、散漫になりました。失礼しました。 (四番目の息)

2017-07-18

今晩は。 僕は、タンスの描写のあたりまでは、これは猫かなあ、と思いながら読みました。 マントと表情が出てきたところで、ああ、コウモリでしたか!と、思いました。 斧が出てきたので初めて、仕方なく妖怪の類いとして読みまして、我ながら疑い深い読者もあったもので、どうかと思います(笑) しかし、そんなことにも、僕にはない、龍人さんの個性が出ているのかもしれません。 不意に出現して、告げる者。それは不当な、許しがたい存在ですよね。あってはならない、と感覚させる存在です。そして恐ろしい存在です。 それが龍人さんの感覚なのではないでしょうか。 異形が現れるより前に、不可視の者たちが走り回りますが、龍人さんは、それは異形の者に対してほどは怖がらない。それはもしかしたら、不可視の者たちは、何も告げないからではないだろうか。 僕なら、不可視の者たちのほうが怖いかもしれないのです。 龍人さんは、異形の者に対して、話しかけません。また、逃げたり戦ったりもしません。布団を被る。 僕なら怒鳴りつけたり、話しかけたりして、関わりを持ってしまい、結果、困ったことや恐ろしいことになってしまうのかもしれません。 何気ない作品ですが、具体的に、主人公に感情移入してみると、僕とはずいぶん違うところがあります。 そこに龍人さんの個性とか、生きかたみたいなものを、そこはかとなく感じるなあ。 龍人さんは、たぶん、生き物として正しい、生き延びる確率の高い反応をしてるような気がします。 それが作品全体に、不思議な安定感とリアリティを与えたますね。 お話的には、不可視の者が訪れてきたら、追っかけて廊下や階段を走り回る子供が主人公のほうが、たぶん面白いお話になります。異形の者がこっちを見てたら、迷わず話しかけちゃう子供のほうが、お話的には展開します。 でも、人生はそういうもんじゃないのかもしれないし、そうじゃない子供をこの作品で今読むことに、何か面白さわ感じました。 (四番目の息)

2017-07-18

読み方に気づくのに数分以上かかりました。 数時間ではなかった。 認識を引き伸ばす異化として、ちょうどいい難しさだなあと思いますし、階段を登る感覚が表現されていると思います。 (十三階段)

2017-07-16

(追記) すみません。 タイトルと内容の乖離について、龍人さんのご指摘にレスを追記させて頂きます。 そこは、仕込みました。龍人さんの解釈の、レスの中の後半部分のようなことを、読者の内部から、それぞれに違う形で引き出し、一人の少女の姿のイメージを描くためです。 (パップリポンから来た少女)

2017-07-16

(続き) こちらの不慣れのせいですが、書きかけのコメントが、しばしば失われそうになります。 その度、失われるよりはと、急いで送信したなるので、ぶつ切りになってます。すみません。 タイトルを副題と入れ替えるなど、幾つか考えましたが、タイトルにも仕事をさせていますので、この書き方でぎりぎりかなあ、と作者としては考えています。 しかし、作品の評価にもかかわり、ご指摘は大変重要と思いますし、今後の参考にさせて頂きます。 ありがとうございました。 (パップリポンから来た少女)

2017-07-16

私は、詩と説明を融合させられないため、作品ごとに色々とジタバタします。 この場合、副題ではどうなのかですが、これは背景説明であると同時に、「この詩を特定の故人に捧げる」という献詞でもあるため、脚注では失礼になるのでは、と思います。 また (パップリポンから来た少女)

2017-07-16

龍人さん コメントありがとうございます。 様々な細部を読んでくださり、また全体を踏まえた解釈や、好意的なご感想を頂き嬉しく思います。 一方で、副題については、どうなのだろうというご意見も頂きました。 作品の背景に係る説明的な要素を、作中に書かず副題に書いたのは、詩語を綴るときと、説明をするために言葉を使用する時とでは、私の場合は、私自身の意識の在り方が異なるため(主観的には、「何処から来た言葉か」も異なります)、混在させるのが難しい、という作者の個人的な事情によります。 これは私の個人的な性向で、必ずしも一般的ではないかもしれませんが、私はしばしばそこで苦労します。 語りたいのは詩なのですが、説明がなければ通じない、と感じる場合、詩に説明を (パップリポンから来た少女)

