2017-10 選評

カテゴリ: 月間選評

【part1(大賞合議編)】

花緒 今月は私が選考の司会役と言いますか、いわゆるファシリテーターの役割を担うことになりました。よろしくお願いします。

では、ご案内の通り、当月から選考方法を大幅に変更したいと思います。まず、私の方から、改めて、今月の選考方法を説明します。また、変更の狙い、変更理由についても、纏めておきたいと思います。

まず、今月からは、優良作、推薦作の選定にあたって、合議ではなく、個々のキュレーターが独自に推挙する形をとりたいと思います。具体的には、各々、優良作を4作、推薦作を4作、選んでいただきます。選んだものは、自動的に、優良作、ないしは、推薦作となります。なお、選が割れた場合、例えば、作品Aを、私が推薦作に推して、百均さんが優良に推したと仮定した場合、作品Aは優良作になります。すなわち、より強く推した方の意見が採用されるというシステムです。この形式のポイントは、どんな場合であれ、合議を経ないということ。なお、選評は個別に責任を持って書いて頂きます。

また、大賞作については、それぞれが候補作を推挙し、その中で合議と投票により決めましょう。少し先走りますが、私はkaz.さんの「単調な旋律」を推したいと思います。この間、まりもさんは、湯煙さんの「ミネラルショップの片隅で。」を、百均さんはカオティクルさんの「背中の樹」を推しておられるようですね。天才詩人改めHI言語氏は特段の推挙はしないというスタンスかと思います。推挙された3作について合議した上で、投票することにしましょう。なお、投票は1人持ち点10点として、これを3作品に割り振るかたちとしましょう。

まりも 選考方式の変更について、運営内部で議論を重ねてきていることは承知していますが、投稿者の方々のために、変更理由などについて、もう少し詳しくご説明いただけますか。

花緒 少し冗長になってしまうかもしれませんが、選考形式の変更事由を改めて

私の方から説明し、皆でシェアしましょう。変更の理由は大別して2つあります。

① 合議という形態に疑問を感じるに至ったこと。

これまで合議による選考を進めてきて切に思うことなのですが、作風や志向性が大きく異なるキュレーターが集まって、全て合議によって決める、という方法にはやはり無理があるように思います。先般、フォーラム上において、Survof氏が、ビーレビの選考は、作品を分類することに重きを置いていて、作品の良さを見出し世に問う、という本来の意味でのキュレーションのフレーバーが不足している、といった意のことを書いておられたように記憶しています。これは、かなり正鵠を射た批判のように感じました。同様の批判は他の投稿者や詩界隈の方からも幾度か頂戴した記憶があります。

作風や志向性が大きく異なるメンバーで、何らかの意思統一を図ろうとすると、どうしても、予定調和的な議論に陥りやすく、結果として、分類することに力点が置かれたような議論が展開してしまいがちであるという嫌いがあると思います。それならばいっそのこと、個々のキュレーターが独立して、スタンドプレーを発揮した方が、エッジの効いた選考ができて面白いし、本来の意味でのキュレーションに立ち返ることが出来るのではないか、と考えます。

また、付言すると、以前、ボルカ氏が指摘してくださっていたことですが、誰が何を選んだのか明確にわかった方が面白いのではないか、といった考えもあるように思います。推挙の責がより明確になっていた方が、その後、選考結果の妥当性にかかる議論などもより有意義になるかもしれません。

➁より多くのキュレーターが参画できる体制を整えたいと考えたこと。

ビーレビ創設から1年弱が経過しました。みなさん、ご存知の通り、極めて有能なプログラマーの方が安価で協力してくださるという運びになり、来年初めにかけて大幅なシステム更改が予定されています。これに合わせて、ビーレビもさらなる飛躍を図りたいところです。やはり、選考にはより多くの方に参加いただきたい。限られたメンバーで選考を牛耳るのではなく、初期メンバーであることから生じるある種の既得権益のようなものはどんどん放棄して、より開かれた選考にしていく方が面白いでしょう。例えば、有名詩人や有名作家などを、キュレーターとしてどんどんスカウトしていきたいですし、異端的なキュレーターを包摂していけるシステムにもしていきたいですね。このように考えた際、全て合議により選考を進める現行のシステムでは、明らかに、新しいキュレーターへの負担が大きすぎて、開かれた形にはしていき難いでしょう。見ず知らずのキュレーターたちとひたすら議論したいと思う人はそう多くないでしょうし、合議を常に要するシステムの下では、時間的な拘束も厳しいものにならざるを得ないからです。より開かれたビーレビにしていくために、選考形態を見直す時期にきていると思います。

花緒 それでは、私ばかりが演説しているのも興ざめでしょうから、そろそろ選評会議をスタートしましょうか。

まりも ありがとうございました。どんなことになるのか、楽しみですね。

それでは、まずは花緒さんから、全体の総評をお願いします。

花緒 まず最初に改めて私の方から全体感や、今回の選考コンセプトなどを説明しておきたく存じます。

ごく正直かつ忌憚なく申し上げて、今月、豊作なのか不作なのかよく分からないというのが私の正直な感想です。全体としてレベルが高いというか、リリース当初の選考基準を適用してしまうと8割方、推薦作以上に入ってしまうように思います。誰がどうみてもこれは選外だよね、という水準の作品がほぼない。作者の方向性に寄り添う形で読めば、ほぼ全部、それなりに読めるし、面白い作品であるように思いました。であるがゆえに、もはや、優良、推薦という形で、合議によって作品の水準を選別するという行為に疑問を感じる訳でもあります。

もっとも、他方で、スタンズアウトした作品とでもいうのでしょうか、大賞作のエナジーを如実に感じさせる作品ははっきりとはなかったかなという印象です。

「現代詩」としては、ここでいう現代詩はいわゆる狭義の意味で使っていますが、もなかさんが断トツで上手いと思いました。ただし、ポエジーを真に感じるのか、真に楽しく読んだのか、と言われると、正直ベースで語るなら、ためらいを感じるところあります。

この間、これまで私はいまいちポイントを入れてこなかったkaz.さんですが、今月は明確に良いと思いました。投稿された2作共に良いと思っていますが、スペースキーの方は、技術力と現代性の兼ね備わった作品と思いました。なかたつさんもさらに洗練されてきている感じで、展開がみられるなあと思いました。

