作品投稿掲示板 - B-REVIEW

投稿作品数: 6
総コメント数: 92
今月は0作品にコメントを付与しました。
プロフィール
記録

の記録 ON_B-REVIEW・・・・

精力的B-Reviewer

総合コメント数バッジ(くわしく)
獲得バッジ数

精力的投稿者

投稿作品数バッジ(くわしく)
獲得バッジ数

ふじりゅうさん、こんばんは イメージが錯綜するいい詩ですね。 私にも戦争について書いた作品がありますので、返詩でコメントさせて頂きます。 戦争について書いても、その人によって書き方はいろいろです。 「そこに吹く風」 かって戦争があった 今もそこに吹く風をぼくは思い出す 東から来た勇猛な蛮族の軍勢が 駑馬のいななきとはためく旗の 祭りの岸辺を渡っていった 北国の吹雪が叫ぶように、またもや 呻く獣の声が人々を震わせ 真空の中から現れる 火に燃える獅子の姿を ぼくたちは眼にしている 風が目覚めて 人間的なすべての思考を吹き払い 野獣が光の中で浮かんでいる そこでは愛を持たない女でなければならなかった 清らかな処女であることは凌辱による死を意味したのだ 盛大で煌めくような狂宴のあと きみは冷たい夜風にもかまわず窓を開けた ふと、眼を上げると、きみは両足を投げ出し 頭を椅子にのけぞらせて眠っていた きみの心は、まだ歴史に姿を見せはじめた 何ものかにとらえられている ぼくには、きみを望んでいたひとにするだけの力がない 草原を駆け抜ける馬のたてがみを きみは今見ているのだろうか 何という奔放な美しさだろう それを見て、ぼくは何をきみに告げたかったのだろうか 東から吹く風が去ったのち、きみは黒髪を刈りとられたあと野に放たれ 磔にされた息子に遭った母親は石を投げた ああ、中空を焦がす人声よ、何を望んでいるのか 丘を歩くきみはとりとめのない悲しみの瞑想に耽っているように見える 今、きみの声は無数の谺となってぼくに響いて消えた 明日、両手に薔薇の花をもって、きみを訪ねよう ふたりで渡し場を小舟で越えよう もう二度とぼくたちは北へ帰ることはないだろう (気まぐれな茜)

2019-08-15

渡辺八畳@祝儀敷さん わかりました。 頭を冷やすために、しばらくコメントを控えます。 申し訳ありません。 (アカルイ唄)

2019-08-12

藤 一紀さん、こんばんは あのね、下手な詩しか書けない「サイノーのないゲージュツカさん」の出る幕など、どこにもないんですよ。 私のみならず、ビーレビ参加者全員にとっても迷惑なんです。 それくらいはご理解くださいましね(^^) (アカルイ唄)

2019-08-11

stereotype2085さん、返詩をご快諾くださり、有難うございます。 返詩「君の来る日」 僕が去ろうとするこの街に 君が越してくることを友人に聞いた 僕は駅のホームで 八時五分着の特急を待っている あの六月の夕方、庭園の小道で 君と友人のあとを自転車で追いかけた 髪に揺れる紫の蝶結びは紫揚羽が飛んでいるように見えた 突然の雨、あずまやでのひととき 次の日、女友達を連れないで君はひとりで来た みずうみに浮かべたボートが橋の下を通り過ぎる まばゆい光がオールの水にきらめき そして、告白と確かめるような口づけ 手紙を交わし合った三年間の愛の日々 吹雪の中で会った時、君は毛皮のコート 君は寒さに強くて、僕は君に暖められた そして別れ しかし、君の印象的な茶色の目 優美な鼻筋 頬のうぶ毛の輝きを 僕は忘れたことはない 僕は君をホームで待っている 早朝だ、今は夕暮れではない 日の光に映る全ての形が違っていることからそれは明らかだ その時、ビルのガラスの反射の眩しさを受けて僕は悟ったのだ 君との恋は終わったのだということを 君が来ることを知ってからの七日間 僕は幸福だった 僕は思い出し、君もまた思い出の中にしかいない 僕はどこに行くとも知れぬ電車に乗り込みうとうとと眠りはじめた (忘れ得ぬ人)

2019-08-11

田中修子さん、こんにちは 本来、同じであるべき人間に差をつけたことが戦争を招いた。 反戦はその過ちへの痛切な反省から始まったんですね。 ですから、家庭に優劣をつけようとする姿勢が、そもそも反戦とは相いれないものなのです。 どんな素晴らしい道具を渡しても、殆どの人間はそれを使いこなせないものです。 どんな思想でもその結果はその人次第という当たり前の結論にたどり着いてしまいますが、 私に言えることは、周囲に惑わされず独自性を持ち、とにかく何でもご自分でお考えになることですね。 そして、私の経験則から言わせて頂くと、多数意見は、まず間違っているものです。 作品と関係の無いことを書いてすみません。 できれば、怒らないでくださいね。 (蠅)

2019-08-11

stereotype2085さん、こんにちは 実は、私には、この作品と同じく、忘れ得ぬ人、出会いと別れ、映像性、列車、一瞬、高層ビルを描いた詩があるのですが。 それを返詩としてコメントをしてもよろしいでしょうか? 詩の書き方にはいろいろあり、ほんの少しは参考になるかもしれません。 (忘れ得ぬ人)

2019-08-11

藤 一紀さんのような方は、どんな詩を読んでも必ず褒めるんですよね。 どこかの教育論のように褒めて伸ばすということを考えているのかな。 芸術の世界は学校でも会社でもないし、そもそも下手な先生に教えられても仕方がない。 藤 一紀さんは、空気を読むことに長け、協調性があり、コミュニケーション能力がある方のようだ。 芸術の世界に社会の中で上手く立ち回る処世術を持ち込まないでほしい。 芸術において最も重要なものはコミュニケーション能力というのは嫌ですね。 また、褒めることを目的とした批評は、それを受ける作者にとってもマイナスですね。 (忘れ得ぬ人)

2019-08-10

stereotype2085さん、おはようございます。 豊饒なイメージが散りばめられた詩ですね。 小説において、豊饒、豪奢な文体を使用した作家はいるのですが、少数ですね。 一つの文章においていくつもの異なる表現を入れて、しかもそれが一つのイメージにならないといけないので難しいからです。 失敗すると陳腐なものになってしまいますから。 簡潔な文章が多く用いられるのは、やはりその方が易しいという面もあります。 小説においても難しいのですから、短い詩においてはもっと難しいと思います。 ですから、詩作におけるイメージは詩においては、おそらく通常一つだけとなります。 ただ、これは私見であって、stereotype2085さんにとっては、今の書き方の方が向いているのかもしれませんね。 個々人の詩作のあり方を判断することも、また難しいと思います。 (忘れ得ぬ人)

2019-08-10

スミカゼイツカさん、おはようございます。 観念的な詩は、徹頭徹尾、観念的であるべきで、現実的な要素を入れるべきではありません。 観念と現実を折半してもいけません。 ですから、この詩を書いた作者の姿勢は正しいのです。 ただ、それをどう表現するかは別で、観念を抽象的表現で書けるかと言えば、 パスカルとヘーゲル、ハイデッガをー三位一体として持つような人なら可能かもしれませんが、私たちには無理です。 観念を書くにおける、私たちに可能な方法は即物的描写に徹して、 即物的であるが故に却って観念的なものが浮かび上がってくるといったようなものになるのだろうと思います。 >さわやかに流れる時を >致死性の水深で聴くとき >わたしは可視化された風である この表現が中途半端でおかしいのは不可能なことをしようとしたからです。 で、観念云々とは関係無く単純にまずい点を探すと、時を海底で聴く必要はありませんし、風は確かに存在はしますが可視化されることはありません。 また、「致死性」、「可視化」という言葉は、この詩では使うべきではないですね。 ちなみに、私が、この詩では使うべきではないと書いたのは、言葉の組み合わせを規定する法則など存在しないからです。 全ての表現がそうなので、この詩にかっこいい、光るフレーズなど有るわけがないですね。 と、わかりきったことを書かせて頂きました。 (不可逆)

2019-08-10

千才森 万葉さん、こんばんは >現代詩を書かれる方々にとってわたしは敵対分子なのでしょう。 私も「現代詩」を書かれる人たちからは、随分と嫌われています。 総スカン状態です。 しかし、それは「現代詩」との相性云々というより私の人間性に原因があることは、重々承知しています。 で、 >わたしの言葉は格好良く、美しく、好ましく。リズム良く。 そうでしたか。 申し訳ありませんが、仰られるまで気が付きませんでした。 ただ、ゴーストライターとしての適性はあると思います。 小遣い稼ぎとして、編集プロダクションで新書を書くといいかもしれません。 ( 畦の散歩歌3編 (潮風のおまけ付き))

2019-08-10

すみません、何故か、おかしなコメント投稿になってしまいました。 意図したことではありません。 (ぬくい ≪令和元年八月版≫ )

2019-08-08

追記 一言だけ。 そのような種類の言葉の言葉を、この詩で使うように言った覚えはありません。 また、「私の言ったことなど既に知っています!」 でも、コロンブスの卵の例えのように、それを詩作において使う能力がないのであれば、知らないのと同じですね。 (ぬくい ≪令和元年八月版≫ )

2019-08-08

追記 一言だけ。 そのような種類の言葉の言葉を、この詩で使うように言った覚えはありません。 また、「私の言ったことなど既に知っています!」 でも、コロンブスの卵の例えのように、それを詩作において使う能力がないのであれば、知らないのと同じですね。 (ぬくい ≪令和元年八月版≫ )

