B-REVIEW旧サイト記事

こちらでは創設者天才詩人以外の過去記事を置いておきます。

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  • 04/01編集されました

    (2016/09)文責:花緒氏
    コーリャ×花緒 トランス・レイブ・文学極道

    こんにちわ。新参者の花緒です。bungokureviewは私がのっとりました。

    とりあえず、私とコーリャさんとの「雑談なう」をアップロードした上で、参考文献のURLを下記の通り貼っておきました。トーク時間はかなりの長尺ですが、一種のアンビエント音楽として、消費されることを願っています。私のマイクの音量が妙に大きい設定になってしまっていたこと、私のべしゃりがショボすぎたことを主因として、あまり良いラジオ放送にはなっていない気もしますが、なんでも最初はそんなもの。私はストロングハートなので、全然、気にしません。

    さて、「雑談なう」ですが、常に出演者募集中です。アンチレイシズム。どんな人間でもかまいません。人間性、詩作能力、文学極道での投稿歴、なんにもかまいません。私が1回目のゲストなんですから、あなたが出たってかまわないのです。第1回目ゲストのわたしのべしゃりがシャビーだったので、すでに出演へのハードルは下がりすぎるくらいに下がっています。出演されたい方は、適宜の方法で私にアピールしてください。あなたの出演をお待ちしております。

    その1

    その2

    その3

    その4

    その5

    参考文献は下記のとおり。

    「なぞる」 花緒

    http://bungoku.jp/ebbs/log.cgi?file=481;uniqid=20160718_165_8974p#20160718_165_8974p

    「態度の悪い少女」蛾蝶ボルカ

    http://bungoku.jp/ebbs/log.cgi?file=479;uniqid=20160706_526_8941p#20160706_526_8941p

    「突風」 鮎
    http://bungoku.jp/ebbs/log.cgi?file=481;uniqid=20160711_687_8949p#20160711_687_8949p

    「さよならにはんたい」  ぎんじょうかもめ

    http://bungoku.jp/ebbs/pastlog/224.html#20100607_199_4453p

    「永久圏外」  美裏

    http://bungoku.jp/ebbs/pastlog/254.html#20110303_782_5051p

  • 2ちゃんねる系匿名掲示板に潜在する詩の可能性たち
    (2017/06 祝儀敷)

    こんにちは、祝儀敷です。この度当ブログへの記事投稿をさせてもらえることになりました。これからぼちぼち書いていこうかと思います。今回はとりあえず小手調べとして一つ書いてみます。

    いきなりだが、実は私はたまにおーぷん2ちゃんねるのなんでも実況J版に現代詩のスレッドを、それも時には名前を晒して立てることがある。
    以下その例
    「ちょいと俺の詩を読んでみてくれよ」
    「ちょいっと俺の詩を読んでくれよ」
    「ちょおいっと俺の詩を読んでみてくれ」
    「お前らの詩を書いて読ませろよ」

    「おーぷん2ちゃんねる」とは詳しくはリンク先を読んでもらいたいが、つまりは日本最大の匿名掲示板「2ちゃんねる」のクローンサイトである。まぁほぼ同じものと思ってもらえればよい。
    なぜそんなことをしているかの理由を要約すれば

    • 単純に自分の書いた詩を読んでもらいたいため
    • 普段詩を読まない層に読んでもらい、恒常的な詩読みとは違う視点からの感想が欲しかったため
    • 現代のネットカルチャーに精通した層にもウケる詩をいつか確立したいと考えていて、その前段階として現在の作品はそういった層にはどう映るのかを見るため

    となる。本家の2ちゃんねるでなくクローンサイトを利用したのは、後にできたサイトである分おーぷん2ちゃんねるの「おんJ」のほうが2ちゃんねるの「なんJ」よりも利用者層が比較的若いからである。
    そして以上の動機を遂行している中で新たに加わったものとして

    • おんJの利用者(おんJ民)がこちらに寄こしてくる詩が思った以上にハイレベルでそれを読みたいため

    がある。この4つ目の理由が本記事の肝である。

    「俺の詩を読んでみてくれ」と言って見せてれば当然ほかの人らも見せてくるのが道理である。実際おんJ民はその通りにしてきた。しかし彼らは当然ながら恒常的な詩書きではないので詩のストックがあるわけではない。そのため恐らく相当軽い気持ちでその場にて即興で詩を書き、そしてそれを掲示場にレスしてきた。そう書くとただただふざけただけのものだと誤解されてしまいそうだが、まぁとりあえず現物を見てもらおう。

    「ちょいと俺の詩を読んでみてくれよ」の53レス目の作品

    夜に雪の降る中で 少女を見た
    彼女は微笑みをたたえたまま
    おもむろにドリル(※1)を取り出した

    激しい金属音(※2)が 冬の街に谺響する
    都会に珍しく積もった雪は
    瞬く間に溶けて消えていく

    金属音が止み彼女がこちらを一瞥した
    ぺこり、と頭を下げる様子は
    若干の幼さまでも感じさせた

    雪はいつの間にか止んでいた
    彼女は何処へかに消えてしまっていた
    私はふと思った

    彼女のように可憐な少女に
    私のだらしねぇケツの穴をかっぽじってもらったら
    どれだけ気持ちいいのだろうか、と

    これに対して私がその時に書いたレスは以下の通りである。

    これの出典をワイは知らんけど、シチュ的には雪や少女の可憐さ柔らかさとドリルの剛直さの対称は良い
    そして最後の詩中主体が性的なことを述べることによって、途中までの読感が一気に変化する
    まだまだ改変の余地があるがよい詩になる可能性を秘めた散文だ

    ※ 注釈印があるのに注釈文がなかったのでどこからかコピペしてきたものだと私はその時思判断したのだ。
    それに対しての返信がこれであった。

    うせやろ
    アイマスの雪歩にケツ穴ほじほじしてほしいってだけやぞ

    (※1) (ワイにドリルについての知識は)ないです
    (※2) ドリルでなってる音をイメージしてるけど見たことないからホントになるのかどうかはしらん

    平均的な2ちゃんねらーと言うべきか、お上品ではない発想からの詩であった。しかしんなこたぁどうだっていい。語るべきなのは2ちゃんねるからこのように上質な詩がポンと現れたという事実だ。
    なお、後に53氏は私の勧めでこの詩に「雪と少女」という題をつけ「Jupiterから来たンゴ」というHNで文学極道に投稿、そしてその作品は月間の佳作に選ばれた。恒常的な詩書きに匹敵する力量を56氏は持っていたということだ。

    ほかにもいくつか作品を挙げていこう。

    「ちょおいっと俺の詩を読んでみてくれ」の56レス目

    ありがとう俺のチキンクリスピー
    赤ちゃんを運ぶ
    俺のだし車は車輪が燃えている
    俺はそれでタバコをつける
    たあこをふかしながら富士山の奥深くで