気になったのは、宮田さんとHAneda Kyouさん。お二人とも、優良作相当作の中で、ちょっと異彩を放っている部分があるように思います。

HI言語(天才詩人) 今月が豊作か不作かわからないという点にかんしては、まったく同じ感慨を持っています。夏生さん、北村さん、ふじみやこさんら常連投稿者の作品がいつもより読み応えがある印象でした。文句なしに優良に推したいのはなかたつさんの「デイヴィット」、アラメルモさん、カオティクルさん(両作)でしょうか。そうえいば夏のほたるさん、「ミルキーデザイア」にも独特のセンスを感じました。

百均 今月は花緒さんの言にもあったように、圧倒的作品があるというよりは、全体的なバランスがとてもいいという月になったと思います。ある意味とがった作品が綺麗に集結しているのではないかと思いました。僕から見たときの総括は以上になります。

まりも 手控えとして、今回も花緒さんが作成してくださった点数表に大賞3点、優良2点、推薦1点として、皆さんに書き込んでいただいているのですが、点数上で一番ポイントを獲得しているのはHAneda kyouさんの「フィラデルフィアの夜に」なのですね。しかし、各自が大賞に推しているものは、湯煙さん、kaz.さん、カオティクルConverge!!貴音さん♪の三作、HI言語さんは、大賞作は委任、と割れている。平均して、皆が良作と判断したのが「フィラデルフィアの夜」であるけれども、より強く推したい、と思う作品は、各自異なっている。先ほどの花緒さんのお話にも通じますが、こうした結果を見ても、大賞作品は、投稿者による投票なども含め、より開かれた形で決定する、個々の選評は各自が責任を持って個別に行う、という形が、最適なのではないか、と私も思います。

投票制などは来月分以降の導入とのことですので、今月は、今挙げた4作品について合議して行く事にしましょう。それでは、まず、花緒さんからお願いします。

◆kaz.単調な旋律

花緒 私はkazさん推しですね。彼の持つ前衛性が非常にいい形で発現された一作であるように思います。あまり、読解により云々することに意義があるとは思えない。スペースキーを打ち込むことが、魂を削って書く行為とズレていると喝破する本作は、ある意味では、<書けない>ことを書いている作品だと思うからです。文字では書けないことを書こうとする、ということにチャレンジしているがゆえに、何度も読めるし、何度読んでも良い感覚が残る。小品の色彩が強いゆえに、大賞はどうかという考えもありうるでしょうが、わたしは兎に角、好きな一作です。

HI言語 カズさんの作品は小品ですよね。カズさんは長い作品を書くときはほぼ毎回コンセプト先行で、記号的なものの羅列。本作のような独自の作文センスが炸裂している作品は短い。きちんと苦心して作りこんだものを出して欲しいんですね。あっと言わせる内容で相応の分量のものが来るまでわたしは積極的に推さないつもりです。

まりも カズさんの作品は、通常用いられる汎用性のある言語だけを用いて、書くとは何か、と問いかける作品だったと思います。汎用性の少ない言語や記号をあえて持ち込む実験に賛否両論の作者ですが、汎用性のある言語を利用する時点で、表記の面白さや斬新さ、驚きといった効果に頼ることが出来ない。その縛りを自らに課した上で、提出された作品である、ということ、肉体がとらえた外界を、論理的な構成の一歩手前の段階で記述していく行為(一連)と、その行為を行う状態を観ている、メタ的な2連、その記述を行うか行わないか、そのことによって、自分の中で出来事の存在そのものが「あった」ことになるのか、ならないのか、という問いかけがある。「誰も見なかったのだ まだ誰も見なかったことにはできない」歴史=ストーリアは、語られたことによって(記されたことによって)この世に「あった」ことになったわけですが、そうした「記述」という事態そのものに、日常の中で触れる一瞬を描いている。

以上の理由で優良に推したいですね。スペースキーを入れる、入れない、そうした記述上の「空白」と、現実の出来事の連続性との差異を、どうとらえるのか、そこに踏み込んでほしかった、という思いもありますね。全体の流れの断片性が強いということ、一連の中で、現実の景と漫画の中の景とが語り手の中では一致しているのですが、この部分が唐突で、読者の側では、うまく一致を取り込めないのではないか、ということ、等から、大賞に推すかどうかは、迷うところです。

百均 kaz.さんの作品については、僕自身は色々な話を抜きにして読むと、どっちかっていうと長い作品の方が好きな派ではあります。短い作品については、僕は天才詩人さん寄りですが、でも花緒さんの感想を拝見した後で読み直すと、確かにいい作品なのかなと思う部分もあります。

読んでいて思うのは、もっと書いて欲しいという感じがまず感想として射出されるわけですが、しかし、そういった物を書こうとしてしまうと、「あれは魂削って書いているという感じではない 生きることが書くことそのものなんだよ その一節をスマホから削って」しまうわけです。

基本的に文章の役割は判断と伝達にあります。(日本語の場合だと、判断が八割、伝達が二割くらいだそうです。)そしてこの作品には「できない」という判断が二回登場します。その「できない」と言った言葉があるおかげで、逆説的に裏に溢れている、正にいいあぐねている詩情の存在が見て取れる訳です。そこにスペースキーとして飛ばされてしまう言葉の情念の気配があるわけです。スペースキー一つ押すにしたって、そこには書き手の魂が宿っている。それは楽譜における休符と同じ事が言える訳ですね。

これは個人的な経験なので申し訳ないのですが、ある程度曲が歌えるようになってくると「休符」が凄く大事になってくるわけです。ただ、ワープロの登場によってどこまでも言葉を量産出来るようになってしまった今では、言葉一つ一つの質、あるいは空間的意識そのものよりかは、量的な物として判断されてしまいがちではないのか。詩は短ければいいみたいな話を所々の詩人さんから聞くような気がしますが、そういった物に対するある種の回答みたいな要素はあるのかなとは思います。ただ、この作品は回答する前に「できない」と書いてしまっている。そういういみで過程の途上にある作品とは思います。「できない」訳だから、どうしてできないのか、その過程を見せつけるしか、方法がないからです。

