2017-12 選評

カテゴリ: 月間選評

【2017年12月大賞作品】
ある朝にぼくは 岡田直樹

◎準大賞作品

連音/ほうげんふだ 仲程
黄色くて丸いパン  蛾兆ボルカ
記述 緑川七十七

コメント

  • 【シリュウ氏選評結果】
    以下シリュウ氏選評記事
    kolyaonbrのブログ~12月作品キュレーションリスト~

  • 【まりも氏選評結果】
    以下まりも氏選評記事

    Yumiko's poetic world~B=REVIEW 2017年12月投稿作品 選評~

  • 【なかたつ氏選評結果】
    以下なかたつ氏選評記事
    『なかたつ日記』~B-REVIEW12月投稿作品選評~

  • 【百均氏選評】

    12月思った事。
    過去最高の123作品投稿があり、キュレーターの分を差し引いても、110作以上の投稿があり、キュレーターの数は4人で、毎回選べる上限は今の所8作品。単純に110を8で割ると7%だ。これは多いか少ないかでいうと、絞る側からするとつらい。曲がりなりにも、全ての作品を読んだから言うが、ぶっちゃけ大分辛い。どの作品も読む度に、少なからず何かしらの感情を興感された身としては、どの作品も大体「いい」のである。とんでもなく悪いと思う時もまた、逆に言ってしまえば自分になかった感性に触発されて驚いているだけであって、後々時が経ってから触れてみると、心地よい作品になっている事も少なくないのである。
    と言うことは、同時に「絞る」となれば、その良い部分を反転させて、欠点と評した上で絞るという事になる訳で、、結果的にしってしまえば「絞る」「落とす」「欠点を数える」という話題に変換した途端に選評は破綻する。どの作品も読み様によっては面白くもなるし、つまらなくなる。また、生身の人間により近づいていくB-REVIEWは常に人を目の前にして最終的に選ぶメディアでもあるわけだから、自分が書いたレスが選評から乖離していく感覚に襲われる度に、毎回後ろから真綿で絞め殺されそうな気分に晒され、そんな後ろから乗りかかる様々な感情の狭間で苦しめさせられる訳だ。とまぁ、百均の2017年はそんな感じだった。(ついでに昨年も総括しておく)

    そんな年末に、一年かけてB-REVIEWで色々な事をやってきた身として、12月はどういう基準で何をどう選ぶのか、絞るのか? というよりは、いや、あなたと一緒になんかやってみたいなー、もしくは、あなたの話をずっと聞いてたいな。せめて僕がくたばるまでは。という基準に落ち着いていった・・・とまぁそういう話である。

    以下の8作品を残した理由を「合理化」するのであれば、この作品を通じて、あなたと会って話しがしてみたいと思った、あなたがどういう人で、どういう経緯でこの作品を書いたのか。次、どんな作品を書いてくれるのか、といった話がしてみたい。それだけである。要は、その作品の中におかれている「語り手」に、そこに今月もっとも惹かれた8作品を俎上にあげた。という事にほかならない。

    以下、余談であるが、掲示板に作品を載せてくれた事、そこで意見の交換をする事。これは本当に大事な事で、これをおろそかには絶対にできない。一方で、僕はそれだけで終わりたくないとも思っている。もっと言ってしまうのであれば、金という形で還元したいし、あるいは作品を発表する場を提供したいと思う。 僕が選んだ人に関しては、僕と気が合う会わない釣り合わないなどと言った事や、今ちょっと忙しすぎて力になれないなどの事情はしょうがないものとして、もしこの後僕が何か企画を立ち上げた時に是非参加して欲しいと思っている。その権利というか、多分、僕がこの先何か本を作るとして、底に参加したいと思われたら喜んで迎えたいと思うし、更に言えば、是非参加して欲しい。願わくば、最終的に僕が原稿料をきっちり払って、その分仕事していただけるような環境を提供したいと思う。そういうこんななんの経歴もない屑キュレーター、百均一個人が、その程度には思ってしまう書き手であるという事を、選ぶ立場に立ってしまった以上の、僕なりの責任ではあるが、表明するのが僕なりの選評だ。無論、選ばれなかったからといってその権利が全く無いわけではなく、レス欄で絶賛している場合は、大体無条件で引き受けると思うので、なんかした企画とか立ち上げてて、参加したいよーって場合は声かけてください。