2019-08-08

追記 一言だけ。 そのような種類の言葉の言葉を、この詩で使うように言った覚えはありません。 また、「私の言ったことなど既に知っています!」 でも、コロンブスの卵の例えのように、それを詩作において使う能力がないのであれば、知らないのと同じですね。 (ぬくい ≪令和元年八月版≫ )

2019-08-08

るるりらさんへ 私のアドバイスの意図を全く理解しておられないし、曲解してもおられるので、今後は一切、アドバイスはいたしません。 >日本語の詩のあらゆる詩誌や、日本語で運営されている あらゆる詩サイトにおいて、日本語のおできにならないかたのために 英訳可能な 表現をする責任を もとめている場所は、ひとつとして ありません。ですから、英訳可能かどうかを 作者は考える必要はありません。 >とくに、本作品の場合は ビーレビ以外の場所に転載する意思が、いまのところ作者である私にはありません。前作のコメント欄に おおくの アイデアをこのビーレビでいただいたので、ビーレビだけの閲覧を希望しています。よって、英訳可能かどうかを考えなければならない責任など、ありません。 責任の意味を全く理解できないようですね。 意味を説明しても時間の無駄なのでやめておきます。 >本作品は身体感覚を重要視した作品 ですか。しかるに、 例えば、「なめんなよという思いが溶けて 全身が 舌のように みみずのように泥を なめる」 この表現が凡庸であることがまずいんですよ。 >その程度の語彙は私にもあります あると仰るからにはあるのでしょう。 でも、その語彙力が全く役に立っていないところが問題なんです。 (ぬくい ≪令和元年八月版≫ )

2019-08-08

るるりらさん、こんばんは 丁寧なお返事を下さり、有難うございます。 実は、私も広島生まれなんです。 三歳の時に四国に引っ越しをしましたが。 また、私は人間について深刻に考えざるを得ない理由があるのですが、その内容は書きません。 私の独創性はそこから生まれているところが多いのですが、それで補えるものではありません。 迷信云々というよりも、私にとっては非合理的な人間より、合理的であろうとする人間の方がはるかに恐ろしいですね。 では、作品について、重箱をつつくようで申し訳ないのですが、二点、指摘させてください。 >しずかな枝の影が畔になる 影は小さいが岬は大きい。 言葉のバランスが取れていません。 だから詩的表現がイメージに結ばれないのですね。 比喩を構成する言葉の組み合わせでは、それらがかけ離れていればいるほどその効果は大きいのですが それが適切な組み合わせかどうかの判断は必要です。 「ふるぼこ」は、外国語に翻訳できません。 例えば、英語圏の人には永久に読めないであろう普遍性に欠けた作品を書いていいのかということも考えるべきですね。 書いてもかまわないというのであれば、それはそれでいいのですが、日本国内でしか通用しない作品であることについて、作者に全責任があります。 以下、作品と直接、関係の無いことを書きますが、多少、詩作の参考になると思いますのでご容赦ください。 翻訳された文章が多くにおいて明晰であるのに対して、最初から日本語で書かれた文章は明晰さがなく、間延びして平板になりやすいところがあります。 それを逃れる一つの方法として、非日常的な言葉を取り入れる、例えば、青空ではなく、「紺碧」、「蒼穹」など。 もちろん、不自然さのないようにしないといけませんが、それは作者の力量にかかっています。 こんなことを書くと、日常を日常的な言葉で表現しても素晴らしい詩は書けるはずだと主張される方がいますが、 (書ける可能性が無いとは断言しませんが、でも実際には誰も書けないのです) そもそも詩も含めて文学作品は非日常的なものなんです。 日常を描いたとしても、それが非日常に転化されていないと文学作品とは言えませんね。 また、転調、劇的であること、その結果としての浄化も詩に求められるに相応しい要素ですね。 最後に、日本の詩は総じて緊張感に欠けています。 「Diving into the Wreck」は緊張感が最初から最後まで持続しているから傑作なのです。 (ぬくい ≪令和元年八月版≫ )

2019-08-07

馬鹿馬鹿しいことをしたと思います。 失礼しました。 では。 (ぬくい ≪令和元年八月版≫ )

2019-08-06

るるりらさん わかりました。 (ぬくい ≪令和元年八月版≫ )

2019-08-06

survofさん 思うに、作品に対する意見は、通常、肯定的な視点から始まりますね。 駄目なものには、そもそもコメントをしませんから。 感想のよくあるパターンとして、褒めてから、少しだけ作品を傷つけない、 毒にも薬にもならない欠点を挙げるというものがあります。 私はこうした批評には反駁していますので、批判から始めるわけです。 ある種の作品が圧倒的な支持を集めるのは、ビーレビ参加者の最多層のレベルに合ったものだろうという気がしますが、 集団心理によるもののように見え、気持ちのいいものではないですね。 また別の視点から見ると、センスの無い方は、その詩の欠点を見つけることが出来ない為、褒めることしか出来ないとも考えられます。 文学論については、各々が対話をするのは難しく、個人として見識を表明することしか出来ないのだと思います。 時代については、例えば、あいちトリエンナーレの事件を見ると、人間は百年前と少しも変っていないんだなと感じます。 大部分の人間はそんなものなのだろうが。 大衆の暴力が恐ろしいのはアインシュタインを認めないからです。 人間は進歩することはありませんので(身もふたもないことを言いますが、人間には寿命があります)その精神の集合体である時代のレベルが上昇しないのは当たり前ですね。 (技術が人間を変えたように見えるかもしれませんが、本質が別物になったわけではありませんし、   もし時代なるものが別に存在しそれによって人間が変わるのであれば、それはもともと人間の中身が空っぽだったのであり、  そこにどうでもいいものが詰め込まれただけでしょう。) 文学ふくめ芸術が時代を変えたことはないですし、もし変えたように錯覚させるものがったとしても、それは実のところ適者生存ですね。 おそらく、時代を変えることが出来るものがあるとすれば、有形無形を問わず暴力的なものだけだと思います。 ただ、時代が変わっても、少し時間が経つと、また同じ愚かなことが装いを新たにして蘇りますので、どうにもこうにもしようがないです。 人間の本質に起因するものは絶対に消えませんね。 上記以外の時代についての視点として、映画はDVDとなった時点で映画とは別物です。 文学にも同じことが起きているのだろうと思います。 インターネット上に書かれたものは、たとえ紙に書かれたものと内容は同じであっても質は異なりますね。 (ぬくい ≪令和元年八月版≫ )

2019-08-06

わかりました。 作品投稿であれば、意図的にこの作品を上げることにはならないと考えていました。 これからは止めておきます。 申し訳ありませんでした。 (散文詩「杉谷家から幸恵さんへの手紙」、詩「冬の街」)

2019-08-06

散文詩「初香、琴葉からの手紙」  愛する由梨絵さんへ  水坂由梨絵さん、今は杉谷由梨絵さんになりましたね。幸恵さんから届いたお手紙で、あなたが幸 せであることを知りました。わたしたちも優しい養親になった蒼太郎様のもとで楽しい日々を過ごし ています。わたしたちの住んでいるところは都会の郊外ですけれど、そのお家は山荘に似た造りで大 きな書斎があります。志岐蒼太郎様は、大学の教授をされているからでしょう、とても難しそうな本 が書棚に並んでいます。でも、子どもにも読める本をあらかじめご用意して下さっていました。その 中でも、ディケンズの『骨董屋』に、わたしたちは泣いてしまいました。  蒼太郎様は、とても教育熱心で、わたしたちを教師にならせたいみたいです。わたしたちが教師っ て、自分たちのことながら思わず笑ってしまいそうなのですけれど、お父様の期待にそえるように、 初香、琴葉ともに勉強に励んでゆくつもりです。  実は、わたしたちの部屋にもピアノがあって、ふたりで毎日、楽しく弾いています。わたしたちの お気に入りは、やはり『アヴェ・マリア』なのですけれど、最近、『アランフェス協奏曲』がとても 好きになりました。もともとはギターの曲なのですけれど、それをピアノに編曲した楽譜を蒼太郎様 のお友達から頂いて音を奏でてみると、なんて素敵な響きで、毎日、ふたりで練習して眼を閉じてい ても連弾ができるようになりました。もちろん、由梨絵さんのように鍵盤に指が触れただけで周り が瞬く間に光あふれるところに変わってしまうようにはいきませんけれど。  佑之輔さんも、大学が休みの日にお父様を訪ねてきます。わたしたちの前の佑之輔さんは、明るい 冗談を言って笑わせてくれます。そのおかしいことって。でも、蒼太郎様と佑之輔さんがお話しして いる時、ふたりとも深刻な顔をしていることがあって、少し気がかりです。でも、あまり心配する必 要はないのかもしれませんね。大人の世界は複雑ですもの。わたしたちには、わからないこと。  そうそう、紫衣さんも幸せに暮らしているそうで、安心しました。  近いうちに四人で会いましょう。  では、由梨絵さんの幸せを祈っています。                                                                                初香、琴葉 (散文詩「杉谷家から幸恵さんへの手紙」、詩「冬の街」)

