作品投稿掲示板 - B-REVIEW

投稿作品数: 9
総コメント数: 101
今月は0作品にコメントを付与しました。
プロフィール
記録

の記録 ON_B-REVIEW・・・・

優良B-Reviewer

総合コメント数バッジ(くわしく)
獲得バッジ数

精力的投稿者

投稿作品数バッジ(くわしく)
獲得バッジ数

ROME

2017-11-06

アメリカ論

2017-09-10

カニ族

2017-07-22

AV. 68

2017-05-21

THE COLD WAR

2017-02-27

この作品を読み、実にひさびさに「詩」も捨てたもんじゃない。そう思いました。いま選評を書いています。 (デイヴィッド)

2017-11-26

みなさんコメント感謝いたします。そーですね、この作品は一気に書きなぐったというところがあり、もうすこし推敲してもよかったのですが、一息に書いた速度感を大事にするのもありかなと思い、そのまま投稿ししました。わたしは欧州にはほとんど行ったことがないのでここに出てくる「ローマ」は記号としての色彩が濃厚だと思います。しかしこの作品は出発点のようなものであり、こんごここで描かれていることを下敷きに散文だけではなく、評論、文化批評など、いくつかの方面に展開していけたらよいなと思っています。右肩さん、ぜひ美術について語りましょう! (ROME)

2017-11-24

Fiorinaさん フォーラムにトピックを立てる件、了解いたしました。お待ちしております。 ( <歴史遺産>)

2017-10-01

アラメルモさん、fiorinaさん 作品に関する議論からはずれますが、京都に詩人さんのたまり場をつくる話、クラウドファンディング等をつかって本格的にやってみたら面白いのではないでしょうか。 ビーレビも日本在住のキュレーターが東京周辺に集中することとなり、「リアル」なレベルで数多くのプロジェクトが発案されております。(わたしは置いてけぼりを食らっていますが。笑) そのあたり近いうちいろいろとお話できれば楽しそうですね。 ( <歴史遺産>)

2017-10-01

例:3000字の文章 「藝術としての詩」とは何か。航空機がその町の上空に差しかかると、小さな、モスグリーンの丘に固まるアルミ屋根の住宅群を君はきっと見るだろう。そこを走る幾筋もの道のひとつに90年製の真っ赤なマツダ車が駐車しており、その前にある一軒がAの母親や小さな妹たちの住む家だ。そのあたりはL 字やS字に急カーブする道路が続き、町のほかの部分の緑におおわれ整然とした景観とは、一線を画しているかのように見える。俺はその町にある要塞のような建物の、映像・写真センターで働くキュレーターとテーブルをはさんで向かい合った。男は、Aの家族が住むエリアの詳細な見取り図を指さしながら、夢のようなケーブルはまだ引かれていないがケーブルを支えるスチール製の支柱はすでに埋めこまれており、それは数年前その地区の大半が埃っぽい砂利道だったころ、一人のドイツ人アーティストが住民や子供たちのあいだで絵の展覧会を開催しようと計画した名残なのだと語った。展覧会— exposición—というもうずいぶん長いあいだ聞いていなかった言葉を反芻しながら、俺は低く雲がたれこめるセメント造りの家々とAとの日々を思い出していた。 「藝術としての詩」とは何か。航空機がその町の上空に差しかかると、小さな、モスグリーンの丘に固まるアルミ屋根の住宅群を君はきっと見るだろう。そこを走る幾筋もの道のひとつに90年製の真っ赤なマツダ車が駐車しており、その前にある一軒がAの母親や小さな妹たちの住む家だ。そのあたりはL 字やS字に急カーブする道路が続き、町のほかの部分の緑におおわれ整然とした景観とは、一線を画しているかのように見える。俺はその町にある要塞のような建物の、映像・写真センターで働くキュレーターとテーブルをはさんで向かい合った。男は、Aの家族が住むエリアの詳細な見取り図を指さしながら、夢のようなケーブルはまだ引かれていないがケーブルを支えるスチール製の支柱はすでに埋めこまれており、それは数年前その地区の大半が埃っぽい砂利道だったころ、一人のドイツ人アーティストが住民や子供たちのあいだで絵の展覧会を開催しようと計画した名残なのだと語った。展覧会— exposición—というもうずいぶん長いあいだ聞いていなかった言葉を反芻しながら、俺は低く雲がたれこめるセメント造りの家々とAとの日々を思い出していた。 「藝術としての詩」とは何か。航空機がその町の上空に差しかかると、小さな、モスグリーンの丘に固まるアルミ屋根の住宅群を君はきっと見るだろう。そこを走る幾筋もの道のひとつに90年製の真っ赤なマツダ車が駐車しており、その前にある一軒がAの母親や小さな妹たちの住む家だ。そのあたりはL 字やS字に急カーブする道路が続き、町のほかの部分の緑におおわれ整然とした景観とは、一線を画しているかのように見える。俺はその町にある要塞のような建物の、映像・写真センターで働くキュレーターとテーブルをはさんで向かい合った。男は、Aの家族が住むエリアの詳細な見取り図を指さしながら、夢のようなケーブルはまだ引かれていないがケーブルを支えるスチール製の支柱はすでに埋めこまれており、それは数年前その地区の大半が埃っぽい砂利道だったころ、一人のドイツ人アーティストが住民や子供たちのあいだで絵の展覧会を開催しようと計画した名残なのだと語った。展覧会— exposición—というもうずいぶん長いあいだ聞いていなかった言葉を反芻しながら、俺は低く雲がたれこめるセメント造りの家々とAとの日々を思い出していた。 「藝術としての詩」とは何か。航空機がその町の上空に差しかかると、小さな、モスグリーンの丘に固まるアルミ屋根の住宅群を君はきっと見るだろう。そこを走る幾筋もの道のひとつに90年製の真っ赤なマツダ車が駐車しており、その前にある一軒がAの母親や小さな妹たちの住む家だ。そのあたりはL 字やS字に急カーブする道路が続き、町のほかの部分の緑におおわれ整然とした景観とは、一線を画しているかのように見える。俺はその町にある要塞のような建物の、映像・写真センターで働くキュレーターとテーブルをはさんで向かい合った。男は、Aの家族が住むエリアの詳細な見取り図を指さしながら、夢のようなケーブルはまだ引かれていないがケーブルを支えるスチール製の支柱はすでに埋めこまれており、それは数年前その地区の大半が埃っぽい砂利道だったころ、一人のドイツ人アーティストが住民や子供たちのあいだで絵の展覧会を開催しようと計画した名残なのだと語った。展覧会— exposición—というもうずいぶん長いあいだ聞いていなかった言葉を反芻しながら、俺は低く雲がたれこめるセメント造りの家々とAとの日々を思い出していた。 「藝術としての詩」とは何か。航空機がその町の上空に差しかかると、小さな、モスグリーンの丘に固まるアルミ屋根の住宅群を君はきっと見るだろう。そこを走る幾筋もの道のひとつに90年製の真っ赤なマツダ車が駐車しており、その前にある一軒がAの母親や小さな妹たちの住む家だ。そのあたりはL 字やS字に急カーブする道路が続き、町のほかの部分の緑におおわれ整然とした景観とは、一線を画しているかのように見える。俺はその町にある要塞のような建物の、映像・写真センターで働くキュレーターとテーブルをはさんで向かい合った。男は、Aの家族が住むエリアの詳細な見取り図を指さしながら、夢のようなケーブルはまだ引かれていないがケーブルを支えるスチール製の支柱はすでに埋めこまれており、それは数年前その地区の大半が埃っぽい砂利道だったころ、一人のドイツ人アーティストが住民や子供たちのあいだで絵の展覧会を開催しようと計画した名残なのだと語った。展覧会— exposición—というもうずいぶん長いあいだ聞いていなかった言葉を反芻しながら、俺は低く雲がたれこめるセメント造りの家々とAとの日々を思い出していた。 「藝術としての詩」とは何か。航空機がその町の上空に差しかかると、小さな、モスグリーンの丘に固まるアルミ屋根の住宅群を君はきっと見るだろう。そこを走る幾筋もの道のひとつに90年製の真っ赤なマツダ車が駐車しており、その前にある一軒がAの母親や小さな妹たちの住む家だ。そのあたりはL 字やS字に急カーブする道路が続き、町のほかの部分の緑におおわれ整然とした景観とは、一線を画しているかのように見える。俺はその町にある要塞のような建物の、映像・写真センターで働くキュレーターとテーブルをはさんで向かい合った。男は、Aの家族が住むエリアの詳細な見取り図を指さしながら、夢のようなケーブルはまだ引かれていないがケーブルを支えるスチール製の支柱はすでに埋めこまれており、それは数年前その地区の大半が埃っぽい砂利道だったころ、一人のドイツ人アーティストが住民や子供たちのあいだで絵の展覧会を開催しようと計画した名残なのだと語った。展覧会— exposición—というもうずいぶん長いあいだ聞いていなかった言葉を反芻しながら、俺は低く雲がたれこめるセメント造りの家々とAとの日々を思い出していた。 「藝術としての詩」とは何か。航空機がその町の上空に差しかかると、小さな、モスグリーンの丘に固まるアルミ屋根の住宅群を君は (重要なお知らせ(2017年10月1日発効))

