2017-11 選評(11月以降 独立キュレーション制)

カテゴリ: 月間選評

【大賞】

◎長いつき指 くつずり ゆう

【準大賞】
◎砂の中の海 るるりら
◎ひとひと 弓巠
◎マリア Migikata

今回初の試みとして、各キュレーターが推挙した作品から、一般投票によって、大賞受賞作品を決定した。結果は以下の通り。

三浦の独断により、投票理由は、どの作品に対するものか、敢えて伏せた形で公表する。
キュレーターの選評と併せて投票理由を読んで頂ければと。

ーー 画像上、くつずりゆうさんのお名前が謝ってくつづりゆうさんと表記されています。大変、申し訳ありません。

※勝手ながら、今回より新たに「準大賞」を設ける。大賞推挙作品のうち、大賞受賞作品以外を「準大賞作品」とする。

コメント

  • シリュウ(コーリャ)氏選評結果】
    以下『kolyaonbrのブログ』シリュウ(コーリャ)氏選評を発表
    11月作品キュレーションリスト

  • 【青木由弥子(まりも)氏選評結果】
    以下『Yumiko's poetic world』にて青木由弥子(まりも)氏選評を発表
    B=REVIEW 2017年11月投稿作品 選評

  • 百均です。
    11月選評
    ★大賞候補
    弓巠 ひとひと

    >ひと、ヒト、ひとつ
    >と
    >雨が降る

    今月の大賞候補は、一目見た時からこの作品でした。間違いなくです。全部読む前に決めてしまいたくなるくらいの感動がありました。他の人にとってはどうだか知りませんが、僕にとってはそうでした。その理由は単純で書き出しが成功しているから。今月最も書き出しで成功してキチンとケツを捲っているから。それに尽きます。尽きますが、そういう事をきっちり突き詰めて提示する事は非常に困難だと思います。そういう事をしかるべき場所で出来る書き手というのは希有だと思います。 レスでも書いたのですが、擬音を発明する事は大変だと思います。ギャグに振ってしまうのであれば、別にいくらでも無秩序な方向で引っ張れると思うんですが、そこにある一定の秩序(意図、もしくは意味)を持たせながら、新しい意味を接ぎ木していくという事は本当に骨が折れると思います。この作品はそういったハードルを最初の三行で軽々と超えてしまう。擬音はリフレインの形で良く使われる印象だったし、実際僕も使う時は間違いなく同じ音を繰り返させながら使っています。(雨の音であればざーざーですよね、あるいはシトシトでもいいし、兎に角繰り返す) この作品のおぞましい所は雨の降る音を「人」にしてしまう所です。更にそこに「ひとつ」というさらなる展開を添えている所。なかたつさんもレスされていますが、しとしと雨が降る事を「ひとひと」と書くだけではだめです。「ひと、ヒト、ひとつ」と書く事、たったこれだけの違いですが、ただ、それだけでいいんです。そこに行分けによってもたらされる、これは雨の音なんだよ。という呟きが、擬音の世界を切り開いていく。僕は今までにない感覚を覚えました。 なんとなく似た感覚として、マグリットの「ゴルコンダ」のイメージが吹き上がってきますが、それとはまた別の感覚を思います。似ていますが、違います。同じおじさんが空から振ってきている訳ではなく、それは一滴ずつなのです、ひとつであるという事はひとりでもあるのですが、しかし、ひとりではないのです、まずはひとつから始まるんです。 この作品のえげつない所は語り手が人間なのか、雨なのか、もうぐちゃぐちゃなんですね。でもぐちゃぐちゃなのに恐ろしいくらいに読めるという事。なぜなら、そのぐちゃぐちゃにするルールを最初に提示してるからなんですね。「しとしと」を「ひと、ヒト、ひとつ」とした事によって、ひとつの音を三つの意味で解釈していくあるいは描いていくよ、という認識の判断を提示しているからです。だから二連目が異常に映える。なぜなら、ルールが分かるからです。スガシカオが、歌詞にする時にカタカナは臭み消しみたいな物だと言っていました。恥ずかしい事とかをカタカナによっておちゃらける事によって、普段使ってるような真面目な意味から少しだけカジュアルな方向に逸らす為に、カタカタは有効であるみたいな事をSONGSとかで言ってたような気がするのですが、しかしながら、この作品はずらしながらも、きっちり勝負してるんですね。ふざけてないのに滑ってない、という事を成立させる為の仕事をしています。

    >空の髪が死んで、雨となって抜け落ちる

    >クウキは埃をあずけて

    >くろぐろと澄んでいく

    >雨がフる

    >アメが降るえては、経(ふ)る

    >空のながいながい時間を

    >甘くアつめて

    >空(から)の時間をやさしく、殺しながら

    >いま目の前に落ちてある髪の毛は

    >空のものか自分のものか>ただどこまでも鈍く

    >落ち続けてある

    >その内側へ

    とこの一連はえげつないですね。説明仕切れないです。まず「空の髪」から始まるんですが、ここではルビを振ってないんですよ。しかも、更に空の髪=雨にしてしまう。より人間に近づけていくんですね。音に飽き足らずイメージも加えてくる。そこで「クウキ」と書く。そして「空のながいながい時間」から「空(から)」という音を導き出す。ここが凄いですね。もう、語り手は人間なのか空(そら)なのか空(から)なのか分からなくなっちゃう。そこでまた、髪の毛に視点を戻していく。音を変えた所で、意識を髪の毛に戻した上で、