まりも そうですね、カズさんの作品は、筆記であれば空間とか間として提示されるスペースすら、キー操作で出来てしまうという簡易性と、それゆえの逡巡、スペース何個分、という数値で割りきれない情動というのか、情感が霧のように立ち込めている場を、どう表現していくのか、という迷いのようなものも感じました。筆記であれば感覚で行っていることを、キーを叩くという操作で行う。空間を生むための能動的な操作が必要になる。 私は手書きでないと詩が書けないので、キーボード世代の感覚をどう把握していけばいいのか、いつも後追いになってしまう、そこがもどかしかったり、新鮮だったりします。

百均 kaz.さんの作品が極端に短く、長いというのは、そういった所謂パソコンの打ち込みによって消えてしまう部分を回収するための試みだと、なんとなく今回のやりとりを見て思いました。だから、なぜ長く書く必要があって、それらに通常の文字のやりとりでは見られない要素を込めるのかというと、そういう物が無いと、正に単調な旋律しか残らないからですよね。

僕自身、ネットに文章を書き出した時に最初にぶち当たった壁は、まず、ちゃんとした文章が書けない事です。パソコンを与えられたとしても人間がそこに書ける物というのは際限ない訳ではなく限られている。であるから最初は視覚的な表現に凄く拘泥した思い出があります。そこから、やっぱり文章力を鍛えるためにはそういう物に頼ってはいけないと思うようになり、散文詩の方に移行しました。その結果として今は統一されたフォントの中で表現するには限界を感じるようになり、今は筆ペンで紙に書いたり朗読する事によって情報を加味する書き方に移行しています。

ですが今度は、故にネットは、僕は殆どもう作品を発表する気概も段々なくなってきた所もあります。そういう意味でアナログとデジタルの間を繋ぐのはテクノロジーだと思いますし、その過程にあるのが、僕はB-REVIEWだとも思っています。(そういう意味で、様々な技術を文字にクロスオーバーしていく方向というのは、僕は支持しています。もちろんこの先の帰結としてよりプレーンテキストな方向に向かっていくのも逆に面白いと思いますが)という所から考えた時に、kaz.さんの作品には、あるいは取っている方法論としては、単調な旋律は、僕にとっては今はあんまり面白くない。多分読みやすい作品であろうし、カルピスの原液に一番近い立ち位置にあるものだと思います。保守的だと言ってしまってもいいかもしれません。ただ、長い作品の方は可能性を秘めているし、コツみたいな部分(短い作品も長い作品も元は同じ作者の情念から生まれていると言うことです)を自分で補って読めると面白いのかなと思いますが、まだまだ一般的に面白いと言える所までは到達していないのかなとは思います。取りあえずkaz.さんについての僕の見解は以上です。

花緒 百均さんの選評は素晴らしいですね。非常に考えさせられます。

百均 花緒さんありがとうございます。大賞候補作品、僕は背中の樹で花緒さんは単調な旋律。まりもさんは湯煙さんのミネラルショップで、天才詩人さんはどの作品になりますか。

HI言語 大賞ですか。飛び抜けた質を提示できているものを挙げるとしたら、やはりミネラルショップになってしまいますね。

まりも では、まずはカオティクルさんの「背中の樹」から、議論していきましょうか。

◆カオティクルConverge!!貴音さん♪ 背中の樹 

花緒 「背中の樹」だが、悪いとは言わないけど、カフカ的手法とでもいうのか、ワンポイント、明確なフィクションを入れて、物語っぽく書くのは、割と誰でもできるというか、イージーな気がするので、大賞はありえないという感覚を覚えているのですが、別に批判的なポジションを取りたい訳ではないので、何か目から鱗が落ちるようなうまい反論が来ると良いなあと期待したいところです。

まりも 「背中の樹」、リアルな質感を持ちながら幻想世界に滑らかに連結していくところが、印象に残っています。

百均 背中の樹については、筆力の観点からすると、もなかさんとかに比べれば負けると思いますが、今月の作品の中で一番発想が面白かったと思っています。しかもそれがナンセンスに、昇華せずに人間そのもの、或いは生そのものに纏わる考察に、或いは目線に直結している。そういう意味でなんというんですかね、はじめてB-REVIEWの詩で驚いたしSFを感じました。

そう、B-REVIEWの詩はいい意味で目新しくない詩が多いと思います。そして、文章技術に関しては多分後からでも、ある程度はどうにかなりますが、発想のセンスの部分については多分才能だと思いました。

その点を、僕は高く買っています。ただ、そういうところから主に見ているので消極的賛成という事でもあります。

花緒 この種の手法に関しては、松浦理英子よろしく、親指ペニスとか言われても、私は驚かない。数十年前からある。発想だけなら大した事ない気がするのです。でも優良なら反対しないですかね。

百均 多分人間と樹の組み合わせは昔から親和性溢れているとおもいます。僕が言いたいのは、そういったものを引き継ぎながら、ちょっとだけはみ出しているポイントがあるということです。大賞に押した理由は最後の部分、その一点になります。

HI言語 

ある男の子は樹の根元が曲がっていた

そんな人達は決まって性格が捻くれてた

両親が離婚して此所に来た女の子は

既に葉が紅葉だったり枯れたりしてた

そんな人達は決まって苦労人だった

このくだりを読むと、単に既視感のあるシュールさを前面に出しているというよりは、俗世間を生きる人間への揶揄が主題だとも読めます。デスノートのように(そして残りの人生の半分を売って「目」を手に入れた場合のように)相手を見ただけで残りの人生の日数が見えるように、ちょうどそれと同じようにわたしにはあなたの背中に木が生えているのが見えるんです、という。

そしてその木がどんな風合いかを見れば、あなたはどんな人生を生きてきたどんな人間なのかわかりますよ、という、そんな揶揄。

諸行無常じゃないけど、大袈裟に言えば人間のしょうもなさみたいな話にもなるなと。

花緒 そこらへんは全て納得しますね。

百均 後半を引用します。

お爺ちゃんの背中の樹は88°だった

お爺ちゃんは口癖に言う

「もう直俺は死ぬかもしれんな」と

僕はそれが嫌だとお爺ちゃんに抱き付いてた

だけど、お爺ちゃんは死んだ

背中の樹は90°だった

背中から真横に真っ直ぐと生えていた

葬儀屋は丁寧な穴を掘る

お爺ちゃんを蹲る姿勢にして埋める

お父さんの裾を僕はギュッと握っていた

「お爺ちゃんはこれからは樹として生きるんだ何百年もな」

そんなお父さんの背中の樹は36°だった

背中の樹の角度を見る度に、僕は少し不安だった

まだ1°まだ1°そう言い聞かせてた

ここが本当にいいですね。角度の概念を年齢に置き換えている所です。ここが本当に面白いです。人間が死ぬ角度として直角を持ち出す事によって、具体的に人間の年齢(寿命)を目視化させています。そうする事によって実際に見る事の出来ない寿命を具体的なイメージに変換させています。この発想、そのものが凄いと思いました。つまり生き物の寿命を示す手段としては蝋燭とか、あるいはデスノートの死神の目とかなんかもあるとおもうんですが、多分角度っていうのはビジュアル的にも数字で見ただけでも、要は分度器で測ればいいわけですし、もしくは90℃から直接引けばいい訳ですよね。凄く効率のいい寿命の示し方と言えるわけです。