2017-10-01

https://mobile.twitter.com/breview_jp https://mobile.twitter.com/hanao_ukifuita (moment_memory)

2017-09-27

加地様 breviewへのご参加ありがとうございます。投稿は各自一月あたり二作までとなっております。 上部リンクのGuidelineを一読していただければと思います。 残念ながらどれか一作取り下げていただくことになります。運営までご連絡ください。 breviewキュレーター一同 (moment_memory)

2017-09-27

まりもさん (引用)不在という語に、喪失感、空虚感、失望感を感じているのか、いないのか。花緒さんは事実としての不在、に言及していて、いわば、状況説明の言葉。天才詩人さんは、「不在」という言葉が喚起する詩的感興が、この作品には強く感じられない、だから、これはモノローグとどこが違う?という疑問を発しているのではないかと思いました。 まあ、そうなんですかね。(笑)「不在」は喚起力の強いワードであり、クリシェでもある。状況説明に使うのには過剰に文学的だし、批評という文脈で「不在」という言葉がビシッとあてはまる状況って本当にあるのか疑わしいな、と。別の言い方をすれば「不在」という言葉に落としてしまうとこの作品の強度がアピールしにくくなるんじゃないかという疑問があるわけです。これはキュレーションという言葉と同じで、オーガナイズすることや企画することとどう違うんだよ、という。ここをはっきりさせるまでは安易に使いたくないし、使っていない、という感じですかね。 (縁)