    ●大賞 岡田直樹「ある朝にぼくは」
    http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1095
    「ミシシッピ・ブルー」と最後まで迷い、本作を選ぶ事に決めました。それくらい僕は好きだった。読んでいて泣いてしまったし、泣いてしまったくらいに僕は「この語り手が」「この朝を語った」「その姿勢に」「感動した」という他言い様がない。心の底から傑作だと思う。当たり前の世界(朝)を美しく描き出すのは難しい事だ。話は少し飛んでしまうが、相似するシーンとして新海誠「君の名は」の最後のシーンに挟まれる朝のローソンがとても綺麗に映るのは何故だろうか、なぜ綺麗だと受け取れるのだろうか。という事をついでに考えてしまった。朝は何故こんなにも美しいのだろうか。何故これほどまでに朝は美しさに相似しているのだろうか。という疑問は僕の中に常にあって、僕もまた朝を何度も書こうとして失敗した人間なのだが、ここには何故失敗したのか、その疑問に対する一つの回答があるように思う。マサルと迎えた朝だからだ。きらく庵で迎えた朝だからだ。

    >ぼくにとって残念なのは
    >ニューヨーク摩天楼の朝でも
    >浅く長いシエスタのあとの
    >目覚めでもなく
    >恋人ととなりあわせの美しい朝でもなく
    >ガンジスのほとりの
    >瞑想のあとの時間でもない
    >なんて
    >ことではなく

    僕は実家が大嫌いで、規則的に迎えなければいけない朝が本当に嫌いで、それを押しつける家も、社会も何もかも嫌いだった。けれど、大学生になって一人暮らしになってから、好き勝手に滅茶苦茶な朝を迎えるようになってから、以前の「朝」は綺麗さっぱり忘れてしまった一方で、しかしそれから「朝」について何も書けなくなってしまったのだった。あんなに苦しかった筈の朝の存在などどこかへ行ってしまい、僕がいつも書こうとする朝は決まって、一人でいる朝だったのだが、しかし、一切書く事ができなかった。 そして昨年の年末であるが、僕は一年振りに実家に帰って朝ご飯を食べた。あんなに大嫌いだった、朝ご飯の瞬間がとても眩しかった。納豆と魚と味噌汁が出され、家族と一緒に食卓を囲んで今日の予定を確認するという、一連の流れがとてつもなく愛おしかった。 この作品に描かれている朝は長く続かない。

    >きらく庵の
    >だれかとの
    >残酷な死別などを
    >恐れる必要もない
    >ほんとうに
    >幸せな
    >明日が来たら

    >ぼくは今日の日を
    >忘れてしまうだろう

    喪失が約束された朝だ。この朝は失われてしまう事が確定している。僕の場合は実家という場所がある限り、まだ一緒に過ごせる時間はあるからいい。でも、きらく庵にはその性質上、この朝は長く続かない事が約束されているのだ。しかも、この朝は別に忘れたって良い朝なのだ。ちゃんとした社会に溶け込む事ができたのであればこの朝に浸る必要もなかったし、別に浸った所で多分社会的に満たされた幸福に比べたら忘れてしまう事なのだから。それは僕が一人暮らしという自由を手に入れた途端に、今までの朝を忘れてしまったように。それでも、

    >たとえさまざまな
    >偶然で与えられたにせよ
    >用意したご飯を前に
    >マサルはおごそかなこどもの目になる
    >ぼくは穏やかな目をした
    >父親になる
    >テーブルのあいだに
    >訪れる
    >ぼくらの朝の食事の前の
    >静かな
    >時間

    >それがこの世で
    >二度とない
    >得がたいときであるように

    この朝は、「二度と得がたいときであるよう」なのだ。

    >蛇口からしたたる雫も
    >ふるえる冷蔵庫のタービンも
    >笑いとともに
    >減ってゆくコーヒーや
    >部屋ぜんたいに広がってゆく
    >卵の焦げた香りさえもが
    >特別にかしこまって
    >神聖な時間であるように思える

