創設者天才詩人の過去記事

こちらでは、創設者:天才詩人が残された過去の記事をまとめて置いておきます。

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  • 04/01編集されました

    (2016/03)
    “テクスト”の用法について

    あんまりこの手のライティングは得意じゃないんですが、bungokuで、「テクスト」という言葉の用法をめぐって議論になったので、かんたんにまとめて み ようと思います。まず、端的に僕の立場を言うと、この言葉は、いま批評活動を展開するとき、なくてはならない大切なものだと考えています。ところで、この文章 は、敢えてインターネットや本を一切参照せず、完全に僕個人の感覚だけを頼りに書いています。「テクスト」とい う言葉をどう使うか、これは、突っ込んだ議論をするなら、ポスト構造主義のことを話さないといけないと思うんですが、そこを一気に飛ばして要約すると、 「テクスト」は批評の対象を、できるかぎり自由に設定するための、有用なターム(用語)なんだと思います。たとえば、いま30代以上の人たちに考えて欲 しいんですが、子供や青少年だったころ、現在のように「ドラえもん」やアイドル歌手のポップソングが、大学のゼミや人文学系の学会 で、シリアスな考察の対象になることがあったと思いますか。答えは否です。その当時は、批評(および人文系の考察や分析)は、「高尚」な美術や、文学作品 な どに対象 を限定した行為でした。別の言い方をすれば、教養層むけのハイカルチャーと、庶民や若者のポップカルチャーはほぼ別のものとみなされていたわけです。とこ ろが、おそらく90年代以降、この傾向に変化が出てきます。従来の、高尚な文化と低級な文化を分かつ線引きの恣意性に批判があつまり、「文学」や「芸術」の枠におさまらない作品や現象も、まじめな批評行為の対象として認めましょう、という合意が形成されてきたのです。僕の感覚では、いま言った「文学」「芸 術」という2つのカテゴリーをはみ出してしまうものを含め、包括的にあらゆるものを批評の守備範囲とするとき、その対象を「テクスト」と呼びます。いかに この 横文字が不自然に聞こえようと、いまのところ代替となる表現がありません。いまや、セーラームーンや、初音ミクの歌、LINEでの高校生同士のやり とり、電化製品の説明書、そしてもちろん、ネットに投稿される文芸作品も、「テクスト」として、プロの批評家や学者による解釈や分析の対象になり得る時代 です。それから、これは大事な点なのですが、テクストと呼ぶからと言って、対象は言語メディアに限りません。美術作品、なされた(パフォームされた) 演劇や、社会的行為なども、すべて「テクスト」と見なします。たとえ言語を媒介としなくても、それは批評行為の射程に入ったとたん、「テクスト」なわ けです。もちろん、このように批評の対象を広くとることで、「作品」の良否を度外視する態度が横行する危険は否めません。ドストエフスキーの小説やニー チェの著作 が、主婦の、携帯アプリでの会話と同等に扱われることに対する危惧は、あってしかるべきなわけです。しかし、おそらくポイントは、ドストエフスキーの小説 も、LINEの会話や、SNSでの「つぶやき」、ドラゴンボールZなどと同様に、それが書かれた/なされた特定の時代や、文化的な「場」について、「何 か」 を言っているということです。対象がなんであっても、それを「テクスト」として括り、詳細な検討をくわえることによって、ひとつの時代や場所、文化に特有のモノ の見方、世界観などを取り出すのが、有意味な「批評」だと考えます。現時点において、批評行為を考えるとき、旧来の文芸、演劇、美術批評などで研磨されて きたアプ ローチが、欠かせない土台である、というのは事実でしょう。繰り返しますが、美術、文学作品の優劣を、半ば没価値的に、社会学者や素人の分析だけにゆだね るべきでは ないというのは当然の話です。いっぽうで、過去数十年を振りかえると、美術や文学といった特定のインテリや文芸愛好家の専門領域であった批評行為の意味自 体が変容しています。たとえば、目下、日本において「藝術」とは何かと問うときに、片っ端から美術史やアートの文献を調べ るも大事なのですが、もっと簡単な方法として、ドラえもんで「芸術家」や「画家」がどんな人物として描かれているかを見ればよいのです(たとえば、しずか ちゃんの叔父さんが画家で、ベレー帽をかぶって登場し、のびたくんたちの描く絵を指導するエピソードがあります)。言い方を変えれば、文学、芸術作品、映 画、 演劇、社会的行為、法律、外国為替市場、ヘイトスピーチ、行列のできるラーメン屋さんガイド、インターネット上の詩作品、これらを「テクスト」として批評する というのは、あらゆるリソースを解釈/読解の対象とみなして、特定の歴史的時間に埋めこまれた、地理・文化的な「場所」を探査して、識るということなので す。その意味で、批評をすることは、世界を参与観察を通して記述する、文化人類学者の民族誌(エスノグラフィー)のこころみに近い。なぜここで文化人類学を 持ち出すのか。それは、僕には、世界を、世界各地で、(アフリカで、南米で、南太平洋の島々で)「経済」「藝術」「モラル」といった従来の社会的な枠組み を いったん白紙に戻した地点から、包括的にとらえ、書かれたもの、もしくはパフォームされた社会的行為を特定の「場所」において開示される「世界」のありか た の顕現として、「読む」ことを実践して見せたのは彼らにほかならないと思えるからです。教科書的な書きかたになってしまいましたが、現状の説明はこれで終 わりです。この先に、僕がほんとうに書きたいことがあるんですが、今日はとりあえずここまでとします。