2017-08-01

花緒さん、挑発にのっていただき感謝します。笑 (引用)そして、ずるぷかる君は、不在であるわけです。本作に登場する人物たちは、作中話者の眼前にいる訳では無い。全員、不在。 わたしが問題だと思えるのはただ一点、花緒さんの「不在」という言葉の使い方なんですね。この作品のキーワードは「不在」だ、と言ってしまえばいかにもそれらしく(批評っぽく)聞こえる。冒頭部分で作者がコンビニに行くがずるぷかるくんはいない、作者はずるぷかるくんについて語るわけですがそもそのその指示対象がほんとう存在するのかさえあやふやである。この文脈で不在という語り方をするのなら相当に面白い。でも母も兄も不在としてしまうと後半の展開に依拠して、花緒さんの「不在論」の豊穣さをダメにしてしまうんじゃないか、という懸念があるわけです。 かんたんにいえば、「不在」という言葉を、たんに「作品中に語り手以外の人間が現前しない」という意味で使うならば、「この作品は作者のモノローグである」、といえば済む話で、わざわざ「不在」に言及しなくてもよいわけです。モノローグを基調とする詩作品は数多あり、当該作に限ったことではありません。他者への参照はあってもメインの語りは人間関係に逡巡する「自分」にはじまり、自分に回帰し、自分で完結する。 この作品はまとまりを欠いていて、それが豊かさになっている。ずるぷかるくんの話かと思えば母が出てて、次の兄の話、将来の結婚相手の夢想。まったくまとまりがない。で何がこのまとまりのなさを束ねているかといえば、作者が自分をとりまく人々に対してうまく言いたいことが表現できない。関係性を器用にこなせないという「葛藤」なわけです。作者の逡巡がメインシャフトとなって、ばらばらなナラティブをまとめている。 で、なぜずるぷかるくんが出てくるのか。ずるぷかるくんは作者の反転画像であり、単一のローカリティにおける家族とか関係性を超越した存在として読めるのではないか。わたしが以下のツイートで表現した内容です (引用)やっぱ出身国金持ちか否か問わず「外国」人という存在自体がまぶしく見える瞬間ってあるんと思うんです。彼(女)は酸化したニコチンのような家族関係や交友の網目に絡めとられ(未だ)色あせていない。卸したてのポロシャツにくるまれているような清潔な感じがある。(うっ詩人だ俺)#BREVIEW (縁)

2017-07-31

蛾兆ボルカ さん ビーレビへようこそ。ボルカ さんの提示する方向性は有効だとわたしも思います。しかしその行き方は作者に対する、きみの詩は「即座に図解可能な隠喩+換喩のパズル」であれというじゃっかん性急な要請だとも読み取れます。わたしはパズルならば頑として瓦解せず、込み入りすぎていてよくわかんない、精度の高い「詩」というカードリーダーにタッチしても断続的にエラーが出るような方向性を選びたい。ともあれ、ボルカさんに「下品」だと感じさせてしまった。詩を暗にパズルに喩えさせてしまった。そこはわたしの目を覆うべき落ち度でありましょう。読んでいただきどうもありがとうございます。 (カニ族)

2017-07-29

花緒さん、どうもありがとう。バックパッカーやヒッピーを社会的不適格者ではなくヒロイックな存在として持ち上げる言説に対する疑念。ヒロイックなのは単一の場所に「安住」せず孤独を恐れない。たった一人で未知の場所を踏破していくとか、そこらへんじゃないかと思うんですが、モラトリアムだという的を得たコメントのほかに、結果群れをなすことによってひとつの社会的象徴資本に落ち着く:ヒッピーのような服を着てヒッピーみたいな旅をすれば周りの者は「ああ、ヒッピーがいる」と安心してくれる。安住はしないのかもしれないが、気に留められない存在になる。この差異は微妙なようで、けっこうでかい。そんなことを考えますね。 (カニ族)

2017-07-29

総括的にわたしの読みを言うと、けっきょく異化作用の話だと思うんですね。その役割をずるぶかるくんが担っている。但しこの作品はもっと複雑で、たんに異国の情景を挿入するとかあざとい方法じゃなく、作者もそれがまだ何か気づいていない。だけど、気になる、という感じなんですよね。旅の効果、住み慣れた土地を離れるというのはそういうことなんだけど、ここでは作者が旅をするよりは、作者の日常に「旅」を経てそこにいる人物が埋め込まれている。そこで上のツイートで触れた「洗いたてのポロシャツの新鮮な感じ、というのにつながっていくわけです。 (縁)

2017-07-25

この作品でまりもさんにも喧嘩(笑)を売るとすれば、けっきょく文芸批評って全部読まなくちゃいけないのか?という恒常的な疑問なんですね。 #BREVIEW どんなに長大な小説も論文も、作者の表現したいポイントのようなもの、これは結局唯一点だと思う。それをスパっと抜いて提示すればよく。全編読むのは基本としても全文を咀嚼=吟味する必要はないと。木を見て森を見ずになる危険? #BREVIEW やっぱ出身国金持ちか否か問わず「外国」人という存在自体がまぶしく見える瞬間ってあるんと思うんです。彼(女)は酸化したニコチンのような家族関係や交友の網目に絡めとられ(未だ)色あせていない。卸したてのポロシャツにくるまれているような清潔な感じがある。(うっ詩人だ俺)#BREVIEW (縁)

2017-07-25

機会があればここで議論しましょう、ということで直近のツイートを貼ります。 B-REVIEW‏ @breview_jp 9 hHace 9 horas Más うーむ花緒さんの評は面白いんだけど、敢えて「不在」という言い方をしなくても、作品中に他者がフルに現前しないこと=作者のモノローグである、というごく初歩的な説明で済むはずだよな、という疑念もある。 #breview (縁)

2017-07-25

http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=450 「ダヴ」ですね。 (カイコ~東にあるイタリア~)

2017-07-25

ビーレビへようこそ。 先月のエイクピア作品はけっこうお気に入りで優良に推していたんですが、その作品と比べると本作はやや冗長で、誤謬石という表現の面白さだけが突出している、そんな感慨を持ちました。 (カイコ~東にあるイタリア~)

2017-07-25

ずるぷかるくんだった。。。笑。携帯から書いてるんでそのへんはご容赦を。 (縁)

2017-07-22

そうしてこそ自身が今後主体的に「縁」というものを成立させてゆく契機ができててくる。 そんな感じですかね。 (縁)