2017-07-16

白島さん コメント、ありがとうございます。 この詩は、ごくささやかな捧げものにすぎませんが、私にとっては書かなければならない詩でした。詩的真実という言葉をいただき、大変光栄です。 私は、これよりは気楽な詩を、たくさんや書いておりますが、また折折には、こうしたものを書いてゆきたいと思います。そのととき、詩作の励みにさせて頂きます。 (パップリポンから来た少女)

2017-07-15

(続き) 赤ちゃんには、そうした時期があります。あれって可愛いですよね。 コメント拝読して、音を読む、ということの深さや鋭さに驚き、学ばせて頂きました。 (パップリポンから来た少女)

2017-07-15

まりもさん コメントありがとうございます。 赤ん坊って、ぴぴぴぴ、とかいちてる (パップリポンから来た少女)

2017-07-15

(続き) キリエル人って、かなりKYなんじゃないかな、と思うのだけど、これを読んでしまうと、彼らの経験とか、知識とか、思想とか、なんかちょっと偉いのかも、とも思えてしまいますね。 それと、キリエル人つて、僕も検索してみたのですが、姿がなんか少しデビルマンに似てるかもしれないな。 (キリエル人(きりえるびと・ウルトラマンティガ))

2017-07-14

(続き) 角田さんの怪獣への眼差し(それは変な眼差しですが)で、怪獣の素敵さを僕らは見る。 この作品では、キリエル人にたいして、僕らは、そうした眼差しを持つ贅沢を手に入れます。 (キリエル人(きりえるびと・ウルトラマンティガ))

2017-07-14

僕にとっては、怪獣記、とでもいうようなものを読む面白さだと思います。 例えばシートン動物記を読んだひとにとっては、キツネというのは(オオカミも)、特別な獣になるだろうし、白鯨を読んだひとには、マツコウクジラというのは、海獣となるでしょう。 ●●記の約束として、僕らは作者が、その生物(とか怪獣とか)の基本的なスペックについては正しい記述をしている、と、期待して、それらの●●記から愉しんで学びます。 生き物にかぎらず、小泉八雲の伝えるお化けたちにたいしても、そうできます。 この作品では、キリエロイドについて、僕らは作者を信頼できる。まんいちそこで間違えていたら、僕らではなく作者が悪い。 だけどシートン動物記に出てくる一匹のキツネが世界の子どもたちのキツネ観を変え、白鯨に出てくる一頭のクジラが世界のおっさんのクジラ観を変えるように、この作品は、この作品以前のキリエロイド観を、作者が勝手に変えてしまいます。 その代わり僕らは、キリエルびとの観点でものを見ることができるようになる。 そして、シートンの、動物への敬意の眼差しをたのし (キリエル人(きりえるびと・ウルトラマンティガ))

2017-07-14

この作品は、未完成なのではないか、という感じがしました。 四部構成で起承転結にわりふられた形態をしていますが、割り付けただけで、まだ力学的エネルギーが発生していません。 起承転結は、結にドラマ(対立、相剋)のクライマックスが来て、そこでラスボスがぶっ殺されたりしないといけません。あるいは転で鮮やかに決め抜くか。 これでは、転はツナギだし、結も流れていて、締まってません。 (RETURNING_TO_THE_SECOND_UNIVERSE)

2017-07-14

これはすごい。 大量の工夫が惜しみなくつぎ込まれ、ハーモニーを奏でています。 冒頭、かわいた風を連想させる「は」と「ほ」が丁寧に、ナチュラルに押韻され、また、口をすぼめて静かに発音される「そ」が押韻され、同じように静かな「つ」や「す」、物質に喩えるなら「水」が予感されています。 この繊細な流れが、3連「すいこまれるように冷たい」で、最初の小さなクライマックスに至ります。そこは、ため息が出るようにうつくしい、と、思いました。 意味においては、読む、ということへの(語り手自身への)端正な厳しさ、言いかえれば優しい冷たさ、を感じました。 (惑星)