2019-08-05

散文詩「幸恵さんからの手紙」 親愛なる由梨絵さんへ  心のこもった丁寧なお手紙、有難うございます。  まだ、杉谷家の娘になったばかりで緊張の毎日だと思いますが、あなたはそれを素敵で優しい言葉 にして送ってくださいましたね。私は、それからあなたの変わらぬ誠実さと好意以上のものを感じました。  杉谷家の方が思いやりのあるひとたちであることは信じていましたけれども、そのとおりであった ことを知って、安心しました。詩織さんは、あなたと最も親しい生涯の友人になれたようですね。姉 妹であるのに友人だなんておかしいように感じるかもしれませんけれど、生涯の縁を幸運にも授けら れたことをあなたはいつも心においておくべきだと私は思いますし、それが由梨絵さんの生きていく うえでの助けとなるでしょう。  一番、気がかりだった学校生活も始まりがいいようで、心がほっと一息ついています。  ところで、あなたは、施設にいた頃、音楽室でピアノをよく弾いていましたね。杉谷家にもピアノ、 それもスタインウェイがあると聞いていますが、素晴らしい音があふれ出ることでしょう。由梨絵さ んには才能がありますもの。ですから、あなたには音楽に進む道もあります。でも、将来については ゆっくりと考えて下さい。  こちらでは、平和な毎日が続いています。  そうそう、この間、優香理さんと佑之輔さんがこちらに来られました。先日は雪が降って、空は白 かったのですけれども、午後にはそれが碧に変わると施設の建物の影が濃くなって、その先の森へ続 く道も陽の光に輝き、そして森もくっきりと見えた後に夕暮れが空を紅に染めはじめたころ、ふたり の乗った車が着きました。  次の日、優香理さんと澄子さんが、メンデルスゾーンの「ヴェニスのゴンドラの歌」の素晴らしい 連弾を聴かせてくれました。誰もが天分を感じざるを得ないものでしたけれども、由梨絵さんも澄子 さんとよく連弾をしてましたね。私はふたりの音の重なりを今、心の中で聴いています。でも、やは り、ここでその素敵な演奏風景を再び観たいとの思いが高まるばかりです。  佑之輔さんは、六月の初めに大学に帰りました。でも、優香理さんは施設にあとしばらく残るよう です。もともと、物静かな方でしたけれども、以前とくらべて考えこむことが多くなったような気が します。何か、決めかねていることがあるのかもしれません。  初香さん、紫衣さん、琴葉さんからもお手紙が届きました。みな幸せに暮らしているようです。 由梨絵さん、暫くして落ち着いたら、慈子様と詩織さんとあなたの三人でここを訪ねて下さいね。  では、あなたのこれからの幸福を祈って筆を置かせていただきます。                                           幸恵 (散文詩「杉谷家から幸恵さんへの手紙」、詩「冬の街」)

2019-08-05

歯の浮くようなお世辞は止めましょう。 あまりにも見苦しい。 ビーレビのコメント欄は褒めたたえるものばかりで嫌になる。 空気を読めという同調圧力がここにあるとすれば、由々しきことだと思う。 芸術においては遠慮せず忌憚のない意見交換をすべきです。 作品と関係のないことをコメントしたことについては申し訳ありません。 (ぬくい ≪令和元年八月版≫ )

2019-08-05

るるりらさん、こんばんは。 村人の迷信を語る個所が不自然な印象を与えます。 迷信は現実世界における大衆心理の力学に起因しますから、「魚になった」のような牧歌的なものではなく おそらくは一見、合理的であり、つじつまが合っているように見えるが故に、もっと悪いものだったのではないかとかと思うのです。 これは、迷信に対する私の社会的見地に基づく考えですが、それとは別に文学作品は架空の物語であるが故に真実味が必要ではないでしょうか。 それを詩の雰囲気を壊さないようにうまく書かなくてはいけませんが。 この一点を除けば、よく出来た作品ですね。 (ぬくい ≪令和元年八月版≫ )

2019-08-05

※続きです。  あたしの養親は若くして夫に先立たれた女性であり、ただ、再婚する気はなく、詩織は慈子様のひ とり娘だった。慈子様は美しく詩織もまた近いのちに、煌めく貴婦人の美貌を想起させた。二階の廊 下の壁には夫婦の肖像画がかけられており、詩織もまたその隣に掲げられるのだろうかと、あたしは 思った。図書館には多くの本があり、慈子様はあたしに好きなだけ読むことを勧めた。その書物の言 葉は、あたしに知性と教養を与えてくれるだろう。  詩織は奥行きがあり木目のはっきりした板の張られた壁が気持ちのいい部屋に暮らしていた。子ど もには少し大きすぎるかもしれない机と、革のソファに木のベッド、高価なアンティークの家具があ った。窓を開けると気持ちのいい海の空気が流れ込み、いつも新鮮な初夏の香りを生み出していた。 あたしの部屋も家具もおなじ間取りと造り。  杉谷家に来た次の日の夕暮れに、あたしは詩織の部屋へお茶に招待された。  彼女は話をしているあいだ、あたしを見て時々微笑した。詩織の想像していた以上の優しさがあた しをほっとさせ、そして、彼女が素晴らしく溌剌として深窓の令嬢でありながら渙発な輝きを持ち、 その美しさが親しみを増してくるたびにあたしはこの館にいるのだという現実感が浮き上がり、それ をしっかりと保とうとした。彼女の眼は眩しかった。あたしが思わず顔を俯けると、「どうしたの、 わたしの眼を見ないとだめよ、恥ずかしがらないで、ねえ、わたしってとても変わっているのよ」。 詩織は薬指であたしの頬を跳ね刺すしぐさをした。「そしてね、女の子というものは、幼い時、この 春を生きているうちは背中に小さな羽みたいなものがあるだけなのよ、そうしてね、夏がきて恋をす るとそれが鳥の翼になるのだわ。そうね、わたしはなぜだかわからないけれど、あなたが好きになっ てしまったの、だからね、恋はあなたとしかしないつもりよ」。彼女は背中をそらして胸を波打たせ ながら鼻と唇を手で押さえて笑った。あたしは意味がわからないまま彼女を見つめかえし、しかしな ぜか不思議な愛情を感じたのである。 (散文詩「杉谷家から幸恵さんへの手紙」、詩「冬の街」)

2019-08-04

一人称バージョンです。 かなり雰囲気が違うと思います。  あたしは富裕な慈善家の女性にひきとられた。  あたしの住みはじめる館は芝生の薄い波が海の小弯に向かって続いている小高い丘の上に建ち、庭 には美しい幹を見せる白樺とぶなと名前のわからない木々、鯉の泳ぐ小さな池の周りには水仙が咲い ていた。その隣にある花壇には、紫陽花や石楠花などの花が忘れないでと訴えるかのように西風に揺 れながら背の高さを競っている。ただ、あたしの好きな薔薇はなかった。門から玄関にかけては青緑 色に切れ切れに白い稜線のある敷石が並べられていて、その上を柔らかい陽光が斑な縞模様を注いで いた。そして、今。館に到着したその日から美しい苔むした飛び石の流れを踏みしめることになるの であり、その光の反射があたしに強い目眩を感じさせた。  館の近くには公園があり、あたしは、その公園の砂場と遊具の側を歩くたびに今ではなく過去を生 きているような気がするのだった。それが何故なのかはわからないわ。あたしを包むものは北国の静 寂から海の風に変わった。あたしは海を見るのは初めてだった。その崖に打ち寄せる荒波があたしを 寂寥に導いていく。 (散文詩「杉谷家から幸恵さんへの手紙」、詩「冬の街」)

2019-08-04

>もタカンタさんのフォーラムでの攻撃的ともいえる細かい一連発言を通してでは、読み手にタカンタさんと同じところまで深く掘り下げて考えてもらうことはできないと思うのです(何か気に入らないことがあったんだな、、くらいにしか受け止めません) この点については、自分にも悪い影響を与えると思いますので、控えようと思います。 参考までに自身のことを書いておきますと、私は元来が画家志望でした。 高校までには何度か展覧会にも入選したことがあります。 私の作品が映像的であるのは、美術の才能が多少あったからだろうと思います。 ただ、地方の母子家庭に生まれた身では、それはかないませんでした。 しかしながら、幸か不幸か、国語もとてもよくできました。 社会人になってからは、文学のことなどすっかり忘れていたのですが(本は好きなので読んではいました)、入院を機にようやく文学作品を書いてみようと思い立ったわけです。 でも、自信はありませんでした。 長い間、仕事に関するもの以外、文章を書いていませんでしたので。 そこで、東大現代文の赤本と睨めっこしますと、事前学習をしなくても解けましたので、とりあえず文学に挑戦してみるかと思ったわけです。 まあ、これからなので焦らず、やっていこうと思います。 (散文詩「杉谷家から幸恵さんへの手紙」、詩「冬の街」)

2019-08-03

追記 「爽やかな驟雨が降っている寂しい初夏の日  窓を閉めなければならなかった」 この表現が優れているかは私には何とも言えませんが、現代詩を書く方たちとはかなりその志向性は異なると思います。 ちなみに「言葉の感覚的側面への鈍感さ」は、現代詩を書く方たちに感じることが私は多いです。 ただ、このことは突き詰めれば個人の資質によりますので、批判したところでどうこうなる問題ではないですね。 (散文詩「杉谷家から幸恵さんへの手紙」、詩「冬の街」)