    まってるんだ

    体育座りをして

    「お前らの詩を書いて読ませろよ」の133レス目

    君はもう忘れてしまったろうけど
    僕はあの日の
    夕暮れの空に
    たなびく工場の煙突の
    煙の形まではっきりと覚えているよ
    あの日ぼくらは手話を覚えたてのオランウータンのように
    ぎこちなく互いの存在を確かめ合ったね
    なにかキメたでしょ
    あれほど薬だけはだめだって言ったのに
    おめーのバカさ加減にゃ父ちゃん情けなくってうんこ出てくらぁ!
    ぶりっ!
    うんことか言って喜んでる僕は精神年齢低いんでしょうか

    「お前らの詩を書いて読ませろよ」の176レス目

    グレーの蝶が飛んでいた
    エロスを感じさせる曲線は
    1瞬1瞬を見逃すなと言いたげに
    死んだぼくに語りかける
    んんっと咳払いをして
    だれかに呼ばれた振りをする
    ンンッと知らんぷりをして
    ゴッホのひまわりが僕をにらんだ

    「お前らの詩を書いて読ませろよ」の255レス目

    赤い林檎をかじった君の
    やわらかで細い火照った指先
    黄色い花がぽつりと咲いていた
    かわいらしさを少し羨むのは
    青くてすっぱい未熟な香り
    紺色の影がすらりと伸びて
    君の瞳が紫に光った
    雨上がり、のろまな水滴はほんのり落ちて
    ごくごくうっすら虹がかかった

    他にも、表現がブログに載せるには憚られるものであるが詩としての質が高いものなどもあるので是非本スレを参照してほしい。

    白鳥省吾など日本近代の民衆派詩人はその運動の中で労働者や日常生活を詩の題材にするだけでなく、農民など非文化層による詩作を積極的に取り上げていった。それは民主主義的思想からの行動であったのかもしれないが、それと同時に、彼らはそれまで全く顧みられてこなかったところから思いがけずも傑作を発見し驚愕したからあろうとも思う。
    偶然の結果であることを自身の手柄の如くのたまうようで恐縮だが、私も民衆派詩人たちと同じように詩作とは縁のなかった人々の中から才能を見出す形となっている。民衆派詩人がしたであろう驚きを私自身もしている。実際私は以前からネットのコピペやカッスレ(プロ野球の小笠原道大選手でなく「巨人小笠原」が不条理な世界観の中で暴れる様を様式に沿って書くネタスレのこと。いかなるブラックジョークも許容できるなら一読の価値あり。→傑作選)などでの言語表現の妙、そしてそれを生み出すネット掲示板という土壌には注目していたが、しかしまさか自分が立てたスレッドからそういったものが出てくるとは思わなかった。
    さらにただ詩として優れているのではない。「超えちゃいけないラインなんぞスタートラインみたいなもんや」のアスキーアートが表すよう良識に下痢便ぶっかけるような奴らが書く詩々はあけすけとした本能とユーモアにあふれたている。それは文学者然とした輩には決して書けない、劇薬に近く、とても刺激的な代物だ。

    しかし一方で、2ちゃんねるから詩の才能が垣間見えたのは必然のことだとも思う。2000年初頭に詩板で活躍したシバン派と呼ばれる詩人の中には現在も活躍しているものもいるし、文学極道を立ち上げたダーザイン氏は2ちゃんねるより以前のあめぞう掲示板出身ではないか。無論まだアングラ気質であった当時のインターネットと、国民の常識へと変わった現在のインターネットとを同列には語れないが、詩を育みやすい性質までは変わり果ててはいないのかもしれない。

    兎にも角にも素晴らしいものに出会ってしまった以上、私は以降も2ちゃんねらーに接触し詩を書くよう促していきたいと思っている。欲を言えばJupiterから来たンゴ氏のように実際にネット詩の掲示板に投稿をしてもらいたいし、さらに欲言えばそのまま詩作を続けて詩人になってほしい。またこれは時間や資金の問題があるためできるかはまだ全く判断つかないが、おんJに投稿された詩群のまとめサイトを作ったり、詩誌に編集して発行したいとも思っている。(現在本家の2ちゃんねるのほうでは板の多くが転載禁止となっているが、おーぷんは投稿されたものは全て著作権が放棄されパブリックドメインとなる。詩誌案は偶然なんJでなくおんJでスレを立てていたからこそできるものだ。私は幸運である)

    ここ最近バズっている(大量にリツイートを受けている)ツイートに以下のようなものがある。

    日本人は世界一ダンスをしない民族といわれているけれど、結婚式や忘年会の余興から会社のプロモーション動画や授業のプログラムにいたるまでやたらと従業員や学生を踊らせたがる。踊ることへの歪んだ理解がある。必要なのは強制ではない個人が抑揚した時に自然と踊ることとそれを許す空気ではないか。

    ※ 元ツイート
    この記事を書いていて今思うのは、日本ないし東アジアは「ダンスをしない」ではなく「ダンスの位置に詩歌がある」ではないだろうかということだ。私が述べるまでもなく、日本や中国では祝いの席などで連歌など、古来より詩歌が親しまれてきた。またそういった特別な場でなくとも、現在でも地方の公民館では詩歌のワークショップが催されたり、お茶には俳句が載ってその他でもサラリーマン川柳なりなんなりが行われている。海外の人らが生活の中でダンスを嗜むよう東アジア人は生活の中で詩歌を嗜んでいるのだろう。第一、日曜6時のゴールデンタイムに「友蔵 こころの俳句」「たまえ 心のポエム」とギャグとしてだとしても詩歌がうたわれる国(しかも子供向けアニメで!)なんて他にはそうそう無いだろう。
    日本語文化圏の人々はそういった詩歌の歴史の中にいる。

    今昔巡れどもいつの時代も恒常的な詩書きの社会は狭く小さいものだ。コミュニティが小さければそれだけそこから生まれてくるものは狭まる。血が濃くなるのは何に関してもいけねぇ。散々言われていることだが、現代詩のフィールド(≒詩壇。詩壇っていうとやっぱどうしても紙媒体偏重でネット詩は含まれていないニュアンスを感じるので私はフィールドのほうを使う)のこの悲惨な現状はひとえに史上最高に詩の読者そして詩がカバーする範囲が狭いことに起因する。詩の享受者が居ないということは書いても読まれない報われないというだけでなく、そこから出てくる詩自体にも悪影響を与える。
    逆に言えば内輪内輪な状態の時こそ、その外側に驚きの存在がひょいと居たりするものである。革命家は外からやってくる。キューバ革命を指導したチェ・ゲバラはアルゼンチンの裕福な家庭の子であった。上に書いたように、このネット詩が展開されている日本語文化圏は詩歌には恵まれた歴史を持つ。だから決して詩が読まれることが叶わない土壌では無いのだ。ただナニカが未だ上手くいってないだけだ。悲惨な今だからこそ、それを打破する鍵はどこかに必ず存在している。
    発起人さんたちの述べていることを聞く限り、B-REVIEWは今まさに詩のフィールドを広げんと準備をしている最中のようだ。非常に素晴らしい。ビーレビは若いサイトだ。人間と同じように集団も若けりゃ若いほうが活発に動ける。もとこさんがインタビューで述べているよう、ここは力が滾っている。活力は何にも勝る資本だ。フィールドの拡張はネット詩ではビーレビがやるのが適任であり、そしてビーレビが真価を発揮するために最も重要視すべき事柄だろう。私がこう態々書かなくても発起人さんたちはそうしてくれるだろうから安心だ。
    おんJがそうであったように、この世にはまだまだ詩の可能性が潜在しているはず。そういったものを発掘するには今のカバー範囲では足りない、活力を以て新天地へ繰り出していかなくてはならない。しかしそれを成せれば、かつてない感性・方向性を持った詩人が流入してきて現代詩のフィールドは潤うであろう。期待おっぴろげて絶妙にその時へ向かっていこうではないか。