    >いつもの朝のこと

    「君の名は」で最後主人公とヒロインが数年越しに出会うシーンの前で挿入される日常の景色が神々しいのは、その朝がいつも通りでありながら、しかしその日の朝は特別な朝であるという事を示している。いつも通りであるからこそ、その瞬間が、その日の朝が特別なのだ。この「いつも通りに過ぎていく朝がこんなにも綺麗で特別だ」という偉大なる矛盾、その幸福。蛇口からしたたる雫、、、なんてよく見る事だし、冷蔵庫のタービンが震える事など良くあることじゃないだろうか。でも、今この瞬間に目にしてそれを感じたという事がとてつもなく、眩しい。冷蔵庫のタービンが震える事まで知覚できた自分が今、包まれている感情がとてもつもなく大切なのだと「思える」事が愛おしい。それは無関係な二人が家族のように包まれている食卓であるかのような錯覚を、語り手に抱かせる程に。そういう感情を、最後に畳みかけられた朝に纏わる具体的な事物に差し向けられた視線は、きっと特別だ。それは狂おしい程に。そう読み手が錯覚してしまう程に。 読者としての僕は冷蔵庫のタービンが震えた所が一番心に来てしまいました。冷蔵庫の振動を通じて、何かがひび割れて壊れしまいそうな、でも確かに今日の朝を迎えているという実感がビンビンに伝わってきます。それは傑作を目にしたときに心が震える様に良く似ています。そういう風に世界をとらえ僕にその視線を教えてくれた、本作の語り手の心は美しいと、僕はそう言いたい。 本作は、もっと多くの人に読まれる作品だと思い、大賞候補として推薦する。

    ●優良
    仲程「ミシシッピ・ブルー」
    http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1064
    特段僕が何か語る必要のない作品だと思う。それぐらい、コメント欄で多くが語られている作品だし、それ故に僕はレスが書けなかった。レスを書く時間はあったのに書けなかった。大賞作として選出するか、どうか凄く迷った。それくらい、届いている事が確認出来るし、僕もまたレス欄に書かれているような理由同様、この作品が好きだという事を自信を持って言える。この作品が好きだ。語り手のじっちゃん達が好きだし、それ以上に、彼らの口からまろびでる言葉のフローそのものが心地よい。彼らの出身はどこだか分からない。語り手達の出身は、それぞれの中に自明な物として溶け込んでいるため、どこで生まれてどこで育って、どこでその言葉を獲得して、どのような音楽をその身に覚えたのか、分からない。外国風の名前と、淀川(ミシシッピー)と、おそらくブルースというジャズと、関西弁(でええかな?)が伝えてくれる。書かれていないという事が、その後ろにある何かをつたえてくれる。想像できる。背後になにがあるのか、感じ取れる。書かないという事はこれほどまでに豊穣で、それらが淀川とミシシッピを繋げてしまう。これは、冷静に考えればありえない接続だという事は誰にでも感知出来ると思う。でも、この繋がりを、おそらくコメントを書いたであろう誰もが、全く不思議に思わない、そういう自然さが、それは正に圧倒的な世界としか言い様のない物が、作中にきちんと構築されている。そういう仕事をこなす、こなせる、というのは凄い事なのではないかと思う。こういう事を「きちんと」やるというのは、控えめに言って凄まじい事だと僕は思う。しかも、それらを「書かない」という行為を経て成立させている事に驚愕すら覚える。普通は説明に説明を重ねる事によってそうやくその舞台を飛躍し繋げる事が出来るのだと思うが、この作品は、この短さでそれらのハードルを乗り越え、成し遂げてしまっている。 ジャズは、元々ニューオリンズの町で生まれた時は沢山の移民が集まり、それらが持ち寄った様々な民族による音楽の要素が絡み合って生まれた音楽だと言うが、人が死んだら棺桶を担ぎつつジャズを奏でながら墓場まで演奏してったという話をこの間本で読みました。葬式に奏でられるブルースは、色々と絡み合った文化をまるごと音楽に乗せながら、葬送の歌として淀川に舟を浮かべて乗せて、遠く海の向こうの川と川を繋げてしまう。なんどでもいうが、圧倒的である。