    >いま目の前に落ちてある髪の毛は
    >空のものか自分のものか

    抜けていった髪の毛から内省的な語りに向かっていく。排水溝に流れていく風呂場の髪の毛を見つめる時に良く思う事かもしれないんですが、しかしながら、この作品の用意の良さは絶品ですよね。空は(そら)か、(から)かどっちでしょう。そして、それらに同化してしまった人間とか語り手のアイデンティティーとはなんでしょう。みたいな方向に話しが進んでいく。面白いですね。雨という自然現象そのものから髪の毛、それから排水溝に吸い込まれる排水溝のイメージが背景の匂いみたいな物として感じられるような書きぶりから、地下鉄の都市のイメージに結びつけていく。ここもまた面白いですね。作品の構造が天と地のイメージに移っていく。

    >ヒト、ひとあし、ひとあしと
    >地下へと降りていく
    >ふっていく
    >電車にノるために
    >オカねヲモらうたメに
    >けれど
    >雨の雫として空に、止まるために
    >目に、他のヒトは固定され結晶していく
    >ように、ように、ミエる
    >階段を水がオちテイく
    >水が飲んでいく
    >ひととみずは
    >クベツがつかなくなって
    >ウチがワへと
    >降ちていく、ボクハ
    >わかるように、わからなくなり流ラ
    >降ち流ラ
    >留まりナガら
    >水にのまれている
    >みずをのんでいる
    >ひとひとつ、ひとり、ひとあし
    >ひとひとひと

    さぁ、更にここからまた凄いですよ。足「音」も加わるんですね。しかも地下に降りていくイメージに重なります。その動機付けも地下鉄の階段です。面白いのが、金のイメージを出すだけでも綺麗に都市のイメージだし、更に金っていうのは物事を流通させる事によって意味をなす、情報というか価値というのか、その点都市的なイメージとして上手く機能していく。しかも雨もまた同時に、階段を通じて雨が地下に降っていくんですね。更に言うと、ここまでずっと人は一人だったんですけど、地下のイメージに入ってから、急に流れが出てくるんですね。正に人が一杯いるという事なんですよ。正にここでマグリットのゴルコンダのイメージが加わってくる。人ゴミは水の流れなんですよ。でもね、それは水にのまれている方なんですよね。内省的な語りは水をのんでいる方なんですよ。ここのアンビバレンスな感じ、圧巻としか言い様がない。

    >ひとひとつ、ひとり、ひとあし
    >ひとひとひと

    この音、ここに書いただけで、どれだけの意味があるでしょう。どれだけのモチーフが込められているでしょう。そして、それらがいかに自然に調和されている事でしょう。はっきり言ってこんな物かけないですよ。そしてそういった物が、凄く読みやすいという奇跡です。 とられている手法そのものは例えば、僕の大好きな佐藤yuupopicさんが「電線町、夜を戻る」を例えば見てください。そこに現れているカタカナに似た物を感じますし、また掛詞の雰囲気も多分に出ている。また、擬音に関しても、ある意味やってる人が全くいない訳じゃないと思います。色々と探せば、もしかしたらいるのかもしれない。 ですが、肝心なのはその手法、方法論をどのように組み合わせて前に進んでいくのかという事、それしかないと基本的に僕は思います。 この作品によって、僕の中で当たり前だった見方は壊されました。 自分の中に流れる「水」という思想を描いていく。そうここには水という思想があるですね。それをとことんまで描いている。滑らかに清らかに、重々しく、軽々しく、つかみ所がなく、しかしつかみ所がないわけじゃない。僕がこうして言葉にしているように。そしてそれらを書き切る事ができないように。

    ●優良作品
    夏生 海の唄
    この作品は僕にとって非常に難しい作品です。語るのが本当に難しい。色々ごちゃごちゃと書いたんですが、もう理屈じゃないんですね。なんというか、とてもよく分かります。分かりますというか、僕は東北の太平洋沿いの町に生まれたのですが、その海に本当にそっくりなんです。海がここにある。地元の海だと思った海があるんです。そんな感慨を導き出されてしまうような作品は、本作以上にないんですよ。僕の中の記憶の海がそこにあって、その解釈も、、、なんだろうな、書き手としてずっと探しているんですが、書けなくて、読んだ事がなくて、、、そういったもの、全てここにあるんです。そう思ってしまった以上、はっきり言って優良か推薦かどうかなんてしていいのか悪いのか本当に悩みました。しかし、多分僕が選んで、思った事書かないと、ある意味埋もれてしまうのかなと思い優良として選出しました。この作品には僕の言語化し得ないものがあります。そして、僕はこの作品を技術的な側面から見たときに優れているポイントは正直そこまでないと思います。ですが、それ以上の技術以上の価値があると、もしくは、僕の未だ感知し得ない「何か」があると信じて、この作品を贔屓したい。それがまず純然たる思いとして根底にあることをここで述べさせてください。波を舌に喩えています。正確には舐めるという動作によって間接的に伝えています。