    ケムリ氏は文学極道内のコラム「「現代詩」から「読まれるもの」へ」で「文学極道が目指すのは、「読まれる詩」だ。「ねぇ、読んだ?~さんの新作、イイよねぇ」なんて女子高生が列車の中で語るような詩だ。」と書いている。しかし私はさらに、小学生が「ある貧血~森のな浣腸~熊さんニンニク~出会っタンコブ~」と替え歌をしてゲラゲラ笑う、それぐらいの位置までも詩がカバーできたら素敵だなと夢想しよう。そういった思い等についても次回の記事では触れていくかもしれない。就活やんねくちゃいけねぇけどさ。いい加減そっちにまた本腰いれなきゃいけねんだけど、詩のほうにやっぱどうしても気が行ってしまうんだよね。では。

  • (2016/11 文責花緒氏)

    雑談なう(11月)

    コーリャ&花緒による11月度の雑談なうです。よろしくお願いします。

    雑談なう①(優良作について語る)

    雑談なう②(お互いの自作についての馴れ合いトーク)

    雑談なう③(B-REVIEWについて、そして単なる雑談)

     

    参考

    9月の優良作 のうち

    今回は

    水鏡 – 桐ヶ谷忍

    加筆修正と読者と海より広い本屋のために – 泥棒

    BACK TO THE ACID PLANET – 花緒

    2010年を、すくうため – Kolya

    について、語っています。

    *なお、花緒は間違えて、桐ヶ谷さんを、《きりがたに》さんと発音しておりますが、正しくは《きりがや》さんです。この場にて、謝罪して訂正いたします。大変失礼をいたしました。

  • (2016/09 文責kolya)

     

    • やあ、コーリャだ。bungokureviewを乗っ取った。これから好き勝手に録音してここにアップロードしてやろうという魂胆だ。

    弁解なう

    #1


    #2

    コーリャだ。人種的マイノリティーであるがゆえ毎日差別を受け、そのコンプレックスが内攻しすぎたあまり、白人を見れば呪い、ムスリムを見ればテロリストだと誹り、インディジナスを見れば唾を吐き捨てる、超絶極悪非道餓鬼畜生文学極道コーリャだ。嘘だ。そんなことないですよ。その反対です。Take it easy mate.日本人なんてまともなやつなら、立ってるだけで好かれます。クレイジーなやつならもっと好かれるかもしれない。そんな恵まれた、たぶん逆差別みたいな環境のなかで、キレイゴトを信じて、😎楽しく、幸せにやってます。サンキュー、アデレード。フォーエバー、アデレード。


    多民族国家と差別

    ところで、英語で、差別って言葉はdiscriminationにあたるかと思いますが、この英単語は、ソ連の経済的敗北から、冷戦構造と呼ばれた国際関係が解体、再編成されるのを旗振りした、Liberalismの禁句でした。

     

    (Fatboy Slim – Don’t Let The Man Get You Down) 冒頭で黒人の少年に F*ing blackと吐き捨てるracistのDon

    アメリカは自国主導による再編とその利益の回収のストラテジーとして、世界全体の市場を開かせ、ひとつのwholisticなゲームにしてしまうよう仕向け、その素地となるべきコンセンサスを西洋諸国に広めました。もちろん、ドメスティックな要因として、公民権運動の高まりなどがありましたが、例えばリンカーンがいいひとで差別をしなかったからではなく、ごく経済的な打算から、奴隷解放を推進したように、差別という言葉は、ごく経済的なinterestによってバックアップされた概念だった、とも言えますが、それゆえに、建前では強く忌避され、まるで魔女のような扱いをうけ、discriminationが血統、人種のことになると、それは、racism 人種差別主義、となり、レイシストはまるで火にあぶられても文句は言えない。というふうな一般の常識を1990年代以降の、英語圏、アメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド etc..に一応は(建前として)植え付けるに至るのでした。

    僕は、その風潮がすっかり定着しきったような2000年代に、日本では中学校二年から高校三年にあたる期間、地元のハイスクールに就学していました。比較的人種のバラエティがある学校だったということもありますが、たとえばクラスなどで、日本人だからといって差別を受けた経験は幸福なことにほとんどありませんし、日本人として後ろめたかったことなんて全然ありません。むしろどこか誇りのようにも思っていました。みんな仲良くしてくれたし、どっちかっていうと😎人気でした。これは僕個人の特性というより、僕が日本人だった、ということが大きかったと思います。彼らの多くは、たとえば毎朝、英語に吹き替えられた、サトシならぬAshが活躍するPokémonを、リビングで朝食をとりながら観てから、学校にバスなり、車なりに乗せてもらって通学するのでした。そして家に帰れば、クリスマスにやっと買ってもらったPS2でOnimushaや、Final Fantasyで遊ぶのでした。あそこの謎がどうしてもとけない?あいつにきけばいい。僕の学年はたぶん200人くらいが在籍してたと思いますが、日本人は僕一人だったし、そんなところでは、日本的常識があるというだけで、ずいぶんありがたがられました。大人になって社会にでても、だいたいそんな風です。車が好きなんだ。とかアニメとか、サムライだとか。知らない人はぜんぜん知らないけれど。外国にいると、腐るほどお前はどこの国から来たと聞かれますが、日本、というと、みんな、満更でもない、みたいな顔をします。これは日本の戦後のプロダクトやサービスの結果だなあと思う次第です。伝統の資本主義的発現の恩恵とも言えるでしょうか。