2019-08-03

survofさん >文学の構成要素はストーリー、プロットだけではないと思います。 文学の構成要素がストーリー、プロットだけと言った覚えはないのですが。 当然、「言葉のリズム、音韻、視覚的構成、技法、語彙」も文学における重要な要素のひとつです。 和歌の言葉遊びは翻訳不可能でしょう。例えば有名な「さざなみや 滋賀の都は荒れにしを 昔ながらの山桜かな」の長等にかけた言葉遊びなど。 しかし、この和歌はチェコ語に翻訳されて、新しい価値を生み出しているそうです。 そこが文学の良さですね。 アレルギーと言っても、そんなに強いものではなく、現代作家の作品も多々読みますし、好み程度のもので、 また、私は日本人作家の本は読みませんが、現時点において読む必要性を感じていないからです。 >ということはタカンタさんが批判されているのはタカンタさんが批判されているような作品を産んだ価値観や感受性や時代性であって、もしそうであればタカンタさんの批判は文学的批判というよりも文明批判に近くはないでしょうか? 文学は文明の影響を受けるものです。 言い換えれば、人間は状況が強制しなければ、何もしようとはしないものですし、世界で数人しかそれを行おうとはしません。 文学ではなく科学になりますが、例えば、私たちはガリレオより知識豊富ですが、ガリレオより賢いだろうか。 ガリレオについて語ることは文明批判ではないだろうか。 科学だけの問題ではないですね。 文学もおなじことだと思います。 と言って、ずっと平行線というのは確かに不毛ですね。 (散文詩「杉谷家から幸恵さんへの手紙」、詩「冬の街」)

2019-08-03

survofさん、コメント有難う御座います。 >逆さまに絵を見る下りはとても好きですね。 私もいいじゃないかなと思っている個所ですので、気に入って下さって嬉しいかぎりです。 作品が完成するまでには時間がかかりそうですが、出来上がりましたら投稿したいと思います。 >あとモネの睡蓮も、こっちは意図的ではなく間違って、、ですが、どこかの美術館で上下逆さまに展示されていたそうですね。 絵画を逆さまに飾ることは出来そうで出来ないことですから、もし幸運に恵まれたなら私も美術館で見てみたいです。 (散文詩「優香里と佑之輔」)

2019-08-03

survofさん コメント有難う御座います。 >これは「すべての絵画は明確な構図や描かれる対象、主題を持つべきである」という主張に似ていませんか? 絵画においては、根本において対象、主題をを持つことは出来ないのではないかと思います。 画家が主題を意図して一本の線を描いたとしても、やはりそれは一本の線ですね。 ピカソ、マーク・ロスコの抽象画から「人間的な感情」を私たちが感じるとしても、それは私たちの中に既に認知が出来上がっているからで 彼らはそこを考えて私たちがそれを感じるように自らの絵の中に取り入れたということです。 形而上学をある種の抽象だとしても人間の介在を除くことは不可能ですが、形あるもの、例えば花は主題が無くても存在しますので、花を描いた画家がこの作品には主題があると強弁した結果 私たちが彼の意図を絵に認めたとしても、それは絵と私たちの間に絵と画家の意識を繋いでいるものが存在するかのように錯覚し、それをまた絵画の主題と錯覚しているのではないでしょうか。 しかしながら、主題は絵画においては不純物とも見えますので(絵画においては主題が存在しえないとしても)、主題のない作品が高く評価されることにはなると思います。 文学においてストーリー、プロットの無い作品を創造できたとしても、おそらくそれは私たちに何らの感銘を与えないであろう。 それは言葉の役割を放棄しているからで、伝えるものが何も無い文学から私たちが美を感じることは難しいですね。 >なのでタカンタさんってもしかしたら「現代」(つまりコンテンポラリー)アレルギーなのかな?ってちょっと思いました。 どちらかと言うと、私は海外の19世紀から20世紀初頭の作品(小説以外のものも含めて)が好きなので、「現代」(つまりコンテンポラリー)アレルギーは有ると思います。 >それともコンセプトがわからないと作品そのものの理解が難しいような何か「コンテンポラリー」な作品を目指しておられるのでしょうか? どちらかと言うと、コンセプトがわからなくても理解しやすい作品を目指しています。 コンセプトがわからないと理解できない作品は、文学作品としては失敗だと考えています。 (散文詩「杉谷家から幸恵さんへの手紙」、詩「冬の街」)

2019-08-03

stereotype2085さん、こんばんは この作品を読んで、何となく日本風の感じを持ってしまいました。 海外好きの私にとっては合うはずなのですが。 ちなみに、以前、中国の方とお話しする機会があり、「日本で人気の三国志は、中国で読まれているのか」と聞いたところ、誰も読まないそうです。 もしかすると、現在の海外のトレンドを知った方がいいのかもしれませんね。 かと言って、コールドプレイを詩に書けるのか?と言えば、違うような気もしますので、難しいところです。 (「残響」。)

2019-08-02

誤>清らかに凛として銀盤に優雅な舞いを見せる彼女の氷の精霊のように戦災で煌めくような姿に導かれて、 あたしたちは氷に氷塵の散る透明な軌跡を描いた。 正>清らかに凛として銀盤に優雅な舞いを見せる彼女の氷の精霊のように繊細で煌めくような姿に導かれて、 あたしたちは氷に氷塵の散る透明な軌跡を描いた。 (散文詩「杉谷家から幸恵さんへの手紙」、詩「冬の街」)

2019-08-02

追記 一つ、投稿出来そうな「散文詩」が見つかったので、コメント欄に書きましたが、 「散文詩」の投稿は、一旦、これにて終了となります。 小説が完成しましたら、まとめて投稿しようと思います。 (散文詩「杉谷家から幸恵さんへの手紙」、詩「冬の街」)

2019-08-02

作品は、一カ月に二作しか発表出来ませんので、コメント欄にもう一遍、散文詩を投稿します。 散文詩「スケート場にて」  雪がひとときの休みを迎えた朝に、あたしは期待に胸を高ぶらせながら眼を覚ました。窓からは冬 の冷たい光が差し込み、あたしたちの顔を薄霞が包んでいるかのようにおぼろげに見せていた。 あたしは周りを見回した。葵衣も琴葉、初香も起きていた。もしかすると眠れなかったのかもしれない。  街には行ったことことのないあたしたちには、それは新しい世界への扉をひらくことだった。  あたしたちは、幸恵さんと車に乗って街に向かった。森から街に通じる道は白銀の世界だった。 木の梢から雪が落ちた。それは雪の静寂をあたしに感じさせた。しばらくすると雪が降り始めた。 あたしはその雪を子ども時代の幸せな年月の最後の風景として思い出す。 この先に待っているであろう悲しい出来事が雪の無垢と純粋さによって浄められるかもしれない。 そしてあたしたちはスケート場で幸せな時間を過ごすのだ。 雪は夢の中でのように降り続き、あたしの吐く息で車の窓が白く曇った。  幸恵さんの洗練された身のこなしと愛を語りかけるような話し方が、あたしに彼女への尊敬の念をいだかせた。  車が街に入った。  眼の前に大きな時計台が見えた。雪にうっすらと覆われた時計の文字盤は希望と喜びの白い顔をあたしたちに向けていた。 その針はゆっくりと時を進め、あたしたちに新しい世界を始動させるだろう。 道の両端の灰色の建物や雪に白く覆われた店の屋根が動き始め、あたしたちを未だ知らぬ空間へと連れ去ってゆく。 道を人、ひとの群れが大股で進んでいくにつれて、あたしたちの後ろに退いていく。 道を歩く人の顔始め蒼白かった。娘の手を引いた母親は丸い体を茶色の毛皮外套に包んで僧侶のように見えた。 小さな男の子と女の子が手を繋いで歩いているのを見てあたしは微笑み、それは、あたしに幸せな時間の訪れを感じさせた。  あたしたちの眼の前に大きなまるい形をした白い寺院のような建物が見えた。 「着いたわよ」幸恵さんが笑みを浮かべながら振り向いて言った。 あたしたちは車を降り、小道をスケート場の方に向かって歩いていった。 こざっぱりとした外套に身を包んだひとたちが小道に群がっていた。あたしたちは、さらに歩いていった。 すると、眼の前にスケート場がひらけ、滑っている人たちの姿が見えた。 素晴らしい氷。銀盤は広く、あたしたちがいつも行く凍りついた湖とは比較にならなかった。 あたしは歓喜と緊張から足がふるえた。「まあ、すばらしいスケーターさんたち、どうしたの、滑りましょう」。 彼女は長い足を上げて氷面をひと蹴りすると銀盤のまんなかに向かって滑ってゆき、真っ直ぐにもどってくると、 誘うような微笑みを浮かべてうなずき、あたしたちに手を大きくひらいた。 あたしたちは、幸恵さんの後ろについてスケート靴を進めた。 彼女は葵衣の手袋をはめたかわいらしい手をひくと美しい笑みをうかべて後ろに滑り始めた。  あたしたちは彼女と螺旋を描くように滑り出し、少しずつ頬に冷たく爽やかな風を感じていった。  幸恵さんとあたしたちは白い毛皮の帽子をかぶっていた。背が高くほっそりとした長い手足を伸ばして 清らかに凛として銀盤に優雅な舞いを見せる彼女の氷の精霊のように戦災で煌めくような姿に導かれて、 あたしたちは氷に氷塵の散る透明な軌跡を描いた。  スケート場を出る時に幸恵さんがあたしたちの前に腰をおろして言った。 「わたしは、あなたたちが幸せになることを約束するわ、わたしを信じてね」あたしたちは彼女の言葉にうなずいた。  帰りの車の中で、あたしたちは、ずっと黙りこんでいた。 街を出る時に時計台が見え、その大きな黒い時計の針は確実に時間を進めていた。 雪は止み、車の窓から見える風景は寂しい静寂をあたしに感じさせた。 幸恵さんの顔は少し蒼白く厳しい表情を浮かべているように見え、 あたしは彼女の表情の変化が何を意味しているのか思いあぐね、 意識は幸福の余韻とすぐ先に迎えるその日への恐れとのあいだで揺れ動いていた。 (散文詩「杉谷家から幸恵さんへの手紙」、詩「冬の街」)

