作品投稿掲示板 - B-REVIEW

浅井康浩


投稿作品数: 2
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2017-05-07

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2017-04-02

結構、書けるし読める人なんだろうな、と思うのでシンプルにかきます。 「世界」を認識しようとする「身体」。際限なく「希求」できるものとして世界は広がっていくのだが、それを認識するインターフェイスとしての「肉体」は、限りなく広がる世界と相反するように「虐殺」されてゆく。 「希求」と「虐殺」というパラレルな形で進められるこの「作品」は、だが、本質的にはなにかを「犠牲」にすることが必要となる点において、同じと言わざるを得ない。 もちろん、際限なく広がってゆく「希求」を、「過去」へとベクトルをねじまげ、 >夜よりも夜の果てに沈んでいった者たちの果てしなき千夜一夜物語 内面化してゆく「虐殺」が終わるころに >ぼくたちの幕をおろす黒子の数だけ生命体はこの世に存在しています それを支える生命が見えてきたあとに >兄は子宮へ帰りました子宮はすでに宇宙でした宇宙は兄そのものでした 拡がった「希求」の行きつく先が「虐殺」されてゆく「身体」とつながる、という単純な構図なのだが、結局のところ、「世界」「身体」のインターフェイス、あるいは境界面が変質していく瞬間をオートポイエーシスとして記述し続けることのできないので、「スタイル」そのものが確立されていないように感じてしまう。もったいない。 (小夜瑠璃物語)

2017-08-04

生/死、肉体/サイボーグ、わたし/あなた いずれも両極端なコントラストが書かれているのだが、そのどれもが仮構されたもののように捉えられるのは、その両端をめぐってなされる過剰な「視線」の往還が、いずれも「目的」を持つものでもなく、また「完了」に達することもなく、ことごとく意味を見失いながら宙づりにされ、意味を特定されない「身振り」にすらなれないからだ。 また、「~でない。」「~できないし、~もできない。」(たべたりのんだりできなかった 食べたときには…意識をなくす/あんな仕草は できない のに 強靭な、… からだを 見せられなかった)という否定に次ぐ否定においても、それが直接的とならないのは、その依るべき視線の主が「意識をなくす/そればっかりに きをとられてい る/死に向かうあいだ 実際死んでしまって いて(死ぬ瞬間が抜け落ちている)」というように主体となりえずその間接性を際立たせているからだろう。間接性が際立つにつれ「わたし」の「行動」そのものは「視線の往還」そのものに還元されてしまう。 だが、その意味が特定されていない単なる「視線の往還」であるにすぎないものは、身ぶりとして意味をもつことなく潰えるかといえばそうではなく、反復して使用される身振りは、そばにいる「あなた」に対して言葉を重ねてゆき方向性をととのえてゆく。「動詞」に否応なしにつきまとう未完了の部分、過剰な部分は「あなた」とつながることによって整うかのように見える。「わたし」は理解しようとする相手の発話の一語一語の上に、自分が答えるはずの一連の言葉を積み重ねてゆく(ただひとりの にんげんです ただの に んげんです とこたえたので ああそうなんだ とこたえた)しかし「わたし」は「あなた」にかけられたとおぼしき言葉を引用し、(おて んばなことをするのをやめなさい「外にいけないから日を一瞬でも かんじていたいの。」)そこに新しい意味を含ませながら、なおその意味がすでにもっていた意味を保持して(おとなをからかってはいけない んですが おてんばなこと をしてるだけ)言葉のなかに対立する感情も同時に包含させてゆくのだが、そのいずれの試みも わたしが欲張りであるのだと 思い知らされてしまうの 廃棄されたごみがわたしのものかと錯 誤して というように、「行為」そのものが決して完了形となってあらわされることのない。つまり突き詰めてはならないもの(あなた)に触れようとして手を伸ばすけれど、届かず、名残惜しさだけをのこしてふと閉じてゆこうとする(誰かとあなたを繋ぐ番にだってなりた い) その視線のやりとりだけがリアルに感じられる (砂糖菓子とブレスレット)

2017-06-30

朝顔さん、霜田さん、三浦さん、返信ありがとうございました。 ご意見、今後の参考にさせていただきます ありがとうございました (no title)

2017-05-17

もとこさん、返信ありがとうございます。 もとこさんの使う「観察者」という言葉は、つまり、もとこさんの批評スタイルそのもののようにも思えます。 作品の意図を読み解き、それを繊細な言葉に置き換えてゆくスタイル。 >起きてしまったこと、を、起き得たこと、と時間を遡行して言い換えようとしている(でもそれは不可能である、ということによって、限りない切なさが生まれる)というような。 このようなディティールの読み解きは、贅沢なようですが、やはり意見陳述と結びついたものとして読みたいと感じます。 ディティールを読み解き、作者の意図を社会的な文脈に位置付けて、読み手なりに意見を述べる形であればよいのに、と(贅沢にも)思わせられる言葉でした。 花緒さん、返信ありがとうございます。 >作者の意図するところとは異なる読みかもしれませんが 「作者の意図する」読み、ってなんなのでしょうね。 「異なる読みかもしれません」と注釈を添えるということは、暗黙の了解において「作者の意図する読み」というものに沿う批評が望まれるのでしょうか。 また、そもそも「作者の意図する読み」というのは存在するのでしょうか。 自分の主観に基づく価値判断にいかにして説得力をあたえるのかよりも、「作者の意図」に思いを巡らす「批評」というものがあるのなら、その有用性はどこにあるのだろう、というのも気になるところです。 (no title)