    北村灰色「虚ろが新宿のユメを彷徨う」
    http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1148
    使用されている語彙の豊富さとその選択、組み合わせでいうのであれば、今月一番好きで。それ以上でもなければそれ以外でもない。杜さんも言及なされているが、人工的な色で空を塗りたくってしまうイメージを「青一号」といきなり表現してしまう書き手を僕は他に知らない。いるかもしれないが見た事がない。沢山の青空を見てきたがこんな青空見た事がない。

    >青一号に浸された空
    >腐敗した林檎飴が浮ぶ白昼に
    >誰もがコンタクトレンズを探し
    >誰もが行方不明者のまま
    >自らの張り紙を探し求めている
    >画鋲の代りにアイスピックで突き刺された
    >モノクロの無機質な笑顔
    >無惨に消失したプライバシー
    >365ツイート 日々を150で収斂すれば、

    始まりの一連の魅力さを語りきれない。提示されるイメージが僕の好みである。というその一択に全ては収斂するし、それらの言葉を吐き続ける語り手に僕は魅了される。新宿という町に僕は数回しか行った事がないので、明確なイメージがどこまで現実を言葉によって人工的にゆがめた形で伝えているのか、判断しかねる部分もないわけではないが、それでも描かれるイメージの質感に飽きが来ない。きっちり同質のイメージを変容させながら詩行を紡いで行く。

    >僕らはダンプカーに潰されてゆく
    >虚ろなまま 笑顔のままで
    >やがてコンタクトレンズも砕け散って
    >街は濃霧に包まれていった

    コンタクトレンズが砕け散って、それが街を覆う濃霧に包まれていくというこの終わり方をなんと説明すればいいのか、形容しがたいぐらいに濃密なイメージだと思います。おそらく描かれているイメージは「都市」と「人間」の所にフォーカスを当てれば大ざっぱなイメージは簡単にキャッチできると思います。しかし、本作の場合はその内実へのフォーカスの宛て方と、その解釈が具体的な様々なイメージ、こういってもいいでしょう「幻想的」なイメージによって示されている。その幻想的なの部分をどのように理解し、僕ら読み手が受け答えしていくのか、そこは僕の宿題だと思います。 以下余談ですが、掲示板での返答もついでに書いてしまおうと思います。技術的な側面について、ここで返答するのもあれかと思うのですが、僕が選評で書いた不足の部分については、あのとき、僕自身もよく分かってなかった所も正直沢山あります。申し訳ない。僕が言いたかったのは、型にはまっている部分があるという所で、型にはめ込もうとしているフレーズが幾つかありますよね。その部分が他の連に比べて不自由だと思いました。結果的に型にはまってしまった。みたいに感じる言葉の方が僕にとっては好みだ、という程度の意味合いしかありません。具体的に言えば、ラップする時に無理矢理踏もうとする韻よりは、フリースタイルダンジョンでFOLKが踏んでるような韻の方が好みという感じです。イメージの変容がこんなにも美しいのに、言葉による見せかけの型が邪魔してないかい? みたいな所ですかね。でもまぁじゃぁ今回はどうなの? というと、全然ありなので、やっぱりその程度の問題という感じだと思います。 以降選評の中では、あまり他の見知らぬ人から見たら、みたいな言葉は避けるようにしたく思います。個人的な反省点です。