2017-07-13

(続き) この詩論のさらにうらに、詩の地底国を築くような詩論を私は探していこうと思っています。 地底国アガルタには、シャンバラという美しい都市があるのだ、と伝説に言いますよ。 (詩論 ルドンの眼)

2017-07-13

僕には、この詩論は、親しみを感じるものでした。 僕にとっても、十代の終わり頃にしていた詩作は、内なる深淵を見ることでしたし、この散文の筆者はそうした詩論を新詩集に至るまで、おそらくは中年期の初めまでに捨てたということなのかな、と、拝読したのですが、私も若い頃の詩論は捨てました。捨て去るのが数日か数ヶ月か、分からないけれども少し遅ければ生きていなかったでしょう。 さらに、この白島さんは、若い頃の詩論を離れても、そこと不可視のケーブルを接続して詩を書いておられるのかな、と思うのですが、私もそうです。 むしろちょっとぐらいは、ここに書かれていないことをコメントしたいなあ、と愚考しまして、安部公房を持ってきました。  安部公房BOT 安部公房BOT @abekoubou_bot 見ることには愛があるが、見られることには憎悪がある。見られる傷みに耐えようとして、人は歯をむくのだ。しかし誰もが人間になるわけにはいかない。見られた者が見返せば、今度は見ていた者が、見られる側にまわってしまうのだ。 『箱男』 清水氏がいうように、深淵を見つめるひとに、なんでわざわざ深淵を見たりするのかを問うても、おそらくは、まだ生きているからだ、としか言いようがないのでしょう。 しかし、その深淵を見るときですら、見るからには見るものは対象への愛を差し向けているのではないでしょうか。絶望への愛も愛である、ということから、この詩論のうらに (詩論 ルドンの眼)

2017-07-13

角田さん コメントありがとうございます。 作者である僕は、この詩について、またパップリポンについて、何も語れませんので、読者に語って貰えてありがたい。とても嬉しいです。 (パップリポンから来た少女)

2017-07-12

るるりらさん コメントありがとうございます。 嬉しいなあ。読んでもらえて。 この詩には、様々なバージョンがあり、それぞれのバージョンをネットや朗読会で披露したり、それにご意見を頂いたりしました。 るるりらさんは、別バージョンも読んでくださったと思います。 メビや現フオに書いてから、こうしてネットに里帰りするのに何年もかかりましたが、最終的にこうなりました。それを報告できて嬉しいです。 眼福という言葉、知っていたけどご無沙汰していた言葉でした。見る幸福。素敵な言葉ですね。 (考察と「苺」)

2017-07-12

(続けるつもりでさしたが、やはり続かない。) (パップリポンから来た少女)

2017-07-11

花緒さん コメントありがとうございます。 この作品は、副題に示した通り、童話作家であった亡き母の想い出を主題としたものです。 そして、それ以外のことを(この詩については)語るすべを作者たる私は知りません。 なぜならこれは、既に何事も語り得ないひとに捧げた歌ですから。 コメントを頂き、この詩を解釈することや、批評することの困惑について、私も考えました。 そして、なるほどなあと思いました。 私にとって、死は謎であり、生は神秘です。 (続く) (パップリポンから来た少女)

2017-07-11

副題は「想い出」の誤入力でした。 初出は「焔」107号(2016.7.)ですが、異同があります。 (パップリポンから来た少女)

2017-07-08

追記)僕は最終連がズキュンと来ましたねー。 あと、それなら最初から悲しく透明に叙情すりゃいいのに、どうしてこんなことしちゃうかなあ、というとこが素敵。 (変なプレイ)

2017-07-08

(続き) 他にも、この作品が、もしかしたら世界初かもしれない詩的てがらと言うべき表現が、いくつもありますし、推理小説的な構成も、効果的に、孤独や絶望感みたいなものを表していると思います。 しかし、何故か、(ああ、面白いなあ!)という感想に至りませんでした。 何が不足だと自分は思うんだろう、と、しばし悩んだのですが、 ここにはやはり、名探偵が欠けています。そこなんじゃないかなあ、と私は思いました。 (よせばいいのに)謎を解いてしまう怪物的阿呆。その怪物性への哀しい共感が、この作品では寸止めされていらるように思います。 (皆殺しの比喩)