    ただし、もちろん人種差別はなくなりませんし、あの時にもありました、オーストラリアでは南ヨーロッパの人間たちへの蔑称としてWogという差別用語があります。これは僕の州のパーセンテージだと、主に、イタリア人、ギリシャ人、レバノン人のことを指していいます。肌が白同士でもそうです。なんでもドイツ系移民は、大戦中はたいへんな迫害にあい、山間部に移らざるをえない状況だったそうで、いまでも、山のほうには押し込まれたようにドイツ系の子孫が多く住んでいます。そしてraceによる争いはむしろ、昨今、激化してるような様相もあります。ISILの事変の影響をうけて起こった、ハンガリーやイタリアのポピュリズムの隆盛、ヨーロッパ諸国、アメリカなどのひとびとの意見の右傾化は、差別という言葉のタブーがだんだん解かれていくようです。イスラム教徒は絶対に入れるなと、イスラーム世界に対して無知な大半はステレオタイプからただ恐怖していいます。その恐怖自体がどうして差別じゃないでしょうか。

    僕が言いたかったのは、僕はそういう状況の差異を生きているよ、ということです。日本は日本の状況があり。オーストラリアではオーストラリアのそれがある。そうだな、差別というよりは、差異のことをいつも話したいんです。たしかに人種としてはマイノリティーであり、人口の大半をしめるイギリスの子孫たちの、常識とはちがうことがたくさんあります。それは愉快な時もあれば、そうでないときもある。ただ違うものはとても違うということ。そしてその違いが多民族国家を形成していくということ。もっと公平にいおうとするなら、イギリス系だけでなく、ありとあらゆる、たとえば、インドネシアの伝統、スペインの伝統、ロシアの伝統、コロンビアの伝統を、おのおのが領分として持ち寄って生活していて、そのゆるやかな集合で社会ができているということです。それぞれの伝統の視線が、僕を見ます。それと同じように僕は日本的な伝統の視線をもって、彼らを見ます。僕個人としてはその複雑な混交のなかのひとりとして、満足して社会に参与しています。そこでなるべく自分の能力をもって真面目に奉仕できたら、そんなに幸せなことはないと思って生きてます。ようこそ、難しいことはtake it easy mate ですべて片付けるオーストラリアンライフへ。前の首相がオーストラリアはmulticulturalism 他民族主義のもっとも成功した例のひとつであると言いました。それはもちろん自己礼賛チックなプロパガンダですが、まるっきり無根拠なことでもありません。Diversity 多様性という考えは、プラグマティックな視点からは、マスの力を信じるキーワードです。そのオーストラリアの綺麗事がどれだけリアライズしていくいか。それはこの国の歴史がこの先ゆっくりと証明していくことでしょう。それを体感するのは僕の喜びだし大変興味のあるところです。はは、我ながらプロテスタントみたいな言い回しだな。でもそういう気持ちです。

    <

    p>友達や知人にはいろんなバックグラウンドのやつがいます、ちょっとした万国博覧会です。僕はそいつらをその国から来てるという理由では嫌えないし、人間の有様っていうのが、そういう人種だとか血だとかの先天的なものだけで決定されるとも思えない。どこにいこうと要は心っすよ。真心っす。うっす。違うってことは豊かということだしおもしろいということなので、そういうことを徐々に伝えられたらいいなと思う所存です。うっす。

  • (2017/03 文責 三浦果実)
    『世紀末が終わらなかったから詩を再開しました 』

    掲示板がスタートして30日が過ぎた。
    掲示板に投稿をされているユーザーから生の意見をお聴きすること。今、一番大事なことなのではないかと、ふと思い立ち、もとこ氏へインタビューを申し入れさせていただいた。発起人への参加もそうだけれども、私は、思い立つとなーんも考えずにやってしまうタチなのだ。もとこさん、御付き合いいただきまして、誠に有難う御座いました。では、読者の皆さん、どうぞ。(ネット詩の歴史を参照する、という意味でも貴重なインタビューです)

    ―もとこさんが、そもそも、B-REVを知ったきっかけはなんだったのでしょうか?ネット詩への関わり始められた経緯も含めてお聞かせいただけますでしょうか。

    もとこ:確か2月8日にコーリャさんが、花緒さんの「今夜からB-REVIEW始動だよー」というツイートをRTしていて、それを見たのが最初だったはずです。その数日前から、コーリャさん自身もB-REVIEWのサイト画像だけのツイートをしていたはずですが、その時には何のことやらさっぱりわかりませんでした。その時はちょうど酔っ払っていたので、「よーし、久しぶり『もとこ』で何か書いてみるか」と勢いで「彷徨」を書いて、翌日に投稿しました。

    1999年の7月に人類が滅亡するどころか長男が生まれたので、それをきっかけに20代から中断していた詩作を再開しました。そして2000年から詩誌への投稿を開始し、たまに掲載されていました。同時に作品をネット上に置くことを思いつき、自分で下手なタグを書いてHPを立ち上げました。その過程でネットニュースの存在を知り、詩のニュースグループである「fj.rec.poems」や「japan.poem」への書き込みを開始。作品への反応がすぐに返ってくるので、けっこう熱心にやっていました。ただし、当時の作品レベルは本当にひどいもので、大部分がゴミだったと思います。今も大部分がゴミですが。ほっとけや。そしてネットニュースの衰退に伴う数年の空白期間の後に、文学極道や現代詩フォーラムへの投稿を開始。過剰な馴れ合いや罵倒に飽きて遠ざかり、mixiの小規模な詩のコミュニティで雇われ管理人をやったり「あなパイ」で遊ばせてもらったりしてからTwitterへ移行。こんな感じで、常に受動的というか他の方が作ってくれた「場」で遊ばせてもらう感じです。

    ―B-REV、特に掲示板が、他のネット詩掲示板と明らかに異なるところなど、B-REVの掲示板について、率直な感想をお聞かせいただけますでしょうか。

    もとこ:スタッフの若いエネルギーが漲っている感じがします。とにかく新しいこと、面白いこと、詩を発展進化させていくことをやろうという熱意が感じられて、投稿作品を含めて私も刺激を受けています。私は学も金も才能もありませんが、出来る範囲で若い人たちを応援していきたいと思っています。足を引っ張っちゃったらごめんね。

    ―私は48歳です。もとこさんは、察するところ、私より年上か、ほぼ同年代の方かと思っております。発起人も含めて、参加者の多くは、10代~30代の方々です。その年下世代と「詩をもとにした交流」、もう少し踏み込んで云えば、ネット上での交流について、日常の現実世界での交流とは、少し違ったコミュニケーションがあるという風に私は思います。大雑把な質問になりますが、もとこさんは、それについて、何か思うところはありますか?

    もとこ:私は1963年生まれで還暦も目の前ですが、精神年齢は情けないくらい低いので若い世代から逆に学ぶことが多いですね。ネットと現実の落差に関しては、今は音声や画像を含めてネット上でやりとり出来るので昔ほど差があるとは思っていません。

    ―B-REVが提供するコンテンツが『詩作品を楽しむ場』と限定してしまうと、「詩を書く人」「詩を読む人」の拡がりが予想されず、懸念することとして、他の掲示板と同様、「閉鎖的な村社会」に陥ってしまう、と個人的には考えるところがあります。無論、掲示板の主体者は投稿者と読者であることは自明の事かもしれませんので、どうすることも出来ないかもしれません。また、「村社会」で何故悪い、という意見があっても、その理屈も理解します。しかし、「詩をもってしか成し得ない物事」があると、仮定した場合(私はあると思っております)、やはり、詩が好きになる人口を増やしていきたいと願うのです。(その願う理由については、ごめんなさい。ここで開示するには字数オーバーになってしまい・・)先の質問と同じく、少しまとまりの無い質問ですが、もとこさんは、これについては、いかがでしょうか?