    まりにゃん「*」
    http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1075
    どう表現したらいいのか分かりません。言葉の音と意味と表象が混ざり合っています。重層的でありながら、それらは既存のイメージに寄りかかる事から外れていくという、ショックと、そこから感じる肯定的な意味での、気持ち悪さでしょうか。語り手から「おそらく今までのrecitativo(注1)はウシツツキから見た時の光景だよー」と言われたときに、一人の人間が見ていた光景だと思っていた物が崩れていく。それが人間から見た時の光景と鳥から見た時の光景とでは、様々な物が異なると思うんですが、その提示のタイミングがなんとも絶妙です。自由な語りは、常識的な世界に生きる人間には許されていません。大抵そういう話はつまらないからです。それは楽譜という規則だらけのがんじがらめから逃げ出すような、recitativoみたいな事を常識の範疇でやらかした所で読める訳がないからです。基本的には楽譜に沿った歌い方、想定された歌い方でやれば上手くいくんです。それを無視して乱しちゃう方が大抵滑稽に見えてしまいます。でも、鳥が鳥の目線でそう語る事によってそれまでのコンテクストの前提を覆してしまいます。楽譜から飛び出る事ができないのならば、楽譜の方をすり替えてしまえばいいわけです。え、これウシツツキから見た世界ですよ? と言ってしまう事によって、語りの前提は人から鳥になります。この錯覚の、始まりのキーとして「雁が音」を最初に置くというのは、なんとも効果的だと思いませんか。ウシツツキを境目にした語りはその後加速していく、語りの主体がどこにあるのか、正直分かりませんが、でもその間隙に灯る「何か」があるとしか言い様がありません。言葉の酒みたいな物だと僕は思いますが、これもまた考えなければ、向き合わなければならない作品です。
    (注1)
    recitativo
    (レチタティーヴォ)「叙唱」と訳される。オペラ、オラトリオ、歌曲などで、ことばの自然なリズムやアクセントを生かし、語るように歌われる部分。それだけが独立した楽曲をつくることはなく、かならずアリアなどに結び付く。一定の形式はない。作曲家が音程、リズム、テンポなどを記譜した場合でも、歌手はこれを守る必要はなく、かなり自由に歌ってもよい。通奏低音の伴奏によるレチタティーボ・セッコrecitativo seccoと管弦楽伴奏によるレチタティーボ・アッコンパニャートrecitativo accompagnatoに分類できる。アリアとの関係ではレチタティーボで物語などの状況を説明、アリアで感情を表現するという役割分担がある。 グレゴリオ聖歌の詩編の朗唱もレチタティーボの一例であるが、レチタティーボが重要な技法となるのは17世紀初頭のオペラからである。そこでは初め台詞(せりふ)はすべて朗唱風に作曲されたが、やがてその一部がアリアになってゆくにしたがい、レチタティーボは前述した形式へと向かう。19世紀後半ワーグナーがレチタティーボとアリアの区別を排し、無限旋律を楽劇の中心に置いたことにより、レチタティーボは姿を消していった。[石多正男]日本大百科全書https://kotobank.jp/word/レチタティーボ-151694)

    ●推薦
    渚鳥「再開」
    http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1086
    これもまた、言葉にならなくて、困りました。描かれる冬のイメージの豊かさというよりは、静かな視界さんが言われておりますが「責任感のある描写」という一文に僕はその通りだとしか言えない感慨を持ちます。それらが、コメント欄で、ふじりゅうさんまりもさん言及されていますが、雪がねじになっても驚かない。そのように語り手は思ったのだと受け取れてしまう所に、強さがある。
    雪が降っている。という気づきからの一連の流れというのは、雪が降るとみんなすると思うんですよね。僕も卒論やってるときに雹がが降り出して、「あ、雹だ」とゼミ室の窓を開けて空を思わずみてしまいました。でもここまでロマンチックに見てないし、思っていない。でも、ここに描かれた描写に説得されてしまう。それが強い。月見草(6-9月くらいに咲く感じらしいですが、ミスってたらすいません)の話が挟まれる所から、秋のイメージが挟まれる感じなのかなと思いますが(ここら辺の話は、蛾兆さんと渚鳥さんのコメ欄のやり取りをを参照しながら読んで行くと読みが深まると思います。)アスファルトに積もる雪のイメージと、花の種がアスファルトに落ちた事によって芽を出す事の許されなくなった様子がオーバーラップしていく。個人的には道路って雪が積もりにくいイメージがあって、もしくは除雪される感じがあり、溶け行く雪と花の種のイメージが、