    >くたびれた海藻と
    >欠けた貝殻
    これらのイメージをまず提示します。よくある海の光景ですが、そこに「波になめられた」と書くだけで、海に食べられたイメージがムクムクと生えてきます。そんな海岸線を歩く語り手の足取りは「くたびれた海藻と欠けた貝殻をよけながら」あるいていく。そして面白いのが、
    >波になめられた砂
    >に穴があく

    ここです。ここが凄くいい。上に示したように、食べられたイメージが生まれてくるのは勿論ですが、ここでのポイントは砂です。砂を皿に喩えているんですね。砂はペロペロとなめて綺麗にした食後のお皿なんです。海岸って結構荒らしても元通りに戻ってしまうと思うんですが、それは砂の城みたいにいくらその上で料理しても海は全て食べてしまって元通りにしてしまうという事を端的に示しています。だから、その上には、欠けた貝殻が乗っかっているのです。中身のないもしくは食べる事の出来なかった貝殻が。 また、面白いのが、「穴があく」という言葉を置いている事です。その砂という皿の上に足跡を付けていくという行為はまるで型を付けているようです。型を付ける事によって、一瞬だけ皿を割る事が出来る訳です。これは一種の反抗のサインともとれると思います。まっさらな雪原に出くわしたときに、あるいはピント張られたシーツに飛び込んでしわくちゃにしたいという気持ちに似ています。まっさらな砂浜を足跡という「型」を付ける、貝殻は中身を食われてしまった残滓みたいな物だと思うのですが、人間は足跡を付ける事によってそういった自然の摂理に反抗していきます。ある意味、言ってしまえば欲求の一つの形だとも思う。ここで振り返って思うのは、くたびれた海藻や貝殻といったものを避ける動作が最初に出ている事。そこを考えた時に、、ある意味で「魚の骨」みたいな物を避けて食べる人間の姿が見えるんですよね。なんでそういう物を避けるんだろうと思った時に、人間が足跡を海に着ける事と、砂の上に捨てられた物を避ける行為みたいな事を海の砂という皿の上で、あるいは海という舌の上でやっているという事。そこに人間の精神的な矛盾をメタ化するような舞台装置の存在と、それを俯瞰する海のイメージが漂っているように思います。ただ、ここらへん、根拠がないんですよね。僕の中にある海で全てを語ってしまっているから。この作品には、書き手の判断は書かれない。読み手がある意味で解釈していかなかればならない側面が往々にしたる事は間違いないでしょう。

    >命をたらふく
    >食んで
    >まだ足りない
    >命を育んで
    >まだ足りない
    このリフレインはだから僕にとっては、語り手が「海」という大きな視点、自分よりも大きなスケールの存在を見上げているような内省に聞こえます。
    >今は
    >耳を澄ましても
    >波の音しか
    >聞こえない
    >貝殻を耳に
    >近づけてみても
    >風の吐息が
    >過ぎてゆくだけ

    >素足になって
    >波の舌さきにふれた
    >つめたさに絡まれ
    >かわいた砂に
    >にげた

    >押し寄せる波が
    >大きな手に見えた日を
    >思いだした

    海は何も教えてくれないんですね。ただ、存在する事、その気配を通じて、、、なんでしょうね。何かがあるんですよ。海は僕にとって大事な場所です。ここにはかきませんが、色々な奇跡があった場所で、こればっかりは此処に書けない個人的な事情があるのですが、こういう事なんだよなぁって言う感じです。できるだけ言うとしたら貝殻に聞いても何も教えてくれない。ただ、そこにあるだけ。で、触れようとすると、びっくりするぐらい冷たくて、逃げちゃう。最後にずっと舌って言ってたのが大きな手に変わる。というこの変化も凄いですよね。舌から手に変わるっていうのを、これ以上語れないですね。。。この作品の中に根拠が潜んでいる訳ではなく、僕らの脳内の無意識に呼びかけ引きずり出すような力を持った作品だと思います。 ある意味で海に対して何かしらの思いを持つ人とそうでない人に、この作品の魅力を伝えられるかどうかというのは、分かりません。ただ、一つ言える事は、海に対して何か考えている人にとって、何かしらの形を与えてくれる作品なのでは無いかと言うことです。僕はずっと海について書こうとしても、思い出は一杯ありますが、中々言葉にずるのが難しいと感じていました。そういう時だっかからかもしれないのですが、この作品に描かれた海の様子は心に響きました。このような個人的な感慨を持って、作品を選出する事は、誰も得にもならないと思うのですが、そういう意志で作品を選ぶ事にも一定の価値があると信じて僕は優良としてこの作品を選びます。結局の所、僕も一人の人間である事から逃れる事は出来ないという事です。諦めてしまったらそこで試合終了ですけれども。
    cotono とうとう

    >それでもやっぱり零れそうだ
    >老いた蛇口が
    >夜通しシンクを満たすように
    >日増しにわたしの涙腺も
    >締まりが悪くなってゆくもので

    この始まり方が凄くいい。要は泣きました。「老いた蛇口」って凄いいいなぁと。僕今一人暮らししてるんですが、あらゆる蛇口が弱いんですね。台所、風呂、トイレ全部悪い。全部悪いので、水が漏れ出るんです。そういう日常が前提にあったものですから、それらに「老いた」という言葉が置かれた瞬間の脳内を駆け巡ったひらめきというのは、おぞましい物がありました。そして、それらを涙腺が緩まったと表現する事に対しても。