    もとこ:詩を書くこと、詩を読んで批評すること、それぞれのモチベーションの維持が重要だと思います。数年前にヤマハが期間限定で、歌詞を入力して複数のコードパターンや演奏パターンを選ぶと自動的に作曲してボーカロイドに歌わせた曲が生成される「ボカロネット」というサービスをやったことがありました。私は積極的に参加してイベントで何度か賞をもらったこともありますが、賞金とか賞品とか名誉というのは創作者にとって大きな原動力になると思います。賞金や賞品は無理でも、B-REVIEWで評価されることが名誉なこと、何らかのメリットのあることであるという認識が広まれば、参加者は増えていくと思います。それはとても難しいことで私自身も具体的なアイデアがあるわけではありませんが、例えばTwitterを利用して絵師やボカロ系作曲家などと交流して作品を作っていくとか、やり方は色々とあるのではないでしょうか。

  • (2017/04 文責三浦果実)
    『ブームとかそういう激しいものには怖気付いてしまうタイプなのですね、僕は!』

    昨年9月に文学極道と出会い、批評についての最初の学習材料のテキストとして、ある批評家から教えてもらったのが2012年に右肩さんが掲げられたトピック『こんな鑑賞ができたら面白いと思うのだけど』でした。それから半年。
    私は、今回、右肩さんへのインタビューを持って、これまで、学んできた勉強の結果、現在に思う「詩の批評について」という卒業試験を受けるべく、右肩さんへオファーを入れさせていただきました。

    ―「詩の未来」というテーマで、拙い私の質問ではありますが、よろしくお願いします。まず、最初の質問です。右肩さんは、そもそも、「新しい詩」という定義は成立するものだと考えていらっしゃいますでしょうか?私、三浦個人としては、詩とは「新しい古い」という定義付けは成立しないと、考えております。無論、読者個々人にとって、未知未見の作品であれば、新しいという位置付けはされるものかもしれませんが、私がここで意味します、詩とは、ロックミュージックで云うところのロックンロール、ブルースで云うところのソウルミュージックと同様、既に在るものだという認識です。文面ですと、お伝えすることが、もどかしい質問内容で恐縮ですが、これについてはいかがでしょうか。
    質問の理由としましては、詩作品の批評でよく用いられる「既視感がこの作品にはある」という意味合いー作風が古い、ありきたりーによるネガテイブな批判に疑問を持つからです。

    右肩:う~ん、僕は先生じゃないので卒業試験をする資格はありません。『こんな鑑賞が~』というのも、もともとは批評家的ポジションで掲示板のマウンティングみたいなことをする風潮への反発が書かせた部分が大きいのです。現代詩かくあるべし、っていう定義を誰かが独占して書かれた詩を右から左へ選別していくなんてナンセンスじゃないの?批評そのものが生まれ落ちた途端に相対化されて作品になる、っていう自覚はないのか?っていうことでした。
    僕はきちんと詩史を勉強しているわけではありませんので、狭い見聞の中だけで話していると言うことを前提にお聞き下さい。
    「新しい」というそのことだけが価値を持つ、という考え方があるのは、何だったっけ、現代美術の本を読む中で目にしています。コンセプチュアル・アートとかですね。絵が絵であることを離れ、何か新しい概念を持ち込むことで既成の枠を壊していく。発想だけが総てなので、最終的には作品制作は外注してアーティストは発想に特化したりする訳です。原理的に言えば、詩でもそういう考え方はありかな、と僕は思います。たとえば空をゆく雲の形の変化を刻一刻とツイートしていく。面白そうだけど手間が掛かるし、おおよそ何が書かれるかはわかっているので、誰か別の人に描いてもらうとか、ネットで同時多発的に同じ文体、文章力で一斉に描くイベントを仕掛けるとか。出てきそうじゃないですか?僕はやりませんけれど。文学極道の参加者、田中宏輔さんの引用詩も、新しいが単純な発想を、超絶的なセンスと集中力、筆力、博識とでもって実にフィジカルに形を成すまでやり遂げているわけです。彼はこの方法論を独占しようとはしていませんが、発想の新しさ、ということには強い自負を持っておられるようです。
    僕はそういう考え方や実践する人たちを尊敬してはいますが、「新しい」という概念そのものが陳腐化する危険をはらんでいると思います。どんな試みも過去に例があるじゃないか、という批判が必ずしも正当という訳ではなく、繰り返される新しさに感覚が鈍磨していくということ。あるいは新しい試みを探し続ける、という態度そのものがありきたりに堕しかねないということです。結局出来上がったものに読み手がどう反応するか、というところで「新しさ」の間に価値が分かれていくことになるはずです。そうなると「新しさ」は作品の本質ではなく属性のひとつに過ぎなくなりますね。
    では、「既視感」のある作品を延々と再生産し続けるという詩についてはどうでしょうか?既に言い古された内容を、既に言い古された言葉で再生産する意味は常に作者自身によって問い直されなければいけないでしょう。たとえば、


    朝、真っ赤な太陽が昇る
    この国に生きる人々に新しい一日がやってくる
    悩みに塗り込められた暗闇が終り、希望が勝利を収めるのだ
    さあ、顔を上げて歩み始めよう
    朝の光に輝く君の姿はもう王者の風格を持っている

    なんていう詩を今作ってみたんですけど、これを量産することにどんな意味があるのか。少しでもものを考える人であったら疑問に思うはずです。なぜ「朝日」が希望の象徴なのか?今日には思いも掛けない残酷な運命が待ち構えているかもしれないし、生物としての時間における生理的反応をそのまま自己の世界観に持ち込むという混同が理性的といえるか?そういうのは伝統的な定型なんだから疑問を挟む余地はない、と言えばその通りです。でも、そういう疑問を自分の中で処理できないまま言葉を紡ぐことは、僕には出来ません。それで満足している人を攻撃するつもりはないのです。今度触れたいと思いますが、たぶん詩史的には完全に乗り越えられている陳腐さ、拙劣さも堂々と主張できるのが「ネットポエム」、或いは「現代詩」の世界であると思うからです。これに否定的なのはあくまで僕のスタンスです。「既視感がこの作品にはある」という言葉が批評という強度を持つとも思えません。しかし、感想としてそれは当然あり得るだろうし、データを収集して語句や発想の使用頻度を証明できる部分もあるでしょう(AIにやらせれば苦もなくできそうですね)。既存の内容、既存の言葉、人々に受け入れられやすい感情を呼び覚ます構成、そうやって作られる詩の世界は、歌謡曲の歌詞と同じでシチュエーションと修辞法の変化で巧拙を競い合う場となっていき、「平凡だけど作者の真情に溢れる」という「既視感容認」の根本原理から逸脱していくことは目に見えています。「上手、下手」だけで価値が振り分けられ、コモディティ化したラブソングや人生応援歌がだらだらと消費され続けることになるわけです。極端な「新しさ」偏重の対極として、こちらにも大きな問題が残ります。
    つまり、僕の理屈では「新しさ」「古さ」を詩の価値と関連付けることは、詩の中心的テーマにはならない、ということになります。なんだか、力を込めて描いた割には当たり前のことしか言えていませんが。

