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正直な木こりと泉の女神についての考察
泉から女神が現れて 「あなたが落としたのはこの腰から上半分の女ですか?それともこちらの下半分の女ですか?」 と正直で勤勉な木こりの僕に質問するのだとしたら、僕は迷わず下半分を選ぶな。 もちろん、両方ともちゃんと生きてて、僕の好みの可愛い女なのだとしてだけど。 それが間違いなく僕の欲しい方だ、という自信がある。 しかしそうは言っても、それではやはり野蛮な男ということになるのではないか、とも思う。 木こり小屋に連れて帰ってテーブルとかに置いておくとき、下半身だけというのは、政治的にどうなのか。 人間らしさというなら対話というのは大事だし、歌声というのも女の要素として魅力的なので、頭部のついてる方を選ぶのがエレガントな選択なのではあるまいか。 とも思う。 しかし僕が上半分を選ぶことによって、下半分は泉の底の泥に沈むのだとすれば、なんだか勿体無い気もするし、それはそれで女自身にとってもどうなのだろうか。 そもそもこれは試練ではなく、正直な生活へのご褒美なのだ。女神様だって俺が女を半分だけ泉に落としたなんて思ってはいないだろう。殺して二つに切り、泉に捨てるなら両方捨てるだろう。片方だけを泉に捨てたのなら、いらない方を捨てたのだと女神様も思うだろうから、たとえ俺がこの女を殺したことを忘れているとしても、女神様にこうは訊かれない。それに俺はこの女の上半分も下半分も好きだ。殺したり2つに切断したりはしないだろう。 ここはやはり、女神様からご褒美を貰うのだと考えて、貰って嬉しい方を正直に答えるべきだ。 僕が泉に落としたのはどちらでもありません。あなたです。 あなたをください。 とか答えたら無礼者!とか言われて殺されるかな。殺されるよなきっと。ゴーッ!と焼かれて僕なんぞ塵も残るまい。 案外ポッと頬を染めて、私でいいのですか?なんて言ったり。 しないよなー! するわけないんだけど、じゃあどうするって事だけど、よく考えると長く一緒に暮らすなら、上半分の方を貰うほうが楽しいかも知れないような気がしてきたな。 でもなー、下半分と暮らしてみるのもそれはそれで悪くないような気もするし。花なんか飾ってみたりとかしたいよね。 アンケート調査したら、たぶん意見はわかれると思うな。 人魚を捕まえて水槽に飼って暮らしてみたいと思う男なら上半分だろうな。 でもアンデルセンの人魚姫は声を売って下半身を買うよね。 それが恋ってものなんだと、アンデルセンは思ったんだろうし、僕もそんな気がするな。 やっぱ下半分かな。
作成日時 2022-08-03
コメント日時 2022-08-06
正直な木こりと泉の女神についての考察 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 376.6
お気に入り数: 2
投票数 : 2
ポイント数 : 5
項目 | 全期間(2022/08/10現在) |
---|---|
叙情性 | 0 |
前衛性 | 1 |
可読性 | 1 |
エンタメ | 2 |
技巧 | 1 |
音韻 | 0 |
構成 | 0 |
総合ポイント | 5 |
平均値 | 中央値 | |
---|---|---|
叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 1 | 1 |
可読性 | 1 | 1 |
エンタメ | 2 | 2 |
技巧 | 1 | 1 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合 | 5 | 5 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
詩人なら下半身を選ぶのが筋じゃないでしょうか。 この散文がしめすものは私的な解釈としては「詩とはなにか」という問題としても扱えるような気がします。 あるいは想像力とはなにか。詩的想像力と他の分野の想像力との違いとは。そういうことを理解するための 一助になるのではないかと思いました。 とはいってもこの散文の趣意がわたしにはわかっているわけではありません。 あくまでも私的な解釈です。 たとえば下半身だけの彫刻をみたことがあるでしょうか。わたしは今のところありません。 しかし映画などでは車から降りるシーンに足だけ映す効果が頻繁に取り入れられている。 ワンパタの技術なのになぜかこの手法は観客に飽きられることがない。不滅の映画的レトリックです。 なぜかというと、足から上の人物は果たし何者か!? という想像力を観客にかきたてるからです。 最初から全身バーンと出ては面白くもなんともない。でも、映像とはそういうものです。 最初からバーンと材料が全部提供される。それが映画です。 想像力をかきたてるのではなく現物を押し付けられる。それが映像表現の一番前列にあるものです。 