2019-08-02

帆場蔵人さん コメント有難う御座います。 >才能だけでない、向き合う時間と修練?てぇと硬いですが必要だと思います。 帆場蔵人さんの仰るとおりだと思います。 ただ、私のみならず、どなたにとっても長い道のりですね。 詩「冬の街」は、今まで投稿した作品に比べて、現代詩を意識して書きましたので、お褒めくださり嬉しかったです。 散文詩は、今は作品群として載せることは難しいのですが、完成しましたら、再度、まとめて投稿してみようと思います。 (散文詩「杉谷家から幸恵さんへの手紙」、詩「冬の街」)

2019-08-01

この作品は、小説に見せかけた散文詩ではなく、本当に小説草稿の断片です。 (散文詩「優香里と佑之輔」)

2019-08-01

追記 詩「冬の街」は、意味不明な表現を排した作品として書きました。 (散文詩「杉谷家から幸恵さんへの手紙」、詩「冬の街」)

2019-08-01

フォーラムの「詩の投稿数について」にコメントが書けませんので、私の作品のコメント欄に少し書かせて頂きます。 文学においては全てが可能です。 私の一つの詩作の方法として、その作品を貫く一貫性、例えば「雄大な書物を書くためには、雄大な主題を選ばねばならず、雄大な主題を扱うには壮重な表現、文体が必要である」、 「個人的なことを書くには、率直な表現、文体が必要である」と考えています。 しか、偉大と卑小を書くことにより、より人間の本質に迫るものを書くことも出来ますが、その場合には、表現、文体を注意深く選択しなければなりません。 >カップ麺だろうが、電子レンジだろうがコンドームだろうが、10円玉だろうが突き詰めていけば普遍的な詩は書けるでしょうに。 >例え個人的な体験であれ突き詰めて俯瞰的に言葉にしていけるのであれば普遍的なものを描けると思います。 もちろん、普遍的なものを描けると、私も思います。 しかしながら、言うは易しいのですが、その実現には卓抜な才能が必要でしょう。 以前、私は「詩にもストーリー、プロットが必要だ」と書きましたが、私は全ての文学作品にストーリー、プロットがあると考えています。 ただ、それは巧妙に隠されているため、それを見つけることが出来ない、もしくは、そのように言われていることをやみくもに盲信しているだけです。 ストーリーを作ることが出来ず、プロットを設計出来ない為に、結果的に、ストーリー、プロットの無いような作品になってしまったはよくないですし、 「ストーリー、プロットの無いように見える作品」を、自分の技量が不足していることの言い訳にすべきではないですね。 私が作品を書くうえでよりどころにしているスタンスは、理論は自分で考えるべきであって、それが稚拙なものであっても他の本からの受け売りよりは遥かにいいということです。 私は批判ばかりしてきましたが、私の性格の激しさ、思い込みの強さにより、ついつい個々の作品の粗が眼についてしまいました。 表現の自由は保障されるべきですし、投稿される方を委縮させるようなコメントはよくなかったと反省しています。 当然のことながら、私の作品にも欠点が多々ありますので、ご指摘があれば素直に受けようと思います。 (散文詩「杉谷家から幸恵さんへの手紙」、詩「冬の街」)

2019-08-01

渡辺八畳@祝儀敷さん コメント有難う御座います。 >また題名も凡庸だ。 題名については、この作品は草稿の抜粋を自称散文詩としたものなので、あまり真剣に考えないで付けました。 また、私は題名の付け方が下手なので、苦慮しているところです。 >冒頭の「※この作品は、作成中の小説「由梨絵(施設に住む子供たちの物語)」の草稿断片を散文詩として再構成したものです。」は必要だろうか。 この作品は、おそらく小説の一節にしか見えないですし、なんだこれはと感じる方がおられると思いますので付けました。 もちろん、この作品における書き込み不足は明らかですが、読んでいただくために必要であるものは、題名や注釈ではなく、あくまで内容だと思います。 (散文詩「優香里と佑之輔」)

2019-08-01

左部右人様 私の考えを他人に納得していただく必要などないですね。 誰にも相手にしてもらえなくてもかまわないと思いますが。 言うまでもないことですが、孤独に耐えられない人間は芸術を志すべきではありません。 エビデンス、根拠、理論は他人のために有るのではなく、自分だけのものなのです。 私は、他人のために、いちいち時間と労力を割くつもりはありません。 芸術は個人だけのものであり、労働ではありませんから、コミュニケーションなど不要なのです。 >議論の方法も、ついでに学ぶと良いですよ、出来れば貴殿より「博識」のある方と、面と向かって。 自分にとって得るものがあると判断すれば、もちろん議論しますよ。 (四つの小文)

2019-07-26

ウィトゲンシュタインの方法を参考にされたのは、1のことでしたね。 あまりにも凡庸であるため、きちんと読むことができず、間違えました。 大変、申し訳ありません。 左部右人様が博識であることは確かなようですが、その全てが引用、つまり知識の底辺に留まり、偉人との対話が全く「生産性」に繋がっていないことは残念です。 (四つの小文)

2019-07-25

田中修子さん 返信ありがとうございます。 私の考える「判然とした詩」は、素材に価値ある特異性があり、それに伴う精緻に組み立てられた詩的表現が鮮烈なイメージを生み出している、芸術作品と呼ぶに相応しい作品です。 付け加えると、詩的表現が抽象的な言葉の連なりであっても、それが優れていれば何らかのイメージは必ず喚起されるものです。 >自由詩の自由は、自由だから自由なんじゃないかな―と思うのです。 確かにそうですね。でも、そこには問題があります。 例えが小説で申し訳ありませんが、オーウエルの「1984」とカフカの「審判」。 おそらく、両作品について似ていると感じる方が多いかもしれません。 しかしながら、「1984」は下らない政治小説もどきの駄作ですが、「審判」は真の芸術作品です。 作者は何を書いてもかまいませんが、芸術としては月ほどの差が出来てしまいますし、それを結果として受け入れなければなりません。 (蠅)

2019-07-24

田中修子さん、おはようございます。 アドバイス募集とありましたので、少し感じたことを書かせて頂きます。 もしかすると不快感を覚えるかもしれませんが、私の率直な感想ですので、その点はご容赦ください。 この作品は、どのような詩を書こうとしたのか判然としません。 それが、仮に象徴詩なのであれば(抽象的表現の多用から考えて)、個人的な事柄は、その素材とすべきではありませんね。 その理由は、具象を抽象的表現で表そうとすれば、どうしても不自然なものになってしまうからです。 (蠅)

2019-07-24

左部右人様、こんばんは 神の存在の後に、カップ麺、電子レンジ、前の作品では「ウィトゲンシュタインの方法を参考にしたショウペンハウエル『自殺について』」の後にポルノ男優でしたね。 左部右人様の想像を絶する文学的センスには大いなる驚きを禁じえません。 私と異なり、左部右人様は、さぞや明白な根拠に基づいた素晴らしい理論に基づいて詩作されているのであろうと感じ、改めて大いに感服いたしました。 さすが、「博学な方」は違いますね! (選別)

2019-07-23

お山のどんぐりさん コメント有難う御座います。 この表現は、私も気に入っておりましたので、お山のどんぐりさんに好きと言って下さり、本当に嬉しいかぎりです。 これからもよろしくお願いしますね。 (カフェ)

2019-07-23

追記 詩集と書きましたが、詩集が実体としてあるわけではありません。 詩集になるくらいの数の作品を書いただけですので、誤解なきようお願いします。 (カフェ)

2019-07-21

survofさん 実は、既に二年間、投稿出来るだけの作品が散文詩も含め仕上がっています。 フォーラムにて投稿数を増やして頂けるようお願いしたのは、その為です。 従って、基本的には現時点にて作成済みの作品を、若干の推敲はしますが、そのまま投稿します。 但し、一部の作品については、特別な理由により投稿しない場合があります。 詩集としてのバランスを考えて詩作しておりますので、いくつかの作品はご期待に沿えないかもしれませんが、玉石混交にはなっておらず一つ一つが読むに堪えうる完成度にはあると思います。 例えば、「カフェ」は、単体として見れば物足りないかもしれませんが、詩集の中では適切な位置にあると考えています。 つまり、個々の詩各々に独自性があり、また詩集全体を貫く一貫したイメージを持ち、比較的満足のいく読後感が得られる詩集です。 私の作品が説得力があるかどうかは、長い目で見て頂けたら幸いです。 (カフェ)

2019-07-21

誤「見るべきほどのことは身はてつ、されば自害せん」 正「見るべきほどのことは見はてつ、されば自害せん」 (カフェ)