    ―今回のインタビューのテーマ、そのものズバリなことでもありますが、詩と呼ばれるジャンルが衰退することは止まらないのではないかと考えます。これは、三浦個人の独断です。もしかしたら、5年前より、10年前より、発展してるぞ、とお叱りを受けるかもしれませんが。突飛な想像で恐縮ですが、ポエジーと呼ばれる(定義付けすることが難しい)ソウルフルなものは、「批評」に変異し、拡がるのではないかと、予想します。詩というジャンルが、ある特異点に達した時、そのポエジーを含有した批評には、マイノリティな現代アートや、インディーズ系マイナーミュージックシーンなどに埋もれる、「売れない良質なカルチャー」を浮上させるポテンシャルが「詩の批評」にはあると確信するのです。たかだか、半年程度ではありますが、私が詩の投稿掲示板で体験したことの結論として、「人に、なかなか、みえないモノを観させる力を与える技法・アート」が詩の批評には確かに在ると思い至りました。質問内容が長々となってしまい、すみません。これについてはいかがでしょうか?

    右肩:(僕は)俳句をやっていて、しばらくは俳句の月刊総合誌を定期購読していた時期もありました。第二芸術論の頃から言われているのですが、俳句は作者=読者であって、毎月膨大な数の俳句が誌面に掲載されているわけですね。何しろ短いから手を付けやすく、大新聞の俳句投句欄などには何万という句が寄せられています。「ぷればと」の俳句コーナーのブームがあり、俳句甲子園の定着があり、俳句人口の行く末はまだ当面悲観する必要がないようです。でも、そこで作られた「膨大な数の俳句」というのは、どんどん消え去っていきます。読んでいて、ああすごい句だな、と思う句は少なくありません。俳句のレベルは今が史上もっとも高い可能性だってあるわけです。でも、作っては捨てられ作っては捨てられして、いわゆる「名句」として残るものは作られる数に比べるとあまりに少ないのです。これはみんなが俳句の鑑賞の楽しみを知らないからだと思うのですよね。
    大体総合誌の時評欄などでは、いくつかの俳句が取り上げられた後、数行の批評が付いただけで終り。しかも、その内容はその句に良いか、悪いか、の物差しを当てることに大半の注意が向けられてしまっています。
    「この句は庭園の池の春爛漫の情緒を、蛙を直接読むのではなく、その飛び込む際の水音を描写することによって見事に描き出した。作者の安定した技量の確かさが生み出した今月の佳句。」
    みたいにして(これは「古池や」をモデルにして適当に書いたものです)適当に褒めて終り。後は作者が専門家であれば、年鑑の自選集に選んでそれで終わってしまいます。俳句について言いたいことを書くときりがないし、素養も乏しく偏っているので割愛しますが、俳句の表現というのはもの凄い密度で圧縮されているわけです。読み手はそれを鑑賞する過程で自分なりに解凍しているわけですが、この百人百様の解凍こそが実は俳句の魅力の半分を構成していると思うのです。すぐれた鑑賞者は「古池や」の句から、廃園の雑草の葉の、肉厚で僅かに濡れたさまや、その匂いまで再現するはずです。或いは飛び込む蛙の皮膚の色艶、触感まで。これに鑑賞者の主観が載って、その人の生活や生き方の一部がうかがい知れるような鑑賞文があったらとても面白いはずです。名句はそれとセットになって始めて名句になるのでは。勿論、鑑賞文は正しさを競うものではありませんから、それが複数あってそれぞれがまたその文の読み手を楽しませていくなら、俳句の可能性はさらに広がると思うのです。鑑賞が新たな鑑賞を触発することも当然あるでしょうし。
    もうおわかりだと思うのですが、現代詩にも同じことが言えると思います。一部の知的特権階級が解釈を独占し、互いに顔を見合わせて頷き合っているような批評では、その他の人たち(決して「大衆」ではありません)に参入の余地はないわけです。知的に突出した批評もあって良いし、言葉ひとつひとつに生理的に反応する鑑賞もあっていいし、その中身も多様でよいではありませんか。メディアのあり方そのものが多様化している現在では、詩の感想が音楽であってもビデオパフォーマンスであっても良いではないですか(僕はできません!)。それがまた作品として成立し、新たな鑑賞の対象となるのです。
    だから、僕が言っているのはカッコ書きで触れたように、先鋭化した表現を批評や鑑賞によって安易な「大衆的」理解に落とし込もうというのではありません。詩が書かれる動機の一つには、社会性の前に個体としてのローカルな感性を放棄し、批判なく既成の文脈、論脈に自己の体験を明け渡してしまう人種への強烈な抗議があると思うからです。個人的体験に潛む、条理不条理の渾然とした特殊性を覚醒させる。そういうための創作衝動というは自己承認欲求よりよほどピュアですよね(僕にはできてませんよ、ちなみに!)。
    売れる、売れないより、一端触れた人の心に火をつけるような、それが延焼を招くような環境がネットにできたら面白いな、と僕は思うのです。以上、長々述べましたが質問文の中で三浦さんが主張した内容の変奏としての回答になると思います。
    でね、三浦さんはもちろん、これを読む人はすでに気がついていると思うけど、今僕が述べたような批評、鑑賞の呼びかけというのも、「教育勅語」と同じような幻想的自閉性を持っているわけです。純粋な理念というものは少なからずみんなそうかも。こういうある種の行動を促すような檄文も、所詮現実化する側からコモデティとして社会的に消費されていくわけで、表現として真に実効性がある部分というのは、各個人の自閉的な内部幻想へと回帰していくニュアンス、そういう側面でしかありません。共有し難い部分を太らせて詩的表現を蛸壺に追い込む、という限りにおいて僕の言説はそれ自体ループするということを最後に付け足しておきます。