    >この水源はどこにあるのだろう
    >出会いが呼び水となり
    >都市のタンクから
    >もう県境を越え
    >あの山の湧水に繋がってこんなにも
    >水は豊かに運ばれてくる

    「水」というのは色々な世界につながっていくんですね。この感覚が分からんという方は、まりもさんの作品「朝のスケッチ 」を見てください。台所の水道水はそこで完結している訳ではありません。山から海に書けての一連の大きな流れの中の途中経過でしかないのです。

    >夢の支流に沿って
    >知らない街の囁きや
    >異国の音楽の路上演奏
    >散っては芽吹く花の一日が
    >果てしなく連なっている

    >目覚めたばかりの身体に
    >水は冷たすぎて
    >代わりに白湯を飲む
    >排水溝へ流すしかない夜の溜まりが
    >酷く惜しくて
    >できる限りそっと
    >そっと、空いた湯呑みを沈めた

    >それでも
    >やっぱり溢れてしまって
    >どうしようもない

    正直な所、あまり言葉にしたくないです。これ読んで分からんって人おらんやろって思うんですが、僕も泣いちゃってしょうがないですよ。偶にこうしてずっと一人で暮らしていると、真夜中に色々な作品読んだり、つらい事があると。思い出したように泣いてしまいます。コメント欄のコメントも素敵です。是非読んでみてください。この作品は僕が特段推す必要がないと思います。それは、そういう力があると信じてこの作品押したからです。ただ、この作品に描かれた世界に浸ってほしい。

    くつずり ゆう 長いつき指
    放尿の詩って一杯あると思うんですよね。多分B-REVIEW掘るだけでも一杯あると思います。その中で、メタファーとしての放尿はあると思うんですが、ここでは、一種の思想を導き出すモチーフとして放尿が選択されているという事、そこが面白いと思いました。まず、タイトルが面白い。「長いつき指」から一連目

    >放尿という言葉は
    >体温のあたたかみをもって
    >わたしの心を油断させる

    いきなりこれなんですよ。この裏切り方が非常に面白いです。更に訳が分からないんですね。放尿っていう言葉が、あたたかみをもって? 心を油断させる? というなんじゃそりゃっていう感じで、しかもここで上手いのが、読みの匙を投げさせるような突拍子のなさではなくて、釣り針としての機能をきっちり果たしている所です。しかもなんで面白いと思ったのか、あんまり上手い言葉で表現出来ない所もいいですね。放尿からこういう始まり方をする人を初めて見たからかもしれません。それに尽きるかもしれません。ここはもうなんでいいのか分かりません。僕は引っかかっちゃんですね。

    >あれは
    >記憶のはじまりに ちかい頃
    >男の人が
    >立ったまま用を足すのを見て
    >わたしにも できる気がした
    >想像していたようには上手くいかず
    >こっぴどく叱られた

    僕はちんこついてる男なので、ああ、なるほどなぁとここで思わされる。描写も端的でいいですね。「立ったまま用を足すのを見て/わたしにも/できる気がした」こういう思考をしたことがない。そこから

    >あのとき わたしが持っていた
    >猿の手足のような柔軟性
    >内股をつたう温度は
    >いつ進化したのか

    この四行。凄いとしか言い様がない。子供から大人になる描写なんですが、そこにおしっこを絡ませながら、進化のイメージも入れていくこの巧みさ。凄いとしか言い様がないなぁ。この作品は本当に、上手いと思わされました。唸らされました。そこで最初の一連のイメージがようやくつかめてきます。僕らってそういえばお漏らししないよな。ちゃんとトイレで用を足すように訓練されているよな。という事です。普段そこまで意識してない排泄行為そのものを見返す瞬間としての、放尿なんですね。おしっこをベットの上でする瞬間の、緊張感からの解放。

    >放尿という言葉は
    >体温のあたたかみをもって
    >わたしの心を油断させる
    >ただひとつの事に
    >あんなにも心をしぼられたことはなかった
    >白くなり黒くなり
    >暑くなり寒くなった

    病院で、ベッドの上で尿をしたという事から想起される、幼い頃の記憶と、大人になったという実感と、トイレの中でいつもしていた排泄行為をトイレという場所から外れて、やってしまったという事。それは、男とかであれば、放尿だったら草むらみたいな所で多少の場所は選べると思うんですが、女の人はきっと無理だと思うんですね。排泄する場所を男よりは選べない。だから、「立ちしょん」は結構どこでもできると思うんですが、女の人はそういう経験をそもそも積む事が出来ないできないという所に発想が向かっていく。