2019-07-21

>自己レスに関していうと、この種の自己レスはガイドラインに明記されてはいないものの、コメントしたものは必ず上がるというこの掲示板の特質上、どちらかというとマナー違反ではないかと思います。 ご指摘がありましたので、今後、自己レスは控えようと思います。 >まず一つの点として、この表現は決して稚拙な表現ではないにもかかわらず、詩を読み慣れた読者にとっては、おそらく何の意外性ももたらさないであろう、という点で、正直なところこの一行が作品への入り口として十分な求心力を持つとは感じません。 私は「詩を読みなれていない読者」想定して詩を書いています。 従って、読むと即時に頭にイメージが浮かぶ表現を心がけています。 意味のよくわからない言葉の組み合わせ、何度も読み返さないと理解することが難しい表現は避けています。 ここは現代詩の問題点だと私は感じました。 ただ、survofさんの仰るとおり、この詩がありふれているのであれば詩作の方法を再考しなくてはいけませんね。難しいところですが。 優れた文学作品の中には、冒頭にかかわらず、作者の作品に込めた思想の総体を意味する文が必ずありますね。 例えば、平家物語では、壇之浦の平知盛の言葉「見るべきほどのことは身はてつ、されば自害せん」、レ・ミゼラブルでは、初章における老革命家のミリエル司教に向けた言葉「正義には怒りがあります、司教さん」。 文学は衰退が著しいです。 打開策を模索する必要はあると思います。 >タカンタさんがあちらこちらで展開されている文学論、詩論をきちんと一つの文章にまとめて投稿してくださったなら私は必ず読むと思いますよ。 お気持ち、有難う御座います。 時期を見て書いてみようと思います。 但し、ご期待に副うようなそんなにいいものは書けないと思いますが。 追記 フォーラムにて私が立てた「詩の投稿数について」に、少し詩の考え方を書いてみました。 (カフェ)

2019-07-21

自己レスです。 詩にかかわらず文学作品においては書き出しが極めて重要です。 一行目で読者の心を掴まなくてはなりません。 この作品でも、「木立が夕暮れを見捨てるころ」以外の書き出しは考えられません。 他の文学作品でも、例えば「チャタレイ夫人の恋人」の「現代は本質的に悲劇の時代である。だからこそ私たちは現実を悲劇的に考えようとはしないのだ。」、「審判」の「誰かがヨーゼフ・Kを誹謗したに違いない。なぜなら彼は何も悪いことをしなかったのに突然逮捕されたからである」、「南回帰線」の「いったん死にたえてしまえばたとえ混沌の淵にあったとしてもあらゆることが判然としてくるものだ」、「幻の女」の「夜は若く彼も若かったが、夜の空気は甘いのに彼の気分は苦かった」など、文学の傑作には必ず優れた書き出しがあります。作品の締めくくりも重要なことは言うまでもありませんが、その重要なポイントは意外性とカタルシスですね。 (カフェ)

2019-07-21

帆場蔵人さん コメント有難う御座います。 >今のきみの描写から過ぎていった時間への想いを書けないかな 過去を振り返ることは、よくあるパターンだと思いますので書きませんでした。 また、きみ、ぼくは恋愛関係にあったわけではありませんので、過去はありません。 (カフェ)

2019-07-20

survofさん 返信、有難う御座います。 >「都会的洗練」が何を意味するのかは人によってばらつくとは思うのですが、私の場合、それは一種の無関心さ、自分の外側にあるものに対しても、そして自分の内面にあるものに対しても一定の距離を取るといったような、例えばちょっと気になる人が信号の向こう側にいたとして、いざ、横断歩道ですれ違うときに、決してその人を直視することはせず、それでも視野の本当に片隅のほうで実は注意深く観察しているといったような、同時に対象と自分との距離を高いところから俯瞰するといったような、一種の気取り、あるいはプライド、もしかしたら防衛、または自己批評といったような姿勢に「都会的洗練」の片鱗を感じることがあります。 >例えば「きみ」への関心や感情がダダ漏れになっているといった、そうした語り手の「きみ」への視線はこの作品を読む限り、プライドや気取り、もしくは透徹した俯瞰によって磨き上げられているようには思えない。 ご指摘から考えると、この詩は感傷そのものですね。 そして透徹した俯瞰から感傷を洗練させるとなると、視点を変え、かなり技巧を凝らす必要があると思います。 「都会的洗練」というのは、かなり難しいと改めて思いました。 ただ、こうした高度な「都会的洗練」は、いわゆる都会的でしゃれた小説からは得られないだろうと感じました。 (カフェ)

2019-07-20

survofさん コメント有難う御座います。 まず、この作品は、都会的で洗練された詩として書きましたから、お読み頂いた方はそうではないと感じられておられるようで、少なからす考え込んでいます。 ちなみに、私は文章を書くにおいては隠喩に重きを置いており、例えば書き出しのところがそれで、そこを「非日常」と認識していたのですが、詩全体としてみればそうではなくエッジも効いていないとは思いました。 作品を投稿するにおいて、個々の作品それぞれに独立性を持たせようとしましたが、そこに無理が出ているようです。 私の第一作「あるなんでもない日」と比較して、他の三作は一見うまくなっているように見えて、最も重要なこと、つまり新鮮な鮮烈さにやや欠けています。 おそらく、「あるなんでもない日」はきちんと設計して書きましたが、残りはそうではないところが結果として表れています。 私には現代詩なるものに対するある種の反駁バイアスがあり、それをフォーラムに書きましたが、自分自身、それを十分に咀嚼できていませんでした。 今後はその点を踏まえて詩作をしようと思います。 (カフェ)

2019-07-20

沙一様 コメント、有難う御座います。 >人的にはもうすこし洗練さがほしいと感じました。全体的に同じようなトーンですから、キラリと光る詩行があれば、もっと読み手を惹きつけるのではないかと思います。 ご指摘の点は私も気が付きませんでした。 今後の作品に沙一様のアドバイスを活かして行きたいと思います。 (カフェ)

2019-07-20

帆場蔵人さん こんばんは 三連詩の最初の書き出しがそれぞれにやや異なる夏の風景を上手くそれを鮮明なイメージとして表していますね。 最後の詩の終わりも感傷的でないところが逆に効果的で、三連詩の結末に相応しいと思います。 (夏の記し(三編))

2019-07-18

survofさん 返信、有難う御座います。 音楽は理論の再現ですから、その理論の中で「対位法のための対位法」を作曲することが可能ですね。 ベートーベンも、理論から作品に至る過程における思想の影響が私たちに感じさせるものがバッハと異なるにせよ、その根底にある理論は同じだと思います。 また、音楽は再現できますから、そこから常に新しい解釈が生まれます。 バッハ弾きで著名なピアニストが今だに次々と登場してくるのは、音楽の持つ再現によるものですね。 (再現は、理論と同等の価値あるものだと、私は考えています。)、 ただ、今では音楽も停滞期に入っているようで、作曲において新しいものを聴くことは稀です。 私が知らないだけかもしれませんが。 思うに、文学は音楽と異なり理論の再現が困難であるが故に、新しい文学理論の構築は容易ではありませんでした。 それは音楽の作品数と文学の作品数の違いに表れていると思います。 おそらく、文学における画期的な革新はカフカの登場により初めて起こったのではないかというのが、私の現状認識です。 過去の踏襲の集大成についてあえて答えるとすると、19世紀ロシア文学だと思います。 >なぜ過去の踏襲であってはならないのでしょうか? >そして踏襲した上でのカスタマイズにすぎません。そのカスタマイズを私たちは楽しんでいる訳ですし、またその過程で少しずつ枠組みが変化していくのではないかと思っています。 >逆に今、現代詩のフォーマットから何かを選び出して作品を書くこと、つまり近代詩型の詩、散文詩、あるいは脱構築型の詩などであったりするわけですが、そうしたフォーマットを選ぶことそのものがコンクリート詩におけると同様にまた過去の踏襲にならないでしょうか? 私の断定が過ぎました。申し訳ありません。 ただ、過去を踏襲したとしても、カスタマイズの中における独創性は必要ですね。 その独創性が私たちに感銘を与えるのだと思います。 フォーマットを選ぶことは表現の手段であって、それを過去の踏襲として切り捨ててしまうと、私たちは表現することが出来なくなってしまうでしょう。 私は、フォーマットを選ぶことまでを過去の踏襲とは考えていません。 >正統はだれが決めるものでしょうか? >少なくとも戦後現代詩の文脈でいえば、コンクリート詩のフォーマットを取り入れるのは「正統」な表現手段かと思いますがいかがでしょうか? もちろん、正統性は私が決めるものではありませんが、正統性は伝統的と同意であり文脈を理解するために過度な読解力を要求しないものと私は想定しました。 「コンクリート詩のフォーマット」を取り入れることは、現代において正統に位置するかもしれませんね。 しかしながら、「コンクリート詩のフォーマット」が正統的であるとすれば、作者の詩を書く姿勢として、コンクリート詩のフォーマットを使用することが、 古典的な技法を使うことと、どこが違うのかと思います。 >なぜ文体の為に作品を書いてはいけないのでしょうか? 「文体の為に作品を書く」これは演繹ですね。 音楽は演繹ですが、文学は帰納(人間性会を描くという特性から)だと私は考えています。 この点から、いけないとまではいかなくとも、その必然性はないのではないでしょうか。 習作においてはかまわないと私も思います。 最後に、ここは、千才森 万葉さんの場所ですので、これ以上の返答は控えさせて頂きます。 (詰めさせたがる彼)

2019-07-18

千才森 万葉さん >それと、いくら絵を上下に切り貼りしても大した効果は出ないと思いますよ? 私は、上記のことは書いていませんよ。 わざと嘘を書いているのなら、やめた方がいいですね。 読み落としであれば、なお悪いと思います。 あなたへのコメントは、これで終わりにします。 (詰めさせたがる彼)