    ―詩のテーマとして、「新しい古い」ではなく、別のテーマー夢想過ぎるかもしれませんがムーブメントになりえるものがあるとすればーとして、一つ思うことがあります。それは、右肩さんの回答から得たヒントでもありますが、「社会性がある詩」が、もっと多数化しないかと考えるのです。政治的な立ち位置は別の事として、一昨年に一瞬、世間を騒がせた若者たち、シールズ。あの運動の熱のようなもの、あの熱気は共同幻想と云われるものだったかもしれませんが、私があの時に持った疑問、「なぜプロテストソングが流行らないのか?」ということを思いました。昔のチェルノブイリ、東海原発事故があった時には、有名どころのミュージシャンが、その意思表示を作品によってNOをみせた。たしかに、当時と今では、音楽業界も大量消費の終焉など、環境がまったく変わってしまってはいるのですが。しかし、大量消費されるカルチャーから個々の感性で選びとるカルチャーに変化した今だからこそ、個々が簡単に発信できる「プロテスト詩」が活きるのではないかと考えるのです。本当にこれは、夢想の域ですが、「詩とその批評精神みたいなもの」による、ムーブメントは、社会性を持てば、起こりえるのではないかと考えるんです。これについてはいかがでしょうか?もちろん、「ムーブメントを起こしてどうするのよ?」って云われると黙ってしまいますが(笑)でも、なんか、楽しくなると思うんです。閉鎖的な詩の界隈も。

    右肩:起こす……かもしれませんが、多分僕には無縁です。ブームとかそういう激しいものには怖気付いてしまうタイプなのですね、僕は!
    ただ、現代詩に求められる知識の質量の大きさに自分を引き比べて俯いてしまったり、コンプレックスの裏返しで過度に攻撃的な批評に走ったりすることなく、楽しく声を上げていけばそれでいいのではないでしょうか?何が書かれ、何が詩と称されようと、それを否定する権利は誰にもありません。どんな権威の持ち主であっても、現代詩で10万部を売って身を立てている人はいないのですから。知名度だってないでしょう?
    作品の否定は作者自身が、その内面においてのみ可能なのだと僕は思っています。ただし、作品も批評も読み手に受け容れる義務が生じる訳でもありません。その人にとってダメなものはダメなのです。ダメだと考えることと、作品の存在意義を否定することとは違います。
    もし、そういう相対化を皆が楽しめるようになったら、そこでムーブメントが起こり得るのではないでしょうか?大学教授と女子高生が一つの作品を挟んで、それぞれの立場から盛り上がるということですね。
    もっともこれはエヴァなどのアニメで当たり前になっているノリと言えなくもないですが……。

  • (2017/04 文責三浦果実)
    『詩は本来、女性的なもの、であるのかもしれません』

    へたくそであっても、詩を書くと、僕は、気分がいい。
    詩を書く行為、メンヘラについてなど、まりもさんにインタビューしました。

    —唐突な質問から始めますが、まりもさん御自身が創作された詩によって、その詩作品完成以前と以後で、自身の人生が、もしくは思考などが大きく変わったという体験はお持ちでしょうか?もし、差支えなければ、その体験をおきかせいただけないでしょうか。この質問の理由は、私が日頃、思索しております持論「女子が書く詩には必ず魔法が宿る」という意味不明な、この「ネット詩女子魔法論」について、まりもさんがこの思索・持論をどう思われるのか、極私的な気持ちがありまして。と言いますのも、この魔法論について女性の方からコメントを頂戴したことが無く。ですので、質問の理由が意味不明のうえでも結構です(笑)。この質問に思うところの、まりもさんの回答を宜しくお願いします。

    まりも:あります。いかに自分が、教科書で学んできた「詩」にとらわれていたか、また、いかに自分が、良妻賢母/良識ある子女/常識ある社会人、の枠にとらわれていたか、ということに、主観的に「よい」と思って書いたものを、客観的に「本当によいのか?」と思いながら見直していく過程で気づきました。
    どんなにぶっ飛んだものや、社会的倫理、規範に反するものを書いても、黙って読んで受け入れてくれ、作品としての評価(人間性とか、倫理観とか、生き方とか、そうしたお説教的なこととは無縁の評価)をしてくれる人に、出会えるかどうか。ここが、一つの分岐点だと思います。
    良妻賢母的なものを書いている時には、読む相手は大人になった子供達、あるいは家族を想定していました。すると、いつのまにか自己規制をかけてしまう。こんな母親と思われなくない、変人だと思われなくない、そうした「外部の眼」を気にして、いつのまにか委縮してしまう。自己解放、自己表現が出来ない。あるいは、誰かを助けてあげたい、とか、誰かの為になりたい、とか、そういった「~してあげたい」感を満たすことで、社会的承認を求めたり、存在意義を見出そうとしてしまう。すると、時にはお説教的な詩になったり、自己啓発本みたいな常套句連発の詩になってしまう。
    もちろん、そのことに気付いたのは、「そうなっていませんか」と、冷静に(時には冷酷に)問いかけてくれる「他者」としての読者と出会うことができたから、でもあるのですが・・・。
    普通でないこと、オリジナリティーがあること、ユニークであること、作品が他者の感情に直接訴えるような感情の強度を持っていること・・・世間一般で眉をヒソメラレルことが、「詩」の世界ではむしろ褒められる、推奨される(ことがある)。それが素晴らしい。水を得た魚、そんな気持ちになりました。私は自由だ!という感覚でしょうか。

    読む体験、としては、2つあると思います。ひとつめは、リルケとの出会い。私が二十歳の頃、自分が読み終わった本を送り、共有していた高校生の従妹が、自死したのですね。いじめ、だったのかもしれない。だとしたら、自分と彼女との間に、どれほどの差異があったのか。私は「いじめられている」ではなく、単に「一人が好き」と思いこもうとしていた、だけだったのか。死んでも、親やごく少数の友人たちが一瞬悲しんで、それで終わり、そんな「生」を、なぜ必死になって生きねばならないのか。そんなときにリルケに出会い、生死を越えた、物の根源、世界の成り立ち、科学で証明できない、魂の感覚のようなもの、そうした微妙なところに触れることができる、それが「詩」なのではないか、と思い至ったわけです。
    「聖なるもの」を探求するのが、「詩」なのではないか。かなり狭隘な考え方かもしれませんが、それは当時も今も、変わりません。言葉遊びのようですが、「生」は「性」であり、「性」は「聖」でもある。「正」かどうか、はわかりませんが。その領域に触れていく、境界を越える、自在に行き来出来るもの。そんな、想像力の翼を与えてくれるもの。それが、私にとっての「詩」です。そして、それが「魔法」に関わるのかどうか、よくわかりませんが(リルケは男性ですし・・・)女性は、比較的容易に、そうした領域、境界を越えられるのではないでしょうか。
    例えば台湾のシャーマンには、女性も男性もいるけれど、女性シャーマンは容易にトランスに入れるのに対して、男性シャーマンは自らの肉体を傷めつけたり、かなり過酷な修行のような体験を経ないとトランスに入れないそうです。
    いきなり飛び過ぎたので、日本の、一般論に戻りますが・・・おしゃべり好きで、他者とのコミュニケーションを取るのが、一般的に女子は得意です。男子は一つのことに集中する、没入するのが一般的に得意、と言われます。そして、それは狩猟採集時代の名残だ、という話を聞いたこともあります。(しつこく、一般的には、という言葉を入れている意味、わかりますよね!)
    そうした差異が男女にあるならば、女子は他者との境界を越えるのが容易、他者に共感したり、感情移入したりするのが容易、そんな特性があるのかもしれません。男子は、自己を掘り下げる、観念的に、抽象的に没入していくのが得意、ということになりましょうか・・・もっとも、そんな定型に入らない(入れない、入りたくない)人達が「詩」を書いている、書きたくなる、のだと思っていたので、三浦さんが「女子/男子」と分けて質問されているので、ちょっと驚きました。
    共感や共苦といった特性が「女性性」(実際の性別と関わらず)であるなら、詩は本来、女性的なもの、であるのかもしれません。台湾のシャーマンと同様、男子はその「境界」(自分の枠、と言ってもよいかもしれない)を越えるのが、台湾のシャーマンのように、かなり苦労しないと難しいのかもしれず・・・そこが、男性詩人から見ると、女性詩人は「魔法」を使う、そんな印象を受ける理由なのかもしれないですね。