  • (2016/07)
    藝術としての「詩」

    その町に着くと、Aと俺は、新築の高層アパートの7階に、部屋を借りて住みはじめた。8月。青い空には、ツイストロールの形をした雲がいつも浮かんでいた。共同生活はうまくいかなかった。食事や音楽の好みの違い、お互いの交友関係など、ちょっとしたことで言い争いになり、Aは自室に閉じこもった。 そんなとき、俺はよくひとり外にでて、緑の山塊の、カーブした二車線の道路沿いにある、近未来的なショッピングモールのテラスや、高架鉄道のエントランス周辺に広がる通りを、オフィスや喫茶店のネオンサインを眺めながらぼんやり歩いた。歩きながら、俺はAと、携帯電話のテキストメッセージで頻繁にやりとりをした。携帯画面のむこうのAは驚くほど素直で、いつも「許して」「私はいまの自分が嫌いで、なんとかしてもっと心の広い人間になりたいの」と言い、自分の非を詫びた。ある夜遅く、俺は、その町の、アメリカス通り(Avenida las Americas)という名前の幹線道路を貫く、新交通システムの連接バスに乗って、Aの家族が住む家にむかっていた。バスは、町の北西部の更地にある、 巨大なロータリーで進路を変え、空港建設をめぐって住民の反対運動が続く、セメント造りの、低い屋根の住宅が集まる路地にさしかかる。俺は、夜のラッシュで座席がほとんど埋まるバスのなかで、光の乏しい外の闇をながめながら、もう何十年も前に頭に浮かんだ、夢のようなケーブルを敷設する計画を、思い出していた。その日の深夜、雲が低くたれこめた、コンクリートの住宅の、小さなリビングのテーブルで、俺はその街区の詳細な地図を紙に書いていた。ほんの20年 ほど前、90年代の終わりだった。俺は写真やテクスト、絵画といったあまたの表現ジャンルの壁を突破し、そのむこうにある 「生」の 現実をエンコード(encode)する、あらたな藝術メディアについての決定的な啓示を得た。その数日前、俺は医者からパニック発作だと診断された。 昼間、ブラインドを下ろしたアパートの暗い部屋を避けるように、丸太町通りの、用水路や行き止まりの道路がつづく一画を歩き、日が暮れるとDVDや書籍を売るディスカウントショップのゲートをくぐった。深夜、近くの家電量販店のストレージに投棄された石油ファンヒーターの電源を入れた。立ちのぼる油膜が空気を覆っていく部屋で、丸いテーブルの上に、光沢のある、写真雑誌のイメージを並べ、そのひとつひとつを詳細に検討した。目に映っていたのは、湿気が充填された熱帯雨林の、小さな高床の家屋で裸の子供たちが輪を描いて遊びまわる映像や、不整合につぎはぎされた、アスファルトの道路に横づけになったダイハツ製のバスが、ラッシュの乗客を拾う、産油地帯の大都市の、夕暮だった。あの日から俺は少しずつ、ランプウェイや空き地にかこまれた、グーグルマップに載らない路地をつなぐ、夢のようなケーブルを敷設する計画について、考えていた。いや、それは、偏在する集合意識に焦点をあてた、旅と日常の境界を超え、すべての、開発未定地に生を受けた人々が参加する、終わりのな いアート・イベントだと言えるかもしれない。航空機がその町の上空に差しかかると、小さな、モスグリーンの丘の上に固まる、アルミ屋根の住宅群を、君はきっと見るだろう。そこを走る幾筋もの道のひとつに、90年製の真っ赤なマツダ車が駐車しており、その前にある一軒が、Aの母親や、小さな妹たちの住む家だ。そのあたりは、L 字や、S字形に急カーブする道路が続き、町の大部分の、緑の木々におおわれ、整然とした景観とは、一線を画しているかのように見える。俺は、その町にあ る、要塞のような建物の、映像・写真センターで働くキュレーターと、テーブルをはさんで向かい合った。男は、Aの家族が住むエリアの詳細な見取り図を指さしながら、夢のようなケーブルはまだ引かれていないが、ケーブルを支えるスチール製の支柱はすでに埋めこまれており、それは、数年前、その地区の大半が 埃っぽい砂利道だったころ、一人のドイツ人アーティストが、住民や子供たちのあいだで、絵の展覧会を開催しようと計画した名残なのだと語った。展覧会 - exposicion- という、もうずいぶん長いあいだ聞いていなかった言葉を反芻しながら、俺は、低く雲がたれこめる、セメント造りの家々と、Aとの日々を思い出していた。