    >アスファルトをぽつんと黒く引っ掻いただけで
    >あぁここに
    >夢の根付く場所なんかない

    こう表現された事に対して嫉妬心すら覚えました。

    >夜が枯れ木をさぁあ……と震わして
    >砕けた針音が巡り会う
    >ガラス瓶の中の森で
    >新しい迷路で

    最終的に、カメラを引いていく様も見事としか言い様がない。硝子瓶の中に森を閉じ込めてしまう事で、語り手の目線を少しだけメタ化します。スノードームの中のもみの木に雪が積もっていくような感じで俯瞰する語り手の目線が、しかし、冒頭に示されたように、語り手は家の中にいて雪が降っている事に気がつく。その中から見える景色を内心ではスノードームに降り積もる雪を見つめるような目線で考察、内省しながらも外で枯れ木が揺れている。という内外の交錯するイメージが迷路と名指されます。

    ウエキ「宇宙の底で」
    http://breview.main.jp/keijiban/?id=1036
    12月の作品は、どっちも好みで、どちらを残すかで大分迷いましたが、こちらを推薦作として押します。この作品というよりは、二作品とも、語り手が面白いのですね。今作では、夕狩さんが指摘しておられ、それで気がついた所があるのですが、一瞬、世界を掌握したかの様な気分になるみたいな所ですよね。一つ大きな目線で世界をとらえる瞬間、その語り手の様子を描写する事によって、読者もまた感化され、同じような特別な気持ちを共有する事で(この場合秘密でもいいかもしれない)、立場を持ち上げられるというのか。他の作品で、ウエキさんから返レスを頂きましたが、そのなかで「共犯者」という言葉が出て来ましたが、そういう感じがして面白い。世界の仕組みを知ってしまった時の喪失感に近い、とても得たいの知れないぽっかりとした奈落が心にできてしまったかのような、そういう感じです。ここでは金平糖を持っているだけなので、ライトにかわいらしさに溢れているような描写な気もしませんが、「宇宙」とか「ブラックホール」だとかがバックにある所を鑑みると、個人的な感慨で申し訳ないのですが、僕にとってはここ、大分不穏な空気を感じます。優しく言えばぞくぞくしますね。 「フラスコの小瓶」という宇宙のモデルの話をうろ覚えながら、今思い出したのですが、そういう感じでここではヒョウタン型の小瓶がフラスコで、その中が宇宙ですから、金平糖は星になるわけですね。自分は今地球を手の中に納めていて、その地球は甘くておいしいから、いつでも食べる事ができる。みたいな気持ちです。最後、口がブラックホールになってしまって、食べてしまう所を知ると余計怖くないですか。無邪気ともいえるけれども。

    びいふじゃあきい・かもめ「ジョンビ」
    http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1130
    今月一番よく分かりませんでした。でも、語りに圧倒されました。それにつきます。何故惹かれるのか説明が出来ないのですが、しかし、このような作品を僕は他に見たことがありません。手っ取り早いのが読んでみることです。声に出して見る事です。体験してみることです。すると少しずつ何か分かるような分からないような感慨が襲ってくるはずです・・・ということしか言えないです。僕は楽しかったし、訳が分かりませんでした。でも、今月最も印象に残ったのは「ジョンビ」です。タイトルも含めて、二度と忘れない作品になると思います。結局の所、推薦作か優良かの間で迷ったのは、判断ができないからです。推薦作にしたのは、万人に受けるかどうかは保証できませんが、はまる人ははまると思います。僕ははまった。でもなんではまったのかは説明できない。という事以外に説明できません。