2017-07-22

書き忘れましたが、終盤に将来の結婚とか夢想部分が入ってくる。手垢のついたものを、新規なものとして「繋ぎ直す」という。自分が現在巻き込まれている関係性を一旦緩めることが必須である。 (縁)

2017-07-22

ご投稿ありがとうございます。 家族関係といういものの忍びなさ、ほんらい至極困難だからこそその厄介さを他者の場合のそれとして追体験することでフレッシュなものとして繋ぎ直したい。 ずるぶか君はすべての人間関係がリセットされたそのさきにある、もしくはそうした関係性が未分化な場である、彼にとって異国の「コンビニでしか」出会わない存在。平たく言えば、じぶんもそうやって一人遠くに働きに出たら、兄や母の存在はどう見えるんだろなと。 ずるぶかくんの目線をギミックとすることで日常をポリフォニックに再掲示し直す、秀作として読みました。。 (縁)

2017-07-22

ご投稿ありがとうございます。ユーザー名を空白にして登録されたようですね。ミスの場合こちらでフォローしますのでご希望のユーザー名をお知らせください。 (過去)

2017-07-15

Fiorinaさん、ご投稿ありがとうございます。取り急ぎ連絡のためここに書かせていただきます。もう一作のアタと建築を扱った詩なのですが、たいへん印象的な出来でありぜひ取り下げないでいただきたいと発起人一同考えております。何かあればいつでも発起人いずれかのツイッターかbungokureview@gmail.comまでご連絡ください。どうぞよろしくお願いいたします。 (イヴ・サンローランのフランス)

2017-06-10

「空無通信」「蛍」とか。文学極道の発起人バトルにあるやつだ。 (オホーツクの岬)

2017-06-02

第二連で断続的に押し込まれる血みどろの描写。でも最後には「すべて跡形もなく消え去る」んだ。道東という場所や自然風景の幾何学的サンプリング。文学極道初代表ダーザインを思い出しますね。あの作品タイトルなんだっけな。 #breview (オホーツクの岬)

2017-06-02

Kawabeさん、ご投稿ありがとうございます。削除希望作はここで指定していただくか、ツイッターでbreview_jpまで。どうぞよろしくお願いします。 (落ちていく)

2017-05-24

ご理解ありがとうございます。これからもよい作品を投稿してください。 (現代詩とポエムに寄せる。)

2017-05-21

http://breview.main.jp/index/guideline/ (現代詩とポエムに寄せる。)

2017-05-21

鳩村さん、一言での罵倒コメントは無為な衝突をにつながるので禁止しです。このやり取りはすぐに中止すること。できない場合、お二人ともイエローカードです。 (現代詩とポエムに寄せる。)

2017-05-21

いんたーねっと、まで平仮名なんだからこれは平仮名を多用する散文ではなく平仮名だけの散文。中弛み感はあるにしろ、ところどころ刺さってくる詩でした。幸せってなんだろね。 https://twitter.com/breview_jp/status/866083242960662528 (かみさま)

2017-05-21

ここでの議論を即刻中止しない投稿者は上記の理念に同意できないということでイエローカード扱いにします。これからほかの発起人と相談しますが、この返信欄への書き込みはとりあえずむこう48時間停止します。 (はるのつき)

2017-04-26

花緒、百均両氏の対応に100%同意・感謝します。投稿者の皆さんがビーレビに参加してこの場を盛り上げたいと意図するのであれば、まずこのムーブメントができた大事な背景の一つである、「荒れないネット詩掲示板をつくる」、という到達困難なゴールをわたしたちと一緒に達成していくことをとにかく最大限優先してください。オートマティスム、コンセプチュアルアートの成否、すべて有意味な議論ですが、それをやることで掲示板のエネルギーがマイナスに転落するならば、いかなる種類のやりとりもここでは禁止します。つづきはツイッターやブログなどで。もう一度言います。BREVIEWに作品を投稿することは、このサイトが掲げる「荒れないネット詩投稿板をつくる」という理念に同意したということを意味します。この前提を共有しといてください。 (はるのつき)

2017-04-26

現在、発起人のまりも氏と天才詩人のあいだで、この作品に関して中身の濃い話合いがなされております! (『鍵のない箱』)

2017-04-24

お疲れさまですもとこさん。ツイッターでも書いたような気がするのですが、とても充実した一連目は文学極道で創業当時有望な書き手だったケムリさんの作品を思い出させます。 そのケムリ氏の作品によく出てきたのが「ヘッドフォン」というアイテムなのですが、地下鉄の電車内(たとえばロンドンなんかではチューブthe tubeとも呼ばれるらしいですが)というセッティングがヘッドフォンで耳を塞いた密閉空間に酷似しており、さらにいえば、「胎内」の比喩と考える可能性もあるかと思います。 第一連目で、そうしたメタファーの広がりに迫っていくのは良いのですが、場面の描写自体がここでぷつりと切れてしまうのが残念です。もうちょっと粘り強く場面の描写を続け、地下鉄というシンボルを作品のどまんなかにどんと据え付ける。 右肩さんの読みにあるとおり、この地下鉄が身体に飛び込んでくる光のインパクトは作品全体のライトモチーフである。だとすれば、それ以降の連は読みごたえがあるとは言えモノローグの域を出ておらず、文字通り「パンに塗って食べる」のには物足りないような感じがします。 (Tangerine Dream)