  • (2016/07)
    「書く」ことからアクションへ

    今回「藝術としての詩」という文章を文極に投じたわけですが、あの作品は、Aという女性のことを描きながらも、俺はこんなアートをやるぞ、というマニフェストという一面が、実はあるわけです。もっと格好をつけずにいえば、作品をつくりながら、自分がこれから「アート」を通じてやろうとしていることを、クリアにしたかった、ということがあります。僕は、スペイン語圏のとある街に住み始めて1年以上になるのですが、ここでアートをいろんな形で街や人々のなかに持っていく可能性を考えています。アートとはなにか、を考えることはとても重要です。ただ、僕個人のいまの心境としては、行動を起こすなかで、考えていく。やりながら考える、というのがとても有効なような気がしています。たとえば、すこし前の記事で少し触れたパン屋なのですが、この街には、パン屋さんが日本の都市部でいえば、ローソンやファミマなどのコンビニと同じくらい数多くあり、ひとびとの日常的な社交や井戸端会議の場として、特権的な地位を得ています。パン屋の中には、雑貨屋を兼ねていて、スナック菓子や日用品を売っているところもあります。興味深いのは、そんな雑貨屋兼パン屋さんの多くが、たんなるものを買うための「お店」ではなく、社交場として機能しているという店です。それらの雑貨屋の店内には、たいていプラスチックの椅子やテーブルが置いてあり、そこに座ってなんとなくテレビの中継を見たり、スナック菓子を食べながらビールを飲んだり、お茶を飲みつつ世間話に興じたりするひとたちの姿があります。この街におけるパン屋の重要性の証拠の一つは、ひとつひとつのパンについている、不思議な名前です。日本だったら、アンパン、クリームパン、ジャムパンなど、名前からそのパンがどんなものか推察できる、実用性に徹したものが多いのですが、ここでは「自由主義者」「グロリアおばさんのパン」など、名前を聞いただけではなんのことかわからず、通常のスペイン語の辞書には載っていないような名前がたくさんあります。それらの名前はこの街の庶民的なエリアで生まれ育った人ならだれでも知っているものなのですが、この地方でしか通じないものばかりです。いま、画家や写真家、パフォーマンスをやる美術家の友人数人と、このパン屋を拠点にして、とくに庶民的な、なんの変哲もない住宅地に介入を企てる、あるプロジェクトについて話し合っています。どんなプロジェクトなのかは、長くなるので、まだ次回お伝えしたいと思います。