    >タオルを絞ると思いだす
    >ジャムを開けると思いだす
    >なおらない右手の中指のつき指

    >してしまったことと
    >できなかったこととが
    >入らない指輪のように
    >時々 わたしの胸をかすめる

    >あんずの花の色が
    >月に滲んで沁みだすように
    >わたしの人間と性が
    >言うことを聞かずに
    >ちょっと めくれるのかもしれない

    更に面白いのが、ここでつき指の話を持ってくる所だと思います。そして僕も丁度中指が突き指状態で、キーボードたたく時に一番使いますから、この感想打ちながら一番じりじりきますね。ああ、いたいいたい。 放尿の話で普通は閉じてしまうというか、それで詩になってしまうと思うんですが、この詩はそこで終わらない。更に前に進む。放尿した経験が中々直らない突き指の痛みみたいに胸をかすめていくという事です。更に突き指じゃ飽き足らず「入らない指輪」を付け加えているのも憎いです。親切だと思います。更に、あんずの連はある意味ネタばらしをしてますよね。「サービス」と言ってしまってもいいぐらいに書いてしまってます。この詩はある意味100点の詩だと思います。

    ○推薦作品
    クヮン・アイ・ユウ ぶち切られるために生きてる
    この作品を推す理由は、最後の映画のシーンがあることです。そこに尽きますし、そこがあるからこそ、沢山のいい作品の溢れるB-REVIEWの中で本作を推薦作として選出しました。結局の所、僕がいい作品だと思う条件な物は突き詰めれば二つしかありません。僕の考えの範疇から飛び出る何かがある事。その1点です。それは時に胸くそ悪い物であったり、メチャクチャ嫌いな作品であったりします。それは自分が書いてきた詩のスタンスに近ければ近いほど、そして近すぎて遠くに感じる物、近すぎて近すぎてどうしようもないもの。そういう物であったりします。僕はなるべく論理的な言葉で作品を咀嚼し、理解しようとする癖があります。それは、自分の中にある感情を先にその作品が知っている事が怖いからです。これは僕が詩を書き始めた個人的な理由に基づく嫉妬ですが、僕よりも詩やもしくは人間を知っていると思わされる作品は好きか嫌いです。臓物をかき乱されるような私情に、あるいは技術に激しい嫉妬を覚えます。なぜなら、そういう物しか僕にはないからです。僕は別にそこまで恵まれなかった訳じゃない癖にポンコツなので、詩という言葉、人間を人間たらしめるであろう「言葉」という最低限の方法で一番人間に接近しようとする「断絶」を使わざるを得ない故のそこで負けたくないという感情ですよね。そして言葉によってそういった自分のドロドロとした感情を知りたいという思いがあります。そしてその心を知るのはせめて自分の手によってなしえたいという思いがあります。 話が逸れましたが、しかし、こういう僕の思いがなければ本作を選出する事はありませんでした。僕は氏の作品に対して、結構厳しいレスを書いてきました。それは嘘偽りがなかった訳ではなく、上に書いたような複雑な感情が渦巻きながらの物でした。氏の作品に描かれるストレートな感情をくみ上げる力そのものを認めてしまうのが単純に怖かったからです。そして、この作品を読んで、また先月行われたIN言語というイベントにて、クヮンさんの朗読を聞いた僕は、この作品の最後の映画のシーンに心を揺さぶられました。 僕自身はずっとネット上で作品を発表してきて、ずっと価値ある物を取り上げるのではなく、価値のない物をけなし落とすやり方で作品を読んできました。しかしながら、それは自分の感性が他の人に勝っている事を証明する為というよりは、他人を言葉の論理で蹴落とす事ができなくなった時に自分の立場が崩れてしまう事に恐れながらでした。そうする事によって、得られた物がなかった訳ではないですが、その結果毎日相手をどうやって批評して読み下すか、そればかりに気を取られていたと思います。それは特定の場所が悪かった訳ではなく、色々なサイトを巡りながら僕が体験した事の全てです。相手の感性をとことんまで否定して、自分の中にある感性も内側ではとことん否定しながらその中でずっと詩を書いてきて、多分経歴そのものは出しませんが、評価もちょっとだけもらいました。でも、それでもずっと心から毎日怖かったです。そういった評価をもらった後には無数の感想に自分をなでられる訳です(こいつに本当にそんな実力があるのか)という自分がやってきた事の反動を同じだけ、もしくはそれ以上に受ける。なんというか、最近まで本当に心が疲れ切っていました。 僕にとって、B-REVIEWを始めて一年くらいたつのですが、それまでの自分は本当に台風の中にいて色々もまれまくった日々に見えました。 そして、それを、今の自分は、どちからかというと、映画館の椅子に座って眺めているように思えます。

    >end roll
    >夢が泣いている
    >心が泣いている
    >まいにちまいにち、貧乏で辛い
    >まいにちまいにち、貧乏で辛い
    >買いたいものなんて買えなかった
    >欲しいものなんて何一つないフリをしていた

    こうしてこの詩のここがいいっていうレスを書く事は、僕にとってはずっと格闘に近い者だと思っています。作品を読む事は、僕にとっては自分の肥やしにするための材料としか思えませんでした。相手の作品を認める事は自分の数少ないアイデンティティーを壊すからです。でも、最近はそうじゃなくて、自分の心を教えてくれる物だと、好きだと言っていいんだと思うようになりました。それが「涙」です。僕にとっての涙です。B-REVIEWで経験した事全てです。今までの自分とは違う価値観の姿です。