2017-07-08

良いとこがたくさんある詩だと思いました。 例えば、 (引用) 包茎を長い年月をかけ剥いていくように 「花びらを (引用終わり) 簡単に剥けるひともいますが、剥くのに、二三年かかる家系のひともいると思います。人によってはもっとかかりマスよね。 でもそれが語られるのはとても珍しい (皆殺しの比喩)

2017-07-08

たいへん面白く、軽やかに思考の翼を拡げて、自由に、かつ細やかに構築された、労作な駄作なのではあるまいか。と、思いました。 実に心地よく、才能が浪費されていて、イカス詩だと思います。 読後、(それがどうした)としか言いようがないのですが、そこがイイ。 センスが良く、読んで楽しい作品、DETHね。 (変なプレイ)

2017-07-08

先ずは学名や亜種名で主題の植物を固定し、食味や毒性に関する注意や葉の形などを語るほうがわかりやすいですし、言葉としてのタビラコとかホトケノザとかが何を意味したかは、まずそれが複数種を総称して指したのか、変遷はしたにせよ、単独の種を指してきたのかについて、見解をのべてから、北さんのご意見を論述したほうが良いと思います。 (タビラコと仏の座のロゼット)

2017-07-08

拝読して、想いは伝わるのですが、情報の伝達の面ではあまり良くなく、分かりにくい作品だと思いました。 まずは学名で属名と種名を明記したものを文の主題や主語にして、それがどう呼ばれたかで整理してほしいです。 そのうえで、ある言葉(タビラコとか)が、がくめい(続く) (タビラコと仏の座のロゼット)

2017-07-08

こんにちは。 湾岸戦争からそれはどたっていない頃だったと思うのですが、四元康祐さんによる「世界中年会議」という詩集が世に出ました。 私自身が、若い衆から『おつさん』に脱皮というか變態というのか、変わりつつあったころで、カフカや安部公房とともに、おっさん化の美学について私が考えるとき、必ず立ち戻る地点となりました。 ひとは乙女というくくりで人間を束ねることに対しては、流されるなり、反抗するなり、積み重ねがありますが、おっさんでくくられることにはまだ慣れていません。 ビンラディンも、ミックジャガーも、駅員も、(もしまだ存在してるなら)イエスも、おっさんであることの悲哀において同質であり、それをカテゴライズすることは、世界には非おっさんなものもあるけど、吾はおっさん道を征くしかあるまい的な諦めを私にもたらすのですが、悪くないですね。 この詩には、それがそこはかとなく漂うのを感じ、愉しみました。死して屍ひろうものなし。それがおっさんの生きる道、なのである以上、半田も熊も我等の同輩です。 (DO_NOT_CROSS_THE_BORDER)

2017-07-08

エイクピアさん コメントありがとうございます。 星空の星から、苺のつぶつぶへの、この詩の展開の仕方を何と言うのか、実は私は知りません。 これも、メタファーの一種なのかも。 (考察と「苺」)

2017-07-06

花緒さん コメントありがとうございます。 ワイアーで細部まで接続された、ある意味、外部を喪失してゆく世界というのは、宗教や封建的な観念でひとびとががんじがらめに接続された社会、さらに言えば全体主義的な社会ということと、一見似ていると僕は思います。はたして、同じような極限に向かうのかもしれませんし、全く違うかもしれません。 双方向通信による情報社会が、これから全体主義や管理社会というのとは方向の違う、もっと素敵なものに向かうためには、個を押しつぶしてしまわないことが大事だと思うのです(人格の尊重)が、このサイトはそのあたりよく練られていて、快適に参加させて頂いてます。 それでも僕は、協働の反対の志向性、個を拡張して他者と繋がるのではなく、逆に、個のままの自分に他者を取り込むことで複眼性に至るとか、個のままの他者に自己をインストールすることに向かいたいなあ、と思っています。 (考察と「苺」)

2017-07-06

まりもさん コメントありがとうございます。 構成を細く読んでくださり、とても有り難いです。 (考察と「苺」)

2017-07-05

生命観→生命感 車体→被写体 誤字です。すみません。 (被写体)