  • (2016/07)
    空間的記憶について

    文極に投稿された澤あづさ氏の「ひふみよ」をこのブログ上で批評するという約束をしたのですが、分量、内容ともに正面から突っ込んでいくと時間切れになるのは必至なので、今回は2つの個人的なエピソードをさしはさんで、ラフに書いてみようと思います。一つ目。数年前に文豪のガルシア=マルケス氏が逝去しました。そのニュースが入ったとき僕はとある田舎のキャンプ場にいて、近くの街角の雑貨屋兼レストランのようなところで何人かの友人とビールを飲んでいました。ちょうど聖週間(セマナサンタ)の休日で、日本ではゴールデンウィークに入る手前だったと思います。日本在住のラテンアメリカ文学マニアの友人が、携帯にメッセージを送ってきました。「ガルシアマルケス死んだねー。そっちの反応はどう?」。僕はコロンビアにしばらく滞在したことがあるのですが、市井の人々の間でガルシア=マルケスの存在はそれほど有意味なものではありません。マジックリアリズム(realismo mágico)という言葉も、コロンビア社会の憂うべき極端な貧富の差を揶揄したり、観光客向けのキャッチフレーズなどでごくたまに目にしますが、それほど頻繁とはいえません。日本でも、誰もが三島由紀夫や大江健三郎の話ばかりしているわけはないので、よく考えたら当たり前です。ところがその日本の友人はガルシア=マルケスという、彼にとっては一大スターである人物が亡くなったことに大きなショックを受けていて、さぞこっちでも大きな騒ぎになっていると考えている様子でした。ガルシア=マルケス氏逝去のニュースは、僕が一緒にいた人たちのあいだでも話題にのぼりましたが、ほんの数分間だけで、すぐにいつもの四方山話に戻りました。休日の行楽地で、にぎやかなラテン音楽が流れ、人々が踊り、テーブルには空のビール瓶が何本もならんでいるという状況でのことなので、仕方ないといえば仕方ないかもしれません。二つ目はもっと個人的な話で、僕は、映画を観たり本を読むのは好きなのですが、残念ながら、読んだ作品や観た映画は、そのときどんなに没頭しても、内容はすぐに忘れてしまいます。そういう理由から、映画の話題になって「○○観た?」と聞かれるといつも困ります。その反面、自分でもよく覚えているなあと思うのが、本を読んだり映画を観たとき、自分がどんな場所に、誰といて何をしていたか、ということです。つねに思うことですが、人間の記憶というものはけっきょく、空間的なものに根ざしている。つまり、ある場所や場面で読書をしたり、映画を鑑賞することは、その物理的な場所や感覚を喪失・忘却することではなく、より鮮烈に体験することである。どこかで前にも言った気がしますが、僕が作品の良否を判断する拠り所のひとつとして、この記憶の「鮮烈さ」という問題意識があります。そして、澤あづささんの「ひふみよ」は、彼女の前作や前々作から一転して、その基準をクリアしてあまりある出来ではないかと思うのです。

  • (2016/08)
    文学極道と「国境」

    文学極道をめぐる今ひとつの大きな疑問は、文極は今後も戦い続けるべきなのか?ということだと思います。文学 極道発生当時のとりあえずの目標は、良質な詩や散文作品をネットから発信して、紙媒体の詩壇の「権威」を相対化しつつ、「ネットの詩サイトはゴミだらけ だ」という一般的な誤解を粉砕する。このあたりにあったと、僕は理解しています。
    ある人は、文学極道開始12年を迎えて、この課題はすでに達成されたと発言しています。文極のトレードマークにまでなったあの「戦闘」的な姿勢はもう時代 遅れのものだとも。しかしながら、私的には、ダーザインのアジテーションや檄文が文学極道のテーゼとしてワイヤードに浸透するなかで、そこにもう一つ看過 できない課題が浮上してきたように思われます
    それは「詩」というジャンルそれ自体を根本的に再検討する、というテーマです。ただたんに「詩」ではなく、敢えて「言語藝術」「藝術としての詩」という言 い方を前面に出すことで、ダーザインは「詩」とそれ以外の広範なジャンル、とくにアニメやポップソング、映像や写真、ジャーナリズムなどとの競合・錯綜関 係を強調しました。いま、文章を書く行為やその結果として生まれる作品を、グローバル・ローカルな世界の「現在」とどのようにシンクロさせることができる のか。

    いつだったかは思い出せないのですが、文学極道のある投稿者がどこかで「詩」は敷居が低い、という発言をしました。たしかに、映画監督や報道写真家になる よりも、詩人になるほうが金銭面や技術的にははるかに簡単です。紙と鉛筆、またはコンピューターが一台あればいい。そのような手続きの手軽さに、詩人は甘 えているのではないか、という指摘です。この意味で、ネットか「紙」かという対立よりも、たぶんより切迫した問題は、目下の世界において「書く」という行 為 の強度をどう評価するのかということだと思います。