更に言えば、それは年を取る毎に腰が曲がっていく人間の背骨のイメージにも直結していますし、更に人間が年を取れば取るほど樹が成長していく、対比的な構造も取り入れています。つまり人間が死ぬと同時に、人間は蹲る格好となって(それはまるで胎児の時のような形で)地中に埋葬される訳です。そして新しく、樹として生き始めるという所に、生の円環の様相が一度に見て取れる訳です。そういう意味で、最後の「まだ1℃」というのは、語り手の若さを示すと同時に子供が初めて死生観を獲得した時の情感を見事に表現しています。やっていることは単純かもしれないですが、それをモチーフに上手く組み込んでいくその発想力ですよね。

文章そのもの、それ自体は確かに難があるかもしれません。また逆に言ってしまうと、僕は三連がなければ、この作品を評価していません。それまでの描写自体は他の作品にも見られる傾向を持つと思いますし、そこに口を挟む意志はないです。

取りあえず背中の樹については、以上です。

◆カオティクルConverge!!貴音さん♪  碧い花

HI言語 「背中の樹」に関してはじゃっかん作り物っぽい感じがするんですね。「背中の樹」にくらべ、「碧い花」は短いけど、作者の狂気が詰まっている。大賞とするにはちょっと弱いけど、優良作品に推したいです。

花緒 優良作品でオーケーだろうかとさえ思うところはあります。アイデアと、その場限りの勢いに頼り過ぎていないだろうかということを思うのです。優良と言えるだけの筆力を感じさせる作品なのかどうかというところで疑義を挟みたいと感じます。

百均 碧い花については、僕はむしろ逆の見方で狙ったナンセンス具合かなぁとみています。

まりも カオティクルさんの 碧い花 は、テンポよくイメージが転換していくサンドアニメーションのような鮮やかさと自由闊達さの中に、夏のイメージとからりと乾いた、社会批判的なユーモアを盛り込んでいる。リズミカルに進行していく文体も印象に残りました。

ただ、イメージがコラージュ的というのか、無数の断片が一気に平面に撒かれているような弾けた感覚や自由闊達さを、良しとするか、どうか。目がチカチカして、表層の面白さやめまぐるしさが目眩ましのように機能してしまい、背後にスパイスのように秘められた社会批判的なアクセントが、見えにくくなっているのではないか、という印象がありました。もちろん、社会批判や教訓的なことを否定するために、あえて「面白さ」の方に舵を切る、そこが魅力だという見方も出来る。その意味で迷ったのですが、背中の樹 の方が、全体のロジックが明快で、流れがより多くの人に理解しやすい、しかもアイディアが(人の体が異物に変容する、異物が生える、というアイディア自体は、古今東西、珍しいものではありませんが)ユニークで面白い。

生育歴が、見えない樹(気ともかけているかもしれませんが)見える人、気づく人にはわかる、という部分が、説明的に過ぎる、という見方も出来るかもしれませんが、ひとつの作品としての全体像が明確な作品として、二作のうち、どちらを推すかと問われたら、背中の樹 だった、ということですね。

続いて、湯煙さんの「ミネラルショップの片隅で。」をお願いします。

◆湯煙 ミネラルショップの片隅で。

HI言語 後半で詳しく書きますが、ミネラルショップでのエピソードが個人的な事情や追憶の話に転換する箇所、ここが少し急ぎな感が否めず、読み物として若干の難点を感じました。

まりも 「ミネラルショップ~」は、散文詩としての飛躍の幅にポエジーがある。ここは、きちんと議論したいですね。小説的な散文と、散文詩としての散文との差異について、考えさせられた作品でした。

丁寧な叙述を重ねて読者を表現空間に引き入れる導入部、クジラの耳石、という非日常の物質を、質感まで含めて丁寧に文字で現前させた上で、目に見えない部分・・・鯨の交信(言葉を交わす、言葉を聴く、その音を聴き続けた石が経て来た時間に想いを馳せる)連に飛び、そこからさらに、自身の「聞こえ」という連に飛ぶ。連の間の空白が、小説であれば具体的なエピソードを盛り込んで肉付けしていく部分、語り手の特徴や性格や、語り手を取り巻く人物像を描きこんで、語り手を取り巻く世界を具体化していく部分だと思うのですが、あえてそこをカットすることによって、ミネラルショップという現実界と、そこから想像力によって入っていくことのできる想像界、個人の過去の思い出が作り上げる記憶界、その階層が明確に見えて来る。

たとえるなら、小説ではあえてその階層が露わにならないように、不透明な積み木を積み重ねるように具体的な各層を作っていく、そのことによってリアリティーを持った異界を現前させたり、他者の生をリアルに生きる、という豊かさを与える方向性を持つのに対して、詩ではガラスブロックというのか、透過性のある層を積み重ねて、多層構造をあえて露わにさせる、そのことによって、より普遍的な情動に響く世界を立ち上げようとする。そうした方向性を持つのではないか・・・そんなことを考えさせられる作品でした。

百均 

色とりどりの美しい鉱物や、原始の姿をとどめたまま悠久の時に身をあずける太古の化石類を所狭しと陳列した、街のミネラルショップに立ち寄る。するとそこに、鯨の耳石と名付けられた商品が置かれている。

此処の部分がすさまじくいいですね。「美しい鉱物」と「太古の化石」と同じように「鯨の耳石が陳列」されるという事。つまり、やっている事はただ並べているだけなんですけど、同じ店という空間の中に置かれただけで、それら三つがなんらかの共通する価値を持つような錯覚にとらわれます。ここが上手いのかなと思います。