2017-07-04

こんばんは 。 面白い詩だなあと思いました。 きゅうん、は、何だか良いですね。 私は、写真と言うのは死体を映す機械だと思っています。機械としては、です。 そう思い込んでいると言った方が正確かもしれません。 生物は動いています。しかし写真の中では時間が止まっていて生物も止まっている図で映されます。生きてる間は生物は動いていて 死んだらこうなるというものが写真にはうつるのだと 私は思うのです。 しかし実際には写真家は 人物をその人の生命観と共に うつします 不思議と言うか理屈に合わないというか そんな風に思います。 被写体から切り取られた肉のような画像であるはずのものから、何故か、おそらくは文学のようにして、 車体そのものが部分的にとはいえ ある瞬間のそのものが その生命ごと 定着される。その奇妙な感じに、この詩のきゅうん、はよく似合うなあと思いました。 質問の所も面白いです。 質問されて答えるまでの間に、むしろ、質問をされているまさにその間に、 質問された我々は質問者に何かを盗まれるようなそんな気がするときがあります。 その感じは、そういえば snapshot を不意にとられたような感じかもしれません。 (被写体)

2017-07-04

子、は詩の誤変換です。すみません。 (砂糖菓子とブレスレット)

2017-07-02

こんにちは 皆様のコメントを拝読して、詩を読むことに長けていてすごいなあ、と思いました。 この詩では、表層で語られていることから直接物語を無理やりに読み取るのではなく その断片それぞれから 構成される 一つのまとまりとしての心の動きを味わうのが豊かな読みなのかな、と思いました。 私の読みは、誤読と言っても良いほどの、表層のみの貧しい読み方だったかなと思うのですが、強く印象に残りましたので、コメントさせて頂きます。 私は人が死んだ後しばらく魂はこの世に残って、そして去っていくのだというような世界観に わりあいと親近感を感じるのですが 、この詩はそういう場面を描いたものとして 拝読しました。 そしてふと 千と千尋の物語の 主題歌の中のフレーズ、 生きていく不思議 死んでゆく不思議 というフレーズ 思い出しまして、どんな歌だったのかなと思いました。 そこで検索してみました youtube でウクライナの美女が歌っている https://youtu.be/d4Kijkkz4f0 これを見つけました。 既にご存知の方も多いものかと思いますが、私は初めて見まして、衝撃を受けました。 知っていたつもりの詩が、 全く違うものに聞こえたからです。 解釈によってこんなに変わるんだな。怖いけど、それが詩なんだろうな、と思いました。 さて、そんな風に読んだり思ったりしていた私ですけれども、皆様のコメントを拝読して、さすがに自分の読みが浅いのではないかと思っているのですが、 私の読みでもこの子はなんとなくてはありますが 去っていく人の 思いを丁寧に叙情したものとして、感じいるところがありました。 (砂糖菓子とブレスレット)

2017-07-02

今日は。 拝読して私は、視覚詩とは違う意味で、ビジュアル系の詩だなあ、と思いました。 私も天才美少年に萌を感じる質なのですが、この詩には、失踪直前の元祖自分探し、デカルトをイメージしました。 ニーチェ自身またはそれ以後なので、もちろんこの詩ではデカルトがモデルということはないのですが、私がデカルト少年に感じる萌要素がここにもあるなあ、と思いました。 (内省モラトリアム)

2017-07-01

花緒さん、まりもさん ありがとうございます。 細部まで味読してくださり、また激賞頂き、大変励みになります。前半が丁寧過ぎる(もたついている)ような印象、または疑問についても、忌憚なくコメントしてくださり、嬉しいです。 まりもさんが上げておられる詩書を私は読んでいないのですが、詩の現在を捉えようとする意識のなかに、私とも共有する問題意識もあるのかもされません。 もしいつか、機会がありましたら、「民衆詩派ルネッサンス」という、最近の評論を手にとってみて頂けると幸甚です。口語自由詩の歴史を見直し、詩の現在を、ちょっと新鮮な観点から考える一書だと思います。 この詩を書いたとき、私にはイデアという言葉を隠喩と並べる意識はありませんでした。 この春、小説「騎士団長殺し」を読んでイデアという言葉に出会い、今また、まりもさんから、イデアという言葉との出会いを拙作への批評の中で頂き、大変嬉しいです。 (純粋ラーメン)