2017-03-22

フィオリナさん、bへようこそ。最近読んだある本で著者が言っていたことは、日本の1930年代は日中戦争が泥沼めがけて進んでゆく暗い時代であった反面、経済がぐんぐん成長して東京が近未来的な都市の雛形を最初に内面化し、高度消費社会が謳歌された時代であったと。で、そうした最新の意匠を採用する出発点となったのは、関東大震災による徹底的な都市環境の壊滅であった。 忌むべきことにそうして膨大な労力を投入して作り上げたメトロポリスも1940年代の空襲で再び灰に帰してしまう。この間、おそらく15年もないわけです。 小規模ながらもいちおう学を積んだ一日本人として自国の近代史を振り返るとき、歴史が蓄積、沈殿することなくスライスチーズのセロファンのように透明化してしまう。耐震性のある[大きな物語]が紡がれるための土壌が脆弱な、場所としての軽さ。。そしてそうした弱点さ身軽さにも翻訳できてしまう、日本人としての図太さのような感覚。。 ところで、スペイン語圏で同年代か年下の女性と話すとアニメのキャンディキャンディを観て育ったという話をよく聞くんですが。よくよく考えるとあの大西洋をまたいで展開する場面設定に没入しているかぎり、原作者が日本人だということは容易には気づかないはずです。その意味で現代の日本を知るためにはものすごく面白い材料だという気がしています。もちろん、ああしたある意味で平板な世界への目線を東西冷戦只中の政治的無風地帯できらびやかな[西側]の消費文化へと無節操に自己を重ねていく日本人の欺瞞ともとれるわけですが、そのぶん、グローバルvsローカルという二分法がその根底で設定不良を起こしているような、日本的な図太さの発露ともいえなくもない。 で、この作品は南仏への旅行記の体裁をとりながら中盤作者のそうした問題への自覚がわずかに顔を覗かせており、それがダグマの没入的かつ非再帰的な自国の語り方に、グローバルトラベラーの視点からさほど違和感なく誘引されてしまう日本人たる[わたし]を微妙に牽制している。共有されるべき歴史的過去や未来ももはや一元的ではなくなってしまった欧州で、女性としての連帯感では回収しきれないズレや理解の不全をハイパーテキストとして取り込んでいる。キャンディーキャンディーを読んで育った一女性の、(でもそれなんかちゃうやろ)という呟きが、詰まるところのテーマではないかなと。 ( ダグマ 1 [南仏紀行])

2017-03-17

田中ジョヴァンニさん。遅ればせながらBREVIEWにようこそ。 この作品ですが、冒頭で読者を引き込むという課題はクリアしているものの、秀逸だった第一作目と比べて人物描写が甘いように思えます。 『ヒロキは愛というものがよく分からなかった。異性に対する性欲はあったが、恋愛感情を持つことが無かったのだ。』 極論を言えば、男という生き物はつまるところ性欲のカタマリで、性欲が満たせかつ一緒にいるのが厄介でなければ、「恋愛」関係は成立するというのが、わたしの考えです。もちろん、ずっと一緒にいれば愛着も湧いてきますし、そうした愛着のようなものが恋愛感情だと言えばそう言えなくもない。しかし「恋愛感情を持つことがない」というステートメントは、99%同性愛の表明として私は理解します。笑  『そんな為か、ヒロキには男女限らず友達が居なかった』 ジョヴァンニさんの筆致だと、ヒロキ氏は。友達がいないというよりは、ただたんに執着がない。でもその気になれば遊び仲間には不自由しない、覆面肉食男子という感じですかね。そしてサブカルに詳しいというマニアとしての側面も覗かせる。ヒロキは、孤独でありながらも、周りに迷惑をかけずなんでもソツなくこなせるポストモダン(死語)な日本のヤング(死語)。 『だが、ヒロキは極度の面倒くさがりであり、途中でどうでもよくなってしまった』 このあたりの記述が 『就職してからも人間関係で悩み続ける日々』 ここと咬み合わない。 文体や描写力で勝負する路線ではない以上、説得的な人物把握はとても重要だと思います。 次回作に期待しております。 (愛とモンゴル)

2017-03-05

祝儀敷さん、B-REVIEWへようこそ。きのうスカイプでコーリャさんとこの作品について話したのですが、文章も上手だし、読みやすい。しかし、この形式をとる必然性を強く感じないという問題があります。わたしもサザエさんがポピュラーだったころとか、実家に黒電話があった時代というのはなんとなく覚えていたりするんですが、2017年の現在から見ると、そうした背景自体がすでに主題化できる面白さをはらんでいると思うんです 先日、とある事情で「東京ラブストーリー」のエピソードをいくつか見たのですが、話は織田裕二が羽田についてカード式公衆電話の列にならぶとこで幕を開ける。ネットも携帯もない時代、カノジョと待ち合わせするのも一度約束したら、フレキシブルに変更したりキャンセルしたりというのが効かない。作品中で妻の連絡を待ちながら、黒電話のつややかな表面に自分の顔がゆがんで映る様相を興味深げに眺める場面がありますが、そうした時代固有の日常というか間合いみたいなもの。それを汲み取れただけでこの作品を読む面白みは十分あったという気がします。 しかし巨大な「カマドウマ」の導入。これはそのユーモア自体がどこか昔の少年ジャンプのようなロークオリティーな印刷物で見たような色あせたものであり、新鮮な驚きがあるとは思えない。また、このユーモアを主題化すべく、「妻」は人物というよりはひとつ記号として引用されているという印象を持ちます。「妻」ではじまるフレーズの連投がモノトーンなコマ送り以上のものになっておらず。たがいに交通を欠いた並行現象を持ち込むことで世界をナンセンスな総体として見出すシュルレアリスト的な手法も、もうひとひねり必要に思えます。 (妻の夫)

2017-03-05

前作よりはるかに良い。そんな印象を持ちました。時間ができしだい評を入れます。 (色彩)