2017-05-09

>単純に例え話として壮大な気がしました。そういう意味でロマンにあふれた作品ですね。 単純、っていうならば、時間や場所に関係なく、海外からでも書き込みをできるこの掲示板につながることのできる、「現代」を取り扱った作品ってのが「壮大」っていうのであって、それに比べればこの作品なんてのは人が地上にはいつくばってる人を扱っただけの、ロマンどころか「みすぼらしい」作品なのだと思ったりするのだけれど、どうでしょう。 (no title)

2017-05-02

>わたしの背に 連綿とつづく原野 そこに暮らしていた 一匹の仔兎が 今夜 死にました という形をした基本領域があって、同じようなフレーズの基本領域で作品中が埋まってゆく。 >わたしはひとり 兎を追悼する 準備にかかりました という相似の言葉を置くことで、前後にリズムがばらまかれて主旋律をなす。 そのあとに寓話、神話という対象操作を施して、はじまりにおいて一つの領域ができると同時に、それに対称操作を加えて生まれたリズムが作品の領域の全面を覆い尽くす。 このような傾向は紅月さんに特徴的なものだけど、この「死にました」「準備にかかりました」っていう作品そのものを貫く丁寧な言葉遣いとはいうのを何度も繰り返すことは、繰り返すことでエモーションが増幅される、というメリットはあるんだけれど、かっちり決まったフォルムを持っているので、クリシェに陥ってしまいやすい。 そのために、 >兎を、弔う 兎を弔う みたいなノイズ的なものを挿入している、とは単純に思えないんだけれど、そこらへんはどうなのでしょう。 いやいや、クリシェに陥ったとしてもあくまで丁寧なトーンで何度も倦まずに >連綿とつづく原野 と最後まで駆け抜けてますよね、っていうのもひとつだし、丁寧語などで作品のリズムの基調をなしてゆくとそれにひきずられながら最後までオートマチックにかけてしまう、というリピートしつづけるリズムにがっちり拘束されながらも、クリシェに陥らないための表現をどのようにするのか、というのも注目していたいところだと思います。 だが、単純にリズムの問題に還元できないと思うのは、 >「寓話」「追悼」「神話」「世界」 など、その言葉の空虚さを補填する操作をしていないことなんですよね。 もちろん、「寓話」「神話」そのもののメタ感を出す、っていうのもそうなんだけど、この空虚さっていうのが、メタ感を高めるためでなく、時間軸が直線的に流れていないために引き起こされる空虚さに由来するもの、とも捉えることができて、 >わたしの背に 連綿とつづく原野 そこに暮らしていた 一匹の仔兎が 今夜 死にました、という あざやかな寓話 が何度も反復されるのは、リズムだけでなく、 >もしも、 仮に、 と 神話を 量産する わたしが ひとつの 神話 だとしたら >そもそも 兎が うまれることのなかった世界 とあからさまに描かれているように、物語が入れ子状に配置された、直線的時系列を持つことのない、かつ「信頼できない語り手」によって、無限に反復される「健忘症」としての「寓話」をめぐる「空虚さ」というように読めてしまう。はたしてそれはどのようなことを指すのか。というのも、 >兎が死ぬ世界にいる わたしの誕生 兎が死ぬことのない世界にいる わたしの誕生 という「境界」の空間において、境界そのものが多元的なアイデンティティを内包する可能性を秘めていることに言及することなく >人々は そもそも 兎が うまれることのなかった世界に 黙祷を捧げていた わたしはひとり 兎を追悼する というように「境界」周辺の言説の摩擦が「寓話」「神話」の定義を超える可能性そのものが検討されていないし、そもそもその必要性さえないように書かれている。つまり「寓話」そのものが無限にループしてゆくことが前提となっている。それってリピートしつづけるリズムに「寓話」そのものが嵌まり込んでいるようで、リズムと寓話の予定調和が永遠と続く事態になりはしないだろうか。いや、それはべつにいいのだけれど、寓話、あるいは神話そのものの「転移」あるいは変遷を、完成されることない「寓話」の生産のプロセスとしてとらえてみること、そしてその契機を背反する「世界」に見る可能性もあったのではないか、と思うと、このような作品の別の可能性が見えてきて自分は面白く感じる。 (Land Scape Goat)

2017-04-30

葛西さん、返信ありがとうございます。 >なんだかいろいろ言うのも野暮かなあ 葛西さん、大人ですね。 (no title)