2017-07-01

誤変換すみません。 草野心平を遠く反響しながら、 でした。 (シュール)

2017-07-01

もしかすると、ですが、この誤字のちゃあは、そのままの方が良いかもしれません。 この詩を読んで、僕が感じるのは語り手の魅力です。 最も一般的な、通俗的な意味で、です。 この人は何を言ってるんだろう。 この人の言葉を聞いてみたいなんとなくこの人と話がしたいこの人と友達になりたい そういう言明すると馬鹿馬鹿しいような非常に通俗的な意味で、この語り手はとても魅力的だと僕は思いました。 先日ある女流歌人が、最近の歌人は、言葉を大事にはするけど、あまりガチガチな言語的細工は今の流行りではないと言ってました。 一見、化粧してないように見せるお化粧が、いいと思う、と言うのです。 この詩も、ナチュラルメイクの魅力によって この作者が というかこの語り手がこのように表現されるのかなと思いました。 ナチュラルメイクと評したものを、分析しちゃうのがどうなのかと思いつつ、深読みもしてしまうと、 草野心平トーク反響しながら るの魅力 しかしここでは 逆に欠損不在によって語るという 素敵なシュールなんじゃないかな。フリーダムでイイネ、と思いました。 (シュール)

2017-07-01

こんにちは。 ちょっと面白い詩だな、と思いました。 比喩を逆にしてみると、しないより、よっぽしっくりくる場合があります。 たとえばビアガーデンでビールを飲んでいて、ふと、ビールのジョッキってビルみたいだなぁ、と思う。 でも、ビルみたいなビールってのは、詩としてはなんかイカシていないなあ、と思ったりして、逆にしてみる。 ビールみたいなビル、と言ってみる。 そんなことを僕は時々やってみたくなります。そうすると、思いがけなく、しつくりきたりも、時々は、します。 この詩は、もしかしたらそんなふうに書かれたのかな、と、楽しく空想したりしながら、僕は読みました。 (ビールみたいに運ばれて)

2017-06-30

誤変換  数年前、焰で知り合った詩友として、純粋詩、と言う言葉がこぼれました。 正 焰で知り合った詩友と話ていて、純粋詩、という言葉がこぼれました。 誤変換  だから今更 この歯茎を 指定してより散文的なものを書くことが 正 だから今更この詩形を否定して、より散文的なものを書くことが どうもすみません。   (純粋ラーメン)

2017-06-28

(アーティスト ステートメント) 数年前、焰で知り合った詩友として、純粋詩、と言う言葉がこぼれました。 それは僕ら二人の間に ころん、と何かが転がったような唐突さで、そのまま二人、少しだまり、その話はまだ宙に浮いたままです。 その時僕らは 民衆詩派の話をしていたのだし、 口語自由詩の100年の歴史の話をしていました。 面白い話だったしこれからもその話を続けていくのですが しかし僕は不勉強なので、いったい自分がどんな話をしていたのかも、相手が何を言っていたのかも、ここに書くことができません。 ただそのパーツとしてちょっとした小さな一つの課題として 今から 後60年ほど前に書かれた 韻律や改行や古語に頼らない、見た目が小説みたいな散文詩 の一つ について話をしていました。 そういう詩は 口語自由詩の初期からたくさん試みられたし、試みたと言うより傑作と言われるものもたくさんあります。 ずっと昔に そういう形式と 北原白秋の様な もっと詩らしい詩の対立があり、 色々あって、、、。しかし結局のところ、それら二つを共に遠く先輩として、たとえば僕が今書いているポエムっぽい詩が 歴史の先端ではないか、 というようなことを僕は 語ったと思います。 だから今更 この歯茎を 指定してより散文的なものを書くことが詩の先端だとは思わないのだ、と。 話し相手はその時 ポツリと でもご融資が僕は好きだな 憧れるんですよまだあるんだとかな 純粋詩って言うとかな。 と、言いました。 僕が不勉強のためその会話はそこで終わってしまい 純粋詩という言葉はそのままそこに放り出されたその時から僕の課題になっています。 詩らしさに頼らないのは 純粋な詩の本質。何だろう、それは。とも思うし、 そう言いながらそれが詩として読まれるのは 詩らしい詩が あるということを前提に、そこからの距離で存在しているのではないか 。だからあんまり純粋じゃないじゃないかと思うし。 1年ほど前に、「純粋おっぱい 」という書名の私家版詩集をだしました。 僕なりの純粋詩を 探求しています。 (純粋ラーメン)