2017-03-03

中田さん。コメントの書き出しに『「傷つく能力」というものを、この作品からも、作者自身からもわたしには感じ取ることができない。』というフレーズを置くのは、批評態度として「弱い」と言いたかった。そもそも「傷つく」というのは主観的な問題で、その「傷」を物質として取り出して、メロンパンみたいに俺のは大きいとか小さいとか、他者に明示したり比較できるものではないでしょう。あなたの言い方には、ネット詩の常連にありがちな、「詩」は社会から疎外された人間特有の表現手段であり、「傷を負った」経験を生々しくつきつけねばならない・・というような意図が読み取れた。そうした作品群の価値をわたしは否定しませんし、感動を与えるものもなかにはある。ただしそうした路線を唯一の「詩」のあり方と措定する立ち位置から、作者は「傷を負っていない」という言葉で低く評価するのは、やや押し付けがましさを感じる、ということです。もちろん中田さんがそこまで頭が悪いとは思わない。ただ批評としての強度が足りない、と俺は思うのですよ。 (#芸術としての詩 03)

2017-02-28

ついでですが、いいかげんソンタグの読書会やりませんか? (#芸術としての詩 03)

2017-02-28

中田さんどうもありがとう。至極もっともなコメントだという気がします。そのいっぽうで禁じ得ないのは、当の中田氏は「傷つく能力」を持っていると公言できるのだろうか、という素朴かつ、根源的な疑問。僻みのせいで読むに耐えない文章がこの世に存在するとするならば、それはあなたが何かを諦めてしまった証拠であり、詩文学うんぬん以前にそうした自分の僻みをぶち壊すのがさきだろうと。 あなたのように頭がよく物事のエッセンスを取り出すのに長けた人間には何人か出会いましたが。みんな一様に何かを諦めている。純粋に「楽しい」「ゆめをあきらめない」という馬鹿げたくらい単純でポジティブなマインド。それがあなたにはない。 これは私からあなたへのエールです。 (#芸術としての詩 03)

2017-02-28

外国人女性といえばロシア系の女性に世界の独身男性から注目が集まっている状況ですかね。でっぷり太ったアメリカ人のシングル=ミドルが団体ツアーに参加して大挙してウクライナのキエフなんかに押しかける。マッチング企業によって企画されたパーティーに来る女性は祖国の経済的困窮や先の不透明さにしんそこ嫌気がさしている。 彼女たちのあいだではまだアメリカンドリーム、もしくは自国からEXITできるならどこにでも連れて行ってという「ここではないどこか」ドリームが健在なのでしょうか。話を変えますと、私はこれまで、特段たくさんの外国人女性と交際してきたというわけではありません。しかし、どこの国の女性であったとしても、こんご出会い親密になる機会があるとすれば、わたしはその女性の祖国、その国での平均的な日常の感覚、そして言語。これらについて相応の知見を得たうえでリスペクトしたいと願っています。 開高健じゃないですが、異国を知ることと異性を識ること、交通することは、同次元の問題だと言えます。夢のようなケーブルとは、それぞれの人間の個性かつ、孤生(生はとどのつまり孤独であること)を、どうにか眼前につづく路地や空を遮る縦横無尽に張られた「ケーブル」。これらとコネクトしシンクロさせようとするあくことのない試みであり、そこにこそ、真のきらめきを持つアート、総合的かつ総体的な「藝術」の可能性があのではないでしょうか。 恋愛とは、なにも真空パッケージの内部で化学変化を起こすミステリーやすったもんだではなく、特定の土地や固有の風景、匂い、舌ざわり、そうした要素すべてを含んだ総合的な「物質」である。 みなさん。丁寧なレスをいただき、ありがとうございました。 ちゃんとレスに答えろやボケ!等の苦情はツイッターのリプその他で対応します。 (#芸術としての詩 03)

2017-02-27

中田満帆さん、b-reviewへようこそ。 もう10年くらい前、ハリウッドのユースホステルでフロントの仕事を任されていたことがあるんですが、春休みシーズンで日本人の女子大生がたくさん宿泊しておりました。 ドミトリーのベッドが満員になり、普段は男女別のところを相部屋にすることになったのですが、夜半すぎある女の子が、やっぱり男との人と同室は無理です。トイレにもいけません。と陳情してきました。バスルームは各部屋の中にあるのですが、やはり日本女性として用を足している時の音が聞かれるのがはばかれるとか、たぶんそういう話だろうなと僕は受け取ったんですが。このあたりの気遣いというか、わたしにいわせれば行き過ぎたエチケットのようなもの。これはほとんど日本人特有なのではないだろうか。白人女性ならたぶん大胆に「クソ」もするし小便の音くらい聞こえたって問題ない。 この作品は、「クソをしたあと」の流止まない水洗便所の音がいざなう、異郷。英語でいうとディスプレースメントですが、作者の「心ここにあらず」という現実から浮き上がってしまう感覚。それはきっと外国語文学のスタイルを消費したり写真集をめくったりすることだけでは決して癒やされない、根深いなにかである。そしてそれはたとえ作者に女ができ、性的快楽に浸る日々が訪れたときも消えることはないだろうと俺は断言できる。 (ひさしぶりに詩と呼ばれるらしいものを書いてみたんだ、アリシア。)