    >でも、ちがう
    >本当は、夢が、泣いていた
    >心が、泣いていた
    >いま、とてもしあわせだ
    >バラバラにぶち切られたのに夢のにおいも味もする
    >夢が、こんなにやらかいって知らなかった
    >心が、こんなにも泣いていたこと知らなかった
    >頑なに追いかけて来たそれが
    >こんなにやらかくて泣いていたなんて、
    >知らなかった
    >ここに来るまで

    この詩に出会えて良かった。実際にクヮンさんの朗読を聞けてよかった。それは全てここに参加したから、ドロドロに色々な物にもまれながら続けたから。・・・だと、思えるようになりました。 いつだって言葉は遅れてやってきます。説教は大

    事ですが、僕は基本的に説教本当に聞かない人間で、失敗してようやく動き出そうか、とか思っちゃう屑なんですが、「ここに来るまで」の過程、そういう物が、個人的にあったんですね。こんな僕にもそういう物があって、そういう個人的な格闘(嵐、台風)があって、やってきてよかったなぁって思える事。そういうのって幸せだなぁと思いました。勿論、僕もこれからB-REVIEWに参加する以上、メチャクチャいろんな作品に対してその場で読み取れる事書いていきますので、未熟な部分も沢山あると思うんですが、それはやっぱり台風の中にいるから。その中に閉じ込めるのはいつだって作品です。そして僕もまたそこから抜けだしていく為に感想を書いていきます。まだまだ人生これからです。台風にぶち切られ、台風を理解し、台風をぶち破り、台風に涙する。その繰り返しの人生の縮図を、この作品を通じて知る事ができたという事、今月多分涙したのはこの作品だけです。本当に読めて良かった。投稿してくださって、ありがとう。

    kikunae 空想のバナナ
    おいしいそうって思う事って中々なくて、それは、小説でも、絵でも、音楽でも、漫画でも映画でもそうで、一度大学の授業で小説の中の食みたいな講義があったのですが、中々難しいみたいな話を聞きました。あるにはあるのですが、だったら映像で言いじゃんみたいな感じです。僕があんまり知らないからかもしれないんですけどね。おいしそうな文章ってなんだろうという事を考えた時に、そう、空想のバナナは一番おいしそうだった。 この作品は今月一番美味そうだった。ポイントは美味そう「だった」という所です。実際の味をレビューしてる訳じゃない所。 >放っておいたバナナは >三十三度の真夏日に >真っ黒な皮だけを残して >透明な液体となっていて >いつもよりも、耽美的な甘い匂いが >薄暗い台所に染みついて消えない 「耽美的」ってなんでしょう。基本的に小説だったらいいのかなぁと思うのですが、詩てこういうのは僕はあんまり好きじゃない。そこを書かなきゃダメだからです。耽美的って何がどうしたら「耽美」になるのか。用は何が美しいのか、という事です。この作品はそういう部分を美味く利用しています。まず耽美的な甘い匂いですよーと提示します。それは、バナナが溶けてしまった様子を腐ってるのではなくて、いやいやいや、甘い匂いですよーと書く事で言い前振りになっているんですね。グロテスクな方向からちょっとだけ外している。んで次に、

    >食べごろを過ぎた方がおいしそうなら
    >全て腐らせてしまって >それで
    >おいしそう、の幻想を
    >もうずっと極限まで高めたい
    >だって
    >食べられなかったバナナのことは
    >いつまでも忘れられないから
    >そうして
    >現実では決して得られはしない
    >想像上のバナナのおいしそうを
    >永遠に、味わっていたい

    味あわせてくれないんですね。意地悪なんですよ。耽美的な匂いを知ってるのは語り手だけです。それがどういう匂いで、バナナがどういう状態で、どうしてそういう思考になって、あなただけがバナナのおいしそうを永遠に独占できるのかという、「おいしそう」のお預け宣言で、いや、食わせろよ。あんただけ気持ちよくなってんなよ。という感じです。 だから、この詩は立派に想像力を掻き上げるような描き方を持って見事に食レポしている。想像上のバナナの現実では決して得られはしない、概念的なあるいはそれらを通り越したおいしそう。の向こう側を。こんなにズルイ作品はないと思いました。

    ウエキ 70の文と70の数字。
    「いいじゃないですか。」「いいんですよ。この作品」という感じです。最初に正直に言ってしまうと、全部のフレーズ好きじゃないですし、一個のネタで詩とか書けそうな感じもしますし、それは勿体ないなぁとか老婆心が働いてしまいそうだし、またそれは逆の意味で洗練されていない元ネタの集積に過ぎない、荒削りな作品だと頭を過ぎる瞬間が無い訳じゃなく、いやそもそもこれは作品ではなくてただの断片的な文の集まりなのだからそれでいいのだと言うこともできると思いますし、断片に過ぎないとも言えると思います。また、ちょっと臭いかなぁと思うフレーズもあります。これはなんとなく思うのですが、好きか嫌いかで言えば、嫌いな人もいるかなぁと思います。というか、確実にいるとおもいます。
    でも僕は好きでした。これだけ思いついて並べるのも大変だし、何個かつまんないなとか思ってると、これいいなみたいなフレーズが幾つか続いたり、あったりして、全部読まなくても面白い所とか目にとまった所だけ読んでいってもいいかなとか、味わい方が多様なのかなと思います。また、なんとなく上から読んでいくと、文脈がそこそこつながっていたりするので、読める所だけ繋げて読んでいってもそこそこ面白い。です。