2017-04-09

まりもさん、返信ありがとうございます。 当たり前の話ですが、創作意図などをここで語ったとしても、それが「正解」であるとか「意図」がどれくらい作品に反映され、読み手がその意図に従ってメッセージを過不足なく受け取っているか、などの「判断」は、まったく意味をなさないものである。というのがあります。 そのうえでいうなら、「オムニバス風にもっと断片化」したものがこの作品で、オムニバス風になるまえの「そこに入り込んで詳述していく方向」というのが例えば、下記の http://bungoku.jp/ebbs/pastlog/382.html#msg7072 ようなものとなります。 上記のような「そこに入り込んで詳述していく方向」の作品が縦方向にいくつかあり、それを横串でもってオムニバス化した、ということができます。 もちろん、そのオムニバス化にあたってのテーマであるはずのポスコロの「地図作成法」がごっそり自分の中で忘れられていた点については >詩的情趣に満ちた散文詩部分、最後に置かれた、全体を総括するような連――論文の最後に置かれた要約であったり、長歌をしめくくるように置かれた反歌のような部分と、歴史的叙述の断片のような部分との混在の意図が気になりました と見事に指摘されたとおりです。 (no title)

2017-04-09

Fiorinaさん、返信ありがとうございます。 >読み進むことがただただうれしい。 書いてよかった、と思えます。そのような読み方をしていただけたのはありがたいです。 (no title)

2017-04-08

花緒さん、返信ありがとうございます >クリエイティブライティング作品として、本作は優れている の根拠が、 >詩誌の投稿欄では収まらない、自由度の高い形態の作品群 といい、その「自由度の高い」というのが >紙に打ち出すなら、もっと長くても良いのかもしれませんが、スクリーンだとややきつい分量 というような、文字数の多寡に還元されるべき要素、ということでしょうか。 >ネット詩メディアの運営に携わることとなった手前 とのことですが、「あるべきネット詩」というものは「投稿作単体」だけが優れているということはありえないのではないでしょうか。運営に携わるのであれば、自分自身の問題意識をいかにサイトの特色として反映させ、潜在的な投稿者にいかにアプローチするのか、あるいは投稿された作品をどう社会とシェアしてゆく仕組みを作るのか、などトータル部分でのありかたが「あるべきネット詩」というものだと思ったりもします。 (no title)

2017-04-08

もとこさん、返信ありがとうございます。 作品の「要約」ありがとうございます。 「要約」部分を除けば、 >欧州の古典的名作のプロローグを読んでいるような気持ちになってくる。 >そこに秘められた物語に対する豊かな想像力。 >この連に織り込まれた美しさと哀しさ >壮大な組曲 というような、(読書感想文で優秀な成績をおさめそうな)「中学生のような感想文」であることはご自身で言われている通り否めないようです。 >ちなみに織物(textile)とtextの語源は同じである。 というような視点を掘り下げていければ、「要約」にならなかったかも、と思えるだけに、残念です。 (no title)

2017-04-08

三浦さん、返信ありがとうございます。 >浅井康浩さんの本作に流れるものは何か。それは、変遷をたどることにより今を知る系譜学と世界で同時発生することが粒子レベルで解明されようとしているミーム理論を表現した壮大な植民地化と労働についての抒情詩 ということを書いたうえで、上記を論証することもなくいきなり >三浦が無学であることが前提であり と書いてしまう心性が気になりました。普通のレスならば別に気になりませんが、 >批評を書かなければならないと、なんというか、見えない使命感に突き動かされながらコメントを書く。私が初っ端に書かなければ、天才詩人がまた、合理的な世界史実を基にした批評を展開し、その批評を読んだ一般人が本作品をスルーすることになるのではないかと危惧するので。 というように、サイトを代表して「批評」する発言であることを考慮すると、やはり気になります。 端的に言うと >三浦が無学である (何に対して「無学」であるのか、ということさえわかりませんが)と書いてしまうのは、「現在の私には読み込めない作品」に直面した時に、私は(このサイトは)真摯に作品に向かい合うことなく、同時に私の基本的認識を崩すこともせず、「粒子レベル」や「ミーム理論」や「植民地化」のような「難解な用語」を、どのような文脈で定義されたものかを確定させなくてもなんとなく使えば、相手も難解なことを書いてるんだしなんとなくわかるでしょ、テヘッ、的な感じなのかな、と思います。 「現代詩」っていうのを相手にそれを「批評」する、ということは、常に「未知のもの」との出会うことであるし、理解できない(私には読み込めない)異質な作品そのものをどう私なりのやり方で解きほぐしてゆくか、という作業の連続かと思います。 それを、「無学」という言葉を使用し、その「作品」を難解なものとしたうえで適当な解釈をくわえ、「ノークレーム・ノーリターン」とみずからの言葉に「応答性」を担保しない、という「手口」が、このサイトを背負う「使命感」に突き動かされた人がとりうるものであるとするなら、(個人的な感想になりますが)とても「恥ずかしい」ことであると感じます。 (no title)

2017-04-08