多分宝石店や骨董店じゃだめなんですよね。ミネラルショップという場所じゃなきゃ始まらない詩である事が最初の一文に見事に現れている。生き物の化石、それも哺乳類という近しい存在でありながらも、日常からは少し離れた距離に生きる鯨というある意味で神秘的な存在に想いをはせながら、自分の耳と上手く絡めていく手腕は全くもって見事です。文章を飛躍させていく時の準備と着地が綺麗に決まっているようにも思います。

ただ、個人的には、ある意味既視感のある作品でもあって、作品の作りでいえば見事だと思うのですが、発想としては、僕は既に知っていたという感じが無かった訳ではない。具体的に言ってしまうと、右肩さんの「白亜紀の終わり」に近いと思います。無論味わいの方向性はずれているのですけれども、底の部分に通底する音、コード進行は近似しているのかなと思います。僕が背中の樹を押したのは結局の所、自分の思ってもなかった発想の部分を評価したので、本作はいい作品だと思います、しかしながら、僕の本当の心の奥底をえぐられる程ではなかったと、上から目線で言ってしまいたくなる。僕は湯煙さんの作品メチャクチャすきなんですけどね。

◆HAneda kyou フィラデルフィアの夜に Ⅱ 

まりも ハネダさんのこの作品、文体の甘さが少し気になるのですが、花緒さん、この作品についてはどうでしょうか。

花緒 HAnedaさんですが、ポイントだけ見れば最高位なのですね。大賞でも違和感ないかなとは思っています。針人形という、歴史や人生の空虚さ、諸行無常感などを纏ったアイテムを使いつつ、まるで童話のように少ない構成要素で、柔らかく読める作品であり、なかなか優れた作品だと感じています。ただし、今一歩、映像が浮かんで来るようで浮かんでこないところはあって、真にパンチの効いた作品なのか、真に優れた作品なのかは、みなさんの意見を聞きたいところでもあります。

まりも 冒頭で〈針金が夢を描いていきました〉と記しているのに、さらに二連目で〈見つけてしまった物は、夢〉と重ねていくあたり、言葉の使い方がもったいないなあ、と思う所はありますが、謎めいた「事件」、過去の事実として存在するものを、自身の問題として引き付けて、感覚的に捉え直そうとしている粘り強さに注目しています。「連作」というよりも、不断の推敲を重ね続ける、という、創作に対する真摯さに惹かれる、と言えばいいでしょうか。

今回の作品は、特に、体言止めや「~と。」とか「~で。」といった、途中まで言い差して、意図的に止めたような語尾が形作るリズムが、とても印象に残りました。少し草野心平を思い出したりもしたのですが・・・。

〈灰色の世界に、そんなくすんだ赤い針金人形が、ぽつんといるばかり。いくら、ページをめくっても。〉このようにリズムや節回しを作りだすような詩行のすぐ後に、〈最後に針金を貼り付けたと考えられるページです。〉~と考えられる、という、やや説明的な文章が続いたリするあたりを、アクセントが効いていてよい、と考えるか、文体の作り込みがまだ浅い、もう少し彫琢できる、その過渡期、と考えるか・・・個人的には、もっと文体の面においても絞り込んで行けるのではないか、という期待もあります。

湯煙さんの「ミネラルショップ~」は、文体そのものは匿名性が高い、というのか・・・一般的に通用する散文で、特別の個性、語り口を前面に出してはいない。それゆえに、そこに盛り込んでいく言葉や取り込んでいくイメージの展開に独自性がある、と思うので、特に文体に関して申し述べなかったのですが、ハネダさんの作品の場合は、独特の呼吸感や文体の進行そのものが持つリズムも持ち味のひとつなので、こうした面に着目したくなる作者ですね。

花緒さんの〈今一歩、映像が浮かんでくるようで浮んでこないところはあって、真にパンチの効いた作品なのか〉というご指摘には、私もまったく同感です。良作である、ということに関しても。

百均 取りあえず各大賞候補に対する議論については一段落した所がありますし、個別に優良作品について言及していけたらと思います。

花緒 あとは、投票で、大賞候補作を決めればいいでしょう。冒頭でも申し上げましたが、一人10ポイントで、4作品(カズ、カオティクル、湯煙、羽田)に割り振りましょうか。

【part2 個別選評(優良編)】

10月中に投稿された作品の中から、大賞に推したいものを各キュレーターが1作選び、合評を経たのち、投票で大賞作品を推挙しました。(別掲の公開合議参照。)

続いて、優良に推したいもの、推薦に推したいものを、今月はそれぞれ4作品ずつ選び、個別に選評を記しました。初の試みですが、各キュレーターの個性が現れた、なかなかユニークな選評となりました。

★優良作品 

HI言語(天才詩人)選 

優良1. なかたつ/デイヴィッド 

難しい作品ですね。これだけ複雑な比喩の網の目が絡んでいながらライティングがきちんと制御されていて最後まで躓かずに読み終えることができる。名人芸だなあという印象です。ひとつには強力かつ数学的に計算された肉体美のレプリカである、「石像」という物質のプレゼンス。それが多言語が飛び交うコスモポリタンなスペースにおいて、ふと気がつけばいつもそこにある堅固な地肌として立ち現れる。読者はここで、こんな混沌とした時空間に「石像になりたかった」青年の軌跡をどのようにマッピングできるのか、という深い問いと向き合います。そのヒントはたぶん作中にでてくる曲線や放物線ということにあり、それはまっすぐ行こうと意図して歩き始めるのに徐々にカーブして曲がっていってしまう何か、転回して同じ場所に戻ってきてしまう何か。それは球体であるグローブ(地球)の輪廓とシンクロするのかも知れません。「乃木坂で買ったスカートの生地」。このまえぐうぜんユニクロがバングラデシュに初進出したときの苦労話を見ていたんですが、女性向けの服がぜんぜん売れない。バングラデシュではそもそもカジュアルウェアという概念がない。若い女の子は民族衣装でおしゃれしますからね。つまりファストファッション向けに卸された衣服・生地というのは土地の伝統的な思惟から浮遊したものであり、しかしグローバルな人々の思いや行動をにじませる磁場となるわけです。ワード一つ一つが「石壁」に投げつけられるナイフのようにザクッとささってくる、秀逸な一作として読みました。