    Clementine「Sternsingen(星哥い)」
    http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1118
    独特の空気感を持った作品というよりは、作者である、と言った方がいいのかもしれません。と言っても二作品しか投稿がないので、その判断は早計かもしれませんが。本作は最初、読んだときは訳分かりませんでしたが、コメントについている註釈を読んだ上で再度読んでみると、少しずつ詩の輪郭がつかめてくると思います。註釈によって中心に据えられた物語や、クリスマスの文化に添えられるように繰り返される音の気配が素敵だ。音の踏み方、繰り返し方の手順、その語に継ぎ足される詩句が繰り返しの狭間で開かれていく様子は、正に最小限の手数という他ない程の濃密さで、余計な物がないという感慨以外を持てません。 多分緑川さんの感想に大分近い感慨を僕は持っているのかなぁと、勝手に言っちゃいますが、作品の内実に踏み入る為には最低限の理解がないと厳しい物がありますし、僕はまだそういう意味でちゃんと読んでいないので、割と適当な読者である事は承知の上ですけれども、故にその目に付くスタイルにひたすら好感を持ちます。惚れたと言ってもいい。最低限の形を保ち、入れ替えながらも、その狭間に気配をひたすら織り込んでいく。この作品は多くを語りませんし、そもそも語ろうとしていません。(主要なパーツは提示されるだけです。故に後で註釈が足される)寧ろ、語られない事柄の細部を掴もうとしている。結局の所、僕はこの作品を読む上での素養が足りていない自負があるのですが、自分の手に覆いきれない作品から滲み出る良さを、果たして拾い上げなくていいのか、と悩み、最終的に選びました。個人的にはもっと色々な方の読解が読んでみたいと思います。そうですね、僕の言葉では換言しえない緊張感に溢れています。そこに惚れたという事です。

  • 【花緒氏選評】

    12月は史上新記録を更新する120作超の投稿を頂きました。投稿作数が多いだけでなく、多種多様かつ良作揃いであり、あけすけに申し上げて、豊作月と言って余りあるように思いました。これだけ投稿数が多いと、現状の体制下では、選者一人あたり推挙できる作品数が限られるため、良作であることは明白なのに、選から漏れるケースが相応に出現してしまいます。
    各々の選者が、よく言えば、何らかの志向性、悪く言えば、何らかのクセあるいは偏りを持ちながら、選にあたっている訳ですが、であるなら、多数の作の中から、如何なる根拠によって8作品に絞らせて頂いたのか、説明しておくことが適切であろうと感じました。

    わたしの方針として、原則、リーダビリティの高い作品を推挙させて頂くようにしています。語弊があることは十二分に承知しているので付言しておきますが、単に、読みやすい作品、容易に意味を掴める作品、しか推さないつもりであるということではありません。例えば、kaz.氏の「砂」は、難解な作品ではありますが、読者の興をひく語が散りばめられており、かつ、分量も多くないので、何度も読み返したくなる魅力を備えています。その意味では、一見の読者には読み解き難い作でありながらも、リーダビリティの高い作品だと評して構わないでしょう。要するに、表面的な読み易さ、という次元で云々しているのではなく、「読ませる」という意識を持って編まれた、パフォーマンス精神を感じさせる作品を推していきたいということなのです。

    本が売れない、読まれない時代になって久しいなか、読まない人間に読ませるにはどうすればいいかを考える必要性は高まっていると思います。既存の技術体系に照らし合わせて、水準が高ければ無条件に読まれる、小さな閉鎖的集団の中で評価を得られれば、それが端緒になって十分に読者を確保できる、という状況ではなくなりつつあるでしょう。特に、インターネットでの作品発表においては、数多の作品に埋もれることなく、読まない、読めない人間にいかに読ませるか、が肝要だと考えています。

    下記は、わたしの如き現代詩のディシプリンから隔絶した地点で、物を書いたり読んだりしている、「読めない」人間にも届いた作品のリストと受け取り頂きたく存じます。作者のディシプリンの程度、作品の技術水準に対する評価とは異なることを諒解頂きたく。

    ◎大賞推挙作品
    黄色くて丸いパン  蛾兆ボルカ
    http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1107
    誰もが読みうる平易な文章であるにもかかわらず、兎にも角にもポエジーが強烈。満月のように丸いパンと、それを握りしめた幼児の完璧な笑顔は、日常の一幕のようでありながら、夢の中の出来事のような幻想性を湛えている。読者の多くが、パンを持つチビの姿を脳裏に思い描いてしまったのではないだろうか。失われた完全な世界への郷愁。しみじみとした読後感がありながらも、それだけに止まっていない強い作品だと思う。