    ところで、「書く」ことは、言うまでもなく言葉に依存しているため、映像や写真、音楽等に比べ、単一の言語共同体内部にしか流通しないという、決定的な弱 さがあります。翻訳という手はありますが、翻訳にはいつもタイムラグや受容の限界があります。くわしくは立ち入りませんが、もしあなたがこれまで書いてき たものを別言語に訳すならば、それは新しい作品を生み出すことだと言ったほうが適切でしょう。

    「書く」ことが言語共同体に依存するということは、その言語が使われる「文化」や「社会」における支配的なものの見方や世界観に影響を受けるということを 意味します。たとえば、文極のある投稿レス欄で某氏が、「日本で生活している平均的な(つまり日本のオンライン文芸サイトに参加している種類の)人間が 『第三世界』(この言葉自体もは や死語だと思うのですが)の政治・社会問題に関心があるわけないだろう」という趣旨の発言をしました。某氏の発言はだいたい的を得ていると思います。しか し一方で、日本の一般大衆の間で、東南アジアやアフリカ、カリブ海地域などの国々に対する関心が低いということ、このこと自体が21世紀初頭の日本の政治 やカルチャーの現状の反映なわけです。(なぜこうなったのかについての議論は別稿に譲ろうと思います)

    たとえば、日本のオンライン文芸サイトに、舞台が日本ではない作品を載せると、「旅行記のような風物の描写もないし、文体が味気ない」というコメントをた びたび受けます。ところで、私は過去10年以上のあいだ日本国外に住んでいますが、それは「居住」であって観光旅行をしているわけではありません。ベニン に居ようがニューカレドニアで生活しようがラオスからネットに繋ごうが、それが私の日常であり、それを自分の母国語、日本語で書いているだけなのです。そ れにしてもこの種のレスポンスは日本の文芸サイトに出入りする人間の大半が、バックパックを担いで世界を自分の足で歩いたこともろくにない活字「オタク」 である、ということの表れであるように思います。

    さらに、このことはおそらく、日本語という言語が日本という国家の外ではほとんど日常言語として使われていないという現実と関係します。これがたとえば英 語などであれば、アメリカ合衆国、英国をはじめ、インド、フィリピン、ベリーズ、ケニア、トリニダード・トバゴ、シンガポール、ガンビア、オーストラリア など、文化や宗教的背景がまったく異なる国と地域で話され、書かれ、読まれている。だから、イギリス人がインドに旅行・居住して、インドについて英語で何 か書いたならば、ケニアやシンガポールでも読者を得る可能性があり、そこにグローバルな批判や思考のフローが思いがけない乱反射を生み、人々の行動に微妙 な影響を及ぼす対話の糸口が、ほんのわずかであっても生まれるわけです。あなたが書く日本語の「詩」にそんな可能性を想像できるでしょうか。

    日本語の話者人口とその分布のほかに考えなければいけないのは、政治的な状況です。つまり「日本か外国」か。そんな単純化された二分法がリアリティを持つ のは、アジア大陸最果ての島国であると同時に、占領期(1945-1952)のGHQ/SCAPによる情報封鎖や、自らの集合的自画像を世界のなかで打ち 立てる努力をすることなく、高度経済成長のなかで消費立国として完成してしまった日本の、江藤淳がいうところの「閉ざされた言語空間」特有の限界でもある わけです。

    これはネットで書くか紙媒体でいくかという対立とは、まったく次元の違う話です。どちらにしても、「日本語」を対象化することなく「詩」を書き続ける限 り、自らの発話につきまとう閉塞状況を意識化する可能性はゼロにひとしいと言わざるをえません。ここに解決策はあるのでしょうか。また文学極道が、映像や アニメなどの非言語ジャンルを強調していたということは、私がいまここで書いているような問題意識につながるものなのでしょうか。

    つながる可能性はある。というよりはむしろ、そうした問題系に続く道筋への扉はとりあえずこじ開けることができた、と私は考えています。もし文学極道に、 ほかの投稿サイトにないような熱狂や、エキサイティングな議論、そして得体の知れない「狂気」が渦巻いているとすれば、その場が、ある特定の 言語を使って「書く」という行為を、身体に根ざした「世界」性の砂漠の真っ只中で、もう一度再評価するという当初の目標が「想い」として発熱し続けている からではないかと思います。