2019-07-18

survof様 草野心平については、読んだことがありませんので評価を控えさせていただきます。 >そして現代詩における数々のコンクリート詩の試みの歴史を引き合いに出さずとも、古典的な詩の形式においてシンプルな改行が生み出す視覚的リズムは、音になる以前の純粋な視覚の問題として扱われて然るべき要素を多分に含んでいると思います コンクリート詩については、今、それを書くのであれば、過去の踏襲であってはいけないですし、逆説的なようですが、言葉の選択、表現がより重要になってくると思います。 また、視覚的リズムなる言葉は初めて聞きましたが、適切な詩的表現があればこそ、フレーズの総体としてのリズムが生きてきます。 例えば比喩が凡庸であればリズムを感じることなど不可能でしょう。 >言葉に与えられた形、その形が言葉に与える影響に無感覚であるべきではないと思っています。 漢字は表語文字です。その形の美しさを軽視している現代詩が多いですね。 私は視覚はもちろんのことながら、映像的であることを重視していますよ。 誤解なきようお願いします。 ちなみに、前衛文学においても、その記述の仕方の多くは正統的なものです。 では、クロード・シモンはどうなのか?と仰る方がおられるかもしれませんが、クロードシモンは作品を書くにおいてその文体を必要としたのであって、 文体の為に作品を書いたわけではありません。 (詰めさせたがる彼)

2019-07-17

視覚詩については、詩は絵ではないので、いくら言葉を上下に切り貼りしても、その効果はしれているのですよ。 >詩を額縁には飾れない………………あ、なるほど。 >タカンタさんは詩と文字(文学)とは完全に切り離して考えてますか? そうか、詩の本質は言葉では無い、そもそも形を持っていないと考えていらっしゃるのかな? >その発想は無かったですね。神秘的で実に面白い認識だと思います。 >わたしは絵心は一切無くて、しかも音楽はネズミが逃げ出すほどオンチです(笑) >ただ、鮮明なイメージを表すのに、必ずしも美術の才能が必要かと言えば、どうでしょうね。意外と化学の才能が足りない部分を補ってくれるかもしれません。 >重ね合わせのポリフォニーには、整理整頓の技術が転用できるかもしれませんよ? >利用できる手段を自ら狭めてしまうのは、もったいないですよ。世界はこんなに広いんですから。 >まあ、マルチジャンルのセンスを持ち合わせていない私ではどうにもこうにも、な話ですけども。 私の書いたことを全くご理解されていないようですね。 しかも曲解が甚だしいです。 ただ、私はそんなに親切な人間ではありませんので、これ以上は説明しません。 詩とはどんなものか?、せいぜい構成、技巧的なものを思いつくくらいで、それ以上は考えても仕方がないですね。 詩は才能で書くもので、その探求など不要に近いものです。 また、詩を書く上で理論は持つにこしたことはありませんが、詩は理論じゃないが私の考えです。 (但し、ある方の作品を分析し、論としてまとめることはいいと思います。) 才能が有れば、それがどのようなものであれ、優れた詩は書けますよ。 (詰めさせたがる彼)

2019-07-17

こんばんは 初めまして >てか、誰かがどこかで、すでに使ってるんじゃないかとは思いますけども。 視覚を刺激する作品を書く方は絶対数が少ないので、すでに使われていることはないと思います。 ただ、文学作品においては、言葉で視覚を刺激することが王道ですね。 詩を額縁に入れて飾ることは出来ません。 ちなみに、絵画、音楽、文学に境目があるわけではありません。 詩においても、鮮明なイメージを表すには美術の才能が、ポリフォニーを奏でるには音楽家の才能が必要です。 (詰めさせたがる彼)

2019-07-16

ふじりゅうさん、こんばんは。 ノンフィクションを詩に取り入れることは、勇気ある冒険ですね。 ただ、現実を芸術に換骨奪胎するということはどういうことなのか、しっかりと考える必要があると思います。 また、表現は全てそうですが、特に詩における擬音は使いどころが難しいですね。 偉そうなことを言ってすみません。 (謝罪会見)

2019-07-16

自己レスです。 この詩は、道を歩いていると、同級生の女の子を見かけた、つまり日常的な出来事に過ぎません。 但し、私は、この日常的な出来事を非日常的な表現で表しました。 私の考える詩の定義の一つです。 (カフェ)

2019-07-13

るるりらさんの作品を拝読させて頂きましたが、発想から見ると、この作品が最もいいのではないかと感じました。 また、人魚は、どうしてもアンデルセンを思い浮かべる人が多いので、それを連想させるべきか、否か、難しい主題です。 こうした点から考えますと、まず、この作品に必要なものは技巧ですね。 書く前に多面的に検討し、精緻に工夫を凝らせば、もっとるるりらさんの独創性を活かすことが出来たのではないかと思います。 (めるふぇん)

2019-07-12

自己レスです。 総じて、日本人の書く詩は視野狭窄であり、己の世界観が小さく、一見、内省的に見えても底が浅い。 ある調査によると日本人は世界で一番、弱者に対し冷酷な民族だそうだ。 こうした日本人の性格が詩に影響を与えているのかもしれない。 そういえば、宗教においても、海外の教会はホームレスに炊き出しをするが、日本の神社、寺院は布施を集め賽銭箱に鍵はするがホームレスに炊き出しをしたとは聞いたことが無い。 日本の宗教は、実は異常だ。何の為に存在しているのだろうか?もちろん、弱者のために存在しているのではないことは明らかだろう。 日本の宗教の異常さに気が付かないやつは、自分は馬鹿だと確信したほうがよい。 思うに、無神論でも、海外の無神論は思索の結果であり人間的なものだが、日本人の無神論は生まれながらのものであり、それは無であり砂漠にある砂すらないほどに空虚である。 以下、私の経験である。 ある日、バスに乗っていた。 停留所にバスが止った。 座席の後方から女性の声で、「開けてください」との声が響いた。 後ろを振り返ると、車いすに乗った女性がいた。 しかし、その女性は通ることが出来ない。 スーツを着た中年のサラリーマン風の男が道を塞いでいるのだ。 運転手もマイクで」「道を開けてください」と言い、女性がまたも「道を開けてください」と声を上げた。 しかし、周りの人間はだれ一人、その女性を助けようとはしなかった。 仕方がないので、私が道を塞いでいる男をやんわりと押しのけ、女性の車いすを押して停留所に下した。 女性は私に礼を言い、「もういいですよ」と言った。 すると突然バスが動き出したので、急いで私はバスに乗った。 沢山の人が乗っているのに、車いすの女性を助けようとした人は一人もいなかった。 私は、一見、普通に見える人たちの冷酷さにぞっとした。 日本人は、「人間の屑」という言葉の意味を噛み締めるべきだろう。 日本人の書く詩が下らないのは当たり前だ。 (婚姻)

2019-07-07

トビラ様 コメント有難う御座います。 この詩における発想は、それなりの独自性はありそうですが、 映像的な観点から見ると、既視感があるかもしれません。 ファンタジー的な世界観の意味はいろいろだですが、アニメの一シーンを連想される方もいるのかなと思いました。 (婚姻)

2019-07-07

ありふれたことをありふれた表現で書かれた詩ですね。 「きみの教えてくれた教会への道」は、詩のモチーフとしてはありふれていますし、 表現も「秋色に染まった街の」、「枯葉が舞い落ちて」は、非日常的、つまり詩的表現ですが、 ありふれています。私の言う、難解な表現とは、ありふれていない表現という意味も含んでいるのですよ。 素材(発想)も同様です。 語彙力の不足、発想の陳腐さを、「わかりやすい」と勘違いしていませんか? 結論として、ありふれたことをありふれた表現で書かれた詩は、必然的に低評価とならざるを得ません。 あなたは、私の詩を一つのフレーズを除いて、私の発想を完全に切り捨て、かつ、跡形もなく書きなおし(添削)ましたが、 それが原詩へのリスペクトを全く書いたものであり、作者に対し極めて失礼なことであるとは意識しませんでしたか? しかも、他人の詩を勝手に改変することは違法でもあります。 作者了承もなく人の詩を改変するのであれば、人を唸らせるに足る詩を書いてください。 (石畳の道)

2019-07-02

タイトルを間違えました。 正式タイトルは、「婚姻」ではなく「婚礼」です。 (婚姻)

2019-07-02

自己レスです 映像的、音楽的な作品を、わかりやすい素材、言葉で書いてみました。 (婚姻)

2019-07-01

佐々木様 コメント有難う御座います。 それにしても、とても詩的なコメントを下さいました。 作者としては嬉しいかぎりです。 (カフェ)

2019-07-01

訂正です。 誤>また、詩として成立しなくなるかもしれないですね。 正>また、代名詞ではなく固有名詞、もしくはそれに近い名詞を使用すると、詩として成立しなくなるかもしれないですね。 (あるなんでもない日)

2019-06-29

エイクピア様 コメント有難う御座います。 >月曜日が嫌いと言う常識的な発想 私は、ぼくの行為が重大であるため、却ってありふれた動機が特異に感じられるのだろうと思います。 (あるなんでもない日)