2017-02-24

fujisakiさん、breviewへようこそ。わたしは日本を含むアジア文化圏に住まなくなってもう10年経つのですが、つくづく感じるのは、日本や韓国といった東アジアというのは極度な競争社会である。さきほども暇つぶしにドキュメンタリーを見ていたら、いまや学区の世帯の平均年収などをベースに算出された指標をもと公立小学校を選ぶ時代だと。朝日系の番組なので、多少の誇張はあるんでしょうが、幼稚園時代から「人間力」を養うためにプレスクールに通わせ、友達から仲間はずれにされないために「鬼ごっこ」の練習までさせられる。そうした人口過密かつ過当競争の社会は、その陰画として、往々にして濃密な駆け引きに満ちた人間関係を生むわけです。 とくに大都市からも田舎からもひとしく隔たったような場所。かつて静岡県富士市出身の友人と話していて、育った周りはヤクザ者だらけだったと。理想化されひなびた感じの「田舎」や故郷へのノスタルジーでは捉えられない、細くゆがんだ路地や汚泥のたまった用水路が錯綜するそばに、メインストリームの品川ナンバーではない「黒いベンツ」と「白いベンツ」が駐車しているような、住民の経済的水準もバラバラで、いまだ「街」という実感が成立しないような、没場所的な場所。という感じもします。そうした場所に嫌気がさしつつも、作者は「いちごシロップ」という言葉が想起するような甘美な想像の領域をつてに、「生きる」のではなく、「生かされている」ことをひとまず選ぼうとする。 しかしこの場合、「生かされる」という言い方はずいぶん控えめなステートメントな気がするわけです。実は作者は自分には、よそ者ならたぶん参ってしまうような「痛み」を伴う現実も帰って愛撫のように心地よく感じてしまう。タフさへの信頼。これがこの作品を読みこむ中心的な概念になってくるような感じがします。 最後に、Kazさんや、花緒さんが指摘するところのうまく捉えられない感じ、これは、この作品でフォーカスされているそもそもの「こうえん」やそこからの「とうきょう」への距離感のどっちつかずな感覚、これに関連しているんじゃないか、とりえずのわたしの理解です。 (いちごシロップ)

2017-02-22

双葉月ありあさん。#breviewへようこそ。あまり関係のない話なのですが日本人は印象派の絵画が好きですよね。高齢化社会になって地方のハコモノと化した美術館はいまでは高齢者の美術フアンでなんとかやりくりしているという話を聞きます。実はうちの母も西洋絵画が大好きなんですが、やっぱり一番の肝は印象派なんです、その後時代をくだるとピカソとかカンディンスキーくらいまではわかるんですけど、その先の抽象表現主義とかミニマリズムはまったくダメ。何の話かといえば、印象派特有の「ひかり」の表現。これが日本人は大好物であるという。明治維新以降、西洋絵画の技法が一般化していくなかで多くの作家の目を奪ったのは、それまで一般的ではなかった、日中の外光や、新しいテクノロジーの結果生まれた「光」をどう捉えるかという課題だったわけです。この文脈で、ありあさんのこの作品はそこらへんの「日本的」な感性をつかまえている。他の西洋言語は知りませんが、スペイン語では女性が出産することを dar a luz (暗がりにいる胎児を)光(の世界)に取り出す。という言い方をします。わたしのかってな推測ですが、光と闇というのはもともと西欧キリスト教世界の発想であるとすれば、それを近代芸術のなかででワンランク上の洗練された美学に仕立てたのは実は日本人ではなかったか。ところで、この作品は、最後になってやっと「ひかり」というワードが来るんですが、前半からすでにこのテーマをを凝縮した秀作だと思います。 (prayer)

2017-02-18

るるりらさん、breviewへようこそ。この前ある人と話していたのですが、詩や文章というのは完全に想像力の世界で書くことができる。自分とコンピューター(古くは紙と鉛筆)があればいい。しかしだからこそ、作者の脳内言語をただだらだらと叙述することに始終してしまう危険と不可分だ。詩作品では、読み手がなんらかの具体性を感じることのできる物事や情報を提示するのがとても大事だと思うわけです。で、この作品はは港にはためく「旗」それから鰰という知っていそうでよく知らない魚。これも分かりそうでわからない、それを模したパイ。骨格だけを示して中身はぜんぶ見せない。とてもうまい手つきで、鰰とハタハタパイを焦らしながら脳内のハードディスクに書き込んでくる。そしてこれらを寒冷地方のしばれる気候や住民の生業を背景にしながら語る。作品に古臭さがないのは、これらのアイテムが、音韻的な斬新さをふくんだ『現代詩的」な意匠として立ち上がって生きているせいかなあ、とそんなことを考えました。 (はたはたパイ 食べろ)

2017-02-17

まりもさん、ご返信いただきどうもありがとうございます。「比喩」の話なのですが、実は、一種の極論を言えば、言葉はすべて隠喩だと思うのです。文章(テクスト)というのは、たとえそれが電化製品の使用説明書のようなものでも、その書かれた当時の地理的空間や文化的トポスに特有な言い回しや、ムードを避けがたく含んでいる。だとすれば、文章を書くこと自体が、広範な時空間への参照点を無数に含んだ織物を織る行為に等しいわけで、その意味において、作者の意図で敢えて「比喩」を使うことの意味はなんなのか、ということなんですね。ですので、わたしの最初のコメントに戻ると、目の前の現実や伝達内容をより鮮やかに描写し提示する方法が存在するにもかかわらず、敢えて「詩」的比喩を散りばめて、焦点をぼかすことの意味は何か。詩はその「ぼかす」こと自体が自己目的化してしまう閉塞化の危険をはらんだジャンルではないのか。わたしの、世に認知されているところの「詩的」表現への問いはまさにそこです。詩というジャンルや歴史への部外者を自認する人間の疑問にいちいち対応するほどまりもさんもお人好しではないかもしれませんが、せっかくの機会なので、この疑問をここの流れに載せてみたかった。座談会については3月になったらまたお話しできればと思います。それよりもいま盛り上がっている、この掲示板でやりとりを続けそれを後日編集という方法のほうが手っ取り早いかも知れません。 (私の鳥)