    正直、これは非常に厳しい戦いですし、もし本気でやるならとても楽観的にはなれない情勢です。しかし肝要なのは、文学極道がいまでもそのような実験的試み を許す場であり続けていることだと思います。最後に、日本のムラ社会的メンタリティから私の発言を忌み嫌う方々も多いと思いますので、いち おう付記しておきます。文学極道は一つの「場」です。その意味において私やほかの誰かがそこを舞台にどんな実験をしようと、抒情詩や、伝統的な 作風を好む人も出入りするでしょう。当たり前ですが、文学極道の今後の方向性は、根底において重層的に話し合われていくほかありません。

    追記
    1.この文章を書いたあと、作品投稿・批評のプラットフォームを一から作るという難題を自分に課すべきだと考えはじめ、あらたなメディア構築に着手しました。1年くらいかけスローに楽しんでやってゆきます。

    2.現行の文学極道発起人、関係者に対して最大限の敬意を表します。僕がここに書いたような自由な言論に場を与えてくれたのは、ほかならぬ文学極道ですから。

    3.2016年8月16日脱稿、9月16日に全面修正。

  • (2016/10)
    天才詩人インタビュー:SPICA氏(三浦)に答える

    Hola viva Japón SPICA氏からおらツイキャスに出演しろというオファーをいただきました。たいへんありがたいのですが、時差のためリアルタイムで話すのはかなり面倒な状況ですし、基本的に即興で話すとあとで言い残したことがでてくるので、今回は書いてみようと思います。以下に記すことはすべてSPICAさんのバイタリティあふれる新メディアの開拓や文学極道の脱領域化へ向けた「アクション」に対する、天才詩人からのささやかな「リアクション」でしかありません。

    ①文学極道へ参加したキッカケなどをお聞かせください。
    あんまり「参加」したという感触自体がありません。リアルで会った人はゼロですし、電話やメールで個人的にお話した人も数人にとどまります。僕はむしろ「文学極道」という場の周辺をうろうろしているだけ、というような感触を持っています。

    ②ダーザィンさんについてはどのような印象をお持ちなんでしょうか?
    カリスマのある稀有な人物だと思います(リアルでは面識がないので現在どうされているか詳しくは知りません)。文極初期の5年くらいの期間で、ダーザインがいちばん凄かったのは数多の文極投稿者に「光る」素質を見出し(ほとんど大げさな身振りで)激励したことだと思います。自分の作品よりもむしろ参加者を「育てる」ことに重点を置いた。これは大半が自意識過剰で気難しい性格の「詩人」さんのなせる業ではありません。それから、彼の視野の広さですかね。文学だけではなく社会問題、政治、哲学、映画や現代美術、アニメまでアンテナを広げて「書く」こととの意味を検討しようとした。この点についてはこちらの文章を参照のこと。―『文学極道と「国境」』

    ③天才詩人さんはネット人格についてはどのような考えをお持ちでしょうか?
    これについてもほかの文章で書きましたが、「リアル」と対立するような2ちゃんねる掲示板みたいな仄暗いタイプのネットの使い方は今後ワイヤード空間においてどんどんそのシェアを減らしていくのではないかと思います。花緒氏がすでに「所信表明演説」でコメントしている内容です。