2019-06-29

st様 コメント有難う御座います。 詩は小説と比較して極めて短いが故に却って退屈になりやすい欠点があります。 従って、詩を書く前に、特異性、刺激的効果を重視した素材(発想)を生み出しておくことが重要となります。 (まず、読者には詩を目にしたとたん、即、読みたいと感じていただかないといけない為) この詩では、一つ一つのフレーズは難しいものではないので、st様が難しく感じておられるのは、おそらく素材ですね。 しかしながら、私は、詩作中、この素材が難しいものとの意識はありませんでした。 作者が、自ら思いついた素材を難しく感じないのは、あらためて考えると当然ではあります。 ただ、るるりら様、ふじりゅう様のコメントを読み、わかりにくいところがこの詩のいいところかなと、私は考えています。 わかりにくさには微妙な匙加減が必要ではありますが。 この詩において固有名詞、職業名ではなく代名詞を使用しているのは、表現を曖昧にすることにより、イメージをより鮮明にすることが目的です。 また、詩として成立しなくなるかもしれないですね。 例えば、「ぼくは学校の屋上から彼らを撃った」の「彼ら」を別の言葉に変えると、この詩は根本から崩れてしまうでしょう。 >私なら、以下のように創るでしょう。参考までに。 例詩をお書き下さり、有難う御座います。 「できるだけわかりやすく、かつ美しく創ろう」とのお考えは、st様の個性であり長所ですね。 それを活かして詩作を行えば、佳作に結びつくと思います。 フォーラムにて私は断定的ともとれるかもしれなことを書いていますが、今、思うと、詩作への考え方、方法は様々です。 各々が、まず、自分のやり方で詩を書いてみることが大事だと思います。 (あるなんでもない日)

2019-06-29

ふじりゅう様 コメント有難う御座います。 >かんざしをどう捉えるかがかなり難しいです。たぶん、女性が空の下を歩く比喩なのかな、と。 かんざしは夜空に雪の降る光景の比喩を意図しましたので、私としては意外でした。 ただ、そこは、ふじりゅう様の読み方でいいのかな(嬉しい誤算)と思います。 想像する楽しみがある作品とおっしゃってくださり(そういえば、そこが詩の魅力のひとつですね)、有難いかぎりです。 (あるなんでもない日)

2019-06-27

るるりら様 コメント有難う御座います。 >まず、とっても魅力を感じたのは、一行目です。 「空を白銀のかんざしが通りすぎてゆく」は、夜空に雪の降る光景を 第一イメージ「空」、第二イメージ「かんざし(雪)」の結合によって詩的に表現したものです。 「かんざし」を何故、選んだかについては、ふと、頭に浮かんだとしか言いようがないです。 >「少女」と「きみ」は 同一人物だろうか?それとも三角関係だろうか? 私は、同一人物として書きました。 >いろいろ謎しかなくて、そもそも「どうしてそんなことをしたの」というからには 「どうしてそんなことをしたの」を言ったのは、きみかもしれませんし、少年院の女性教官かもしれません。 「ぼく」は”犯罪”を犯したかもしれないし、単に反抗しただけかもしれません。 >「彼らを撃った」の彼らって どんな人々だろうか? 彼らとは、学校の教師かもしれませんし、同級生かもしれませんし、世間かもしれません。 >どうしてうったかといえば「月曜日が嫌いだったから」 この理由については、詩には特異性が必要との考えから思いつきました。 上記については、読者の想像を掻き立てるために記述を最小限にしており、私の中でも確定しているものではありません。 また、詩の技法として人物、時間、イメージを錯綜させました。 以下、私に関する余談です。 「あるなんでもない日」は私の処女作なのですが、実は最近まで入院しておりまして、 その時に詩を書いている方のブログを読んだところから、私も詩を書いてみようかと考えた次第です。 私の読書歴は、詩集で購入したものは「シェリー詩集(解説を読み、その生き方に共感しました)」のみ、詩集にちかいものとでは「ゲーテ格言集」を購入、 あとは、マラルメ、バイロンを書店にて立ち読みしました。 私は詩集も殆ど読んでおらず、また、詩作法に関する読書歴は無し、従って私の詩作法は完全な我流です。 また、私は日本人の書いた本は読みませんので、日本の詩人はもちろん、小林秀雄等の文芸評論家についても知識はありません。 ある方のブログを読んだところ、小林秀雄の「無常といふこと」の中に「美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない」との記述があるそうですが、 私の場合は、「花」の美しさ」はあるに決まっているの単純思考です。 ちなみに、萩原朔太郎の作品は、先日、インターネット上で初めて読みました。 私の作品が一風変わっているのは、日本人の作家から影響を受けていないからだろうと考えています。 ただ、海外の小説、哲学書、等は、かなり読んでいます。 (あるなんでもない日)

2019-06-27

自己レスです。 私が詩作において最も重要視するところは、発想の特異性と言葉の斬新さなのですが、 そこから考えると、私としては、「白き神の抱擁」より「あるなんでもない日」の方が自己評価は高いんですよね。 そして、「あるなんでもない日」の構成は、わかりにくいかもしれませんが、ソナタ形式を使用しています。 (白き神の抱擁)

2019-06-25

作品を拝読いたしましたが、私なりに気になったところを数点、僭越ながらご指摘させて頂きます。 >星と溶け合う猫の病 異なる表現の組み合わせによる詩的表現が鮮烈なイメージを生むとすれば、 それに成功していません。「星と溶け合う」はロマンティック、「猫の病」は即物的であり、 表現が目的がとするものの相違点が大きすぎるからです。 上記のやり方で詩的表現を作りだすことが絶対に不可能とは言いませんが、難しいですね。 >あたしを動かした無上の猫は逝ってしまいましたわ >東京は根こそぎ剥がされ黒い穴となり精液にまみれていましたわ >愚かさから生まれたのが人間でした 個々の文が独立して浮いてしまっています。 三つの文の繋がりに順序と関連性が無いからです。 作品を読み下すと、時間的、論理的に、つじつまがあっていない箇所が散見されます。 詩全体を俯瞰してつじつまがあっていなくてはならないということについては、賛否の分かれるところですが、 作品制作の最終段階にてそれをチェックすることは、完成度を高める為の手段のひとつになりえると思います。 (病み猫)

2019-06-25

申し訳ありませんが、作品の批評ではなく、私なりのアドバイスを、少しだけさせていただきます。 日本語は表形文字(漢字)、表音文字(ひらがな)の組み合わせで出来ていますよね。 漢字は絵としての美しさを、ひらがなは旋律を奏でます。 この観点から言葉の組み合わせを考えると、言葉の斬新さが生まれる可能性が高まると思います。 (可能性と書いたのは言葉の斬新さを生み出すためには、上記だけでは不足しているからです) また、詩を書く前に、発想の特異性があるかどうかを検討する必要がありますね。 (ある日特別)

2019-06-25

エイクピア様 コメント有難う御座います。 エイクピア様より「神の恩寵を語る3行が印象的」とご指摘され、私自身、この詩の要なのかもしれないと感じました。 私の詩の作り方の考えに基づいて、「あるなんでもない日」と「白き神の抱擁」の2作を投稿しました。 ところが、実は、私は詩を書くのは初めてですので、少し安堵いたしました。 (白き神の抱擁)

2019-06-24

変換ミスがありました。 申し訳ありません。 誤>ふじりゅう様の自作に期待しています。 正>ふじりゅう様の次作に期待しています。 (ひまわりのまわりを)

2019-06-24

ふじりゅう様 私の不躾なコメントに対し、丁寧なご返事を下さり恐縮の至りです。 >むしろ、凡庸な言葉を奇跡的に繋ぎ合わせて見事な作品を作り上げることは可能でしょう。 私も可能だと思います。但し、私の力量では困難であるため、私自身は難解な表現を使用しています。 >詩に相応しい言葉 刺激的な言葉は使いどころが難しいと思います。 総じて素敵な詩でしたので、この言葉が現れたところで、一瞬、びくっとしました。 >3.ですね。 この点については、なかなか難しいところですね。 ふじりゅう様のご返信に伴い、読み返しますと、ふじりゅう様の描写したいとことがわかるような気がします。 ただ、読者にも想像力を必要とするところがありますね。 読者にも作者の意図を理解する努力を要求すべきかどうかについては、議論の余地があると思います。 >4.仰る通りです。 指摘の仕方を注意すべきでした。すみません。 比喩については、努力するしかないのですが、一つのやり方として異なるイメージをぶつけ合うと新しい比喩が生まれます。 私は、「空」に「かんざし」を当ててみました。 「空を白銀のかんざしが通りすぎてゆく」 ふじりゅう様の自作に期待しています。 (ひまわりのまわりを)

2019-06-23

帆場蔵人様 コメント有難う御座います。 私は出来るだけ映像が浮かぶように詩を書いておりますので、帆場蔵人様のご感想はうれしい限りです。 シェリー、私も大好きな詩人です。 また、読み返してみたいと思います。 (白き神の抱擁)

2019-06-23

いい詩ですね。 ただ、少しだけ、私なりにアドバイスをさせて頂きます。 ・「晴天」日常的、わかりやすい言葉は使うべきではありませんね。  非日常的、難解な言葉(例えば、碧空、蒼穹、紺碧など)を使用すると、詩的表現となります。 ・「体液」  詩にふさわしい言葉ではありません。 ・「真っ白な紙に 無言で描かれた油絵」、  「誰にも描写されない 一輪のひまわり」、  「目を開けるとわたしはひまわりになっていて首をうろうろさせながら きみを探していた」  一見、独創的な言葉の組み合わせに見えても、意味不明であればイメージが浮かびません。 ・「どうして優雅な 水晶のような瞳 一輪のひまわりがこうべを垂れるように そっと風に 吹かれていた」 比喩としては凡庸すぎます。 厳しいことを書きましたが、失礼の段、お許しください (ひまわりのまわりを)

2019-06-23