2017-02-16

まりもさん、丁寧なご返信有りがとうございます。まりもさんにとっての「真実」を比喩を通じて表現する、というところでいろいろと考えさせられたのですが、実はまりもさんとお話したいのは、そもそもその「比喩」とは一体何なのか。比喩であるものとそうでないものを分かつことはできるのか、という問題なんです。いろいろとお忙しいと思いますが、近いうちお時間があれば座談会のような形で、テーマを決めてお話ししませんか。breviewには三浦果実というインタビューのプロ、そして花緒という元DJがおります。テーマ。たとえば詩にとって「美」「美学」とはなにか。「比喩」とはなにか。「詩」の批評はどうあるべきか等。(音声ではなくもともとテキストのみという方法もあります。)図々しいお願いですみませんが、まりもさんの詩論は掲示板だけで展開させておくにはちょっともったいない感じがしましたので。 (私の鳥)

2017-02-15

こんばんは。現代詩投稿サイトを立ち上げておいて非常に矛盾する物言いなんですが、私はいわゆる詩的な美学というのに苦手意識があって、さいきんなぜ苦手なのか、これまで考えたことを土台にさらに考えてみたことなんですが、詩というのは(詩全体ではもちろんなく、私が考える「詩」というエクリチュールの一傾向ですが)「チラリズム」の美学だとおもうのです。全部は見せずにあくまでコラージュとして、クリシェに陥らない微妙なラインの言い回しを一文か二文挿入する。「教官のだみ声」とかですが。だとすればそうした切り詰められた短文の美学をどう配列していったら、現代詩の媒体で評価される作品になるのか、いわば、一種の「アルゴリズム」のようなものに興味があります(アルゴリズムなんて考えている時点でダメという可能性はひとまず置いておきます)。それでそのアルゴリズムとしては表層的な部類かもしれないんですが、この作品で興味を持ったのは、ハコモノという装置の使い方ですかね。「部屋」それから鳥が入っている「箱」この2つの空間醸成装置をアーキテクチャーとしてシュルレアリスト絵画みたいなストーリーの場面が、読者に謎解きのように提示されている。思いついたらまたあとで何か書きます。 (私の鳥)

2017-02-13

改めてようこそ、右肩さん。実は先日ラジオでしゃべっていた時に三浦氏から、どんな作品が好きなのかと不意打ちで聞かれ、とりあえず強度のある言葉かつ、太めの輪郭で「リアル」を書き出すような作品というような答えかたをしたと思うんですが、この「構造物としての強さ」という問題。視覚作品では一目見てわかることなんですが、書くこと、つまり筆致となると読み手によってけっこう見解がわかれる。くわえて筆致という問題はある程度作者の個性に深く根ざしているもののような気がするんです。 で、この作品ですが、アキラやエヴァなど所謂日本の「サブカル」系ジャンルに頻出する終末論的なイマジネーションをよくもかようにオリジナルな筆致で描き切ったなと感心します。「局地的にゆらぎ、一時的に解体する」というような動きを重視した視線、「言葉からはじまる文明」といった哲学的投げかけのの挿入、そして、最後の連にかけて作者自身の生に根ざした思考への回帰。これらが予防線をはってキュクロプスというような(花緒氏の見解にある)クリシェなイマージュもあらたな解釈学的フレームワーク中で再生する。 個人的に文芸批評は美術批評と同じ方法をとるべきだと思っているんですが、ソンタグが「反解釈」のなかで示唆しているように、大事なのはそこに「何が書かれているのか」ではなく、作品自体が「何」なのかということだと思うんです。別の言い方をすれば、作品のナラティブや内容以上に、スタイルやメディアがどれだけ突き抜けているか。ここが大事になってくる。右肩さんの作品は、内容云々以上に、ある場所に書かれ、物質として表出する作品という「存在」がそもそも何であるのか。ここを深く考えさせられるというような印象を持っています。 (この世は終らないそうだ)

2017-02-12

右肩さん、投稿いただきどうもありがとうございます。のちほどコメントとさせていただきます。また訂正依頼ですが、お気軽にどうぞ。ポストを編集すると投稿日時が消えてしまうバグがあるのですが、それもなるべく早く解消するように努めます。 (この世は終らないそうだ)

2017-02-11

投稿掲示板へようこそ。とりあえずの一時措置としてレスのついていない「浮遊する白」は、フォーラムの作品待避スレッドに保管し、この掲示板からはいったん削除しました。この作品に関しては投稿可能作品数に関する議論が発起人のあいだで落ち着いてから対応することにします。よろしくお願いします。 (告白)

2017-02-10

あおいさんがアートをやっているという予備知識のもとで書きますが、これは「前衛」美術グループの行動計画というか、アクションを前提とした文書であり、そこに大きな可能性がある気がします。ひとつにはこれから起こる未来について書いていくこと。ネット詩作者にありがちな、脳内妄想をナンセンスに羅列するもの以外、以上の何かですね。キャピタリズムとがっちりコネクトしたアートという世界は現代詩よりも現実世界の動向に強くこれから起こる未来を捉えるのが巧みなわけで、それは何よりもまず「他者」と関わるということなんですね。PC画面に向かって自分の妄想をひとり語り(爺、もとい自慰!)する以上のなにか。その点であおいさんがこれを詩作品として提示しようというのは、なかなか面白い。内容としてはもうちょっと充実できるかなと思うんですけどね。赤瀬川原平とか、60年代の反芸術系前衛団体のパフォーマンスそして公共空間の「撹拌」。理系的な発想がミディアムとして使われていますが、姿勢としてはどっちかというと花緒さんが書こうとしているものに近いんじゃないかな。あの「Ashizawaキックマシーン」とかですね。面白かった。この路線でもうちょっと気合を入れて書いてくれ。頼む。俺もなんか書くから。たぶん。 (宣戦布告)

2017-02-10