2017-06-28

真摯な願いに素直に生きられたか、 と書こうとしまして、推敲途中で送信してしまいました。 すみません。 (「最後の花」)

2017-06-28

こんにちは。 拝読して、とても良い詩だなあとおもいました。 見る、見られるを逆転したようなうまれつきの花ですが、宿命がねじれたようになるのかと思いきや、ラストでさらに逆転します。 見られたい、という想いは、それを本当に宿命として真摯に受けいれるなら、実際に見られたかどうかより、見られたいという真摯なに生きたか、ということに逆転します。 (「最後の花」)

2017-06-28

懐かしいですね 。 当時、詩板には いろんなスレッドがあったけど 僕は 面白いなーと思ってよく覚えているのは「 35歳だけど うんこを漏らした。俺を慰める詩を書いてください。」ってスレです。 誰も慰める気なんかなくて、珠玉のフレーズ (笑)がたくさんあった。 そういう変なのとか 殺伐としたので埋まる掲示版の中に、ときどきほんとにピュアな詩があったんだけど、書いてた一人が北さんだったわけですな。 当時も今も ピュアなものの良さが分からない奴は 素人童貞だと僕は思ってます。 とは言え僕自身 、ピュアを意識しては書かない たまたま偶然 何十個に1個ぐらい自分で これはピュアな詩だなと思うよな 、しかも事後的にそう思うものを書いてしまうというぐらいです。 武者先生は僕も詩法としては否定するに至りましたが 、やっぱり凄いですよね。90歳超えてあのピュアさですから。 この詩のタイトルからは このフレーズを 書いた時と今と作者の間に距離がある ことを 思いました。 でもそれを再構成するということに今の作者をも感じます。 少し長くなりました。とりとめのない感想、失礼しました。 (2005-2006 詩・ポエム板 北 ◆FUCKcjokcg 恋の短編集 )

2017-06-25

るるりらさん チャオ! また交流できて嬉しいです。よろしくお願いします。 コメントありがとうございました。ご指摘のところは、作成にあたり作者が 仕組んだ場所です。 丁寧に読んでいただき深謝します。 ある人の人柄にたとえたところは 花緒さんも 着目してくださいましたし 、るるりらさんにも 拡げて読んでいただいたようですので、よかったな、と思います。 コロッケを崩すところは わざと コロッケではなく蕎麦を食いました。 蕎麦の香りと だし汁の湯気の中で 美味しいコロッケが溶けていく様子を 表したかったのですが、成功していないかもしれません。 作品と距離がとれたら、再考してみます。 ありがとうございます。 (コロッケそばが食べたい)

2017-06-24

田中恭平さん コメントありがとうございます。 人は食べ物に対して 保守的で、食べ馴れないものを食べてみたいとは、なかなか思わないものだと思います。 田中さんは食べてみたくなったとのことですので、大変光栄です。 耳を傾けてくださり有難うございました。 (コロッケそばが食べたい)

2017-06-24

バツ その他の子の子の多くの部分で死んでいない少女、 その他のこの詩の多くの部分で の誤変換です。すみません。 (2005-2006 詩・ポエム板 北 ◆FUCKcjokcg 恋の短編集 )