    2つ目は、読み聞かせボランティアの中で出会った、かつて教科書に載っていた詩人たちの詩。童心を大切にした詩は、一見浅いように見えて・・・子供の時には漠然としか「良さ」を見つけることができなかったけれど、大人になって読み直すと、その深さに驚く、という体験が、何度もありました。自分が35歳くらいになるまでに、この仕事に一生をかけても悔いない、と思えるものに出会いたかったのに、紆余曲折があって、それを果たせず・・・大学院の同期は、半分が結婚したのですが、出産したのは私一人だった。家庭に(一時的に、子育ての期間だけのつもりで)入ったのも私一人。同期はみな、何らかのキャリアを積んで、社会的に活躍しているのに、私一人が置いてきぼりを喰ったような、焦りや寂しさもありました。そんな時に、新川和江さんの「わたしを束ねないで」に再会した。中学生くらいの時は、偏差値に束ねられていく自分たちの気持を代弁してくれているような気持ちで読んでいたのですが・・・30代半ばでこの詩を読んだとき、後半部分で涙が出てきました。(ネットなどでも読めるので、ぜひ全文を読んでみてください。)新川さんがこの詩を書いたのも、当時の私とほぼ同年齢の時だったことを知りました。よし、詩を書こう!と思って、最初は他人には見せない、自分が後で読み返すための「詩」を書き始めました。
    震災後、その場にじっとしていることができなくて、焦燥感や空虚感に駆られてネットの詩の投稿サイトを覗き、読まれずに(あるいは読まれたという痕跡を作者が知り得ないまま)過去ログに流れて行く詩があまりにも多いことに驚き・・・とにかく、自分の出来ることをしよう、と、レッサー的なことを始めたのが、ネット詩との関わりの始まりでした。その後、詩誌に投稿し、詩誌の活動に関わる様になって、現在に至っています。
    一生をかけても悔いない仕事を見つけたわけです。それは、私にとっては、他者の詩を読んで、その人の抱えている個別の宇宙を垣間見て、それを他の人々と(一部でもよいから)共有する、ということになるでしょうか。

    —男女の区別けを前提にした、少し問題視される質問かもしれませんが、メンヘラと呼称される女性について。ネット詩女子の中にはメンヘラと呼称される方が多く存在すると思うのですが、彼女達にとって詩を書き、作品をネット上で発表するという行為は一体、どのような理由があるとお考えでしょうか?無論、個々それぞれの多様な理由があることは察しますが。

    まりも:難しい問題ですね・・・息子を見ていると、友人の弁当の中身とか、友人の家庭環境とか家族構成など、まるで興味を持っていないように見えます。他の子は、どんな弁当持ってきてる?と聞いても、どうだったかなあ、とうろ覚え。娘は、誰それさんちには犬がいて、とか、今日はこんな弁当で、とか、うるさいくらいにしゃべりまくる。それだけ、他者をよく見ている、他者を気にしている。女子に本能的に備わっている、コミュニケーション能力かもしれません。
    そうした「関わり」を持ちにくい、持つのが苦手、そんな人は、男女問わず、かなり居ると思うのですが、もともと、他者に過剰に干渉したり共感したりすることが少なく、自分の世界に没していることの方が多い男子集団の中にいる時と、他者に異常に関心を持ちたがる女子集団の中に居る時とでは、居心地の悪さ、居場所の無さは、かなり違うと思います。もし、女子に「メンヘラ」を訴えたり、苦しんだりする人が多いとすれば、それは、そうした集団の特性の差に寄るのではないでしょうか。
    境界領域に居る人も含めて、世界に居づらい、自分の居場所が見出しにくい、世間に馴染みにくい、合わせることは苦手ではないけれど、面倒・・・詩人には、そんな人が多いように思います。自分の世界を持っていて、その領域と、社会とのすり合わせに苦労したり、つらい思いをしたりしている人が多い、と言うべきか。男女問わず、だと思っていたので・・・メンヘラ女子、がネット詩に「多い」とすれば・・・メンヘラ、と自己表明することによって、共感や共苦を得られやすい、そうした共感的コミュニケーションを取りやすい、ということがあるのかもしれません。
    でも・・・メンヘラである、と自覚したり、その傾向がある、と感じている人は、女子と男子とで、どれほど差があるのかなあ・・・男性は、社会的に「強くあれ」「しっかりしろ」「雄々しくあれ」と育てられているから、「弱み」である生き辛さを、表明しづらい、あるいは、自覚しにくい、のかもしれません。
    「詩」は、男女の性差問わず、もともと女性的、フェミニン、感性的なものだと思います。もちろん、ふわふわした「感情」だけでは骨のない肉体のようなもので・・・論理や思考といった骨組みが不可欠ですし、女子の詩には、もしかすると、そうした論理性が弱い面があるのかもしれませんが・・・論理や思考は「理性」に基づくもので、後天的に訓練可能なものです。感性は、本来備わっているものであると共に、後天的に「体験」によって深まっていくものなので、なかなか訓練で身に着けるのが難しい。いかに想像力を駆使して、他者の体験を追体験するか(他者の感じた過程、思考した過程を再体験するか)ということが、重要になると思います。

    —まりもさんがB-REVIEWに期待されることとは、何でしょうか?

    まりも:もう、ほぼ今までの回答の中で答えてしまっているような気もしますが・・・良い読み手と出会うこと、そして、自身も良い読み手となるように切磋琢磨する場であってほしい、ということでしょうか。また、ここが「唯一の」生甲斐の場、となってしまってはいけない。街中の居心地のよい喫茶店のような・・・詩を持って行けば、誰かしらが読んで、良否も含めて、色々な意見を出してくれる場。そんなコミュニティーが生まれたら、素敵だな、と思っています。

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