優良2.  もなか/ゆくえ 

コーリャさんが書かれていますが、作者の技量を余すところなく感じさせる秀作だと思います。光というメタファーが中心をつらぬく視覚的な作品ですが、作者の主体性や実在性は現前せず、読者にそれを予感させる程度に留めてあり、結果、読者が詩作品の中に入り歩くことを許容しているのかなと思いました。ちょうど光のトンネルのように入って出る、そんな充足感のある作品。ビーレビ常連の弓巠さんと文体は近いですが、ともすれば指の間からこぼれ落ちてしまうフラジャイルな感覚が魅力の弓巠さんにくらべ、もなかさんは言葉を構築する手つきがよりクリスプかなあという印象です。全般、肯定的に評価します。

ひかり/開いたページの上に落ちる/読み上げることもない/文字の形に/舌を這わせ/みつめている/ずっと 一枚のガラスを隔てて/そこに広がる無音をながめる/ゆらめく擬似的な故郷は/きっと匂いが違う/のだろう

「読み上げる」「ながめる」などの言葉は、その行為の主体を予感させるわけですが、作品を通じて主体のプレゼンスが最後まで抑制されている。くわえて面白いのは視覚性の高い作品でありながら、大事なモチーフのひとつが、書かれたもの「テクスト」であるという点。比較として説得的かわかりませんが、ビーレビではカズさんや5or6さんなど、テクスト+イメージのコンセプチュアルな実験をしている作者が複数います。対照的にここでは作品内に「テクスト」のメタファーが横たわっており、けっきょくぜんぶ「ひとつ」なんだ。テクストもイメージもとどのつまり存在しない。存在するのは世界内のあらゆる事象を感受する書き手や読み手の流れるような思考なんだと。テクストとイメージの境界は絶対的なものではなく、つねに揺れ動くものであり、交渉可能である。仏教用語で言う諸行無常ということについてしばし考えました。

優良3. アラメルモ/蒐集家 

過去を集める男がいた。

死んだ人間の魂に魅入られていた。

ある時さざ波がやってきて

家ごと持ち去られてしまう

死んだ人間ばかり集めていたので、

男は生きる術を忘れていた。

ちょっと微妙ですが、この作品はあの座間の事件の10日ほど前に書かれているんですね。その意味で、このくだりはちょっと予兆的とも言えるのかもしれません。あの事件を発端としてツイッターを規制するか否かの議論が盛り上がりを見せ、インタビューを受けたツイッター社のトップが、ツイッターはSNSじゃない。匿名だからこそ巨大権力への抵抗も可能になる。ツイッターは名も無き人々の味方だ。 こんご匿名ユーザーを禁じたり、ツイートの内容に規制をかける方針は一切とらない、とコメントしていたのが印象的でした。ところで、ネット詩もツイッターと同様、もしくはそれ以上に匿名のメディアです。そしてこうした匿名メディアの一つであるビーレビ掲示板にその姿を垣間見させる「過去を集める男」という存在。しかし本作品では「過去」を集めるということと「死者」を集めるということが等符号で結ばれるように見えながらも、お互いに異なるニュアンスが活かされており、そこに興味深い読みしろがあるかなと感じました。

この作品の目玉は、中盤にでてくるキリコの絵から飛び出したような銀盤であることはほぼまちがいなく、この蜃気楼としか考えられない物体。しかし、そうした圧倒的なオーラを放つ銀盤も次の連では、そのオーラを剥ぎ取られ、バラバラに砕けた粗末な状態で犬の骨とともに持ち去られてしまいます。やはり過去を集め、死者を集める男はリアルとバーチャル(ワイヤード)に喩えられるような現実とファンタジーを生きるような存在なのでしょうか。ネット詩掲示板「文学極道」(bungoku.jp)創設者のダーザインは、ワイヤード(インターネット)に接続することで詩人は新たな生命を得るというニュアンスのことを書いています。しかし当然のことながら人間の生には限りがある。そして決定的に重要なのは、過去ログの集積で成り立つワイヤード空間というものは、実は「未来」についてはなにひとつ教えてくれない。人間の生が有限であるという避けがたい事実さえも。銀盤がワイヤードの比喩だとすれば「過去」に幽閉された男という存在は過去「ログ」に幽閉されているという、また別の意味を持ってくるのかも知れません。

優良4. 湯煙/ミネラルショップの片隅で。 

この作品、前半部分の描写や、作品全体を貫く随想はは素晴らしいんですね。しかし、「き

こえというものが鈍かったらしい。」というフレーズからはじまる、個人的な聴力障害の話に移るトランジッションにちょっと難ありな気がします。最初ダーッと流して読んだときは話の流れが理解できませんでした。

冒頭の「色とりどりの美しい鉱物や、原始の姿をとどめたまま悠久の時に身をあずける太古の化石類を所狭しと陳列した、街のミネラルショップ」というフレーズが、読者をショップの店内へとぐいっと引き込むわけです。そこに「鯨の耳石」に関する優れた描写が続いていくのですが、太古の化石類の叙述があまりにも具体的で、多くの読者はここで言及される「鯨」というメタファーに気づかずに通りすぎてしまうのではないだろうか。一連目では「鯨」はあくまで数多く陳列されたミネラルの名前でしかないわけですから。

要約すると鯨=聴覚という流れと、ミネラルショップの描写が両方とも際立っていて、それが、鯨→聴覚にまつわる個人的な逸話という流れを見えにくくしている印象。詩は論文じゃないのでこうした分析が不要というなら、単に「詰め込みすぎ」ていると言ったらいいでしょうか。秀作であるのは間違いないと思います。

花緒選 

優良1. り/いちにちの終わりのピカピカのポエジーのピカピカの終わりのいちにち

「コカコーラがいちばんカッコいい」この1行にやられた。コカコーラがいちばんカッコいいわけなど当然なく、一種の反語を繰り返しながら作品が編まれているのだろう。本作はとてもライトに書かれているように見えるが、その底流には、諦念が流れている。詩人という人間がいちどきに800人も集まるならば、詩人という存在も、ある種のマスプロダクトと化しているだろう。たべるものが無い/代わりにガリガリけずって/それでも生きてるって血だらけで立った/、本当にそんな人間が現代の日本に現存しているのだろうか。コカコーラがいちばんカッコいいわけではないが、大量生産・大量消費社会に組み込まれざるを得ない。もはや、社会に染まらず、血だらけで<なま>のまま生きられる人間はいない。神もいない。そんな世界でも、なぜかポエジーだけはある。諦念をベースに世界を肯定することで、詩への肯定が立ち上がっている。