    >47真っ先に拍手する奴は分かっていない。

    例えばコンサートで真っ先にブラボーとか言って拍手する人いたりするし、ああ言われるとあんまり好きじゃないかもとかね。何様のつもりなんだよって話ですが。この作品は選評を書くというよりは、選ぶ事に意義があると思っています。多分、僕がレスして面白みを制限してしまうよりかは、好き勝手に読んだ方がきっと楽しい作品ですよ。例えば「詩」って言葉だけ追っかけてもいいし、色々な法則を発見することから始めてもいい、好きなフレーズを見つける事から始めてもいい、そういったやり方が思いつかない人は、コメント欄も充実しているので、読み方分からんって方は参考にしてもいいと思います。投げっぱなしの詩なので、読者のさじ加減でそれこそ毒にも薬にもなる作品じゃないかなと思います。

    カオティクルConverge!!貴音さん♪� ヨミテニ・タクス
    >『私の_________________________。』
    >私にとって空とは、__________________。
    >私にとって海とは、___________________________。
    >私にとって陸とは、_____________。
    >私にとって宇宙とは、___________________。

    >私にとって朝とは、________________________________。
    >私にとって昼とは、______________________。
    >私にとって夜とは、_____________________________________。
    >私にとって春とは、_____________________。
    >私にとって夏とは、___________________________________。
    >私にとって秋とは、_____________。
    >私にとって冬とは、_______。
    >私にとって父とは、___________________________________。
    >私にとって母とは、___________________________________。
    >私にとって兄弟とは、___________________________________。
    >私にとって家族とは、_________。
    >私にとって友達とは、______________________________________。
    >私にとって恋人とは、______________________________________。

    >私にとって過去とは、___________________________________。
    >私にとって現在とは、___________________。
    >私にとって未来とは、____。
    >私にとって愛とは、_____________________________。
    >私にとって生とは、______________。
    >私にとって死とは、___________________________________。
    >私にとって心とは、_______________________。
    >私にとって記憶とは、__________________________。
    >私にとって運命とは、_________________。>>私にとって私とは…>あなたにとって私とは…
    >『知らん経』
    >妖輝捻心日酒煙音本元
    >神守殻空白光星闇沢磨
    >千道辿同異魂輪還廻和
    >釈者見返求救仏獣淑叶
    >曽倭歌不動菩苔薩雲照

    あんまりこの詩に突っ込み入れたくないんですね。全力で色々かまされているし、僕はそれで笑ったんだからいいじゃないかと、思います。特に上の引用は本当にいいですね。とってもいいです。書いてない事がとてもいい。新しさとかで言ったら別に誰かやってんのかなぁとか思いますけど、僕はおもしろかったです。 僕はあんまり皮肉みたいなのは好きじゃなくて、まぁある意味アンチオーソドックス的な役割を、こういった形式の作品は担っている事が多いと思うのですが(簡単に言ってしまえば、解体するイメージですよね)この詩は純粋に遊んでいるだけっていう感じがするのです。それから、大体、詩で書く事の出来る物は、生と死くらいしかねぇよって誰か言ってたんですが、そういうのを考えるとあながち間違ってない感じがするしそこそこ網羅されているのではないか、とかも思うわけです。すると、例えば今まで僕が詩で書いてきた事って下線部に当てはまる内容を詩的な表現で述べなさい、みたいな小論文みたいだったものなのかなぁとかちょっと思ってします。そして、そういう表現に出くわすと、いつもだったら切れるんですが、今回は笑ってしまいました。カウボーイもかわいいし、『知らん経』ってなんやねんこらみたいな感じです。>『理想の詩とは心で読む物なのかも…』この結論も面白いですね。もう純粋に笑っちゃったので、いいんじゃないでしょうか。僕は三分くらい読んで、既に面白いと思ってしまいましたし、思っちゃったので残しました。それだけです。後はなんでしょうね。妥協してない所がいいなぁと思いました。よく見るとバラエティーに富んでいるんですよね。そこがとても面白い。ネタがある意味拡散しているように見えて筋は通ってるし、ストーリーラインも虫食いだったり、ウンバボーだったりにかき消されているのですが、別に読み取れない程ではない。僕らは別に穴を埋める必要はなく、そこにある者をただ「心」で感じればいいのです。★もカウボーイの言葉も、____。も言葉です。記号です。所詮言葉です。されど言葉なのです。言葉に踊らされ、操られながらも、また僕らは言葉を操作し、あるいは使役し、奴隷としながら、もしくは死ぬまで一緒に付き合う同僚としてありながら、詩を書いていくし読んでいく。そう考えて行くとふざけた詩だと思う一方で、結構真面目な詩だと思います。「ヨミテニ・タクス」為の文章たる仕掛けというか資格のある、言葉も託され甲斐のある構成をした作品だと思いました。まぁ、これ読んで滑った人には合わないかもなぁというのは、M1のジャルジャルみたいなもんですかね。そういうのはどの詩にだってあると思います。最後の最後に、BABY NEAPOLITANS も良かったです。ああ、俺に感想をもっと書かせる為の力をくれよ。