    ④今後、世界の中心的な存在となる国や地域はどこだと思われていらっしゃるでしょうか?この質問の意図は、天才詩人さんのグローバル観を開示していただきたいという意図があります。
    消去法ですが、いわゆる欧州諸国、北米、イスラム圏、インド・東南アジア、東アジア。これら以外のどこかだと思います。だから残るのはサハラ以南のアフリカやラテンアメリカ、オセアニアなどこれまでグローバルな帝国の政治的版図のなかでは「周辺」とみなされてきた地域ですね。これからの世界では「イデオロギー」に対するしなやかな感性や対処能力が必須になってきます。マルクス主義、キリスト教やイスラム教などメシア的発想の一神教に基礎を置く文化や社会は柔軟性に欠けるため、これまでのやり方ではかならず行き詰ると思います。たとえば、繰り返し言っていることですが、誘拐や麻薬ゲリラの抗争等で悪評の高いラテンアメリカ諸国は、その治安の悪さとは対照的に、宗教・人種的な偏見や対立が比較的薄い。これらの国ではイスラム教徒であれ黒人であれあからさまに差別されることはあまりない。それは差別的な発想を根源で裏書する「大きな」思想・歴史的な枠組にひとびとがあまり囚われていない、という点が大きい。もっと詳しく言えば、コーリャ氏が書いているように現在のプロテスタント(アングロサクソン)先進諸国では人種差別が絶対悪として完膚なきまでに否定されている。だが肯定にしろ否定にしろどちらかハッキリした態度を決めないと気が済まないこと自体が、まさにそうした大枠の公共的イデオロギーを希求してしまうメンタリティの反映なわけです。また、日本の場合は、「大きな物語」の弱い「悪い」場所などと言われながらも、歴史的に見ると、自虐史観vs愛国史観といったどちらかの極に振り切れなければ座りが悪いという困った文化的慣性、強引に造語すれば「島嶼国性情緒不安定」とでも言うべき「疾病」があります。文学極道では今日も明日も白黒をつけなければ気がすまない人たちが無意味な議論をえんえん続けることと察しますが、まっさきに世界の趨勢から取り残されるひとたちです。話をもどすと、イスラム圏と欧米諸国の対立はなかなか解消しないでしょうから、こんご小さなテロ行為の集積がもっと大きなものに発展してしまう懸念があり、その場合、このさき文化藝術、経済面などで主要なハブとして機能していくのは、ラテンアメリカやアフリカのような「他者」に対して判別的な感情が薄く、かつイデオロギーの対立のようなものをあまり意識せずいろんなバックグラウンドの人間が共存していけるような国・地域だと思います。コーリャ氏の話を聞いているとオーストラリアもそんな「周縁」的な気楽さにあふれる場所のような気はするのですが、いまのところ行く予定もないし、プロテスタント文化自体にはあまり期待しないので今回はコメントを控えます。あとはレイヴ・パーティーと大麻が切り開く未来に賭けようと思います。笑。

    ⑤芸術・アートが政治に影響を与えることは可能だとお考えでしょうか?
    可能がどうかはなんとも言えませんが、「可能だ」という「思い」。つまり、ユートピア的な考え方がかつても今もアーティストや詩人さんにとって大きな原動力であるのは間違いないので、「可能だ」と信じ続けることを「選ぶ」のが大事だと考えます。(基本的になんでもno よりyesのほうが好きですね)ですから、いまここでパラグラフの最初の一文を訂正しておきます。「可能だと思います。」

  • 04/01編集されました

    (2017/01)
    第一回プレオープンB-REVIEW杯 投稿作品の募集について

    B-REVIEWでは、1月20日付で現代詩投稿/批評のためのプラットフォーム(β版)をリリースいたしました。

    オープンにこぎつけることできたのは、花緒氏によるサイト構築およびプログラマーとの果敢な交渉、澤あづさ氏のテキストエティタ設定に関する有益な助言、三浦果実氏の並外れたマーケティングと企画力、コーリャ氏のオープンマインドかつ斬新なサイトコンセプト原案の提出、そしてリリースに向けた百均氏の類まれなリーダーシップのなせる技だったと言えます。天才詩人の自己評価に関しては、このプロジェクトの単なる言い出しっぺである、という一点に尽きます(なにしろ天才詩人ですから、笑)。現在、百均氏主導のもと、掲示板の試験運用を兼ねたプレオープン企画として、第一回B-REVIEW杯を開催しています。投稿作品は既発表作も大いに歓迎します。新プラットフォームはこちらから。

    開催の目的
    B-REVIEW投稿メンバーの招待・勧誘および投稿掲示板のテスト運用

    参加の条件
    ①誰でも参加できます。実績等は問いません。投稿希望者は2月8日(水)までにHNを添え、
    breview.works@gmail.comへ参加申し込みをしてください。※メール本文はHNと参加表明のみでOKです

    ②この掲示板のアカウントを作成可能な方。アカウント作成にはEメールアドレスとハンドルネームの設定が必要です

    ③2月9日から28日までの間にサイト内の「第1回B−REVIEW杯会場」にて作品を投稿した方

    ➃以上三つの条件すべてに適合する方

    募集作品
    形式、ジャンルを問わず自由。分量は掲示板上で読了可能な、現代詩・散文作品として通常の範囲をお考えください。(長編小説等、極端に長いものは時間的な制約から審査不可能と判断する可能性があります。不明な点のある場合は作品をメール本文または添付ファイルにてbreview.works@gmail.comまでお送りください。審査の可否を折り返しご連絡します)新作に限定しません。既発表作品も大いに歓迎します。参加者一名につき一作まで

    批評・応酬
    B-REVIEWでは投稿作品への積極的な批評、また作者による評者への果敢な応酬を重視します。掲示板における発起人、参加者による批評バトルはソーシャルメディア等にてリアルタイムでシェアされ、中継されます