でも映画芸術のなかではこの、足だけみせる手法だけは詩や文芸の分野に属するレトリックだと いえるのではないでしょうか。観客の想像力が映像表現に参加している。だから飽きがこない。 一度、筒井康隆という小説家が書いた、マンガをみたことがあります。ご先祖が筒井順慶だというので その筒井順慶の関ケ原の戦いを描いたマンガだったのですが、 このマンガの主人公が最初から最後まで背中しかみせない。とうとう最後まで背中です。でも、非常に なんというか面白かった。その向こう側に顔があるのですが、それをおそらくわたしは無意識に想像している。 言語芸術の世界と同じく読者も創造に参加している。そういう面白さ。 つまり言語というのは不完全で穴だらけだからむしろそれが読者を夢中にさせるのです。 下半身だけの彼女とはそういうものじゃないでしょうか。長文失礼いたしました。
3『でもアンデルセンの人魚姫は声を売って下半身を買うよね。』 ↑ ここ、衝撃です。たしかに! 私は上半身が魚で 下半身が人の人魚の話を詩として書いたことがあったのですが、 そのときは、私の書き方のセンスのせいか 閲覧者の評判が良くなかったです。そのとき、 上半身が魚で 下半身が人だと、受け入れられないということかなあ。と、ばんやり考えたりもしたものです。ディズニーのせいで、人魚が人間の足に憧れるのは 歩いたりなど なんやかやと人らしい暮らしができるというイメージがわりと普通にある気がします。 でも蛾兆さんは、さすが! 大人の発想。深いですね。
1面白かったです。 「下半分」のゴール感。 それで全てが上手く行くと思っていたのに、そこからまた新たな試練が始まるという事実。 いずれにせよ苦しいならば、女神様への求愛が案外正解なのかもしれません。
1ご批評ありがとうございます。 私は詩人なら○○すべし式の文には警戒してしまう質なのですが、このご考察は、そんな私もしてやられるほど面白いですね。 なるほどです。
0それはもしかしたら、魚の上半身と魚の下半身、恋人だったらどちらが嫌か?ということを考えしまうのかも。 ポニョとかも魚の顔されると、ちょっと怖いですから。 人魚姫は王子様攻略については、死んでもいいぐらいに本気ですからね。研究したんでしょうな。
0この女神様、こんな質問してくるなんて、だいぶめんどくさい女神様かも知れませんが、僕は好みかも。 でもそれやると、殺されそうな気がするなぁ。 室町氏に乗っかると、ここで女神様を選ぶのは、詩を書くのをやめてメタに走るみたいなことと似てるのかも知れません。
0蛾兆さん、こんにちは。結論から言って、語り手さんはもう燃やされてもいいから女神様に告白して下さい。笑 まあ、それは半分冗談ですが、蛾兆さんの作品には時々仮定法が見られて、それがすんなり語りに入りやすくしているように思うのですが、この作品はいきなり場面に入って、そのまま語られる展開に引きこまれてしまいました。まったく油断も隙もありゃしないって感じです。まあ、そういうふうにすーっと読み手を入り込ませて読ませる手腕は見事です。 僕の読んだかぎりだと、それが的外れでなければですが、書かれていない語り手の設定がしっかりしているなと思いました。そこでは当然ながらイソップ寓話の「金の斧」が重なるのだけど、「正直な木こり」の正直さがそれぞれの語りのなかで示されていたと思います。このへんはめちゃめちゃ長く下手な説明をすることになるので省きます。 アンデルセンの人魚姫(上半分、下半分別々の女の代表格)ですが、彼女は足を得る代わりに声を失いますが、心から思う人の前に立てば言葉にならないどころか声もでないということもあるかもしれません。そうであれば思う人の前に立てるなら声などなくてもかまわないという心情は十分にありえます。またその足は歩くたびに痛みますが、それも思う人と同じ世界に生きて、恋することの痛みであり、やはり下半分なしでは得られないものであったと思います。なので、「下半分かな。」に落ち着くのは結局正直なんだなと思います。 あー、だけど泉の女神様はどの語り手からも距離をおかれていて、そりゃまあそういう侵しがたい存在ではあるのだけど、ちょっと不憫な気もするのでやっぱりマジ告白して燃やされてほしい。 と、だらだら書きましたが、いろいろ考えさせられることを含む作品でありながら、楽しく読めたのはつくりのよさと語り口のうまさですね、ということであります。ありがとうございました。
1ご批評ありがとうございます。 わかります。 この女神様だけなんですよね。木こりの美質を認めて、褒美を取らそうと思ったのは。しかも上から目線の押し付けの褒美ではありません。世の倫理も女神の誇りも関係なく、木こりが本心から欲しいものを上げようというのです。 ジョンのために女を選んであげた、オノ・ヨーコみたいかも知れません。 つまり、そりゃあジョンはヨーコを選ぶよ。ジョンだからそれができます。普通の男は燃やされちゃうから迷うよw
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