優良2.  桐ヶ谷忍/「アゲハの水葬」

正統的かつレベルの高い作品だと思う。文章も切り詰められていて、途中で聖書の一節を挿入する構成が相当に上手い。波紋一つない湖面と青い空という組み合わせが、本作に多様な読みを可能とする深みを齎している。アゲハの沈む湖面が、新しい空と呼称され、死ぬことが、新しく生きることに反転する。飛ぶことと、沈むことの鏡像関係に何を読み取るのか、それは読者に託されていて、作品に広がりがある。生と死とが反転する詩行に美的なものを感じる。

優良3.  Survof /意味はない

脱構築的センスの強いループ詩。これは私が書きたかったなと悔しく思った。単に意味はない、とループし、脱構築しているだけでなく、どもっているかのような書き方が面白い。意味がない、という意味を発すること、がどもっていて、本来の意味に到達せず、意味がない、と書いたことにはならない。どもる、という身体性によって、書いた意味が、書いた意味にならず、<書いた意味>と<書いた意味にならなかった意味>との差異だけが辛うじて浮かび上がるという構造を内包する本作からは、意味、ではなく身体性の痕跡だけが感得される。単なる言葉遊びと見る向きもあるかもしれないが、ポエジーとは何か、詩とは何か、という問いに対して、新しい解答を提示せんとする一作ではないか。

優良4. 田中ジョヴァンニ/ゴースト 前編 後編

「実学を修めることのみが重要ではないと分かって欲しいだけなのだ」と、芸術への醒めた目線を持ちつつも、表現への憧れを捨てきれずにいる娘。その娘の表現への憧れが、単なるトラウマに端を発するものだったというオチの本作は、表現するということに対して、二重三重にシニカルな目線を内包している。作品形式も戯曲のスタイルであり、いわゆる書き物のそれではないが、

表現することへのシニカルな目線と、異端的な作品形態がうまくマッチしており、内容、形式の両面から、表現行為に疑義を投げかける作品となっている。その疑義の表明が文学的に表現されているのだから、この手の文学から距離のありそうに見える作品こそが、まさしく今の時代にふさわしい文学なのではないかと私には思えてならない。

百均選 

優良 ●fiorina/個展 

 凄くいい。山頭火の句そのものを見ただけでは、きっと何も分からない人もいると思う。僕は本作を読んで、なんだこの句はと思わされたと同時に、凄く心揺さぶられました。理由は大きく二つあります。花は「やっと」咲いたのである、そして、やっと咲いた花は「白い花」だったという事です。本作は山頭火の句との遭遇に触発された語り手の物語を展開させながら、山頭火の句を受けて自分の中で花開いた、あるいは遭遇した出来事を語っていく事によって、句の読解を提示していきます。もしくは語り手の文脈を、思いを接ぎ木する事によって解釈を展開していっています。この句をどうやって読んだらいいのか、あるいは感じたらいいのか、という事を考えた時にこの作品は、僕にとってはある種の個人的な感想から、詩的批評要素を孕んだ作品のように思えました。(この場合の「詩的」とは「飛躍」という成分を大きく孕んだという意味です。テクストそのものに纏わる文脈や、論理的な解釈そのものを排除した形での解釈です。)

> いつ、どこで受けたか定かでない疵を

>一身に負って

> 空に一番近いかなしみを咲かせて

かなしみを受けとめて、それを咲かせるまで育て上げる、そうして咲いた白い花は空に一番近い色をした白色であると説く、あるいは受け止めています。そこに至るまでの過程を描いています。そして、その過程をたどるための状況を、まず最初に提示していく手法を本作は取っています。語り手の目線(カメラ)は山頭火の句を映す所から始まり、ただの文字は知人の書家による一点物の句に変わります。更にその知人の書家から譲る事を断られ、あなたには(語り手には)「かなしみ」がないから譲らなかった。ように、これらの情報が連続して綴られた後で、

>(あなたはあなたの裡に

>  ただ一輪の

> 白い花を咲かせているか)

白い花が、かなしみにつながっていきます。そしてそのかなしみは日々の生活の中で感じるかなしさではなく、それこそ一点物の、たった一輪のかなしみにつながっていくのです。これだけのことを、まるで一枚の絵のような大きさの言葉でまとめあげている、その簡潔さに心を奪われます。とても好きだ。

優良 ●夏野ほたる/ミルキーデザイア 

今月多分凄く迷って優良に決めた作品かなぁ…なんつーか個人的にどうしようもなく好きなんですね。それだけです。なんで好きなのか書きたくないくらい好きです。

>ぬるま湯から顔だけだして楽しくなれたあの頃 怠惰なグラスに電流走ってぱきんとひび割れた日から騒がしくなった未来

>滑り落ちていく 宝石散りばめられた地獄の坂道

マジで今の自分みたいな感じですね。本当に、僕はネット詩で適当に遊んでた時は正にぬるま湯から顔だけだして楽しくなれたんです。そこからビーレビューに参加するようになって怠惰なグラスがひびが入っていって本当に毎日が非常に忙しくなり、その結果色々な人と出会って色々な事やりましたし、今だってものすごく沢山の事やらなくちゃいけなくなりました。でも元来僕は引きこもりで、一日中パソコンと向き合ってアニメ見てたいし、漫画読んでたい、ゲームしてたい歌歌いたい、そんでもって余った時間に詩とか書いてたいという気持ちも底にはあります。そういう人間からすると今の日々は宝石のちりばめられた毎日、それは可能性に満ちた日々や人との出会いに溢れているのですが、それが正に地獄の坂道で、僕は上るほうではなく止まれない方という意味で下り坂のイメージで地獄に向かって加速していく日々の情景に思えました。そういう追体験をもよおしてしまうような日々の描写に受け取れてしまう程に、僕にとっては適度な抽象化として受け取れました。