  • 【花緒氏選評】

    【大賞候補】
    長いつき指 くつづりゆう
    長いつき指という男性器を彷彿とさせる表題。尿についての記述。一貫して性と俗に纏わることばかりが書かれているのに、これほどまでに品が良く、叙情的に纏まっていることに驚愕する。表層的な意味だけを辿れば、尿瓶で用を足さざるを得なかった体験の振り返りを通じて、性に関するわだかまりを記述しているだけなのだけれど、書かれている意味以上の良さがあり、読解の言葉に回収できない。まさしく詩になっていると思う。リーダビリティと創造性の邂逅。ビーレビの大賞作品に相応しい。
    【優良作品】
    寂しくて辛い 祝儀敷
    表題からして人を食った作品である。ふざけた姿勢が底流に流れているが、であるがゆえに、現代性を具えることに成功している。全ての日本人が読み聞かされるであろう昔話でおなじみの桃太郎がモチーフになっているが、昔話とは異なり、桃がまるでチープなテレビゲームのバグのように扱われている。桃は開くこともなく、拾われることもなく、ただ流れ、溜まっていくだけ。一つ一つの桃に差異などなく、拾われるべきなのに拾われなかったという感傷さえない。ベルトコンベアーの上を運ばれる大量生産品のように桃が流れていく様が皮肉を伴ったユーモアとともに描かれている。昔話で描かれるような日本の原風景とは隔絶した世界感。メンヘラ、という言葉がバズワードとなって久しい現代の日本で、心、がどんな風に扱われているかを告発する作品足りえている。

    逆さの像 m.tasaki
    完成度の高いジャンル横断的作品。散文詩のようでもあるし、ショートショートのようでもある。向いていないことはしてもしょうがない、自分らしく生きよう、という一種、自己啓発的なメッセージを内包した作品だが、表層的な内容以上に、反対に浮かんだ象のイメージが、大らかな感覚を伝えてくれる。前半、後半の落差も効果的。多くの場合、説明的な文章はポエジー発生の阻害要因となるが、本作は、説明的であることがまさしく「逆手」に取られていて、あえて説明を後半に持ってくる構成が奏功している。創造性の高いクリエイティブ・ライティング作品として推したい。

    表層 徐々にでいいから
    他者はつねに表面として立ち現れる。表層を突き抜けて他者の内部へと至ろうとする試みは、常に徒労に終わる。ネズミのように表層を齧ってみせたところで、内面にはたどり着かないのである。コミュニケーションに関する絶望が基調になっている作品だが、その書きぶりは洒脱そのもの。重く受け止めることもできる文学的なテーマが、軽妙かつ美的に表現されている。小品の色彩は強いが、センスの良さが遺憾無く発揮された洒落た良作。

    【推薦作品】
    空想のバナナ kikunae
    日常的でありながらも異国のフレーバーを湛えたバナナという果物をモチーフに、極めて平易な言葉の連なりによって、作品をまとめ上げることに成功している。非常にわかりやすい作品で、多くの読者に届きうるリーダビリティを具えている。バナナは庶民的な果物だが、ルーツは南国であり、日本とは全く違う気候の下で栽培されている。日常/南国という相反する二つの要素が、短い詩文の中から浮かび上がってくる完成度の高い日常詩。日常と地続きの文でありながらも、日々の暮らしの中では感じることのない地点へと読者を誘う。

    待合室 沙一
    死がモチーフになっている。重いテーマがさらさらっと必要最小限の要素で軽く書かれていることにミニマリズムのフレーバーを感じる。遅かれ早かれ、死は誰のもとにもやってくるが、自らの死を実感を伴って想像することは難しい。いつか死がやってきて、自分がこの世から消え去っても、おそらく世界は永続するのであろうという感覚。生の脆さと世界の強固さについて。日常的な光景を描写する形式を借りているが故に、印象が後に残る。

    たとえ、あの日を忘れかけても 森田拓也
    あまりに分かりやすく読めるのに、簡単に批評の言葉に回収できない良作。普通なら忘れたくないと思うような記憶ばかりが、忘れてしまいたい対象として列挙される。最終連で、ひとつひとつの忘れがたい記憶より、すべてを思い出すことが上位にあると披瀝される。すべてを思い出す、とは何を意味するのか。より大きなものに思いを誘うことで、ポエジーが発生する。

    三途川 上​ 三途川 下 田中修子
    ツッコミどころは山の如くある。1行目からして、文法的に正しいのだろうかと疑問に思うし、句読点の打ち方なども甘い。これでもかというくらいに紋切り型のおどろおどろしい性描写が連発されることも踏まえ、手放しで賞賛して良い作品とは到底思えない。しかし、数多ある欠点を補ってあまりあるほどに、本作からは書く必然性が伝わってくる。本作で描写されている境遇と類似の状況に作者はあるのではないか、と穿った考えを抱いた読者は多いはずだが、作中話者と作者をダブらせざるを得ないほどの生々しさを読者に伝えたならば、作者としては「勝ち」だろう。小説投稿サイトに投じられる海千山千の小説もどきと比較して、濃密さ、筆力、纏まりの良さの点で、卓抜していると思う。短編小説家のビーレビへの参入を促す意味でも、本作を推薦したい。

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