2017-06-24

こんばんは北さん 拝読して、非常に ピュアな詩だなあ。 と思いました。ピュアというのは 混じらない方がいいものが混じっていないということだと思います。余念がないことかもしれません。 冒頭と最後の所に明示されますが、と、思うわけですが、 一人の少女が死にます。その他の子の子の多くの部分で死んでいない少女、あるいは女が描かれていると思います。 時間軸をシャッフルするということが行われて寺山修司のような感じでしょうかアフォリズム的な外観をまとい、またはアフォリズムになっている。 そして寺山修司的な優しさ、記憶への寺山的な手付きと同時に、ギリシャ神話のオルフェイウスみたいだなあとも思いました。 悲恋を描く時 男は ごめんなさいとか悪いことをしたなーとか そういう雑念が交じれがちたと思います。 それが混じると森鴎外がエリスに行ったしうちのように、あるいは太宰が女中さんにしたことのように、それはお前が悪いんじゃないかみたいな変な作品になってしまう。 北さんのこの詩には、それがないのが、ラブソングとして、とてもイイなあ、と思いました。もちろん、悔恨には悔恨の叙情があるでしようけど、このピュアな感じは僕は好きです。 悔恨の混じらない悲恋と言うのは、私は経験がなく、想像すると身を切るように辛い悲恋かなとは思いますが。 (2005-2006 詩・ポエム板 北 ◆FUCKcjokcg 恋の短編集 )

2017-06-24

レス削除ありがとうございます。 私が指での タップが下手なためのミスです。すみませんでした。 ステートメントも誤字や句読点の変なところが多く、読みにくかったと思います。 読んでいただきありがとうございます。 (コロッケそばが食べたい)

2017-06-22

誤字が多くすみません 。「作品全体を見渡して)、の誤入力です。 (離反)

2017-06-22

すみません操作ミスで途中で送ってしまいました。続けます。 私はこの作品に 、主人公が自分ではない主体が自分ではない という感覚を読むのですが、それが孤独であると同時に 世界の豊かさの感覚につながっているような気がして、そこが良いなと思いました。 ラストの可塑性と言う 言葉での 表現も、面白いなあと思いました。 見ている 主体はあちら側 。でもそれ に、 応力とかレスポンスで詩的に、柔らかく反撃もする。 確かにそうですよねもし私が粘土なら 粘土をこねる指が感じる応力が、指の側から私向きに、個と個の断絶に、小さいけれど大事な 一撃を与える。 ウィットと言うのでしょうか。そんなことを想いました。 作品に大体を見渡して 、たんなる私の好みではありますが、やはり冒頭からの入り方が読みにくく、 (読み込んでしまえばあこれが端的な表現なのかも知らないと思えますが、) 私はこの作品では、それは、つまり読みにくさは効果をあげておらず、むしろ欠点ではないかなと思いました。 (離反)

2017-06-22

こんにちは 母親と娘のシーン、 鮮やかでいいな、と思いました。 主人公が自分ではなくその2人であるというような感じがしました。 (離反)

2017-06-22

すみません。掲示版の反応を待たずにタップしてしまった。 (コロッケそばが食べたい)

2017-06-22

祝儀敷さん、花緒さん こんにちは。 あまりにも素朴すぎる詩、というご意見と、そうでもあるまい的なご意見を頂き、嬉しいです。 私は作品の意味は読者が付与するのが、作品の幸福と思っておりますので、作品の自解しませんが、作者なりの詩論を語るのは愉悦とするところです。 そこで、以下にステートメントを書かせて頂きます。 (ステートメント) ミツバチのダンスのように 詩で食べ物の美味しさを描くとか、美味しく描く、ということ課題に、私は魅せられてきました。 ミツバチは8の字ダンスで、花畠の場所を伝えあい、カラスは一県に数ヶ所ほどあるネグラと呼ばれる広域集合場所に、数万匹も集ってカアカア鳴きあつて餌場を伝えあいます。 しかし、人間が言葉で、美味しさを描いて伝えるのは、実のところ、とても難しいことです。 とは言え、美味しさを描くことに成功した詩人もいないではあらません。 じっさい、智恵子抄の智恵子が噛んだレモンは、なんて瑞々しいのでしょう。また、賢治の描いたアメユジュはなんて爽やかなのでしょう。 かれらは何故、あの奇跡のような詩を書けたのか。私が思うに、彼らは、妻に、或いは妹に、なんとしても美味しいあれらを食べさせたかった。その想いが、秘技に通じてじたのではないでしょうか。 しかし、まどみちおの、りんご、はどうでしょう。この美味しさ は何なのか。不思議としか言いようがありません。 私は、カラスのように語り、ミツバチのように踊る詩人でありたいと願っています。 (ステートメント終わり) (コロッケそばが食べたい)

2017-06-22