事実を事実として書きすぎてしまわない事のメリットは大きく一つで、それは色々な人間の事実になることが出来るという事です。具体から具体に置き換えるには究極的に映像を仕上げれば美しさとなって変換することができると思いますが(僕にとってのビジュアルの良さとはそういう解釈です)それを文字でやるなら抽象化して人の心の中に忍び込んで行かねばなりません。そしてこの場合僕にとっては凄く凝縮された自分の生活の情景として反映されました。 以下同様の読解を提示しても構わないのですが、した所で僕の生活をもろに反映しただけとなりますので、書きませんが、人の心を綺麗にトレースしていくような器としての機能を保持した作品に僕は思えました。しかしながら、このような作品はそういう風に読み手の心がある程度リンクしていかないと割と読めない節があるのではないかなという欠点はあると思います。そういう作品を僕は他に知っています。無論だから、ここでその名前を出してもしょうがないのですが。(その感慨は僕の中でしか表現できないからです) 詩の役割として読み手の心を代りに移す鏡となってくれる作品は僕は必要だと思いますし、そういう作品があったっていいと思います。読み手が感じている自分の心という液体を、あるいはその心がひび割れてしまってこぼれてしまうグラスな読み手のハートを受け止めるグラスとして、この詩はあるのではないでしょうか。

優良 ●宮田/偏に、例えられたとて

非常に語りにくい作品です。故に優良に推すのが本当に難しい作品だ。だからこそ推し甲斐のある作品だとも思います。だから選評を書く理由が、僕に生じる。

>それでも

>私は

>水を飲んだだけ

この作品の根本の精神は、僕はここだと思います。そしてこれ以上の物はないとも思います。そして、ここに描かれている事の多くはきっと無駄なのだとも思います。誰かを好きになって愛したり、愛された朝の事や猫の事を書いたってどうしようもないのだ。それらを比喩として喩えたところで、何かを託した所で、だからどうしたんだ。「偏に、例えられたとて」どうなるんだ。私はただ水を飲んだだけだ。でも、それでもこの作品があり、僕の前に提示され、僕はそれを読み、何かどうにもならない気配を感じながらも、優良としてこの作品を示そうとしている事。そこにきっと意義はあると僕は思います。そこに描かれた間隙に僕は用事があり、そういう物を求めて僕はここにいます。なぜなら、そういう言葉に僕は会いたいからです。

>笑止

>アホみたいに柔らかな体が欲しい

>誰も見てないので無理くりストレッチ

>届くはずのない場所

(中略)

>黒猫がじゃれてくる

>今晩に日記をつける

>とてもとても丸い字

>日が暮れててマスクを外す

>今日、何も食べていない

>キュウリを薄く切り塩もみ

>ディジョンマスタードとポマードバター

>猫に毒見

>一緒に眠る

>夢でテーブルサッカー

>ドライトマトとアンチョビでいためただだちゃ豆

>鳩が朝、恋人を連れてくる

>私ははだか

>心地よいリネンを纏って

最終連に描かれた淡々とした日常の描写、そこにはただ日常があるだけで、それ以上の情報はありません。ただ、たったひとつ描かれた「心地よいリネンを纏って」その一文字を除いて。そこに、詩の鉱脈があるのです。最後に刻まれた感慨がたった一杯の水を心地よい想像に、町を水浸しにして流してしまう洪水になる事を、この詩は提示してくれます。そこに何かしらの確かなメッセージがあるわけではありません。喩えられたストレッチの届かない先に、語り手の心という視線があるという事を提示するだけ、たったそれだけの幸福が、そこにあるように提示されるだけです。圧倒的だ。

優良 ●るるりら/がうでぃでぃ 

>眼下にあるのは唐戸市場ではない

>関門海峡でもなかった あらゆる物と物をつなぐカテナリー

>がうでぃな おじぃちゃんのポエジィ

>わたしの手にわたされた お魚のタイルは 遠い がうでぃに つづいている

僕はここで決めました。とても緩やかな、韻と意味の踏み方、そして接続。るるりらさんの作品は僕にとっては読む速度が凄くゆっくりな作品で、それは作品の持つ文体の速度そのものだけではなく、丁寧に書き分けられた一文字の空白というのもあります。本当に凄く好きです。

>街にもあるかもしれない 東急ハンズにもあるかもしれない ぽぇじぃ

>いえいえ どこかにあるのではなく わたしの胸板から うまれくる森の種が銀色

ぽぇじぃはどこかにあるのではなく、わたしの胸板からうまれてくるんだ。しかもうまれてくる物は森の種なんだ。人の思いは森の種になれるんだ。しかも色は銀色。それは森でありながら、魚のうろことなって、海をも巡る事ができるんだよという。すさまじいアンサー。正にこの文章そのものが圧倒的なぽぇじぃに溢れている所からしても、説得力ありまくりでしょう。自分の感性に対して下らないと吐き捨てる事は多分だれにだって出来るでしょう。でも森の種から魚のうろこまでつなげてしまう。そこに「がうでぃ」までかぶせていく。天才にしか許されない訳じゃないんだ、ぽぇじぃはがうでぃという韻で繋がりながら、それは僕らを取り巻く森や海にありながら、そこに生きる蛙の声(るるる)でありながら、魚の群体でありながら、その中で、ピンヒールを履いて飛び跳ねる私でありながら、私は全てをつなげていくうろこみたいな放物線〈カテナリー〉となって、色々な夢を、ぽぇじぃを繋いでいく。 書を捨てて町に出ようではなく、町に出るまでもなくあなたの心の中にぽぇじぃはある。ぽえじぃはどこにでもつながっていける。それは誰であっても、あるいはどこであったとしても、その心があれば。という説得力をこの作品からもらいました。僕がそんな事言ったってしょうがないんですよ。この感慨はこの詩だから得ることが出来た。それ以上でもそれ以下でもない力が本作にあります。

まりも選

優良1.  もなか/ゆくえ 

ガラス越しに降る雪、凍蝶のイメージ。冒頭の「ひかり」の残響があいまって、白い光に包まれた空間の中に閉じ込められていくような前半が、中盤でガラス越しに新生児を見守る若い母の視点にスライドしていく(ように読める)。さらに、全体を1冊の本に封じ込めるような終盤。冒頭の「ひかり」は、実際の光のイメージを喚起しつつ、人名として置かれているとも読める。あえて曖昧さを残し、静けさや冷たさ、明るさ、はかなさといった質感を喚起しつつ、ひかり、という表題を持つ本を閉じるイメージとして全体の円環を完結させる手際も鮮やか。ひとつの言葉が多層的な意味の構造を持つがゆえに、情感としての統一感の完成度に比して、意味の流れが錯綜し(あるいは意図的にひとつの物語に集約されることを拒み)、いくつもの物語の中に、読者が中途で取り残

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