    作品の審査およびキュレーション
    審査員/キュレーター:コーリャ・天才詩人
    審査監視人/アシスタントキュレーター:花緒・百均・三浦果実
    審査方法/結果:審査は公開で行い、ソーシャルメディア等にて音声・テキストを媒介として全編ブロードキャストされます。投稿された作品は厳正な審査を経たのちA(B-REVIEW推奨作品)B (次点佳作) C (落選)D (愚作)として格付けされ、A/B作品はサイト内の該当ページにて掲載・アーカイブ化されます。
    審査基準:プラットフォーム内「B-REVIEWについて」「審査基準について」を参照のこと。

    タイムライン
    1月20日より2月8日まで
    投稿者エントリーの受付
    2月9日より28日まで
    作品投稿および批評・応酬プロセスの推進
    3月1日以降
    ・作品投稿の停止(批評バトルは継続します)
    ・公開審査開始
    ・審査の完了を経て結果発表

  • (2017/02)
    B-REVIEW:メディアとしての挑戦

    馴れ合いにならず、かつ建設的な批評とは何か、そして作品の審査とは。B-REVIEWのメディアとしての挑戦。B-REVIEWライターおよび桐ヶ谷忍さんのツイートに少し触れていきます。

    直リンク:

  • (2017/02)
    ネット詩における酷評と罵倒について:B-REVIEWのスタンス

    B-REVIEW発起人が強調する「マナーガイドライン」とは何か。そしてオンライン文芸投稿サイトにおける厳しい批評のあり方とは。天才詩人個人の考えに基づき、発起人諸氏もおおむね同意するであろう内容を8分程度にまとめてみました。

  • (2017/07)
    ビーレビへの参加について:キュレーターの声明文

    ビーレビもオープニングから6ヶ月目を迎え現代詩メディアとして安定成長期に突入しました。これまで多くの素晴らしい作品の投稿、合評活動への参加について、キュレーター一同心から感謝を表明します。今回はこのタイミングを機に、新規の投稿者への確認も兼ね以下のとおり声明を出させていただくことになりました。

    まずはじめにご理解いただきたいのは、わたしたちB-Reviewキュレーターはネット詩の言論を「2ちゃんねる」カルチャーから非連続化する、ひらたく言えば「荒れない現代詩投稿掲示板をつくる」という、容易ならざるプロジェクトに挑んでおり、現在のところ、この目標の実現をすべての諸課題に優先させる、ということです。

    言うまでもないことですが、アートや詩作品における表現形式や内容は根本的に(1)作者の自由かつ(2)あらゆる社会通念や道徳観から非干渉であるべきだ、という思想を、ビーレビキュレーターは全力で支持します。またB-Reviewはあらゆる詩壇の(仮にそのようなものが存在するとすれば)派閥や流派にこだわることなく、幅広い立場の書き手を歓迎する場でありたいと切に望みます。その一方で、インターネット掲示板という「場」の特性、つまり、これまで、また現在においてもネット詩カルチャーにおいて「2ちゃんねる」的な、(最低限の社会的マナーおよび書き手や評者に対しての常識的敬意を欠いた)コミュニケーションが横行してきたという現況を、たいへん重く見ています。

    ネット詩という空間に社会性を取り戻し、誰もが出入りできる場にする。こうした大義を前提とし、ビーレビ投稿者および合評に参加される方全員に以下のようなお願いをしています。

    (1)実験的手法およびコンセプトが先行する作品を投稿する場合は、冷やかしや荒らしと混同されないためにできうるかぎりの配慮を尽くしてください。(かんたんな自己紹介、アーティストステートメントの提示、ツイッター等での運営への事前告知等)

    (2)ビーレビキュレーターへの批判、または投稿作品全般に否定的なコメントをする場合、かならず具体的な作品や批評の内容を参照してください。作品内容から離れたやりとりは往々にして「詩とは何か」「芸術とは何か」といった一方的な持論の展開へと飛躍し、無為な誤解や炎上につながります。持論の押し付けはなるべく控え、具体的な作品論に戻ることを心がけてください。

    ビーレビへの唯一の参加条件は「荒れない掲示板をつくる」という理念を共有する(投稿ガイドライン)。それだけです。

    読んでいただき、ありがとうございました。

    現代詩投稿=批評プラットフォームB-Review
    キュレーター一同

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