    ◎優良作品
    姉の自慰  芦野夕狩
    http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1154
    この作品の登場人物達は例外なくバーチャルな活動に強く依存している。トレーディングで生計を立てる作中話者。オンラインゲームのコミュニティに包摂される姉。姉の自慰のおかずもきっと、オンラインで収集されたバーチャルなものなんだろう。一つ屋根の下に暮らしていたところで、姉の自慰の声、なんて、聞こえてくるものだろうか。きっと存在しているけれど、想像上のもの。バーチャルだけど、妙に生々しいもの。現代を生きる若者の空虚感が、暗い嗤いとともに浮かび上がってくる。タイトルが強烈でパフォーマンス性が強く打ち出された一作。

    砂  kaz.
    http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1092
    新憶に潰えた、と、冒頭から、フランシス・フクヤマの「歴史の終わり」を彷彿とさせる世界認識が開陳される。アジアンテイストでごった返す新大久保、江戸前の伝統から明確に逸脱しているであろう回転寿司、皿に描かれる地中海の絵。歴史や伝統がジャンク化し、あらゆる文化的アイコンが雑にごちゃ混ぜにされるところから移るそば粉の話題。伝統から断絶した現代社会においても、ジャンク化した文化的アイコンの裏側には今でもまだ本物があると考えるべきなのか。本物などなく、壮大な比喩はないと考えるべきなのか。過去を辿ろうとしても、人工物の排便に堕してしまう。一種のギャグのような作品だが、カメレオン戦争、というワードに代表されるように、細部にセンスが光る。

    フィラデルフィアの夜に Ⅳ  Haneda kyou
    http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1140
    童話のような柔らかな筆致でとても読みやすいのだけれど、何が書いてあるのか良く分からない。タイトルがなければ、何を描写しようとしているのか、漠然とした印象を持つことさえ難しいかもしれない。音、というワードが何度も反復されるけれど、伝わってくるのは、音、ではなく、むしろ静謐な感覚。表面的な意味と、伝わってくるものに大きな落差があり、創作物として不思議な浮遊感を湛えている。聞くところによると、フィラデルフィアのワイヤーマンというのは、意味が込められた創作物なのか、意味のないガラクタなのか、未だに真相は不明のようだ。意味の所在の曖昧さは、本作とまさしく通底するところ。一風変わったコンセプトで書き切ってあると思う。平易さと難解さの邂逅を体現した作品として推したい。

    ◎推薦作品
    Bの鉛筆  m.tasaki
    http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1042
    書けない、ことを書いている作品。書くことについて、書くことで、書くことの意味が空洞化する。鉛筆が意味なく屹立していることの馬鹿馬鹿しさ。書くことの本質に迫ろうとすればするほど、何も書けなくなってしまうという空虚さを、笑いのセンスとともに、「書けている」と思った。BがB-REVIEWのBなのか、文学のBなのかはさておき、黒の鉛筆だけに、ブラックなユーモアが効いている。分かりやすく、且つ、本質を突いているように思った。

    口実  二条千河
    http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1144
    食べることが避け難く内包してしまう野蛮さを覆い隠すために凡ゆる口実が生み出されてきたはずなのに、もはや口実が故に食べる行為と、ただひたすらに食べる行為とどちらがより野蛮なのか、分からなくなってしまっている。呪術的なものを覆い隠すことで成立した現代社会において、食べることに付随する呪術性はどこにあるのか。トンチを効かせながら、現代社会への鋭い批評性を宿している。

    「籠の外」 桐ヶ谷忍
    http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1072
    ストーリー展開がスムーズで読みやすい一方で、重要なポイントが捨象されていることで、様々な読み方に対して開かれている。生きている時に、鳥の羽を切って殺したのか、死んでしまってから形見として羽を切ったのか、で随分印象は変わるだろうが、どちらとも言えない曖昧さが、妙な後味に繋がる怪作。伝わるもののある作品だと思う。

    ある朝に僕は  岡田直樹
    http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1095
    おそらく、様々な作者が、似たようなコンセプト、似たような筆致の作品を書いてきたのだと思う。しかし、日記のような文章で、日記からは到底感受できないような詩情を醸し出すということは、一見、容易に見えて、その実、簡単ではないだろう。どれだけ文学が形骸化・空洞化したところで、日記を書きたいというモチベーションが潰えることはないと思うが、であるがゆえに、日記のように書かれていて、しかし、日記ではない、という類の作品に可能性を感じる。

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